自分の目で自分を見ていないから心が傷つく

 メンタルが傷ついているクライアントに、「自分のことを自分の目で見ていますか」と尋ねると、この人は何を言っているの?と不思議な顔をされることが多い。それで、「あなたはいつも他人の目を通して自分を観ているのではありませんか?」と聞いてみる。それで、ようやく質問の意図を理解してくれる。言われてみると、確かに自分はいつも自分のことを他人からの評価や批判を気にして観察してしまっていると気付いてくれる。自分を主体的に観察するのでなく、客観的もしくは第三者的に自分を観ているのである。

 

 こんな話をすると、自分を客観的に観るのはいけないのですか?と憮然としながら問われる。勿論、自分を第三者からの目で観ることも必要である。自分の基準だけで自分を見てしまうと、身勝手で自己中心的な見方になってしまう。他人からの目で自分を観るのも、時には必要である。だとしても、自分をまるっきり他人の目だけで見てしまうと、批判されているのではないかと、けなされているのではないかと、気になって仕方ない。そして、やがては他人の目が怖くて人目を避けたくなってしまう。

 

 どうして、そんなふうに他人の目で自分を観てしまうのであろうか。それは、小さい頃より親や祖父母から、そんなことをしてしまうとみんなから軽蔑されるよ、嫌われるよと、いつも他人の目を意識させられてきたからであろう。そればかりではない。こんなことしちゃ駄目じゃない、こうしないといけないよと言われ続けて、否定され批判されコントロールされて育てられたからである。小さい頃から、このように干渉や介入をされ続けて育てられると、『自己組織化』ができないばかりか、自己肯定感が育たないのだ。

 

 この自己肯定感や自尊心が健全に育たないと、自己の確立が不可能になるのである。つまり、アイデンテティが確立されないということである。アイデンテティとは『自己証明』とも訳され、自分が自分であることの証明であり、自分らしさを認め受け容れているということでもある。このアイデンテティの確立がされていないと、自分に自信が持てないし、自分の進むべき道や生きる確信が持てないから、いつも不安や恐怖を抱えながら生きてしまうのである。自分の目で自分を見られなくて、他人の目で自分を見てしまうのである。

 

 自己肯定感や自尊感情がなくて大人になってしまうと、いつも不安や恐怖にさいなまれ、社会に出ていくのが怖くなる。ちょっとした失敗や挫折でも、それがトラウマ化してしまうことになる。または、冗談めかしたセクハラやパワハラでもメンタルがやられてしまうし、メンタル疾患になりやすい。パニック障害やPTSDになることも多い。ましてや、世の中は不安だらけだし、人に出会うのも怖い。人の目にいつもびくびくしながら生きるようになる。しまいには、家庭や自分の部屋にひきこもってしまうことにもなる。

 

 メンタルを病んでいる方々は、自己肯定感や自尊心が育まれていないことが多い。そして、自分のことを自分の目で見ていないし、他人の目で自分を見ようとしてしまう。だから、他人からの評価や批判をいつも気にするし、地位とか名誉とかに固執することが多い。学歴、経歴、資格などにこだわる。自尊感情が低いからその反動で、自分を必要以上に大きく強く見せようとするし、他人を否定し蹴落としたくなる。学校や職場でいじめをする人というのは、実は自己否定感が強い人である。セクハラ、パワハラ、モラハラを繰り返す人というのは、自尊感情があまりにも低い人なのである。

 

 メンタル疾患になる人、不登校やひきこもりになる人というのは、自尊感情や自己肯定感の低い人である。いじめられる側といじめる側に分かれるのは、自己否定感から来る怒りや憎しみの感情が、自分に向かうか他人に向かうかの違いであろう。あまりにも自己否定感が強いから、その否定感を打ち消す為に、他人を否定しようとして攻撃するのだと思われる。一方、気が弱い人はその攻撃性が自分に向かうのであろう。いずれにしても、どちらも自分のこと自分の目で見ずに、他人の目で自分を見ている傾向がある。自分のことを自分の目で見ると言う習慣を意識して身に付けたいものである。

車を選ぶ心理から読み解く人格診断

 新車を選ぶのは、実に楽しいものだ。新車が納入されて、初めて乗る喜びも大きいが、それ以上に車種を選んで悩む時が一番楽しい気がする。性能、デザイン、価格、維持費、アフターサービスなどを総合的に分析し、車種を決定することになる。いろんなカタログを取り寄せて、穴が開くほど見つめる。さらには、ディーラーを訪れて実際に見て触れて試乗して確認する。そして、車種が決まると最終的に色やグレードを決めることになる。カラーを第一選択肢とするケースもあるだろう。家族構成も選ぶ際の大事な要素である。乳幼児や家族が大勢いれば、ワゴン車を選ぶだろう。あれがいいこれがいいと選んでいる時が一番楽しいのである。

 

 ここのメーカーでないと駄目だというユーザーもいる。または、ディーラーに対して絶対的な信頼を置いているので、そのお店以外では車を買わないと決めている人もいる。当然、限られた車種から選ぶことになる。環境保護や燃費の観点から、電気自動車やハイブリッドの車を選択する人が増えてきた。SUV車やワンボックスカーでもハイブリッドの低燃費車が増えたせいもあろう。でも、一方では相も変わらず、図体の大きい燃費の悪いRV車を購入する根強いファンがいる。面白いのは、アウトドア派でもないのに大型のRV車を選ぶ人がいるということである。自分のライフスタイルに合わせて車選びをするのでなく、ただ単に見栄や自己満足の為に車を選択しているとしたら、実に愚かしい行為である。

 

