グリーンツーリズムが心を癒す訳

グリーンツーリズムの発祥はヨーロッパだとされている。グリーンツーリズムとは、農業体験や自然体験を中心にする滞在型の旅行である。それは、18世紀のフランスの貴族社会に始まったらしい。貴族の城がある敷地内の一角に農家と農地を作り、貴族がその農家に寝泊まりして、農業を楽しんだのがグリーンツーリズムの始まりとされている説もある。貴族の間では、このグリーンツーリズムが大流行して、多くの貴族が体験していたと言われている。あのマリーアントワネット王妃さえも、グリーンツーリズムを体験していたというから驚きだ。

貴族の仕事は何もなくて、毎日舞踏会を開いて遊んでいたかというとそうではなかったようである。軍人として軍務に励んでいた貴族もいたし、医師や教授をしていた貴族も存在していたし、領地における農業経営をしていた貴族も少なくなかったと伝えられる。つまり、きちんと仕事をして給料を得たり農業経営などで収入を得ていたりしたらしい。かなり真面目に仕事をしないと、広大な領地や城と敷地を管理できなかったということである。さらに、貴族として公的行事への参加も要請されていて、相当に忙しかったらしい。

したがって多くの貴族が、かなりのプレッシャーにより押しつぶされそうになっていたと言われている。仕事と社会活動におけるストレスも、半端なかったということであろう。また、貴族にはノブレス・オブリージュというものがあった。ノブレス・オブリージュとは、貴族としての社会責任のことである。言い変えると、特権階級である貴族は、地域市民に対して社会貢献をするべきだという慣習があったのである。このノブレス・オブリージュの活動も、かなり負担であり、超多忙の生活を送ったことであろう。

こんなに多忙でストレスフルな生活は、貴族の心を疲れさせ折れさせてしまっていたのではないかと想像する。勿論、ストレス解消のために、スポーツや芸術活動は盛んだったと思われるが、残念ながらそれではストレスの完全解消は出来なかったのであろう。それで目を付けたのがグリーンツーリズムである。自分の城から出るのは危険なので、自分の城の敷地内に粗末な農家を建てたのである。その農家に宿泊して、農民のような質素な生活をしたと伝えられている。これでストレス解消をして、通常の業務を頑張れたと思われる。

農業がどうして貴族の心を癒してくれたのかというと、それは農業独自のヒーリング効果があるからに違いない。心を癒してくれるのは、農業しかなかったのである。農業というのは、人々が食べる物を生産する産業である。貴族がやっていたのは大規模生産農家ではなくて、自分の食べるものを細々と作ったものであろう。まさしく手作りで、愛情を込めながら農産物を生産していたと思われる。心を込めて美味しい野菜作りをしている間、嫌なことも何もかも忘れて農業に専念していたに違いない。つまり、野菜作りがマインドフルネスになっていたのである。

農業がマインドフルネスの効果があるのは、農産物生産の難しさにある。農業というのは、かなりの技術や経験を要する。その年により天候も違うし、微妙な土の中に住む微生物やPHなどの条件にも影響される。これらのことをすべて総合的に判断しながら農産物作りをするのだから、他の事を考える余地がないのである。ましてや、良い野菜が出来るかどうかをいつも気にすることになる。そして、自分の望む農産物が出来て、収穫した時の喜びは何にも替えることのできない大きな喜びである。さらに、自分で作った農産物を自分で味わうことは無上の喜びであり、至福の食卓であったことだろう。

農業の基本は土作りにある。丹精を込めて肥沃な土壌づくりをするのだが、当然土に素手で触れることになり。土というのは、大地のエネルギーが豊富に蓄積されている。土に含まれるエネルギーが、愛情を込めて土をいじる人の体内に取り込まれるのは当然である。幼児が泥いじりや砂遊びが大好きなのは、同じ理由からである。したがって、土に触れることで、折れてしまった貴族の心が癒されたのである。また、農業は自分の力ではどうにもならないことがある。天候不順や天変地異が常に影響を受ける。特権階級の貴族は、権力や権威があるから、領民や使用人を自分の思いのままになる。しかし、農業によって意のままにならない難しさと、どうにもならないことがあるということを思い知らされる。これが人間を大きく成長させるし、自分で抱えているストレスが自分の起こしていることだと知り、これもストレスを乗り越えるヒントにもなるのだ。貴族が農業を愛した理由がここにある。

