8050問題を解決する方法

8050問題が、マスメディアで盛んに取り上げられたこともあり、注目されている。川崎市登戸無差別殺傷事件や元農水省事務次官の長男殺人事件が、ひきこもり関連で起きたことから、中高年のひきこもりが話題になったと思われる。80代の高齢者が50代の中高年ひきこもりを養育しているという家庭が急増しているという。内閣府の調査で40歳~64歳のひきこもりが61万人もいることが判明した。15歳~39歳のそれは54万人で、ひきこもりの実に6割が中高年だということになる。これは将来においても、由々しき大問題である。

中高年のひきこもりの子どもを抱えている親たちは、ひきこもりだと認めたがらない。当事者自身もひきこもりだと認識していないことも多い。したがって、内閣府によるひきこもりの調査に、ひきこもりの多くはカウントされていないと思われる。おそらく、調査で明らかにされた数の約2倍の200万人がひきこもっているのではないかとみられている。仕事をしていない訳だから、健康保険と年金にも加入していないし、収入もなくて親に養われている。親が高齢になり老齢年金しか収入がなくなると、生活困窮家庭となってしまう。

8050問題を放置して解決しなければ、健康保険制度や年金制度が破綻しかねない。ひきこもりを続けている人たちは、生活保護を受給するようになり、国家財政をひっ迫させる恐れもある。働かないで公的扶助を受ける人が多くなれば、日本経済は低迷するかもしれない。日本の経済的損失は、多大なものになる。ひきこもりも50歳という年代になると、ひきこもりを解決しようとせず諦める。ひきこもりになる原因が親子の愛着に問題があるのだから、親があまりにも高齢になると親子の愛着を再構築することが不可能になるのだ。

だからこそ、ひきこもりの親子が8050にならないうちに、愛着障害を解決してひきこもりを乗り越えなければならないのである。ひきこもりになっている子どもは愛着障害であるが、その親もまた愛着が傷ついているので、親子共に傷ついた愛着を癒す必要があるのだ。しかも、ひきこもり当事者の愛着障害を癒すためには、その親の不安定な愛着を安定したものに変えることが、一番効果があると言われている。となると、親が80代になってしまうと不安定な愛着を安定した愛着に変えることが非常に難しくなってしまうのである。

ひきこもりになっている親の傷ついている愛着をどのように癒すのかというと、それは愛着アプローチという方法が取られることが多い。この愛着アプローチという方法をとる場合、父親よりも母親のほうが有効になるケースが圧倒的に多い。男性というのは、考え方に柔軟性がなくて、謙虚さや素直さがない人が多いせいかもしれない。そういう意味では、女性は考え方に柔軟さがあるうえに、謙虚さもあるし素直な気持ちなので、愛着アプローチを受け容れやすいのだろう。特に年齢を重ねているせいもあるが、男性は頑固で人の話を聞かないから、支援が難しいと言える。

さて、この愛着アプローチによって傷ついた愛着を癒すのであるが、この愛着アプローチ療法を施すセラピストのメンタライジング能力が問われる。つまり、メンターとしての資質が必要とされるのである。そして、カウンセラーやセラピストというのは、不思議と自分も傷ついた愛着を抱えながら大人になっていることが多い。そして、その不安定な愛着を乗り越えたセラピストが優秀なメンターとなれるのである。傷ついた愛着を癒すことが出来るメンタライジング能力も高いが、自分も辛い経験をしたことから共感力が非常に高いのである。

ひきこもりをしている当事者に対して愛着アプローチができるケースは、残念ながら極めて少ない。ひきこもり当事者と親を含めたオープンダイアローグによる愛着アプローチが、とても有効だと思われるが、ひきこもり当事者が拒否する例が多い。ひきこもりの母親への愛着アプローチが、何故効果があるかというとこういう理由からだ。ひきこもりで苦しんでいる我が子を何とかしようとして、母親は孤軍奮闘している。そして、なかなかひきこもりが解決できずに、孤独感と絶望感に打ちひしがれている。そして、母親にとっての安全基地が存在せず、不安感や恐怖感がマックスになっている。その母親に適切な愛着アプローチをして、安全基地としての機能を発揮してくれる人物がいてくれたら、母親の気持ちは安心するし、愛着が安定する。そうすると、自分自身が我が子の安全基地としての機能を持てて、子どもの傷ついた愛着を癒せるし、やがてひきこもりから抜け出せるようになるのだ。

※「イスキアの郷しらかわ」では、ひきこもりの子どもを持つ母親のサポートをしています。我が子に対する愛着アプローチの仕方、またはメンタライジング能力を高める研修をしています。母親が我が子の安全基地としてなれるような支援をすると共に、安全基地としての機能をイスキアとして発揮させてもらいます。まずは、問い合わせフォームからご相談ください。

またも児童相談所の怠慢で

札幌でまた虐待死事件が起きてしまった。2歳の詩梨(ことり)ちゃんが衰弱死をした事件である。勿論、この母親と交際している男性が暴行を繰り返して虐待やネグレクトをしたことが、この虐待死に繋がったのは間違いない。それにしても、問題なのは児童相談所の対応の拙さである。3度も虐待しているとの通報がありながら、虐待とは見られないとの間違った判断をして、みすみす詩梨ちゃんを死なせてしまったことは言い訳できない失態である。児相が的確な判断をして、適切な保護をしていれば救えた命なのである。

虐待の報告を受けたら、児相は親と本人に面談をすることになっている。しかも、虐待が疑われる際には48時間以内に、たとえ面談を拒否されたとしても、内部介入する規則が設けられたばかりなのである。2回目の通報で、この定めを実行すべきなのに、児相が怠ったことでこんな悲惨な事件が起きてしまったのだから、児相の罪は大きいと言わざるを得ない。大切な幼な子の命が奪われたというのも悲惨であるが、母親に我が子殺しという大変な罪を背負させてしまったという責任も大きいと言えよう。児相の職員は何をしていたのだろう。

