水害被害はある意味で人災である

今回の30年7月の西日本における水害は、多くの地域の方々の人命を奪い、大きな被害をもたらした。亡くなられた方のご冥福を祈ると共に被災された方々にお見舞いを申し上げたい。このような水害が起きる度に思うのであるが、どうしてこんなにも水害が多発するようになったのだろうという漠然とした不思議感である。確かに日本においては過去の歴史でも、幾度となく水害に見舞われた。その度に防災意識の高まりがあり、2度と災害が起きないようにと、避難勧告や指示の徹底及び基準の見直しが行われてきた。しかし、またもやこんな未曽有の被害が起きてしまったのだ。過去の失敗をいつまで繰り返すのであろうか。

このような水害が起きると、こんなにも短期間に豪雨が降るのは、地球温暖化の影響だと言われる。確かに、地球温暖化による影響は大きいであろう。だとしても、これだけ天気予報が正確になり、水害の予測も正確になされているし、治山治水の防災工事も実施されているにも関わらず、これだけの被害を出してしまうというのは、政治の無策ぶりを露呈していると言わざるを得ない。堤防工事や河川改修も進んでいるのに、どうしてあっけなく河川の氾濫が起きるのであろうか。何か、根本的な誤謬があるのではないかと考えるのである。

古来より治山治水を行うのは、時の権力者の責務であった。政治を行うものとして、治山治水の防災対策をしっかりと実施して、人々の安全と財産を守るのは当然のことである。それを怠れば、大変な被害を生み出すし権力者の無力ぶりを世間に示し、権力交代さえ起きてしまうのである。日本という国土は、山が多く川があり、水が豊富なのである。当然、水害は過去にも存在した。それらの水害が起きる度に、二度と起きないようにと対策が講じられてきた。その対策が不十分なのは何故であろうか。

防災対策というのは、その多くが対症療法でしかないように感じる。水害が起きるそもそもの原因を無くす努力をすることなく、付け焼刃のような防災対策で凌いでしまっているように感じて仕方ないのである。川幅を広げたり堤防を強固にしたり工事を進めているし、砂防ダムを設けて土石流を弱めている工事をしている。土砂崩れを防ぐ工事も進めている。しかし、根本的な原因を無くすことはどうなっているのであろうか。どうして、こんなにも過激な豪雨が降るのか、その豪雨がすぐに川の増水につながるのか、さらに土砂が何故こんなにも崩れてしまうのかという根本原因を解決していない。

地球温暖化を防ぐために、炭酸ガスを減少させる努力も必要である。それ以外に、豪雨を防ぐのに役立つのは、緑を増やすことである。それも針葉樹でなくて広葉樹が光合成を活発に行い、二酸化炭素を少なくする。広葉樹がふんだんに茂っている山は、天然のダムになり保水能力が高い。そして豪雨が続くと針葉樹の森は保水が出来なくて、川がすぐに増水するばかりでなく、山崩れを起こしやすい。広葉樹の豊富な森を増やすことで、水害を減らすことになる。土石流の被害も減らすことが可能になるし、土砂が流れにくくなるので川の流れがスムーズになり、溢れにくくなるのである。

広葉樹の森が少なくなっている。日本の森林政策は、杉、檜などの針葉樹を植林する為に、広葉樹を伐採し続けるものだった。大量のパルプを得るために広葉樹を伐採し尽くした。また、スキー場やゴルフ場の造成、無理な宅地造成、不要なスーパー林道や広域農道の造成のために広葉樹を伐採した。このように人工的な造作物を山の斜面を切り崩して作り過ぎたことが、水害と土石流を発生させたとも言える。このような自然の摂理を無視した造成工事が二重の意味で水害被害を起こしたと思われるのである。

縄文時代、豊かな水とそれに伴う自然の恵みを得るために広葉樹を植樹した。勿論、その植林で水害を防ぐことも知っていたと言われている。自分たちの為だけでなく、100年後や500年後の自分たちの子孫が豊かで安全な生活を出来るようにと、豊かな広葉樹の森を作るためにせっせと植林したのである。我々も、縄文人にならって200年後や300年後の子孫たちが、こんな酷い水害に遭わないように、広葉樹の森を作ろうではないか。そして、自然の摂理に反するような無理な造成工事をしないことも心がけたいものである。水害はある意味人災であることを肝に銘じて、LOHASな生き方を志したい。

登山ガイドをさせてもらう喜び

10年近く、地元の公民館で登山ガイドをさせてもらっている。その他、個人的なガイドをボランティアでさせてもらう機会も多数ある。登山ガイドの役目は、先ずは安全で確実な登山を利用者に体験してもらうことであろう。登山客の安全対策には、特に責任がある。無事に登って下りてくるまで、登山客の生命と体調を守る責任がある。それ以上に気を遣うのは、山登りの喜びをどのように感じてもらうかでもある。

登山客の満足度をどう高めるに苦心している。勿論、満足度を高めるために無理をさせて安全が疎かにするようなことはけっしてない。登山において、何よりも安全が最優先なのは当然である。そのうえで、登山の楽しみや喜びを感じてもらい、また登りたいなと思えるようにガイドをさせてもらっている。そして、登山客から今日は本当に楽しかったと笑顔で言ってもらった時の言葉が、登山ガイドとしての至上の喜びになる。

