龍神というのは、古来より日本人の宗教観に無くてはならないような大きな役割を果たしていたというのは間違いない。宗教観だけではなくて、日本人の精神的支柱でもあったであろうし、生活するうえでも重要な役割を演じていたと思われる。日本各地の神社・仏閣において、龍神はいたるところに配置されているし、自然界においても龍の名が冠された場所が沢山存在する。日本人が生きて行くうえで欠かせないものだったのではなかろうか。それくらいに龍神というのは、我々の生活に密接な関連があったに違いない。
龍や龍神を実際に見たという経験を持つ人は実在しないと思われる。あくまでも、人間の想像上の生き物というか神ということになっている。そして、全国各地における龍神伝説に共通しているのは、龍というのは水に関わり合っている生き物ということである。人間が生きる上でどうしても必要な水を与えてくれるのが龍神で、その水を自在にコントロールしているのが龍神だという認識がある。龍神は水神でもあり、人々が生きるのに必須な水を司る神の存在であるから、仏教や神道でも崇め奉っているのではなかろうか。
全国各地の湖沼群や河川に、龍や竜の名前が付いている箇所が多数存在する。また、瀧や滝という字には、龍や竜が使われているが、瀧には龍が住んでいたり遊んだりしているという言い伝えがある。勿論、龍が付いている名前の滝は全国に数多く存在する。また、不動滝という名前が付けられているものが多い。そして、瀧の傍らには不動明王が祀られているケースが多い。また、不動明王だけでなく観音菩薩も同時に配置されている例も少なくない。昔の人たちは、不動明王や観音菩薩を何故瀧の近くに祀ったのであろうか。
不動明王や観音菩薩を瀧の周辺に祀った理由について、ネットで調べても明確に説明している記事に出会うことはない。古人がどうして瀧の側に不動明王と観音菩薩を配置して祈ったのかを考察してみたい。瀧には龍神が住んでいると思ったに違いない。龍神は水を制御していると考えた。人間が水を欲する時には、龍神が雨雲を発生させて恵みの雨を降らせた。しかし、人間が望まない程の大量の雨を降らせる嵐を起こすこともある。または、日照りが続いて渇水になることもあった。人間の思い通りの適切な水の提供がない時があったのだ。
古人は、何故に人々を苦しめる洪水や渇水が起きるのかと悩み苦しんだ。それは、龍神が敢えて起こしているのではないかと考えた。人間が自然に対する畏敬の念を忘れたり、人間が謙虚さを忘れ傲慢になったりした時に、龍神が怒って人間に鉄槌を下すために大雨を降らし洪水を起こしたのではなかろうか。人間に反省をさせるために龍神が大雨を降らしたと考えられないだろうか。その際に、怒り狂った龍神を諫めてなだめるために、絶大な法力を持つ不動明王に託したのではなかろうか。だから、瀧の近くに不動明王を祀ったのであろう。
一方、あまりにも不遜な行為を行う人間に絶望して、龍神が元気を無くしてしまったのではないかと思うこともあったろう。龍神があまりにも人間に絶望し、活動エネルギーを低下させてしまい、雨を降らせることが出来なくなった為、渇水が起きたと考えたのかもしれない。そういう時は、龍神に謝罪するために人身御供を瀧の近くで供えて雨乞いをしたこともあったし、観音菩薩に龍神を慰めて元気を出してもらおうとしたのではなかろうか。だから、龍神の住む瀧の近くに不動明王と観音菩薩の両方を祀ったのではないかと思われる。
さらに、人間の内的宇宙に目を向けてみると、龍神と人間の深い関りが見えてくる。人間には、自我(エゴ)と自己(エコ)がある。人間には際限のない欲望や本能があり、時にはそれが人間に苦を与える煩悩にもなる。それこそが、人間の中に住む龍神とも言えよう。あまりにも煩悩(自我)が暴走した時には、不動明王が諫めなだめ、欲望や本能を低下させてしまい生きるエネルギーを低下させた際には、観世音菩薩が元気を引き出してくれるのだ。不動明王と観音菩薩を心にバランス良く配置して、自我と自己の統合を実現させて、自己の確立を実現した時にこそ、龍神が心の中に穏やかで元気に住まうのである。