 最近の車のデザインを観察すると、流行りなのだろうが、ほとんどの車でフロントマスクに特徴が出ている。きりっとしたフロントマスクというよりは、どちらかというと見る人を威圧しそうなデザインが多い。ヘッドライトは外側のほうがつり上がっていて、まるで怒って目を吊り上げた顔のようなフロントマスクになっている。歌舞伎役者のような顔を思わせる。狭い道でこんな車に出会ったら、思わず道を譲るだろう。デザイナーの好みなのか、それともこのようなデザインにしないと車が売れないのか分からないが、流行しているのは間違いない。美しいとはお世辞にも言えないデザインだが、このようなフロントマスクの車に乗っている人々は、このデザインを気に入っているようである。

 

 さらに、どうしてこんな色の車を選んでしまうのだろうかと思うのだが、黒色の車を選ぶ人が多い。黒ではなくて微妙に紫色や茶が入っているらしいが、まるで黒色にしか見えない。歌舞伎役者のように怒ったようなフロントマスクといい、黒色の車といい、どうしてこのようなデザインと色の車を人は選んでしまうのか不思議としか思えない。必要以上に大型の車もそうだし、人に威圧感を与えるようなデザインと色の車を何故乗りたがるのだろうか。あまりにも強そうな車を選ぶのは、潜在意識がこのような車を選ばせているのかもしれない。このような車を選ぶ人は、何らかの精神的な偏りがあり、その深層意識がわざと人を威圧するような車を選ばせていると考えたほうが自然であろう。

 

 それはどんな潜在意識かというと、強烈な自己否定感情であろう。または、自分に対する自己承認力の低さであろう。その反動で、自分を大きく強く見せようと無意識下で思うに違いない。攻撃的な性格を見せることも多い。だから、必要以上に大きい車、あえて注目を浴びるような車、自慢できるような車、自己顕示が出来る車、自分を強く見せられるようなデザインと色の車を選ぶのだ。心理学的に分析すると、車やファッションで必要以上に自分を偉大に見せようとするに違いない。ということは、自己否定感情の巨大化と自尊心の低さが、巨大なRV車や黒い車の選択をさせていると言えるだろう。

 

 すべての人がそうだとは言えないが、自己否定感や自己不承認感の強い人というのは、自己の確立が出来ておらず、自我の段階に留まっている人である。いわゆるアイデンテティーが確立されていない人間であろう。こういう人は、身に付けるファッションにも同じ傾向がある。黒い色の服や派手色の洋服を選ぶし、人を威圧するようなデザインのファッションにしやすい。ブランドもので着飾ることも多い。時計や装飾品も、ブランド品やギラギラするようなものを身に付ける。髭を生やす人も少なくない。こういう人は、強引な運転や威圧的な運転をしやすい。このような人間が増えているというのは危険なことであり、実に情けないことでもある。こういう車が後ろからやって来たら、事故に巻き込まれたりあおり運転をされたりするから、先を譲ったほうが賢明だ。

どん底に大地ありとU理論

「どん底に大地あり」と言ったのは、長崎の原爆被爆者で放射線医の永田隆先生である。奥さんを原爆で失い、本人も原爆後遺症の白血病で苦しみながら、原爆病の研究を続けた。その永田先生は、苦しい境遇の若者から「神は本当にいるのですか?」と問われ、「どん底まで落ちろ」と答えたらしい。そして、「どん底に大地あり」と続けた。どん底にも自分の足で立つ地面がある。一度どん底に落ちて、そこで大地を踏みしめた人にしか、本当の幸福は感じられないし、得られないという意味であろう。けだし名言である。

 

永井先生はクリスチャンで、あの名曲「長崎の鐘」が出来るきっかけを作った人物でもある。永井博士の病室兼書斎を「如己堂」と言う。自身の生きる指針としていた新約聖書の一説 「己の如く人を愛せよ」からその名がつけられたと伝えられる。放射線医として、原爆で大けがを負いながらも被爆者たちの治療を続けて、43歳という若さで力が尽きた。永井先生の言いたかったのは、人間が真の自立を確立するには、精神的にどん底に一度落ち込む必要があるということではなかろうか。それは心理学でも、U理論として確立されているものだ。

 

そのどん底というのは、とことんまで不幸な境遇のことだと思いがちだ。しかし、そのどん底というのは、精神的にどん底に落ち込むという経験のことである。人間というのは、本来誰にも知られたくない醜さや弱さを持っている。身勝手で果てしない欲望を持つし、汚れた心を持っている。このようなマイナスの自己を自分が持っていることを認めたくないし、ないことにしまっている。ところが、苦難困難や人間関係での破綻を経たり、メンタルをとことん病んだりして、このマイナスの自己を自分が持っていることをある時に気付くのである。これが精神的などん底である。

 

人間という生き物は、うつ状態や抑うつの心理状態に追い込まれるのを避けたがる。自分に対する否定感情を持ちたくないのだ。だから、自分自身の中に存在する醜くて弱い心をないことにして生きている。または、敢えてそういうマイナスの自己を持っていることを気付かないようにしているのである。つまり、自分はプラスの自己だけを持っていると思いたがるのだ。マイナスの自己を持っている自分のことがとことん嫌になって、精神的などん底に追い込まれるのを避けたいのである。例え落ち込んだとしても、どん底までは落ちず、中途半端なレベルで浮き上がろうとする。

 

このように、中途半端な落ち込みで浮き上がってしまうと、その後何度も落ち込みを経験することになる。何度も何度も辛い目に遭ったり、苦しい経験を繰り返したりするのは、どん底の精神状態まで落ちこまずに逃げていたからである。自分のマイナスの自己である醜さや弱さを、認め受け容れて、とことん追求して糾弾することは、ある意味恐怖である。自分の嫌な部分を素直に認めると、自分を嫌いになり立ち直れなくなる。生きる意味や生きる目的を見失うことになるかもしれないからだ。ところが、それはまるで逆なのである。

