異次元の少子化対策でも効果ない

 岸田内閣は、異次元の少子化対策を実施すると宣言した。このまま日本で少子化が進むと、生産力が激減して国内経済も成り立たなくなるし、日本という国が消滅するとさえ言われている。確かに、少子化が進んでしまえば、働く担い手と税の負担者がいなくなるのだから、国家として存続できなくなるのは当然である。今までも政府や地方行政による少子化対策は各種実施されてきたが、たいした効果を上げていない。そこで岸田内閣は、異次元という語句を用いて、思い切った少子化対策を実施するというのだが、果たして上手く行くのだろうか。

 少子化は国の根幹を揺るがす一大事だということを、多くの日本人は気付いていない。他人事として捉えていて、自分たちの未来が最悪のものになるという危機感がないといえる。それが少子化対策の進まない理由ではない。ましてや、金銭的な補助を増額したとしても、産み育てようという気持ちにはならない。そもそも、若い人たちにとって子を産み育てることが、自分とって必要不可欠なことだという認識がないのである。どちらかというと、出産育児とは大変なことであり、自分たちが大きな犠牲を払うことになるから嫌なのである。

 何故に若者が産み育てようとしないのかというと、世間一般的に言われているように、産み育てる経済的な余裕がないという理由だけではなさそうだ。さらには、働きながら産み育てられる環境が整っていないというのは、大きな阻害要因にはなっていない気がする。何故なら、江戸時代以前にはもっと貧しくて育児環境の悪い農村でも、育児出産をしていたのである。その頃には、児童手当や出産手当もなかったし、子どもが多いからと年貢を少なくしてもらえる優遇制度等もなかったのである。

 経済的な理由や育児環境が整備されていないから、若い夫婦たちは産もうとしない訳ではない。確かに、そういう理由で出産を控える人もいるだろうが少数である。異次元の少子化対策は、効果がないに違いない。今までだって、児童手当を増額したり保育所を増やしたりする対策を取ってきたのである。育児休暇も充実させてきたし、男性への育児休暇取得促進だってやってきたのである。それでも効果がまるで出なかったのは、もっと違う理由で少子化が起きているからである。その原因を明らかにしなければ、少子化対策も徒労になる。

 現代の若い夫婦が子どもを産みたがらない理由を聞いてみると、驚くような答が返ってくる。自分のやりたいことがあり、出産育児によってそれが障害となるから産まないと返答した人がいる。または、出産育児をすると人生を楽しめる時間がなくなると答えた人も少なくない。こういう答をした人は全体から見たら少ないのかもしれないが、このように答えた人は実に正直な人であり、他の人は本心を明らかにしなかっただけではなかろうか。出産育児に大きな価値や喜びを感じていないし、自分たちの楽しい生活が優先なのである。

 何故、子どもを産み育てるということに価値を感じないのであろう。それは、自分たちが幸福で楽しい生活を送るということが最優先の価値観だからである。自分たちが生まれて育ってきた意味は、豊かで幸福な人生を送るためという、実に低劣で恥ずかしい価値観を持っているのである。子を産みその子を立派に育てることは、大変なことである。でも、大きな喜びもある。何故なら、その子が大人になってから、社会に多大な貢献をすることが出来るからである。自分の人生でも大きな社会貢献の足跡を残し、さらには我が子も社会貢献したとしたら、二重の喜びになる。

 さらには、子育てには苦難困難を伴う。この苦難困難を通して、親が大きく成長させられるのである。子育ては親育ちと言われる所以である。子育てをしなくては、人間としての気付きや学びが得られないことが多いのだ。子どもを持たなくても立派な方はいる。しかし、子育てで得られる経験や体験は、何事にも替えられない大きな価値があるのだ。そして、子育てで学んだことが、職場や地域に貢献する糧にもなりうるのだ。このような全体最適の価値観、または全体貢献という意識が日本人には希薄なのではなかろうか。これは日本の学校教育から思想哲学を排除した悪影響に他ならない。少子化対策よりも教育の改革こそが、少子化にとって必要なのである。正しい価値観を教える教育改革しないと、異次元の少子化対策は無駄になる。

