神は細部に宿る~森保監督の名言~

 サッカー日本代表の森保監督の座右の銘の一つが、『神は細部に宿る』だという。三苫選手の諦めない折り返しボールが、1.88ミリの差でラインを出ずに得点として認められ、その事実とリンクされて、神は細部に宿るという言葉がネットで拡散されている。この神は細部に宿るという言葉は、誰が最初に言い出したのかということも議論されている。世間一般では、ローエという著名な建築家が使い始めたというのが通説になっている。しかし、それ以前にもアインシュタインなど沢山の人が使っていたことが記録されている。

 この神は細部に宿るという言葉は、誰が最初に言い始めたのかということと、その真意はどういうことかということが盛んに議論されている。英語では、悪魔は細部に宿ると記されているので英語圏の人物ではないだろうと結論付けされている。神は細部に宿るという語句は、元々ドイツ語であるから、ドイツ語圏で最初に提唱されたのではないかというのが定説である。そこで有力なのが、ドイツの著名な数学者で神学者・哲学者でもあった、知の巨人と呼ばれるライプニッツではなかろうかという説である。

 ライプニッツは微積分の法則を導き出したことでも有名であるし、モナドロジーと呼ばれる『モナド理論』や『予定調和説』が斬新であり、現在にも通じる学説であると思われる。科学と哲学を統合させないと真理に到達しないと言っていることから、最先端の考え方である科学哲学を先取りしていたとも考えられる。予定調和説とは、宇宙におけるすべての事柄は、最終的に全体最適となるように神が予め調整しているという考え方である。神というのを宇宙意思とも読み替えれば、最先端の量子物理学や宇宙物理学の理論にも通じている。

 神は細部に宿るという言葉は、現在どんな意味で使われているかというと、ライプニッツが言いたかったこととは違うような気がする。ローエという建築家が用いたせいもあるが、建築物や芸術品を作り上げる時には、細部に渡り気を抜かずに細心の注意を払いながら創造することが重要である、というように捉えられている。どこか小さなところに不具合や駄目なところが一つでもあると、全体の価値さえも損なってしまうから、すべてに完璧を求めなさいというように考える人が多い。または、どんな些細なことも疎かにしないようにという戒めとして用いられる。

 まさに、あの1.88ミリのボールの折り返しは、最後まで諦めずにどんな小さなことにも真剣に努力してきた成果であり、森山監督が選手に対して『神は細部に宿る』と言い聞かせていたことが実を結んだと言えなくもない。日本の諺に『画竜点睛』というものがある。竜の絵を描いていて、眼を描き入れない絵を不思議に思った人が、どうして眼を描き入れないのかと詰め寄り、仕方なく作者が眼を描いた途端に、竜が絵から飛び出て天に登ったという逸話から来ているらしい。神は細部に宿るともリンクしているように思えなくもない。

 さて、神は細部に宿ると最初に言い始めたライプニッツは、どんな意味でこの言葉を使ったのであろうか。ライプニッツをよく知る人なら、現在の意味とはかけ離れているのではないかと思っているに違いない。彼のモナド理論と予定調和論に基づくと、神は細部に宿るという意味はまったく違うものとなる。モナド理論は、最先端の量子力学によって証明されつつあると言える。モナドというのは量子(素粒子)と同じだと推測できる。その量子は、まさに神の意思を持っているかのような働きをする。量子どうしが統合してネットワークを組んで、全体最適(予定調和)のような働きをする。それは、自己組織化するというのが定説であり、イリヤ・プリモジンがこれでノーベル賞を受賞した。

 本来の深い意味での『神は細部に宿る』の教えは、日本代表サッカー選手の活躍だけでなく、我々の正しい生き方さえも示しているのではないかと思う。勿論、ビジネスの世界においても有効である。人間も素粒子で組成されているのだから、人体の細部に神が宿っていると言える。人体のネットワークが正しく機能することによって全体最適=予定調和(心身の健康)が守られる。企業組織や国家も、それを組成する人間どうしの関係性と協調により、全体最適や予定調和が実現する。ジャパンブルーの選手たちの活躍も奇跡や偶然ではなく、森保監督を中心にしたチームの関係性と調和によって、神がもたらした必然であろう。

しょうもない男と結婚して後悔する女性

 世の中には、しょうもない男と結婚してしまい、おおいに後悔している女性が相当数いるという。周りから見ると、どうしてそんな駄目男と結婚してしまったのか不思議である。何故結婚したのか、自分でもよく解らない女性もいると思われる。こんなにもしょうもない男だったのかと、結婚してから気付く女性もいるし、駄目な男だとある程度解っていながら仕方なく結婚した人もいるのではないだろうか。どうしてそんなしょうもない男と結婚してしまうのか、駄目男でも暮らしを続けて行くべきなのか止めるべきかを考察してみよう。

 妻から見るとしょうもない男とはどういう性格・人格なのだろうか。自己中心的で利己的であり、損得勘定で動く人間というケースもある。家族の幸せよりも自分の喜びを優先してしまう人だ。または、まともなコミュニケーションが取れない男もいる。人の話を聞かないタイプだ。聞いているようだが、まるっきり聞いていない。自分のこだわりや固定観念によってバイアスをかけているから、自分にとって都合の悪いことは聞こえない。家事や育児を依頼しても、忘れるし無視する。妻の気持ちに共感できないし、心が冷たい男である。

