子どもの為と言いながら・・・

子どもの為にと、必死になりながら子育てをされているお母さん方に、そんなに頑張らなくてもいいんだよと伝えたい。そして、本当に子どもの為と思っているのか、自分自身にもう一度問い直してみてはどうかということも伝えたい。とかく、子育てはお母さんが中心になってするもの、という固定観念が支配している。実はそんなことはなく、父親だって中心になっていいし、祖父母も子育てを担うこともあり得る。さらには、地域全体で子育ての役割を負担することも必要であろう。子育てはみんなですればいいのだ。

子どもの幸福と豊かさの実現を願わない親はいない。健やかに育って、幸福な人生を送ってほしいと親は思うものだ。子どもの為なら、どんな苦労も厭わないと思っている。そして、子どもが日の当たる道を歩き続ける事を期待する。一流高校への進学から国公立大学の入学を願い、卒業後は官公庁もしくは一流企業への就職を後押しする。また、その為に塾通いをさせるし、有名な私立小中学校の受験をさせたがる。そういう教育熱心な親は、想像以上に多いと思われる。将来に渡り安定した生活を送ることを願うのである。

こういう教育熱心な親は、すべて子どもの将来の為を思っての行動であると思いたがる。そして、必要以上に子どもに頑張れと働きかけることが多い。しかし、よく考えてみてほしい。本当に子どもの為に教育熱心な親になるのだろうか。子どもが将来不幸な人生を送り苦しむ姿を見る自分が、辛い思いをするからではないのか。自分の子どもが幸福な人生を送る姿を見て、自分の子育てが間違いなかったと安心して、自分が満足したいだけではなかろうか。親というのは、周りの人々や親せきに我が子のことを自慢したがるし、自分の子どもが誉められるのが大好きだ。

たいていの場合、大人は子どもの学業成績が良くて優秀な高校や大学に入学したことを誉めたがる。しかし、よく考えてほしい。学校の成績が良いことや一流の学校に入学したことが、人間として素晴らしいことなのだろうか。そんなことが誉めて認めるかどうかの基準であるというのは、実に情けないことである。人間として大切なのは、物事に対する考え方や姿勢、または言動が崇高な価値観に基づいていることである。または、あらゆる場面で、主体性や自発性、そして責任性や自己犠牲性を発揮できることが、称賛されるべきである。さらに、弱きを助け強きにも怖気ることなく立ち向かう勇気を持つことも大事だ。

どんな時にも自分自身を見失わず、自利や損得にとらわれず、人々の幸福実現の為に苦労を厭わずに頑張れるような子どもを育てることが親の務めではないだろうか。そういう子どもに育てたなら、たとえ学業の成績が良くなくても、一流の学校に入学できなくても、官公庁や一流企業に就職できなくても、親として誇りに思うものである。子どもの為にと言いながら、学校の成績に一喜一憂して、必要以上勉強を強いる教育虐待をしている親は少なくない。自分には三人の男の子がいるが、どんな高校を受験するか、どこの大学に進学するか、本人にすべて任せたし、就職先についても一切口出しをしたことはない。

子どもは親の所有物ではないし、支配したり制御したりするべきでない。ましてや、親が思う通りの人生を歩ませるような干渉をしてはならない。子どもの人生は子どものものであるし、子どもが決めることである。例え不幸になったとしても、また辛い人生になったとしても、それは子どもの自己責任としてそっと見守る姿勢が必要だ。ただし、子どもから助けてほしいという依頼があれば、どんな犠牲を払っても守ってあげなくてはならない。そして、子どもに対して、いざという時は身を挺してでも守ってあげるよと伝えておくのは必要だ。そういう安心感があれば、子どもはどんな苦難困難も乗り越えられるものである。子どもの為にと言って、あまりにも子どもに介入する親になってはならない。

子どもの為と言いながら、子どもに自分の価値観を押し付けてはならない。ましてや、自分の損得や自己利益を求めるような低劣な価値観を持つ生き方を強要してはいけない。しかし、多くの親たちはいい高校や大学に進み、高収入の職業に就くことを子どもに薦めたがる。それも、子どもの為にという隠れ蓑を着て、実際は親の自己満足の為であり、自分が立派な子どもを育てたと社会に認められたいからである。子どもが大人になり、社会に貢献できるようにそっと見守り寄り添い、子ども自身が自己組織性を発揮できるように育てることこそが親の務めである。子どもの為になんて思うこと自体が、親の思い上がりなんだと気付く必要があろう。

体罰禁止を法制化する前に

体罰禁止を法制化する動きが加速している。内閣は体罰禁止を法律で禁止することを確認した。これから児童虐待防止法改正の手続きに入る予定である。東京都では一歩進んでいて、体罰を条例で禁止しようとしている。違反しても罰則はないが、児童虐待の防止に役立つのは間違いない。民法で親の子どもに対する懲戒権を認めているので、民法の改正も同時にしないと法律の矛盾が起きるであろう。今でも体罰は必要だと考えている前近代的な親がいるが、彼らの体罰に対する歯止め効果になるのは間違いないだろう。

体罰禁止を法制化することに対して反対ではないが、法律で体罰を禁止したからと言って、体罰が完全になくなることはないし、虐待がなくなることもないだろう。体罰や虐待を平気でするような親に対しての意識付けにはなるだろうが、体罰がより陰湿になるとか、秘密裡に体罰をするようになるのではないかという危惧を持つ。まずは体罰や虐待をするような親に対する教育や指導をする支援こそが、根本的に必要である。また、体罰や虐待をしてしまう親を生み出している社会の低劣な価値観を、変革することこそ求められる。