児相の職務怠慢によって、幼い子どもが犠牲になったという事件は枚挙にいとまがない。もう少し丁寧な対応をしていれば救えた命がたくさんあるのだ。いくらマンパワーが不足しているとは言え、緊急避難的に救い出さないといけない事案は、最優先的に実行すべきだ。児童相談所の人員が圧倒的に不足しているという状況を勘案したとしても、子どもの命を守れていない児相の怠慢さは問題があろう。こんなにも児相の問題が提起されているのにも関わらず、その運営における抜本的な改善がされていないのは何故だろうか。

児童相談所が子どもたちの命を守れていない理由は、第一に業務量が急増しているのに職員数が絶対的に不足していることがある。虐待通告を受けても、満足に調査ができえる人員配置がされていないのであろう。二つ目の理由は、児相の相談業務のマネジメントができていないということである。児相の所長を始めとした管理者が、職員の業務の管理と指導をしていないと思われる。三つ目の理由は、相談員の業務遂行能力不足とメンターとしての資質が不足している点だ。虐待を見抜く洞察力がなく、保護者を指導する力量がないと思われる。

児童相談所の職員が不足しているという問題は、以前より各界から指摘されているが、それ以上に問題なのは、相談員としての資質を持ち得ている職員が不足していることである。児童相談員とは厚労省が制定した任用資格を取得した人だけがなれる。その資格はあくまでも任用資格であり、地方公務員の採用試験を通ることが前提となる。そして、例外はあるものの殆どが福祉系または心理学系の大学や学部を卒業した学生が相談員として就職している。実は、これが資質不足を呈しているそもそもの原因になっているのではなかろうか。

相談員として必要な資質とは、児童心理学や精神医学の知識、またはカウンセリング能力だけではない。それ以上に必要な資質は、メンターとしての能力である。虐待やネグレクトを受けている子どもは愛着障害を抱えている。そして、その母親や父親もまた愛着障害を抱えていることが多い。その愛着障害を癒したり和らげたりすることが相談員に求められる。メンタライジング能力がないと、愛着障害を抱えている児童や保護者を適切に支援することができない。メンタライジングについての専門的知識を学んだとしても、その能力を持てるとは限らないのである。

誤解を受けずに言えば、福祉系の仕事を目指す学生は、自分自身が傷ついたり不安定な愛着を抱えたりしていることが多い。愛着に問題を抱えている人間が、正常なメンタライジング能力を持つことは、非常に難しいと言わざるを得ない。採用する際に、メンタライジング能力に長けた学生を採用すればいいのだが、面接でそれを見抜ける目を持つ面接官がいるとは思えない。だとすれば、厚労省は児童相談員の任用資格を抜本的に見直してもいいじゃないかと思う。民間企業で社員の教育や指導をしてきた経験を持つ優秀なメンターを採用することを検討してはどうだろうか。企業内で愛着障害を抱えた社員を指導してきた経験が、生かされるに違いない。経験豊富なメンターが、虐待をしている親に適切な愛着アプローチをすれば、親子の良好な愛着を結びなおし、虐待を止めさせることが可能になるであろう。

我が子に愚母と蔑まれ殴られて

農水省事務次官にまで昇りつめた元エリート官僚が、我が子を殺してまったという事件は、世間に衝撃を与えた。しかも、その息子はひきこもりで家庭内暴力を振るっていたというから驚きである。そして、その長男は自分の母親をインターネット上で愚母と書き込んで、殴り倒していたというのだ。自分が生み育てた我が子からこんな仕打ちを受けていたこの母親が、不憫で哀れでもある。さらに、その息子を自分の夫が殺してしまう事態にまで追い詰められてしまったというのは、実に悲しくてやりきれない思いであろう。

このひきこもりの長男は、ゲーム障害の依存症でもあったと伝えられている。家庭内暴力は、中学生の頃から始まったらしいが、その背景には学校での深刻ないじめがあったとも伝えられている。また、作りあげて大事にしていたプラモデルを母親が壊したことをきっかけにして、母親への憎しみから暴力が始まったと言うが、間違って壊したのか敢えて壊したのかは不明である。ともあれ、父親に憎しみや怒りが向かわないで、母親に向いてしまったというのは不思議でもある。思春期の男性は、同性の父親に憎しみが向かうことが多い筈だ。

どうして父親に対して憎しみが向かわなかったのかというと、ひとつは父親が圧倒的な社会的ステータスを持っていて、立派過ぎて立ち向かう勇気が持てなかったのかもしれない。そして、もうひとつの理由は父親が育児や教育に対して無頓着であったか、仕事が超多忙であり我が子と関わる時間的余裕がなかったのではなかろうか。おそらくは、後者の理由が大きいような気がする。東大法学部卒のキャリア官僚であり、入省時から将来は農水省のトップまで到達すると目されていた逸材で、エリート中のエリートであったであろう。当然、エリートコースを歩んだのだから、土日もなく必死に働き、父親不在の家庭だったに違いない。

キャリア官僚の妻というのは、殆どが専業主婦である。良妻賢母として、子育てや家事に専念する。勿論、良家の才媛であったと思われるし、教養学歴も高いであったろうと想像する。父親不在の家庭で、しっかりと家を守り、立派に子どもを育てようと必死に頑張ったと思われる。そして、この育児環境に落とし穴があったのではないかと推測されるのだ。全部が全部そうなる訳ではないが、父親が仕事で忙しくて専業主婦の母親にすべての育児と教育の負担と責任が押し付けられてしまうと、子どもが愛着障害を起こしてしまうケースが多い。