 もっと最悪なしょうもない男は、働くことが嫌いなタイプだ。何かと理由をつけては定職につかない。職を転々として、稼いでこない。ジャンブルやゲームが大好きで、コミックやテレビ・映画に夢中。中には最悪のケースもある。暴力や暴言を操り返し、家族を支配し制御するタイプだ。こんなしょうもない男と結婚したら、毎日が最悪である。妻に見つからないところで子どもに暴力を奮うケースもある。嫌なことがあると黙り込んだり、モノに当たったりする男もいる。壁を叩いたり蹴ったりして、妻子を怖がらせる最低の男もいる。

 中には、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースもある。大人しくて、優しそうに見えるし、酒・ジャンブル・女には目もくれず、毎日職場と家庭を往復する優良亭主である。しかし、人間的には詰まらないし、異性としての魅力が感じられないタイプである。何故、そんな好きでもない男と結婚したのかと言うと、早く結婚して親から独立したかっただけである。口やかましく支配的な親で、愛情を注いでくれず子どもを制御する、いわゆる毒親から逃れたかったからである。

 しょうもない男と結婚する女性は、実はこういうケースが多いのである。育てられた家庭に居場所がなくて、自分と結婚してくれるのなら、しょうもない男と暮らしたほうがまだましだと思い込む女性は少なくない。温かくて愛情が溢れていて思いやりのある家庭を構築したいと願って、駄目男でも結婚する場合がある。愛情を注いであげれば、男は変わるかもしれないという期待は、脆くも崩れ去る。人間は、そんなに変われるもではない。ましてや、男のほうも親から愛されず育ったケースは、温かい家庭を築くのは無理なのだ。

 さて、このようなしょうもない夫とは今後どう対処したらよいか、悩むところである。暴力や暴言を繰り返すとかギャンブルのはまり仕事もしないという、どうしようもない夫なら一刻も早く別離したほうがよいだろう。どうするか迷うのは、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースである。ましてや、医師、弁護士、技術者、行政職など安定した高収入が保証されている場合は、なかなか離婚に踏み切れないものである。子どもの未来のために、自分の夫は隣のおじさんや宇宙人だと思い、我慢する選択肢もある。

 しかし、子どものために我慢を続けるとしても、自分の人生を犠牲にするというのは正しい選択肢であろうか。人間は、誰かを心から愛し愛されてこそ生きる喜びを感じるものである。心からリスペクトできる伴侶、そして敬愛してくれるパートナーと一緒に人生を全うしたいと願うものだ。また、そのようなしょうもない夫は、妻が外で働くことを嫌がり、フルタイムで働かせない傾向が強い。しかし、働くことで社会と繋がり貢献をしていくという喜びを得られないというのは辛いものである。しょうもない男と一緒の暮らしを続けるか否か、どちらを選ぶのかは、いろんな要素を熟慮して決めるしかないだろう。

人は愛するために生きている

『人間は誰かを愛するために生きています。しかし、誰かを愛した瞬間から苦しみが伴います。だからといって、苦しいから愛さないというのは間違いですよ。』11月9日に天寿を全うされた瀬戸内寂聴さんの言葉である。愛に生きた人と言える。若い頃から、形に捉われない奔放的な生き方をしたと言われる。倫理的ではないと批判されるような行動もしたが、ある意味自分の本能に対して忠実な生き方だったと言えよう。性愛や愛欲は、苦をもたらすし身を滅ぼすと仏教では教えているが、それでも寂聴さんは人を愛さずにはいられなかった。

 自由奔放に生きて、けっして後悔をしないような生き方をした寂聴さんであったが、ずっとその後も悔やんでいたことがある。それは、結婚して夫の教え子と婚外恋愛をしてしまい、離婚したときのことである。我が子を自分の手で育てたかったのだが、経済的に自立してなかったが故に、我が子の親権を夫に譲らざるを得なかったという点である。もし、収入が充分に確保されていたら、我が子と一緒に暮らせたのにと、ずっと後悔し続けたという。経済的な理由で離婚に踏み切れないという女性が世の中には多いが、とても不幸なことである。

 配偶者や恋人がいる女性が、他の男性と恋愛関係になるというのは、『不倫』と呼ばれる。勿論、その逆のケースも同じである。昔は、経済的に余裕のある男性が、妾を持つことに寛容であった。しかし、結婚した女性が婚外恋愛をすることは、けっして許されなかった。何故かと言うと、自分の子どもかどうか解らないのに者に、財産を譲れないからである。縄文時代は性交渉がおおらかであったが、私有財産が形成された弥生時代からは、男は女性の婚外恋愛を厳しく戒めたのである。日本は男性中心の社会だから、財産は実子長男に譲るのが通例だった。

 結婚しているから他の男性を好きにならないのかというと、けっしてそうではない。結婚していても素敵な男性に惹かれるのは、人間として当たり前のことである。寂聴さんは、ひとりだけの男性ではなく同時に複数の男性を愛していたらしい。自分は一人の異性しか愛せないという女性がいるが、それも素敵な生き方である。寂聴さんのような生き方をしたいと思いながらも、世間の目を気にして我慢して生きるというのは、どうなのであろうか。倫理観に照らせば、けっして許されないことであるが、自分の気持ちに嘘をついて生きるというのは、苦しいものである。

 結婚していながら、他の男性と恋愛をすることで、育児を放棄したり家庭を崩壊させたりするのは、人間としてあるまじき行動である。自分の愛欲の為に、誰かを不幸にするのは許されないことだ。誰かの幸せを犠牲にして成り立つ愛なんてありえない。ましてや、婚外恋愛の相手から何かを得ようとか、性的な快楽を求めるためだけに恋愛をするのだったら、それは本当の愛ではない。相手に癒しや幸福な気持ちを与えたいとか、安全と絆という安全基地になってあげたいという、与える愛であるべきだと思う。つまり、無償の愛でなければならない筈である。