体罰を防止することを、可及的速やかに実行しなくてはならないことは言うまでもない。体罰から過激な虐待に発展することを防がなければならないからだ。だとしても、何故多くの親たちが体罰をしてしまうのか、本当の原因を探り当てないと、体罰を完全に防止することは出来ない。文科省、教委、行政、児相の担当者は、親たちが何故体罰をするのかを知る由もないし、知ろうともしないようだ。だから、体罰や虐待を防ぐ手立てを考えもつかないのだ。体罰や虐待が起きる原因は、システム論でしか解明できないからである。

体罰や虐待が起きるのは、人間が生まれつき持っている自己組織化する働きが関係している。システム論的に分析するなら、人間という生物はひとつの完全なるシステムである。完全なシステムである人間は、生まれながらにして主体性・自発性・責任性を持つのである。つまり、自らが主人公として自主的に考え決断して行動するのが人間である。子どもは自我が芽生えて、この自己組織化する働きが強くなってくる。親からの指示や命令に背きたくなるのは、自我が芽生えるということ=自己組織化するからなのだ。

この自己組織化の働きが強くなる自我の芽生えを、親は無理やり押さえつけてはならない。何故なら、人間が健全に成長する為には、自己組織化する働きを阻害してはならないからである。反抗期を親が押さえつけたり出さないように仕向けたりしてはならない。または、反抗期を一切出さないような『良い子』を演じさせてはならない。子どもの時に自我を安心して表出させて上げないと、やがて自我と自己の統合が上手く出来ずに、生きづらい生き方を強いられるからである。やがて重篤なメンタル障害を起こしかねない。

実は、体罰を行うような親は、小さい頃に親から支配・制御・所有を繰り返しされていたと思われる。自我の芽生えを許されないような親に育てられた可能性が高い。虐待に近いような体罰で、反抗することを抑えられた経験を持つ。だから、その裏返しで反抗する子どもが許せないのである。それで無意識のうちに、しつけとして必要なんだと勘違いして、体罰をしてしまうのである。このような体罰は、多世代に及ぶ負の連鎖でもある。このような虐待や体罰は、世代間で継続していくので、絶対に断ち切らなくてはならない。

明治維新以降に欧米の客観的合理性を重視する教育理念を、日本の教育界は導入した。それは列国の学術水準や技術レベルに追いつくために必要な能力至上主義でもあった。この要素還元主義とも言い換えられる分離分析主義は、物事を客観的に冷静に観察し問題解決するには重宝したのである。しかし、弊害も生んだ。あまりにも批判的否定的に相手の人間を観ることを強いた為に、実に冷酷で思いやりや優しさを欠如した人間を育ててしまったのである。つまり、相手の悲しみや苦しさに共感できず、相手の嫌がることも平気で実行するような冷たい人間を育成したのである。学校や職場で平気でいじめをするのも、そして家庭で虐待や体罰をするのも、この近代教育の影響が大なのである。日本の教育理念を見直して、客観的合理性の教育から共感的関係性の教育に変革することこそ、体罰禁止を法制化する前に必要なことである。

教員の働き方改革こそ喫緊の課題

公立学校でも民間の学校でも、教職者の働き方改革は非常に難しいと思っている人が多い。現在、教職にある人たちは殆どが超過勤務手当をもらわずに残業を強いられている。よく解らないような規則があって、長時間勤務をしても一定額以上は残業手当が支給されない制度になっている。いくら超過勤務をしても、みなし時間外手当を支給しているからという理由で、支給しないようになっている。だから、教職者は実際に何時間残業しているか記録されていない。こんな制度だから、残業時間は一向に減らないし、働き方改革なんて無理なのである。限りなくグレーな労働基準法違反の規則である。

ましてや、教師は皆が想像している以上に超多忙なのである。子どもたちを教えること、子どもたちの相談相手になったり指導をしたりする本来の業務以外に、様々な業務を抱えている。そして、先生たちはこれらの業務をすべて自分一人でこなしているし、他の先生が業務を手伝うことは殆どない。支援を申し出る先生もいないが、支援をお願いする先生も皆無なのである。自分で仕事を抱え込んでいて、他の先生にお願いするのはしない決まりでもあるかのように、一人で完結しようとしている。

そして、意外と教職者は事務処理が苦手であるし、パソコンなどの操作が不得手の人が多い。当然、教職者の業務はパソコンでの事務処理が多いので、処理時間を多く要する。当然、本来の大切な指導教育の時間が足りなくなるし、残業時間も多くなる。さらに、スポーツ系の部活顧問をしている先生は、超多忙となる。どの先生も共通して訴えるのは、事務処理などの雑務が多くて忙しいという点である。文科省からの統計調査や実態調査などの依頼が多く、その対応に時間を割かれる。実にもったいない時間である。

超多忙で仕事に追いまくられている教師は、悲鳴を上げている。そして、あまりにも頑張り過ぎてしまった先生は、しまいには心を病んでしまう。普段の忙しさと、難しい児童生徒の指導と扱いにくい保護者への対応により、過重ストレスとなって精神的に参ってしまうのである。そして、やがて出勤できなくなり、休職という状況に追い込まれる。そして、何度か復帰と休職を繰り返して、完全に離職してしまう。忙しさが解消されることがないし、職場環境は良くなるばかりか悪化する一方なのだから、そうなるのは仕方ない。

こんな超多忙な実態を何とか解決しようと教育委員会や学校管理者は心を砕いているが、まったく解決策が浮かばないみたいである。勿論、教師の数を増やせばいいのだが、教育予算がぎりぎりに削られている現状では難しい。防衛予算は年々増えているのに、教育予算は増えないのである。となれば、限られた予算の中でどうにか対応しなくてはならない。そもそも柔軟な考え方が出来ない文科省のキャリア官僚や教育委員会の幹部は、ドラスティックな発想が出来ない。先生の定員は決まっていて、絶対に増やせない。となれば、定員以外の職員を採用すればよい。パートの教員補助職員を採用するのは可能なのである。