 

人間は、誰でも自分自身の心の奥底に醜さや弱さを持っている。汚れた自己を持つ。それを心から認め受け容れて、自分自身が嫌になり精神的などん底に落ち込まないと、真の自己確立が出来ない。何故ならば、自分の中にそんなマイナスの自己をないことにしてしまっていると、関係する相手にそのマイナスの自己を発見した時に、相手を赦せないし、受け容れることができない。例えば、配偶者や恋人、自分の親や子に、そんなマイナスの自己を発見したら、嫌いになってしまうし愛せなくなる。マイナスの自己を持つ自分を赦し愛せないと、自分に関わる相手をまるごと愛せなくなるのだ。

 

U理論というのは、一度精神的にとことん落ち込んで、どん底であるUの底から這いあがることである。つまり、自分の醜さや弱さ、そして心の穢れを認め受け容れて、精神的にとことん落ち込んでから、浮かび上がる(立ち直る)ということである。このように自分のマイナスの自己を素直に認めることができる人は、日本人では極めて少ないような気がする。だから、自分をまるごとありのままに愛せないのかもしれない。日本人は、自分を振り返ることが苦手だし、自分と素直に対話することさえしないように思う。日本人の多くの人に、U理論を知ってほしいし、どん底にこそ大地があることを認識してもらいたい。怖がらずにどん底まで落ちてみようではないか。

悲劇のヒロイン症候群

悲劇のヒロインのような人生だけは送りたくないと、誰しも強く思うことだろう。でも、自分が悲劇のヒロインのような人生を自ら招いていると知ったら、驚くに違いない。もし、自分の現状が悲劇のヒロインのように、何もかも上手く行かずに悩んでいたとしたら、それは悲劇のヒロイン症候群に陥っているのかもしれない。勿論、そんな疾患名は存在しない。しかし、世の中にはこの悲劇のヒロイン症候群で苦しんでいる人が実に多いし、その事実に気付いていない。この事実を知って適切に対応すれば、悲劇のヒロインから抜け出せるのに。

 

誰だって悲劇のヒロインのような生活を望んではいない。でも、何故か自分の人生は不遇であり、やることなすこと裏目に出てしまう。今度は頑張ろうと思っていても、同じような失敗を繰り返してしまう。学校や職場で人間関係が上手く行かず、不登校になったりひきこもりになったりしてしまう。恋人やパートナーとも上手く行かず、いつも喧嘩別れをしたり捨てられたりすることが多い。結婚しても夫とは正常なコミュニケーションが取れず、DVやモラハラを受けてしまいがちだ。そんな女性が実に多いのである。

 

この悲劇のヒロイン症候群というのは、正式な病名ではないがパーソナリティの欠陥による心の病気だ。メンタルモデルに問題がある為に、知らず知らずのうちに悲劇のヒロインのような役割を演じてしまうのである。代理ミュンヒハウゼン症候群という病気がある。これは、怪我したり病気になったりしているように偽って周りに振舞って注目を集めるという心の病である。しかし、悲劇のヒロイン症候群は、不幸な人生を実際に招いてしまうのである。そして、悲劇のヒロインのような人生を送り続けてしまう恐ろしい心の病と言えよう。

 

この悲劇のヒロイン症候群は、それだけに止まらない。酷くなると、実際に心身の疾患を発症してしまうのである。パニック障害、PTSD、うつ病、双極性障害、各種依存症、PMS、PMDD、妄想性障害などのメンタル疾患を発症してしまう。めまい、突発性難聴、不定愁訴症候群から始まり、乳がん、子宮がん、卵巣がんなどの重篤な身体疾患を発症することも少なくない。最近特に多いのが、原因不明のしびれや痛みである。心因性疼痛、線維筋痛症などの神経性疼痛で悩まされる女性が多い。悲劇のヒロイン症候群の影響である。

 

どうして自らが悲劇のヒロインのような役割を演じてしまうのかというと、端的に言えば愛情不足からである。愛に飢えているから、愛を渇望している。それも、乳幼児期における子育てに問題があり、あるがままの自分をまるごと愛される経験をしていない。だから、自尊感情が育っておらず、自己否定感が強い。両親、とりわけ母親からの無条件の愛(母性愛)が不足しているから、いつも満たされない心が存在する。悲劇のヒロインになって周りから同情を得て、愛してもらいたいのである。そして、強烈な生きづらさを抱えて生きている。悲劇のヒロイン症候群の根底には愛着障害が存在しているのである。

 

自分では親からたっぷりと愛情を受けて育ったから、愛着障害ではないと思っている人が多い。しかし、その愛情は過干渉や過介入の愛であり、支配愛や所有愛である。無条件の愛、または無償の愛ではなくて、親の思い通りの人生を歩むように仕組まれた愛である。ダブルバインドという極端な子育てをされているケースも多い。その証拠に、成人すると母親と一緒にいると気詰まりになったり不機嫌な気持ちになったりすることが多い。母親との豊かな愛着が形成されていないからである。母親もまた愛着障害なのであるから、子どももまた愛着障害になるのは当然である。愛着障害は世代間連鎖するのである。

 

