ひきこもりを乗り越える

ひきこもりは、個人的な要因によって起きるのではなくて、社会システムの偏りや歪みによって発生しているということを前回のブログで明らかにした。そうなると、社会システムの誤謬を正さない限り、ひきこもりを乗り越えることが出来ないと思う人が多いかもしれない。しかし、けっしてそうではない。社会システムの中で最小単位である家族というコミュニティの社会システムを、本来あるべき正しい形にすれば、それだけでひきこもりを乗り越えることが出来て、社会復帰することが可能になる。これは、不登校さえも乗り越えることが出来る方法でもある。

家族という最小単位の社会システム(コミュニティ)が、壊れてしまっているということを認識している人は極めて少ない。すべての家族というコミュニティが崩壊しているとは言わないが、殆どの家族は本来のコミュニティ本来の機能を失っている。何故、そんなことになってしまっているかというと、あまりにも偏ってしまった価値観にあると言えよう。家族というのは、お互いの尊厳を認め合い、お互いを支え合い、お互いに何も求めず愛を与えるだけの存在である。愛が溢れ、安心で平和な暮らしができる『場』である。しかし、現実にはそういう愛が溢れる安心の居場所になっていないのである。

人間が生きる上で絶対に必要な価値観とは、深い絆(関係性)と全体最適であろう。ところが今の日本人は、この全体最適を忘れてしまい、個人最適に走ってしまっている。そして、お互いの関係性を大切にする生き方を忘れ、個人主義に陥ってしまっている。家族というコミュニティにおいても、それぞれが身勝手で自己中心的な生き方をするあまり、家族がバラバラになってしまっている家庭が増えてしまった。父親は仕事優先の生き方をするあまり、家事育児に協力しないし、妻の話を聞かないし共感しない。父親は、家族から敬愛されていないばかりか、一人浮いている。そんな家庭が増えてしまったのだ。

ひきこもりや不登校の子どもの家庭状況がすべてそうだとは言えないが、お互いが心から信頼し支え合う家族関係が希薄化しているケースが多い。つまり、お互いの尊厳を認め合い支え合うような、深い絆がなくなっている。何故、そんな状況になっているかというと、介入し過ぎるケースがある反面、関わり合いが極めて少なくて、無視をし合うような家族関係があるからだ。ある程度の親としての優位性は仕方ないが、必要以上に子どもに対して優位を保とうとして、所有・支配・制御などの介入を繰り返すことがある。または精神的に幼児性を持つ父親が、自分に都合が悪くなると沈黙したり無関心を装ったりすることもある。これらの不都合を日常的に繰り返して、関係性が非常に希薄化してしまうのだ。

家族というコミュニティは、ひとつの社会システムとして見られている。したがって、家族それぞれには自己組織化する働きがあるし、オートポイエーシス(自己産出)の機能を持つ。親が子どもに対して行き過ぎた介入をして、関係性を損なうようなことを繰り返してしまうと、この自己組織化と自己産出(成長や進化)を妨げてしまう。子どもがひきこもりや不登校になるのは、自己組織性と自己産出を自ら放棄してしまったということである。人間とは、自らの意思で自らの言動を決定する。そして、その自らの言動には責任を持つ。そして、自分の内部からふつふつと湧き出させるエネルギーで何事にも挫けず挑戦をするのである。これが、人間の持つ自己組織性と自己産出性である。

この自己組織性と自己産出性の機能を無くしてしまった家族だから、ひきこもりという問題が発生しているのである。とすれば、システムとしての家族が本来持つ機能である、自己組織性と自己産出性を持つようになれば、ひきこもりが克服できるに違いない。これは、当事者本人だけが機能回復すれば良いという訳ではない。家族全員が、自己組織性と自己産出性の機能を回復しなければならない。そして、家族全員が全体最適と関係性重視の価値観を持ち、自己犠牲を厭わずにお互いに支え合い守りあうコミュニティを再生すれば良いのだ。親がまずその機能を回復し、正しい価値観を持つことが重要である。それがひきこもりを乗り越える道筋を示すことなることだろう。

 

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ひきこもりの本当の原因

ひきこもりという状況に追い込まれてしまい、もがき苦しんでいる人はかなり多いと推測される。厚労省や市町村もその実数の把握が出来ないでいる。ひきこもりという統計上の定義も確立されていないし、ましてやひきこもりを家族がひたすら隠しているのだから、正確な人数を把握できる訳がない。さらに、当事者自身がひきこもりだと認識していないケースも少なくない。障害者として認定されていないし、精神疾患や精神障害でもないから、カウントする術がない。実態を把握できなければ、行政側としては積極的な対応も出来ないのかもしれない。

ひきこもりの子どもを持つ親は、どうしてこんな状況になってしまったのか、原因さえ掴めないでいると思われる。当事者自身もひきこもりになった確かな要因を認識できないでいる。不登校の原因が人間関係だとされているように、ひきこもりの原因も人間関係だとは何となく解ってはいるものの、何故社会に出て行けないのかが判然としない。原因が特定できなければ、対応策を考えることも不可能であろう。社会現象としてひきこもりが増えているという実態は何となく解っているし、何とかしなければならないと行政側は模索しているものの、抜本的対策を考える術を持ち得ていない。

ひきこもりの子どもを持つ親の苦悩は相当なものであろう。長年に渡りひきこもっている子どもを何とかしなければと思いながら、どうしようもない焦りや不安に苦しんでいる。将来は親自身が先に逝くのは間違いないのだから、その時がやってきたらどうなるかという不安は相当なものである。しかし、それ以上に苦しんでいるのは、当事者自身であろう。周りから見ていると、以外と呑気に見えるかもしれないが、ひきこもり本人の苦悩や不安は親以上にあるに違いない。自分の本当の気持ちを分かってくれる者はいないし、誰も助けてくれそうもないのだから、その孤独感は半端ない。