発達障害の児童生徒が8.88%

 発達障害の児童生徒の割合が、8.88%だったという調査結果が出たという。これは、専門医の診断ではなくて、教師たちが発達障害だと確信した数字であり、果たしてこの割合が正しいかどうかは、はっきりとは解らないらしい。とは言いながら、学校で子どもたちと関わっている先生たちが直感でそのように思うのであれば、ある程度は的を射ているのかもしれない。ここでいう発達障害とは、ADHD、学習障害、高機能自閉症等を指している。また、この調査は特別支援学校や教室の子どもは含まれず、普通学級の子どもだけの調査だという。

 この数字は、以前の調査よりも高くなっているものの、文科省ではこの調査を担う教師たちの発達障害への認識が高まった結果であり、発達障害の子どもたちが増えている訳ではないと結論付けている。こういう認識こそが、文科省が抱えている極めて悪質なバイアスではないかと思われる。実際に子どもたちと接していない文科省の役人が、軽々しく発達障害の子どもたちは増えていないと断定しても良いのであろうか。そのような結論を出してしまうと、発達障害の子どもをこれ以上増やさない為の方策を取らないのではないだろうか。

 子どもたちと現場で向き合っている教師たちに質問すれば、正反対の返答が返ってくるに違いない。発達障害の子どもたちは、年々増えているという返答である。しかも、発達障害の子どもたちの扱いに困っているという先生は非常に多い筈だ。8.88%という割合は、明らかに発達障害だと確信した数字であり、グレーゾーンはその数倍になる筈である。文科省に申し上げたいのは、グレーゾーンの調査もすべきであり、グレーゾーンの子どもも含めた、抜本的な対策を早急に打たないと、とんでもない禍根を残すということである。

 ちなみに米国の最新の調査によると、子どもの6人に1人が発達障害であり、18%の割合で見られるという。そして、この20年間で確実に増えているとの見解である。日本の発達障害の子どもの割合が、9%未満だと言うのは信用できない。不登校やひきこもりのサポートを実際にしている者としての実感では、3割以上の子どもが発達障害であり、グレーゾーンを含めると、その割合は半数を優に超えていると思われる。そして、大人の発達障害の割合も、同じく3割を超えているという実感を持っている。

 さらに大事なことは、発達障害と推測される子どもと大人たちは、単なる発達障害ではなくて、愛着障害の二次的症状として表れている割合が非常に高いことである。発達障害は、脳の器質的な障害によるものであり、生まれつきの障害だとされている。当人に関わる人の対応の仕方で、症状が強く出たり弱く出たりはするが、完全に治癒することは見込めないとされている。しかし、愛着障害の二次的症状であるならば、親子の愛着が改善されると、驚くように症状が良くなる。実際に、親子の愛着が改善されて、発達障害の症状が軽くなった症例をいくつも経験している。

 発達障害だと診断したのは、ある程度の基礎知識を得た教師だとしても、その判断が間違っているケースも少なくない筈である。しかも、誤解を恐れずに申し上げれば、先生の約3割はグレーゾーンの発達障害という二次的症状を抱えていると思われる。つまり、教師の約3割以上は愛着の問題を抱えていると言っても過言ではない。そのような教師が自信を持って発達障害の診断が出来るとは到底思えないのである。障害者に同じ種類の障害者を診断せよというのは、あまりにも乱暴なのである。おそらく、無意識で見逃している例が多いに違いない。

 ということからも、8.88%という数字がいかに信用ならないかと言うことが解るであろう。こんないい加減な数字を基にして、文科省が教育方針や指針を作成しているとすれば、あまりにも子どもたちと先生が可哀そうである。発達障害や愛着障害が一向に改善されないのだから、不登校や苛めがなくならないのは当然である。ましてや、愛着に問題を抱えた教師は不適切指導を起こしやすいし、うつ病などの気分障害を起こして、休職や退職に追い込まれやすい。日本の教育が成果を残せず、世界から取り残されるのは当然であろう。文科省の抜本的な改革(イノベーション)が望まれる。

