線維筋痛症で苦しんでいる人は、想像以上に多いらしい。その痛みは、当人にしか解らない。痛みは見えないから、周囲の人には理解されないので余計に辛い。原因も不明だと言われて、そんなに痛いのはおかしいとか、詐病ではないのかとか、精神的なものであるというなら、痛みを自分で起こしているのではと誤解されるケースが多い。家庭においても、そして職場でも、共感的に見られることは少なく、どちらかというと迷惑がられることも多い。それ故に、精神的に孤立していることが多く、孤独感を抱えている。
原因不明だとは言いながら、免疫系の何らかの不具合や脳神経系統のエラーにより痛みが出ていると言われていて、一部の脳神経の遮断をする投薬治療によって、痛みが軽減されるケースもある。従来の痛みに処方されてきた鎮痛消炎剤は効果がないばかりか、抗うつ剤が痛みを低減するケースもあることから、精神的なストレスが発症要因ではないかと見る研究者も少なくない。いずれにしても、これだという治療法は確立されておらず、認知行動療法やリハビリ療法が有効だと言われているが、効果は限定的であるようだ。
それでは、どのようにすれば痛みを緩和できるのかを考えてみよう。まずは、思考回路をまるっきり転換することだ。人間は、どうしても痛みが起きた原因を探ろうとする。そして原因を追究して、その原因を解決したがるものだ。しかし、この原因を解決しようとしても、出来ないから敢えてこの『痛み』が起きたのである。だとすれば、原因を抜本的に解決出来ないのである。ましてや、その原因は自分の裡にあるのではなく、周りの人々があまりにも理不尽な対応を自分に対して行ったことからであり、人々の心を変えるのは不可能なのだ。
人の心や行動は容易には変えられない。しかし、自分の心と言動は変えられる。痛みが起きた原因をつぶそうとするのではなく、こういう事態が起きたことに『意味』があると考え、自分が大きな気付きや学びをするチャンスなんだと捉え、自分が成長する為に起きたことだと痛みを受容することが肝要であろう。周りの人を変えようとするのではなく、自分が心から変わりたいと思い、痛みに共感して痛みを受け容れることである。そうすることで、自分自身のこだわりや固定観念が起こしている痛みなのだと気付くことが出来るのである。
人は、社会の常識、または周りの人々の期待や支配に飲み込まれてしまい、本来の自分を見失い、自分らしさを失ってしまいがちである。あるがままの自分自身を生きるのではなくて、周りの人々の思いや社会常識に合わせて生きようとしてしまう。その方が周囲の人との波風が立たないし、争いごとも起きず平穏に暮らせる唯一の方法だと思い込むのである。これが強烈な生きづらさを生んでいるのである。自分を自分の目で見ようとせず、あまりにも他人の目に自分がどう映っているのかを考えて行動してしまうのである。
ありのままの自分を心から愛せないのは、自尊心が育っていないからであり、周りの人々の気持ちに合わせてしまうのは、自分に自信がないからである。皆から嫌われたり見離されたりすることを心配するあまり、周りにあまりにも迎合し過ぎてしまうのである。それは見捨てられ不安や恐怖を抱えているからであり、自分をありのままに愛してくれる存在がないという証拠でもある。つまり、心理的安全性が確保されていないからである。安全と絆である『安全基地』という心の居場所がないということだ。家族が居たとしても、精神的に孤立していて、孤独感と不安感でいっぱいなのである。
こうした不安感や孤独感が、強烈な生きづらさを生んでしまい、自分らしさを見失い周りに迎合する自分を演じているのだ。それが、痛みの本当の原因なのであると言える。だとすれば、まずは心理的安全性を担保してくれる存在を創ることである。最終的には、自分自身の心の裡に安全基地を設けることが可能なのだが、それまでは臨時的な安全基地になってもらえる存在を見つけることが必要である。メンタライジング能力に長けていて、何事にも動ぜずどんなことがあっても寄り添い続けてくれるという安心感のある安全基地を見つけて、自分の悩みや苦しみを聞いてもらうことから始めたい。そうすれば、安心して自分を変革できることが出来て、痛みを和らげることが可能となるであろう。
※森のイスキアの佐藤初女さんは、まさしく心理的安全性を担保してくれる存在でした。いつも優しく寄り添い、心の居場所である臨時的な安全基地となってくれていました。今は、佐藤初女さんは天国に召されてしまい、森のイスキアは閉ざされたままです。森のイスキアのような心の居場所は必要です。本来の駆け込み寺のような存在こそが、このような生きづらい世の中には必要不可欠なのです。第二、第三の森のイスキアを設立するための支援を、イスキアの郷しらかわは続けています。