父親が仕事を優先せざるを得ない状況に陥り、子育てのすべてを母親に押し付けざるを得なくなり、母親が育児を頑張り過ぎてしまうと、子どもはいろんな不具合を起こしやすい。本来、父親は条件付きの愛である父性愛を注ぎ、母親は無条件の愛である母性愛を豊かに注ぐという役割分担をするのが通例である。つまり、条件付きの愛である『しつけ』を父親が担当し、厳しく子どもを指導する。母親は、危ないことだけを厳しく教えるが、それ以外については無条件に子どもを否定せず批判せずまるごと愛する。あるがままの子どもを愛し受け容れるのである。

この父性愛と母性愛をかける順序が大切で、まずはたっぷりと母性愛を注いであげて、自我を満足させてあげて、自分がどんなにわがままを言っても甘えても許してくれる存在があるのだと認識することが大事なのである。そして、どんな自分であっても許し受け容れられ、けっして見捨てられることがないという安心感を持つことが肝要である。そのうえで、しつけを厳しく行うのであれば、子どもは素直に聞き入れることができるのだ。そして、どんな苦難困難に遭おうとも、乗り越えられる勇気が持てるようになるのである。さらに、父親は子どもと妻の安全基地であらねばならないし、守護神の役割が求められる。

母親ひとりで子育てをすると、ついつい母親一人で父性愛と母性愛を注いでしまうケースが多い。当然、子どもの正常な自我が育たないばかりか、甘え下手になるしわがままが言えず、インナーチャイルドが虐げられてしまうことになる。母親との豊かな愛着が結ばれず、愛着障害を抱えることが多い。オキシトシンホルモンという安心ホルモンの分泌が阻害されて、いつも不安や恐怖感を抱えて生きることになる。子どもは強烈な生きづらさを抱えてしまい、その捌け口をゲームや食べ物などに求めやすい。依存症や強迫性障害、パニック障害、摂食障害、妄想性障害などの症状や境界性のパーソナリティ障害の症状も抱えやすい。愛着障害は統合失調症や発達障害の症状が出現しやすい。父親が仕事にのめりこみ過ぎて、母親だけで子育てをしてしまい、あまりにも干渉し過ぎると、このような愛着障害が起こるので注意が必要である。

※ひきこもり、家庭内暴力で悩み苦しんでいるお母さんは、「イスキアの郷しらかわ」にご相談ください。どうすればいいのか困っていらっしゃるお母さんをサポートしています。ひきこもり、家庭内暴力の解決をご支援申し上げます。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

一人で死ねばいい

川崎市で起きた小学生の無差別殺傷事件で、事件を起こして自死した岩崎容疑者に対して、SNSやツイッター上で「一人で死ねばいいのに」という書き込みが多数寄せられているらしい。この書き込みに対して、多くの賛否両論があって、情報番組でもコメンテーターが喧々諤々の論戦を繰り広げている。死ぬのは構わないが、罪もない人々を巻き込むのは許せないという思いで書き込んだのだと思うが、そんなことを言う権利があるのだろうかという反論が多い。または、自分の命を自分で奪うという行為を容認し勧めることに疑問を持つ人も多い。

犯人の岩崎容疑者がしでかしたこの悲惨な事件による被害者の方やその家族の方たちの心情を察するに、どうして何の縁もゆかりもない人々を道連れにしたのだろうかと、岩崎容疑者に対して怒りや憎しみの感情を持ってしまうのは仕方ない。岩崎容疑者が自殺してしまったことにより、ぶつける相手がいないことから、やり場のない怒りを抱え込んでしまうに違いない。被害者や家族が「一人で死ねばいい」とついつい思ってしまうのは当然と思われる。しかし、まったくの第三者による死ねばいいという書き込みには、違和感を覚える。

岩崎容疑者が起こした事件は、法的・社会的・人道的にも絶対に許せない非道な行為である。人の命を奪うという行為は、どんな理由があるにしてもしてはならない。当人に問い質せないので、その動機の解明が難しくなっている。報道によると、岩崎容疑者が小学生の時に両親が離婚してしまい、伯父夫婦が養父母になって育てられたという。実子が二人いて、その二人と育児上での差別を受けていたのではないかと言われている。自分が誰からも愛されていないという孤独感と不幸感から、社会に対する憎しみへと変化し、増幅したのかもしれない。

それにしても、「一人で死ねばいい」という投稿が多く、その投稿に共感する人たちがとても多いということに慄然とする。凶悪事件を起こした犯人に同情や共感することはないにしても、岩崎容疑者がそこまで追い込まれてしまった不幸な境遇をどのように感じているのであろうか。けっして許されることではないにしても、当事者本人の自己責任として扱うことに何となく違和感を覚える人もいるに違いない。岩崎容疑者のあまりにも悲惨な養育環境を考慮すれば、もし自分がそんな育てられ方をしたらどうなったのかと、想像できないのが情けない気がする。

自己責任論が独り歩きしていることに、以前から苦々しく思っていたが、あまりにも本人だけにすべての責任を押し付けてはならないように感じる。『三つ子の魂百までも』と言われているように、乳幼児期の育児環境によって、大人になってからの生き方がある程度決まってしまうのは間違いないと思われる。特に、最先端の脳科学や発達心理学の研究によって、脳内神経伝達物質の分泌や脳の発達が、2~3歳までに決定されてしまい、その影響が大人になっても大きく影響することが解明されている。自己責任論で押し切るのは乱暴であろう。