学校教育で自己肯定感を育てるのは困難

 学校教育を管理指導する立場にある文部科学省は、子どもたちの自己肯定感(自尊感情)を育む学校教育を目指しているという。どうすれば、自己肯定感が高まるのか、調査研究を進めているし、教師にも子どもたちの自己肯定感や自己有用感を育てる教育の進め方を指導している。そして、自分たちの活動が恰も成功しているかのように、自尊感情を持つ高校生が増えているとの調査結果さえ、公表している始末である。でも、相変わらず不登校の子どもは存在しているし、いじめや無視などが多数起きている。自尊感情が高まっているとは思えないのである。

 ましてや、学校現場における不祥事は後を絶たない状況にある。不適切指導や教師による暴力事件・性被害は少なくないし、不適格教師として処分をされたり中途離職をしたりする教師も多い。そもそも、絶対的な自己肯定感(自尊感情)を持つ教師が少ないのではないかと思えて仕方ないのである。自分に自己肯定感が育っていない教師が、どうして子どもたちの自尊感情を育むことが出来ようか。ましてや、自尊感情や自己有用感をしっかりと持っている教師なら、子どもたちの不適切指導や性被害行動を起こす訳がない。

 ダイヤモンド社のプレジデントという雑誌で、誉めることの特集記事を掲載したことがある。その際に、各企業の社員や管理者にアンケートを実施したそうである。その結果、よく誉められる人は、自分でも他人をよく誉めることが解ったという。教育の極意は、よく誉めて育てると言われているが、学校現場で誉められることや認められることが極めて少ない教師が、子どもたちを認めて誉めることが出来るとは思えない。ましてや、現代の教師たちの殆どが生きづらさを抱えているのに、子どもに生きる楽しさを伝えるのは難しいであろう。

 学校の先生たちの中で、何かしら心を病んでいる人は想像以上に多い。何らかの気分障害により、治療を受けている先生は多いし、休職している先生も少なくない。一般企業と比較しても多い筈である。どうして教師が心を病んでしまうのかというと、特殊な職場環境だからという理由だけではない。心が折れやすいという何か特別なパーソナリティを抱えているとしか思えない。その特別なパーソナリティとは、不安や恐怖感を抱えやすいというものではなかろうか。あまりにも神経が過敏で、心理社会的な過敏性を持っている気がする。

 そのパーソナリティは、小さい頃の育てられ方に起因しているのではないかと思われる。教師になる殆どの方たちは、親が教師であることが多いし、親の教養や経歴が立派だということが多い。勿論、教育熱心な親も少なくない。家庭における躾は厳しい傾向が強い。つまり、母性愛よりも父性愛が強い中で育てられるケースが多いということである。自己肯定感を持つには、三歳頃までの育てられ方で決まる。あるがままにまるごと愛されて育てられれば、自己肯定感が確立される。残念ながら、条件付きの愛である父性愛の強い育児では、自己肯定感が育たないのである。

 すべての教師が父性愛の強い中で育てられたという訳ではない。比較的多いという意味である。そして、そういう父性愛の強い家庭で育てられた教師ほど、とても優秀なので出世して学校や教委の管理職になる。だから、管理職は部下の教師を誉めることが不得意なのである。誉め上手は誉められ上手であり、誉められ上手は誉め上手である。誉められることが少ない教師は、子どもを誉めることが得意でない。誉め方も稚拙で、結果だけを誉めてプロセスを誉めることがない。これでは、子どもの自尊感情が育つ訳がない。

 文科省は、こういった大事なことはさておいて、自然体験やボランティア体験などが自尊感情を育てると主張する。または、多世代の交流や読書をしている子どものほうが、自尊感情が高いと分析している。この主張はある意味正しいと言えるが、自尊感情の高い子どもほど自然体験やボランティア体験をするし、多世代の交流や読書を良くすると言ったほうが正しい。自己肯定感を育てる教育は、家庭教育のほうの比重が遥かに高いし、自己肯定感の高い教師に出会った子どものほうが、自尊感情が高まると言える。文科省は、絶対的な自己肯定感を持つ教師を採用すれば、健全な子どもを育成できると心得たい。

