農業が心を癒す・アグリヒーリング実証実験

 JAと順天堂大学の共同研究で、農業体験がストレスを軽減してメンタルを癒すことが実証された。練馬区の体験型農園で男女40名に追肥や収穫体験をしてもらい、作業前後の唾液をELISAで解析を行い、比較検討してアグリヒーリングの効果があることが判明したという。農業体験や自然体験はストレスを解消してヒーリングの効果があると以前から言われていたが、それが科学的に証明された形である。このアグリヒーリングや自然体験による癒しの効果が実際にあると解れば、メンタル疾患の治療にも使えるということになる。

 ストレスで増加するホルモンであるコルチゾール、クロモグラニンAが農業体験後に減少し、幸福度をあらわすホルモンのオキシトシンは、増加していることが確認された。また、POMS2®による気分アンケートでは、怒り、混乱、抑うつ、疲労、緊張といったネガティブ因子がいずれも低下することが明らかになったという。農業体験をすることが一定のストレス軽減、幸福度のアップに寄与していることが判明した。何故、ストレスホルモンが減少するのか、幸福ホルモンのオキシトシンホルモンが増加するのか、完全には解明されていない。

 ストレスで増加するコルチゾールというホルモンは、ステロイドホルモン(副腎皮質ホルモン)の一種で、本来は有益なホルモンである。しかし、あまりにも大量に出てしまうと、いろんな副作用を起こす。不眠やうつ病の元凶とも言われている。また、このコルチゾールというホルモンは大量に放出され続けると、海馬を委縮させる働きがあることが解っている。認知障害や記憶障害になるリスクもあるということである。コルチゾールというのは、メンタルに対する悪影響だけでなく、活性酸素を増やすので身体にも悪影響を与える。

 幸福ホルモンと呼ばれるオキシトシンホルモンというものは、セロトニンの分泌にも影響を与えると言われている。セロトニンと相関関係があることが解っている。つまり、オキシトシンが分泌されるとセロトニンも分泌されるし、その逆の場合もあるということである。農業体験で何故にオキシトシンホルモンが出るのかと言うと、野外のフィールドで土をいじることが幸福感をもたらすことと、農産物の育成と収穫に寄与することが誰かの幸福に繋がってくるという実感がそうさせるのかもしれない。

 さらに、オキシトシンホルモンは周りの誰かとの絆や関わり(関係性)を強く実感すると放出されるということも言われている。そういう意味では、今回の実験で指導者から農業の手ほどきを受けながら、複数人で農業体験をしたことで、強い関係性を実感したのも影響したと思われる。ひとり農業はあまり幸福感を感じないが、家族や共同体での農作業はオキシトシンホルモンを多く出してくれる。また、ひとりでの自然体験でもストレス解消できるが、複数人での自然体験ではストレスを軽減し、コルチゾールの分泌を低下させることだろう。

 これらのことから、ストレスフルな生活をしている都会に住む人たちが、自然体験や農業体験をするために田舎に来て、ストレス解消しようとするのは科学的に正しいことが証明されたのである。何となくそれが効果あると解っていたし、実際に田舎で農業体験や自然体験をすることが幸福な気持ちにさせてくれるということを実感していたのだ。特に農家民宿で寝泊まりしながら、ホストに手ほどきを受けながら収穫体験するのは、ストレス解消に大きく寄与するのは間違いない。一緒にトレッキングしたり山遊び川遊びしたりするのも良い。

 不登校やひきこもりの青少年を、田舎の農家民宿に宿泊させて、農業体験や自然体験をしてもらうというのは、とても有効だということが言えるだろう。不登校やひきこもりの青少年は、愛着障害を根底に持つことが多い。ストレスがトラウマ化していて、コルチゾールが大量に出続けていて不眠の症状があり、昼夜逆転していることが多い。昼間に農業体験や自然体験をして、コルチゾールを減らして疲労感を感じることで熟睡できよう。農家民宿のホストや指導者・支援者との触れ合いや関わり合いがオキシトシンを出させるに違いない。不登校やひきこもりを乗り越えるきっかけにもなり得るだろう。

ウィズコロナ時代の働き方イノベーション

 新型コロナウィルス感染症は、私たちの暮らしを一変させてしまった。そして、世界経済も多大な影響を受けている。とりわけ観光・運輸・飲食・娯楽産業では壊滅的な打撃を受けている企業や個人事業主が少なくない。事業継続できなくて、廃業したり倒産したりしているケースが非常に多くなっている。そういう産業で働く人たちの仕事が奪われてしまい、生活が破綻している人も多いと聞く。経済的な理由と将来に対する不安と絶望から、自らの命を絶ってしまう人もいるという。コロナ不況が深刻である。

 

 新型コロナウィルス感染症のワクチン接種が欧米や中国で始まり、間もなくコロナが終息するのではないかと予想する人々がいる。しかし一方では、感染症の専門家の中には、このコロナ禍は少なくても2~3年は終息しないと予想する人が多い。おそらく4~5年はコロナ禍が続くと見ている専門家が少なくない。新型コロナウィルスは、感染力も強いし、重症化する確率も高いうえに、死亡率だって他の感染症と比較しても異常に高い。後遺症も深刻である。新型コロナウィルス感染症を甘く見ている若者が多いが、楽観視していると大きな落とし穴にはまりそうである。

 

 新型コロナウィルス感染症は、先ほども触れたが特定の産業に与える影響が大きい。そして、私たちの普段の生活も変えざるを得なくなった。そして、これから4~5年もこの状況が続くとすれば、ウィズコロナの生活そのものを抜本的に変えなければならないのではなかろうか。今までの生き方そのものを見直すべきではないかと思えて仕方ない。新型コロナウィルス感染症を完全に抑えるには、経済も暮らしも今までとまったく違うものに抜本的に革新する必要がある。つまり、ウィズコロナ時代のイノベーションが求められるのである。