 

※イスキアの郷しらかわで、農業体験をしながら心を癒しませんか。それぞれの季節により、いろんな農業体験ができます。米作りや野菜の生産を土づくりから体験できます。自分で作った野菜を自分で料理して食べることは勿論、持ち帰りもできます。ヒーリング効果の高い農業を一緒にしてみませんか。有機栽培の研修も可能です。問い合わせフォームでお願いします。

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダーという言葉がある。『沈黙の春』という環境問題を世界で最初に提言した本を著したレイチェル・カーソンが提唱した言葉だ。同名で本にもなっているし、ドキュメンタリー映画もある。日本語に訳すると、「驚きの感性」となる。何のことだか解りにくいが、自然体験においては基本となる感性である。自然を深く観察していると、驚くような景観、植物、動物などの目を見張るような美しさに出会うことがある。その際に、センス・オブ・ワンダーがないと何も感じないし、素通りしてしまうというのである。

センス・オブ・ワンダーというのは、自然体験をする際にはなくてはならない大切な感性だと彼女は言っている。何故ならば、同じ美しい花を見ても豊かな感性を持つ人と持たない人では感じ方が違うからである。登山道の傍らに咲いている可愛らしい花を見ても、感性を持たない人は見過ごしてしまう。豊かな感性を持つ人は、誰も気づかないような小さな花を見つけて心が動き、じっと見つめてその美しさを愛でる。名前も知らない路傍の花にも感動するような感受性が必要であると言っている。

レイチェル・カーソンという女性は、沈黙の春という著書で農薬使用の危険性について述べている。農薬というのは、自然界の動植物を壊滅させてしまうリスクを持つ。農薬によって小鳥たちが死滅してしまい、春がやってきても小鳥のさえずりが聞こえなくなり、もはやサイレントスプリング(沈黙の春)になってしまったと嘆いている。彼女の農薬の過剰使用についての提言は、多くの環境保護活動家を生み出した。世界の環境保護活動は、彼女の著作から始まったと言っても過言ではない。

そんなレイチェル・カーソンは、自然をこよなく愛していた。彼女は自然が豊かな場所に家を持って、家の回りの野原をいつも散策していたらしい。彼女は結婚もせず、子どもがいなかったという。時折、甥が訪ねてきて、彼と一緒に自然の中を散策していた。自然の中に咲いている花々やさえずる小鳥たちの美しさを、甥と共に楽しんでいたのである。その際に、センス・オブ・ワンダーという驚きの感性こそが必要だと言うのである。それを持っていないと、美しいものを美しいと感じないからだという。

美しいものを美しいと感じることがなければ、逆に醜いものや汚いものを見分けることも出来なくなる。ということは、大人になってから醜いものや汚いものを判別できなくなるから、そのような詰まらないものに心を奪われてしまう危険性を持つのである。レイチェル・カーソンは、大人になって過剰な欲望や本能に心を惑わされ、人間として生きるべき本質から遠ざかってしまうのは、このセンス・オブ・ワンダーが育っていないからだと言い切っている。心が疲れて折れてしまい、生きる気力を失ってしまうのも、この驚きの感性が乏しいからだと言うのである。

このセンス・オブ・ワンダーが子どもの心に芽生えるには、ただ自然体験をすればよい訳ではないと説いている。その自然体験に際して、傍らにこのセンス・オブ・ワンダーを発揮できる大人が必要だと言うのである。自然体験をする子どもたちの傍に付いていて、路傍の何気ない花の美しさに驚き、心から感動することが肝要らしい。その際、花の美しさをどのように表現するのかも大事である。ただ単に美しいと言うのではなく、何故美しいと感じるのか、美しさをどのように表現するのかが大切だと説いている。傍らにいる大人が、心が打ち震えるほどの感動をして、それが身体いっぱいに溢れるほどの表現をして、子どもの心にも響かせなくてはならないのである。