ひきこもりの原因は、人間関係における不都合だと思われているし、本人の資質やその性格にもその要因があると推測されている。親の子育てにおける偏りも指摘されている。親も含めた親族もそう思っているし、社会一般的にもそうだろうと認識されている。確かに、そういう要因やきっかけもあるだろうが、ひきこもりの本当の原因はそれだけではない気がしてならない。どちらかというと、ひきこもりという状況は社会システムの歪みが起こしているのではないだろうか。つまり、ひきこもりというのは個人的な要因によって起きているのではなく、社会全般に責任があるのではないかと思うのである。

ひきこもりの方々は、非常に大きな『生きづらさ』を抱えている。その生きづらさが何によって生じているのか定かでないが、何となく生きづらさを抱えるが故に、社会に出て行けないのであろう。つまり、強烈な生きづらさ故にひきこもりという状況を選ぶしかないのだ。そして、その生きづらさが発生する根源は、この社会そのものにある。誰でもひきこもりになるのではなく、特定の人しかならないのだから、生きづらさの原因は本人にあると思う人も多いだろう。しかし、生きづらさの原因は社会にあるし、その生きづらさを殆どの人は感じているが、我慢して生きているだけなのである。

それじゃ、社会そのものに原因がありそれにより生きづらさを感じるというのならば、その社会の歪みというのは何だろうか。社会というのはひとつのシステムである。様々なコミュニティが寄り集まって形成されている。家族、グループ、学校、地域、職場、市町村、県、様々なコミュニティが存在する。そのコミュニティというのは、共同体なのだから本来はお互いが主体的・自発的に支え合うものである。その構成要素であるそれぞれの人は、特定の人が優位性を持たず、公平で平等でなければならない。そして、基本的にお互いに介入し合わないのが原則である。そうでなければ、システムとして本来の機能を発揮できない。コミュニティも所属する人も自己組織性を失うからである。

家族というコミュニティにおいて、親が子に対してあまりにも優位な立場を保つ為に、所有・支配・制御を繰り返し、指示指導など行き過ぎた介入をしやすい。仲間のグループにおいても特定の人間が支配者として君臨し、他に対する強い介入をする。職場でも同じ状況が起きるし、学校という場所でも歪みが生じている。コミュニティという様々な共同体というのは、お互いが平等で争いのない平和で安心できる場所であるべきなのである。つまり、安心できる『居場所』が家庭・学校・職場・地域にないのである。これでは生きづらさを抱えてひきこもるしかないのである。この社会があまりにも歪んでいるが故に、ひきこもりが起きているのである。

 

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自己組織化を育む教育

自己組織化というのはシステム論を形成する重要な理論のひとつであり、簡単に言うと自律化と言い換えることもできよう。ノーベル賞を受賞した物理学者のイリヤプリゴジンが提唱した理論である。熱力学を応用した物理学の基礎理論であり、物体を形成する構成要素それぞれには自己組織化する性質があるという主張である。転じて、人体を構成する要素である細胞にも自己組織化する性質があるし、人間そのものにも本来自己組織化する性質を有していると考えられている。

この自己組織化する性質を、便宜的に自己組織性と呼ぶことにする。この自己組織性は自律性とも言い換えると前段で記したが、これは人間が生来有している主体性・自発性・自主性・責任性などと言えるものである。細胞の自己組織性については、最新の医学研究でも驚くような研究成果がもたらされている。人体というネットワークシステムは、細胞そのものが過不足なく全体最適を目指して活動していると共に、細胞によって組織化された骨格組織、筋肉組織、臓器組織などがやはり自己組織性をおおいに発揮していることが判明したのである。

この事実はどういうことを意味するかというと、人間という生物は生来自己組織性を持っていて、全体最適のためにそれぞれが豊かな関係性を発揮しながら活動する宿命を持って生まれているということである。全体最適というのは、自分だけの幸福や豊かさを求める個別最適ではなく、家族全体、地域全体、企業全体、国家全体、世界全体、宇宙全体の最適化のために貢献することを指している。言い換えると、人間とはみんなの幸福や豊かさ実現のために存在が許されているという意味である。したがって、自分だけの幸福や豊かさを追求するというのは、人間本来の生き方に反するということを示している。

したがって、あまりにも個別最適を求める生き方をすると不都合が起きるのである。例えば、自己中で身勝手な生き方をすると家族の中で孤立するとか、会社内で誰からも相手にされないとか、地域で評価されず見放されるようなことが起きる。さらには、主体性や自発性を失い、責任性も放棄するような生き方をするようになり、家族からも同僚や上司からも信頼を失ってしまう。自ら関係性を断ち切ってしまい、その影響で自己組織性も発揮できなくなるのである。本人だけでなく、周りの人々も身体の病気にしたりメンタルの病気にもなったりしてしまう危険が高まる。

人間という生き物は、本来自己組織性を持つ。この自己組織性を発揮するには、良好な関係性(ネットワーク)という条件が必要である。この自己組織性と関係性の大切さを認識して伸ばしてあげる教育をしないと、大人になってから不幸になる。したがって、幼児のときからこの自己組織性をしっかりと成長させる育て方が求められる。どんな育て方かというと、行き過ぎた『介入』をしないという姿勢である。なるべく本人が自ら気付き学び成長するのを待つという態度が大切である。そして関係性を感じられるように、愛情をたっぷりと注ぎ続けることである。