教員免許がないと出来ない業務がある。実際に授業をする行為や指導をすることである。それは、他の職員が代行することは出来ない。しかし、雑務の事務処理業務は誰でも出来る。優秀なパート女性事務職員を雇用すれば、事務処理業務は短い時間で済ますことができる。さらに、少しだけ指導すれば、テストの原案作りや採点もできる。また、採点されたテストの集計とその評価の原案作成もできる。先生が最終チェックをして微調整すればいいだけである。スポーツの部活においても、ボランティアコーチを積極的に活用すればよい。そうすれば、先生は本来の授業や個別指導に力を注ぐことが可能となる。

しかも、コスト面においても正式雇用の教諭だと、社会保険や賞与と退職金引き当ても含めると、年間の平均人件費コストは一人当たり1,000万円を超える。ところがパート事務職員だと、一人年間120万円程度で雇えるのである。教師一人雇う人件費コストで8人以上のパート補助員を雇うことが可能になる。そして、一人の優秀なパート事務職員がいれば、3人の教諭の補助業務だって出来るに違いない。県や市町村独自の人件費負担で、雇用することも可能だ。このように雑多な事務処理などを教諭に負担させなければ、本来の指導教育に専念できるから、いじめや不登校も激減する。そして先生たちの休職や離職を防ぐことができる。先生の業務は他の人が代行出来ないという思い込みを払拭することがまず必要だ。

体罰は子どもを不健全にする

親からの虐待や体罰について、話題になっている。また、躾(しつけ)のやり方についても議論になっている。親からの虐待によって不幸にも亡くなってしまった子どもがいた事件があり、児童相談所や行政の対応の拙さも批判されている影響もある。また、東京都が体罰防止の条例を制定することになり、民法で懲戒権を認めているのはおかしいという議論にも発展している。体罰をしなければ躾は難しいという意見もあるし、どんな理由があるにせよ暴力はいけないと完全否定の人たちもいる。体罰は本当に必要なのだろうか。

体罰という行為は、家庭だけでなく学校や各種スポーツの指導現場でも横行している。体罰をしなければ子どもたちは健全に育たないと思い込んでいる指導者は少なくない。子どもたちを適正に導くには、何らかのペナルティーを与えなければ不可能だと彼らは主張する。家庭において、頭や尻を軽く叩いたり頬を叩いたりする行為なら、自分の手のひらも痛みを感じて、お互いの愛情を感じるからと自らの行為を正当化するお母さんもいる。愛情が根底にあれば、ケガや心の傷を負わせない程度ならいいと肯定する親がいる。

世界各国で体罰については、大きく意見が分かれる。世界中で、法律によって体罰を禁止する傾向にあるのは間違いない。数年前までは11か国が体罰を禁止するだけだったが、現在は57か国が法令によって体罰禁止をしているという。いち早く体罰禁止を打ち出したスウェーデンでは、体罰防止のキャンペーンが功を奏して、8割あった体罰の家庭は今では1割程度に減少したという。さらに驚くことに、このことによって青少年の犯罪が激減したというのである。暴力の連鎖が止まったのだと、専門家は分析している。

一方、体罰を容認している国家もある。先進国で代表的な国は、アメリカ合衆国である。各州によってまちまちであるが、保守的なフロリダ州などは体罰を積極的に認めていると言われている。青少年犯罪も多いし、銃乱射事件など多発している実態、他人や他国に対して暴力的態度で従わせるような姿勢は、もしかすると体罰による教育による影響かもしれない。子どものうちに、暴力によって相手を従わせるということを体験的に学んだ子どもは、大人になれば無意識に暴力で相手を支配するという行為をするのは当然である。

体罰や暴力は世代間連鎖をする。親から体罰を受けて育った子どもは、親になったら何の躊躇もせず我が子を体罰で従わせようとする。体罰まで行かなくても、親の権力を使って暴言や態度で子どもを支配しようとする親は少なくない。長時間に渡り立たせたりトイレや押し入れに閉じ込めたり、はたまたおやつや食事を抜いたりするのは、どこの家庭でも見られる光景である。両親が激しい夫婦喧嘩を子どもたちの目の前で繰り広げることもあるが、これは子どもから見ると立派な虐待であり、子どもの脳を破壊する致命的行為だ。

自分も親から暴力を受けて育った。恥ずべきことであるが、自分も若い父親だった頃に、何度か子どもに体罰を行った。おおいに反省すべきことであり、子どもたちに謝っても謝りきれない卑劣な行為である。子どもたちが我が子に対して、この負の連鎖をしないことを祈っている。体罰によって、子どもを健全に育てられると思い込んでいるとすれば、それは完全な間違いである。科学的にも証明されている。システム科学的に論じれば、過度の子どもという人体システムへの介入(体罰)は、子どもの自己組織化を阻害するだけでなく、オートポイエーシス(自己産生)をストップさせてしまう怖れがあるからだ。つまり、体罰を繰り返すことで、人間として備わっている主体性・自主性・自発性・責任性といった自己組織性を育たなくすると同時に、人間が自己成長して何かを成し遂げる力を削いでしまうのである。