登山ガイドや自然ガイドをしている人は沢山いる。しかし、このセンス・オブ・ワンダーをこよなく発揮している人はどれだけいるだろうか。子どもたちに、センス・オブ・ワンダーの感性を育むことが出来るガイドは、そんなに多くはない筈である。まずは、自分が自然に接した時にどれほどの感動が出来るのかということと、それを子どもの心に大きく響くような豊かな表現を出来るかどうかが重要である。子どもに単に美しさを伝えるだけでなく、それが何故美しいのか、美しい心というのはどういうものかを豊かな表現力で、しかも物語性を持たせながら伝える必要があるのだ。このレベルまで子どもたちの感性を育める自然ガイドを、選びたいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、センス・オブ・ワンダーを育める自然ガイドと登山ガイドをさせてもらっています。子どものうちであればこの驚きの感性を育成しやすいのですが、若者になってからでもこの感受性を豊かに育むことも可能です。心が疲れて折れてしまわれた方は、このセンス・オブ・ワンダーを取り戻すために、いらしてみてください。自然体験をご一緒しましょう。経験豊かな自然・登山ガイドのプロが案内します。

 

LOHASな生き方を目指す

LOHAS(ロハス)とは、Lifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字を取った略語であり、地球環境を保護すると同時に健康で持続可能な暮らしを目指すという価値観を共有した生き方、またはそのような考え方を共有した人々のことである。環境保護の立場から、自然と人間の共生を謳い、自然を大切にして守り育てて、皆で共有して分かち合うという考え方に立っている。当然、農薬の使用は差し控えるし、オーガニックでナチュラルな農業を目指している。産業廃棄物による汚染や水質汚濁についても、極力少なくするような生活をしようと提言している。

地球の温暖化対策にも取り組んでいて、省エネにも関心が高い。脱石油でしかも自然エネルギーの政策を進めるように提言もしているし、勿論脱原発も推進している。持続可能な生き方をしようというのだから、地球環境に負荷のかけない暮らしをして行こうと呼びかけている。健康面においては、人間が本来持っている自己免疫力や自然治癒力を高めていくような生活スタイルを志していて、西洋近代医学のように人間が持っている本来の機能を損なうような治療は、断固拒否する立場だ。遺伝子操作の農産物を作ることや、クローンの家畜を作り出すことの危険性にも警鐘を鳴らしている。

どうして、人間はこんなにも効率優先の生き方をしてしまったのだろうか。生産性を上げることが至上命令だと言わんばかりに、農薬を大量に使用し化学肥料漬けの農産物を作り続けた。それが、人間の健康にだれだけ多くの被害を加えてしまったか、計り知れないものがある。「沈黙の春」(Silent Spring)という著作で、環境問題を初めて世界に訴えたレイチェルカーソンは、鳥が鳴かなくなった事例を嘆いてこの本を書いたのである。こんなにも環境と人間の健康に悪影響を与えている農薬と化学肥料の使用が、一向に減らないのは不思議な事である。

日本において、LOHASな生き方を目指しますと宣言すると、決まってこのような反論がある。農薬や化学肥料を使わないで農業をしたら、農産物の生産量が減少してしまい、飢え死にする人が出てきてしまう。高い農産物を買えない貧しい人もいることを考慮しないなんて、身勝手な論理だと言うのである。または、予防ワクチンや抗生物質などの薬品を使用しないと、健康を損なってしまうだけでなく乳幼児の生存率が低下してしまうと大騒ぎをする。最新の医学研究や農学によると、その批判は的外れだとされつつあるにも関わらず、いまだに古い考え方から抜けきれない。