悲劇のヒロイン症候群は一生治らないのかというと、けっしてそうではない。まずは、自分が愛着障害であるということを認識することが必要だ。そのうえで、適切な愛着アプローチ受ければ愛着障害を癒すことができる。そうすれば、悲劇のヒロイン症候群を乗り越えられる。一番手っ取り早いのは、母親の愛着障害を癒すことである。しかし、母親が70代になってしまうと愛着障害を修復するのは難しい。安定した愛着を持ち、共感的メンタライジング能力に長けたセラピストによる愛着アプローチを受ければ、愛着障害を修復することができる。そうすれば、悲劇のヒロイン症候群から抜け出せるであろう。

※イスキアの郷しらかわでは、悲劇のヒロイン症候群(愛着障害)を乗り越えるサポートをしています。自分で悲劇のヒロイン症候群ではないかと気づき、なんとか乗り越えたいと思っている方は問い合わせフォームからご相談ください。

     

    SNS上で誹謗中傷をする訳

    SNS上で執拗に誹謗中傷をされて、自殺をしてしまった著名人の痛ましいニュースが先日流れていた。こういう悲惨なケースは日本だけでなく、隣国の韓国でも起きている。世界的にみても、著名人だけでなく一般人もSNS上で誹謗中傷されるケースは少なくない。自殺として取り扱われているものの、実質的には殺人と言っても過言ではないだろう。こういう誹謗中傷のコメントやリツィートをする人間というのは、まったく反省をしないだろうし、自分は正義を実行しているに過ぎないと思っているから始末に負えない。

     

    このような誹謗中傷を繰り返して実行している輩は、想像している以上に多い。しかも、自分では悪意を持って誹謗中傷をしているという自覚がないので、どんどんエスカレートしていく。SNSにおいて批判的なコメントをされたことを、自分も何度も経験している。知人・友人も嫌な目に遭っている。中には批判的なコメントを何度もされたことでSNSを止めてしまった人もいるし、メンタルを病んでしまった人さえいる。自分は匿名という安心安全な場所に居て、他人を一方的に傷つけるなんて、なんと卑劣なふるまいであろうか。

     

    そもそもSNSというのは、個人の日常を日記としてアップしたり一個人の意見・感想を述べたりする場であり、社会全体に何かを主張している訳ではない。勿論、大統領とか首相などの著名人による発信であるならば、それを政治的に利用しているのだから、批判や否定をされることは織り込み済みなので、仕方ないと言えよう。しかし、あくまでも一般人としての発信で、特定の人を傷つけるような内容でないのなら、取り立てて非難したり否定したりする必要もない。考えが違うなら、こんな意見もあるんだなと、スルーすべきである。

     

    ところが、あくまでも私的な日記や意見発信に対して、批判的なコメントをするばかりか、滔々と自分の反対意見を述べる人もいる。さらには、性格や人格までも否定的して攻撃する輩もいる。自分の意見を述べたいのであれば、自分のサイトで発信すべきであり、他人のサイトでコメントとして意見を述べるべきではない。こういう人間に限って、自分は否定されることを極端に嫌う。だから、怖くて自分のサイトでは、差支えのない情報発信しかしないのである。中には、自分のSNSではまったく情報発信しない臆病者もいる。

     

    このような他人のSNS上で誹謗中傷を繰り返すような人間は、自己愛性のパーソナリティ障害を持つと思われる。他人を否定したり貶めたりするコメントをして、自分自身を肯定したり優越感を持ったりして自己満足するのである。自分は有能な人間であり、誰よりも優れていると思いたがる傾向にある。あらゆることに精通していて、自分は何でもできるという自己万能感に溢れている。そして、自分は特別な存在だから、何でも許されると勘違いしている。だから、人を傷つけるようなことを平気で行うのである。

     

    それでは、何故に自己愛性のパーソナリティ障害の症状を持ってしまったのかというと、根底には自己肯定感や自尊感情の欠如があるのだ。つまり、自分では気づいていない強烈な自己否定感を抱えているのである。自己愛感情が欠落しているのである。だから自分を必要以上に肯定したがるのだ。それもかなりひねくれていて、自分の自己否定感を誤魔化すために、他人を蹴落とす行為をするのである。そんなことをしても、真の自尊感情は高まらないのに、他人のSNS上で誹謗中傷を繰り返して、自己を肯定したがるという複雑な心理状態を示すのだ。実に困った人物なのである。

     

    どうして自己愛性のパーソナリティ障害を持つに至ったかというと、根底に『愛着障害』を抱えているからである。両親特に母親から、まるごとありのままに愛されるという体験を積んでいないのである。つまり、自尊感情や自己肯定感を持てないのは、母親との良好な愛着が結ばれていないからなのだ。ある意味、犠牲者でもある。とは言いながら、自分の愛着障害と自己愛性のパーソナリティ障害に気付かないと、一生嫌われ者で生きることになる。他人のSNS上で批判的なコメントをしたがる人は、自分の異常さに気付いてほしい。そして、自分自身の愛着障害を癒して、他人を誹謗中傷することを止めてほしいものである。

    自己愛性パーソナリティ障害の上司

    職場で自分の直属上司が、自己愛性パーソナリティ障害であるという悲惨なケースがある。こういう場合、陰湿なパワハラやセクハラ、モラハラで部下を徹底的に攻撃してくる。それだけでなく、ハラスメントすれすれで、部下の嫌がる言葉をこれでもかとマシンガンのように浴びせかけてくる。部下に対しては、高圧的な態度で接してくるのに、自分の上司や役員には取り入るのが得意で、仕事ができるというアピールが上手いから評価が高い。したがって、ハラスメントを会社側に訴えても取り上げてもらえず、泣き寝入りせざるをえない。

