夫が嫌いですか?

 夫が嫌いですか?というアンケートを実施したら、21%の妻がYESと答えたという。30歳~59歳1000人の既婚女性に聞いて、嫌いだと答えた人が21%というのは、男性からすると多いと思うことだろう。でも、女性にしたら以外に少ないなと感じたかもしれない。世の中の妻たちは、もっと夫のことを嫌っている人がいる筈なのに、不思議だと思っているに違いない。おそらく質問の仕方が良くなかったのではないだろうか。夫のことが今でも好きか?という質問だったら、7割以上の妻がNOと答えたことだろう。

 様々な意識調査のアンケートをする際に、質問の語句選びによって結果が変わることが少なくない。特に、このような好きか嫌いかという設問においては、微妙なニュアンスよって結果が変わるのは当然だ。この夫が嫌いですか?という質問で何を明らかにしたかったのであろうか。嫌いと思う妻の割合を知って、何を狙ったのだろうか。嫌いかと聞かれたら、はっきりと嫌いだと答えるのは抵抗感があるだろう。嫌いかどうかの二者択一ならば、NOと答えるだろうが、どちらかというと嫌いという選択肢があれば、5割以上が選んだと思う。

 夫婦の意識調査をする度に、妻と夫の意識に温度差がある結果となることが多い。夫は、妻との結婚生活に概ね満足していることが多い。一方、妻の方はと言うと、夫の生活態度やコミュニケーションに不満を持っていることが少なくない。イスキアの郷しらかわの活動で支援させてもらっている既婚女性の殆どの方が、夫に対する強い不満を持っている。不登校やひきこもりの子を持つ母親は、夫との家庭生活に大きな不信感と諦め感を持っている。夫のことが嫌いかと聞けば、間違いなく嫌いだと答えるに違いない。

 不登校やひきこもりの子どもを持つ両親の夫婦関係は、もはや破綻していると言っても過言ではない。経済的に自立している妻のケースでは、離婚していることが多い。家庭崩壊を起こしている故に、子どもが不登校やひきこもりになっていると言えよう。勿論、父親だけが悪いとは言えないが、そもそも家庭崩壊を起こす要因は、大黒柱である父親にあることが多い。不登校やひきこもりを起こしている子どもの両親の夫婦関係は、100%冷え込んでいると断言できる。だから、妻が夫を嫌いだと言う家庭は、既に崩壊していると言える。

 不登校やひこもりの子どもたちに共通しているのは、親の夫婦仲が良くないという点である。不登校やひきこもりの子どもたちは愛着障害であるケースが殆どであるが、その大きな要因は両親の不仲にあると言っても過言ではない。表面的には中良さそうに見えていても、関係性が壊れているケースが多い。不登校やひきこもりの子どもは、HSPであることが多い。常に不安と恐怖感を抱いている。HSPになる原因は、家庭の中に居場所がないからだ。それも、両親の不仲が遠因となっている。安全基地が存在しないのだ。

 両親の夫婦仲が悪くて、いつも夫婦がバトルをして無視をし合っていると、母親の精神状態は不安定になるから、子どもとの豊かな愛着が結ばれない。つまり、妻が夫のことを心から敬愛していて、夫も心から妻を愛していないと、子どもの愛着が不安定になるし、HSPになって自尊心が育まれない。子どもは生涯に渡り、強烈な生きづらさを抱えて生きることになる。不登校やひきこもりになってしまう可能性が高くなる。妻が夫を敬愛できるかどうかで、子どもが幸せになるかどうかが決まるのである。夫のことが嫌いだというような家庭においては、子どもが不幸になるということだ。

 妻が夫のことが嫌いなのか、それとも好きなのかは、単に夫婦間の問題だけではないのである。家族全体の問題であり、子どもの人生における非常に重要な問題なのである。両親の仲が良くて、お互いに敬愛する関係なら、子どもは健全に育つ。子どもの前だけでは良い夫婦を演じているというケースもある。こういう場合、子どもは両親の夫婦仲が本当は悪いんだということを直感的に認識している。経済的に自立出来るのなら、無理して夫婦を演じる必要はない。さっさと離婚して、精神的に安定して子育てをするほうが遥かに良い。『子はかすがい』なんていう諺は、もはや死語になり果てたのである。

親ガチャは努力によって克服できるか

 親ガチャという言葉があるのをご存じだろうか。語源は、ガチャというネットゲームがあり、結果を自分では選ぶことが出来なくて、どんな結果になるのか運次第であることから、親もガチャと同じだということから生まれたという。確かに子どもは親を選べない。どんな親の家庭に生まれるのか、ガチャゲームのように運次第である。特に、親の経済的な貧富の差はいかんともし難く、貧困家庭に生まれた子どもは満足の行く高等教育が受けられず、親になっても同じように貧困家庭になり、貧困家庭の連鎖が止まらないと言われている。

 韓国や米国などでも、親ガチャと同じような概念があって、社会問題になっていると言われている。大きな経済的格差がある社会が形成されるというのは、政治がお粗末だからと言える。親ガチャは子どもの努力によって乗り越えられるのか否かと、ネット上でも盛んに議論されているが、否定する意見のほうが優勢のようである。しかし、一部の経済的に裕福で恵まれた人たちは、努力すれば貧困から抜け出せる筈だと主張する。確かに経済的な面での親ガチャを克服することは、本人が相当な努力をすれば何とか出来る可能性もある。

