親を人生の目標にしてはならない訳

 前回のブログにおいて、親を尊敬するのは構わないが人生の目標とすることは正しくないと主張させてもらった。その訳について、下記に詳しく述べたい。人間が発達していく段階において、自我の目覚めとその後に自我を克服し乗り越えて、自我と自己の統合としての自己の確立をするという発達形態を取ることは広く知られている。この自我を乗り越える際に、親との関係が特に重要である。思春期における第二反抗期として、正常な自我が発達しているならば、通常は親に大いなる反発を覚えるのである。

 親が自分に対して強く介入したり干渉したりすることを、極めて強く嫌う。自分が進むべき進路は自分自身が判断して決断し、自分で切り拓いて行く年代である。親がこの学校に進むべきだと強く推したり、こういう職業に就くことを願っているなどと言ったりするものなら、反発して逆の道を歩みたくなろう。それでも、何となく親が進める進学や就職に落ち着くのであろうが、親の言うとおりに進路を決めるのは嫌なものである。何故かと言うと、人間には生まれつき自己組織化する働きがあるから、主体的に物事を決めたいのである。

 そんな思春期というのは、エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを抱きやすい年代でもある。このエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを適切に乗り越えて行けないと、やがて青年期になってから愛着障害などを起こしやすく、恋愛における困った問題を引き起こしかねない。あまりにも偉大で完璧な父親や母親であり、到底乗り越えられない強大な存在であると、これらのコンプレックスは超越出来なくなってしまうのである。だからこそ、父親と母親は、人生の目標にしてはならないのだ。

 今までイスキアの活動をしていて、強くて偉大で何もかも完璧にこなしてしまうような親を持つ子どもは、このエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを強く抱いてしまい、愛着障害で苦しむ姿を見てきた。エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスから、同性の親に対する敵意から殺意までも持ってしまうことがある。同性の親を嫌って、息子は父を娘は母を憎しみ、殺してしまう夢まで見る。それは、ある意味自分の嫌いな自我を相手に見出すせいもある。その自我を仮面で隠して、良い人を演じている親が許せないのだ。

 自分の中に存在する恥ずかしくて卑劣であまりにも愚かな自己を、親の心の裡に発見することで、親を一時的には憎しみこの世から抹消したいと思うのだ。しかし、人間らしくて愚かで時に弱い人間性を垣間見せる親を発見することで、これなら親を乗り越えられると安心して、自我と自己の統合を実現して、自分のマイナスの自己も受け容れられて愛することが出来るようになるのだ。ところが、自我(エゴ)の欠片も感じさせないような立派で完璧な親を演じ切ってしまうと、子どもは親を乗り越えられないばかりか親との同一性を持てなくなるのである。

 医師、法律家、大企業の経営者、大学教授、キャリア官僚、政治家の子どもたちが、親を乗り越えることを諦めて、挫折したり愛着障害を持ったりするケースを、イスキアの活動でいくつも経験してきた。傑出した実績や経歴を持つ親の子どもがすべてそうなる訳ではない。あまりにも厚くて頑丈な仮面(ペルソナ)を被って、けっして闇の部分(シャドウ)を子どもと世間に見せない親であると、子どもが心理的な問題を抱えるのである。だからこそ、人生の目標となる親を演じてはならないのである。

 子どもの立場から見ると、親は乗り越えるものであり、超越が難しい人生の目標にしてはならない理由がここにある。だから、親は子どもの前であまりにも良い人を完璧に演じ切ってはならないのである。時には人間臭くて、情けなくて詰まらない人格や人間性を、子どもに見せなくてはならないのである。インナーチャイルドを心から楽しんでいる姿を、時には見せてあげることで、子どもは気付き学ぶのだ。たまにはペルソナを脱ぎ捨てて、インナーチャイルド全開で人生を謳歌する姿を、子どもに見せることが出来たなら、子どももまた安心してペルソナを外して、自分らしく生きることが出来よう。

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