人間と言う人体システムは、自らが自己組織化して自己産生を続ける機能を持つ。システムというのは、外部からのインプットによって機能し活動するのではなくて、自らが主体的に動くのである。そして、アウトプットもすることなく、システムの中でアクションが完結している。人間と言うシステムは、本来外部からインプットされないし、外部に対してアウトプットしない完全無欠なシステムとして機能しているのである。それが、体罰という介入(インプット)をされると、本来の機能を失ってしまう。成長が止まってしまうばかりかシステムエラー(問題行動や病気)を起こすのである。勿論サポートは必要である。それも、愛情の籠った思いやりのある支援である。けっして子どもの自己組織化を妨げることなく、本人が自ら気付くように、学ぶように寄り添い支援を続けることである。子どもを健全に育むためには、体罰だけはしないことである。

いじめ自殺の損害賠償を認める判決

滋賀県大津市で起きたいじめによって自殺した中学生の事件について、民事訴訟でいじめた側に損害賠償を認める判決が出た。今までは自殺といじめの因果関係を認めようとしなかった司法が、初めて自殺といじめの関連性を認定して、原告の要求通りの損害賠償を被告に命じた。これは画期的な判決だと、報道各社は好意的に報じている。いじめじゃなくて単なる遊びや悪ふざけだと苛めた側は主張していたが、司法はいじめだと認定したうえで、自殺に追いやったのは苛めた側に責任があると認定したのである。

この判決は、非常に大きな意味があろう。いじめている子どもたちは、悪ふざけやいたずらという感覚でやっていることが、自殺までに追い込む悪質ないじめであり、損害賠償責任まで負うのだということを認識するきっかけになろう。また、自分たちのやっていることがとんでもなく悪いことなのだと反省して、自分たちの生き方を変える契機になるのであれば意味がある。この画期的な判決によって、悪質ないじめによる自殺が、少しでも減ることに繋がることを望んでいる。

しかしながら、このいじめ損害賠償の判決は相当な危険性を孕んでいるということを認識しなくてはならない。この損害賠償責任が認められたことで、学校におけるいじめが益々陰湿化すると共に、大人に知られないように秘密化してしまうという危険である。それでなくても最近のいじめは悪質なものになり、しかも自分は直接手を出さずに、巧妙に人を支配していじめを実行させるようになっている。SNSやツィッターなどで拡散させたり、間に何人も介在させたりして元情報を知られないように仕組むケースもあると聞く。これでは、いじめた本人が特定できないだろうと、益々いじめが過激になる可能性がある。

ましてや、いじめというのは受けた人を救うというのが第一次的な対処であるが、完全にいじめを無くすには、いじめた子どもを適切に指導しなくてはならない。罰則を強化したり損害賠償責任を負わせたりして、抑止効果を高めるだけでいじめがなくなる訳ではない。いじめを行うような子どもこそが救われなければならないのだ。いじめを行うような子どもは、自業自得なのだから罰を受けるのは当然だし救う価値もないという人がいるかもしれないが、けっしてそうではない。いじめをする人間こそ、心が傷ついているのである。いじめをする子どもがいなくなるような社会にしなければならない。

いじめをするような子どもは、適切で十分な愛を保護者からうけていない愛着障害や、人格に問題を抱えるパーソナリティ障害を持つことが多い。つまり養育環境に問題のある子である。結構裕福な家庭に育ち知能も高く、何をやらせても卒なくこなす器用な子どもが多い。親は社会的地位も高く、教養や学歴も高く、教育熱心な面もある。ところが、父性愛的な条件付きの愛が強過ぎて、母性愛的な無条件の愛に飢えている傾向がある。躾(しつけ)も厳しくて、親の価値観を無理やり押し付けられることが多い。

このように、親からの支配やコントロールを過剰に受けてしまい、主体性や自主性、または自由度が阻害されている家庭生活を送っていることが多い。家の中では非常に『良い子』である。ある意味、『良い子』を演じるように育てられていると言っても過言ではない。そして、親からの愛に飢えている。こういう子は家庭ではおとなしく過ごすが、学校ではその反動で自由を求めて暴れるし、いじめっ子に変化するケースが多いのである。人間は、ストレスやプレッシャーにさらされ、自分らしさを押し殺して生きていると、どこかで爆発せざるを得なくなる。それが他に対する暴言や暴力、いじめなどに変質するのである。

人間とは本来、自己組織化する機能を保持している。誰からも介入や干渉を受けず、自由に生きて主体性や自主性、自発性や責任性を自らが発揮するようになっているのだ。それが、過度に干渉や介入を受け続けて支配・制御を強くされてしまうと、正常な自己組織化を遂げずに、精神を病んでしまうばかりか発達が阻害される。利己的な人間になり、他者への愛を持てなくなる。生きづらくなるばかりでなく、その原因を他者にあると勘違いして、攻撃的な性格を持つようになる。いじめをする子どもの歪んだパーソナリティを、何とかして救ってあげないと、やがては社会に適応できない大人にしてしまう。いじめの損害賠償責任を認める判決は、こういう部分をきちんと理解したものならいいが、社会のいじめに対する反感に呼応したものであるなら、評価に値しないものと言えよう。

卒婚を密かに目論んでいる妻

日本人の夫婦のうち、約3分の1が離婚しているという。そして、その離婚を言い出すのは圧倒的に妻のほうが多いという。昔は、夫からの離婚申請が多かったのだが、現在は妻のほうから三行半を突き付けるらしい。そして、多くの妻たちは婚姻状態を続けることに疲れ果てていて、いつかは卒婚をしたいと密かに夢見ているという。夫はまったくそんな妻の心理状態に気付くこともないらしい。我が子が大学を卒業するまでの我慢とか、子どもが成人したらとか、子どもが結婚するまでとか、その時期をじっと待っているのである。