岩崎容疑者の両親は小学生の時に離婚したらしいが、乳幼児期に両親夫婦が毎日のように争いをしていて、怒鳴り声や金切り声をあげていたのではないかと想像する。こういう状況で育てられた子どもの脳は、正常な発達が阻害されてしまう。脳が破壊されてしまうこともあるし、オキシトシンホルモンの分泌が阻害されたと思われる。事情はあったにせよ、どちらの親も彼の育児を放棄したのだから、自分は親から見捨てられたという絶望感が広がったに違いない。岩崎容疑者は、重度の愛着障害を抱えていたと思われる。それが今回の凶悪事件に繋がったと考えられる。過去の無差別殺傷事件の犯人たちとの共通点がここにある。

一度重い愛着障害を抱えてしまうと、自分の努力だけで愛着障害を乗り越えることは殆ど不可能である。家族や第三者からの適切な『愛着アプローチ』がないと、愛着障害を癒したり克服したりすることはできないのである。岩崎容疑者に対して、誰かが豊かな愛情を込めながら愛着アプローチをしたとしたら、こんな不幸な事件は起きなかったかもしれない。または、愛着障害を起こさないような教育をしようという社会的な共通認識があったとすれば、岩崎容疑者のような人間は生み出されなかったと思われる。彼のことを誰かが突然変異だと言っていたが、そんなことはなくて誰でも悲惨な育児環境におかれたら、こういう事件を起こす可能性があると認識すべきだ。「一人で死ねばいい」というような冷たい言葉が横行することもなかったに違いない。

ひきこもりと家庭内暴力を解決する

ひきこもり関連の事件が続いていて、社会に衝撃を与えている。川崎の小学生殺傷事件や元農林事務次官が我が子を殺めてしまった事件が、その加害者と被害者がひきこもりだったという関連性もあり、情報番組でも話題を集めている。様々な専門性のあるコメンテーターが助言しているが、ひきこもりの子どもを抱えている保護者の方たちの心痛は想像以上のものではないかと思われる。特に家庭内暴力をするような攻撃性のあるひきこもりを持つ保護者の心配や不安は極限まで高まっているに違いない。

川崎の小学生殺傷事件の加害者の保護者は、行政の担当者に14度も相談していたらしいが、ひきこもりの若者や中高年者を社会復帰させることを行政で支援する法的根拠はないこともあり、ひきこもりの解決には至らなかった。元農林事務次官も行政の専門家であるから、行政としても無力であることを知っていたに違いない。ひきこもりや家庭内暴力の状況を解決する行政の支援はないし、医療機関や民間の支援も得られにくい。ましてや、ひきこもりの状況をひた隠しにする保護者も多いことから、孤立するケースが多い。

ひきこもりの高齢化が進んでいると言われている。今回の川崎の事件の当事者は51歳であったし、元農林事務次官の長男は44歳であった。ひきこもりは若者に特有のものと思われていたが、中高年のひきこもりが急増しているということだろう。若い時にひきこもってしまい、それが解決されずに高年齢化してしまったというケースが多いと思われる。ひきこもりという状況に一度なってしまうと、社会復帰が極めて難しいということが解る。誰にも相談できず、家族だけで苦悩しながら生活しているという実態が浮き彫りになる。

このようなひきこもりや家庭内暴力を解決するための支援する民間施設がまったくない訳ではない。ネットで検索すれば見つからない訳ではない。民間の営利企業が入所しての社会復帰支援施設を経営しているところもあるし、NPO法人や市民活動団体が活動しているケースも増えてきている。しかし、ひきこもりや家庭内暴力をしている保護者がそういう施設やセンターに連れて行こうとしても、当事者は頑として受け付けないであろう。自分が悪い訳ではないと思っているし、厄介者として扱われるのを嫌うからである。

テレ朝の情報番組に出演していた家族再生センターの所長と名乗る人物が、家庭内暴力のケースにおいては、警察に通報して傷害罪として立件してはどうかとアドバイスしていたが、愕然としてしまった。確かに、緊急避難的に家庭内暴力を振るう当事者と振るわれる人を一時的に引き離す行動は必要かと思うが、それで問題は解決しないばかりか、益々こじれてしまうに違いない。何故なら、ひきこもりや家庭内暴力が起きる原因は、そもそも家族関係にこそ問題の根源があるのに、当事者を見捨てるような行為は、関係性を益々損なうであろうに違いない。

ひきこもりや家庭内暴力が起きるすべての原因は、愛着障害にあると言っても過言ではない。特に親と子の絆が希薄化もしくは劣悪化しているケースが殆どである。しかも、子どもの両親の夫婦関係も希薄化していることが多いし、家族の関係性が非常に悪いのである。子どもの愛着が傷ついているし不安定化しているから、ひきこもったり家庭内暴力を振るったりするのである。言わば、家族崩壊の危機的状況に陥っていると思われる。そして特徴的なのは、愛着障害の子どもを持つ母親もまた傷つけられて不安定な愛着であることが多いのである。

愛着障害は世代間連鎖をしやすい。祖父母が愛着障害を抱えているケースでは、父母もその子も愛着障害であることが多い。そして、どういう訳か愛着障害どうしが結婚する場合が多いのである。こういう場合、その夫婦関係が最悪であり夫婦喧嘩が子どもの前で繰り広げられ、最悪の場合は離婚をしてしまう。川崎殺傷事件の加害者の両親は離婚していた。元農林事務次官の長男は、母親との関係性が非常に悪く、暴力を振るう対象者は母親だったらしい。母親に対して適切な愛着アプローチがあれば、こんな不幸な事件にはならなかったに違いない。ひきこもりや家庭内暴力は、当事者と親に対して適切な愛着アプローチさえすれば、愛着障害を克服できるし社会復帰が可能になるのである。