 ところが、相手のことが好きになればなるほど、自分だけで囲って独占したいとか、自分の思い通りに相手をコントロールしたがるものである。相手の自由を奪うような愛では、やがて相手の気持ちは自分から離れて行き、破綻するであろう。心身を鍛えて、自分の魅力を磨いて、相手が愛したいと思うような自分であり続ける為に精進したいものである。ところが、愛着障害を抱えている女性は、見捨てられるのではという不安や恐怖が大きく、相手を縛り付けたくなるものである。見捨てられ不安が強い女性ほど、相手を縛らずに、与える愛に徹したいものである。

 人間は、人を愛することで成長する。たとえ実らない恋愛であったしても、貴重な経験となるだろうし、大きな気付きや学びを得るものである。ましてや、無償の愛で相手を包み込むような言動を続けて行き、愛される自分であるために自らを磨いて行けば、心身共に美しくなるに違いない。益々人間的な魅力を増すであろう。寂聴さんは、だからこそ人々に愛することを勧めたのである。寂聴さんは、求める愛ではなく無償の愛を注ぎ続けたからこそ、人間として輝き続けたのかもしれない。ご冥福を祈りたい。お疲れさまでした。

新型コロナ感染症の後遺症が恐ろしい

新型コロナウィルス感染症が止まらない。コロナ感染症は、風邪みたいなものであって、インフルエンザよりも怖くないと主張する一部の専門家もいる。確かに日本での感染症は重篤になる人の割合も少ないし、死亡率も世界からみると極めて低い。若年層においては、重症化することがないからと、平気で夜の街関連のお店に行く人も多い。ところが、ここに来てこのコロナ感染症の怖い後遺症についての報告が相次いでされている。重い後遺症で長く苦しんでいる若者が少なくないし、社会復帰できない人もかなり多くいるという。

 

新型コロナウィルス感染症の実態については、まだまだ解らない部分が多い。特効薬も見つかっていないし、ワクチンだって開発が極めて難しいし、実用化には程遠い。そんな中で、感染して治癒した人の中から、後遺症で苦しんでいる人たちの声が、ようやくマスコミで取り上げられてきている。日本の厚労省もようやく重い腰を上げ初め、来月から後遺症の実態調査に着手するというニュースが流れた。疲労感、息苦しさ、咳、頭痛、胸部痛、味覚障害、嗅覚障害、食不振、筋肉痛などの深刻な症状が長く残存すると報告されている。

 

ではどのくらいの感染後の後遺症が残るのかというと、残念ながら日本ではまだ統計調査実績がない。イタリアでの調査によると、まったく後遺症が残らないと回答した人は、わずか12.6%に過ぎないという調査結果がある。つまり、87%もの割合で後遺症があるという恐ろしい調査結果が出ているのである。新型コロナ感染症は単なる風邪やインフルエンザみたいなものだと強弁する専門家がいるが、風邪やインフルエンザでこれだけの後遺症が残るケースはあり得ない。つまり、この新型コロナ感染症は、後遺症という点で極めて危険な疾病なのである。

 

それでは何故、この新型コロナウィルス感染症の後遺症がこんなにも多いのかというと、いろんな原因が考えられている。新型コロナウィルスが、治った後も体内に残存していて、それが後遺症を引き起こしていると考えられている。また、この重症感染症に対応して免疫システムが暴走した為に、免疫システムが変化してしまったと考える専門家もいる。ウィルスが残存しているという説は考えにくいし、免疫系の暴走説が正しいのではないかとみられる。副交感神経系(免疫系)の暴走が影響していると考えられる。

 

自律神経というのは、交感神経と副交感神経の二つから出来ていて、このバランスが崩れることで病気になると考えられている。交感神経が活性化し過ぎて、副交感神経が後退してしまい、免疫力が落ちるというように以前は考えられていた。ところが、そのように単純ではないということが判明した。免疫学で著名な安保徹先生は、副交感神経のうち、獲得した新免疫システムが働いているうちは、免疫は正常に働くと主張されている。ところが重症の感染症を起こすと、新免疫システムは破綻して、古い免疫システムが働いてしまうらしい。これが、免疫の暴走と考えられている。自己免疫疾患の発症も同様である。

 

最新の医学理論が、この免疫システムの証明を後押ししてくれている。それは、ポリヴェーガル理論である。副交感神経の約8割は、迷走神経である。この迷走神経には、背側迷走神経と腹側迷走神経がある。獲得した新免疫システムというのは、腹側迷走神経がその役割を担っている。暴走してしまう旧免疫システムは、背側迷走神経が関係している。命の危険に関わるような重症感染症に陥ると、腹側迷走神経の働きを抑えて、背側迷走神経が暴走してしまい、免疫システムが正常に働かくなってしまうと考えられている。

 

故に大事なのは、新型コロナ感染症に感染しないことである。もし感染したとしても、重症化しないようにすることが大切である。その際に、感染しやすい人かしにくい人、または重症化する人かしない人かは、メンタル面が大きく影響しているのではないだろうか。病は気からというように、元々病気になりやすいかどうかも、メンタル面の影響が大きい。それは、その人の物事に対する認知や考え方が影響を及ぼしている。いつもくよくよしたり自分を責めたりする人、自分を犠牲者とか被害者にしたがる傾向の人は、コロナに感染しやすいし重症化して後遺症になりやすい。つまり、コロナを寄せ付けない為には、自尊感情を高め、自己否定しない生き方をしなくてはならないということだ。

 