 

 ウィルスというのは、生き物である。そして、ウィルスは自己組織化する生物なのである。ウィルス自身が生き延びようとするし、その感染力を強くして、仲間の数を増やそうとする。その為に主体性、自発性、発展性、進化性を発揮して、変異を繰り返す。そうなると、ワクチンが効かなくなる恐れもあるし、特効薬だって効果がなくなることも考えられる。今度の新型コロナウィルスは、今までのウィルスとは明らかに違う気がする。おそらく、今までのような感染症対策だけでは抑えきれないであろう。ウィルスを抑えるのではなく、ウィルスと共生する生き方を目指す必要があると考える。

 

 我々は、今までのような働き方と生活ではなくて、コロナに感染しない働き方と暮らしを実現したい。行き過ぎたグローバル化を見直して、なるべく地産地消を目指したほうが良いだろう。観光や娯楽も近くの場所で、アウトドア的な楽しみ方をすれば良いと思う。飲食店の利用も最小限度にして、安全な家庭での飲食にしたいものだ。可能な限りリモートでの仕事にして、IT化やAI化を図れば、出社するのも最小限で済む。家庭中心の生活にして、外食や飲酒はなるべく控え、ホストクラブ、キャバクラ、接待を伴う飲食店、性風俗店などは利用しないようにしたい。浪費的な生活を見直し、生産的な働き方をしたいものだ。

 

 そもそも、人間は明るくなると同時に活動し、暗くなる時間には安息と睡眠をするように創られている。本来人間は夜に働いたり活動したりしないものなのだ。深夜帯に飲食することは健康を損なう行為だし、深夜帯に飲食店で働くなんて命を削るようなものである。環境保護の観点からも、夜間の照明や空調の利用を控えれば、エネルギー使用を大幅に削減できる。働き方改革をさらに推し進めて、残業を無くせばよい。一次産業を推進するのも効果がある。マンパワーが足りないのであれば、飲食業やサービス業からの余剰人員を充てて、ワークシェアリングを進めればよいだろう。

 

 環境保護の観点からSDGsを推し進めるのは喫緊の課題である。カーボンフリー社会を目指すのは、我々の共通課題である。ウィズコロナの時代に応じて働き方や生活を革新するのは、まさしくSDGsにとっても必要不可欠のことなのだ。省エネルギーの為にも、深夜帯に働くことを避けたいものである。仕事を午後6時くらいまで終了して、まっすぐ帰宅したら公共交通機関だって、深夜運行は不要となる。働き方のイノベーションをして、家族の触れ合いを大切にすると共に、人間らしい生き方を取り戻してほしい。そうすればコロナは終息する筈だし、SDGsも推進できる。

コロナで学ぶ真の新しい生き方

新型コロナウィルス感染症を抑えるための、新しい生活様式が政府から提唱されている。密接による感染を防ぐためにどうすれば良いか、具体的に示されている。この新しい生活様式に対して、殆どのマスメディアは好意的に扱っているし、批判的な報道をしたのをあまり見かけない。この新しい生活様式に対して疑問を持つのは私だけだろうか。こんな生活様式で、本当にコロナを抑え込めるのだろうか。また、こんな新しい生活様式を国民が実行して、本当に幸福で豊かな暮らしを実現できるのだろうか。

この新しい生活様式というのは、あくまでもコロナが収まるまでの臨時的なものなのであろうか。それともコロナが収束してもしばらく続くのか、実にあいまいである。どうせ新しい生活様式を提案するのであれば、コロナが収まったとしても、これからもずっとこのような感染症の流行が起きないような新しい生活様式を提案するべきではないだろうか。それこそが真の新しい生活様式ではないだろうか。そして、このコロナ感染症をきっかけにして、人間として真の幸福や豊かさを実感できる生活スタイルを目指すべきではないかと思う。

コロナ感染症を予防するうえで大切なことは、密接状態を作らないことである。東京や大阪、名古屋、横浜などの大都市では人口密度が非常に高いのだから、どうしたって密接状態が出来てしまう。満員通勤電車、会社の事務所、飲食店、居酒屋、ライブハウス、スポーツジム、カラオケルーム、バー、キャバレー、クラブ等、どれをとっても狭い部屋に多人数の密接空間が出来てしまう。それも、無理をした部屋割りになり空調が不十分な為に密閉された空間になる。不動産価格が高額になるから借家料金もバカ高く、狭い場所で営業せざるを得ない。

あまりにも都会に人口が集中し過ぎた結果、こんな密接・密集・密閉の三密状態を作り出したのである。いわゆるソーシャルディスタンスを保てない都市空間を生み出している。こんな非人間的な三密状態の中で暮らすことが問題なのではなかろうか。大都会は何でも揃っている。とても便利で快適である。一方、田舎は三密ではないが、不便であるし快適さには程遠い。コンサートやライブもないし、美術館や映画館もない。三ツ星のフレンチレストランもないし、洒落たシティーホテルもない。田舎ではコロナ感染が起きにくいのは当然だ。

この新型コロナウィルス感染は、もしかすると三密状態を避けてソーシャルディスタンスを保てる、ゆったりした生き方の大切さを我々に教えたかったのではあるまいか。大都会、とりわけ東京一極集中というのは、経済的側面だけを考えれば便利だし、快適である。しかし、感染症予防という観点からは、危険な生活だと言える。今後も、新たな感染症が出てこないとも言い切れない。世界的に観ても大都会が、コロナ感染症で大被害を受けたのだ。とすれば、根本的な暮らしそのものの見直しが必要なのではあるまいか。今こそ『田舎暮らし』が求められているような気がする。