保育士が園児に暴力を振るった訳

 静岡県裾野市の認可保育園で起きた事件は、社会に大きな衝撃を与えた。女性保育士というと、子どもには優しく接してくれる存在だと世間一般では思われているのに、子どもを吊り下げるというとんでもない暴行を加えていたとは、すごい驚きである。それにしても、そのような暴行に及んでいたのは、一人ではなくて複数いたというから、驚愕の極致である。保育園側ではそれを知りながら、隠蔽しようとしていたというから呆れる。このような暴行が日常茶飯事に行われるようになったのは、新しい園長に交替してからだという。

 保育園などでは、慢性的なマンパワー不足により、大変な思いで保育士さんたちが働いているという事情もあろう。または、難しい対応が迫られるような園児も大勢いたであろう。だとしても、虐待をしたりカッターナイフで園児を脅したりして、園児を自分たちの思い通りに操ろうとするのは、大きな間違いだ。暴力や罰でもって、自分たち保育士に従わせようとするのは、絶対にしてはならないことである。園児の心に大きな傷をもたらすし、彼らの性格や人格にまでも大きな影響を及ぼすからだ。

 いくら小さい子だとしても、日常的な暴力や虐待は子どもの心身に大きなダメージを与えてしまう。暴力暴言や虐待を受けて育つと、子どもの脳は取り返しのつかない損傷を受ける。記憶を支えている海馬が委縮してしまうし、前頭前野脳が成長しないばかりか退化してしまうこともある。また、脳の中にある偏桃体が異常に肥大化してしまい、不安・恐怖・怒りの感情がコントロールできなくなり、異常なパーソナリティを持ってしまう怖れもある。こうなってしまうと、やがてうつ病などの気分障害を発症することもある。

 暴力や虐待を受けなかった子どもは影響がないかというと、そうではない。それを日常的に見せつけられた子どものほうが、大きな心のダメージを受ける。自分も同じ目に遭うかもしれないという恐怖が大きいからだ。酷いトラウマを抱えることもある。心的外傷(トラウマ)を受けた子どもは、やがて大きくなってからパニック障害やPTSDを起こす可能性だってある。特に乳幼児期に虐待や暴力を振るったり、そういう場面を見せられたりするのは、絶対にあってはならないのである。保育士は暴行罪だけでなく、傷害罪も負うことになる。

 彼女らは『躾』の一環として虐待や暴行をしたとの認識だという。学校現場においても、指導の一環だとして悲劇的な不適切指導が起きている。虐めに加担するような教師もいるし、自らが暴言や暴行を繰り返す教師もいる。たまたま保育士が、今回は同じ行為をしてしまっただけである。他の保育園や教育現場でも起こりうるのである。保育士たちは、目の前の園児たちの言動が許せなかったのである。乳幼児が皆、自分たちの願うように、大人しく聞き分けのある子どもである筈がない。中には、騒ぎまわって指示をまったく受け付けない子どももいるし、反抗的な態度をする子もいたろう。

 多くの大人は、自分の思い描いたように子どもを支配して制御したいものである。特に小さい頃に、あるがままにまるごと愛されて育てられなかった大人は、自己肯定感が育ってないから、子どもの言動に対して寛容と受容が出来ない。すぐに切れてしまう。虐待や暴力を振るわれて育つと偏桃体が肥大化すると記したが、まさしく同じように育てられたのではなかろうか。怒りのコントロールが出来なくなっているのだ。自分は、インナーチャイルドが傷つけられて育っているから、子どものような純真さを表に出せない。その純真さを思いっきり表出させて騒いでいる園児が余計に許せないのだ。