※何故に自分は自尊感情が低くて自己肯定感を持てないのかと、悩んで苦しんでいらっしゃる方は、「イスキアの郷しらかわ」にご相談ください。いつも、自分を犠牲者や被害者にしてしまい、いつも過去を悔やんでくよくよしてしまうし、悪い結果を引き寄せてしまう自分を変えたいと思っている方は、「問い合わせ・相談」フォームからご相談ください。

コロナで学ぶLOHASな生き方の大切さ

「パチンコ店さえ休業してくれたら、来ないのに!」とのたまうパチンコ客が大勢いる。それは本末転倒である。そもそも、感染の危険が高いパチンコをする人さえいなければ、パチンコ店は営業しないのだ。こんな危険な時期にパチンコに行かないでいられない人は、ギャンブル依存症という病気なのである。精神科を受診することを勧めたい。パチンコは、遊戯ではなくて完全なギャンブルである。公営でしかギャンブルを認めない筈なのに、民営のギャンブルであるパチンコを許可することがそもそも間違いなのだ。

コロナ感染の危険性が高いと言われているのに、バーやキャバレー、スナック、風俗に通う人たちもいる。こういう人たちも、アルコール依存症やセックス依存症かもしれない。カラオケボックスやカラオケ教室、LIVEに行かないといられない人もいるが、これもある意味で依存症とも言える。感染のリスクが高いダンスクラブやスポーツジム、ヨガ教室に行かないと我慢できない人も、問題だろう。これらのギャンブルや接客業、趣味に行けなくてストレスが溜まり、家庭内でDVを働く人がいるらしいが、こういう人間は生きる資格がないと言える。

このコロナ感染症が大流行をしたことで、DV被害やコロナ離婚が起きて、家庭崩壊が起きつつあるという。企業や組織・団体の中では、パワハラやモラハラが横行してしまい、社員どうしの信頼関係が崩壊しつつある処も多いらしい。それぞれの地域内においては、コロナ感染を起こした家族を村八分のように扱う所もあるし、感染症の病院で働く人やその家族を排除する動きも強まっていると聞く。政府や自民党内でも、この未曾有の国難に遭いながら、権力争いに発展しているという。つまり、コミュニティが崩壊しつつあると言えるのだ。

言ってみれば、今まで隠し通してきた、またはないことにしてきた不協和音が一気に爆発を起こしたようなのである。人々のエゴが暴発したというような状況だと言える。このような大変な事態になって、皆が一致団結して協力し合いながら難局を乗り切らなければならないのに、自分の利害や損得を前面に出してしまい、身勝手で自己中心的な行動をするようになったというのは情けない。一方では、ボランティアで高齢者支援活動や献身的に医療活動に携わる人も出ている。全体最適を目指す人と個別最適を優先する人の二極化が起きているのだ。

これは何を意味しているかと言うと、人々の本音や本質が明らかになったということではないだろうか。高潔で素晴らしい価値観を持った人と、低俗で劣悪な価値観を持った人とが、炙り出されてきたとも言えよう。コロナ感染症で重症化する人というのは、持病を持った人だと言われている。高血圧、糖尿病、心肺機能の低下症、喫煙者、アルコール常飲者などが重症化しやすいらしい。すべてが生活習慣病だとは言えないが、自分の悪い生活習慣や生き方が招いたとも言えよう。これも本人の人生哲学が影響していると言えないだろうか。

高齢者や介護施設に入所されている方も重症化して亡くなる方が多い。自分も高齢者であるが、自分が新型コロナ肺炎になったら延命治療は受けたくないと思っている。何故なら、そうなったときは自分の寿命なのだから、無駄な医療費を浪費させたくないからである。今の医療や介護はクォリティオブライフを無視している。ある程度の生活の質を保てなくなったら、または社会に貢献できる体力や気力がなくなったら、延命治療はせずに自然死を望むのが、人間本来の生き方だと心得ている。コロナ肺炎は、まさにノアの箱舟のような気がする。

発症して重症化する人と、感染しても発症せずに抗体ができる人がいる。発症するかどうかは、普段の食生活や生活習慣に関わっていて、LOHASな生き方を普段から心がけている人は発症しにくいのではないだろうか。不健康で自堕落な生き方、つまりはタバコを吸い、ギャンブルに没頭し、アルコールに依存した生活をしている人、またはそんな乱れた生活を過去に続けてきた人が重症化するのではないだろうか。例外はあるとしても、家庭を大切にして、環境に配慮しながら持続可能で健康的な生活をしている人は発症しにくいのではないかと思われる。今回のコロナ感染で、LOHASな生き方を志向する人が増えてほしい。

不登校・ひきこもりは愛着障害から起きる

不登校やひきこもり、休職などの社会への不適合が起きるのは、根底の問題として愛着障害が存在することが判明した。勿論、愛着障害と言えるようなレベルではなくて、不安定な愛着というような軽いものでも不登校やひきこもりが起きてしまう。発達障害や自閉症スペクトラム、または適応障害、強迫性障害、摂食障害、妄想性障害、パーソナリティ障害などのメンタル障害を当事者が抱えていることも多いが、それらの障害も愛着障害から起きているというから驚きである。

不登校やひきこもり、休職の原因は、いじめや不適切指導、さらには、社会全般にはびこるハラスメントによるものだとされているが、本当の原因はそうではない。何故ならば、同じようないじめや不適切指導、各種のハラスメントを受けたとしても、不登校やひきこもり、休職まで追い込まれない人もいるのだ。同じような意地悪な行為を受けても、はねのけたり乗り越えたりする人もいる。何らかの問題や課題を抱えている人だけが、不登校やひきこもりに追いこまれると考えたほうが論理的である。