その卒婚さえ待ちきれず、もう夫との結婚生活には一刻も我慢できないと離婚してしまう若い妻も少なくない。昔ならば『子はかすがい』と離婚を踏みとどまる女性も多かったが、今は子どもが居ても離婚を踏みとどまる理由にはならない。それだけ妻たちは我慢し切れなくなっているのだ。離婚の理由はそれぞれあるだろうが、妻が望む夫婦関係や親子関係になっていなくて、改善の見込みもないので決断したのだと思われる。夫のほうでは、話し合いで問題決を図り、なんとか婚姻を続けたいと思うらしいが、妻の決断は変わらない。

妻が卒婚したいと思っていることさえ夫は知らないでいるし、卒婚を望む理由さえも夫は解らない。だから、その時が来るといきなり卒婚を言い出されて、夫はおろおろするばかりだという。妻は何故こんなにも卒婚を望んでいるのだろうか。妻たちが経済的に自立しているからだとか、財産分与や年金受給の分与が出来るようになったからだと思っているらしいが、それが卒婚の理由ではない。あくまでも、結婚生活における夫の態度に我慢がならないのである。我慢に我慢を重ねて熟慮した選択だから、決心は変わらないのだ。

妻が卒婚する原因は、夫のこんな態度や姿勢である。夫は家庭に安らぎを求めている。男は職場において全身全霊を傾けて仕事をする。男というのは仕事第一主義である。したがって、職場で仕事にエネルギーを使い果たしてしまい、家に帰るとのんびりと過ごしたがるし、家事育児に協力しようとしない。帰宅すると、テレビを見たりゲームをしたりするだけで、ソファに横たわっている。または、自分の趣味に没頭するか、PCやスマホに心を奪われている。家庭は自分だけの安らぎの場所だと勘違いしているのである。

それぐらいなら妻はまあ仕方ないかと諦めているが、我慢ならないのは夫が妻の話を聞こうとしないし、妻に共感しないという点である。しかも、妻の気持ちを少しも解ろうともしない夫のことが許せないのだ。夫は妻に対して優しい態度を取ることもある。例えばバースデーの贈り物やクリスマスのプレゼントはしてくれるし、たまには豪華な食事にも連れて行ってくれる。しかし、そんな優しさは見せかけだけだと妻は知っている。そういう優しさを見せるのは、夫の自己満足に過ぎないことを百も承知なのだ。職場では無理して『いい人』を演じているのに、家庭では身勝手で自己中の夫なのである。

育児についても、夫の態度は我慢ならない。普段の子どもの世話は、殆どを妻がやっているが、何かのイベントだけは自分が中心的な役割を果たして、子どもの点数稼ぎをしたがる。育児はお前に任せたと、一切口出しをしないが、何か子育ての問題が起きると『お前の子育てが悪いからだ』と責める。学校で何か子どもの問題が起きると、仕事を言い訳にして逃げたがる。いじめや不登校などの問題が起きて、母親の手には負えないから父親になんとかしてほしいと頼んでも、仕事だからと学校に行きたがらない。こんな父親では、子どもは信頼しないし、妻も愛想を尽かす。

男は結婚するまでは、交際相手の尊厳を認め自由を認める。ところが結婚すると豹変する。自分の所有物だと勘違いし、自分の理想の伴侶であってほしいと強く思い、自分の価値観を押し付けたがる。自分に都合の良い妻になるように仕向けるし、妻の行動を制御したがるし支配する傾向になる。それが上手く行かないと、怒りを爆発させたり暴言を吐いたりする。そんなことを出来ないひ弱な夫は、自分の思い通りにならないと不機嫌になるし、黙り込んでしまう。まるでイプセンの戯曲『人形の家』のノラのようである。我慢に我慢を重ねてついにノラも家を出て卒婚する。人間とは、本来は自由に生きる生物である。あまりにも自由を制限され尊厳を認められないと、妻たちは卒婚する。

虐待を完全に解決する方法

千葉県で親が自分の娘を日常的に虐待していて、死に至らしめたという実に可哀想な事件が起きた。この父親は、児童相談所や教育委員会、さらには学校の管理者までも恫喝して、我が子を無理やり家庭に引き戻していたと報じられている。行政側の職員たちのあまりにも杜撰な対応が、この子を守り切れない結果を招いたとバッシングを受けている。しかし、児相の職員にしても、教育関係者にしても、このような問題のある扱いにくい保護者を、指導できる力量を持っている職員なんているのだろうかという疑問を持つ。

千葉の虐待死事件が明るみになってから、全国各地で同様の子ども虐待死事件がニュースになっている。不幸にも子どもが虐待によって亡くなるというあまりにも悲惨な事件が増え続けている。さらには、虐待だと児相に報告を受ける件数が年々、まさにうなぎ昇りに増えている実態がある。それでなくてもマンパワーが不足している児相が、対応しきれないのは当然であろう。児相職員の対応が不備だったという批判、児相の職員を増やせというマスメディアの指摘は的外れでないが、それだけで虐待が解決できるとは思えない。

確かに緊急避難的に児相が虐待されている子どもを保護して、虐待している親から引き離すことは必要である。しかし、一時的に虐待する親から引き離して、子どものケアをすると共に親の指導を同時並行的に進めたとしても、なかなかその効果は上がっていないのが現状である。「私が愚かでした。子どもに対する虐待をするなんて、とんでもないことをしてしまった。これからはこの子の親として、子どもを愛し慈しみ、いかなる場合も子どもを守り育てることを誓います」と心から悔い改める親なんて、そうはいないのである。