子育てほど難しいことはない。だからこそ、子育ては尊いことであるし自分を成長させてくれるミッションである。とかく、親というのは我が子の幸福を願うものである。ケガをしないようにとか病気にならないようにとか、細心の注意を払いながら育てる。それ故に、ついつい細かく事前に指示をしてしまうし、先回りをしてしまう。言いたいことやりたいことをついつい予測して助けてしまう。知能が高くて教養のある親ほど、こういう子育てをする傾向にある。こういう子育てが、実は自己組織性の成長を妨げてしまうのである。子どもが自ら考えて行動するという自己組織性を発揮することを阻害してしまうのである。

子どもが思春期になり反抗期を迎えたときに、あまりにも親に歯向かい反発する態度をした時に、ついつい父親は権力で子どもの反抗を抑え込む傾向がある。これも、子どもの自己組織性の進化を妨げてしまうことになる。学校においても、教師があまりにも子どもの自主性や主体性を無視して、すべて指示通りに行動させてしまうと、やはり自己組織性の成長を阻止してしまう。日本の学校教育というのは、この自己組織性を育てる教育をしていないと言える。中学校や高校の部活でも、自己組織化を妨げるような指導をしがちである。不登校やひきこもりが増加しているのは、自己組織化を認めない教育現場があるからではないかと考える。子どもたちの主体性・自主性・自発性を育んでいく教育をしないと、正常な自己組織性を発揮できなくさせてしまい、不幸にしてしまうことを認識すべであろう。

親族間殺人が5割を超えた訳

警察庁の発表によると、なんと発生した殺人事件のうち、親族間で起きた殺人事件が全体の55%近くに及んでいるらしい。他人に対する殺人事件だったら構わないとは言わないが、親族どうしが何故に殺人事件まで発展するのか、実に不思議である。そう言えば、最近TVのニュースで流れている殺人事件の多くが、親子間、兄弟間、夫婦間、祖父母と孫の間、などで起きている。家族・親族と言えば血縁や婚姻関係がある。他人よりも縁が深い。普通なら、殺人などというおぞましい行為は出来ない筈だ。

親族間殺人が殺人事件全体の5割を超えてしまったのは、2016年からだという。年々割合が増えて、ついには半数以上になってしまったらしい。殺人事件の総件数は年々減少している。それなのに親族間の殺人事件は減らないばかりか増えているということであろう。家族や親族は、本来深い絆で結ばれている。そういう絆があるということは、他人よりもお互いに支え合う力は強い筈である。当然、親族間の愛情が溢れていると思われる。それなのに殺人を実行するほど憎しみを抱えていたというのは理解できないことである。

愛と憎しみは表裏の関係にあるということは、よく知られている事実である。愛があるからこそ憎しみという感情が湧いてくる。愛がないというのは、無関心ということである。親族だからこそ愛が根底にあり、その裏返しである憎しみが殺人に発展したと見られる。憎しみという感情が増幅して、殺人を起こしただけではないケースもあったろう。資産を奪い合ってのトラブルもあったかもしれない。いずれにしても、お互いの尊厳を認め合い、心から敬愛していたとしたら殺人事件にならなかったのは確かである。

親族や家族間において、金銭トラブルが発生するケースが少なくないようである。金銭トラブルは家族間にはよくあることであるが、それが殺人事件にまで発展してしまうのは、よほどのことであろう。家族の絆と金銭のどちらを優先するかというと、普通なら家族の絆が大事だと思うであろう。ところが、最近の家族どうしの殺人事件を分析してみると、お金のために家族を平気で裏切るような人が増えている現実があるようだ。なんとも情けない時代になってしまったみたいである。

家族や親族間における関係性が希薄していて、家族というコミュニティが崩壊していると言われ始めて久しい。本来は支え合うべき家族が、いがみ合い憎しみ合うような関係性になってしまったのである。殺人事件までも起こすというのだから、家族や親族の良好な関係性は既になくなってしまっているのかもしれない。機能不全家族という言葉が言われることが多いが、まさに家族というコミュニティの関係性がなくなり、機能不全に陥っているからこそ、これだけ殺人事件まで発展する家族トラブルが増えたのであろう。

家族という社会システムが崩壊している影響は、殺人事件の増加だけではない。家庭内における様々な問題を起こしているのは、まさに家族というコミュニティが崩壊しているからに他ならない。ひきこもり、不登校、家庭内暴力、パワハラ、セクハラ、モラハラなどが家庭内に増加しているのは、家族システムが機能不全を起こしているからであろう。勿論、これらの問題が起きているのは社会全体の機能不全も影響していることも付け加えておきたい。さらに、家族の中にうつ病などの精神疾患や精神障害が発生するのも、家族コミュニティに問題があることがひとつの要因である。家族という社会システムが壊れていることが、様々な問題を起こしている原因と言えるかもしれない。

何故、家族という社会システムが崩壊してしまったのかというと、関係性が劣悪化してしまったせいであろう。そして、関係性が劣悪化してしまった原因は、家族間における過剰な『介入』によって、一人ひとりの自己組織性(自律性)やオートポイエーシス(自己産出性)の機能不全が引き起こされた為とみられる。親が子どもに対して、圧倒的優位性を持って、必要以上に支配し制御し所有化してしまっているからではないかと思われる。または、逆に愛情をかけないという無視や無関心の状態に置かれたのではないかとみられる。これらの過剰な介入や無視が親子間、夫婦間などで起きていて、良好な関係性が壊れているように感じられる。関係性の大切さを再認識して、家族というコミュニティを再生させないと、家族間のトラブルや殺人事件はなくならないと思われる。