※イスキアの郷しらかわでは、ひきこもりや家庭内暴力を解決するための支援をさせてもらっています。根本的な原因としての愛着障害を癒す「愛着アプローチ」を実施しています。特に母親への愛着アプローチこそが、劇的な効果を生み出すケースが多いようです。ひきこもりや家庭内暴力で悩んでいる方は、まずは問い合わせフォームからご相談ください。

不登校を見守るだけでいいのか

学校にどうしても行けなくなったら、無理して登校しなくても良いのだという考え方は一般に認識されてきたようだ。文科省も何がなんでも学校に登校させることがゴールだという考え方を、転換することにもなった。そのお陰で、これ以上の苦しみを子どもに与えなくて済むことになったし、いじめや不適切指導による自殺を防ぐという効果もあった。しかし、学校に行かなくてもいいのだという認識が広がることで、逆に不登校を乗り越える例が減ってしまい、やがて深刻なひきこもりに移行してしまうケースが急増している。

不登校に対する世間の認識が、まったく変化してしまったと言える。一昔前なら、どうしたら登校できるようになるのか、その原因を追究すると共に対策をあれこれと練っていた。ところが、不登校の状態が異常ではなくて、学校に行かないという状態になり続けてもいいのだと当事者と保護者も誤認してしまったのである。ましてや文科省や学校関係者も、不登校という現状を認めなくてはならないというような間違った認識を持ったが故に、解決策に本気で取り組むことをやめてしまったのである。

不登校という選択肢を選ぶのも大事だし、その状況にある子どもを批判したり否定したりしないことも必要である。無理して登校を強いるのは避けたいものである。しかし、不登校の状態を保護者が放置することは絶対にしてはならない。何故なら、そのような状況に追い込まれてしまった子どもは、不登校というSOSのサインを発して、助けを求めているからである。緊急避難的に不登校という選択を認めるのは正しいが、その状況を続けても是とする考え方は危険である。子どもとの絆を結び直す絶好のチャンスと捉えるべきである。

不登校になってしまう原因は、学校におけるいじめや不適切指導、または不登校当事者の資質や性格、成績不良、自己肯定感のなさ、発達障害などのメンタル障害などにあると思っている人が殆どであろう。当事者も家族も、そして学校関係者もそのように認識している。しかし、不登校になる真の原因はそんなものではない。不登校になる本当の原因は、家族どうしの不安定な愛着にある。家族の絆が希薄化、または劣悪化していて、機能不全家族の状態になっているのである。そのために、親子や夫婦どうしの愛着が不安定化、もしくは傷ついた愛着になっているのである。つまり、愛着障害を起こしているのだ。

このように不登校の原因は、不登校をしている当事者にあるのではなく、家族との関係性にあると認識すべきである。そして、家族の関係性が薄れていたり乱れていたりして、当事者と家族が愛着障害を起こしているが故に、不登校という状況に追い込まれているのである。その証拠に、不登校の原因であるいじめや不適切指導を止めさせても、すぐに登校できる訳ではない。不登校の子どもは家庭の中に安全で安心な居場所が提供されず、いつも不安や恐怖感を抱えている。母親も不安定な愛着を持つと、子どもにとっての安全基地となりえない。絶対的な安全基地を持たない子どもは、苦難困難から逃げてしまうのだ。

絶対的な安全基地は誰にでも必要である。子どもだけでなく、大人にとっても必要不可欠のものと言えよう。安全基地がないと、不安や恐怖感が先立ってしまい、苦難困難を乗り越える勇気が持てない。特に子どもは安全基地がないまま育つと、愛着障害を抱えてしまい、やがて苦難困難に向かい合うと回避してしまうのである。学校で嫌なことや恐怖に思うことに出会うと、不登校にならざるを得ない。特に母親との愛着が大切で、母親が子どもにとって安全基地となりえていない場合、不登校に逃げ込んでしまうしかないのだ。

不登校の状態をそっと見守るしかないと思い込むのは、まったく見当違いである。不登校というのは、機能不全家族を解決するチャンスでもあるのだ。崩壊家庭になっている状況を何とか解決すれば、不登校も乗り越えることができる。不登校という選択をしてもいいが、不登校をそのまま放置してはならないのである。母親が抱えている不安定な愛着を癒してあげれば、母親が子どもの安全基地となりえる。そうすると愛着障害を抱えている子どもは、愛着障害を癒すことが出来て、母親との愛着を再構築できる。不登校だって乗り越えられるし、機能不全家族も見事に解決するのである。

※不登校になっている子どもの家庭がすべて機能不全家族ではありませんが、殆どが家族関係に何らかの問題を抱えています。そして、そのことに自分たちも気づいていないケースが殆どです。だから、不登校が長い期間解決しないのです。愛着障害(傷ついた愛着・不安定な愛着)を親子共に癒すことができて、安定した愛着を再構築することが出来たら、劇的に問題は解決します。適切な愛着アプローチによって、愛着障害を乗り越えることが可能なのです。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

我が子を心から愛せない親

千葉県の心愛(みあ)ちゃんが親から虐待を継続的に受けていて、虐待死を迎えてしまうという不幸な事件が起きてしまった。父親の心愛ちゃんに対する異常なまでの虐待や妻へのDVの内容が報道されているが、こんな親がいるのかと慄然としてしまう状況が明らかになっている。母親が虐待に加担せざるを得ない状況まで追い込まれてしまった原因が、夫からの暴力を伴う支配や制御にあったとされる。こんな両親の元に生まれた心愛ちゃんがあまりにも不憫である。この親のように、子どもを心から愛せない親が増えている。