LOHASを提唱され始めた時代は、そんな生き方をしたら生産効率が低下するばかりでなく、豊かな生活を捨てなければならないと批判されていた。そんな前近代的なLOHASは、科学的にも間違っているとの非難を受けていたが、最近なって科学的に見てもLOHASは正しいということが解明されてきたのである。科学的にも理がかなった、人間本来の生き方こそがLOHASであり、それに反した生き方をしているからこそ、環境問題や健康被害が起きているということがようやく証明されてきたのである。

産業革命以降、人間のあるべき生き方がどんどん否定されてきて、効率優先で物質的な豊かさ至上主義が蔓延してきた。おかげで、もっと大切な価値観である心の豊かさや自然の豊かさをないがしろにする暮らしが普通の社会になってしまったのである。生産性優先社会は、過度の競争を生み出すと共に、人間の労働力を使い捨ての時代にさせてしまった。当然、自分さえ良ければいい、身勝手で自己中心的な考え方に支配されてしまった社会は、お互いに支え合って生きるという大切な関係性を損なってしまい、全体最適ではなくて個別最適を目指してしまっている。

この世の中は、人間の身も心も病んでいる。それは、とりもなおさず人間の本来の生き方であるLOHASな生き方がされなくなったからである。縄文人のように、余計な富を持たず当たり前のように相手の尊厳を認め、お互いに支え合う社会があれば、争い事もなくて平和な世の中が1万年以上も続くのである。世界では紛争とテロが続いている。日本国内でも、毎日のように殺人事件や悲惨な事故が相次いでいる。LOHASな生き方をしていたら、起きない争いや事件・事故である。LOHASな生き方をしている限り、こんなにも心身を病んでいて不健康な世の中になる筈がない。人間本来の生き方であるLOHASな生き方を目指そうではないか。

剪定作業で気付いたこと

イスキアの郷(農家民宿)で樹木剪定作業をさせてもらった。我が家の庭にある樹木は、適当に剪定した経験はある。ベニカナメや百日紅などの庭木を見様見真似で剪定してきた。ところが、農家の果樹などの剪定は今まで実施したことがなかったのに、いきなりやってみたらと言われて実施したのだ。人間としては適当な性格ながら、適当に剪定していいからと言われても、なかなか思い切って切れないものである。50センチから60センチの新芽を持っている枝を残して切っていいとの指示でやってみたが、これが難しいのである。

何故なら、あまりにも枝が混んでいる処は、日光が通りやすいように何本かを残して切る必要もある。どの枝を残して、どの枝を太い枝から伸びている根元からばっさり切るのか、迷ってしまうものだ。思い切って切断しようと思いながら、一度切ってしまえば元に戻せないから、いざとなると逡巡してしまう自分がいる。やはり、このような樹木剪定作業というのは、熟練を要するものだ。少なくても数年の経験をしてからするものであろう。素人に手に負えるものではない。

とは言いながら、依頼するほうも心得たものである。失敗してもいいような樹木だけを指定したようである。先ずは、梅である。『桜切るバカ、梅切らぬバカ』と言われるように、梅はどんなに切っても問題ないみたいである。ということで、梅の何本かを切るように指示された。さらに、すももの樹も依頼された。たぶん、この種類の樹木ならば、失敗しても大丈夫だろうと主人が依頼したんだろうと思って、安心して剪定作業を実施した。

最初は、おどおどしながら、そろそろと切っていたが、そのうちに少し大胆になり、切り方も様になってきたようだ。そして、終了する頃にはなんとか剪定のコツも呑み込めてきた。しかも、剪定作業そのものが楽しくなってきたのである。来年になって樹木の果実が見事に実るかどうかが、自分の手に託されているのである。人間と言うのは、責任を持たされる仕事をさせられることに喜びを感じるものらしい。どうでもいいような仕事、そして誰にでも出来る仕事には大きな喜びを感じないしやりがいも持てない。農作業というのは、収穫の量と質に直接関わる重要な仕事だからこそ楽しいのだ。