緊急事態宣言の解除を受けて、事業自粛要請が取り下げられつつある。レストラン、居酒屋、パチンコ店、ライブハウス、クラブ、接客業などが通常営業になろうとしている。これらの業種や業態は、人々の暮らしに欠かせないものであろうか。そんなことはない、別になくても生きていけるだろう。飲食は、本来家庭でするもの。それがあまりにも便利で手軽なものになり、ついつい外食するようになった。深夜から翌朝まで飲み歩き遊び歩き、不健康な身体になった。そして、不健康な暮らしから免疫力が低下してコロナ感染を起こしたのだ。

そもそも普段食べれないようなご馳走は、ハレの日(特別なお祝いの日)に食べるものだ。外食を日常的にするなんて考えられない。昼食だって、安全な食べ物を摂るなら弁当が基本。また、飲酒もまたハレの日やお祭りの日にたしなむもので、日常的に飲むと身体が蝕まれる。LOHASの生き方をするなら、添加物が入っていない自然素材での自作料理だ。お酒だって少量なら百薬の長であるが、多量に飲んだら毒薬だ。都会での便利で快適な暮らしが、コロナウィルス感染症を生み出したと言っても過言ではない。少しくらい不便でストイックな田舎暮らしにシフトしてみてはどうだろうか。SDGsの観点からも薦められる。

登山は哲学である

登山家の岩崎元朗さんは、「山は哲」という造語を作って、ことあるごとにおっしゃっていた。山を学にしてはならない、あくまでも哲でなくちゃならないと主張されていたらしい。そういう考え方も確かにあると思う。登山を学びにしてしまうと、あまりにも一つの枠に当てはめてしまうことだろう。または、遊び的な要素を無くしてしまい、魅力を無くしてしまう怖れもあると思われる。しかしながら、登山を哲学と呼んでもいいじゃないかと思っている。登山とは、人間の生きる意味を学ぶ場ではないかと思うからである。

古(いにしえ)より山とは神々の住む場所だと考えられていた。さらに仏教においては、山は死後の世界である浄土であると思われてきた。人間が本来は到達することが困難な場所である厳しくて危険な山に登ることで、神や仏に少しでも近づくことが出来ると考えられてきたのであろう。山岳修行や登拝が広く行われてきたのは、日本人にとって山は精神的支柱であり憧れでもあったからだと思う。神と一体になりたいという思いや、生きたままに仏性を持つという即身成仏への願いが、山に登るという行為を神聖なものと考えてきたのかもしれない。

10年以上も公民館のトレッキング教室の登山ガイドを続けさせてもらっている。登山技術や安全登山の知識を生徒さんに伝えているが、山の歴史や哲学についてもレクチャーさせてもらっている。日本人にとって山とは何か?日本において登山が発展してきたのは何故か?歴史的背景を交えながら丁寧に説明している。日本における山とは、本来「お墓」を意味していた。「はやま」という地名が全国各地にあるが、里山を意味していて、そこには霊園があることが多い。青山(あおやま・せいざん)という地名も同じである。亡くなって魂が還る場所である「山」に、お墓を設置したのではないかと思われる。

山があの世(浄土)であるという考え方も多かった。山には、浄土平、賽の河原などの名称が付いている場所がある。山の頂上付近というのはあの世であり、山に登るという行為は一旦この世からあの世に行くという意味もあったのであろう。岩木山、月山、御嶽山、大峰山などの霊峰には、今でも死出の旅に着る白装束で登拝する人が多い。この世で身に付いた穢れ(けがれ)を、一旦あの世に行くことで祓い除け、生まれ変わって清浄な心でこの世に戻ってくるという意味を持つと考えられる。「六根清浄、懺悔、懺悔」と掛け声をかけて登っている。

霊峰に登拝する山岳修行が何故日本に広まったのかというと、厳しい身体的修行をすることが心を磨くことになるという考え方が根底にあったと思われる。精神と身体は密接な関係があり、心を磨くには身体を極限まで苛め抜くことで実現すると考えたらしい。確かに、そういう経験をしたことが何度かある。マインドフルネスや瞑想という心理的療法があるが、厳しくて体力の限界に挑むような登山は、自分と向き合うのに最適である。黙々と目の前の急坂を登っていく時間は、まさにマインドフルネスと言えよう。

山岳修行のような厳しくて危険な登山でなくても、山登りは精神的な鍛錬になることは間違いない。より難しくて体力を使う登山ほど、その効果が大きいと思われる。何故なら、自ら自分を精神的に追い込むような身体の鍛錬が、それを成し遂げた時の達成感や自己肯定感を向上させてくれるからである。ましてや、嫌なことや苦しいことに心折れずに自分から向かっていくチャレンジ精神を養ってくれる。人間の本来持っている自己組織性である、主体性・自発性・自主性を育んでくれると考えられる。しかも、登山は誰にも頼れないし、自分の決断で自己責任を基本として登ることなる。つまり、何かあった際に誰かに責任転嫁をしないという、責任性も生まれる。

最近増加している発達障害やパーソナリティ障害などの精神障害にも、登山は高い効果があると思われる。また、PTSDやパニック障害、うつ病などにもトレッキングは有効である。強いうつ症状がある方に、月山や鳥海山などの登山に連れ出しているうちに、症状がいつの間にか和らいだという体験をしている。子どもたちの健全育成には、トレッキングが最適だと思っている。今度の山の日には、孫たちを山に連れて行く予定をしている。幼い子どもたちには、何度も誉めながら登っている。自己組織性を伸ばすには、自分が認められて評価されることが必要だからである。人間の生きる意味や目指すべき道を探すという哲学をするには、登山が最適だと確信している。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、精神疾患や精神障害の方たちを登山にお連れしています。ひきこもりや不登校の方にも登山ガイドをします。登りながら、山・木々・花・鳥などのいろんな話をさせてもらうと共に、山の哲学についてもレクチャーさせてもらっています。東北の名山や北アルプスなどもご案内いたします。勿論、福島県内の安達太良山、磐梯山、会津駒ケ岳、燧岳などもご案内します。健康な方や子どもさん方もお連れします。問い合わせからご相談ください。