登山ガイドは、安全登山の仕方や疲れない歩き方、登山中の体調管理などについて登山客に伝授する。樹々や花々の名前、鳥の鳴き声や動物の生態についても説明する。登る山の説明や歴史についても、説明することもあろう。登山ガイドは、それらの事前調査も実施して、登山客に詳しく話をさせてもらうのである。普通なら、ここまですれば登山ガイドとして合格点であろうと思う。しかし、私はそれでは飽き足らず、もっといろんな話をさせてもらっている。

一昨日、地元の公民館のトレッキング教室があり、15人の生徒を茨城県の最高峰八溝山にお連れしてきた。バスの中で、安全登山の基本的な考え方を伝える為に、エベレストの登山歴史と栗城史多氏の遭難事故について話をさせてもらった。ヒラリー卿の談話やG・マロリーの「ここに山があるから」という有名な言葉と本当の意味も説明した。単独無酸素登頂がとんでもなく難しく、今まではたった一人の登山家しか成功したことがないこと。その登山家ラインホルト・メスナー氏の人となり、そして登山スタイルにも言及した。

G・マロリーはヒラリー卿よりも前に、3度もエベレスト登頂に挑戦している。そして、3度目の挑戦で還らぬ人になった。でも、もしかすると登頂に成功した後に、下山中に滑落したのではないかと見られている。それに対してヒラリー卿は、登山というのは登って無事に戻ってきてこそ、登頂に成功したと言えるのだと断言している。登山と言うのは、ある程度の危険性はあるものの、何よりも生命の尊重を最優先させるというのが基本だと言っていた。ラインホルト・メスナーも、最愛の弟であるギュンターを同行した登山で失っているからこそ、生命の尊重を何よりも大事にしたのだ。

こんな話をしながら、安全登山の基本的な理念を話させてもらった。また、登山における自然保護や環境保護についても言及した。さらに、今の時期に見られるヤマボウシの花についても説明した。ヤマボウシは漢字表記だと山法師となる。山法師とは、比叡山の僧兵のことを指す。僧兵の白い頭巾が、ヤマボウシの花びらと酷似していることから命名されたと伝えられている。このように、花の名前の由来についても詳しく説明することが多い。そのほうが、花の名前を憶えやすいし、花に対する親近感が湧いて、より大好きになると思うからである。カエデという名前が『蛙手』からということや、英語でメイプルと言って、メイプルシロップがその樹液から作られることも説明してあげた。

普通の登山ガイドならば、これぐらいの知識はあるので説明することもあろう。しかし、ここからが自分にしか出来ない話だと思う。山法師と言えば、平家物語の第一巻にこんな記述があるという。白河法皇の「鴨川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心の思うにならぬもの」という言葉である。白河法皇は、自分の子どもと孫を天皇に据えて、本格的な院政を日本で初めて敷いた人物である。絶大な権力を持ってしても、日吉山王大社の神輿をかついで強訴する山法師(比叡山の僧兵)に手を焼いていた。それを北面の武士として平家の武士を宛てて、警護させたのである。これが平家の政権掌握のきっかけになったのである。

こんなことまで、登山の話とは違うから聞きたくないと思う人もいるかもしれない。しかし、こういう話は皆さん初めて聞いたと驚いていらしたし、元校長先生の引率者も北面の武士という言葉は聞いているが、そういう歴史背景があることまでは知らなかったとびっくりされていた。歴史も、こういうストーリー性のある話ならば、みんなが好きになるに違いない。このように歴史や登山の哲学の話を含めて、様々なことを説明してもらっている。これが登山客の喜びであると同時に、自分としてもガイドする大きな喜びでもある。

 

※イスキアの郷しらかわでは、登山ガイドをしています。ガイド料は特別頂いていません。交通費の実費だけか体験料(1500円)だけの費用です。樹々や花々の名前や由来、それらの背景や歴史なども詳しく説明しています。クマガイソウやアツモリソウの名前の由来と源平合戦における平敦盛と熊谷直実の「須磨の浦での対決」、山吹の花と太田道灌に関わる短歌の話、などいろんな話をさせてもらいます。特に、登山の哲学についてご興味がある方には、ご満足いただけると思います。登山ガイドの申し込みやご相談は、問い合わせフォームからお願いします。

神に許されないと登れない山

8度目のエベレスト登頂挑戦で、登山家栗城史多氏は還らぬ人になってしまった。彼の冒険を応援し、登頂成功を楽しみにしていた人も多い筈だ。彼を賞賛する人もいれば、無謀だと非難する人もいる。彼の登山技術のレベルから見ると、成功する確率は極めて低かったとする専門家が多い。一般受けはするが、専門家からは冷ややかな目で見られることが多かったらしい。彼を無茶な挑戦に向かわせて死なせてしまったのは、彼を大々的に取り上げたTV局や支援者ではないかという皮肉な感想が多いのも注目されている。

