こんな誉め方や叱り方をしてはいけない

 子どもは誉めて育てると言われているが、ただ誉めればいいと言うものではない。また叱り方が正しくないと、子どもは健全に育たないばかりか、とんでもない障害を起こしてしまうこともある。正しい誉め方と叱り方があるし、絶対にしてはならない誉め方と叱り方があるのだ。間違った誉め方を続けてしまうと、パーソナリティ障害を起こしたりアスペルガー症候群の症状を呈したりすることもある。また、叱り方を間違うと子どもの自己組織化が阻害されてしまうこともある。職場において、部下を誉めたり叱ったりする時も同様である。

 先ずは誉め方について考えてみたい。誉める時には、何を誉めるのかということが大切である。とかく、親は子どもが何かをして、出した結果を誉めることが多い。テストの点数が高いとか成績表が良かったりした時に誉めることが多いことだろう。ビジネスの場面においても、良い結果を出した時に誉める上司が多いに違いない。確かに、良い成果を出した時に誉めるというのは良くあることだ。しかし、部下は結果主義や成果主義になってしまい、努力をするプロセスを大切にしなくなる。誉める相手が子どもでも同じ弊害が起きてしまう。

 子どもが頑張った経過を誉めるのは、良いことだ。しかし、出した良い成果だけを誉めることをし続けると、良い結果だけを見せて悪い結果なら隠すということをしかねない。頑張っている姿を見かけたら、それをタイムリーに誉めることをしたいものだ。また、結果を誉める時に、絶対にしてはならないことがある。本人の前で、兄弟姉妹のことを誉めてはならないということだ。自己肯定感が育っていず、劣等感を持っている子どもの前で兄弟姉妹のことだけを誉めてしまうと、益々自信を喪失しまうし、やる気を失わせてしまう。

 努力したというプロセスを誉めるのも大切だが、考え方やチャレンジする姿勢、諦めない精神を誉めてあげたい。そして何よりも大事なのは、子どもが自分のことよりも周りの人々の為に頑張ろうとした行動を誉めることだ。つまり、個別最適よりも全体最適を優先した時こそ誉めてあげたい。さらには、誰かに言われて行動するのでなく、自らが主体的に自発的に行動しようとした時にも誉めたい。主体性や自発性が働いた時にこそ誉めることで、自己組織化が進化するであろう。このように誉めれば、子どもは健全に育つに違いない。

 子どもを誉める為には、子どもの言動に注目しなければならないし、深く観察することが必要である。しかも、子どもの本当の気持ちを推し測らなければならない。部下を誉める時にも同じことが言える。部下がどんなふうに誉めたら嬉しいのかを、自分のことのように推察することが必要である。そして、子どもは親のことが大好きだから、親が喜ぶことをしたいのだ。だから、子どもの言動や考え方を誉めてあげて、そのことで親がとても嬉しいということを伝えることが大事である。そうすれば、子どもは伸びるし自立するに違いない。

 さて、叱る時はどうしたらいいだろうか。子どももそうだが、部下を叱る時は皆の前では避けたほうが良い。身の危険がある時や緊急性のある場合は仕方ないが、本人のプライドを傷つけるようなことは避けたい。一対一で対面にて叱りたいものだ。メールやLINEトークなど、または電話で叱るのは絶対に避けたい。LINEのグループトークで叱るなんて最悪だ。さらに、悪い結果や成果を叱るのは避けたい。努力をしないプロセスを叱るべきだ。間違っている考え方や哲学を叱るのも大事だ。私利私欲の行動や人を傷つける言動には、しっかりと叱責したい。

 叱るのは勇気のいることだ。叱るには多大なエネルギーが必要である。勿論、相手をよく観察しなければならないし、叱るということは自分が同じことはしていないし、これからもしないということを宣言しているようなものだ。特に、思想や哲学の元になる価値観が間違っているということを叱るには、自分が正しい価値観を持って揺るぎない目的を目指して人生を歩んでいるという自負が必要である。そうでなければ、相手の間違った価値観を叱ることは出来ない。叱ることも誉めることも、相手の成長を願っての行動であることが前提だ。感情的に叱ったり誉めたり、または自己満足や自分が利する為にしてはならないのだ。

我が子をありのままに愛したいのに

 子どもが3歳になる頃までに、ありのままにまるごと愛し続けてあげれば、大人になっても健全で幸福な人生を歩める。つまり無条件の愛である母性愛を注ぎ続けることで、自尊心が芽生えて、自分をまるごと好きになれるし、どんな苦難困難も乗り越えられる。ところが、母性愛を十分に注ぎ続ける前に、父性愛(条件付きの愛)で接してしまうと、自己肯定感が確立されない。または、母性愛と父性愛を同時に注いでしまうと、愛着障害になることもある。お母さんは、我が子をまるごとありのままに愛したいと思うのである。

 ところが、我が子をまるごとありのままに愛することが出来るお母さんは、極めて少ないのである。どうしてかというと、子どもというのは基本的に我が儘だし、母親の言うことを素直に聞くことが少ない。素直で従順な良い子なら愛せるけど、反抗的な態度を取るような子どもはどうしても愛せないのだ。良い子に育てたいから、強く叱ってしまうし、しつけを優先してしまうのである。ましてや、父親が父性愛を発揮してくれなくて、母親だけが育児をしなければならない状況なら、なおさら子どもに厳しく当たってしまうのだ。