水害被害はある意味で人災である

今回の30年7月の西日本における水害は、多くの地域の方々の人命を奪い、大きな被害をもたらした。亡くなられた方のご冥福を祈ると共に被災された方々にお見舞いを申し上げたい。このような水害が起きる度に思うのであるが、どうしてこんなにも水害が多発するようになったのだろうという漠然とした不思議感である。確かに日本においては過去の歴史でも、幾度となく水害に見舞われた。その度に防災意識の高まりがあり、2度と災害が起きないようにと、避難勧告や指示の徹底及び基準の見直しが行われてきた。しかし、またもやこんな未曽有の被害が起きてしまったのだ。過去の失敗をいつまで繰り返すのであろうか。

このような水害が起きると、こんなにも短期間に豪雨が降るのは、地球温暖化の影響だと言われる。確かに、地球温暖化による影響は大きいであろう。だとしても、これだけ天気予報が正確になり、水害の予測も正確になされているし、治山治水の防災工事も実施されているにも関わらず、これだけの被害を出してしまうというのは、政治の無策ぶりを露呈していると言わざるを得ない。堤防工事や河川改修も進んでいるのに、どうしてあっけなく河川の氾濫が起きるのであろうか。何か、根本的な誤謬があるのではないかと考えるのである。

古来より治山治水を行うのは、時の権力者の責務であった。政治を行うものとして、治山治水の防災対策をしっかりと実施して、人々の安全と財産を守るのは当然のことである。それを怠れば、大変な被害を生み出すし権力者の無力ぶりを世間に示し、権力交代さえ起きてしまうのである。日本という国土は、山が多く川があり、水が豊富なのである。当然、水害は過去にも存在した。それらの水害が起きる度に、二度と起きないようにと対策が講じられてきた。その対策が不十分なのは何故であろうか。

防災対策というのは、その多くが対症療法でしかないように感じる。水害が起きるそもそもの原因を無くす努力をすることなく、付け焼刃のような防災対策で凌いでしまっているように感じて仕方ないのである。川幅を広げたり堤防を強固にしたり工事を進めているし、砂防ダムを設けて土石流を弱めている工事をしている。土砂崩れを防ぐ工事も進めている。しかし、根本的な原因を無くすことはどうなっているのであろうか。どうして、こんなにも過激な豪雨が降るのか、その豪雨がすぐに川の増水につながるのか、さらに土砂が何故こんなにも崩れてしまうのかという根本原因を解決していない。

地球温暖化を防ぐために、炭酸ガスを減少させる努力も必要である。それ以外に、豪雨を防ぐのに役立つのは、緑を増やすことである。それも針葉樹でなくて広葉樹が光合成を活発に行い、二酸化炭素を少なくする。広葉樹がふんだんに茂っている山は、天然のダムになり保水能力が高い。そして豪雨が続くと針葉樹の森は保水が出来なくて、川がすぐに増水するばかりでなく、山崩れを起こしやすい。広葉樹の豊富な森を増やすことで、水害を減らすことになる。土石流の被害も減らすことが可能になるし、土砂が流れにくくなるので川の流れがスムーズになり、溢れにくくなるのである。

広葉樹の森が少なくなっている。日本の森林政策は、杉、檜などの針葉樹を植林する為に、広葉樹を伐採し続けるものだった。大量のパルプを得るために広葉樹を伐採し尽くした。また、スキー場やゴルフ場の造成、無理な宅地造成、不要なスーパー林道や広域農道の造成のために広葉樹を伐採した。このように人工的な造作物を山の斜面を切り崩して作り過ぎたことが、水害と土石流を発生させたとも言える。このような自然の摂理を無視した造成工事が二重の意味で水害被害を起こしたと思われるのである。

縄文時代、豊かな水とそれに伴う自然の恵みを得るために広葉樹を植樹した。勿論、その植林で水害を防ぐことも知っていたと言われている。自分たちの為だけでなく、100年後や500年後の自分たちの子孫が豊かで安全な生活を出来るようにと、豊かな広葉樹の森を作るためにせっせと植林したのである。我々も、縄文人にならって200年後や300年後の子孫たちが、こんな酷い水害に遭わないように、広葉樹の森を作ろうではないか。そして、自然の摂理に反するような無理な造成工事をしないことも心がけたいものである。水害はある意味人災であることを肝に銘じて、LOHASな生き方を志したい。

登山ガイドをさせてもらう喜び

10年近く、地元の公民館で登山ガイドをさせてもらっている。その他、個人的なガイドをボランティアでさせてもらう機会も多数ある。登山ガイドの役目は、先ずは安全で確実な登山を利用者に体験してもらうことであろう。登山客の安全対策には、特に責任がある。無事に登って下りてくるまで、登山客の生命と体調を守る責任がある。それ以上に気を遣うのは、山登りの喜びをどのように感じてもらうかでもある。

登山客の満足度をどう高めるに苦心している。勿論、満足度を高めるために無理をさせて安全が疎かにするようなことはけっしてない。登山において、何よりも安全が最優先なのは当然である。そのうえで、登山の楽しみや喜びを感じてもらい、また登りたいなと思えるようにガイドをさせてもらっている。そして、登山客から今日は本当に楽しかったと笑顔で言ってもらった時の言葉が、登山ガイドとしての至上の喜びになる。