亡くなった後からそのように非難されるのは、あまりにも栗城氏が可哀想である。どうして彼の無謀な挑戦を止めてあげられる友人がいなかったのだろうか。直接インタビューをして、エベレストの単独無酸素登頂、それも難しい北壁ルートは断念するよう促した登山家もいたらしい。彼は、ルートは変更したものの、敢えて難しい登頂ルートを選択したみたいである。単独登頂という言葉を非常に気にしていたらしく、通常ルートではどうしても既設のロープや梯子を使わなければならず、それだと単独登頂にならなくて、ニュースバリューが低くなったからではないだろうか。

世界で初めてとか、単独無酸素登頂とかいうのは、ニュースになるかどうかという点で、栗城氏にとってはとても価値のあるものであったに違いない。彼は、冒険の共有という言葉を好んで使っていた。チャレンジャーとしての価値を高めるには、非常に困難なことを成し遂げる必要があるし、TVの視聴率を上げるためには何が大事なのかということが、彼の無謀な挑戦を後押ししてしまったように思える。まだこれからという若い命を、マスメディアやTV界、または芸能プロによって奪われてしまったと言っても過言ではあるまい。

世界で初めてエベレストを登頂したのはヒラリー卿だと言われている。無事に戻ってきて、その偉業を証明したのは彼だと言わざるを得ない。もしかすると、G・マロリーが登頂に成功して、その下山途中に遭難したかもしれないとも言われている。夢枕獏が著した『神々の山嶺』にそのエピソードが載っている。彼の所有していたコダックというカメラさえ見つかれば、それが証明できるかもしれない。『そこに山があるから』という著名な言葉を残した山岳家として、つとに有名だ。

しかし、この言葉は間違って伝わっているらしい。彼が2度のエベレスト登頂に失敗して、3度目の挑戦をする前に、ニューヨークタイムズの記者に「どうして、そんなにエベレスト登頂にこだわるのですか」と問われ、「それだからです」と答えたらしい。つまり、エベレストだから、その山に挑戦するんだと答えたのである。日本では、そのやりとりが「そこに山があるからだ」と意訳されたらしい。G・マロリーは三度目の挑戦でも失敗して、帰らぬ人となる。エベレストは神の山であり、神に許された人しか登れないのかもしれない。

単独無酸素でエベレストに登った登山家が、たった一人いる。イタリアのラインホルト・メスナーがその人だ。何故エベレストの無酸素単独登頂を選んだのかと言うと、ひとつは環境保全のためである。山は自然のままにあるべきだという考えをメスナーは持っている。ボルト一本でさえ山に残すべきでないし、ましてや酸素ボンベを山に置き去りにするなんて許せないと思っている。なるべく環境に負荷をかけない登山をするべきだと、敢えて単独無酸素の登頂に挑戦して成功した。彼が単独無酸素の登頂を選んだ理由がもうひとつある。エベレストは神の住む山である。長く滞在することは、神の意志に背くことだと、何よりも素早い登山を心掛けたのである。驚異的とも言えるスピードで登り下った。たった三日間という異常な速さで登山し終えたのである。

8000メートルを超える山の酸素濃度は、平地の3分の1になる。普通の人は、酸素ボンベなしでは行動できない。エベレストが神の領域と呼ばれるのは、この酸素濃度があるからだ。神々しか住めないし、普通の人は酸素なしでは長く留まれない。ラインホルト・メスナーは、8000メートル以上の領域において無酸素では長く生きれないと分かっていたから、敢えて登って下りる時間を極力少なくしようと考えたのである。ボルトを打つ時間も惜しかったに違いない。彼の登山する姿の映像を見たことがある。急坂を走るように登っていた。普段から、とんでもないスピードで登山する訓練をしていた。フリークライミングも驚異的な速度であったという。神に登ることを許されたメスナーは、単独無酸素でのエベレスト登頂をなしとげた。栗城史多氏は、神になり切れなかったのであろう。謹んでご冥福を祈りたい。

自然体験は心を癒す

自然体験は心を癒してくれると言われている。だから、心の癒しを求めてグリーンツーリズムを楽しむ人が増えている。グリーンツーリズムにおける自然体験というと、ハイキングやトレッキングが主となる。または簡単な自然観察もあるし、本格的な重登山もある。グリーンツーリズムにおける自然体験はハイキング程度が多いと思われる。近くの野や山をハイキングすることで、疲れて折れてしまった心が癒されるのであろう。

自然体験がどうして心を癒すことに繋がるのであろうか。まずは、都会の喧騒、または職場のストレス、さらには家庭も含めた人間関係に疲れ切った心が、まったく別の環境に置かれることによる効果ではなかろうか。自然が豊かな環境は、普段は体験できないものである。いつもと違う環境で、何もかも忘れさせてくれる雄大な自然によって、人間の心は癒されるに違いない。人工物に囲まれた空間ではありえない、普段と違う景色、匂い、風、音、ゆらぎによって癒されるのではないだろうか。