 しかし、どうにもならない親ガチャがある。子どもが不登校やひきこもりになってしまうのは、親との健全な愛着が形成されないからである。健全な愛着を子どもに対して育んであげることの出来ない親ガチャである。不安定な愛着、傷ついた愛着を子どもに持たせてしまうのは、親の責任である。そして、一旦不健全な愛着を持ってしまった子どもは、自分の力ではどうしようも出来ない。ましてや、深刻な愛着障害を持つ子どもは、一生に渡って苦しむことになる。問題ある親が劇的に変わらなければ、子どもは愛着障害を乗り越えられない。

 あるがままにまるごと我が子を愛する母親と、何があっても子どもを信頼して守ってくれる強い父親がいれば、子どもは健全な愛着を持つことができる。無条件の愛で包んでくれる母親と、いかなる時も妻と子どもの為に命を惜しまず闘ってくれる父親がいてこそ、子どもは安心して暮らせる。つまり、安全基地が保証されてこそ、子どもは安心して学校生活を過ごせるのである。豊かな母性愛と父性愛で満たされてこそ、子どもは揺るがない自尊心を持てて、どんな困難や苦難にも立ち向かう勇気を持てるのである。

 ところが、不安定な愛着や傷ついた愛着しか持てない子どもが育ってしまうことがある。それは、あまりにも過干渉や支配とコントロールを繰り返すような両親の元に生まれた場合である。または、ダブルバインドのコミュニケーションによる子育てを日常的にする両親に育てられた時である。勿論、虐待やネグレクトをするような両親なら、間違いなく愛着障害になってしまう。これもまた深刻な親ガチャである。このような親ガチャが当たってしまったら、自分の力で乗り越えることは出来ない。愛着障害を自分で乗り越えるのは不可能だ。

 愛着障害の両親に育てられた子どもは間違いなく愛着障害になってしまう。貧困家庭が世代間連鎖する確率が高いと言われるが、愛着障害の世代間連鎖は100%に近い。絶対的な自己肯定感を持つ子どもに育たないのは、両親自身が絶対的な自己肯定感を持ち得ていないからである。自尊感情というのは、0歳から3歳頃までに、無条件の愛でまるごとありのままに愛されなければ育たない。つまり、絶対的な自己肯定感を持てるかどうかは、親ガチャで当たるかどうかなのである。自分の力ではどうしようもないのだ。

 このどうしようもない親ガチャにより愛着障害になってしまった子どもは、一生生きづらさを抱えて生きることになる。親が自らの子育てを反省し、子どもに心から謝罪し、悔い改めて子育てをし直せば、愛着障害が癒されるかもしれない。しかし、そんなケースは皆無である。親自身が愛着障害なのだから、子どもの安全基地になれないのは当然だ。しかし、この深刻な愛着障害である親ガチャを克服する方法がひとつだけある。この愛着障害の親子を癒すことができる、優秀なセラピストがサポートして、安全基地の機能を果たすことである。時間はかかるが、不可能ではない。親ガチャを乗り越えるには、この方法しかない。

夫婦別姓にすると離婚が増えると言うが

 夫婦別姓に反対する人たちは意外と多い。最高裁の女性判事でさえ夫婦同姓の制度を合憲とする意見を述べているのにはびっくりする。夫婦同姓を絶対に譲らないというのは、夫婦別姓を認める制度にしてしまうと日本の家族制度が崩壊してしまうという理由からであろう。確かに正当な主張だと思われがちである。しかし、その主張は本当に正しいのであろうか。夫婦別姓の制度にすると、夫婦の絆が希薄化してしまい、離婚が増えてしまうのではないかという心配は、反対論者も賛成論者も共に持つのかもしれない。

 夫婦別姓の制度にすぐに踏み切ろうという世論が盛り上がらないのは、家族というコミュニティが崩壊するという心配が完全に払拭できないからではないだろうか。日本は、男女平等と言いながら、まだまだ男性中心の社会である。男性中心の『家』に嫁いだ女性がその『家』縛られる。そんな男性中心の家族制度を壊したくないというのが、夫婦別姓反対者の本音であろう。夫婦別姓が実現したら、嫁は『家』に帰属する意識が低くなり、夫婦の絆が薄くなり離婚が増えるという主張をしている。このような考え方に同調する人が多いのも当然だ。

 しかし、この主張は科学的に考察すれば、まったくの間違いだと気付くことだろう。心理学、システム工学、脳科学、生物学、物理学、行動生理学、社会行動学等を基礎にして考察したら、夫婦別姓にすると離婚が増えるという主張は間違っているばかりか、夫婦同姓が逆の効果を生んでいるということが明らかになる。それは、人間と言う生き物が何を基準して考えて行動するのかという視点がないし、人間社会全体の幸福の為にはどちらの制度が必要なのかという視点が欠如しているからである。個人最適ではなく全体最適の視点が必要だ。

 この社会は、ひとつのシステムである。家族というコミュニティもひとつのシステムである。システム論という科学的な理論でもって、夫婦同姓と夫婦別姓のどちらが正しいのかを論じるべきなのである。家族というシステムは、豊かな関係性(絆)によって保たれている。家族というシステムが崩壊するかどうかは、家族それぞれの関係性によって決められている。夫婦の姓が同じか別かによって、関係性が豊かになるのか希薄化するのかが決められる訳ではない。そもそも、夫婦関係が壊れるのは元々関係性が良くないからである。

