衆生救済と即身成仏で生きる

 若い頃からずっと憧れて崇拝する弘法大師空海さんが、人間が生きる目的とは衆生救済と即身成仏だと説かれたと伝わっていて、自分もそんなふうに生きたいと常々思っている。勿論、お大師様には全然近づけそうもなく、だいそれたこととは重々承知しているが、少しでも近づきたいと思い、ライフワークとしてこの衆生救済と即身成仏を実現しようと取り組んでいる。イスキアの郷しらかわの活動に取り組んだのも、森のイスキアの佐藤初女さんをリスペクトしてのものだが、お大師様の影響も強く受けたからでもある。

 中国に渡り真言密教を学び、恵果阿闍梨から灌頂を受けて日本に真言密教の経典を持ち帰り、真言宗を起こしたのが弘法大師空海その人である。その空海が滅してもなお高野山の奥の院で生き続け、人々の衆生救済に取り組んでいらっしゃるというのは有名な話である。衆生救済とは、世の中の生きとし生けるものすべてを救うというお考えであり、衆生利益や衆生幸福と言い換えても良いだろう。自分だけの利益や幸福を追求するのではなくて、社会全体の幸福を願ったのである。お釈迦様が仏教を興したのも、同じ理由からだ。

 即身成仏とは、いろんな捉え方があろうが、生きたままに仏になるという意味であり、拡大解釈すれば生きた身でありながら仏性を得るという意味でもあろう。人間誰でも死んであの世に行って仏になる。だから、万人誰でも仏になる。しかし、生きたままに仏になると言うのは、なかなか実現できるものではない。そして、生きたままで仏性を得ると言うのも簡単な事ではない。それなりの修行も必要であるし、人間としての普段の生き方が問われることになろう。少しでも近づくのは出来たとしても、完全なる仏性を得るのは難しい。

 この衆生救済と即身成仏とは、車の左右の両輪の如くにあり、どちらかが欠けてもその実現は難しい。衆生救済を実現する為には、即身成仏を貫かなければならない。その逆も真なりであり、即身成仏を目指して生きなければ、衆生救済を実現させるのは困難であろう。並行して実現を目指しながら努力して生きなければ、どちらも実現させることは叶わないのである。言葉では簡単に言えるが、並大抵の努力ではどうにもならない。何故かと言うと、人間と言うのは究極的に自分が可愛いし、自己保身や自己利益に走りやすいからである。

 しかし、安心して良い。人間という生き物は、本来完全なシステムであるから、基本的には全体最適を目指すように生まれてきている。そして、慈悲の心や寛容の心を本来持ちながら産まれてきているのである。それが、誤った家庭教育や学校教育によって、間違った価値観である個別最適や客観的合理性を身に付けてしまったのである。自分の損得や利害によって行動指針を作るような情けない人間に成り下がって、自己中心的な人間になってしまったのである。獲得した劣悪な価値観を捨てて、本来の自分を取り戻せば良いだけだ。

 仏教において、『自他一如』という教えがある。自分と他人は本来ひとつであり、統合されている存在であるという意味であろう。故に、自分を大切にして愛するように、他人にも優しく接して自分と同じように愛することが求められる。他人が幸福でなければ自分も幸福でないし、自分が心から幸福だと実感できない人は他人に幸福をもたらすことが出来ない。以心伝心という禅の言葉があるように、人の心と心は繋がっている。カール・グスタフ・ユングは、集合無意識の世界で人々の潜在意識はすべて繋がっていると説いた。衆生救済が人間として取り組むべき課題だという論理的証拠でもある。

 人間が生まれてくる意味は、この地球において様々な体験を通して成長することにある。ここでいう成長や進化というのは、人間として寛容性や受容性を高めるということであり、関わり合うすべての人に対する慈悲や博愛の心を持つということだ。それが、即身成仏という意味であり、仏のような心を持って人と接しなさいということだろう。そして、その為にこそ日常的に衆生救済の行動を心掛ける必要があろう。ボランティア活動や市民活動に取り組むことも良いし、ソーシアルビジネスという企業活動を目指すのも素敵な考えだ。それが無理なら、日々の仕事や日常生活に全体最適の価値観を持って取り組みたいものだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA