札幌市のホテルで起きた首切断殺人事件が、父と娘の共犯によって起こされた犯行だという衝撃的な報道がされている。そして、母親もこの事件に関わっていたとして逮捕される事態にもなっている。娘ひとりで殺害を実行して、それに父と母が協力をしたのではないかと見られている。さらに、この娘は小学校から不登校になっていて、29歳になった現在はひきこもりだったとも伝えられる。この事件が起きた原因のひとつには、子どもを甘やかし過ぎて育て、溺愛した為だと主張する専門家が多数いるのには驚いた。
教育評論家や家庭問題のアナリストの中には、こんな時代錯誤とも言えるような見識や理論しか持っていない専門家がいるのである。不登校・ひきこもりが一向に減らずに、改善する兆しがないのも当然である。おそらく、この事件の報道を見た教育関係者や文科省の役人たち、そして政治家たちも同じような原因分析をしたのではないだろうか。精神科医師である父とその妻は、この娘を過保護状態で育てて、溺愛した為に娘を不登校・ひきこもりにさせてしまい、このような凶悪事件を起こさせたのだと結論付けたいのに違いない。
子どもを溺愛してしまうと、子どもを駄目にしてしまうというのは、教育関係者にとっては定説のようになっている。果たして、それは発達科学において正しいのであろうか。溺愛とは、限度を超えて盲目的に愛を注ぐことだと言える。それは親子関係や恋人関係(夫婦関係)にも用いられる。一般的には、溺愛してしまうとその関係を破綻させてしまうと思われている。溺愛する背景には、親が子どもに依存しているとか、自分自身が愛情に飢えている為に起きると分析されている。溺愛とは、愛に溺れると書く。
溺愛とは自分を見失ってしまうくらいに対象者を愛してしまう行為ではあるが、果たしてこういう愛し方は間違っているのであろうか。確かに過ぎてしまうのは良くないことではあるが、愛するという行為が悪いことではない。両親や祖父母が、我が子や孫を溺愛するのは、当たり前のことである。溺愛することが悪いことだと決めつけるのは、どうにも納得できない。札幌の首切断事件を起こした娘の両親が、我が子を溺愛していたとは、到底思えない。事件を起こした娘は、逆に両親からの愛情に飢えていたのではなかろうか。
世の中の親たちの多くは、我が子を深く愛することが出来ないでいる。特に、母性愛と言える無条件の愛を我が子に注ぐのが極めて下手である。条件付きの愛である父性愛を注ぐのは得意なのだが、あるがままにまるごと我が子を愛することが出来ない。何故かと言うと、自分自身がそのような愛情を注がれて育っていないからである。だから、現代の子どもや若者は、絶対的な自己肯定感が確立されていないのである。若者だけではない。中年者から高齢者も同じである。札幌の両親も自己肯定感が確立されていなかったのであろう。
ましてや、札幌の事件を起こした父親は、正しい形而上学を学んでいなかったのである。形而上学というのは、科学を超越した神の領域の学問である。現代の日本人の殆どが、形而上学という概念を持ち得ていない。札幌の事件を起こした父親が、正しい形而上学を学んでいて、娘に対しても常日頃から形而上学について話していて、形而上学に基づいた行動をしていたとしたら、こんな不幸な事件は起きなかった筈である。勿論、娘が不登校とかひきこもりにもならなかったに違いない。両親が、絶対的な自己肯定感を持ち、形而上学を認識していたら、娘は幸福な人生を歩んだであろう。
過保護とか溺愛は、けっして悪くないのである。札幌の両親は、良い子に育てようとか、立派に育てようとして、娘に対して過干渉や過介入を繰り返していたに違いない。この過干渉や過介入こそが、子どもを駄目にするのである。溺愛や過保護であったとするならば、干渉や介入はしない筈である。あるがままにまるごと愛するという行為を続けていたら、子どもは自ずと自己組織化するであろうし、絶対的な自己肯定感が確立する。そのうえで、神の哲学である形而上学を学んでいたなら、幸せな生き方が出来たに違いない。溺愛することが悪いと勘違いするような報道は控えてほしものである。