児相で保護した子どもたちが、虐待した親の元に戻り、平和で穏やかな暮らしを取り戻したという実例は、非常に少ない。何故なら、虐待していた親が自らの行動を心から反省し改心して、二度と虐待することなく子どもに豊かな愛情を注いで育てるように導くような指導力を発揮できる児相の指導員が殆どいないからである。ましてや、問題のある父親を改心させられる圧倒的な説得力があるはずがない。中には、説得力もあって圧倒的な指導力を持つ職員もいるだろうが、ごく少数であろう。

説得や指導に素直に応じるような親なら、虐待なんてしないだろう。頑固で、こだわりが強くて、低劣な価値観に縛られているであろうし、短気で攻撃性の高い性格だと思われる。子どもだけでなく、職場や行政の職員に対しても怒声を浴びせ恫喝さえもするだろう。そんな怖い男性に、毅然とした態度で平然と指導を行える職員なんていないに違いない。ましてや、問題ある父親の心を開かせて、穏やかに話を聞かせることは、同年代の40代未満の職員には至難の業であろう。かといって、経験豊かな中高年職員は体力的にも気力的にも無理だと思われる。

虐待事案を完全に解決したいが、問題のある親を改心させられる指導員がいないのなら、それを実現させるのは非常に難しいということになる。しかし、ひとつだけ虐待を解決する方法がある。民間企業において人材教育を長年経験した人物で、それも問題のある社員を指導して実績をあげてきた人材を活用する方法である。勿論、既に第一線をリタイアした人材で、残りの人生を社会貢献に捧げたいという志の高い人を嘱託職員で採用してはどうだろうか。そういう人材なら、虐待を繰り返すような問題ある親の話を傾聴し共感して、心の闇をそっと解きほぐすことが出来るのではないかと考える。

虐待をする親は、自分自身も幼い頃に虐待や育児放棄をされて、深い心の傷を負っていることが多い。または、親からの愛情が不足していたり、過干渉や過度の支配を受けたりしていたケースが多い。つまり、自分自身が育てられた環境に大きな問題があり、それが人格に大きな歪みを抱える要因になっていると考えられる。とすれば、虐待をする親を糾弾して矯正しようとするだけでなく、彼らを救う手立てを考えなければならない。それも、家族カウンセリングやオープンダイアローグ療法を駆使して、虐待する親を否定することなく、自分の間違った価値観に自らが気付くアプローチが求められる。人材育成のプロが、最新の心理療法や精神療法の研修を積めば、十分に虐待の親を指導することが可能になる。これが、虐待を根本から解決する最善の方法であると思われる。

※我が子をどういう訳か虐待してまっていて、悩み苦しんでいらっしゃる保護者の方の相談を「イスキアの郷しらかわ」では常時受けています。さらに、虐待をしてしまう理由の解明、虐待を解決するためのサポートをさせてもらいます。心ならずも虐待をしてしまう保護者は、ご自分自身をとても責めていらっしゃると思います。そのあまりにも大きな悲しみと苦しみを一人で抱え込まずに、ご相談ください。けっしてご本人を否定したり非難したりすることはしません。どう解決すればよいか、ご一緒に考えてみましょう。

仕事よりも育児を優先する父親

子どもを取るか、それとも仕事を取るかという二者択一を迫られたとしたら、親としてどちらを選ぶだろうか。母親ならば、よほどの事情がなければ殆どが仕事を犠牲にして、子どもを優先する選択をするに違いない。それだけ子どもに対する思いが強いし、母性愛というのは何よりも子どもを優先するものだ。ところが、父親というのはちょっと違うようだ。父親は一家の収入を支えるケースが多いし、仕事に対する責任を感じる傾向が強い。ましてや、男というのは仕事によってだけ自己実現するのだと、おおいなる勘違いしているからだ。

仕事に専念するあまり、妻にだけ子育てを任せてしまい、育児に対して積極的になれない父親は多い。そんな父親なら、育児のために仕事を犠牲にするなんて考えられないだろう。例えば、育児のために残業がない勤務部署・勤務体制・職制に自ら変更してもらうケースは殆どないであろう。ましてや、子育てを優先して転職するなんてことはないに違いない。子育と仕事のどちらかを優先するかという究極の選択をどうするかなんて、乱暴なことを言うつもりはないが、父親が仕事を優先するのは圧倒的に多い。

子育てを最優先にして仕事を犠牲にする父親なんていない筈だと思っている人は多い。しかし、世の中には仕事よりも子育てを大事にする行動をとる父親も皆無ではない。私自身も、実はそのひとりだ。大学卒業後から地元の農協が経営する医療機関に勤務していた。県内に6病院を設置経営していたが、経営の重要な部分を担っているのは事務職員である。各病院の院長人事さえも、事務職員が決めているのだから、実質的なトップ管理者と言えよう。県内でも有数の安定企業だから、人気があり待遇だって悪くなかった。

しかし、県内の各地域に6病院は点在していたし、本部は県庁所在地の福島市にあった。幹部候補の事務職員は3~4年に一度転勤をするのが常だった。当然、自分も15年間に転勤させられて4つの病院を経験した。子どもが小さいし、妻ひとりで育児するのも負担になるから、一緒に転勤転居した。子どもは転居する度に転校を強いられた。長男は、最期の転校の際に、「僕はもう2度と転校しないからね」と宣言した。せっかく出来た友達と別れるのが辛かったし、新しい学校や環境に慣れるのが大変だったと思われる。この言葉を聞いて、決心した。次の転勤からは、単身赴任をするしかないと。

ところが、単身赴任をするには問題があった。看護師をしている妻も仕事を続けたい希望があり、夜勤や休日出勤がある今の職場で、一人で子育てしながら仕事を続けるにはハードルが高過ぎる。ましてや、2歳、7歳、11歳の手のかかる3人の男の子をひとりで面倒見るのは不可能に近い。妻が仕事を辞めるという選択肢もあったが、仕事に生きがいを感じている妻に仕事を辞めろというのは酷だった。したがって、転勤のない職場に自分が転職するしか方法がなかったと言えよう。それで、いずれ定住するであろうと求めていた土地に家を建てて、地元の会社に転職することにしたのである。