子どもを心から愛せない親が、この心愛ちゃんの親だけでなく、他にも多く存在していることは、虐待事件が無くならないことからも推測できる。虐待事件まで発展していないものの、何となく子どもを心から愛せない親は多いはずである。我が子に愛情を感じなくても、周りの目を気にするとか常識から外れないようにと気を付けて、何となく『良い親』を演じている親は想像以上に多い。こういう親は、子どもを『しつけ』だと勘違いして、自分の価値観を押し付けたり、必要以上に子どもをコントロールしたりする。

こういう親は、子供どもを自分の所有物だと勘違いしているし、支配するために暴力を奮ってしまう。そして、自分の思い通りにならない子どもに虐待と言えるような『しつけ』を繰り返す。自分の意に添わない行動をする子どもに対して、平気で暴言・暴力やペナルティーを与えて、支配・制御を強めていく。本来、子どもは自由であるべきだ。そもそも大人だって人間は自由であることで、人間本来の自己組織性やオートポイエーシス(自己産生性)を獲得していく。支配・制御を繰り返された子どもは、自己成長しなくなる。

子どもをまるごと、そしてあるがままに受け容れて許す愛情は、母性愛と呼ばれる。母性愛は、無条件の愛とも言われる。子どもが生まれたら、自動的に母親に母性愛が育まれると思っている人が多いが、そんなことはない。どうしても生まれてきた我が子を愛せない母親だって存在する。そして、そんな我が子を心から愛せない母親が増えているのである。我が子のことが愛しくて仕方がないと思わなくてはならないと、義務感のように感じてしまう母親がいるのだ。そして、自分が母親失格であることに悩み苦しむのである。

どうして、我が子を心から愛せない母親や父親がいるのだろうか。それは、自分の親からまるごと愛されるという経験をしていないからであろう。いつも親から条件付きの愛だけを注がれてしまい、無条件の愛である母性愛を享受できなかったからに違いない。人間は模倣の生き物であるから、自分が経験しなかったことを出来る筈がないのである。人間が健全に育つためには、まずは母性愛をたっぷりと注がれて、それから父性愛である『しつけ』がされなければならない。母性愛が中途半端で終わってしまい、父性愛中心の子育てをされると、愛着障害を起こしてしまうのである。

愛着障害の親から子育てをされた子どもは、同じように愛着障害を起こしてしまう。つまり、愛着障害の連鎖が起きてしまうのである。虐待をされて育った子どもが親になり虐待をすることが多いし、DVも世代間連鎖することが少なくない。虐待やDVをする大人は、愛着障害を抱えているし、学校で日常的にいじめをするような子は、愛着障害を起こしている。子どもの時に学友や弟妹にいじめをしていた人間は、大人になってから我が子を素直に愛せないばかりか虐待やDVを起こしてしまう。心愛ちゃんの父親もそうだった。

それでは、心から我が子を愛せない親は、ずっと我が子を愛せずに過ごしてしまうのかというと、けっしてそうではない。適切な『愛着アプローチ』を受ければ、愛着障害は癒えて我が子を愛せるようになるのである。愛着アプローチをしてくれるような医師・カウンセラー・セラピスト、またはメンターの資質を持った第三者によるサポートが必要である。共感的メンタライジングと認知的メンタライジングの知識と技能、そして豊富な経験を持ったメンターが支援する必要がある。子どもが愛着障害を起こしてメンタルで苦しまないように、母親が我が子を心から愛せるように支援する制度が求められている。

※「イスキアの郷しらかわ」では、我が子を心から愛せない親に対して、愛着アプローチを実施しています。まずは、何故我が子を愛することが出来ないのか、その原因や成り立ちと背景を学び、その克服のために必要なことを学習します。また、適切な愛着アプローチを受けることで、愛着障害を癒すことができます。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

引きこもりを乗り越える

引きこもりは若者だけかと思っていた人も多いが、実は中高年の引きこもりのほうが多いことが判明したという。内閣府が引きこもりの調査をしていたが、それは15歳~39歳の若者が対象者だった。しかし、中高年者の引きこもりも多いのではないかという指摘があり、40歳~64歳の中高年者の引きこもりを調査したところ、なんと61万人もいると推計されたという。15歳~39歳の引きこもり推計数が54万人だから、それよりも多いということになる。若い引きこもりが高年齢化したとも言えるが、困った事態になっている。

引きこもりになるのは、圧倒的に男性が多いらしい。7割以上が男性だというから、驚きである。中高年の引きこもり男性は、老齢の母親と二人暮らしをしているケースが多いと言われる。中高年の引きこもりは、親と同居して養ってもらっている場合が多いが、親が他界したらどうするのであろうか。年金の受給権を持たない引きこもりは、やがて生活保護の受給者になることだろう。引きこもりの多くが5年以上に渡り長期化していることが多いことから、一旦引きこもりになると社会復帰は極めて難しいと思われる。

どうして社会復帰が難しいかというと、引きこもりを自分の力だけで乗り越えるのが難しいからである。かと言って、親などの家族がどんなに支援したり働きかけたりしても引きこもりを乗り越えることが困難である。行政も引きこもりを解決する働きかけを積極的にすることが出来ないし、メンタルを病んでいなければ医療の対象になることはない。つまり、引きこもりを解決する手立てがないのだ。だから、引きこもりが長期化するのである。社会復帰の支援をしている民間業者があるが、利用料が高額になるので、高額所得者しか利用することが出来ない。

引きこもりやニートを乗り越えるには、そもそも引きこもりやニートになった根本的な原因を探り出し、その原因を解決しなければならない。引きこもりになる原因は、彼らにとってあまりにも生きづらい社会だからであるのは間違いない。彼らにとっては学校や職場があまりにも冷たくて厳し過ぎるので、適応しにくいのであろう。しかしながら、生きづらさを抱えているのは引きこもりになっている人だけではない。生きづらさを抱えて居ながらも、社会に適応できている人もいる。とすれば、引きこもりになる人とならない人の違いはどこにあるのだろうか。