自然の中にある樹々がフィトンチッドという物質を出していて、そのフィトンチッドによって自律神経が正常になるとも言われている。都会のストレスフルな生活は、自律神経の交感神経をあまりにも優位にしてしまう。そうすると、コルチゾールというステロイドホルモンが分泌されて、緊張状態に置かれてしまい高血圧や心拍数過多の状態になる。フィトンチッドは自律神経の副交感神経を活性化させて、調整してくれる働きを持つと言われている。森林浴をすることにより、このフィトンチッドを浴びて、心を癒す効果が出てくる。

現代の仕事は、デスクワークやパソコン業務が主となる。営業の紹介資料や報告資料作りが主となるし、企画書や提案書の作成は勿論PC作業となる。工場における品質管理や製造・出荷管理もすべてPCで管理している。仕事中は殆ど歩かないし、ましてや力作業なんて殆どない。グリーンツーリズムにおける自然体験のハイキングは、運動不足の身体にぴったりである。豊かな自然の中を歩くという運動が、血流などの体内循環を促進し、停滞している心を動かすことで、癒しの効果が出ると思われる。

自然をよく観察していると見えてくるものがある。美しい花々や樹々を観察し、可愛らしい小鳥や小動物を見ることが多い。花々を見ていると、野の花は清楚で可憐な姿に感動する。樹々の葉、枝、幹の美しさと不思議さに目を奪われる。そして、丁寧に観察すればするほど気付くことがある。同じ花や葉っぱがひとつとしてないのだ。みんな違っているのである。これが、生物の多様性なのである。どれも同じ花に見えるが、よくよく観察するとどこか少し違うのである。

生物の多様性というのは、何故あるのだろうか。例えば、同じ時期に芽生え花が咲いて散るのであれば、突然の天候変動があれば、種の全体が死滅する。突然の天候変動にも、その環境に強い植物があれば生き残ることが出来る。種の保存のために、違いがあるのではなかろうか。人間も、みんな違っているというのは、ひとつは種の保存のためにあるのは間違いない。人間の姿がそれぞれ違っていることで、相手と自分を特定できる。皆が同じだったら、判別できないのである。違っているからこそ相手と自分の相違点を発見し、自分の自己成長が可能になるのだ。相手に嫌な部分を発見すれば、そうならないようにしようと努力するし、良い点を見つけたら自分もそうなりたいと思う。こうして、違いがあるからこそ人間が進化してきたのである。自分が周りの人々と違っていても怖れることがないのだと悟り、安心して心が癒される。

自然体験は、さらなる学びや気付きを与えてくれる。自然とは、我々人間の力ではどうにもならないものである。人間なんて自然の猛威の中では無力なのである。自然を支配し制御することなんて、所詮無理なんだということを自然の中にいると気付く。世の中には、このように人間の努力や悪あがきが通じないものがあり、流れに身を任せるしかないことがあることを認識するのである。雄大な自然の中にいると、自分の存在なんて実にちっほけなものだということも実感する。だから、自分の悩みなんてこの地球全体から見たら、ほんの米粒みたいなものだということを体感するのである。誰かを支配しよう、誰かを制御しようとする愚かさを知り、自分の悩み・苦しみがちっぽけだということを知る。だから、自然体験は私たちに多くの学び・気付きを与え、不安から遠ざけて心を癒してくれるのである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、いろんな自然体験メニューを用意しています。そして、自然体験をしながら、いろんな話をさせてもらっています。生物の多様性、自然の前での無力さ、自然の雄大さと自分の悩み、自然観察で気付くセンス・オブ・ワンダーなど、自然の中を歩きながらのレクチャーは机上とは違った深い学びがあります。問い合わせフォームからご相談ください。

グリーンツーリズムが心を癒す訳

グリーンツーリズムの発祥はヨーロッパだとされている。グリーンツーリズムとは、農業体験や自然体験を中心にする滞在型の旅行である。それは、18世紀のフランスの貴族社会に始まったらしい。貴族の城がある敷地内の一角に農家と農地を作り、貴族がその農家に寝泊まりして、農業を楽しんだのがグリーンツーリズムの始まりとされている説もある。貴族の間では、このグリーンツーリズムが大流行して、多くの貴族が体験していたと言われている。あのマリーアントワネット王妃さえも、グリーンツーリズムを体験していたというから驚きだ。

貴族の仕事は何もなくて、毎日舞踏会を開いて遊んでいたかというとそうではなかったようである。軍人として軍務に励んでいた貴族もいたし、医師や教授をしていた貴族も存在していたし、領地における農業経営をしていた貴族も少なくなかったと伝えられる。つまり、きちんと仕事をして給料を得たり農業経営などで収入を得ていたりしたらしい。かなり真面目に仕事をしないと、広大な領地や城と敷地を管理できなかったということである。さらに、貴族として公的行事への参加も要請されていて、相当に忙しかったらしい。

したがって多くの貴族が、かなりのプレッシャーにより押しつぶされそうになっていたと言われている。仕事と社会活動におけるストレスも、半端なかったということであろう。また、貴族にはノブレス・オブリージュというものがあった。ノブレス・オブリージュとは、貴族としての社会責任のことである。言い変えると、特権階級である貴族は、地域市民に対して社会貢献をするべきだという慣習があったのである。このノブレス・オブリージュの活動も、かなり負担であり、超多忙の生活を送ったことであろう。