その抱えている問題とは、愛着障害、または不安定な愛着という問題だと言える。愛着障害というのは、親との深く強い関係性、愛が溢れるような良好な絆が結ばれていない状態である。子どもというのは、本来は親から無条件の愛を注がれ、どんな場合でも親が自分を守ってくれるという安心感を持って育つものである。子どもは、親から絶対に見捨てられることもないし、ずっと支えられ続けるという安全で安心できる環境で育てられることが必要だ。そうでないと、何か苦難や困難が起きた時に、乗り越える勇気が持てないのだ。

この安全で安心するような環境で育てられないと、愛着障害、または愛着が傷つけられた状態を抱えてしまうのである。そうすると、苦難困難に出会うと回避したり逃避したりするし、誰かのせいにしたり他人を恨んだりして、自己成長が停止してしまうのである。こういう愛着障害の人間は、社会に適応できなくて、ひきこもってしまうのである。言い換えると、人間はいかなる時も自分を守ってくれる安全基地を必要とするのに、その安全基地を持てないから、いつも不安や恐怖感を持ってしまい、社会に出れなくなるのだ。

この安全基地というのは、誰にでも必要なものである。その安全基地というのは、通常は家族がその役割を担う。家族の絆が健全でしっかりしていれば、母親か父親がその役割を果たす。無条件の愛である母性愛を注ぐ母親が安全基地となる傾向が強い。しかしながら、何らかの原因があり、母親がその安全基地になりきれないケースがある。そういう時に、子どもは愛着障害や不安定な愛着を持ってしまうのだ。そうすると、子どもは不登校やひきこもりになることが多い。

愛着障害や不安定な愛着を抱えている子どもは、脳内神経伝達物質のひとつであるオキシトシンが不足している。このオキシトシンは、安心ホルモンと呼ばれる。オキシトシンが不足すると、大きな不安や恐怖感が心を支配してしまい、怖くて社会に適応できなくなり、良好な人間関係を築けなくなってしまう。強迫性障害、摂食障害、不安神経障害、対面恐怖症、パニック障害、妄想性障害、適応障害などを起こす。発達障害もオキシトシンが不足していると言われている。

オキシトシン不足は、母親との濃厚なスキンシップが不足し育てられると起きるとも言われている。驚くことに、このようにオキシトシン不足で愛着障害を抱えている子どもの母親も同様に、不安定な愛着を抱えているケースが多いのだ。だから、不登校の子どもの母親もまた不安が大きく、親子で不安をお互いに増幅し合っていることが多いのである。ちなみに、母親に適切な支援をして不安を取り除いてあげると、子どもの不安も払しょくされて、登校できるようになることが多い。母親のオキシトシンが増えると共に子のそれも増えるからだ。

安全基地としての機能を果たせない母親に、寄り添い味方になってくれる存在が必要である。傷ついて不安定になった愛着を癒す行為を「愛着アプローチ」と言うが、この愛着アプローチを母親は必要としている。母親と当事者の両方にこの愛着アプローチが適切に行われて、愛着障害や傷ついた愛着が癒されると、不登校やひきこもり、そして社会への不適応が見事に解決される。勿論、抱えている愛着障害や傷ついた愛着が改善されることで、メンタル障害も緩解する。

※不登校やひきこもり、社会への不適応をしているわが子のことで悩んでいるお母さん方へのサポートを、「イスキアの郷しらかわ」では実施させてもらっています。愛着障害とその解決策である愛着アプローチについて詳しく解説すると同時に、愛着アプローチを実施します。まずは「問い合わせフォーム」からご相談の申し込みをしてください。相談の対価は一切求めませんので、安心してご相談ください

メンタル不調の原因は愛着障害にある

複雑なメンタルの不調を抱えている人が多いが、それらのメンタル障害が愛着障害によって発症していることが判明したという。メンタル障害の医学的治療は難しいし、効果は限定的である。さらに、それが愛着障害から発症したものであれば、薬物治療などの医学的治療で根治するのはなおさら困難である。現代医療では治療が困難だとされる、双極性障害、慢性うつ病、気分障害、境界性パーソナリティ障害、PTSD、摂食障害、妄想性障害、各種依存症、ADHDなどは愛着障害による影響が大きいとされる。それらのメンタル障害が、適切な愛着アプローチによって見事に改善するという。

不登校やひきこもり・ニート、休職者の当事者は複雑なメンタル障害を抱えているケースが少なくない。そして、その根底になっているのが愛着障害だと推測されるケースが殆どである。愛着障害というのは、英国の児童精神科医ジョン・ボウルビーが1950年頃に提唱した、児童精神発達障害理論のひとつである。愛着障害は日本の精神医学会ではあまり注目されてこなかったが、近年大きな話題を集めている。著名な児童精神科医である岡田尊司氏がその豊富な臨床経験によって編み出した愛着アプローチが多大な実績を上げているからだ。

岡田尊司先生は、長い期間に渡って少年院に送致された子どもたちの精神的ケアーに携わっていらした。その中で、それらの生きづらい少年たちが複雑なパーソナリティ障害を抱えていることに驚き、その克服に尽力されてきた。現在は、大阪で岡田クリニックを開所されて、メンタル障害で苦しむ青少年たちの治療をされているという。そして、岡田先生はパーソナリティ障害などのメンタル障害の根底に、愛着障害が潜んでいること気づき、愛着アプローチを実践して、多大な効果を上げているのである。