 お母さんが我が子をまるごと愛せない理由は他にもある。お母さん自身が自分の母親からまるごとありのままに愛されていなのだ。つまり、お母さんに絶対的な自己肯定感が確立されていないケースである。お母さん自身が自分のことをまるごと愛せないと、自分の嫌な部分や恥ずかしい自分を好きになれない。誰でも自分の中には、好きな部分と嫌いな部分が同居している。好きな部分は愛せるし、嫌いな部分は自分にはないことにしたいのである。我が子の中に自分と同じ嫌な自己を発見すると、我が子をまるごと愛せなくなるのだ。

 我が子の中に、自分でも許せないマイナスの自己を見つけてしまうと、我が子をまるごと愛せない。マイナスの自己も含めて自分をまるごと好きになることが出来ないと、我が子をまるごと好きになることが出来ない。だから、ついつい条件付きの愛である父性愛的な対応をしてしまうのである。または、我が子を完璧な良い子に育てようと、必要以上の介入と干渉をしてしまい、まるで毒親のような仕打ちをしてしまうのである。支配と制御を強く繰り返し、まるで母親の操り人形のように育ててしまうのだ。

 このように、母親との良好な愛着が形成されることなく、強い干渉や介入をされ続けてしまうと、子どもの自組織化が阻害されてしまい、システムエラーを起こしてしまうのである。これが愛着障害であり、二次的症状として『自閉症スペクトラム障害』(ASD)を起こしてしまう。ASDは発達障害と世間では呼ばれているが、アスペルガー症候群などもこれに含まれる。母親はありのままにまるごと我が子を愛したいのに、様々な要因が複雑に噛み合わさって愛せなくて、愛着障害やASDを発症させてしまうのだ。

 ASDは先天的な遺伝子の異常による障害だと医学界では言われている。確かに、遺伝子による影響もある。生まれつき、育てにくい子どもがいるのは確かである。育てにくいからこそ、あるがままにまるごと愛せないという側面もあろう。だとしても、愛着障害になってしまうのは、育てられ方に問題があるのは間違いない。だから、愛着障害による二次的症状としてASDが起きているなら、ASDの症状だって和らげることが出来る筈だ。今までの医学常識ではASDは治らないとされているが、愛着障害を癒すことで、ASDも改善するに違いない。

 子どもの愛着障害を癒すには、お母さんがまずは変わらなければならない。というよりも、お母さん自身の傷ついた愛着を癒す必要がある。それには、自分がまるごとありのままに愛される経験が必要だし、どんな時にも自分を守ってくれる安全基地が必要なのである。自分のパートナーがそういう存在になってくれることが確実なのであるが、なかなか難しいかもしれない。男性の約半数以上がASDの傾向があるからだ。お母さんをまるごとありのままに愛してくれる安全基地には、安定した愛着を持っている人しかなれないのである。自分の傷ついた愛着を乗り越えた経験を持つ人を安全基地に出来たら可能かもしれない。

 

厳しくて優しい母でした

 イスキアの郷しらかわでは、不登校やひきこもりの状況に置かれてしまっている方々をサポートさせてもらっている。そういう方々にどのような母親でしたかと聞くと、おしなべて「母は厳しくて優しい人でした」と答える。厳しいと優しいというのは、相反する形容詞であり、本来はあり得ない評価である。ところが、実際に不登校やひきこもりを起こしている子ども(若者)に聞くと、厳しいけど優しいお母さんという形容をするのである。彼らは不安定な愛着を抱えている。厳しくて優しい母に育てられると愛着障害を起こすのである。

 虐待やネグレクトの子育てをされるとか、または乳幼児期に母親から離される経験をすると愛着障害を起こすということは広く知られている。しかし、ごく普通に両親から愛情を注がれて育てられたというのに、不安定な愛着や傷ついた愛着を抱えてしまう子どもがいる。まさか、愛着障害になるなんて両親は夢にも思っていないのに、現実に愛着障害になってしまい、不登校やひきこもりを起こしてしまう子どもは大勢いる。または、愛着障害から摂食障害、ゲーム依存、ネット依存、薬物依存で苦しむ子どもは想像以上に多い。

 母親は厳しくて優しい人ですと、自分の母親を形容する子どもが多いのは何故であろうか。それは、母親がダブルバインドのコミュニケーションをして子育てをしているからである。ダブルバインドのコミュニケーションとは、二重拘束のコミュニケーションと訳されている。精神医学者のベイトソンが唱えた理論で、母親がダブルバインドのコミュニケーションを繰り返して子育てすると、子どもは統合失調症を発症すると主張した。子どもに対して相反する意味の言葉をかけ続けると、子どもはどちらの言葉が本心なのか疑心暗鬼となってしまう。