引きこもりになる人は、学校や職場で嫌なことが続いたり、失敗や挫折を繰り返したりした経験を持つ。そして、そうした体験から不安や恐怖感が極限まで高まり、また同じことが起きるのではないかと思い込み、外で活動することに臆病になり、引きこもりになるのではないかと想像されている。一方、引きこもりにならない人は、たとえ嫌なことに遭ったり失敗や挫折をしたりしても、不安や恐怖感でいっぱいになることはない。どこが違うのかと言うと、オキシトシンやセロトニンなどの脳内ホルモンの分泌異常が起きているのではないかとみられている。

そのような脳内ホルモンの分泌異常が起きるのかというと、乳幼児期から思春期にかけての養育環境、または育てられ方の影響が大きいとみられる。親の育て方が悪かったという訳ではない。あくまでも、親としては子どもの為にと精一杯努力したし、健全に育つようにと懸命に尽くしたのは間違いない。手抜きや育て方のミスがあったという訳ではなくて、あまりにも一生懸命過ぎたせいかもしれない。良い子に育てようという親の思いが強過ぎてしまい、介入し過ぎたというか干渉し過ぎた為に、人体システムの異常が起きて、子どもの自己組織化が阻害されたと推測される。

したがって、引きこもりを解決するには、子どもだけのカウンセリングやセラピーだけでは難しいと思われる。子とその親の両方との家族カウンセリングが、引きこもりを乗り越えるには必要だと考える。それもミラノ型の家族カウンセリングを利用したオープンダイアローグ療法が望ましい。親に対しても、当事者の子どもに対しても、けっして批判することなく否定もせずに、ただ優しく質問を繰り返すセラピーである。そして子どもが自分の幼児期や思春期に言えなかった親への思いを吐露し、その辛くて苦しかった気持ちを親が受け止めて共感する作業を通して、傷付いた心を癒していく。誰も傷つけないで、家族の関係性を再構築していくオープンダイアローグこそ、引きこもりを乗り越える為に必要なプロセスであると言えよう。

※「イスキアの郷しらかわ」では、オープンダイアローグ療法を駆使した引きこもり解決プログラムを実施しています。老齢の親だからといって、このオープンダイアローグが機能しない訳ではありません。いくつになっても親は親です。親子が共に変わることで、引きこもりやニートが解決します。不登校もまったく同じです。まずは、イスキアの郷しらかわに問い合わせフォームからご相談ください。

    場当たり的不登校対策は効果がない

    文科省や学校関係者の努力によって、不登校は減っていると言うが本当にそうであろうか。そもそも不登校という定義にこそ疑問がある。文科省の不登校の定義は、年間30日以上欠席した者で、経済的理由や病気が原因の児童生徒を除くとなっている。つまり、精神的な障害があって医師の診断書があれば不登校にはならない。しかも、保健室登校は何日に渡っても不登校とはならない。そして、少しでも学校に行けば、遅刻でも早退であっても不登校の欠席日数には含まれない。敢えて不登校を少なくする意思が働いているようだ。

    不登校という問題が放置されていると、学校関係者だけでなく教育委員会や文科省の責任が問われる。したがって、不登校を少なくする努力が実っていると社会に対して発信したいから、不登校の数字を少なくカウントしたいのであろう。これは、自殺者の数を出来るだけ少なくカウントしたいとの思惑が働く厚労省と同じ構図である。官僚というのは、無能だと批判されるのを極端に嫌う。したがって、統計数字のマジックを使いたがる。これだけ努力していますよと、と示したいだけなのである。

    文科省から各県の教育庁に対して、不登校対策をしっかりしなさいと激が飛ぶ。そして、県の教育庁から市町村の教育委員会へ、さらには各学校の管理者に伝達される。当然、校長や副校長は不登校の数を少なくする為の知恵を働かせる。何故ならば、不登校の多い学校管理者の評価が下がり出世できないからである。場当たり的な不登校対策が施される。保健室登校でも何でもいいから、1度だけでも学校に来させればよいと無理やり登校をさせる。不登校の原因なんてどうでもいいから、数字だけ減らせという厳命が飛ぶ。

    不登校になる本当の原因を学校関係者は知らない。文科省も教委だって、不登校の本当の原因を掴めていない。不登校になる原因は、当事者の精神的な弱さ、強過ぎる感受性、発達障害、成績不振、いじめ、不適切指導、同級生の確執などにあると学校関係者は思いたがる。しかし、不登校の本当の原因はそんなことではない。これらは、あくまでも不登校の単なるきっかけでしかない。不登校の本当の原因は、『関係性』にある。つまり、本来良好にあるべき関係性が劣悪化、もしくは希薄化しているから不登校が起きるのである。

    児童生徒と先生との関係性、同級生や先輩との関係性、教師どうしの関係性、保護者と教師の関係性、親と子の関係性、親どうしの関係性、その他の人間関係に問題があるから、不登校という事象が起きてしまうのである。ひきこもりも同じ原因でおきる。関係者がそれらの関係性に原因があると気付いて、良好な関係性を再構築できたとしたら、不登校やひきこもりは見事に解決するのである。その本当の原因である劣悪な関係性を放置したままで、場当たり的な不登校対策に終始しているから、いつまで経っても不登校は解決できないのである。実に情けない話である。