    自己愛性のパーソナリティ障害(自己愛性PD)を持つ人間が、企業内や組織内で管理職になってしまうとその職場は大変なことになる。なにしろ、自己愛性PDの人間というのは極端に称賛を求める傾向にある。そして権力志向が強い。地位とか名誉、そして評価を何よりも強く求める。そのためには、手段を択ばず他人を蹴落とすことも平気でするし、自分の敵になりそうな人間は徹底的に追い落とす。自分の利益になることしかしないし、損か得かが行動する基準になる。部下の実績を自分のものにするし、ミスを部下に押し付ける。

    歴史上有名な人で、強烈な自己愛性PDを持つ人物がいた。この人物のことを知れば、自己愛性PDの人物というのが、いかに危険かということが解ろう。その人物とは、ハインリヒ・ヒットラーである。彼は、権力を掌中に収めるために、あらゆる手段を講じた。秘密警察ゲシュタポを用いて、敵対する政治家たちを闇に葬った。恐怖を用いて人々の心を支配し、自分に味方せざるを得ないように仕向けたのである。このような人物が職場にいたら、そして管理者になったら最悪だということがよく分かるだろう。

    自己愛性PDの上司がいる職場というのは、周りの人々がメンタルを病んでしまうことになる。休職に追い込まれて、退職を余儀なくされるケースも少なくない。だから、職員の定着率が悪く、社員の入れ替わりが激しい。実に巧妙なやり方で、心をへこませる。自分の意見だと相手に言わないで、皆がこう言っていたよと自分の個人的意見なのに、さも全員の意見のように伝える。このように言われた当人は、多くの人がそういう評価をするんだから、自分が駄目なんだと思い込んでしまう。こうやって同僚や部下を攻撃するのである。

    このような自己愛性PDの上司と、職場ではどのように対応すれば良いのだろうか。どのように接すれば、自分が攻撃の対象にならないのであろうか。勿論、闘って勝てる見込みがあるのなら、攻撃してもよい。その際には、職場における多くの管理職が味方をしてくれるという確信がなければ闘ってはならない。そして、確かなハラスメントの証拠やコンプライアンス違反の証拠を集めてから、闘いをしなければならない。そうでなければ、このような自己愛性PDの上司とは闘わないで、上手にあしらうことを勧めたい。

    自己愛性PDの特性を上手に利用することで、この上司と問題なく接することが可能となる。自己愛性PDの人間は、称賛されることが何よりも大好きなのである。それも、歯の浮くようなお世辞にも喜ぶのだから不思議である。だから、ヨイショをすることが大切なのである。そして、けっして反抗をしてはならないし、会議や公の場でこの上司に反抗したり、プライドを傷つけたりする行為は禁物である。じっと我慢することが求められる。そうすれば、少なくても自分のほうに攻撃の矛先が向かうことはないだろう。

    とは言いながら、自分の正義感や価値観に反する言動をするということになるから、大きなストレスが伴うことになる。まるで太鼓持ちのような言動をするというのは、正直言って辛いものである。本当の心と違う行動をするというのは、自分を否定しまうようで苦しい。だから、けっして心まで相手に売り渡してはならないのである。あくまでも、相手は悪魔のような存在である。自分の身を守るための、仕方ない防衛行為なんだと心得るようにしたい。自己愛性PDの上司を称賛した後で、後ろを振り向いてあかんべえをすることが肝心だ。

    さらに、自己愛性PDの上司の問題ある言動をメモしておくか、録音しておくことを勧めたい。ハラスメントや規則違反の証拠を積み重ねておいて、いつかは反撃の機会を伺うことが必要である。それが、自分の正義感や価値観を損なわない秘訣でもある。将来は、自己愛性PDの上司をぎゃふんと言わせたり駆逐したりするんだと思えば、どんな苦しいことでも耐えられるものである。くれぐれも、そのことを誰にも内緒にすることも大事なことである。もし、本当に信頼できる同僚がいたら協力して証拠集めをするのも良い。正義は必ず勝つのである。

    セックスレス夫婦になる本当の訳

    男どうしならセックスレス夫婦だなんてことは軽々しく言えないみたいだが、女性どうしではこんな状況にあると平気で話題にするらしい。そして、セックスレス夫婦が想像以上に多いというから驚きである。高齢者夫婦ならそれもあり得るが、若い夫婦にも夜の営みがないというケースが多いらしい。統計調査を取りにくいこともあり、公にはされていないが、周りの知っている夫婦は、殆どがセックスレスだというのだ。特に、第一子を設けてからセックスレスになってしまう夫婦が非常に多く、第二子以降出来ないケースも多い。

    セックスレス夫婦の方にそうなってしまった原因を聞いてみると、驚くことに特に理由もないし、男性にとっては思い当たる原因もないというのである。そして、セックスがなくなったことで不自由感もないし、それが当たり前の夫婦生活になってしまっているというのである。どうやら男性側からも、そして女性側からも求めることがなくなり、自然とセックスレスに陥っていて、それが自然な流れとして定着しているらしい。夫婦仲が特別悪い訳ではないし、一緒に買い物したり食事もしたりするが、夜の交渉だけはないというのだ。それが何年間にも及んでいるので、いまさらどうしようとも思わないという。

    これは由々しき大問題である。それでなくても少子化が社会問題になっているのに、その流れが加速してしまうではないか。ましてや、夫婦関係というのは複雑である。身も心も許し合ってこそ、お互いの信頼関係も深まろうというもの。それが精神的なつながりだけでは、夫婦関係が破綻しかねない。最近は、離婚する若い夫婦が増えているし、仮面夫婦が以外に多いというが、セックスレスがそれを後押ししているかもしれない。夫婦関係だけでなく、恋人関係でも性関係のないカップルが増えているらしいのである。