 母親が我が子に対して、「あなたのことは大好きだよ」と言ったかと思うと、違う場面では「あなたなんか大嫌い!」と言うことは良くある。母親が精神的に安定していないと、子どもの言動に切れてしまい、つい激高して子どもに対してきつい言葉をかけてしまう。特に、家事と育児に非協力的な夫だと、自分ばかりどうしてこんなに苦労するのかと思ってしまい、つい子どもに辛く当たることもある。また、発達障害のような夫である場合は、コミュニケーションが成り立たないから、孤独感を持ってしまい、つい子どもに厳しく対応する。

 このように母親がダブルバインドのコミュニケーションを子どもに対して繰り返し行っていくと、両価型の愛着障害になりやすい。親の愛情が信じられず、親に心から甘えられないし、親から見捨てられるのではないかという不安や恐怖感を持ち続けてしまうのである。子どもは、いつか自分は見離されてしまうのではないかという不安が心を支配しているし、周りの人は自分を嫌うのではないか、それは自分が駄目だからなんだと、自信を喪失する。つまり、絶対的な自己肯定感が育たないのである。

 厳しくて優しいお母さんは、子どもを立派に育てたいと思って必要以上に頑張るのである。学校の成績を上げて、良い大学に合格させて、高収入で安定した就職をさせようと必死になる。何かと、子どもに対して過介入や過干渉を繰り返す。無意識のうちで母親は自分が理想とする人生を子どもに歩ませようと、支配し制御してしまう。本来、母親は子どもをあるがままにまるごと愛するだけで良いのである。つまり、無条件の愛である母性愛を注ぐのが母親の務めである。ところが条件付きの愛である父性愛(しつけ)を父親が放棄するから、母親が母性愛と父性愛の両方を注いでしまい、厳しくて優しい母親になるのである。

 子どもを育てる際に、大事なのは先ず母性愛だけをたっぷりと注いで、それから父性愛を注ぐという順序なのである。父性愛を先に注いだり、または父性愛と母性愛を同時に注いだりするのは、絶対に避けなければならない。そうすると子どもは健全に育たず、いつも不安や恐怖を抱えてしまい、周りの人を信頼できないし、社会不適応を起こしたりメンタルを病んでしまったりする。「私の母はいつもすごく優しいし、大きな愛で包んでくれました」と子どもが言ってくれるような母親でありたいものである。間違っても母は厳しいけど優しかったなんて、子どもに言わせてはならないのである。

教育のイノベーションはシステム思考で

 日本経済の再生は教育のイノベーションによって実現できると、前回のブログで提起させてもらった。教育のイノベーションは、近代教育の問題点である客観的合理性偏重の教育を見直すことだと説いた。今回のブログではさらに踏み込んで、どういう価値観に基づいて教育を見直すべきなのかについて述べたい。本来目指すべき教育とは、普遍的な正しさを持つ価値観を基にした教育だと言える。その正しい価値観とは、システム思考である。システム思考とは全体最適を目指す価値観であり、関係性を根底にした自己組織化理論である。

 人間は完全なるひとつのシステムである。人間の構成要素である34兆2000億個の細胞からなるシステムである。人体におけるそれぞれの細胞のネットワーク(関係性)によって、人間は本来の機能を発揮できている。そして、それらの細胞は自己組織化されていて、誰からも指示命令を受けずとも、人体の維持・発展・成長・進化の為に昼夜働いている。それぞれの細胞は、主体性、自主性・自発性・責任性・進化性を持っている。細胞どうしのネットワーク(関係性)が壊れてしまうと、人体というシステムは機能を失い、病気になる。

 社会もひとつのシステムであるし、会社や職場もシステムである。地域社会も行政も、そして国家も世界も、さらには地球も宇宙もシステムである。そして、それらの構成要素も関係性によって存在しているし自己組織化の機能が発揮されている。すべてのシステムは全体最適を目指している。ところが、これらのシステムにおいて全体最適の価値観でなくて個別最適の価値観によって構成要素が動いてしまうと、システムは劣化したり破綻したりする。家族が崩壊するのも、全体最適ではなくて個別最適に陥り家族の関係性が壊れるからだ。

 すべてのシステムが正常な機能や働きを発揮するには、それぞれの構成要素のネットワーク=関係性が良好でなければならない。家族間の絆が損なわれると崩壊してしまう。夫婦が離婚するのは嫌いになったからではなくて、関係性が悪化するからである。子どもが不登校になったりひきこもりになったりするのは、親との関係性=愛着が形成されないからである。企業が破綻するのも、景気が悪い訳でもなく経営戦略が悪いせいでもない。社員どうしの関係性が悪いからシステムが機能せず自己組織化能力が発揮できないからである。

 つまりすべての集合体=システムは、全体最適の価値観を持つこと、そして豊かな関係性がないと、自己組織化が阻害されシステムが破綻してしまうのである。だからこそ、人間はシステム思考に基づく全体最適と関係性重視の価値観が必要なのである。小さい頃から、父親もしくはそれに代わる誰かからシステム思考の考え方や行動規範を教えられなければならない。そして、学校においてもシステム思考を基本にした教育が必要なのである。明治維新以降の教育は、システム思考と相反する教育をしてきたのである。