 つまり、夫婦別姓であろうとも夫婦の関係性が良ければ離婚することはないのである。親子関係や夫婦関係が良好であるならば、家族が崩壊することは絶対にない。夫婦同姓であっても離婚しているのは、そもそも夫婦の関係性が壊れているからなのである。家族というシステムが、夫婦別姓にしたから崩壊するのではなく、そもそも夫婦の絆が希薄化しているせいなのだ。夫婦同姓という制度に胡坐をかいて、夫婦の関係性を良くしようとする普段の努力が足りないのである。あたかも自分の所有物や支配物のように妻を扱う夫が、妻の愛情を失って、関係性を損なっているのだ。

 夫婦同姓の制度は、お互いに支配や制御の関係を求めてしまうし、依存の関係に陥りやすい。人間と言うものは、自由を求めているというか、自己組織化しなければ本来の機能を失ってしまうのである。夫婦同姓というのは家族への帰属意識を高めてしまうが、それは人間本来あるべき生き方を阻害してしまう。帰属意識というのは、予め強いるものではなくて、結果として生み出さられるものである。強制的に帰属意識を求めるのではなくて、関係性(愛)が強くなって、帰属意識が高まるのだ。帰属させようと無理強いすると、愛が冷めるのだ。

 夫婦別姓にすれば、夫は安穏としていられなくなる。常に、妻から愛される存在でなければなくなる。自分を絶え間なく磨いて成長し、妻から認められて惚れ続けられることになる。夫が家事や育児に協力するのは勿論、毎日ハグやキスをして『愛してる』と言い続ける。妻も、それに応えて夫に愛を注ぎ続けることになる。夫婦別姓にすることで、夫婦の絆は間違いなく強くなるし豊かなものになっていくに違いない。家族の関係性も豊かになり、家族というシステムも自己組織化してオートポイエーシスの機能も働く。つまり家族は幸福になるのだ。科学的に考察すれば、夫婦別姓のほうが正しいというのは、こうした理由からである。

宇宙人の夫と暮らす

 宇宙人のような夫と悩み多き暮らしをしている妻が多いと、前回のブログで発信した。それでは、悩み苦しんでいる妻はどうすれば良いのだろうか。この暮らしを捨てることが出来るなら、そうするのが一番の解決である。ところが、経済的な理由とか子どもとの関係、または親の反対などで、どうしても離婚に踏み切れないケースもあろう。そうした場合は、宇宙人のような夫との暮らしを続けないとならない。どうしたら、自分の心が折れたり傷つけられたりしないように、心穏やかに暮らせるのかを、知りたいと思う妻も多いだろう。

 家庭においては、宇宙人のような言動をする夫であるが、社会的な地位や評価を得ていて、経済的にも裕福な生活をさせてくれる夫であれば、周りの人は良い旦那さんですねと、もてはやすであろう。そうすると、宇宙人のような夫だと感じるのは、自分が正しい評価や考え方をしていないからではないかと疑心暗鬼になる。そして、宇宙人のようだと感じてしまうのは、自分の方が悪いのではないか、至らない妻ではないかと思い込んでしまう。それ故に、自分を責めてしまうし、我慢しなければならないと勘違いするのである。

 しかし、間違っているのは夫のほうであるし、妻はまったく悪くない。そのことを先ずは認識しなければならない。宇宙人のような夫と暮らすのは、どんな女性でも難しい。確かに、優しいところもあるし、高額のプレゼントをしてくれるし、たまには高級レストランにも連れて行ってくれるかもしれない。海外旅行にも行けるし、高級車にも乗せてくれるだろうが、毎日憂鬱な思いをさせられるマイナス面が、帳消しになる訳ではない。妻の話を聞いてくれないし、気持ちを解ってくれない。自分の興味がないことは無視する。そういう人間なのだ。

 なにしろ、宇宙人の夫は自分が一番なのだ。自分の考えに妻が従わないと、途端に不機嫌なる。妻は自分の所有物だと言わんばかりの行動をする。妻は自分の召使いだと勘違いしているような言動をする。妻を支配したがるし、コントロールしたがる。妻が自分の思い通りにならないと、怒り出したり黙り込んだりする。パワハラやモラハラを繰り返す。妻を常識がないと叱ったり、だからお前は駄目なんだと、何度も否定したりする。妻は、夫から批判され否定され続け、自己否定感を植え付けられて、メンタルを病んでしまう。

 常識がないのは、夫の方であるし、駄目なのは妻ではなくて夫のほうなのである。人間として、低劣な価値観を持っているのは夫なのである。全体最適を目指していなくて、個人最適を求めているのは夫である。自分の幸せや豊かさを第一に考えているのだ。家族全体の幸福や豊かさを求めるという、全体最適の価値観を持っていないのである。家族の幸福を考えていると言いながら、妻の気持ちに寄り添っていない。家族全体の幸福を実現しようと、自分を犠牲にして頑張っているのは、いつも妻ばかりなのである。