こんなに多忙でストレスフルな生活は、貴族の心を疲れさせ折れさせてしまっていたのではないかと想像する。勿論、ストレス解消のために、スポーツや芸術活動は盛んだったと思われるが、残念ながらそれではストレスの完全解消は出来なかったのであろう。それで目を付けたのがグリーンツーリズムである。自分の城から出るのは危険なので、自分の城の敷地内に粗末な農家を建てたのである。その農家に宿泊して、農民のような質素な生活をしたと伝えられている。これでストレス解消をして、通常の業務を頑張れたと思われる。

農業がどうして貴族の心を癒してくれたのかというと、それは農業独自のヒーリング効果があるからに違いない。心を癒してくれるのは、農業しかなかったのである。農業というのは、人々が食べる物を生産する産業である。貴族がやっていたのは大規模生産農家ではなくて、自分の食べるものを細々と作ったものであろう。まさしく手作りで、愛情を込めながら農産物を生産していたと思われる。心を込めて美味しい野菜作りをしている間、嫌なことも何もかも忘れて農業に専念していたに違いない。つまり、野菜作りがマインドフルネスになっていたのである。

農業がマインドフルネスの効果があるのは、農産物生産の難しさにある。農業というのは、かなりの技術や経験を要する。その年により天候も違うし、微妙な土の中に住む微生物やPHなどの条件にも影響される。これらのことをすべて総合的に判断しながら農産物作りをするのだから、他の事を考える余地がないのである。ましてや、良い野菜が出来るかどうかをいつも気にすることになる。そして、自分の望む農産物が出来て、収穫した時の喜びは何にも替えることのできない大きな喜びである。さらに、自分で作った農産物を自分で味わうことは無上の喜びであり、至福の食卓であったことだろう。

農業の基本は土作りにある。丹精を込めて肥沃な土壌づくりをするのだが、当然土に素手で触れることになり。土というのは、大地のエネルギーが豊富に蓄積されている。土に含まれるエネルギーが、愛情を込めて土をいじる人の体内に取り込まれるのは当然である。幼児が泥いじりや砂遊びが大好きなのは、同じ理由からである。したがって、土に触れることで、折れてしまった貴族の心が癒されたのである。また、農業は自分の力ではどうにもならないことがある。天候不順や天変地異が常に影響を受ける。特権階級の貴族は、権力や権威があるから、領民や使用人を自分の思いのままになる。しかし、農業によって意のままにならない難しさと、どうにもならないことがあるということを思い知らされる。これが人間を大きく成長させるし、自分で抱えているストレスが自分の起こしていることだと知り、これもストレスを乗り越えるヒントにもなるのだ。貴族が農業を愛した理由がここにある。

 

※イスキアの郷しらかわで、農業体験をしながら心を癒しませんか。それぞれの季節により、いろんな農業体験ができます。米作りや野菜の生産を土づくりから体験できます。自分で作った野菜を自分で料理して食べることは勿論、持ち帰りもできます。ヒーリング効果の高い農業を一緒にしてみませんか。有機栽培の研修も可能です。問い合わせフォームでお願いします。

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダーという言葉がある。『沈黙の春』という環境問題を世界で最初に提言した本を著したレイチェル・カーソンが提唱した言葉だ。同名で本にもなっているし、ドキュメンタリー映画もある。日本語に訳すると、「驚きの感性」となる。何のことだか解りにくいが、自然体験においては基本となる感性である。自然を深く観察していると、驚くような景観、植物、動物などの目を見張るような美しさに出会うことがある。その際に、センス・オブ・ワンダーがないと何も感じないし、素通りしてしまうというのである。

センス・オブ・ワンダーというのは、自然体験をする際にはなくてはならない大切な感性だと彼女は言っている。何故ならば、同じ美しい花を見ても豊かな感性を持つ人と持たない人では感じ方が違うからである。登山道の傍らに咲いている可愛らしい花を見ても、感性を持たない人は見過ごしてしまう。豊かな感性を持つ人は、誰も気づかないような小さな花を見つけて心が動き、じっと見つめてその美しさを愛でる。名前も知らない路傍の花にも感動するような感受性が必要であると言っている。

レイチェル・カーソンという女性は、沈黙の春という著書で農薬使用の危険性について述べている。農薬というのは、自然界の動植物を壊滅させてしまうリスクを持つ。農薬によって小鳥たちが死滅してしまい、春がやってきても小鳥のさえずりが聞こえなくなり、もはやサイレントスプリング(沈黙の春)になってしまったと嘆いている。彼女の農薬の過剰使用についての提言は、多くの環境保護活動家を生み出した。世界の環境保護活動は、彼女の著作から始まったと言っても過言ではない。

そんなレイチェル・カーソンは、自然をこよなく愛していた。彼女は自然が豊かな場所に家を持って、家の回りの野原をいつも散策していたらしい。彼女は結婚もせず、子どもがいなかったという。時折、甥が訪ねてきて、彼と一緒に自然の中を散策していた。自然の中に咲いている花々やさえずる小鳥たちの美しさを、甥と共に楽しんでいたのである。その際に、センス・オブ・ワンダーという驚きの感性こそが必要だと言うのである。それを持っていないと、美しいものを美しいと感じないからだという。