    日本では、互いの愛情が感じられず、夫婦の性交渉がなくなってしまっても、そのまま夫婦関係を続行するケースが多い。しかし、フランスではカップルの愛情が冷めてしまったら、即離婚するか同居を止めるという。何故ならば、愛情がないのに一緒にいる必然性がないというのである。子どもが居ようとも、それがかすがいになって離婚を思い止まることはない。愛情のなくなった夫婦が一緒にいることによって、子育てにおける悪影響のほうが大きいと認識しているからだ。フランス人は戸籍に縛られることがないと言える。

    日本において、夫婦に性交渉が途絶えてしまう本当の原因を、深層心理学的に考察してみよう。人間という生き物は、本来自己組織化する働きを持つ。つまり、生まれつき主体性・自発性・自主性を持ち、自分の生き方に対して責任性を持つのである。ところが、夫婦として籍を入れると、男性が主要な人生の選択・決定においては主導権を持ちたがる。日常の生活における衣食住の簡易なものは女性が主導権を持つが、重要な決定事項は夫が持ちたがる。そして、夜の営みも男性が主体性を持ちたがるというか、それが当たり前だという先入観念に縛られていて、女性がその選択権を持ってはいけないと思うらしい。

    夫が性交渉を望めば、妻がそれに応じるのは当然で、拒否権がないと勘違いしている。本来は、男性だけにその決定権はない筈なのに、男性上位の古い価値観に縛られているが故に、性関係を持つかどうかは男性が握っていると思いがちである。そして、妻である女性はそれに従うことが、自らの自己組織性を発揮することを阻害されてしまうことから、嫌がる傾向を持つのである。そして男性は、性関係を持ちたいと思いながら、お願いしてまで性交渉を持つことを嫌う。女性に性交渉の決定権を与えるくらいなら、我慢しようと思うのではなかろうか。こうして、夫側も妻側も性関係を望まなくなってしまうと思われる。

    特に、精神的にも経済的にも自立した妻は、この傾向が強い。身も心も夫に依存している夫婦関係であれば、セックスレス夫婦になる確率は低い。ところが最近の女性は、夫に依存した生き方は間違っていると気付き、すっかり自立している。故に、自らの自己組織性を発揮した生き方をしている妻は、自分を見下したような夫の要求に応えることは、アイデンテティを否定されるようで許せないのである。夫が妻の尊厳を認め受け容れ、妻の生き方を尊重することが出来れば、互いの自己組織性を進化させることが出来る。そうすれば、妻の話を傾聴し気持ちに共感できるし、性交渉を嫌がる気持ちも理解できる。妻の微妙な心の揺れ動きも感じることが可能になる。妻を自分が所有していると勘違いし、妻を支配し制御したがるような夫に、妻は身を任せようとはしないのだ。セックスレスになっている本当の原因は、夫の未熟な精神性にあると心得るべきである。

    自分の目で自分を見る

    「僕らは奇跡でできている」というTVドラマで歯科医の水本先生がこんな台詞を言うシーンがある。「私は自分を自分の目で見ずに、いつも他人の目を通して自分を見ていた」と語り、いつも自分をいじめていたとも言い付け加える。これには伏線があり、主人公の高橋一生演じる一輝が水本先生に、「自分をいじめているんですね」と言われていたのである。人は、自分を自分の基準で評価せず、いつも他人による評価を気にしている。だから、必要以上に自分を大きく見せたりする。あるがままの自分を認め受け容れられないのだ。

    人間という生き物は、動物と違い苦しい生き方をするものだ。他人が自分をどうみているかとか、他人からの評価をどうしても気にするものである。他人からの自分に対する批判を耳にすると、落ち込んでしまうし自分を責めてしまう傾向がある。自分の評価を自分ですればいいのだが、小さい頃からの習い性で、どうしても他人の評価を優先させてしまうものである。これは欧米人よりも日本人のほうが、陥りやすい落とし穴みたいである。何故かと言うと、日本人はアイデンテティの確立をしていないからではなかろうか。

    アイデンテティとは自己証明と訳されている。他人が自分をどう見ようとも、自分は自分であり、他人の見方によって自分が変わることはないという自己の確立のことである。自分らしさとか、自分が自分である自己同一性とも言える。揺るがない自己肯定感を得るには、このアイデンテティを確立しなければならない。この自己同一性を持つ日本人が少なくて、欧米人が多い傾向があるのは、その信仰心による影響ではないかとみている人も少なくない。江戸時代は殆どの市民が自己の確立をしていたが、明治維新後に激減した。

    何故、明治維新以降に自己の確立が出来なくなったかというと、近代教育のせいであろう。明治維新後に国家の近代化を推し進めようとした明治政府は、西郷隆盛を政治中枢から追い出して、欧米の近代教育を導入した。西郷隆盛は、欧米の近代教育導入は国を滅ぼすことになると頑迷に反対していたが、大久保利通らが無理やりに導入してしまったのである。この欧米型の近代教育とは、客観的合理性の教育であり、自分を自分の目で観るという内観の哲学を排除したのである。いつも自分を他人の目で見る思考癖を持ってしまった。

    明治維新以後に欧米型の近代教育を受けた人間は、あるがままの自己を認め受け容れることを避けるようになった。自分にとって都合の良い自己は認め受け容れ、誰にも見せたくない醜い自己はないことにしてしまっている日本人が多い。つまり、他人の目をあまりにも気にするあまり、自分の恥ずかしくて醜い自己を内観することを避けてしまったのである。欧米人が日曜ミサや礼拝において、神職の前で醜い自己をさらけ出して、あるがままの自己を確立するプロセスを歩んだのと、あまりにも対照的である。