 こんな宇宙人の夫と、どうしても暮らさないとならないのであれば、『夫は宇宙人』だと割り切ることである。宇宙人とコミュニケーションが成り立たないのは、当たり前である。妻の話を聞かないのは、宇宙人だから仕方ない。妻の気持ちを解ってくれないのも当然である。日本人なら思いやりもあるし、慈悲もある。しかし、日本人ではないし人間ではないのだから、妻を慈しむ気持ちなんてありはしない。宇宙人には、一切期待しないことである。夫は、生活する為のお金を引き出すことが出来るATMの機械だと思えば良い。

 家事や育児は、ひとつだけでもしてくれたら有難いと思えば良い。どんな酷いことを言われようとも、無慈悲な仕打ちをされようとも無視することだ。夫に対しての怒りは忘れることにしたほうが良い。怒りは自分の心身を滅ぼす。パワハラやモラハラをされたら、夫に従っているふりをしていればいい。しかし、心は絶対に従わないことだ。心の奥底では、バカな人間だと蔑んでいればよい。巧妙に家計を誤魔化して、へそくりを貯め込むのもよい。何か資格を取る勉強をして、いつかは離婚できる日を迎える準備を着々と進めるのが賢明だ。いつか離婚できる日を夢見ていれば、何とかやり過ごせるに違いない。

私の旦那様は宇宙人

 自分の夫が、まるで宇宙人のようだと感じている妻はすこぶる多いに違いない。何故、宇宙人のようだと言うと、夫婦なのにまともなコミュニケーションが成り立たないからである。いや、夫婦なのにという表現は適切でない。夫婦だからこそ、コミュニケーションが成り立たないのである。そして、その為に多くの妻たちが悩み苦しんでいるということさえ、宇宙人の夫は知らないのである。そんな馬鹿なと、世の中の男性は思うかもしれない。しかし、これは真実なのである。宇宙人のような旦那様の為にメンタルを病んでいる妻が多い。

 宇宙人のような夫というのは、どういう意味かと言うとこういうことだ。まずは、妻の話を聞いていないのである。『地図が読めない女、話を聞かない男』というベストセラーになった本がある。あの本で男性がいかに話を聞かないかということが脳科学的に説明されていたが、夫婦間においてはその傾向が益々強くなるのである。妻が言うことを夫は聞いているように見えるが、まったくその心には響いていない。夫のメンタルモデルが低劣な故に、妻の話を傾聴しないし共感できないのである。だから話が噛み合わないのだ。

 宇宙人の夫は、さらに困った言動をする。なにしろ、自己中心的な言動をするし、身勝手なのである。家族の為に頑張っていると言いながら、家族全体の幸福を目指しているとは思えないような行動を平気でする。確かに仕事は真面目にこなしているし、裕福な暮らしをさせてくれている。職場では高い地位や評価を得ているらしいし、物分かりの良い職員で通っているという。しかし、家庭では我がままだし、頑固なのである。さらに、アスペやADHDのような言動をする。まさしく、予想が出来ない困った行動をするのである。

 こんな分らず屋になったのは、結婚してからである。結婚前に付き合っていた頃は、至ってまともであった。おかしいなと思う部分はあったものの、話を真剣に聞いてくれたし解ってもくれた。優しくもしてくれたし、思いやりのある言動をしてくれていた。ところが、結婚して数か月過ぎた頃から様子が変わってきた。思い通りにならないと、面白くない表情や態度をするし、黙り込んでしまうことも度々ある。やがて、家族のことよりも自分の趣味や娯楽を最優先するようになる。仕事を言い訳に家事や育児も放棄する始末だ。

 こうなってしまった旦那様を、心から愛せる妻なんている訳ないだろう。こんなにも人が変わるなんて信じられないであろう。しかし、それは間違いである。結婚する前は仮の姿であり、今の宇宙人のような夫が本来の姿なのである。無理して猫を被っていただけであり、元々変な人だったのである。相手に気に入られようと必死で、本心を隠していただけなのであり、結婚して安心して本来の自分を現したのである。だから、結婚する前のような優しい夫に戻ることは期待できない。二度とあの思いやりのある旦那には戻らないのである。

 何故、結婚すると宇宙人のような夫になってしまうのかというと、元々彼は発達障害や自閉症スペクトラムの傾向があったのである。それでも、外では普通の社会生活や職場生活が営めるのである。外では気を張って過ごしているので、宇宙人のような性格や人格を出さない。ところが、家庭では気が緩んでしまい、本来の宇宙人のような性格や人格を現してしまうのである。こういう人間は、知能が高いし、学歴も高いケースが多い。医師、教師、行政職、技術者、政治家、法律家、科学者、文芸家、芸術家として成功している例が多い。

 発達障害や自閉症スペクトラムの傾向を持つ旦那様なんてそんなに多くないと思うだろうが、そんなことはない。日本人の旦那様の約7~8割は、宇宙人のような性格や人格を持つと言っても過言ではない。まともな旦那様なんて、世の中では圧倒的に少数なのである。自分の夫が宇宙人のようだと嘆くことはない。世の中の旦那様なんて、皆宇宙人のようなのである。東大の名誉教授で社会学者の上野千津子さんが、「あら、男性なんてみんな発達障害みたいなものよ」と言ったというのは有名な話である。宇宙人のような発達障害の夫を伴侶に持つ妻は、カサンドラ症候群になりやすいので注意が必要だ。夫は元々宇宙人なんだから正常なコミュニケーションは無理なんだと諦めてしまえば、気が楽になるに違いない。