剪定作業をしながら気付いたことがいくつかある。先ずは、要らない枝と必要な枝があり、その選択をすることが難しいということ。そして、その不要な枝を思い切って切断しないと、良い枝が育たないということ。さらに、どんなに育てようとしても育たない枝は、残してはならないということ。枝が密生してしまうと太陽の光が十分に、それぞれの葉に届かず良い果実が実らないという事実。何だか、会社のマネジメントみたいである。駄目な部門やどうしようもない社員は思い切ってリストラしないと、良い果実(成果)は実らないということと重なる。

樹木というのは、何故もこんなにも不要な枝を芽生えさせるのだろうか。もしかすると、樹木そのものにとっては必要な枝なのかもしれない。良い果実だけを求める人間の都合で切られてしまっているのかもしれない。そうではなくて、果樹というのは人間の手によって切られることを初めから想定していて、新芽を伸ばすのかもしれない。人間がちゃんと切るのかを、樹木が試しているのかもしれないなあなんてことを思いながら剪定作業を進めた。

剪定作業でひとつだけ確かなことを学んだ気がする。樹木と人間というのは似ているということである。人間は生きているうちに、少しずつ余計なものを蓄える。本来は生きる上で必要のないものというか、逆に生きる上で邪魔になるものである。変なこだわりや思い込み、または身勝手な心や我儘な気持である。自分さえよければいいというような低い価値観もそうである。そういう不浄なものが溜まりに溜まった時に、不都合なことや病気とか事故に見舞われるのである。そして、どん底に落とされて、初めて自分を振り返り、不要なものを切り落とさざるをえなくなる。そうしないと生きていけないからである。まるで樹木に生えた不要な枝のようではないか。誰かに切り落とされるまで待たないで、人間なのだから自ら切り落としたいものである。そんな気付きを剪定作業から学ばせてもらった。

 

※イスキアの郷しらかわでは、いろいろな農作業の体験ができます。癒しを求めていらっしゃる方も、そして元気な方でも、皆さん体験することが可能です。問い合わせフォームからご相談ください。体験料は無料ですが、お昼代だけをご負担いただきます。(2,000円~2,500円)

エラー: コンタクトフォームが見つかりません。

 

手料理を楽しむ

料理をするのが何よりも好きで、暇があればふと思い浮かんだ料理をして楽しみます。今日は、美味しそうなセロリの株を直売所で見つけたので、さっそく漬物をしようと思い、生協に寄って「つまみたら」を買ってきました。この時期に会津地方でよく作られる定番料理、セロリとつまみたらの漬物です。繊維質の強いセロリは斜めに薄切りにして、固いつまみたらは水に戻して柔らかくしてから漬け込みます。彩りにニンジンの薄切りを加え、好みで柚子を細かく刻んで香りづけします。

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この料理は、先月亡くなった母がよく作ってくれたものでした。私の作る料理の基本になっているのは、母の手料理です。亡き母を偲んで、母の得意料理を時々再現しています。

日本農業を自然農法で再生する

田舎に行くと、青々と広がる田園風景に心が癒される。しかし、その田園風景であるが、山間のほうに行くと、耕作放棄地が急増していて、雑木林や荒地になってしまっている。由々しき大問題である。空き家になってしまっている農家も多いし、手入れされていない山林も増えている。農業では生計が立てられないと、集落から若者が街に出て生活し、年老いた老夫婦しか住んでいない農家が多いのだ。当然、老齢者だけでは手が回らないから、畑や田んぼは耕作されずに、荒れ放題になっているのである。

農地というのは農産物生産の役割と共に、本来水害を防いだりする効果もあるし、環境保全と国土保全という観点からも、耕作放棄地になるのは好ましくない。したがって、農水省・農政局や県の農林事務所も耕作放棄地対策を立てて、いろいろと苦労しているが、抜本的な改善方法が見つからず苦慮している状況にある。そもそも、農業を志す若者がいない。つまり、農業に対する魅力を感じる若者が少ないのである。何故かというと、苦労する割に収入が少ないし、農業だけで生計を立てるのが難しいからである。そんなこともあり、耕作を放棄した農地は益々増加している。