登山ガイドは、安全登山の仕方や疲れない歩き方、登山中の体調管理などについて登山客に伝授する。樹々や花々の名前、鳥の鳴き声や動物の生態についても説明する。登る山の説明や歴史についても、説明することもあろう。登山ガイドは、それらの事前調査も実施して、登山客に詳しく話をさせてもらうのである。普通なら、ここまですれば登山ガイドとして合格点であろうと思う。しかし、私はそれでは飽き足らず、もっといろんな話をさせてもらっている。

一昨日、地元の公民館のトレッキング教室があり、15人の生徒を茨城県の最高峰八溝山にお連れしてきた。バスの中で、安全登山の基本的な考え方を伝える為に、エベレストの登山歴史と栗城史多氏の遭難事故について話をさせてもらった。ヒラリー卿の談話やG・マロリーの「ここに山があるから」という有名な言葉と本当の意味も説明した。単独無酸素登頂がとんでもなく難しく、今まではたった一人の登山家しか成功したことがないこと。その登山家ラインホルト・メスナー氏の人となり、そして登山スタイルにも言及した。

G・マロリーはヒラリー卿よりも前に、3度もエベレスト登頂に挑戦している。そして、3度目の挑戦で還らぬ人になった。でも、もしかすると登頂に成功した後に、下山中に滑落したのではないかと見られている。それに対してヒラリー卿は、登山というのは登って無事に戻ってきてこそ、登頂に成功したと言えるのだと断言している。登山と言うのは、ある程度の危険性はあるものの、何よりも生命の尊重を最優先させるというのが基本だと言っていた。ラインホルト・メスナーも、最愛の弟であるギュンターを同行した登山で失っているからこそ、生命の尊重を何よりも大事にしたのだ。

こんな話をしながら、安全登山の基本的な理念を話させてもらった。また、登山における自然保護や環境保護についても言及した。さらに、今の時期に見られるヤマボウシの花についても説明した。ヤマボウシは漢字表記だと山法師となる。山法師とは、比叡山の僧兵のことを指す。僧兵の白い頭巾が、ヤマボウシの花びらと酷似していることから命名されたと伝えられている。このように、花の名前の由来についても詳しく説明することが多い。そのほうが、花の名前を憶えやすいし、花に対する親近感が湧いて、より大好きになると思うからである。カエデという名前が『蛙手』からということや、英語でメイプルと言って、メイプルシロップがその樹液から作られることも説明してあげた。

普通の登山ガイドならば、これぐらいの知識はあるので説明することもあろう。しかし、ここからが自分にしか出来ない話だと思う。山法師と言えば、平家物語の第一巻にこんな記述があるという。白河法皇の「鴨川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心の思うにならぬもの」という言葉である。白河法皇は、自分の子どもと孫を天皇に据えて、本格的な院政を日本で初めて敷いた人物である。絶大な権力を持ってしても、日吉山王大社の神輿をかついで強訴する山法師(比叡山の僧兵)に手を焼いていた。それを北面の武士として平家の武士を宛てて、警護させたのである。これが平家の政権掌握のきっかけになったのである。

こんなことまで、登山の話とは違うから聞きたくないと思う人もいるかもしれない。しかし、こういう話は皆さん初めて聞いたと驚いていらしたし、元校長先生の引率者も北面の武士という言葉は聞いているが、そういう歴史背景があることまでは知らなかったとびっくりされていた。歴史も、こういうストーリー性のある話ならば、みんなが好きになるに違いない。このように歴史や登山の哲学の話を含めて、様々なことを説明してもらっている。これが登山客の喜びであると同時に、自分としてもガイドする大きな喜びでもある。

 

※イスキアの郷しらかわでは、登山ガイドをしています。ガイド料は特別頂いていません。交通費の実費だけか体験料(1500円)だけの費用です。樹々や花々の名前や由来、それらの背景や歴史なども詳しく説明しています。クマガイソウやアツモリソウの名前の由来と源平合戦における平敦盛と熊谷直実の「須磨の浦での対決」、山吹の花と太田道灌に関わる短歌の話、などいろんな話をさせてもらいます。特に、登山の哲学についてご興味がある方には、ご満足いただけると思います。登山ガイドの申し込みやご相談は、問い合わせフォームからお願いします。

神に許されないと登れない山

8度目のエベレスト登頂挑戦で、登山家栗城史多氏は還らぬ人になってしまった。彼の冒険を応援し、登頂成功を楽しみにしていた人も多い筈だ。彼を賞賛する人もいれば、無謀だと非難する人もいる。彼の登山技術のレベルから見ると、成功する確率は極めて低かったとする専門家が多い。一般受けはするが、専門家からは冷ややかな目で見られることが多かったらしい。彼を無茶な挑戦に向かわせて死なせてしまったのは、彼を大々的に取り上げたTV局や支援者ではないかという皮肉な感想が多いのも注目されている。

亡くなった後からそのように非難されるのは、あまりにも栗城氏が可哀想である。どうして彼の無謀な挑戦を止めてあげられる友人がいなかったのだろうか。直接インタビューをして、エベレストの単独無酸素登頂、それも難しい北壁ルートは断念するよう促した登山家もいたらしい。彼は、ルートは変更したものの、敢えて難しい登頂ルートを選択したみたいである。単独登頂という言葉を非常に気にしていたらしく、通常ルートではどうしても既設のロープや梯子を使わなければならず、それだと単独登頂にならなくて、ニュースバリューが低くなったからではないだろうか。