 明治維新以降の教育は、個別最適という間違った価値観を植え付けてしまった。能力至上主義や行き過ぎた競争主義を押し付け、自分だけの経済的な豊かさや地位名誉を求める利己主義を蔓延させてしまった。これでは良好な関係性は築かれない。人々は競い合いいがみあって生活し、人の不幸が自分の幸せだと感じるような利己主義の人間を作り出してしまったのである。これは、全体最適と関係性重視の価値観に基づくシステム思考という大切な哲学を子どもたちに教えてこなかったせいである。思想・哲学を忘れた教育は最悪だ。

 不登校、ひきこもり、いじめ、虐待、貧困、格差社会、孤独と孤立、自殺、生産効率の低下、経済の低迷、すべてはシステム思考という大切な哲学を失った為に起きていると言っても過言ではない。欧米では、このシステム思考の大切さに気付き始めている。特に北欧ではシステム思考的な教育が取り入れている。だから、北欧諸国の教育効果が非常に高いのである。オランダでも小学生からシステム思考を教えている。システム論に基づく自己組織化を発揮できるような自立・自律を重んじる教育をしている。米国でもシステム思考の第一人者であるMIT上級講師のピーター・センゲ氏が、多くの若者から支持されている。確実に世界ではシステム思考が支持を受けているのに、日本の教育だけが取り残されている。

経済再生は教育のイノベーションで

 前回のブログにおいて、日本経済が低迷している原因は愛着障害にあることを明らかにした。そして、その愛着障害が多いのは教育に根本的な誤りがあるからだと説いた。教育の誤りは何故起きたのか、その教育の誤謬をどのように正したら良いかを今回のブログで明らかにしたいと思う。日本の教育を本来あるべき姿に戻さないと、このままでは日本経済は益々駄目になって行くだろうし、不登校やひきこもりだって増加の一途を辿るに違いない。いじめや児童虐待、貧困、格差は増大し、家庭崩壊だって進んで行き、取り返しがつかなくなる。

 いつから日本の教育が間違った方向に進んだのだろうか。江戸時代の教育は至極まともだったし、教育レベルも相当に高かった。明治維新後に、欧米列強に続けと欧米から近代教育を取り入れたのである。その時から日本の教育は劣化してしまったと言える。当時の明治政府で実権を握っていた大久保利通等が、西郷隆盛の反対を押し切って近代教育を強引に導入してしまったのである。西郷隆盛は、近代教育の欠点を見抜いていた。近代教育によって日本人の大切な『心』を失ってしまうと西郷は猛反対したのである。

 何故、近代教育によって心を失うのかというと、能力至上主義であり客観的合理性をあまりにも重視する教育だったからである。それ故に、技能や知識を取り入れることだけを目指し、大切な思想や哲学、価値観の教育を排除してしまったのである。もしかすると、権力者を批判するような人間を排除しようとして、価値観教育をさせまいとしたのではなかろうか。明治政府が導入した近代教育は、知識や技能だけを獲得するための教育だから、教え込む教育である。言わば詰め込み教育であるから、自ら考え決断し行動する力を削いでしまった。

 人間は、本来自分の行動をどうするか熟慮して決断して、自らの考えで主体的に行動する。ところが、過介入や過干渉の教育、支配と制御の教育を推し進めると、主体性や自発性を失ってしまう。人間は主体性、自発性、自主性、責任性、進化性を本来持っている。それは、自己組織化する能力と言い換えることができる。人間は誰からか指示・介入されなくても、自己組織化するのである。ところが、誰かによってあまりにも制御されたり支配をうけたりすると、自組織化能力を失い、操り人形やロボットのようになってしまう。

 そして、人間が自己組織化するためには、正しく高邁な価値観に基づいた「生きる目的」を認識しなければならない。ところが、明治政府は価値観教育を排除してしまったから「生きる目的」を子どもたちは認識できなくなってしまったのである。親たちも、そして教師たちも「生きる目的」を知らないのだから、子どもたちに「生きる目的」語り諭すことが出来ない。試しに、自分にあなたの生きる目的は何ですか?と問うてみればいい。殆どの人が正しく「生きる目的」を概念化する力がないことに気付くであろう。

 江戸時代の教育においては、「生きる目的」を自らが考えて導き出すための思想・哲学をしっかりと学んでいた。だから、自己組織化能力を持っていたのだ。父親が思想・哲学を子どもに対して語り諭し、子どもが正しい価値観を持ち「生きる目的」を自らが導き出せたら、人生に迷うこともないし生きづらさを抱えることもなかった。父親が条件付きの愛である父性愛を注いでしつけをしてくれたら、母親は無条件の愛である母性愛を注ぐだけで良いのである。母親がまるごとあるがままに我が子を愛し続けてくれたら、愛着障害になることはなかった筈である。

 欧米では、近代教育の欠陥をいち早く見抜いて、修正をしてきた。だから、自己組織化の能力を失うことがなかったのである。自己組織化する能力を開発する教育を取り入れているし、信仰を利用して価値観の教育をしっかり実施している。正しい価値観を失い「生きる目的」を失ってしまった日本人は、世界から取り残されてしまっているし、外国人から信頼まで失いつつある。家庭教育、そして学校教育の欠陥である客観的合理性偏重の教育を見直し、主観的共感性も重要視する教育に今すぐにでも改革しなければならない。そして、思想・哲学の教育を復活させて、正しく高い価値観を持てるようにすべきである。この教育のイノベーションを断行すれば、現代のあらゆる社会問題は解決し、日本は再生するに違いない。