不登校やひきこもりの青少年たちだけでなく、生きづらい大人にも愛着障害が潜んでいるし、各種のパーソナリティ障害に苦しんでいる人々にも根底に愛着障害があるというケースが多い。愛着障害というと、乳幼児期に養育者からひどい虐待やネグレクトを受けた子どもたちが持つ障害だと思われている。または、乳幼児期に養育者から見捨てられる経験で愛着障害になると思われてきた。ところが、ごく普通の家庭で育てられた子どもでも愛着障害を抱えているケースが少なくないという。そして愛着障害から発症したパーソナリティ障害などのメンタル障害で苦しむ大人に成長してしまうケースが多いのである。

すべてのメンタル障害が愛着障害から発症しているとは言えないが、想像以上に愛着障害が根底にあるケースが多い。薬物治療などの医学的な治療ではまったく効果がなかった症例が、愛着障害と診断され、適切な愛着アプローチを受けると見事に改善されるのである。それも驚くことに、愛着障害を抱えた当事者への愛着アプローチだけでなく、母親に対する愛着アプローチのほうが大きな効果を上げることが多いというのである。今までの医学理論ではそんなことはあり得ない。しかし、実際に母親への愛着アプローチによる支援によって、当事者の症状が劇的に改善するのである。

愛着障害が発症するのは、虐待やネグレクトなどの特殊なケースだけではない。ごく普通の家庭教育を受けて、家庭の外から拝見すると親から愛情一杯に育てられて、何も問題がないと思われているケースでも愛着障害が発症してしまう。特に、両親が高学歴で知能レベルが高く、あまりにも教育熱心な親である場合が多い。子どもに対して必要以上に親が介入して、子どもの主体性の発達を阻害してしまうのである。こういう場合は思春期に、いじめなどをきっかけにして、強迫性障害、摂食障害、不安障害などを発症して、不登校やひきこもりを起こしやすい。酷くなると、家庭内暴力までも起こす。これも愛着障害である。

不登校、ひきこもり、メンタル不調による休職などは、殆どのケースで愛着障害が基になっていると言っても過言でない。したがって、医学的な治療ではまったく効果がないが、適切な愛着アプローチによる支援を受けると見事に回復して社会復帰する。この愛着アプローチとは簡単に言うと、不安定になった親子の関係性(愛着)を、親密で安定した関係性に戻すことである。それも、当事者よりも母親への適切なアプローチ(支援)のほうが、効果が大きいという。母親からの子どもに対する愛情が、寛容性と受容性の極めて高い母性愛に変容すると、子どもは変わる。まさに親が変わると子は変わるのである。

※愛着障害が根底にある不登校、ひきこもり、メンタル不調による休職者への愛着アプローチによるサポートを「イスキアの郷しらかわ」では実践しています。特に、子どもが不登校、ひきこもり、休職などの問題を抱えて悩んでいる母親に対する支援をさせてもらっています。愛着障害が起きる原因とその対策に関する研修、そして実際に愛着アプローチのやり方を学ぶことが可能です。まずは「問い合わせフォーム」からご相談ください。

卒婚を密かに目論んでいる妻

日本人の夫婦のうち、約3分の1が離婚しているという。そして、その離婚を言い出すのは圧倒的に妻のほうが多いという。昔は、夫からの離婚申請が多かったのだが、現在は妻のほうから三行半を突き付けるらしい。そして、多くの妻たちは婚姻状態を続けることに疲れ果てていて、いつかは卒婚をしたいと密かに夢見ているという。夫はまったくそんな妻の心理状態に気付くこともないらしい。我が子が大学を卒業するまでの我慢とか、子どもが成人したらとか、子どもが結婚するまでとか、その時期をじっと待っているのである。

その卒婚さえ待ちきれず、もう夫との結婚生活には一刻も我慢できないと離婚してしまう若い妻も少なくない。昔ならば『子はかすがい』と離婚を踏みとどまる女性も多かったが、今は子どもが居ても離婚を踏みとどまる理由にはならない。それだけ妻たちは我慢し切れなくなっているのだ。離婚の理由はそれぞれあるだろうが、妻が望む夫婦関係や親子関係になっていなくて、改善の見込みもないので決断したのだと思われる。夫のほうでは、話し合いで問題決を図り、なんとか婚姻を続けたいと思うらしいが、妻の決断は変わらない。

妻が卒婚したいと思っていることさえ夫は知らないでいるし、卒婚を望む理由さえも夫は解らない。だから、その時が来るといきなり卒婚を言い出されて、夫はおろおろするばかりだという。妻は何故こんなにも卒婚を望んでいるのだろうか。妻たちが経済的に自立しているからだとか、財産分与や年金受給の分与が出来るようになったからだと思っているらしいが、それが卒婚の理由ではない。あくまでも、結婚生活における夫の態度に我慢がならないのである。我慢に我慢を重ねて熟慮した選択だから、決心は変わらないのだ。

妻が卒婚する原因は、夫のこんな態度や姿勢である。夫は家庭に安らぎを求めている。男は職場において全身全霊を傾けて仕事をする。男というのは仕事第一主義である。したがって、職場で仕事にエネルギーを使い果たしてしまい、家に帰るとのんびりと過ごしたがるし、家事育児に協力しようとしない。帰宅すると、テレビを見たりゲームをしたりするだけで、ソファに横たわっている。または、自分の趣味に没頭するか、PCやスマホに心を奪われている。家庭は自分だけの安らぎの場所だと勘違いしているのである。

それぐらいなら妻はまあ仕方ないかと諦めているが、我慢ならないのは夫が妻の話を聞こうとしないし、妻に共感しないという点である。しかも、妻の気持ちを少しも解ろうともしない夫のことが許せないのだ。夫は妻に対して優しい態度を取ることもある。例えばバースデーの贈り物やクリスマスのプレゼントはしてくれるし、たまには豪華な食事にも連れて行ってくれる。しかし、そんな優しさは見せかけだけだと妻は知っている。そういう優しさを見せるのは、夫の自己満足に過ぎないことを百も承知なのだ。職場では無理して『いい人』を演じているのに、家庭では身勝手で自己中の夫なのである。