世界で初めてとか、単独無酸素登頂とかいうのは、ニュースになるかどうかという点で、栗城氏にとってはとても価値のあるものであったに違いない。彼は、冒険の共有という言葉を好んで使っていた。チャレンジャーとしての価値を高めるには、非常に困難なことを成し遂げる必要があるし、TVの視聴率を上げるためには何が大事なのかということが、彼の無謀な挑戦を後押ししてしまったように思える。まだこれからという若い命を、マスメディアやTV界、または芸能プロによって奪われてしまったと言っても過言ではあるまい。

世界で初めてエベレストを登頂したのはヒラリー卿だと言われている。無事に戻ってきて、その偉業を証明したのは彼だと言わざるを得ない。もしかすると、G・マロリーが登頂に成功して、その下山途中に遭難したかもしれないとも言われている。夢枕獏が著した『神々の山嶺』にそのエピソードが載っている。彼の所有していたコダックというカメラさえ見つかれば、それが証明できるかもしれない。『そこに山があるから』という著名な言葉を残した山岳家として、つとに有名だ。

しかし、この言葉は間違って伝わっているらしい。彼が2度のエベレスト登頂に失敗して、3度目の挑戦をする前に、ニューヨークタイムズの記者に「どうして、そんなにエベレスト登頂にこだわるのですか」と問われ、「それだからです」と答えたらしい。つまり、エベレストだから、その山に挑戦するんだと答えたのである。日本では、そのやりとりが「そこに山があるからだ」と意訳されたらしい。G・マロリーは三度目の挑戦でも失敗して、帰らぬ人となる。エベレストは神の山であり、神に許された人しか登れないのかもしれない。

単独無酸素でエベレストに登った登山家が、たった一人いる。イタリアのラインホルト・メスナーがその人だ。何故エベレストの無酸素単独登頂を選んだのかと言うと、ひとつは環境保全のためである。山は自然のままにあるべきだという考えをメスナーは持っている。ボルト一本でさえ山に残すべきでないし、ましてや酸素ボンベを山に置き去りにするなんて許せないと思っている。なるべく環境に負荷をかけない登山をするべきだと、敢えて単独無酸素の登頂に挑戦して成功した。彼が単独無酸素の登頂を選んだ理由がもうひとつある。エベレストは神の住む山である。長く滞在することは、神の意志に背くことだと、何よりも素早い登山を心掛けたのである。驚異的とも言えるスピードで登り下った。たった三日間という異常な速さで登山し終えたのである。

8000メートルを超える山の酸素濃度は、平地の3分の1になる。普通の人は、酸素ボンベなしでは行動できない。エベレストが神の領域と呼ばれるのは、この酸素濃度があるからだ。神々しか住めないし、普通の人は酸素なしでは長く留まれない。ラインホルト・メスナーは、8000メートル以上の領域において無酸素では長く生きれないと分かっていたから、敢えて登って下りる時間を極力少なくしようと考えたのである。ボルトを打つ時間も惜しかったに違いない。彼の登山する姿の映像を見たことがある。急坂を走るように登っていた。普段から、とんでもないスピードで登山する訓練をしていた。フリークライミングも驚異的な速度であったという。神に登ることを許されたメスナーは、単独無酸素でのエベレスト登頂をなしとげた。栗城史多氏は、神になり切れなかったのであろう。謹んでご冥福を祈りたい。

自然体験は心を癒す

自然体験は心を癒してくれると言われている。だから、心の癒しを求めてグリーンツーリズムを楽しむ人が増えている。グリーンツーリズムにおける自然体験というと、ハイキングやトレッキングが主となる。または簡単な自然観察もあるし、本格的な重登山もある。グリーンツーリズムにおける自然体験はハイキング程度が多いと思われる。近くの野や山をハイキングすることで、疲れて折れてしまった心が癒されるのであろう。

自然体験がどうして心を癒すことに繋がるのであろうか。まずは、都会の喧騒、または職場のストレス、さらには家庭も含めた人間関係に疲れ切った心が、まったく別の環境に置かれることによる効果ではなかろうか。自然が豊かな環境は、普段は体験できないものである。いつもと違う環境で、何もかも忘れさせてくれる雄大な自然によって、人間の心は癒されるに違いない。人工物に囲まれた空間ではありえない、普段と違う景色、匂い、風、音、ゆらぎによって癒されるのではないだろうか。

自然の中にある樹々がフィトンチッドという物質を出していて、そのフィトンチッドによって自律神経が正常になるとも言われている。都会のストレスフルな生活は、自律神経の交感神経をあまりにも優位にしてしまう。そうすると、コルチゾールというステロイドホルモンが分泌されて、緊張状態に置かれてしまい高血圧や心拍数過多の状態になる。フィトンチッドは自律神経の副交感神経を活性化させて、調整してくれる働きを持つと言われている。森林浴をすることにより、このフィトンチッドを浴びて、心を癒す効果が出てくる。

現代の仕事は、デスクワークやパソコン業務が主となる。営業の紹介資料や報告資料作りが主となるし、企画書や提案書の作成は勿論PC作業となる。工場における品質管理や製造・出荷管理もすべてPCで管理している。仕事中は殆ど歩かないし、ましてや力作業なんて殆どない。グリーンツーリズムにおける自然体験のハイキングは、運動不足の身体にぴったりである。豊かな自然の中を歩くという運動が、血流などの体内循環を促進し、停滞している心を動かすことで、癒しの効果が出ると思われる。

自然をよく観察していると見えてくるものがある。美しい花々や樹々を観察し、可愛らしい小鳥や小動物を見ることが多い。花々を見ていると、野の花は清楚で可憐な姿に感動する。樹々の葉、枝、幹の美しさと不思議さに目を奪われる。そして、丁寧に観察すればするほど気付くことがある。同じ花や葉っぱがひとつとしてないのだ。みんな違っているのである。これが、生物の多様性なのである。どれも同じ花に見えるが、よくよく観察するとどこか少し違うのである。