日本経済低迷の原因は愛着障害

 日本の経済成長は、先進国の中で最低である。とりわけ低迷しているのは、実質賃金である。先進国の中で、実質賃金が下がっているのは日本だけである。この20年間で、10%以上も実質賃金が下がっているのは特異的である。何故、実質賃金が下がっているのかというと、デフレ傾向、低金利、生産性の低迷、所得分配率の低迷、非正規雇用者の増大などが原因だと言われている。本当にこれらが原因なのであろうか。だとすれば、政府の経済政策や金融政策で何とか出来る筈だが、20年間にも渡って改善されないのはどうしてだろうか。

 岸田政権は、安倍と菅が推し進めた政策を見直し始めている。所得の分配率を高めようと、税制を変更までして、企業に昇給圧力をかけている。しかし、この税制改革が成功するとは到底思えない。また、いくら設備投資をさせようと企業に圧力を加えたとしても、企業経営者たちは応えようとはしないだろう。何故ならば、企業経営者並びに幹部たちは、新規設備投資をするとか、イノベーションにチャレンジをするなどの積極的な企業経営をする筈がないのである。経営者たちはおしなべて不安感や恐怖感を抱いており、臆病だからである。

 大企業の経営者たちは、新たな設備投資をすることに対して慎重姿勢を崩さない。賃金を上げることにも消極的である。さらに、利益が確保されているし株価は安定しているから、無理をしてイノベーションをしなくても良いだろうと考えている節がある。これでは、絶対に好況になることはない。さらに企業における日本の生産性が、他の先進国と比較して、極めて低いという問題もある。特にホワイトカラー労働者の生産効率が低いと言われている。これもイノベーションが実行出来ていないせいだと思われる。

 大企業の経営者だけでなく、日本国民全体が将来に対する不安を抱えているとしか思えない。良く言えば慎重だということだが、新しいことに挑戦する勇気がないのである。不安や恐怖感が拭えず、無難な考え方や生き方しか出来ないのである。何故、そんなに臆病なのかと言うと、絶対的な自尊心が育ってないからと言える。青少年の意識調査を国際比較してみると如実なのであるが、日本の青少年の自己肯定感が異常に低いのである。さらに、主体性や自発性、責任性が他国の若者と比較すると極めて低いということが解っている。

 主体性、自主性、自発性、責任性というのは、人間が生まれつき持っている『自己組織化』の働きのことだ。現代の日本人は、この自己組織化する働きが著しく低下しているのである。つまり、日本人は自己肯定感が低下しているし、自己組織化する働きが低迷しているので、企業におけるイノベーションが進まず、生産効率が低いのであろう。何故に日本人の自己組織化の働きと自己肯定感が低いのかというと、それは端的に言えば『愛着障害』を抱えているからである。愛着障害が根底にあるから、将来に対する不安が強く勇気が持てないのである。

 根底に愛着障害があると、オキシトシンが不足するのでいつも不安が強くて、無難な生き方しか出来なくなる。新たなチャレンジにも挑戦出来なくなるし、現状を守りたいという意識が強く保守的になる。現代の若者が政治的に保守的なのは、愛着障害を抱えているからに他ならない。消費意欲が湧かずに貯蓄が増えるばかりなのは、愛着障害による不安のせいである。大企業経営者が新規の設備投資意欲がないのも、そしてイノベーションに踏み切れないのも愛着障害だからである。自己組織化の能力が低いからイノベーションが実行できないのであろう。

 日本人の大多数が愛着障害であると言っても過言ではない。何故、そうなってしまったかと言うと、学校教育と子育ての間違いからである。自己肯定感と自己組織化を育てる教育をしてこなかったせいである。自己肯定感は、0歳から3歳くらいまでの間、母親が我が子をありのままにまるごと愛さなければ育たない。つまり無条件の愛である母性愛を注ぎ続けなければ自尊心は芽生えない。さらには、自己組織化を阻害するような教育ばかりを家庭も学校もしたのだ。強い干渉や介入をして、支配し制御する教育をしたのだから、自己組織化する筈がない。故に多くの日本人が愛着障害を抱えているせいで、日本経済は低迷しているのである。教育のイノベーションが必要なのは言うまでもない。

何故いじめるのか(いじめの心理)

 学校でのいじめ事件はとても増えているという報告がある。何故かと言うと、今まで学校サイドではいじめだと認識していなかった事案でも、文科省からのいじめに対する対応基準が変更になったこともあり、いじめだと認識する件数が増えたからである。それでも、都道府県によっていじめに対する対応のばらつきがあり、いまだにいじめだとカウントしたがらない都道府県があるのも事実である。一方では、実際にいじめが増えていると主張する教育の専門家や支援者がいる。いじめが実際に増えているのも事実であろう。