夫婦の対話がなくなる時

夫婦の会話がないという話をよく聞く。勿論、必要最小限の会話はするらしい。例えば、「飯」とか「風呂」とかの短く味気ない単語の羅列である。それ以外は、「今日の夕飯は要らない」とか「昼は外で食べる」といった手合いものである。こういう会話は、『対話』とは呼べそうもない。どちらかというと『独白』というようなものであろう。気持ちとか心は通っていそうもない。対話はダイアローグというが、独白はモノローグともいう。夫婦のダイアローグがもはや失われてしまっている家庭が非常に多い。

何故、夫婦間に対話(ダイアローグ)が失われてしまっているかというと、お互いに仕事を持っていて、妻は家事や育児に追いまくられる生活をしているという事情もあるという。夫は仕事で早朝から深夜まで働き尽くめ、家事育児には参加せず、たまの休日は一人で遊びに出かけるか家でゴロゴロしている始末。妻だけが一人で家事育児をさせられる、いわゆる「ワンオペ」の状況になっていて、妻のストレスと不満は頂点に達している。そんな状況の中で、どうして穏やかな対話が出来ようか。愚痴や不平の言葉しか出ないし、それを聞き流すしかないというモノローグ(独白)の世界に陥るのは当然である。

これは働き盛りの若い夫婦の例であるが、熟年や老年の世帯でもやはりモノローグの世界に陥っているケースが少なくない。妻が夫と一緒の空間に存在することを嫌っている。稀にその逆のケースもあるが、殆どの夫婦は妻が夫を避けている。夫と同じ趣味や運動を避ける妻が多い。同じスポーツをしていても一緒にプレーすることを避けたがるのである。夫婦ともにゴルフをするのにも関わらず、妻が夫とは一緒にラウンドしたくないという。さらには、女子会の旅行なら喜んでどこにも行くが、夫婦だけの旅は絶対にしたくないという妻が圧倒的に多い。そして、そう思っている妻の心情を、理解さえしていない。

どうしてこんな夫婦になってしまったのであろうか。夫は、妻子のために身を粉にして働いてきた。ようやく定年を迎え、子供たちも巣立っていき二人きりの生活になった。これからは夫婦で共通の趣味を持ち、温泉旅行を楽しみながら余生を送ろうと思っていたのに、妻がそれに応えてくれないのだ。例え一緒に旅行に行ったとしても、会話が続かないし、楽しそうな笑顔さえ見せてくれない。不機嫌な顔をずっと見せつけられたら、対話しようとする気持ちにもなれないだろう。どうしてダイアローグにならず、モノローグになってしまうのだろうか。夫には、その原因がまったく見当もつかないのである。

このような働き盛りの若い夫婦でも熟年夫婦でも、対話がなくなってしまった原因は、どちらか一方にある訳ではない。夫にも妻にもありそうだ。そして、夫婦ともに相手に原因があると思い込んでいるのである。だから始末に負えないし、対話の喪失が改善することはない。どちらか一方が重篤な疾病に罹ったり、介護の必要な状況に追い込まれたりしない限り、夫婦の対話は生まれないであろう。実に悲しい現実である。夫婦の対話がないというのは、共通言語がないということである。話が通じないのは当然である。

このように対話を失ってしまった夫婦は、何故そうなってしまったのかの本当の原因を知らないでいる。対話がなくなる真の原因は、夫や妻のどちらかに非があるからではない。夫婦の『関係性』が損なわれているからである。勿論、この関係性が希薄化もしくは劣悪化するそもそもの原因はある。どちらかというと、夫側にそのきっかけを作った責任はあるかもしれない。何故かというと、客観的合理性の近代教育を受けたお陰で、学業優秀な男性ほどこの影響を受けたからである。身勝手で自己中心的で、相手の気持ちに共感できない人間に成り下がってしまったのである。妻の気持ちに成りきって話を聞かないから、妻は話すことを止めてしまったし、対話しようとしなくなったのである。

こうした相手に共感しないただのモノローグ的会話になってしまい、夫婦の関係性は最悪のものなってしまい、お互いを支え合うという家族というコミュニティが崩壊することになる。当然、子どもにも悪い影響を与えてしまい、不登校、ひきこもり、家庭内暴力などの問題行動を引き起こす要因ともなる。家族という関係性は破綻して、機能不全家族になってしまう。対話が夫婦間になくなったことを端緒にして、こういう機能不全家族が始まると言っても過言ではない。だからこそ、夫婦はお互いの関係性に注目して、お互いの共通言語を紡ぎ出す努力を続けなければならないのである。それも、傾聴と共感がキーワードである。相手の悲しみや苦しみを、我がことのように感じられる感性と想像力が求められる。夫婦の関係性をどのように再構築すれば良いのか、真剣に考え直してみてはどうだろうか。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、機能不全家族に対する支援をしています。または、対話がなくなってしまわれた夫婦への支援もしています。オープンダイアローグという心理療法によって、それらを改善することが出来ます。まずは「問い合わせフォーム」からご質問ください。

オープンダイアローグが有効な訳

オープンダイアローグ(開かれた対話)療法が統合失調症だけでなく、PTSD、パニック障害、うつ病などにも有効であるし、ひきこもりや不登校にも効果があることが解ってきたという。薬物も使わないし、カウンセリングや認知行動療法なども実施しないのに、どうして有効性を発揮するのか不思議だと思う人も多いであろう。開かれた対話だけをするだけで、どうして統合失調症が治るのであろうか。何故、オープンダイアローグ療法が有効なのか明らかにしてみたい。

