スピ系の目覚めと阿羅漢の悟り

 スピリチュアル系の目覚めをした人たちのSNS発信が、非常に多くなってきている。自分がスピ系での覚醒をしたと宣言している人たちは、スピ系の目覚めや悟りをする方法についてのセッションとかワークを開催する傾向が強い。スピ系に目覚めたいと願う人は、どういう訳か圧倒的に女性が多い。そして、スピ系の目覚めを支援するビジネスを始めたいと思う人も女性が殆どである。スピ系の覚醒をしたいと願う若い女性が多いことから、スピ系ビジネスを始める人にとっては、絶好のクライアントになりうることになる。

 スピ系において目覚めたと思い込んでいる人たちは、SNSにおいてもグループ化することが多い。リアルな場でのセッションやワーク、またはお話会とかシェア会という会合を開いては、交流の場を広げるケースが少なくない。このスピリチュアル系における覚醒とは、どういうものなのだろうか。このスピ系の覚醒という言葉を使っている人たちは沢山いるが、特に基本とするような基準がないせいか、それぞれが抱いている内容が大きく違っているように思える。そもそもスピ系というのにもいろんなイメージがあるし、覚醒の到達度も違うのだから、当たり前であろう。

 スピ系で覚醒したかどうかの判定をする認定機関もないし、試験もない。スピ系においての自己啓発を完了したかどうかは、あくまでも自分自身で判断することになる。当人が、スピ系での覚醒や自己啓発をしたと思えば、ネット上でそのように発信するし、その情報が正しいかどうかについては、ネット発信された情報で判断するしかない。ネット上でSNSやブログで情報発信されていると、あたかもそれが正しい情報かのように見えるのは当然である。したがって、スピ系で覚醒したという人の話を鵜呑みにしてしまうのであろう。

 しかし、冷静になって考えてみると怖いことだ。私は覚醒者だから私の言うことは正しいから信じなさいと主張されてしまうと、ついつい同意してしまうのはありがちだ。ましてや、スピ系に憧れる人というのは、自分でも得体のしれない不安や生きづらさを抱えている人が多い。何かにすがりたいと思っているから、ついつい引き込まれてしまうのも当然である。スピ系に目覚めた人というのは、同じように苦しんでいる人を救いたいと願っているから、積極的に発信しているし、コンタクトをしてくれた人を囲いたがるのであろう。

 さて、スピ系の覚醒者として自分を認識している人は、本当に自己啓発を完了しているのであろうか。仏教の修行段階に阿羅漢という存在があるのを知っている人は、そんなに多くないと思われる。どういう人かというと、仏教における修行僧の最高位にある高僧のことである。ある程度深く悟りを啓き、菩薩までは及ばないものの、仏に限りなく近づいた者という意味である。いろんな場所に五百羅漢さまとして安置されているのは目にした人も多い筈だ。この阿羅漢が、実は永遠に仏にはなれないと言われていると聞いて、驚く人が多いかもしれない。

 仏教の教えに『二乗作仏』という言葉がある。主に大乗仏教が小乗仏教を批判的に提唱したものではあるが、阿羅漢は仏教の修行をしているものの、自分の悟りを優先し過ぎるあまり、利他行が足りないから仏性を得られないと言われている。阿羅漢は、自分では悟りを啓いたと思いあがり過ぎて謙虚さを失うから、仏にはなり得ないとも言われているのである。ソクラテスの説いた『無知の知』にも通じることである。確かに、自分では完全に悟ったのだ、覚醒者なのだと自信を持って主張する人ほど謙虚さを失い、成長は止まってしまう。

 スピ系の覚醒者と阿羅漢という存在が、何となく似通っているように思えて仕方がない。すべてのスピ系の覚醒者が阿羅漢と同じで、偽スピだと主張するつもりはないが、自分で目覚めた者であると自信を持って言う人ほど信じられない気がする。本当に悟りを啓いて、自己啓発をしたり自己マスタリーを実現したりした人は、もっと謙虚であり自分を自慢することはしないものだ。そして、そっと日常的に利他行に勤しむだけであり、スピ系をビジネスに利用するようなことはしない。本物の覚醒者はビジネスに活用したとしても、セッション1回何万円も要求することはない。本物を見分ける確かな眼を持ちたいものである。

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