 いじめが減少しないのは、学校の対応が稚拙であり後手に回っているからに他ならない。いじめに対する学校側の対応で大切なのは、まずは被害者救済だというのは言うまでもない。だとしても、加害者に対する指導も大事だ。加害者が心から反省して二度といじめをしないと誓わなければいじめは少なくならないし、完全に無くすことは出来ない。日本の教育現場でのいじめ対応は、被害者へのケアーが中心で、加害者対応は後回しである。西欧においては、加害者への対応にも力を注いでいる。何故かというと、いじめをする子どもの心も荒んでいるし、救いが必要だと認識しているからである。

 いじめをする子どもの精神が病んでいるという観点に立つ教育者は、日本では極めて少ない。いじめをする子は精神的に強い子だと思われているが、実はいじめをする子ほどある意味では精神的にひ弱なのである。いじめをする子どもは、自己否定感が強いということを知っている人は殆どいない。自己肯定感が高い子どもは、いじめなんて絶対にしないのである。自分の中に強烈な自己否定感が存在している。だから、いじめをしてしまうのである。そして、いじめをする子どもの心は、不安定であり酷く傷ついているのである。

 いじめをする子どもは、意識していじめをしたいと思っている訳ではない。自分でも何故いじめをするのか解っていない。どういう訳か、いじめの対象者に出会ってしまうと、いじめられないでいられないのである。何故、いじめをしてしまうのかというと、いじめの対象者に、自分の中に存在するマイナスの自己と同じものを発見するからである。勿論、自分自身もそのことに気付いていない。自分の中に存在するマイナスの自己は、自分にはないことにしてしまっているし、無意識でそのマイナスの自己をひたすら隠しているのである。

 そのマイナスの自己というのは、自分の弱さや醜さであり、恥ずかしくて人様には絶対に見せられないから隠し通している性格や人格である。ところが、その弱さや醜さをいじめの対象者の中に発見してしまうと、自分自身を見ているようで許せなくなってしまうのである。そのために、これでもかこれでもかといじめの対象者を攻撃するのである。いじめの対象者は、ある意味不器用でマイナスの自己を隠すのが下手なのかもしれない。そんないじめの対象者が許せなくなってしまい、無意識でいじめてしまうのだと思われる。

 いじめをする子どもというのは、人一倍自己否定感が強い。自分の弱さや醜さを受け容れることが出来ない。だからこそ、自分の弱さや醜さを隠し通しているし、ないことにしてしまっているのである。おそらく、親からダブルバインドのコミュニケーションによって育てられて、抵抗型/両価型の愛着障害を抱えているのであろう。つまり、親からの愛情不足によって、満たされない思いをしているし、強烈な生きづらさを抱えていると思われる。さらに、いじめをする子どもは強烈な不安や恐怖を抱えていて、それを隠しているのである。

 このように生きづらさや不安と恐怖を心の奥底に抱えた抵抗型/両価型の愛着障害の子どもは、同じ心の痛みを抱えた子どもたちと徒党を組んで、いじめ行動をするのであろう。そして、いじめを放任している教師もまた抵抗型/両価型の愛着障害であり、無意識でいじめをする子どもに共感してしまっているのである。いじめがなくならず、逆に増えているのは、学校にはこういう深刻な図式が隠れているからであろう。いじめのような問題行動を起こすのは、もっと愛してほしい、助けてほしいというSOSのサインでもあるのだ。いじめをする子どもと放任する教師を支援することが、いじめをなくすのに一番効果があるのではないだろうか。

誉めて育てると言うけれど

 子どもは誉めて育てろと良く言われる。また、社員も誉めて伸ばせというのは社員教育の極意として広く伝わっている。確かに適確に誉めれば、社員と子どもは伸びる。しかし、誉めることが出来ない親や上司がいるし、誉め方が実に稚拙な親や上司がいる。誉めればいいというものではない。誉め方は難しいし、間違った誉め方をすることにより、成長させないばかりか、やる気を削いでしまうことも少なくない。ましてや、自分が誉められた経験がない人間は、誉めることが出来ないのが常である。誉められないのは当然だ。

 ある有名なビジネス雑誌で、誉めることに対するアンケートを実施したことがある。誉められる人というのは、自分でもよく誉める人だということが解ったのである。ということは、誉めることが出来ない人は、誰からも誉められないということになる。親子関係で言うのなら、自分が親に誉められなかった人は、我が子を誉めないということだ。ビジネスの場面でも、誉めない人は誉められる経験をしていないということになる。確かに、いつもガミガミと怒っている上司は、滅多に誉めることをしないし、誉め方も稚拙である。誉められてもちっとも嬉しくない。

 誉めることが出来ない人は、周りの人々を観察していない。よく観察していないと、上手く誉めることが出来ないからだ。自分のことしか考えていないし、周りの人々にあまり興味がないのかもしれない。誉める為には、コミュニケーション能力が高くなければならないし、自己肯定感を持たなければならない。自分のことを心から愛することができなければ、人を認めて正しく評価して誉めることが出来ないのである。自己否定感が強い人というのは、自分のことが嫌いなのだから、他人のことも認めることが出来ないのである。

 大人になって社会に出てから、仕事で評価されて認められていくら誉められても、自己肯定感が生まれることがない。三つ子の魂百までもというが、1歳から3歳までに自己肯定感が生まれるかどうかが決まるのだ。三歳頃までに、母親からありのままの自分をたっぷりと愛される経験をしないと、自己肯定感は生まれないと言われている。母親でなくても良いのだが、豊かな母性愛を注いでくれる存在が必要なのである。三歳までに、たっぷりと愛されて誉められ続けられれば、自己肯定感が生まれて他人を誉められるのである。