夫婦別姓の司法判断が先送り

 最高裁大法廷で25年振りに、夫婦別姓についての憲法判断を問う裁判が行われ、夫婦同姓を強いる民法の規定は合憲だとする判決が出された。この判決に対して、世界の潮流からは乗り遅れた前近代的な判決だと報道するマスコミが多いが、ネット上では判決が当然だというコメントが多いのは、意外であった。ネット上で判決に好意的なコメントをするのは、圧倒的に男性が多いようだ。合憲判決とは言いながら、夫婦別姓の問題は憲法判断にはそぐわないので、国会で討議すべきだとして合憲判断から司法が逃げたとも言えよう。

 

 国会で討議すべきだというのは、司法の最高機関である最高裁として如何なものだろうか。国会で討議すべきだと言うが、夫婦別姓の民法・戸籍法改正案を国会にて審議しようとしても、自民党の猛反対に遭って、審議させてもらえないのだ。国会で討議が不可能なのに、国会審議が妥当であるなんて、問題の先送りをしているとしか思えない。自民党のお偉方やタカ派の先生方は、絶対に夫婦別姓を認めないとして、門前払いを続けている。夫婦別姓が良いのか悪いのかを議論することさえも拒否するのは、国会軽視と見られても仕方ない。

 

 夫婦別姓に反対する人たちの意見はこういうことらしい。夫婦別姓を認めてしまうと、夫婦の絆や家族の絆が希薄化してしまい、離婚が増えて家庭が崩壊してしまい兼ねない。日本の美点である家族制度が弱体化し、離婚が増えてしまい不幸な子どもを多く生み出してしまうことになる。シングルマザーが増えて貧困家庭も増加するし、老後をひとりで送る人が増えるし、老人介護施設を利用する老人も増えてしまい、福祉財政も破綻しかねないと主張する。日本における親密な家族制度が夫婦別姓によって崩壊してしまうと説いているのだ。

 

 こういう理論を主張する人と言うのは、思い込みが強くて他人の意見を聞かない傾向が強い。論理的に考えることが苦手で、感情論に流されることが多い。自説を曲げないから、議論が嚙み合わないことが多い。日本の国会議員で保守派に属する先生方は、こういう人が多いし、本音と建て前を巧妙に使い分けることが多い。欧米において夫婦別姓を導入しても、家庭崩壊なんて起きていないし、かえって夫婦の絆が深まっているという情報を聞いても、それは日本には当てはまらないと主張して譲らないのである。実に困ったものである。

 

 夫婦別姓を認めない国は、先進国では皆無であり、世界の中でも日本くらいのものである。男女平等の指数が日本は極端に低い。男尊女卑の考え方が強いし、女性蔑視のジェンダーが根強く残っている。家という観念に強く捉われていて、家族制度に縛られている男性が、配偶者を家に縛り付け自分の思うままにコントロールしがちだ。その為にこそ、夫婦同姓が必要なのだ。夫婦別姓になってしまうと、自分の元から妻が離れてしまうのではないか、自分の支配から逃れてしまうのではという不安から、夫婦別姓に反対しているのであろう。

 

 TBSで『リコカツ』というドラマが放映されていた。永山瑛太が演じる現役自衛官が北川景子演じる女性と電撃結婚して、すぐに離婚をしてしまうという筋書きの物語である。永山瑛太の父親も元自衛官で、男性中心の家庭しか考えられない古臭い親父で、家系や家訓に拘る男性である。そして、この父親もまた妻から愛想を尽かされてしまい、独りぼっちになってしまう。日本の古い家族制度に甘んじてしまい、自分の妻や子に対する配慮や思いやりを忘れた父親(夫)は、家庭崩壊を生み出すということである。自分の独善的な生き方の間違いに気付き、生き方をドラスティックに変えた父子は、やがて伴侶から惚れ直される。

 

 夫婦同姓という古い家族制度に胡坐をかいて、本来の人間として家族への優しさや思いやりを欠いてしまうと、その家庭は崩壊してしまう。夫婦別姓であれば、家に縛られないからこそ、配偶者や子どもたちから尊敬される夫であり父親でありたいと強く願い、魅力あふれる自分でありたいと、自分磨きをして成長するために精進するに違いない。家族の絆を強くしたい、夫婦の絆を太くしたいと願い、個別最適を志向せず全体最適を目指す筈だ。だからこそ、夫婦同姓でなくて夫婦別姓を世界中の人間は選択しているのである。そんな当たり前のことを解らず、夫婦同姓に拘っている日本は、世界中から笑いものになっているのだ。

親からの支配と制御を断ち切るには

 強烈な生きづらさを抱えている人、または自分自身が思ったような生き方が出来ない人が少なくない。そういう子どもや若者たちは、不登校やひきこもりになりやすい。あまりにも殺伐としたこの社会に適応しにくいのかもしれない。それは、学校や職場において関わる人々が、他の人とは違う自分を排除したがったり、虐待されたりすることで、不適応を起こしていると思っていることだろう。しかし、学校や職場で出会う人々だけに問題がある訳ではなく、自分の育てられ方にも大きな問題があったと気付いているのではないだろうか。

 