美しいものを美しいと感じることがなければ、逆に醜いものや汚いものを見分けることも出来なくなる。ということは、大人になってから醜いものや汚いものを判別できなくなるから、そのような詰まらないものに心を奪われてしまう危険性を持つのである。レイチェル・カーソンは、大人になって過剰な欲望や本能に心を惑わされ、人間として生きるべき本質から遠ざかってしまうのは、このセンス・オブ・ワンダーが育っていないからだと言い切っている。心が疲れて折れてしまい、生きる気力を失ってしまうのも、この驚きの感性が乏しいからだと言うのである。

このセンス・オブ・ワンダーが子どもの心に芽生えるには、ただ自然体験をすればよい訳ではないと説いている。その自然体験に際して、傍らにこのセンス・オブ・ワンダーを発揮できる大人が必要だと言うのである。自然体験をする子どもたちの傍に付いていて、路傍の何気ない花の美しさに驚き、心から感動することが肝要らしい。その際、花の美しさをどのように表現するのかも大事である。ただ単に美しいと言うのではなく、何故美しいと感じるのか、美しさをどのように表現するのかが大切だと説いている。傍らにいる大人が、心が打ち震えるほどの感動をして、それが身体いっぱいに溢れるほどの表現をして、子どもの心にも響かせなくてはならないのである。

登山ガイドや自然ガイドをしている人は沢山いる。しかし、このセンス・オブ・ワンダーをこよなく発揮している人はどれだけいるだろうか。子どもたちに、センス・オブ・ワンダーの感性を育むことが出来るガイドは、そんなに多くはない筈である。まずは、自分が自然に接した時にどれほどの感動が出来るのかということと、それを子どもの心に大きく響くような豊かな表現を出来るかどうかが重要である。子どもに単に美しさを伝えるだけでなく、それが何故美しいのか、美しい心というのはどういうものかを豊かな表現力で、しかも物語性を持たせながら伝える必要があるのだ。このレベルまで子どもたちの感性を育める自然ガイドを、選びたいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、センス・オブ・ワンダーを育める自然ガイドと登山ガイドをさせてもらっています。子どものうちであればこの驚きの感性を育成しやすいのですが、若者になってからでもこの感受性を豊かに育むことも可能です。心が疲れて折れてしまわれた方は、このセンス・オブ・ワンダーを取り戻すために、いらしてみてください。自然体験をご一緒しましょう。経験豊かな自然・登山ガイドのプロが案内します。

 

LOHASな生き方を目指す

LOHAS(ロハス)とは、Lifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字を取った略語であり、地球環境を保護すると同時に健康で持続可能な暮らしを目指すという価値観を共有した生き方、またはそのような考え方を共有した人々のことである。環境保護の立場から、自然と人間の共生を謳い、自然を大切にして守り育てて、皆で共有して分かち合うという考え方に立っている。当然、農薬の使用は差し控えるし、オーガニックでナチュラルな農業を目指している。産業廃棄物による汚染や水質汚濁についても、極力少なくするような生活をしようと提言している。

地球の温暖化対策にも取り組んでいて、省エネにも関心が高い。脱石油でしかも自然エネルギーの政策を進めるように提言もしているし、勿論脱原発も推進している。持続可能な生き方をしようというのだから、地球環境に負荷のかけない暮らしをして行こうと呼びかけている。健康面においては、人間が本来持っている自己免疫力や自然治癒力を高めていくような生活スタイルを志していて、西洋近代医学のように人間が持っている本来の機能を損なうような治療は、断固拒否する立場だ。遺伝子操作の農産物を作ることや、クローンの家畜を作り出すことの危険性にも警鐘を鳴らしている。

どうして、人間はこんなにも効率優先の生き方をしてしまったのだろうか。生産性を上げることが至上命令だと言わんばかりに、農薬を大量に使用し化学肥料漬けの農産物を作り続けた。それが、人間の健康にだれだけ多くの被害を加えてしまったか、計り知れないものがある。「沈黙の春」(Silent Spring)という著作で、環境問題を初めて世界に訴えたレイチェルカーソンは、鳥が鳴かなくなった事例を嘆いてこの本を書いたのである。こんなにも環境と人間の健康に悪影響を与えている農薬と化学肥料の使用が、一向に減らないのは不思議な事である。

日本において、LOHASな生き方を目指しますと宣言すると、決まってこのような反論がある。農薬や化学肥料を使わないで農業をしたら、農産物の生産量が減少してしまい、飢え死にする人が出てきてしまう。高い農産物を買えない貧しい人もいることを考慮しないなんて、身勝手な論理だと言うのである。または、予防ワクチンや抗生物質などの薬品を使用しないと、健康を損なってしまうだけでなく乳幼児の生存率が低下してしまうと大騒ぎをする。最新の医学研究や農学によると、その批判は的外れだとされつつあるにも関わらず、いまだに古い考え方から抜けきれない。