正直に言うと、子どもの為に仕事を辞めるのは辛かった。ましてや、それまで在職した医療経営の組織では、誰よりも若くして係長になり課長に昇進していた。自分でも言うのもおこがましいが、将来が嘱望されていて、事務職のトップになるだろうと言われていた。それでも、敢えて退職して、転勤がなく残業も少ないビルメンの会社に転職することにした。給料などの待遇面でも低下したし、仕事内容もまったく違っていたから慣れるまで苦労した。でも、家族一緒に暮らせて、子どもたちの笑顔に包まれる生活を選んだことを少しも後悔していない。

それから15年後にもう一度転職した。これもある意味では、子どもの生活を守る為の転職だった。子どもが地元の行政職に就職していて、会社の仕事で大きな迷惑をかける危険があったからだ。子どものせいで親が職を失うのは仕方ないが、親の影響で子どもが職を失うなんて、絶対に許せないことだ。子どもの為だけとは言えないが、2度転職を経験している。子育てほど社会とって貴重で大切なことはない。将来の社会を担う子どもを育てられる喜びほど大きいものはない。単身赴任しなかったからこそ、度々あった子どもの不登校危機やいじめ事件、不適切指導事件にも自分で対処して乗り越えられた。単身赴任していたら、妻や子どもたちにどれほどの苦難困難を与えていたことだろう。お陰で、子どもたち3人は無事に大学を卒業して、行政職と教職に就いている。妻も、看護師を今も続けている。私自身は、家族の為に犠牲を強いられたとは思っていない。子育てによって、自分自身が大きな気付きと学びをさせてもらい、かけがえのない自己成長を遂げられたからだ。そんな素敵なギフトをくれた子どもたちに、おおいに感謝している。

※「イスキアの郷しらかわ」では、不登校、いじめ、教師による不適切指導等子育てに関する悩み・苦しみに対して、実体験を通した助言をしています。問題行動は何故起きるのか、どうしたら乗り越えられるのかを、実例を上げながらアドバイスをしています。問い合わせフォームからご相談ください。

いじめによる自殺を防ぐには

子どもが学校でいじめを受けて苦しんで、お母さまが親子無理心中をしてしまったという事件の報道がされている。お母さんは育児ノイローゼが原因で心中したのだとご近所の方たちが誤解しているのはたまらないと、お父さまがそうではないと否定するために記者会見を行ったという。お母さまは子どもからいじめの相談を受けて、何度も学校側と善処するよう交渉したが、いじめは一向に止まず、子どもはいじめられ続けたという。そんな状況に追い込まれて、やむにやまれず心中するしか方法がなかったらしい。

実に悲惨な出来事である。学校でのいじめにより子どもだけでなく母親の命までも奪ってしまうなんて、許せないことである。一方的な話だけなので学校の対応が適切だったかどうかは解らないが、心中するまで追い込まれてしまった母子を救うことができなかった教育関係者の責任は大きいだろう。結果だけを見れば、学校や教委の対応が問われるのは間違いない。このような悲しい出来事が起きる度に、いじめの撲滅が叫ばれて文科省を始めとした教育関係者は、各種の再発防止策を実行するのだが、効果は限定的でしかない。

いじめによる自殺は、一向になくならない現実がある。いじめの自殺を皆無にするには、この世からいじめを無くすことが必要である。しかし、文科省・教委・学校はいじめを完全に無くす手立てを考えつかないようだ。よって、場当たり的な対応をせざるを得ず、対症療法しか出来ないでいる。いじめが起きるそもそもの原因を無くすことが必要なのだが、いじめの本当の原因を掴めていない。文科省・教委・学校の現状そのものが原因のひとつなのだから、自浄能力の極めて低い教育関係者が抜本的解決策を取れるとは思わない。

このようないじめの自殺を防ぐ手立てはないのだろうか。完全にいじめを無くすには、抜本的な対策や解決法を見つけて実践したとしても、何年もかかるに違いない。とすれば、現在いじめを受けている子どもたちを緊急避難的に救う手立てを考えなければならない。それは、学校・教委・文科省に期待しても叶えられそうもない。となれば、保護者が子どもを救う役割を果たすしかないだろう。としても、今回母子が無理心中をしてしまったように、保護者がいじめによる自殺を完全に阻止するのは極めて難しいと思われる。

何故子どもを親が救うのが難しいかと言うと、まずは子どもがいじめの実態を打ち明けられないでいるケースが多いからである。いじめを親に打ち明けると、親の対処の仕方が悪いと、逆にいじめを巧妙に隠されてしまい、より過激になりやすいからである。または、いじめを親にチクった卑怯者としてさらに多くの学友から情けない人間だと蔑まれる怖れも感じるのであろう。さらには、大好きな親に心配をかけまいと我慢をするいじらしい子どもさえいる。何かあったら必ず親に素直に告げる、絶対的な信頼関係が必要であろう。

また、日頃から学校の様子を家庭内で話し合える環境づくりが必要である。心を開いて家族どうしが話し合う普段からの親しい関係性が求められる。特に大切なのは、夫婦が子どものことについて情報を共有することである。母親に子どものことをすべて任せきりにすることが、一番避けなければならないことと言えよう。子どもの前では、夫婦が本音でなんでも話し合えているという雰囲気を見せることが大切である。しかも、夫婦共にお互いの尊厳を認め受け入れ、けっして自分の考えや価値観を押し付けてはならない。相手を支配しようとしないし、制御しようとしない態度が必要だ。そうすれば、子どもは親になんでも言えるようになるのである。けっして否定せず、相手のすべてを受け容れるような態度を普段から示すことで、子どもが安心して話せる家庭環境になる。