オープンダイアローグを以下の記述からは便宜上ODと記すことにしたい。ODを実施する場合、原則として統合失調症が発症して24時間以内に第1回目のミーティングを実施する。緊急性を有するので、クライアントの家庭にセラピストチームが伺うことが多い。セラピストは複数人であることが絶対条件で、単独での訪問はしない。何故なら、ミーティングの途中でリフレクション(セラピストどうしの協議)を行うからである。そして、それから連日その家庭に同じメンバーが訪問して、患者とその家族を交えて10日から12日間ずっとミーティングを実施する。

ODで派遣される医師やセラピストなど治療者は、診断をしないし、治療方針もせず、治療見通しもしない。そして、そのあいまいさをクライアントが受け入れられるように、安心感を与えることを毎日続ける。ODでのミーティングは開かれた対話を徹底する。そして傾聴と共感を基本として、患者とその家族にけっして否定したり介入したりしない。一方的な会話(モノローグ)ではなくて、必ず双方向の会話(ダイアローグ)にする。開かれた質問を心がけて、必ず返答ができる質問にする。また、セラピストが逆に質問されたり問いかけたられたりした場合、絶対に無視せずに必ずリアクションをするということも肝要である。

OD療法では、患者には薬物治療を実施しない。どうしても必要な場合でも、必要最小限の精神安定剤だけである。ただひたすらに、開かれた対話だけが続けられるのである。どうして、それだけで統合失調症の症状である幻聴や幻覚がなくなるのであろうか。そもそも、幻覚と幻聴が起きるのは、現状の苦難困難を受け入れることが出来なくて、想像の世界と現実の世界の区別が難しくなるからと思われる。ましてや、この幻聴と幻覚を話しても、家族さえも認めてくれず、自分を受容し寛容の態度で接してくれる人がまったくいないのだ。他者との関係性が感じられず、まったくの孤独感が自分を覆いつくしている。

こういう状態の中で、OD療法は患者が話す幻聴や幻覚を、否定せずまるごと受け止める。その症状の苦しさ悲しさを本人の気持ちになりきって傾聴する。患者は自分の気持ちに共感してもらい安心する。さらに、家族にも患者の言葉をどのように感じたかをインタビューをして、患者の気持ちに共感できるようサポートする。家族に対しても、けっして介入しないし支配したり制御したりしない。家族の苦しさや悲しさに寄り添うだけである。

そうすると実に不思議なのであるが、患者自身が自分の幻聴や幻覚が、現実のものじゃないかもしれないと考え出すのである。患者の家族も、患者の幻覚や幻聴が起きたきっかけが自分たちのあの時の言動だったかもしれないと思い出すのである。さらには、患者と家族の関係性における問題に気付くのである。お互いの関係性がいかに希薄化していて劣悪になっていたかを思い知るのである。家族というコミュニティが再生して、お互いの共同言語が再構築されるのである。誰もそうしなさいと指示をしていないのに、患者とその家族が自ら変わろうとするのである。

勿論、仕事や地域との共同体に問題があることも認識する。いかに地域や職場におけるコミュニティにおける関係性にも問題が存在することに気付くのである。例えコミュニティの問題が解決されなくても、自分自身には問題がなく、そのコミュニティにこそ問題があると認識しただけで、安心するのである。家族の関係性の問題が解決されて、地域と職場のコミュニティの問題を家族間で共有し、お互いにそれを共感しただけで症状が改善するのである。まさに化学反応のような変化が起きるようである。人間というのは、実に不思議なのであるが、関係性が豊かになり共通言語を共有できた時に、幸福感を感じるものらしい。オープンダイアローグというのは、まさにこのような関係性の再構築が可能になるので、症状が収まるだけでなく、再発も防げるのである。

続きはまた明日に

※イスキアの郷しらかわでは、定期的にオープンダイアローグの研修会を開催しています。個別指導もしていますので、お問い合わせください。1泊2日の宿泊で学びたいとご希望それれば、個別でも家族でもレクチャーします。家族がオープンダイアローグ的対話ができるようになれば、変われます。

ダイアローグが西野ジャパンを活性化

サッカー日本代表西野ジャパンがロシアワールドカップで大活躍をした。戦前の予想では、活躍は期待出来ないと思われていたのに、決勝リーグまで残りベルギーと互角に渡り合えたのは、西野監督の采配とマネジメントの賜物であるのは間違いない。あんなに短い期間によくチームをまとめあげたし、選手の掌握によくぞ成功したなと感心するばかりだ。西野監督のチーム管理が成功を収めた一番の要因は、彼と選手間の徹底した『対話』にあったと言われているが、まさしくその通りだと思われる。

監督に就任してから、各選手と徹底して対話したと伝えられている。しかも、選手たちをリスペクトして、彼らの言い分にしっかりと耳を傾けて、取り入れるべき戦術の参考にもしたと聞き及んでいる。そして、選手たちとの心を開きあった対話によって、選手と監督との『関係性』が非常に良くなり、揺るぎない信頼関係が構築されたのである。監督が考えていることをチーム全員が理解して、それを一丸となって実行できたのは、対話によって彼らの『共通言語』が創造できたからに他ならない。

スポーツのチームにおいて、強くなったり成果を残したりするには、チームワークが大切であるのは言うまでもない。良好なチームワークを作り上げるには、コミュニケーションが大事だというのは誰にも共通した認識であろう。だからこそ、常日頃からの対話が必要なのである。対話というのは、モノローグ(一方的な会話)であってはならない。ダイアローグ(双方向の会話)でなければならない。ともすると、監督と選手間というのは、圧倒的に監督が優位な立場であるが故に、モノローグになってしまうことが多い。上位下達という形である。これでは、共通言語が形作れないから対話にならないのである。