それでは、こんな農業にしたのは誰なのかというと、殆どの農家はこんなふうに言う。それは、国の農業政策が間違っているからだと。日本の農政は、まったく無策だと言う人もいる。または、工業製品輸出優先策の為の見返りに農産物輸入自由化をして、外国との競争にさらされてしまい、日本農業が壊滅的打撃を受けたと主張する人も多い。または、工業の労働力確保の為にわざと農家を疲弊させ、農村労働者を都会に呼び寄せたとも言う。果たして、本当にそうだろうか。日本の農政における失政が、農業を駄目にしたのであろうか。確かに、そういう側面もあるだろう。しかし、それだけが原因ではあるまい。もっと根源的な何か他の原因があるのではないだろうか。

最近、ユニークな農業が脚光を浴びている。奇跡のりんごと呼ばれる木村氏の自然農法の取り組みや、昔ながらの堆肥等の有機肥料や無農薬で農産物を生産しているケースである。そういう農家は、例外なく『土』を大事にしている。農業生産における労力の殆どを、土作りに注いでいるのが特長である。彼らは、声を大にして言う。化学肥料と農薬が、土を駄目にしてきたし、農業を駄目にして来たのだと。化学肥料と農薬を使わなければ、まともな農業生産は出来ないのだと、農家は思い込まされてしまい、土を駄目にしてきたのである。本来持っている土の生命力を台無しにしてしまったから、逆に化学肥料と農薬が大量に必要になってしまったのであると主張する。

化学肥料メーカーと農薬製造会社の巧妙な宣伝に騙され、その片棒を担がされた農協によって、日本農業が駄目になったと言う人々が増えてきた。農水省を初めとする行政も彼らに巧妙に騙されてしまい、悪乗りしたと見る向きも多いのだ。彼らは決まってこのように言う。化学肥料と農薬を使わなければ、生産量が低下して大変なことになると。日本農業が駄目になるというのである。まったく逆であろう。彼らが日本農業を駄目にしたのではあるまいか。そのことを知った、小数の志ある農家は、昔のようなやり方で農業を立派に復活させている。そして日本農業を立派に再生させた彼らは、こんなことも言っている。土の言い分に耳を傾け、そして野菜や果物の声を聞けと。つまり、土が何を求めていて、農産物が何をしてほしいのか、耳を澄ませば聞こえてくるのだと言うのだ。

だから、彼らは化学肥料や農薬を使わずに、土を健康にして野菜や果物を作っているのである。化学肥料と農薬を使用しないで生産した農産物は、健康である。味も格段に良い。ミネラルが豊富であり、大切な栄養素も高い。だから、子どもたちも野菜嫌いにならない。こういう野菜を食べていると、病気にもなりにくい。アレルギーにもなりにくいと言われている。いいこと尽くめなのである。当然付加価値が高いから、価格も高い。それなのに、今もって化学肥料や農薬に頼っている農家が多いのは、情けないことである。土や野菜の気持ちになりきり、彼らの声を聞けばいい。彼らの叫び声が聞こえてくる筈である。化学肥料や農薬はもう使わないでくれという悲痛な叫びが。

確かに省力化をして、大量生産をする為には農薬・肥料を大量に使用しなければならない。しかし、適量を生産するならば、自然農法でも作物が出来ることが証明されている。発想の転換である。農地が余っているのだから、農家を増やせばよい。そもそも、農業というのは、大量生産には向かないものではないだろうか。今、ふるさと回帰を志向する人々が増えている。退職したら、農ある生活をしたいという方たちが多い。そういう方たちが、自然農法で安全安心な作物を作り、老後の生活をエンジョイしようとしている。そういう作物を利用して、直売所や農家レストランを開いているケースが多い。または、農家民宿を開業している例もある。今、団塊の人たちの自然農法によって、本来の農業が再生しようとしているのである。白河を初めとして福島県には、その為の安価な耕作放棄地が用意されている。