生物の多様性というのは、何故あるのだろうか。例えば、同じ時期に芽生え花が咲いて散るのであれば、突然の天候変動があれば、種の全体が死滅する。突然の天候変動にも、その環境に強い植物があれば生き残ることが出来る。種の保存のために、違いがあるのではなかろうか。人間も、みんな違っているというのは、ひとつは種の保存のためにあるのは間違いない。人間の姿がそれぞれ違っていることで、相手と自分を特定できる。皆が同じだったら、判別できないのである。違っているからこそ相手と自分の相違点を発見し、自分の自己成長が可能になるのだ。相手に嫌な部分を発見すれば、そうならないようにしようと努力するし、良い点を見つけたら自分もそうなりたいと思う。こうして、違いがあるからこそ人間が進化してきたのである。自分が周りの人々と違っていても怖れることがないのだと悟り、安心して心が癒される。

自然体験は、さらなる学びや気付きを与えてくれる。自然とは、我々人間の力ではどうにもならないものである。人間なんて自然の猛威の中では無力なのである。自然を支配し制御することなんて、所詮無理なんだということを自然の中にいると気付く。世の中には、このように人間の努力や悪あがきが通じないものがあり、流れに身を任せるしかないことがあることを認識するのである。雄大な自然の中にいると、自分の存在なんて実にちっほけなものだということも実感する。だから、自分の悩みなんてこの地球全体から見たら、ほんの米粒みたいなものだということを体感するのである。誰かを支配しよう、誰かを制御しようとする愚かさを知り、自分の悩み・苦しみがちっぽけだということを知る。だから、自然体験は私たちに多くの学び・気付きを与え、不安から遠ざけて心を癒してくれるのである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、いろんな自然体験メニューを用意しています。そして、自然体験をしながら、いろんな話をさせてもらっています。生物の多様性、自然の前での無力さ、自然の雄大さと自分の悩み、自然観察で気付くセンス・オブ・ワンダーなど、自然の中を歩きながらのレクチャーは机上とは違った深い学びがあります。問い合わせフォームからご相談ください。

グリーンツーリズムが心を癒す訳

グリーンツーリズムの発祥はヨーロッパだとされている。グリーンツーリズムとは、農業体験や自然体験を中心にする滞在型の旅行である。それは、18世紀のフランスの貴族社会に始まったらしい。貴族の城がある敷地内の一角に農家と農地を作り、貴族がその農家に寝泊まりして、農業を楽しんだのがグリーンツーリズムの始まりとされている説もある。貴族の間では、このグリーンツーリズムが大流行して、多くの貴族が体験していたと言われている。あのマリーアントワネット王妃さえも、グリーンツーリズムを体験していたというから驚きだ。

貴族の仕事は何もなくて、毎日舞踏会を開いて遊んでいたかというとそうではなかったようである。軍人として軍務に励んでいた貴族もいたし、医師や教授をしていた貴族も存在していたし、領地における農業経営をしていた貴族も少なくなかったと伝えられる。つまり、きちんと仕事をして給料を得たり農業経営などで収入を得ていたりしたらしい。かなり真面目に仕事をしないと、広大な領地や城と敷地を管理できなかったということである。さらに、貴族として公的行事への参加も要請されていて、相当に忙しかったらしい。

したがって多くの貴族が、かなりのプレッシャーにより押しつぶされそうになっていたと言われている。仕事と社会活動におけるストレスも、半端なかったということであろう。また、貴族にはノブレス・オブリージュというものがあった。ノブレス・オブリージュとは、貴族としての社会責任のことである。言い変えると、特権階級である貴族は、地域市民に対して社会貢献をするべきだという慣習があったのである。このノブレス・オブリージュの活動も、かなり負担であり、超多忙の生活を送ったことであろう。

こんなに多忙でストレスフルな生活は、貴族の心を疲れさせ折れさせてしまっていたのではないかと想像する。勿論、ストレス解消のために、スポーツや芸術活動は盛んだったと思われるが、残念ながらそれではストレスの完全解消は出来なかったのであろう。それで目を付けたのがグリーンツーリズムである。自分の城から出るのは危険なので、自分の城の敷地内に粗末な農家を建てたのである。その農家に宿泊して、農民のような質素な生活をしたと伝えられている。これでストレス解消をして、通常の業務を頑張れたと思われる。

農業がどうして貴族の心を癒してくれたのかというと、それは農業独自のヒーリング効果があるからに違いない。心を癒してくれるのは、農業しかなかったのである。農業というのは、人々が食べる物を生産する産業である。貴族がやっていたのは大規模生産農家ではなくて、自分の食べるものを細々と作ったものであろう。まさしく手作りで、愛情を込めながら農産物を生産していたと思われる。心を込めて美味しい野菜作りをしている間、嫌なことも何もかも忘れて農業に専念していたに違いない。つまり、野菜作りがマインドフルネスになっていたのである。

農業がマインドフルネスの効果があるのは、農産物生産の難しさにある。農業というのは、かなりの技術や経験を要する。その年により天候も違うし、微妙な土の中に住む微生物やPHなどの条件にも影響される。これらのことをすべて総合的に判断しながら農産物作りをするのだから、他の事を考える余地がないのである。ましてや、良い野菜が出来るかどうかをいつも気にすることになる。そして、自分の望む農産物が出来て、収穫した時の喜びは何にも替えることのできない大きな喜びである。さらに、自分で作った農産物を自分で味わうことは無上の喜びであり、至福の食卓であったことだろう。