    身勝手で自己中で、自分だけが可愛くて歪んだ自己愛の強い醜い自己を持つ日本人が異常に増えてしまったのである。だから、自己愛の障害を持つ人間が多いし、揺るがない自己肯定感を持つ人間が少ないのであろう。ましてや、主体性や自発性、責任性などの自己組織性を持つ日本人も極めて少なくなってしまった。これも、日本の近代教育の弊害とも言える。日本の教育における多くの問題の根源も、近代教育の悪影響であると言えよう。家庭における虐待や暴言・暴力、夫婦間の醜い争い、親子間の希薄化した関係性、パーソナリティ障害の多発、愛着障害の多発生、それらのすべての発生要因は、自己の確立が出来ていないことに起因していると言えよう。

    あるがままの自分を自分の目で見ることは、ある意味怖ろしいことである。醜い自己を自分の心の中に発見したら、自分を否定することになるからである。だから、誠実で素直な内観を避けたがるのであろう。他人の目で自分を見ていたほうが楽であるし、自分の醜い自己を見なくても済むのである。しかし、これではいつまで経ってもアイデンテティの確立は出来ない。この自己マスタリーという行為を成し遂げないと、一人前の人間として欧米人は認めない。欧米人から最近の日本人が信頼されにくくなり尊敬されなくなったのは、アイデンテティの確立をしていないからである。もう、他人の目で自分を見るのは止めて、あるがままの自分を自分の目でみようではないか。

     

    ※「イスキアの郷しらかわ」では、あるがままの自己を認め受け容れる自己同一性を持つための研修をしています。この自己マスタリーを学ぶ勉強会を、ご希望があれば随時開催できます。ご希望があれば、問い合わせフォームからご相談ください。

    僕らは奇跡でできている

    一昨日から放映開始された『僕らは奇跡でできている』が実に面白い。関西テレビが作成したTVドラマであるが、とてもよく出来た物語である。午後9時からのゴールデンタイムの時間に民放テレビの初主演だそうだが、高橋一生という役者はどんな役をしても、奥行きの深い演技を見せてくれる。一生ファンにとってはたまらない魅力を感じることだろう。まだ初回なのでよく解らないが、明らかに主人公は発達障害かもしくは自閉症スペクトラムだと思われる。グッドドクターもそうだったが、フジ系列はなかなかやるものだ。

    京都大学大学院卒業の主人公は、動物行動学の大学講師をしている。発達障害であるが故に、頓珍漢な会話や行動をして周りの人々を振り回す。歯に衣を着せぬ言動は、時には相手の痛いところをえぐり抜く。しかるに、その言動がやがて相手がしがみついている古くて低劣な価値観を壊して、新しくて高潔な価値観へといざなう。グッドドクターというTVドラマが描きたかったテーマと似通っている。もう一人発達障害であろう子どもが登場して、高橋一生演じる主人公と心を交わせる。お互いに成長する姿も見せてくれるだろう。

    この『僕らは奇跡でできている』というドラマは、これからどんな展開を見せるか楽しみである。このドラマでイソップ童話の『ウサギとカメ』の物語を題材に取り上げていた。カメが寝ているウサギに、どうして声をかけずに追い越して先にゴールしたのか?と問うシーンが印象的だ。高橋一生はこんなふうに答える。カメは勝ち負けなんてどうでもよく、ただひたすら前に進むことが楽しいんだ。一方、ウサギは勝つことに執着していると。そして、榮倉奈々演じるヒロインに、「あなたはウサギだ」と言い放つ。榮倉奈々は、「自分はウサギではない」と反論するものの、自分の今までの行動に疑問を持つことになる。

    発達障害や自閉症スペクトラムの方々が主人公として描かれるドラマは、これからも増えてくるに違いない。何故なら、現代の子どもたちの3割以上が発達障害だと言われているのである。当然、学校でも職場でも発達障害の方々との付き合いが出てくる。そのような発達障害の方々との交流において、自分たちよりも劣った存在として見下したりいじめたりするような社会であってはならない。ましてや、単に自分たちが支援すべき存在として、一方的にお世話するというような思いあがった気持ちで付き合うのも無礼である。

    この『僕らは奇跡でできている』や『グッドドクター』などのTVドラマにより、彼らの素晴らしい能力や心の清らかさを素直に感じ取り、謙虚に自分の至らなさを気付かせてもらいたいものである。それが、彼らの『個性』を受容し、生かすことにもなろう。今まで多くの発達障害の方々と職場や地域で交流させてもらったが、多くの気付きや学びを彼らから受け取ってきた。そして、思いあがった自分や嫌らしい自分を叩きのめしてくれた。彼らがこの社会に存在している理由のひとつが、我々に大切な何かを教示してくれる為ではないだろうか。お互いに自己成長するには、違う個性を持った人との出会いが必要だ。

    僕らは奇跡でできているというドラマの題名から類推するに、これから自然界における我々人間も含めた生き物が、この地球(宇宙)によって奇跡的に生かされているということもテーマになるのかとも思う。出来たら、最先端の物理学や分子生物学の観点からも、描いてほしいものだと期待している。特に、動物行動学という最先端の学問であれば、生物界におけるシステム論として描くのはどうだろうか。すべての生き物はシステムによって生かされているし、我々人間もシステムに基づいて生命が維持されている。当然、奇跡とも言えるような自己組織化やオートポイエーシスによって存在しているのである。

