心身を病んだ人々を救うことを、自分の人生における生きがいとして活躍している人がいる。それを生業としているのではなくて、仕事以外の時間を利用して、ボランティアの活動としている方がいる。尊敬すべき方々である。そういう方は、非常に価値観が高いし、普段の生活ぶりも美しい。そういう方たちは、押しなべて自己犠牲を厭わないし、愚痴も言わず淡々と心身を病んだ人々の救済に当たっている。そして、そういう方たちは例外なく、救う相手を選ばない。助けを求めてきた誰でも救うことを生きがいにしている。
それはそれで素晴らしいことだと思う。しかし、その頑張り過ぎによって自分の生きるエネルギーが枯渇したり、自己犠牲が過ぎて自分の心身が病んだりする事も少なくない。そこまでするのは、やり過ぎであろう。そういう頑張り過ぎる方たちに、参考にしてほしい物語がある。古典落語の名作で、『死神』という物語である。この死神という落語は、三遊亭円生という落語家が得意にしていた。三遊亭円生は、一門を代表する名人であった。多くの古典落語の名作を好演し、特に人情噺を得意とした。死神は三遊亭円朝作の名作である。
死神のあらすじはこうだ。何の仕事をしても、うだつの上がらない中年男がいた。つきのない人生を諦めて、自殺をしようとうろついていたその男に声をかける者がいた。自分は死神だと名乗り、病気を治す方法を伝授するから、医者にならないのかというのである。その方法と言うのは、不思議なやり方である。瀕死の病人には、大抵の場合死神が憑いている。その死神が頭の方に座っていれば、何をやっても助からない。死神が足元に座っていれば、特殊な呪文(アジャラカモクレン、テケレッツノパ)を唱えると、その取り憑いた死神がたちどころに消えて病気が快癒するというのである。
そんな話は信じられないとは一旦思うのだが、どうせ死ぬ気になったのだから騙されたと思ってやってみようと医師の看板を自宅に掲げる。すると、こちらに名医がいると聞いたと大店の番頭がやってきた。主人が死にそうで助けてほしいと。行ってみると、幸いにも足元に死神が座っている。早速呪文を唱えてみると、死神が驚いた表情を浮かべながら去っていき、病気は治ってピンピンになる。立て続けにそんな依頼が続いて、その男は大金持ちになる。しかし、元々遊び人だし、あぶく銭は身に付かない。浪費してお金は尽きてしまう。
しかも不運なことに、たまに病気快癒の依頼があって行ってみると、すべて死神が頭の方に座っていて、助けることが出来ない。そのうち、元の貧乏に戻ってしまい、にっちもさっち行かなくなってしまう。そこに、ある豪商の大番頭がやってきて、主人の病気を治してくれたら大金を支払うと約束する。行ってみると頭の方に死神が座っていて、一旦断るのだが、さらに大金を上乗せするからどうにか助けてほしいと依頼されて一計を案じる。死神がうとうとした隙に、布団を頭と足元をひっくり返して、呪文を唱えて死神を追い払った。
その豪商の主人の病気は嘘のように良くなり、お礼の大金を受け取る。その帰り道に、最初に出会った死神に呼び止められる。お前は取り返しのつかない大変な事をしてしまったな、付いてきなと有無を言わさず地下の薄暗い部屋に連れていかれる。その中には火の付いて大量の蝋燭が燃えていた。この蝋燭は人の寿命を示していると言う。長くて明々と燃える一本の蝋燭を示した。これは、先ほど助けてあげた主人の蝋燭だと言い、もう一つの短い消えかかった蝋燭があり、これはお前の蝋燭だ言い、もうすぐ消えてしまうというのである。
元々は元気な蝋燭がお前のもので、この消えかかった蝋燭が主人のものだった。先ほどの呪文によって、取り替えてしまったから、お前の寿命はもうすぐ尽きると言う。蝋燭を取り換えれば生きられると言われるが、間に合わずばたりと死んでしまうという物語である。この寓話から学べるのは、世の中には救うべき人と救ってはならない人がいるということだ。救うべき人を救済しても、自分にはまったく影響がないが、救ってはならない人を救済してしまうと、その人の抱えているカルマを替わりに引き受けてしまうということだ。言い換えると、病気が治って人の為世の為に貢献する人は救っても良いが、そうじゃない人を救うと自分がその病気や不運を引き受けてしまうという戒めである。
※心身を病んでしまった人々の救済をしている方は、この物語を参考にしてやみくもに誰でも彼でも救うということを避けることを薦めたい。ましてや、多額の謝金を宛にした救済活動を無理して実施してしまうと、助けようとするクライアントのカルマや邪気を引き受けてしまう怖れがあることを認識してほしい。多少のお礼なら問題ないが、多額の謝金を頂いてしまうと、見えるものも見えなくなって謙虚さを無くして、自分の身を滅ぼすことになるので気を付けたいものである。