さらにもう一つ、いじめによる自殺を防ぐ大事な対処がある。それは、父親が果たす役割である。母親でもその役割を果たせる可能性はあるが、日本は男性中心社会であることから、父親が動かないと学校・教委は対応してくれないのである。母親がいくら学校・教委側と交渉しても、いじめに対する真剣な対応をしてくれるケースは少ない。今回の母子心中事件だって、父親が学校と交渉していたら、違った対応をしたに違いない。また、父親が子どもを守る為に学校と交渉して、身を挺して自分を守護してくれるんだという安心感が大切なのである。いじめをされている子どもは、自分のことを守ってくれる強い存在があるという安心感によって、自殺を思い止まると思われる。この役目は、男性しか負えないということを認識すべきである。父親、もしくは父親に代わって子どものいじめに真剣に対応してくれる存在が、自殺を防いでくれるのである。

家庭問題を解決するキーパーソンは大黒柱

一家の大黒柱という言葉が死語になっている。今の若い人に「一家の大黒柱は誰のこと?」と聞いても答えられないだろう。そんな言葉を今時使う人もいないし、家庭に大黒柱になる人なんていないだろう。そもそも大黒柱という意味さえ知らないに違いない。それは伝統的な建築手法で建てられた民家で、土間と居室部分の境目に立てられる一番太い柱のことである。家を支える大事な柱のことで、転じて一家の主人を差すようになったという。通常は、家庭における家長のことを大黒柱と呼ぶことが多い。

戦後、GHQの指導によって家長制度が廃止になり、男女平等の考え方が浸透して、一家の大黒柱という言い方が敬遠されたと思われる。そして、実質的にも大黒柱が不在となる家庭が殆どになってしまった。家族がみんな平等で、それぞれの基本的人権が保障され、大黒柱がいなくても困らないだろうと思っている人が多い。確かに、大黒柱に頼り切ってしまい、家族が一家の大黒柱に依存し過ぎてしまい、精神的にも経済的にも自立出来なくなるというのは困る。しかし、一家の大黒柱が不在になることで起きている家庭の諸問題が、実に多いように感じられて仕方がない。

家庭における諸問題が次から次と起き続けている。家庭内における児童虐待や育児放棄、パートナー間におけるパワハラやモラハラ、ひきこもりやニートの長期化と高齢化、家庭内暴力などが多発する事態となっている。家族の中に、発達障害やメンタル疾患が急増している。そして、これらの家庭内における問題が解決されることもなく、長期化するばかりか深刻化している。離婚してしまう夫婦も多くなっているし、親子関係が断絶してしまい、家庭崩壊を招いているケースも少なくない。これらの家庭における諸問題は、家族の中に大黒柱が不在になってから、増えているように感じられる。

ここでいう大黒柱というのは、経済的な支柱になっている収入の中心者という意味ではない。精神的な拠り所という意味であり、すべての家族の守り神という役割を担う人を差す。そして、この一家の大黒柱を家族みんなが頼りにしているし、いざという時には家族の為に命を賭してスーパーマンのように大活躍する存在である。家族が困ったり悩んだりした時は、メンターの役割を果たしてくれるのが大黒柱である。通常は父親がその役割を担うことが多いが、母親だって大黒柱になれない訳ではない。母親が大黒柱として家族を守っているケースも少なくない。けれど男性よりも精神的な拠り所としては難しいと思われる。

女性が男性よりも劣っていると言いいたい訳ではない。男性のほうが女性よりも強いという意味でもない。ある意味、男性よりも精神的に頼りになる女性も少なくない。社会では男性よりも活躍している女性が非常に多い。だとしても、家庭内においては女性よりも男性のほうが圧倒的に頼りにされるケースが多い。しかし、残念なことに家庭における父親が頼りにならなくなっているのである。家庭内における諸問題が起きている家族関係において、父親の存在が希薄化しているケースが圧倒的に多いのだ。家庭内の諸問題を心配して何とか解決しようと努力している人は、殆どが母親なのである。

つまり、家庭内の諸問題が発生しているのは、名実共に一家の大黒柱と呼ばれる人物が不在の家庭なのである。ということは、家庭内の諸問題を解決するキーパーソンは一家の大黒柱ということになる。家庭における主人が、大黒柱としての本来の働きをすれば、家庭内の諸問題が解決に向かうのではないかと想像できる。精神的支柱となって、家族をひとつにまとめ上げ、関係性を親密にして、お互いの信頼関係を高めることで、問題は解決される。くれぐれも言っておきたいが、戦前のように大黒柱が絶対的権力を持つような支配構造を持つことは絶対に避けたい。あくまでも、精神的な拠り所としての役割だけだ。

一家の主人が大黒柱としての役割を立派に果たすには、まずは家族の話を傾聴することが大切だ。それも共感的態度で対話することが肝要だ。相手の気持ちに成りきって否定せず話を聞く姿勢が必要だ。そのうえで、指示することなく命令することなく、相手の自己組織化をそっと見守る姿勢が大事である。家族それぞれが自己成長して、主体性や自主性、そして責任性を発揮できるように寄り添いサポートすることが求められる。そういう意味では、大黒柱は優秀なカウンセラーでありセラピストでありたいものだ。家庭内において父親が名実共に大黒柱となって、諸問題を解決する役割を果たせるようになって欲しい。仕事も大事であるが、家族はもっと大切であると自覚してもらいたいものである。