農業の基本は土作りにある。丹精を込めて肥沃な土壌づくりをするのだが、当然土に素手で触れることになり。土というのは、大地のエネルギーが豊富に蓄積されている。土に含まれるエネルギーが、愛情を込めて土をいじる人の体内に取り込まれるのは当然である。幼児が泥いじりや砂遊びが大好きなのは、同じ理由からである。したがって、土に触れることで、折れてしまった貴族の心が癒されたのである。また、農業は自分の力ではどうにもならないことがある。天候不順や天変地異が常に影響を受ける。特権階級の貴族は、権力や権威があるから、領民や使用人を自分の思いのままになる。しかし、農業によって意のままにならない難しさと、どうにもならないことがあるということを思い知らされる。これが人間を大きく成長させるし、自分で抱えているストレスが自分の起こしていることだと知り、これもストレスを乗り越えるヒントにもなるのだ。貴族が農業を愛した理由がここにある。

 

※イスキアの郷しらかわで、農業体験をしながら心を癒しませんか。それぞれの季節により、いろんな農業体験ができます。米作りや野菜の生産を土づくりから体験できます。自分で作った野菜を自分で料理して食べることは勿論、持ち帰りもできます。ヒーリング効果の高い農業を一緒にしてみませんか。有機栽培の研修も可能です。問い合わせフォームでお願いします。

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダーという言葉がある。『沈黙の春』という環境問題を世界で最初に提言した本を著したレイチェル・カーソンが提唱した言葉だ。同名で本にもなっているし、ドキュメンタリー映画もある。日本語に訳すると、「驚きの感性」となる。何のことだか解りにくいが、自然体験においては基本となる感性である。自然を深く観察していると、驚くような景観、植物、動物などの目を見張るような美しさに出会うことがある。その際に、センス・オブ・ワンダーがないと何も感じないし、素通りしてしまうというのである。

センス・オブ・ワンダーというのは、自然体験をする際にはなくてはならない大切な感性だと彼女は言っている。何故ならば、同じ美しい花を見ても豊かな感性を持つ人と持たない人では感じ方が違うからである。登山道の傍らに咲いている可愛らしい花を見ても、感性を持たない人は見過ごしてしまう。豊かな感性を持つ人は、誰も気づかないような小さな花を見つけて心が動き、じっと見つめてその美しさを愛でる。名前も知らない路傍の花にも感動するような感受性が必要であると言っている。

レイチェル・カーソンという女性は、沈黙の春という著書で農薬使用の危険性について述べている。農薬というのは、自然界の動植物を壊滅させてしまうリスクを持つ。農薬によって小鳥たちが死滅してしまい、春がやってきても小鳥のさえずりが聞こえなくなり、もはやサイレントスプリング(沈黙の春)になってしまったと嘆いている。彼女の農薬の過剰使用についての提言は、多くの環境保護活動家を生み出した。世界の環境保護活動は、彼女の著作から始まったと言っても過言ではない。

そんなレイチェル・カーソンは、自然をこよなく愛していた。彼女は自然が豊かな場所に家を持って、家の回りの野原をいつも散策していたらしい。彼女は結婚もせず、子どもがいなかったという。時折、甥が訪ねてきて、彼と一緒に自然の中を散策していた。自然の中に咲いている花々やさえずる小鳥たちの美しさを、甥と共に楽しんでいたのである。その際に、センス・オブ・ワンダーという驚きの感性こそが必要だと言うのである。それを持っていないと、美しいものを美しいと感じないからだという。

美しいものを美しいと感じることがなければ、逆に醜いものや汚いものを見分けることも出来なくなる。ということは、大人になってから醜いものや汚いものを判別できなくなるから、そのような詰まらないものに心を奪われてしまう危険性を持つのである。レイチェル・カーソンは、大人になって過剰な欲望や本能に心を惑わされ、人間として生きるべき本質から遠ざかってしまうのは、このセンス・オブ・ワンダーが育っていないからだと言い切っている。心が疲れて折れてしまい、生きる気力を失ってしまうのも、この驚きの感性が乏しいからだと言うのである。

このセンス・オブ・ワンダーが子どもの心に芽生えるには、ただ自然体験をすればよい訳ではないと説いている。その自然体験に際して、傍らにこのセンス・オブ・ワンダーを発揮できる大人が必要だと言うのである。自然体験をする子どもたちの傍に付いていて、路傍の何気ない花の美しさに驚き、心から感動することが肝要らしい。その際、花の美しさをどのように表現するのかも大事である。ただ単に美しいと言うのではなく、何故美しいと感じるのか、美しさをどのように表現するのかが大切だと説いている。傍らにいる大人が、心が打ち震えるほどの感動をして、それが身体いっぱいに溢れるほどの表現をして、子どもの心にも響かせなくてはならないのである。

登山ガイドや自然ガイドをしている人は沢山いる。しかし、このセンス・オブ・ワンダーをこよなく発揮している人はどれだけいるだろうか。子どもたちに、センス・オブ・ワンダーの感性を育むことが出来るガイドは、そんなに多くはない筈である。まずは、自分が自然に接した時にどれほどの感動が出来るのかということと、それを子どもの心に大きく響くような豊かな表現を出来るかどうかが重要である。子どもに単に美しさを伝えるだけでなく、それが何故美しいのか、美しい心というのはどういうものかを豊かな表現力で、しかも物語性を持たせながら伝える必要があるのだ。このレベルまで子どもたちの感性を育める自然ガイドを、選びたいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、センス・オブ・ワンダーを育める自然ガイドと登山ガイドをさせてもらっています。子どものうちであればこの驚きの感性を育成しやすいのですが、若者になってからでもこの感受性を豊かに育むことも可能です。心が疲れて折れてしまわれた方は、このセンス・オブ・ワンダーを取り戻すために、いらしてみてください。自然体験をご一緒しましょう。経験豊かな自然・登山ガイドのプロが案内します。