あなたが心底から尊敬していて、自分もあんな人のようになりたいと目指す存在はありますか?と聞かれたら、即座に特定の人物を上げることが出来るだろうか。勿論、人生の師として敬う人物であり、芸人、スター、タレント、スポーツ選手ではない。あくまでも、社会に素晴らしい足跡や実績を残した人物であり、その生き方そのものが尊敬に値するような存在であり、自分も同じような生き方をしたいと強く願うような憧れでもある。残念ながら、多くの人々はそんな人生の目標とする存在を持っていないのではなかろうか。
私が人生の目標とするのは、ご存じのとおり森のイスキア佐藤初女さんである。佐藤初女さんをリスペクトとして、同じような活動をしてきた。勿論、初女さんの足元にも及ばないが、同じように多くの悩める人の役に立ちたいと実践してきたつもりである。人間という生き物は、誰かの模倣をしながらどう生きればいいのかを学ぶ。野生の動物も、親が見本を見せて生きる術を身に付けて生きていけるのである。乳幼児期は、親の模倣をして生きる。思春期を迎える頃になると、逆に親に反発をして、親の生き方に反する生き方を志す。
それだからこそ、青年期に入る頃からは人生の師と言える目標とする人物を持つ必要があるのだ。人生における目指すモデルがないと、目標を見失ってしまい無為に生きるようになってしまうのである。現代の若者たちは、人生の目標がいないのではないかと思えて仕方ない。若者だけではない。中高年の人たちも、そして老人たちも人生の目標を持っているとは思えない。特に仕事をリタイアした人たちは、人生の師を持ち得ないケースが多いに違いない。老後を趣味やスポーツなど好きなことだけをして過ごすのは、実にもったいない。
それでは、どんな人物を人生の師や目標とする人物にすればいいのかというと、その素晴らしい実績とか足跡だけに注目してはならない。結果だけを尊敬するのではなくて、そのように至ったプロセスが何よりも大切であるし、その実践の元になったその人の価値観や思想・哲学こそがリスペクトされる対象であるべきだと思う。ともすると、我々はその尊敬する人物の実績に目を奪われてしまい、その人物の生きる目的や生きる姿勢をついつい忘れがちである。どんな実績を残したかよりも、どう生きたかが大事だとつくづく思う。
一昔前までは、身近なところにそんな人物がいたものである。例えば、会社の上司や社長とか、学校の恩師、郷土の政治家や経済人で、尊敬すべき人物がいたものである。目標とすべき尊敬する人物が、父親とか母親という人間もたまにいるが、それはどうかと思う。尊敬するのはあり得るが、人生の目標とする人物としては好ましくない。その理由は、次回のブログで詳説するので、今回は割愛したい。昔は身近な存在に、人生の目標にすべき傑出した人物がいたものである。特に、政界よりも経済界に多く輩出していたように思われる。
松下電器を創業した松下幸之助氏。本田技研工業の創業者本田宗一郎氏。ソニーの創業者井深正氏と盛田昭夫氏。少し遡って日本経済界の父と呼ばれる渋沢栄一氏。皆の実績も素晴らしいが、それを実現させたのは彼らが共通して持つ崇高な価値観である。私益よりも公益を優先させた企業経営は、まさしく社会的企業(ソーシアルビジネス)としての理念を持っていた。だからこそ、彼らに仕えた部下たちもまた、高い思想と経営哲学を持っていた。目の前に圧倒される素晴らしい人格と人間性を持った人物がいたとしたら、人生の目標とせざるを得ないであろう。
現代の企業家や経営幹部には、傑出した英雄はもはや存在しない。公益よりも会社の私益を最優先にするだけでなく、私利私欲にまみれていて利他の精神なんてまるっきりないに等しい役員と上司だけである。行動規範が利害や損得になっている、低劣な価値観しか持ち得ていないような会社の上司をどうして尊敬出来ようか。人間として尊敬して人生の目標として憧れるのは、崇高な価値観を持った人物でしかないのだ。人生の目標とするような先輩が誰一人いない会社で、どうやって頑張ることができようか。実に不幸な会社人生である。