日大のアメフト部のコミュニケーションは、モノローグであった。志学館大学のレスリングも同様である。ハリルジャパンも、言葉の壁もあっただろうが、ダイアローグでなかったのは確かであろう。野球の巨人がカリスマの監督を据えて、優秀で実績のある選手を金でかき集めても、実績を上げられないのは、実はチーム全体の共通言語を持たないからである。FIFAランク61位のチームが決勝トーナメントに残る活躍が出来たのは、ダイアローグ(対話)のおかけであろう。

日本人の素晴らしい精神文化を形成した根底には、「和を以て貴しとなす」という聖徳太子が提唱した価値観があると思われる。個の意見も大切であるが、お互いの意見を尊重しあい、共通の認識や意見に集約するまで、徹底した対話を続けるという態度が大切であろう。西野監督は、まさにそうした対話を続けることで、チームをひとつにまとめあげたのである。勿論、監督のリーターシップも必要である。最終的には、監督が重要な決断をしなければならないし、すべての責任を取らなければならない。今回のポーランド戦は、まさに西野監督が苦渋の決断をして、その責任を一身に背負った。あれで、チームはひとつにまとまったのである。

西野監督が、オープンダイアローグという心理療法の原理を知っていたとは到底思えないが、彼はチーム内の対話をまさしくオープンダイアローグという手法を使って活性化していたのには驚いた。各選手の話を傾聴して共感したと言われている。監督としての優位性を発揮せず、対等の立場で対話したらしい。しかも、否定せず介入せず支配せずという態度を貫いたという。このような開かれた対話をされたら、誰だって西野監督のことが好きになり、信頼を寄せる。このような対話を続けると、選手たちは自ら主体性を持ち、自発性も発揮するし、責任性を強く持つ。つまり、アクティビティを自ら強く発揮するのである。

ともすると、組織のリーダーは圧倒的な権力を持つことにより、構成員を支配し制御したがる。こうすることで、ある程度の成果は出せるものの、継続しないし発展することはまずない。大企業の著名経営者が陥るパターンであり、中小企業のオーナー経営者が失敗するケースである。家庭において、圧倒的な強権を持つ父親が子どもを駄目にするパターンでもある。ひきこもりや不登校に陥りやすいし、弱いものをいじめたり排除したりする問題行動をしやすい。組織をうまく機能させるには、開かれた対話、つまりオープンダイアローグの手法により、共通言語を形成し関係性を豊かにすることが必要である。西野ジャパンが対話によって成功したように、コミュニティケアを目指せばよいのである。

※スポーツチームのリーダーや組織の管理者、または企業のマネージャーがオープンダイアローグを学びたいと希望するなら、イスキアの郷しらかわにおいでください。組織の活性化が実現できます。1泊2日のコースで丁寧にレクチャーいたします。勿論、家族とのコミュニケーションが苦手だと感じるお父様も、是非受講してください。

ひきこもりが解決する方法

どんなにこじれてしまったひきこもりや不登校でも解決する共通の方法なんて、絶対にないと思っている人が殆どであろう。確かに、ひきこもりや不登校の原因やきっかけはそれぞれ違っているし、当事者や家族の考え方や置かれた環境も違っているのだから、そう思うのも無理はない。高名な精神科医やカウンセラーにも相談して治療を受けたし、改善に効果あるといういろんな方法を試してみたことであろう。しかし、今度は改善するかもしれないという期待は、残念ながらことごとく裏切られたに違いない。ましてや、ひきこもりや不登校の子どもをカウンセリングや精神科医の元に連れて行くことさえ困難なのだから、当然である。

ひきこもりや不登校の原因が、何となく親と子育てにあると思っている保護者が多いことだろう。その判断は、あながち間違いではないと思われる。しかし、それがすべての原因ではない。もっと複雑な原因やきっかけが絡み合っている。その絡み合った糸をほどけさせて、二度と絡み合わないようにすることが求められている。本当の原因を探り出して、その原因をひとつずつ根気よくつぶすしかないと、思い込んでいる人も多いに違いない。精神科医やカウンセラーはそういうふうに思っている。だからこそ、家族のカウンセリングを重要視している。しかし、そんな家族カウンセリングをいくら受けたところで、改善しないことが多いのも事実である。

ましてや、家族カウンセリングを受けるケースであっても、父親が自ら進んでカウンセリングを受けることはまずない。母親が家族カウンセリングを受けて、父親も一緒に受けるようにカウンセラーから勧められても、断ることが多い。よしんば、父親がカウンセリングを受けたとしても、カウンセラーの指示や指導に素直に従うことはないであろう。自分には我が子のひきこもりの原因がないと思い込んでいるし、母親が原因だと思い込みたい自分がいるからである。さらには、既に離婚して父親が不在だというケースも少なくない。

家族カウンセリングを行うカウンセラーや精神科医にも、家族カウンセリングが上手く行かない原因がありそうだ。まず、カウンセラーや精神科医というのは、子どもがひきこもりや不登校になった原因を追究したがる傾向がある。カウンセラーや精神科医というのは、何か家族の誰かに問題があると、その原因を分析して問題解決をしたがるのである。そして、家族の誰それにこういう問題があって、これがひきこもりの原因なので、それを解決しなさいと深く介入し、指導を行う。これが絶対にやってはいけないことなのである。