 不登校やひきこもりの人がすべて育てられ方に問題があったなんて、乱暴なことを言うつもりはない。しかし、学校や職場に上手く適応できず、解決の出来ないほどの生きづらさを抱えている人の殆どは、親との関係に問題を抱えていると言っても過言ではない。勿論、保護者から虐待やネグレクトを受けていたというのは論外で、間違いなく不登校やひきこもりに陥ることだろう。しかし、ごく普通の親に育てられたと思っている人の中でも、知らず知らずのうちに、親に所有され、支配され、制御されて育った子どもは想像以上に多いのだ。

 

 こういう親自身も、自分の子育てに問題があったという自覚はないし、子どももまた愛情いっぱいに育てられたと思い込んでいる。しかし、実際はこういう親が我が子を必要以上に支配してコントロールを繰り返しているケースは多い。おそらく、このような支配と制御をして子育てした親は、この世の中の半数以上を占めているに違いない。しかも、この支配と制御の仕方がえげつないのである。つまり、ダブルバインドのコミュニケーションをしながら支配と制御を強め、親の思い通りの子どもになるよう『飼育』しているのである。

 

 親も子も『飼育』状態にあることを認識していないから不幸なのである。人間と言うものは、本来はひとりでに自己組織化するしオーポイエーシスという機能を発揮できる。つまり、子どもは成長するに従い、主体性、自主性、自発性、責任性などを自ら発揮する。そして、オートポイエーシス(自己産生)の機能を発揮して、自らの創造性を高めて成長していくのである。ところが、親が無意識に子どもを支配し制御しようとして、介入や干渉を繰り返してしまうと、自己組織化できないしオートポイエーシスの機能が育たないのである。

 

 子どもが青年期なると、親に支配したり制御されたりしなくなるかというとそうではない。子どもが30代や40代になっても、親が支配し続けてコントロールしているケースがある。さらには、小さい頃の支配・制御関係で起きた事件の記憶が残存し続けて、それがトラウマになってしまい、親からの支配関係が解けない場合もある。だから、絶対的な自己肯定感がいつまでも育たないし、いつも不安や恐怖感に苛まれるのである。自組織化していないと人間は伸び伸びとして生きて行けないし、常に誰かに依存しがちであり困難を回避したがる。

 

 それでは、この親からの支配・制御関係をどうしたら乗り越えることが出来るのであろうか。特に、小さい頃からダブルバインドのコミュニケーションを受けたケースでは、乗り越えるのが非常に難しいから深刻である。一人の力だけでは、親からの支配・制御関係を克服するのは困難だ。第三者のサポートが必要である。勿論、ダブルバインドをして支配続けてきた親が、その間違いに気付いて子どもに謝罪し、本来あるべき無条件の愛を注ぎ続けることが出来たなら、支配・制御関係を断つことが可能である。これも誰かの手助けが必要だ。

 

 『親が変われば子も変わる』というフレーズは、良く耳にする。しかし、なかなか親は長い期間生きてきたから変われないものだ。ましてや、自分の間違いを他人から指摘されたら、反発するのは当然だ。だから、支援者が親の子育てにおける間違いを指摘して変わるように指示したとしても、到底受け入れられないだろう。ましてや、プライドの高い高学歴者や地位名誉の高い親は、聞く耳を持たないであろう。そんな親を変える唯一の方法がある。それは家族療法のひとつである、オープンダイアローグという療法である。すべてが上手く行く訳ではないが、親が自ら変わる可能性は極めて高い。親からの支配・制御関係を乗り越えるには、オープンダイアローグ療法しかないであろう。

自傷行為(リストカット)をする子どもたち

 日本の中高生のうち、10%の子どもたちが自傷行為を経験しているという。この数字を少ないと思う人はいないに違いない。こんなにも多くの子どもたちが自傷行為をしているということに驚く人が殆どであろう。そして、さらに驚くのは10%の子どもたちのうち、約半数は自傷行為を繰り返していると言うのだ。つまりは、常習的な自傷行為者なのである。子どもたちは、どうして自らの身体を傷つけてしまうのであろうか。そして、その自傷行為を何故繰り返すのであろうか。繰り返すということは、誰も気付いていないということだ。

 

 自傷行為(リストカット)をする子どもたちは、孤独感を抱えているのだという。自分の辛い気持ちを解ってくれる人は誰もいないというか、誰にも話せないらしい。そして、強烈な生きづらさを抱えているし、満たされない思いを抱いているという。孤独だというのなら、自分の傷ついた心を話せる家族や親族もいないのだろうし、友達もいないということだろう。友達が居たとしても、悩みを打ち明けられるような親友はいないということだ。つまりは、家族がいたとしても、天涯孤独という気持ちなんだろうと思われる。

 

 自傷行為をする子どもたちは、親との良好な関係性を築けていないと思われる。つまりは、親との愛着が不安定というのか、傷ついた愛着なんだろうと思われる。そういう意味では、attachment disorder(愛着障害)と言える。愛着障害というと、親から虐待やネグレクトを受けて育った子どもがなるのだと思われているが、けっしてそんな子どもだけがなる訳ではない。ごく普通に愛情たっぷりに育てられた子どもだって愛着障害になるのである。ただし、その愛情のかけ方に問題があるから、愛着障害になってしまうのだ。

 

 勿論、虐待やネグレクトを受けて育った殆どの子どもは愛着障害になる。それだけでなくて、親から過干渉や過介入をされて育った子どもも愛着障害の症状を呈する。または、いろんな事情によって、子育ての途中で養育者が変更になってしまった時にも愛着障害になりやすい。例えば、母親が病気になったり他界してしまったりしたケースである。または離婚や両親夫婦の不仲で、母親が家を出て行ったり、家庭崩壊したりするケースも同様である。両親が四六時中に渡り喧嘩していても、子どもは愛着障害になる。