しかし、誉めればよいという訳ではない。誉める際に気を付けたいのは、けっして結果や成果だけを誉めてはならないと言うことだ。出来れば、行動や姿勢、結果に至るプロセスを誉めることが求められる。何故なら、結果や成果だけを誉めると、子どもや部下は楽をして結果を追求してしまうし、周りの人々との協力をせず、周りの人々を蹴落としてでも自分の成果を上げようとするからだ。努力をせずに、結果を求めてしまうような大人や職業人になってしまうリスクがある。努力をしたプロセスを誉めてあげたいのである。

 子育てにおいて、親は立派な子どもに育てたいと思ってしまうものである。そして、親が望むような子どもに育てようとしてしまうのである。そうなると、子どもを育てる際に、他の子どもと比較してしまうし、結果や成果を求めてしまう傾向になってしまう。他の子どもよりも優秀な成績を収めたことを誉めてしまうのだ。知らず知らずのうちに、親は子どもをコントロールしてしまうし、支配してしまうことになる。子どもは、親の期待に応えようと必死になり、親の目を気にして生きるようになる。親が気に入るようなことだけをしてしまうことになる。親の操り人形のような生き方をしてしまうのである。

 親の誉め方が間違うと、とんでもない子どもに育ってしまうことはよくある。アスペルガー症候群のように、特定の部分だけに興味を持ってしまうことになる。だからこそ、結果や成果だけを誉めることは避けなければならない。日頃の行動の中で、懸命に努力をし続けたり、挑戦を諦めなかったりする態度を誉めなければならない。また、誰かのために優しさを発揮したり思いやりの行動をしたりした時こそ誉めるべきなのだ。例えば、玄関に脱ぎ散らかした他の人の靴を、そっと揃えてあげるようなことをした時にこそ、誉めてあげたいものである。そうすれば、人の為世の為に貢献できる立派な人材に育つことであろう。

いじめる子といじめられる子の根っこは同じ

 日本の学校でいじめ問題が起きると、いじめられている子どもを守るにはどうしたら良いかという点が重要視される。まずは、教師たちはいじめられている子どもを助けることに努力する。いじめている子どもを教師たちは注意するが、二度といじめ事件が起きないように徹底的に予防対策を取るようなことはしないものだ。酷い教師になると、いじめている子どもといじめられている子どもを対面させて、仲直りの握手をさせるというような青春ドラマの再現のような愚策を取るケースもある。まったく見当はずれの対応だ。

 いじめられている子どもは、けっしてそのことを親にも言えないし教師たちにも言えない。何故なら、いじめを告白してもいじめを解決してくれないことを知っているからである。いじめを告発したら、いじめは益々酷くなることが解っているのだ。それだけ、子どもは親を信頼していないし、教師たちのこともまったく信じていないのである。学校と言うのは、いじめを隠したがるし、いじめを解決する能力を持った教師がいない不幸な場所なのである。だから、いじめを積極的に探索しようともしないし、解決しようともしないのだ。

 日本の学校でいじめ事件が起きると、いじめを受けている子どもにカウンセラーを対応させる。しかし、いじめている子どもをカウンセリングするケースは殆どない。ところが欧米においては、いじめている子どもにもカウンセラーを充てることが少なくない。何故なら、いじめをしている子どもの心は、とてもひねくれているし傷ついていることが多いからである。日本の学校においては、いじめをする子どものメンタルに問題があるという観点を持つ関係者は皆無なのである。だから、日本の学校ではいじめがなくならないのである。

 日本の教師たちは、いじめを受けている子どもにも問題があると考えている。しかし、いじめをしている子どものメンタルに問題があると考えている教師は殆どいない。いじめをしている子どものメンタルは正常だと考えている。しかし、いじめられる子どもの心よりも、いじめている子どもの心は大きな問題を抱えていることが多い。いじめをしている子どもは、傷ついた愛着や不安定な愛着を抱えていることが多い。愛着障害と言っても過言ではない。深刻な自己否定感を抱えているし、愛情不足で苦しんでいることが多い。

 いじめをしている子どもの両親は、共に高学歴で裕福な暮らしをしているケースが多い。いじめをされて、不登校に追い込まれてしまっている家庭の両親も同じようなケースが目立つ。いじめられる子どもの愛着も傷ついているので、エネルギーが低下しているから、どうしてもいじめの対象者になることが多い。いじめをする子どもは、愛着が不安定であり自己否定感が強いから、自分の方が優れているという主張をするために、いじめをしてしまうのである。親から支配され制御されているばかりか、ダブルバインドの子育てをされている。

 いじめをする子どもの心は深刻な闇を抱えている。小さい頃からの育てられ方に問題があり、愛に飢えている。一見すると、ごく普通の親に育てられて、愛情もたっぷりと受けながら育てられているように見える。しかし、その愛情というのは、無条件の愛ではなくて、条件付きの愛である。つまり、親の思った通りに行動する子どもじゃないと、愛さないよという親のサインを受け続けて育ったために、本物の自己肯定感が育っていないのである。こういう子どもは、周りの子どもを否定することで、セルフイメージを高めようとしがちである。