何故いけないかというと、そのように指摘されて指導された人間の気持ちになってみるがいい。そんなことを言われて、「はいそうですか、私がいけなかったのですか、直しますね」と素直に認めて受け容れる人がいるであろうか。そんな謙虚で素直な人なんて、絶対にいない。特にひきこもりを起こしている子どもの保護者は、そんなことは認めたがらない。もし、素直に認めて「解りました、努力します」と答えたとしても、それはけっして本心からではない。その証拠に、それ以降はカウンセラーの言うことを聞かなくなるし、行かなくなるに違いない。家族カウンセリングが失敗する典型例である。

人間というのは、自分に非があることを他人から指摘されるのを極端に嫌うものである。ましてや、図星のことを指摘されるのは怖いことだ。特に、変なプライドを持つ人間ほど、この傾向が強い。社会的な地位や名誉を持つ人間や教養の高い人ほど、他人の指摘に反抗したがる。こんなことを赤の他人から指摘されたとしたら、それを素直に聞き入れるようなおめでたい人間なんていない。だから、絶対にそんなことを指摘してはならないし、深く介入し、その保護者を無理に変えようとしてはならないのである。

ひきこもりや不登校をしてきた当事者は勿論のこと、その保護者たちは支配され制御されることを嫌う。それは人間なら当たり前のことである。全き自由でありたいと思うし、誰かの操り人形で生きるなんて、まっぴらご免である。ましてや、人間という生き物は、本来アクティビティーを持つ生き物である。誰からか命じられて行動するのは苦手で、主体性・自発性・自主性を自ら発揮したいのである。故に、当事者と保護者が自分のこだわりや誤りに気づき、自ら変化することを選択したいと本心から思うようになれば、ひきこもりも解決する道筋が見えてくる。現在考えられるその唯一の方法とは、オープンダイアローグ(開かれた対話)という手法である。

 

※オープンダイアローグについての研修を、イスキアの郷しらかわでは開催しています。宿泊していただいた人が希望すれば、ていねいに解りやすく説明します。日帰りの研修会も実施しています。何名かの方が集まればランチ会と共に開催しますので、お申込みください。

富山の交番襲撃事件に思うこと

富山市の交番が襲撃されて、警察官が刺されて殉職し、奪われた拳銃で警備員が射殺されたという痛ましい事件が起きた。亡くなられた方々のご冥福を慎んで祈りたい。それにしても、残忍な事件が相次いで起きている。ついこの前は、新幹線内で悲惨な殺傷事件が起きた。共通しているのは、不登校からひきこもりの経過をした青年で、家庭内暴力があったらしいとのことである。くれぐれも言っておきたいが、ひきこもりで家庭内暴力を奮う若者がすべて危険だとは、絶対に思わないでほしい。そんな色眼鏡で見ることだけはしないようにと、強く言っておきたい。

彼らが悪くないとは言わないが、特別に凶悪な人間だとは思ってほしくない。マスメディアは、このような凶悪事件が起きる度に、いかに彼らが異常だったかのような報道をする。そして、自分たちは正常だと言わんばかりに批判するし、彼らの親に対しても攻撃的な報道が行われる。果たして、そんな報道だけで良いのだろうかと、凶悪事件の報道に接する度に思ってしまう。こんな凶悪事件が起きると、犯人からの攻撃からどのように守るかという再発対策だけを取り上げる。本来は、こういう悲惨な事件を起こさないような社会を創造するために、コミュニティケアについて議論すべきだろうと思う。

凶悪事件を起こした家庭では、家族というコミュニティが機能していなかったと見られている。おそらく親子関係は希薄化、もしくは劣悪なものになっていたように言われている。さらには、親どうしの夫婦関係にも問題があったとも想像できる。そうなってしまった原因は、彼ら家族だけに責任がある訳ではないと思える。社会全体や地域全体のコミュニティに問題があったように思えて仕方ない。コミュニティ(生活共同体)は、それを構成する人のお互いの関係性によって成り立っている。その個人に問題があるのではなくて、その関係性にこそ問題の根源があると見るべきだろう。

不登校とひきこもり、または生きづらさを抱える社会人とその家族を支援していて感じるのは、その当事者だけでなく、そこに生きている社会というコミュニティ、学校や職場、または家族の関係性にこそ問題の本質が隠れているという実感を持つことが多い。つまり、関係性が希薄だったり劣悪だったりした時に、いろんな問題が起きているのである。ということは、この関係性を改善することが出来れば、諸問題が解決する方向に向かうと確信している。言い換えると、問題の責任は本人とその家族だけでなく、社会を構成している我々にも責任があるという訳である。

新幹線殺傷事件や交番襲撃事件の犯人たちは、この社会に相当な生きづらさを抱えていたに違いない。そして、この生きづらい社会に適応するのが困難であり、相当悩んで苦しんでいたに違いない。そんな彼らを助けてあげることが出来なかった我々に責任がないとは言い切れないと思われる。甘ったれたことを言うな、みんな生きづらさを抱えても頑張っているんだという方もいるに違いない。確かにその通りである。それでもみんなその生きづらさを抱えながらも懸命に仕事したり学業に精を出したりしているのだ。だから、人のせいにしてはならないというのも正論なのである。

だとしても、こういう生きづらさを抱えて、犯罪行為を起こしてしまうまで、社会に対する怒りを増幅させる前に、誰かが救えなかったのかという思いがある。子どもがひきこもりであり家庭内暴力で悩んでいる家庭のご両親から相談を受けることが多い。そういうケースの場合、家族の関係性に問題を抱えていることが多く、特に父親が子どもに対して嫌悪感を持つことが多い。あまりにも父親が子どもの生き方を認めたがらず、子どもの言い分に耳を傾けないケースが多いのである。確かに育てにくい子どもだということがあるが、あるがままに子どもを敬愛して信頼する気持ちが少なく、良い子でなければ愛さないと頑固な態度を取ることが多い。