 

 最近多いのは、父親が発達障害であり、母親がそのせいでカサンドラ症候群になってしまったケースである。こういう母親に育てられたら、殆どの子どもは愛着障害を起こしてしまう。さらには、母親が愛着障害であれば、子どもは同じように愛着障害を抱えることが極めて多い。このように自傷行為をしてしまう子どもは、根底に愛着障害を抱えていることが多いのである。愛着障害はメンタルの不調だけでなく、身体の不調も起こすし、学習意欲も低下することが多いから、不登校やひきこもりになることが少なくない。

 

 愛着障害が根底にあって自傷行為を繰り返す子どもは、どのようにして救えば良いのだろうか。自分の悩みを誰にも話せないのだから、誰も気付かない。学校の先生も気付かないし、養護教員でも気付けないことが多い。例え生徒が自傷行為をしていると気付いても、学校カウンセラーであっても、救うことが極めて難しいだろう。愛着障害は、専門家であっても傷ついた愛着を癒すことは困難だ。何故なら、愛着障害は子どもだけの問題ではなくて、親と子の関係にこそ問題があるのだから、親を癒せないと愛着障害を乗り越えることが難しい。

 

 自傷行為を起こす本当の原因が愛着障害にあるとすれば、愛着障害を癒すことが出来る専門家はいないのかというと、けっしてそうではない。児童精神科医の岡田尊司先生は、愛着障害に精通されていて、治療効果を上げていらっしゃる。岡田尊司先生の研究成果を取り入れて、愛着障害の治療をする専門家も増えつつある。勿論、我が子が自傷行為をしていることを認識できなければ、治療はできない。まずは、自分の子どもが自傷行為をしていないかどうかを発見できる感受性が親に必要だ。もしかすると我が子が愛着障害ではないかと心当たりがある親は、子どもの話を傾聴し共感することから始めよう。

スタンドバイミーと言ってごらん!

スタンドバイミーというと、青春映画の傑作を思い出す人も多いし、あの哀愁が漂う旋律の主題歌を思い浮かべる人も多いことだろう。でも、このスタンドバイミーという言葉そのものの意味を深く認識している人は少ないのではなかろうか。直訳すれば「私の側にいて」という意味なのだが、それ以外に「私に寄り添って、支えて頂戴、私を支援して」という意味でもある。もっと深読みすれば、「私を好きでいてほしい、愛してほしい」ということを言っているようにも思う。単なる恋愛感情ではなくて、人間として愛してほしいと意味であろう。

 

 このスタンドバイミーともっとも言いたい相手は、おそらく母親ではないだろうか。映画の中では、少年たちどうしが大きく成長したとしても、スタンドバイミーと言いたいというふうに描かれていた。でも、誰でもそしていくつになったとしても、スタンドバイミーと言いたいのはお母さんのような気がする。太平洋戦争で特攻隊の隊員が敵艦めがけて突っ込み自爆する時に、最後に「お母さん」と言ったと伝えられる。それだけ、お母さんと言うのは特別なのではなかろうか。誰でも母親のことが大好きであり、かけがえのない存在なのだ。

 

 母親のことが大嫌いだという子どもや若者がいる。それは、本当に母親のことが嫌いなのではなくて、自分の理想とする優しくて思いやりのある母親像とあまりにも現実が違っているからそう思うのであろう。『嫌い』であり『憎い』という感情の裏側には、あまりにも大きな『愛』が存在する。愛憎と言うように、愛が満たされないからその裏返しとして憎しみという感情が起きるのであろう。心の奥底では、誰しも母親のことが大好きで愛しているのだ。どんなに酷い仕打ちをする母親でも、子どもはお母さんが大好きなのだ。

 

 そんなにも大好きな母親なのに、子どもをどのように愛していいのか解らない母親がいるのだ。子どもとどのように接していいのか解らないし、自分の思い通りにならない子どもの行動にイライラする母親もいる。本来母親は、我が子をまるごとあるがままに愛することで、子どもの健やかな成長を後押しするのだが、干渉や介入をし過ぎて子どもの自己組織化を阻害するケースも少なくない。このように自己組織化が出来ずに育った子どもは、正常な自我の芽生えも出来ず、自尊心や自己肯定感が育まれず、強烈な生きづらさを抱えて生きる。

 

 強烈な生きづらさを抱えて生きる子どもは、いじめや不適切指導を受けたり挫折を経験したりしてしまうと、そのことがきっかけで不登校やひきこもりになってしまうことが多い。いずれにしても、母親からまるごとありのままに愛されず育った子どもは、甘えることが下手である。母親も甘えさせることが下手なのだから当然である。甘えさせることが苦手な母親と言うのは、自分が子どもの時に甘えられなかったである。そういう意味で、甘えたくても甘えられなかった子どもなのだ。スタンドバイミーと言えない子どもである。

 