育児についても、夫の態度は我慢ならない。普段の子どもの世話は、殆どを妻がやっているが、何かのイベントだけは自分が中心的な役割を果たして、子どもの点数稼ぎをしたがる。育児はお前に任せたと、一切口出しをしないが、何か子育ての問題が起きると『お前の子育てが悪いからだ』と責める。学校で何か子どもの問題が起きると、仕事を言い訳にして逃げたがる。いじめや不登校などの問題が起きて、母親の手には負えないから父親になんとかしてほしいと頼んでも、仕事だからと学校に行きたがらない。こんな父親では、子どもは信頼しないし、妻も愛想を尽かす。

男は結婚するまでは、交際相手の尊厳を認め自由を認める。ところが結婚すると豹変する。自分の所有物だと勘違いし、自分の理想の伴侶であってほしいと強く思い、自分の価値観を押し付けたがる。自分に都合の良い妻になるように仕向けるし、妻の行動を制御したがるし支配する傾向になる。それが上手く行かないと、怒りを爆発させたり暴言を吐いたりする。そんなことを出来ないひ弱な夫は、自分の思い通りにならないと不機嫌になるし、黙り込んでしまう。まるでイプセンの戯曲『人形の家』のノラのようである。我慢に我慢を重ねてついにノラも家を出て卒婚する。人間とは、本来は自由に生きる生物である。あまりにも自由を制限され尊厳を認められないと、妻たちは卒婚する。

中高年のひきこもりが深刻化

45歳のひきこもり男性が、亡くなった71歳の母親と10ケ月もの長期間同居していたという事件が起きた。ひきこもりやニートの方々が高齢化している実態が明らかになりつつある。そして、これらのひきこもりやニートの方々が、固定化していると共に深刻化しているという。今までは、ひきこもりやニートというと若者だけの実態かと思われていたが、中高年のひきこもりニートが増大しているし、保護者も高齢化して亡くなってしまうケースも多くなることだろう。そうすると、社会問題としてより深刻になる。

ひきこもりやニートを完全に乗り越えたというケースは極めて少ない。深刻な症状がある程度改善されて、買い物やレジャーには行けるまでになったとしても、完全な社会復帰をして、経済的にそして精神的にも自立する例は殆どない。民間の業者がひきこもり対策の施設を運営しているが、その実績は芳しくない。NPO法人や市民活動団体が支援しているものの、その効果は限定的である。ひきこもりやニートに対して、行政側として積極的に支援することが出来ない。ひきこもりを乗り越えるのは、極めて困難なのである。

ひきこもりやニートを乗り越えるのが、どうして難しいのだろうか。その解決に対してサポートする機関が少ないし、サポート施設が実力不足だということもあろうが、根本的な解決法を見出していないからである。そもそもひきこもりやニートになる根本原因さえ掴めていないのだから当然である。ひきこもりやニートになるのは、自己責任だと思っている人が大多数である。当事者をよく知っている親でさえ、当事者の性格やパーソナリティに歪みがあるからだと思い込んでいる。これでは、乗り越える糸道さえつかめない。

さらに、ひきこもりやニートになってしまった本当の原因を、当事者さえも認識していないことが多い。いじめや不適切指導、パワハラ、何らかの挫折などのきっかけで不登校や休職に追い込まれ、それからひきこもりやニートになるケースが多いが、本当の原因は他にある。何故かというと、同じような経験をしても不登校や休職に追い込まれない人がいるからである。誰でも同じような経験をしているにも関わらず、いじめや不適切指導、パワハラ、挫折を乗り越えている人が多い。それじゃ、ひきこもりになるかどうかの分岐点はなんだろうか。

そのヒントは、家族にあるように感じる。何故なら、子どもがひきこもりやニートになるケースの殆どが家族の関係性に問題があるように思えて仕方ないのである。一見するとうまく行っているように見える親の夫婦関係と親子関係が、実質的に劣化しているケースが殆どである。劣化や低下というレベルではなくて、関係性が破綻しているケースでは子どもが例外なく問題行動を起こしている。つまり、不登校やひきこもりが起きる本当の原因は外部にあるのではなく、家庭内部の関係性にあると言える。

したがって、当事者だけをいくら支援したとしても、ひきこもりやニートは解決しないのである。ひきこもりやニートを乗り越えるには、家族療法が必要不可欠であり、その家族療法は単なる家族カウンセリングではなくて、オープンダイアローグのような最新の心理療法に基づく家族療法が必要であろう。中高年のひきこもりやニートの親が高齢化して、家族療法の対象者として不適格になる前に、適切なオープンダイアローグ療法を受けなければならない。ましてや、親が亡くなってしまったら、家族療法が不可能になる。オープンダイアローグ的家族療法が出来るうちに、中高年者のひきこもりやニートを救いたいものである。

家族療法というと、親の子育てが悪いいから子どもの問題行動が起きたんだと結論付けたいセラピストやカウンセラーが多い。したがって、家族療法を拒否する親が多い。ましてや、父親が家族療法を積極的に受けるケースは稀である。誰だって自分の非を認めたくない。しかも、他人から自分の至らなさを指摘されたら、否定したくなる。特に問題がある父親ほど家族療法を受けたがらない。子どもの問題行動の原因が自分にあると言われるのが怖いのであろう。特に、社会的地位や評価が高く、教養と学歴、そして収入が高いほどその傾向が強い。そして、ひきこもりやニートは不思議とそのような父親のケースが多い。オープンダイアローグは、けっして批判したり否定したりしない。診断もしないし、原因も追究しない。だからこそ、父親もオープンダイアローグを拒否しない。深刻化している中高年のひきこもりやニートを救うには、このオープンダイアローグしかないと思われる。