    それでは、何故お互いの関係性が悪くなっているかというと、日本の教育制度にその根源がある。明治維新以降に、列強の欧米に追い付き追い越す為に富国強兵を推し進めた。その一環として、欧米の近代教育を取り入れた。この近代教育の理念は、徹底した個人主義と競争主義、実学主義、客観的合理性の教育だった。この近代教育の考え方が浸透して、あまりにも個人最適や個別最適が進み、自分さえ良ければいいという考え方が支配的になった。当然、このお陰でお互いの関係性が悪化したのである。行き過ぎた競争主義は、お互いの関係性を希薄化してしまったし、お互いが支え合うコミュニティも崩壊させた。

    関係性が悪化してしまった学校では、平気でいじめはするし誰も助けようとしない。先生も子どもとの信頼関係を構築できないから、子どもはいじめを告白しないし、先生はいじめがあっても真剣に対応しようとしない。親子の信頼関係がないから、学校でのいじめを訴えられない。親どうしの夫婦関係が最悪でいつも言い争いしている家庭の子どもは、無意識のうちに不登校やいじめ等の問題行動を起こす。問題行動を起こせば、危機意識を持って夫婦の関係性が再構築できると、自分を犠牲にしていじらしい行動を取る。すべては、関係性が劣悪化・希薄化していることに原因があるのである。対症療法的で場当たり的な不登校対策なんて止めて、関係性の再構築に力を注ぐべきである。

    子どもの為と言いながら・・・

    子どもの為にと、必死になりながら子育てをされているお母さん方に、そんなに頑張らなくてもいいんだよと伝えたい。そして、本当に子どもの為と思っているのか、自分自身にもう一度問い直してみてはどうかということも伝えたい。とかく、子育てはお母さんが中心になってするもの、という固定観念が支配している。実はそんなことはなく、父親だって中心になっていいし、祖父母も子育てを担うこともあり得る。さらには、地域全体で子育ての役割を負担することも必要であろう。子育てはみんなですればいいのだ。

    子どもの幸福と豊かさの実現を願わない親はいない。健やかに育って、幸福な人生を送ってほしいと親は思うものだ。子どもの為なら、どんな苦労も厭わないと思っている。そして、子どもが日の当たる道を歩き続ける事を期待する。一流高校への進学から国公立大学の入学を願い、卒業後は官公庁もしくは一流企業への就職を後押しする。また、その為に塾通いをさせるし、有名な私立小中学校の受験をさせたがる。そういう教育熱心な親は、想像以上に多いと思われる。将来に渡り安定した生活を送ることを願うのである。

    こういう教育熱心な親は、すべて子どもの将来の為を思っての行動であると思いたがる。そして、必要以上に子どもに頑張れと働きかけることが多い。しかし、よく考えてみてほしい。本当に子どもの為に教育熱心な親になるのだろうか。子どもが将来不幸な人生を送り苦しむ姿を見る自分が、辛い思いをするからではないのか。自分の子どもが幸福な人生を送る姿を見て、自分の子育てが間違いなかったと安心して、自分が満足したいだけではなかろうか。親というのは、周りの人々や親せきに我が子のことを自慢したがるし、自分の子どもが誉められるのが大好きだ。

    たいていの場合、大人は子どもの学業成績が良くて優秀な高校や大学に入学したことを誉めたがる。しかし、よく考えてほしい。学校の成績が良いことや一流の学校に入学したことが、人間として素晴らしいことなのだろうか。そんなことが誉めて認めるかどうかの基準であるというのは、実に情けないことである。人間として大切なのは、物事に対する考え方や姿勢、または言動が崇高な価値観に基づいていることである。または、あらゆる場面で、主体性や自発性、そして責任性や自己犠牲性を発揮できることが、称賛されるべきである。さらに、弱きを助け強きにも怖気ることなく立ち向かう勇気を持つことも大事だ。

    どんな時にも自分自身を見失わず、自利や損得にとらわれず、人々の幸福実現の為に苦労を厭わずに頑張れるような子どもを育てることが親の務めではないだろうか。そういう子どもに育てたなら、たとえ学業の成績が良くなくても、一流の学校に入学できなくても、官公庁や一流企業に就職できなくても、親として誇りに思うものである。子どもの為にと言いながら、学校の成績に一喜一憂して、必要以上勉強を強いる教育虐待をしている親は少なくない。自分には三人の男の子がいるが、どんな高校を受験するか、どこの大学に進学するか、本人にすべて任せたし、就職先についても一切口出しをしたことはない。

    子どもは親の所有物ではないし、支配したり制御したりするべきでない。ましてや、親が思う通りの人生を歩ませるような干渉をしてはならない。子どもの人生は子どものものであるし、子どもが決めることである。例え不幸になったとしても、また辛い人生になったとしても、それは子どもの自己責任としてそっと見守る姿勢が必要だ。ただし、子どもから助けてほしいという依頼があれば、どんな犠牲を払っても守ってあげなくてはならない。そして、子どもに対して、いざという時は身を挺してでも守ってあげるよと伝えておくのは必要だ。そういう安心感があれば、子どもはどんな苦難困難も乗り越えられるものである。子どもの為にと言って、あまりにも子どもに介入する親になってはならない。

    子どもの為と言いながら、子どもに自分の価値観を押し付けてはならない。ましてや、自分の損得や自己利益を求めるような低劣な価値観を持つ生き方を強要してはいけない。しかし、多くの親たちはいい高校や大学に進み、高収入の職業に就くことを子どもに薦めたがる。それも、子どもの為にという隠れ蓑を着て、実際は親の自己満足の為であり、自分が立派な子どもを育てたと社会に認められたいからである。子どもが大人になり、社会に貢献できるようにそっと見守り寄り添い、子ども自身が自己組織性を発揮できるように育てることこそが親の務めである。子どもの為になんて思うこと自体が、親の思い上がりなんだと気付く必要があろう。