    このドラマに原作はなく、橋部敦子さんのオリジナル脚本だという。どんな展開になるのか楽しみであるが、単なるラプストリーではなさそうである。この世界では人間も含めたすべての万物の存在そのものが奇跡であるし、すべてがある一定の法則によってその存在が認められている。そして、現代はその一定の法則に反するような生き方によって様々な問題が表れている。その法則の中の最も重要なものが、全体最適であり関係性である。障害者の人たちも含めた人類すべてが、幸福で豊かな社会を築くため、お互いに豊かな関係性を保ち支え合って生きることが肝要である。どこかの大統領や首相のように、自分たちだけの部分最適や個別最適を目指すことの愚かさも、このドラマで描いてほしいものである。僕たちは奇跡でできているというドラマから目を離せない。

    ひきこもりは社会的な支援で解決

    ひきこもりの状態に追い込まれてしまっている人が益々増えている。そして、その実態が明らかにされていない故に、ひきこもりの解決を遅らせてしまっているだけでなく、固定化させてしまっている。当事者の家族が、ひきこもりの実態をひた隠しにしていて、誰にも知らせないようにしているからだ。隣近所の方たちはひきこもりにあることを薄々感じているものの、支援することも相談に乗ることも出来ず、手をこまねいている。

    ひきこもりが増えて固定化しているが、行政は手出しが出来ないでいる。当事者や家族が支援を要請しない限り、行政は何らサポートが出来ないからである。もし万が一、支援を行政に願い出たとしても、ひきこもりを解決する有効な手立てはない。保健師や精神保健福祉士などの専門家が家庭に赴いて支援行為をしようとしても、当事者は面談を受けないであろうし、家族だって面倒なことになることを回避したいと思うに違いない。長年に渡りひきこもりの状態にあり、一応平穏が保たれていれば事を荒立てたくないからだ。

    ひきこもりの方々は、今の状況に甘んじている訳ではない。なんとか現状を打破したいと思っているし、社会復帰したいと願っているのは間違いない。しかし、そんな心とは裏腹に身体は言うことを利かないのである。ましてや、ひきこもりになった原因は、社会における間違った価値観による関係性の歪みや低劣さである。人の心を平気で踏みつけ痛めつけるようなことを日常的にしている、学校現場や職場の人々の悪意に満ちた環境に身を置くことなんか出来やしない。こんなにも生きづらい世の中にどうして出て行けようか。

    そして、ひきこもりの人々がそんな社会に対する不信感を持っていること、さらにはそんな気持ちを家族も含めて誰も理解してくれないことに対する焦燥感が著しいのである。行政や福祉の専門家たちは、そんなひきこもりの当事者の気持ちに共感出来ないのである。そればかりではなく、ひきこもりになったのは当事者のメンタルに問題があり、そのようにしてしまったのは家族に原因があると勘違いしているのだ。これでは、ひきこもりの当事者と家族だって、支援を求めたくなくなるのは当然なのである。

    それじゃ、ひきこもりのからの脱却は、間違った社会の価値観を改革しないと実現しないかというとそんなことはない。適切できめ細かな支援がありさえすれば、ひきこもりを乗り越えることが可能になる。しかし、今の行政に身を置く専門家にとっては、そのような支援は難しい。また、医療や福祉の専門家にも、そのような大変な労力を要する支援を提供する余力はないし、技能もないに等しい。だから、ひきこもりというこんなにも大変な問題が、社会的に置き去りにされてしまっているのだ。

    ひきこもりから脱却するには、どのような支援が必要かというと、次のようなものだと思われる。まずは、支援者はひきこもり当事者の心に共感をすることである。ひきこもりになったきっかけは、それこそ人それぞれで違っている。そういった過去の辛く苦しかった過去を否定することなく黙ってじっと聞いて共感をすることである。当事者のメンタルや価値観に多少の問題があるように感じても、その病理を明らかにしてはならない。ましてや、当事者の行動にこそ問題があったように思っても、批判的に聴いてはならない。あくまでも、本人の気持ちに成りきって傾聴することが求められる。

    出来たら、両親などの家族と一緒に話を聞けるなら、なおさら高い効果が生まれる。ひきこもりの家庭では、家族間での心が開かれた対話が失われている。この聞き取りと共感的な対話が、家族間にあったわだかまりやこだわりを溶かすことに繋がるのである。しかし、支援者はそのような家族間に存在する『病理』を指摘してはならない。あくまでも、現状における困っている事実や症状を聞いて行くだけである。その際に、聞き取った内容を出来る限りストーリー性のある言葉で言い換え、詩的で柔らかな表現に置き換えるのである。悲惨なこととして話した内容、憎しみや怒り、妬みや嫉みをストレートに表現すると、相手を非難している感情が強くなり過ぎるからである。

    このように『開かれた対話』を繰り広げて行くと、不思議なケミストリー(化学反応)が起きるのである。当事者とその家族がお互いに大好きで愛し合っているという事実に気付くのである。愛しているからこそ、憎しみという感情に転化している事実にも。そして、その互いの愛情表現がいかに稚拙であったかということに気付くと同時に、それぞれの深い関係性にも思いを馳せるのである。勿論、正しい価値観や哲学を学ぶことにもなるし、間違っている社会であってもそれに対処していける勇気を持つことが出来る。家族の豊かで強い愛が感じられれば、人間は強く生きられるのである。これが『オープンダイアローグ』という支援である。このようなオープンダイアローグにより、ひきこもりの当事者と家族を救えるように、社会的な支援として確立していきたいものである。

     

    ※「イスキアの郷しらかわ」では、このオープンダイアローグを活用したひきこもり解決の支援を実施しています。ご家族でイスキアにおいで頂ければ対応いたします。外出が出来ないという事情があれば、交通費をご負担していただければ、出張もいたします。まずは問い合わせフォームからご相談依頼のメッセージをください。ご親戚の方からのご相談も受け付けます。