※「イスキアの郷しらかわ」では、オープンダイアローグ的家族療法を駆使して、ひきこもりやニートの社会復帰を支援しています。家族療法というと、一時間10,000円前後という高額のカウンセリング料金を請求するカウンセラーが殆どです。しかし、イスキアでは日帰りではおひとり2,500円のランチ代だけの負担で実施します。宿泊の場合は、1泊2日8,500円だけの負担で、他は一切費用がかかりません。まずは、「問い合わせフォーム」から申し込み・相談をしてください。当事者、保護者のどちらからでも受け付けます。

本音での親子対話が途絶える時

親子の対話がほとんどないという家庭が多い。または、日常的な会話はあるけれど、本音で語り合うことはまったくないという家庭が少なくない。おそらく、本音で対話(ダイアローグ)をしている家庭は皆無に近いであろうと思われる。それは、親と子のどちらかに原因がある訳ではないが、そうなった責任は親にあると言えるだろう。何故なら、そのような親子の関係性を築いてしまったのは、年齢的にも力関係でも上にあるのは親だからだ。

いや、我が家では娘といつも友達のような会話をしているという母親がいるかもしれない。確かに、テレビ番組、タレント、ゲーム、料理、飲食店、ファッションのような話題で盛り上がっている母娘は少なくない。しかし、その話題は非常に薄っぺらであり、もっと人間の根源的な生き方とか、人間の闇を抉り出すような話はしていない筈だ。実は、そういう話こそが子どもたちは求めているにも関わらず、父子の間でも常に避けているのだ。

何故、本音で語り合うことを止めてしまったのかというと、子どもが信頼するに足りるような親としての姿勢を見せていないからであろう。または、親が子どもの本心に向き合っていないし、本心を解ろうとする努力をしていないからだ。子どもというのは、観るもの聴くものすべて初めてのことだらけである。自分も含めて幼い子どもの時を思い出してほしい。どうして良いか分からない時は、親に気兼ねなく尋ねたに違いない。でも思春期を迎える頃には、大切なことほど親には聞けなくなってしまうのである。

子どもというのは好奇心が旺盛である。自分がどういう存在であり、何故生まれてきたのか、そしてどこに向かって生きて行けばいいのかを自分に問い続けている。しかし、残念ながらそういう問いに対して、的確に答えられる親が居ないのである。親自身がそんな問いに答を導き出せる、正しくて高邁な価値観を持っていないし、科学的に明確な哲学を知らないのである。そんなこと、誰も教えてくれなかったし、自分でも学ぼうとさえしなかったのだから当然だ。自分の親もそして周りにも、哲学を語れる人は存在しない。

本来、学校の教師やお寺の僧侶、そして神主や禰宜というのは、そういう哲学を教示してくれる存在だった。または、職場の上司や経営者は科学的に正しい経営哲学を持っていたものだった。松下幸之助、本田宗一郎、稲森和夫等はそういう経営者だ。今は、一部を除いて『人生の師』はいなくなってしまった。世の中の親は、子どもに対して自信を持って哲学を語れなくなっているのである。学校や職場では、昔は哲学の話で盛り上がったものだった。それが出来なくなったのは、文科省が学校教育で哲学を排除したからである。

子どもの前で、試しに哲学的な話をしてみれば解る。子どもは目を生き生きと輝かせて、話に耳を傾ける筈だ。子どもの純粋な心は、そういう哲学の話が大好きなのだ。私は、子どもたちにいつも哲学的な話をしていたものだった。長男なんかは、私の話に涙を流して感動したと喜んでいた。三男とは、食卓において『エディプスコンプレックス』や『倫理的に何故人を殺してはならないのか』という話題で盛り上がったこともあった。

今の親たちは、子育てにおいて一番大切な話を避けているように感じて仕方がない。自分の本心を覚られるのを避けたい気持ちがあるのか、または自分が仮面(ペルソナ)を被った偽善者であることを見抜かれるのを無意識のうちに逃げているのか分からないが、本音での親子の対話がない。自己マスタリーを成し遂げていない、言い換えると自己の確立や統合をしないで逃げてきた自分だから、本音で対話するのが怖いのであろう。自分を心から信頼していない人間は、自分の本心を語れないのである。

現代人の殆どがアイデンテティの確立、つまり自分がありのままの自分であることを認め受け容れるという自己証明をなしとげていないのである。そんな大事なことを、考えたことも意識したこともないであろう。それが日本人の一番不幸な部分である。だから、本音で子どもと語ることが恐怖なのである。自分の嫌な自己、恥ずかしい自己、醜い自己をないことにしてしまい込んでいる自分だから、それを見透かされるようで怖いのだ。夫婦間でも親子間でも、本音の対話が途絶えているのは、真の自己確立をしていないからである。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、自己マスタリー(自己の確立、アイデンティの確立、自我と自己の統合)の研修を実施しています。親として、夫として、そして妻として子どもやパートナーと本心で向き合い本音で語り合うには、自己マスタリーが必要不可欠です。この学びをしないと、子どもを健全に育てることが難しくなります。是非、自己マスタリーの研修を受講してください。個人レクチャーも承ります。日帰り研修も歓迎いたします。まずは問い合わせフォームからご相談ください。