 傷ついた愛着、または不安定な愛着を持った子どもは、いじめる側になるケースと、いじめられるケースになることがある。このような愛着障害の子どもは絶対的な自己肯定感を持たない為に、不安があり自分に自信がない。不安な為におどおどした態度を見せることが多く、いじめられる対象になることもある。一方では、自分の不安さを隠す為に、激しい攻撃性を見せて、自分と同じ不安を抱えている子どもを否定したくなりいじめるのである。自分と同じ不安定さを相手の子どもに発見した時に、自分にあるマイナスの自己を持つ相手を否定したくなり攻撃するのである。いじめることは悪いことで絶対に許せないが、こういう攻撃性を見せる子どもこそ、救ってあげないといじめはなくならない。

自己犠牲を伴う子育てをしてはならない訳

 多くのお母さんたちは、子どものためにと自己犠牲も厭わずに努力する。一方、父親は自己犠牲を嫌がる傾向にある。仕事や自分の趣味を優先にするし、運動会や発表会にはしぶしぶ参加するものの、普段の育児や家事は妻に任せきりにしがちだ。その分、妻の負担が増えるし、子育てはお母さんに責任があるという社会的風潮もあるので、手抜きもできないから一所懸命にならざるを得ない。そういった際に、お母さんたちは自分を犠牲にするような子育てこそが理想的な母親像だと思い込み、そういう落とし穴に迷い込みがちだ。

 確かに母親と言うものは、自分を犠牲にしてでも子どもを立派に育てなければならないという思い込みに捉われがちである。昔から女性は良妻賢母を生きることを強いられるような社会風潮に縛られる傾向がある。子どものために母親は犠牲になることも厭わないのだという周りの期待に応えてしまうのだと思われる。しかし、自分が犠牲になるような子育ては、子どもにしたら有難迷惑なのである。けっして子どもはそんな風に育てられることを望んでいないし、ちっとも嬉しくないのである。

 何故、自分を犠牲にしてしまう子育てをしてはならないかというと、無理している心が子どもに伝わってしまうからである。子どもというのは、ピュアな心を持っているから親の本心を簡単に見抜いてしまう。親が嘘をついたり誤魔化したりすると、子どもは親の仕草や表情から、親の偽りを直感的に解ってしまうのである。そうすると、子どもの為にと無理してやってあげたことなのに、子どもは嫌な気持ちになるだろう。ましてや、親が自分を犠牲にして子育てをしていたら、子どもは自分の為に辛い思いをする母親を見て悲しむに違いない。

 さらに親自身も犠牲的精神で子育てをしたら、心理的に追い込まれてしまうに違いない。それでなくても、子育ては気疲れするものである。自分の生活や夢を一時的にも中断して、全身全霊を傾けて子育てに集中する。それこそ自分の命を賭けるつもりで取り組んでいる。それなのに、自分を犠牲にしてまで子育てに取り組んだら、自分の生きるエネルギーまで削がれてしまうに違いない。そうすると、母親のエネルギーも低下することになり、それが子どもの生きるエネルギーにまで影響を及ぼし兼ねない。子どもの元気も削がれてしまう。

 忘れてならないのは、母親と子どもの身と心は一体化しているということである。母親の不安は子どもにダイレクトに伝わるし、母親の喜びや嬉しさも子どもにまるごと伝達されてしまうのだ。そして、それは逆の伝わり方もしているということだ。つまり、母親が子どもの為に犠牲心を持って子育てをしていると、子どももまた犠牲心で母親に接するということだ。1歳から3歳の幼児期に、子どもは母親に無条件で愛されることが必要である。まるごとあるがままに愛されないと、絶対的な自己肯定感が育たず、生きづらさを抱えて生きることになる。

 無条件の愛である母性愛を受けずに幼児期を育てられると、子どもは母親に甘えることが出来ない。勿論、父親や祖父母にも甘えることが出来なくなるのは、言わずもがなである。少し考えて見たら解る筈だ。自分の為に犠牲を強いられながら接してくれる母親に、子どもが心から甘えられる筈がないだろう。犠牲的思いを感じながら子育てをすると、心から子育てを楽しめないのは当然だ。子どもに慈悲を感じることもなくなり、母親から笑顔も消えることだろう。母子が共に不安を感じるだけでなく、愛着も薄らいでいくに違いない。

 母親が犠牲的な子育てをしないようにするには、周りの人々の子育てに対する共感と支援が必要である。子育てというのは、この世の中で一番尊い行為であり、価値の高いものである。そして、子育てというのは世の中で一番難しいし、苦難と困難を伴う。その役割を母親だけに押し付けてはならないのである。特に父親が積極的に育児参加するのは勿論だし、他の家族や親族も育児に参加する必要がある。子育ては親族全体、地域全体、社会全体でするものだ。少なくても、母親の大変さと苦労を解ってあげることと、称賛やご褒美が必要だ。そうすれば、母親は犠牲心を持って子育てをしなくても済むようになり、子育てに喜びを感じるようになるに違いない。