そして、父親の子どもに対する見方を、そのまま母親が認めて、同じように対応していることが多い。こういう場合、今までどのように治療していたかというと、家族療法という形で、家族に対するカウンセリングを実施するケースが多かった。ところが、こういう問題の家庭において、父親は聞く耳を持たないし、そもそも家族カウンセリングを拒否することが多い。いくら周りの人が助けの手を差し伸べても、その助けを受け入れることは少ない。このような場合、オープンダイアローグこそが有効だと確信している。否定せず、介入せず、あるがままを認めて受け入れる「開かれた対話」であるなら、両親も自ら変化するに違いない。このようなコミュニティケア的支援を、社会がして行く責任を負っているのだと強く思っている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、オープンダイアローグの研修会を開いています。また、求めがあれば、社会的コミュニティケアを支援いたします。お子さんのひきこもりや家庭内暴力でお困りの方は、お問い合わせください

新幹線内無差別殺傷事件に思うこと

またもや新幹線内で悲惨な事件が起こされた。犠牲になられた方とご家族に謹んでお悔やみを申し上げたい。それにしても、治安の良い日本の、それも新幹線という誰でもが利用する安全な乗り物の中でこんな凶行事件を起こすなんて信じられないし許せないことである。多くのマスメディアは、こういう凶行事件が起きる度に、なお一層の安全対策を求める声を大にして訴える。しかし、誰でも何時でも制限なく乗れる公共交通機関においては、このような凶悪事件が起きることを防止するのは基本的に難しいのが現状だ。自分で自分の身を守るしかないのであろうか。

こういう無差別凶悪事件が起きる度に、殆どのマスメディアは安全対策が不十分だからこんな事件が起きるという論調になる。そして、犯人がいかに凶悪で特別な人間であり、こんな人間は絶対に許せないと主張する。そして、マスメディアはどうしてこんな凶悪な犯人が生まれたのかという分析をして、親の養育に問題があったと結論付けてしまうことが多い。このような人間を生み出してしまったバックグラウンドや社会の歪みや闇までも明らかにして行こうという意思は感じられない。本当の再発対策は、こういう人間を生み出さない社会を創ることではないかと思うのだが、そこまで到達しないのが不思議である。

犯人の素顔や養育環境が、少しずつ明らかになってきている。子どもの頃に不登校になり、やがて引きこもりの状態になっていたという。世の中に非常に多いパターンである。そして、両親の手を離れ祖母の家に居候していた事実が明かされている。とても育てにくい子どもで親と仲違いしていたので、祖母に養育を任せていたという。父親のインタビューの返答がすごい内容である。こんな事件を起こした原因と責任は、あくまでも本人にあり、どのようにして償うかは本人次第だと言っていた。こんなにも子どもに対して冷たい親が存在するなんてびっくりである。

確かに、成人したらすべて自己責任である。だとしても、いつまで経っても親子の関係は断ち切れない。どんなに年齢を重ねても、我が子を思う親の愛情はある筈である。それなのに、この犯人の父親には我が子を思う情愛がまったく感じられないのである。今まで、いろんな無差別凶悪事件の犯人像を見てきたが、やはり父親の愛情が希薄であったように思う。どんなに厳しい子育てであっても、その根底に愛があれば良い。しかし、愛情の欠落した躾は、子どもに悪影響しか与えない。

父親のインタビューでさらに驚くことが語られていた。子どもは家庭内暴力を奮っていたらしいが、父親自身も子どもを虐待していたと認めていたのである。暴力は連鎖するし、世代間にまたがって伝わっていく。この若者が無差別な存在にまで暴力を奮うようになったのは、暴力の連鎖によるものであろう。そして、この父親だけにその責任を押し付けるのは、筋違いとも言えよう。この父親だって、その祖先からもまた愛情をかけられなかったに違いない。愛情を持って育てられた経験のない親は、子どもを心から愛せない。

このような家庭は、今非常に多い。このような親子・兄弟の関係性が破綻した家族を機能不全家族と呼んでいる。そして、この機能不全家族を生み出した張本人は、我々であると言っても過言ではない。つまり、今回引き起こされた無差別殺傷事件の根本原因は、この歪みのある社会を構成する我々にあるのだ。この犯人の両親も、そしてその親もまた機能不全家庭で育った可能性が非常に高い。犯人の祖母のインタビューを聞いていても、やはり孫に対する愛情が感じられない。こういう機能不全家族を生み出したのは、間違った教育を続けてしまったこの社会にある。

子どもを愛せない、または子どもの愛し方が解らないという親が増加している。それは基本的に、社会教育と家庭教育が機能していないという証左でもある。しかし、そればかりが原因ではない。添加物過剰の食事などにも原因があるし、農薬や化学肥料を過剰使用した農産物にも原因がある。また、必要以外のワクチン使用や抗生物質などの乱用、または薬物の過剰使用にも原因があると言われている。これらによって腸内環境の悪化が起きて、脳内ホルモンの異常を生み、セロトニン、オキシトシン、ノルアドレナリンなどの分泌不足が起きて、親の愛情不足を生み出しているとも言えよう。このような社会の歪みや闇を放置した我々にも責任がある。二度とこのような無差別凶悪事件が起きないように、我々自身が社会変革に乗り出したいものである。