LOHASを提唱され始めた時代は、そんな生き方をしたら生産効率が低下するばかりでなく、豊かな生活を捨てなければならないと批判されていた。そんな前近代的なLOHASは、科学的にも間違っているとの非難を受けていたが、最近なって科学的に見てもLOHASは正しいということが解明されてきたのである。科学的にも理がかなった、人間本来の生き方こそがLOHASであり、それに反した生き方をしているからこそ、環境問題や健康被害が起きているということがようやく証明されてきたのである。

産業革命以降、人間のあるべき生き方がどんどん否定されてきて、効率優先で物質的な豊かさ至上主義が蔓延してきた。おかげで、もっと大切な価値観である心の豊かさや自然の豊かさをないがしろにする暮らしが普通の社会になってしまったのである。生産性優先社会は、過度の競争を生み出すと共に、人間の労働力を使い捨ての時代にさせてしまった。当然、自分さえ良ければいい、身勝手で自己中心的な考え方に支配されてしまった社会は、お互いに支え合って生きるという大切な関係性を損なってしまい、全体最適ではなくて個別最適を目指してしまっている。

この世の中は、人間の身も心も病んでいる。それは、とりもなおさず人間の本来の生き方であるLOHASな生き方がされなくなったからである。縄文人のように、余計な富を持たず当たり前のように相手の尊厳を認め、お互いに支え合う社会があれば、争い事もなくて平和な世の中が1万年以上も続くのである。世界では紛争とテロが続いている。日本国内でも、毎日のように殺人事件や悲惨な事故が相次いでいる。LOHASな生き方をしていたら、起きない争いや事件・事故である。LOHASな生き方をしている限り、こんなにも心身を病んでいて不健康な世の中になる筈がない。人間本来の生き方であるLOHASな生き方を目指そうではないか。

剪定作業で気付いたこと

イスキアの郷(農家民宿)で樹木剪定作業をさせてもらった。我が家の庭にある樹木は、適当に剪定した経験はある。ベニカナメや百日紅などの庭木を見様見真似で剪定してきた。ところが、農家の果樹などの剪定は今まで実施したことがなかったのに、いきなりやってみたらと言われて実施したのだ。人間としては適当な性格ながら、適当に剪定していいからと言われても、なかなか思い切って切れないものである。50センチから60センチの新芽を持っている枝を残して切っていいとの指示でやってみたが、これが難しいのである。

何故なら、あまりにも枝が混んでいる処は、日光が通りやすいように何本かを残して切る必要もある。どの枝を残して、どの枝を太い枝から伸びている根元からばっさり切るのか、迷ってしまうものだ。思い切って切断しようと思いながら、一度切ってしまえば元に戻せないから、いざとなると逡巡してしまう自分がいる。やはり、このような樹木剪定作業というのは、熟練を要するものだ。少なくても数年の経験をしてからするものであろう。素人に手に負えるものではない。

とは言いながら、依頼するほうも心得たものである。失敗してもいいような樹木だけを指定したようである。先ずは、梅である。『桜切るバカ、梅切らぬバカ』と言われるように、梅はどんなに切っても問題ないみたいである。ということで、梅の何本かを切るように指示された。さらに、すももの樹も依頼された。たぶん、この種類の樹木ならば、失敗しても大丈夫だろうと主人が依頼したんだろうと思って、安心して剪定作業を実施した。

最初は、おどおどしながら、そろそろと切っていたが、そのうちに少し大胆になり、切り方も様になってきたようだ。そして、終了する頃にはなんとか剪定のコツも呑み込めてきた。しかも、剪定作業そのものが楽しくなってきたのである。来年になって樹木の果実が見事に実るかどうかが、自分の手に託されているのである。人間と言うのは、責任を持たされる仕事をさせられることに喜びを感じるものらしい。どうでもいいような仕事、そして誰にでも出来る仕事には大きな喜びを感じないしやりがいも持てない。農作業というのは、収穫の量と質に直接関わる重要な仕事だからこそ楽しいのだ。

剪定作業をしながら気付いたことがいくつかある。先ずは、要らない枝と必要な枝があり、その選択をすることが難しいということ。そして、その不要な枝を思い切って切断しないと、良い枝が育たないということ。さらに、どんなに育てようとしても育たない枝は、残してはならないということ。枝が密生してしまうと太陽の光が十分に、それぞれの葉に届かず良い果実が実らないという事実。何だか、会社のマネジメントみたいである。駄目な部門やどうしようもない社員は思い切ってリストラしないと、良い果実(成果)は実らないということと重なる。

樹木というのは、何故もこんなにも不要な枝を芽生えさせるのだろうか。もしかすると、樹木そのものにとっては必要な枝なのかもしれない。良い果実だけを求める人間の都合で切られてしまっているのかもしれない。そうではなくて、果樹というのは人間の手によって切られることを初めから想定していて、新芽を伸ばすのかもしれない。人間がちゃんと切るのかを、樹木が試しているのかもしれないなあなんてことを思いながら剪定作業を進めた。