 スタンドバイミーと素直に言えなくて成長してしまい、少年から青年になってしまうと、益々甘え下手になってしまう。社会的ひきこもりをしている若者たちは、強烈な生きづらさを抱えている。そして、誰かに心から甘えたり頼ったりすることが出来なくなる。不安定な愛着、傷ついた愛着を抱えているからだ。愛着障害と言っても過言ではない。こういう若者はHSPでもあり、あまりも感受性が強いから、いつも人の目を気にするし、周りの人の思惑が気になって仕方ない。自尊感情が低いからこそ、こんなことを言ったら嫌われるのじゃないかと気になって、素直にスタンドバイミーと叫べないのだ。

 

 甘え下手で素直に支援を求めることが苦手な人が、自然体で甘えさせてくれる存在と出会えて、あるがままにまるごと受容してくれて支えてくれたとしたら、傷ついて不安定な愛着を癒すことができるに違いない。そのように人は、なかなかいないかもしれない。何故なら、そういう人は安定した愛着を持ち、共感的メンタライジング能力と認知的メンタライジング能力をバランス良く持ち得なければならないからだ。このようにメンター的な素養を持つ人は非常に少ない。しかし、まったく存在しない訳ではない。素直な気持ちにさせてくれて「スタンドバイミーと言ってごらん」と優しく囁いてくれる人を探し出してみてほしい。もしかすると、あなたのすぐ側にいるかもしれない。

                   ”悩み苦しんでいらっしゃるクライアントに捧ぐ”

優しいだけの男は女性を幸せにできない

「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」と言ったのは、レイモンド・チャンドラーの小説に登場する主人公のフィリップ・マーロウ探偵である。20代の頃にこのマーロウ探偵の台詞を読んだ時、すーっと心に染み込んでしまい、こういう男になりたいと思った。男はタフでなければ、か弱き存在を守れないし、限りなく優しい気持ちがなければ、女性の気持ちに寄り添えない。最近の女性は、優しい男を求める傾向がある。ところが、優しいだけの男では、女性を幸せにはできないということを知らない人が多いのである。

 

男も女も優しいほうがいいに決まっている。でも、優しさだっていろいろある。芯の強さを根底に持った優しさならいいけど、優柔不断的な優しさは不安を与えるだけだ。相手の言いなりになるのが優しさだと思っている男もいる。ましてや、自分が嫌われることを避けるために、周りに迎合するような優しさを発揮する男性もいる。何のことはない、自分のしっかりした価値観や哲学がないのだ。だから、少しぐらい強く女性に言われると、例え自分の考えと違っても言いなりになってしまう。これが優しさだと勘違いしている男が多いのだ。

 

女性は、優しいだけの男性を求めてはいない。やはり、強さを持った男でないと女を幸せにはできない。その強さというのは、肉体的な強さや精神的なタフさだけではない。どんなことがあってもぶれない精神性である。そして、いざとなったら自分を犠牲にしてでも、愛する女性を守ってくれる強さである。強大な敵に出会った時に、愛する女性を見捨てて、我先に逃げてしまうような男性は駄目なのである。苦難困難に立ち向かっても、けっして逃げずに乗り越える強い精神力も必要である。

 

ところが、若い女性は見かけだけの優しさを持つ男に惹かれてしまう傾向がある。何を言っても「いいよ、いいよ」と女性の主張に従う男を選ぶ。例え自分の意見に合わなくても、相手の言いなりになるような男と付き合いたがる。こういう優しさというのは、まったくのまがい物である。自分を女性に気に入ってもらおうと我慢をして、優しそうに見せるだけなのである。こういう男性は、結婚した途端に豹変する。あれ程優しい態度を取っていたのに、自分の思い通りに妻をコントロールしようとして、不機嫌な態度を見せるし横暴にもなる。

 

離婚する夫婦が激増している。熟年離婚も増えているが、若い子育て世代の夫婦もあっさりと別れるケースが増えている。子はかすがいと言われているが、子どもがいても離婚を踏み止まる理由にはならないらしい。離婚の申し立ては、以前は夫からしていたものだ。ところが最近は、夫のほうからでなくて、妻側から離婚を申し出るケースがすごく多いらしい。その離婚の理由は、表向きは性格の不一致となっているが、実は見せかけの優しさだったと気付いたのだろう。そんな夫だから見切りをつけたとのだと思われる。

 

真の優しさとは、ただ単に優しい言葉をかけたり物腰の柔らかい態度をしたりすることではない。自己主張せずに、反論せずに相手に迎合することでもない。自分の確固たる信念は曲げることなく、駄目なものは駄目だと相手に厳しく接することも時には必要だ。例え自分が嫌われても、相手のためになるなら苦言を呈することも大切だ。そのような強さを兼ね備えた優しさが必要なのである。そういう強さに裏打ちされた優しさこそが、安全安心を相手の心に提供することが出来る。

 

子どもや女性の中には、いつも得体の知れない不安を抱えている人が相当数いる。そういう不安を払拭してくれる絶対的な守護神としての『安全基地』が存在しないと、安心して社会に踏み出していけない。子どもが不登校になるのは、安全基地の存在がないからである。父親がどんな場合にも身を挺して我が子を守るという気概を見せないと、子どもは安心して学校に行けなくなる。家庭内で安全基地としての機能を夫が発揮してくれなければ、妻は不安を抱えてしまう。その不安が子どもにも伝わり、子どもはいつも不安を覚えながら生きる。母と子は、お互いに不安を増幅させてしまうのである。これでは、子どもはやがてひきこもりになる。男は優しいだけでは家族を幸せにはできないのだ。