剪定作業でひとつだけ確かなことを学んだ気がする。樹木と人間というのは似ているということである。人間は生きているうちに、少しずつ余計なものを蓄える。本来は生きる上で必要のないものというか、逆に生きる上で邪魔になるものである。変なこだわりや思い込み、または身勝手な心や我儘な気持である。自分さえよければいいというような低い価値観もそうである。そういう不浄なものが溜まりに溜まった時に、不都合なことや病気とか事故に見舞われるのである。そして、どん底に落とされて、初めて自分を振り返り、不要なものを切り落とさざるをえなくなる。そうしないと生きていけないからである。まるで樹木に生えた不要な枝のようではないか。誰かに切り落とされるまで待たないで、人間なのだから自ら切り落としたいものである。そんな気付きを剪定作業から学ばせてもらった。

 

※イスキアの郷しらかわでは、いろいろな農作業の体験ができます。癒しを求めていらっしゃる方も、そして元気な方でも、皆さん体験することが可能です。問い合わせフォームからご相談ください。体験料は無料ですが、お昼代だけをご負担いただきます。(2,000円~2,500円)

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「すさまじきもの」紅葉の京都で

京都の紅葉を満喫してきました。何度行っても、あの錦おりなすようなもみじはすごいと思います。今回はライトアップも始めて経験しましたが、素晴らしい演出です。高台寺・圓徳院・清水寺のライトアップでしたが、清水寺のそれは演出効果満点でした。

こんなにも素晴らしくて魅力溢れる紅葉に場違いなものがあったというのが残念です。それは、まさしく『すさまじきもの』と言っても過言ではないような興ざめの行為でした。京都は外国人にも超人気の観光地です。タクシーの運転手は、こんなことも言ってました。「清水寺、東福寺、伏見に行くと、まるで外国に来たみたいで、日本語が通じないんですよ」と呆れていました。それも観光客が外貨を落としてくれるから好ましいことで、外国の方を排除したり阻害したりする気持ちはありません。しかし、紅葉真っ盛りのお寺の中で、周りもびっくりするような大声で、中国語をまくしたてる姿を見た時はがっかりしました。

歓声を上げたくなるのも解りますし、グループ内で感想を述べたくなるのも当然です。しかし、他の人たちが沢山いる中でまさに嬌声を上げ続ける姿は、やはり『すさまじきもの』と言わざるを得ません。郷に入れば郷に従えというように、外国に行った際にはその国の文化を鑑賞したり経験したりするのには、その国の文化を鑑賞する慣習に従うべきです。それらの事前学習をして、迷惑をかけないような言動をしなければならない筈です。それがその国の文化に対する敬愛であり、すさまじき行為は日本の文化に対する冒涜とも言えます。

中国の方はすべてがそうだったかというとそうではありません。マナーを守っていらっしゃる方もいました。私が一人ゴルフで出会った妙齢の中国人女性は、日本人よりも礼儀正しくて謙虚な態度で、素晴らしい人間性を持っていらっしゃいます。姿も立ち振る舞いも美しい方です。ですから、ごく一部の中国の方だとは思いますが、すさまじき態度を取る人には、何故か行く先々で何度も出会ってしまいました。

こういう姿を見るにつけ、我々日本人も外国に行って文化財を鑑賞する際には、十分に気をつけなければならないなと思いました。最近はあまり見かけなくなりましたが、日本の団体観光客が酔って大声で叫んでいる姿が目につきます。そういう意味では、文化的な習熟度がまだまだ低い国民性があるのかもしれません。

一生懸命に働いて、憧れの日本に来て、有名な京都の紅葉を愛でる機会を得たので、舞い上がっていたのかもしれません。大目にみてあげなければならないと思いながらも、すさまじきものに何度も出会うと思わず眉をひそめてしまう自分がいました。

大相撲界ではモンゴルの力士どうしの暴力事件が世間を騒がせています。モンゴルでは大酒を飲んで喧嘩をするのは日常茶飯事だとか。国民性の違いと言えば、それまでのことですが、やはりその国の伝統とか慣習に習うのが、当然だと思います。その文化の違いをしっかりと指導しなかった親方に責任があると思われます。これもまた、日本人の感覚からすると『すさまじきもの』と言えます。

日本人だって、大酒飲んで酔っ払い航空機の中で大暴れする世の中です。日本人のマナーもまだまだです。すさまじきものというように言われないような行動を心掛けたいものです。こんなにも素晴らしい京都の紅葉に恥じないように、自然に溶け込んで一体となるような鑑賞態度を取りたいと強く思ったものでした。

手料理を楽しむ

料理をするのが何よりも好きで、暇があればふと思い浮かんだ料理をして楽しみます。今日は、美味しそうなセロリの株を直売所で見つけたので、さっそく漬物をしようと思い、生協に寄って「つまみたら」を買ってきました。この時期に会津地方でよく作られる定番料理、セロリとつまみたらの漬物です。繊維質の強いセロリは斜めに薄切りにして、固いつまみたらは水に戻して柔らかくしてから漬け込みます。彩りにニンジンの薄切りを加え、好みで柚子を細かく刻んで香りづけします。

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この料理は、先月亡くなった母がよく作ってくれたものでした。私の作る料理の基本になっているのは、母の手料理です。亡き母を偲んで、母の得意料理を時々再現しています。