 すべての人間がそうだとは言えないが、大きな愛で包まれて心が満たされている人は、他人に対して攻撃を加えることがない。豊かな愛を注がれ続けている人は、他人の言動を許せるし受け容れられる。小さい頃にあるがままにまるごと愛されて育った人、いわゆる豊かな母性愛に包まれて育った人は、自分より小さくて弱い存在をまるごと愛することが出来る。例え、自分の思い通りに行動しない園児だとしても、優しく接する。園児を暴行した保育士たちは、おそらく自我と自己の統合が出来ていなかったのではなかろうか。自己肯定感がなくて、自己の確立が不完全だったように思う。罪を償ったうえで、自己マスタリーを実現して、社会復帰してほしいと願う。

サッカー日本代表の勝因をシステム科学で読み解く

 ワールドカップでサッカー日本代表チームが強豪のスペインとドイツを破って、一次リーグをトップで通過した。どちらか一方を破るかもしれないと予想した人は少なくないかもしれないが、両方のチームを負かして予選リーグをトップで通過すると予想した日本人は少なかっただろう。ましてや、世界のサッカー界を牽引するスペインとドイツを敗戦に追い込むと予想した両国のサッカーファンは皆無に違いない。言わば奇跡とも言えるような番狂わせを演じた日本の強さは、どうして生まれたのかをシステム科学で分析したいと思う。

 サッカー日本代表チームはサムライブルーとも呼ばれている。サムライブルーが勝てたのは、世界でも活躍できる選手を招集することが出来たからだというのは間違いない。しかし、想像した以上に活躍できたのは、森保監督の采配の的確さと指導力の賜物だという人は多い。誰もが、森保監督の手腕を認めているであろう。その戦術は、的確であり効果的であったと思われる。特筆すべきは、森保監督の指導力(教育力)の素晴らしさであろう。科学的な根拠に裏付けされた指導力と選手の育て方は、世界でもトップクラスと言える。

 森保監督の指導と育て方は、心理学と教育学、さらには脳科学的にもエビデンスに伴ったものだと言えよう。故に、選手の個々の能力を発揮することが可能になったし、実力以上のものが引き出せたに違いない。最先端のシステム科学に基づいたような采配と指導を行えば、大きな成果を産みだすのは当然である。人間はひとつのシステムであるし、チームという組織もまたシステムである。このシステムの機能を最大限に発揮するには、システム科学の思考が必要である。そのシステム思考に基づく指導をしないとシステムは機能しない。

 森保監督の指導方法は、実に科学的でありシステム思考の哲学に則った選手の育て方をしたのである。だから、選手たちは実力以上の能力を発揮したのであるし、チームがまとまって結果を残したのである。システム思考に則った指導法とは、自己組織化と関係性を重視した育て方のことである。この指導を行えば、オートポイエーシス(自己産生・自己産出)が起きる。つまり、個々の選手が大きな成長をするし、チームが大きな結果を産みだすことになるのだ。まさしく、森保監督はこの科学的な手法を用いて結果を残したのである。

 スポーツの指導者はともすると、選手を成長させようとして、厳しく選手に接しがちである。規則やルールで縛ろうとするし、勝手に行動しないように制御しがちである。監督が思い描いたように、選手を動かそうとする。確かに、監督が描いた戦術通りに選手を動かしたくなるのは当然である。ところが、選手をコントロールしようとすればするほど、選手は動かなくなる。練習の時には上手く動いてくれるが、緊張したり興奮したりする場面や大事な試合になればなるほど、身体が動かなくなったりミスを犯したりするものなのだ。

 人間と言うのは、一方的に支配されて所有されたりすると、本来の機能を発揮できなくなる。または、強い干渉や介入を繰り返して、制御をし過ぎると、自己組織化の能力を発揮できなくなる。チームもやはり強すぎる干渉や制御により、自己組織化できなくなるしオートポイエーシスが働かなくなる。森保監督は、選手に対して干渉や介入を極力避けていたようであるし、選手個人の主体性や自主性、さらには責任性を尊重していたらしい。さらには、選手との関係性、またはチーム員どうしの和(関係性)を高める言動を心掛けていた。

 絆(関係性)が強ければ、個人や組織の自己組織化が高まる。個性豊かなサムライブルーだが、選手どうしと監督との関係性は、世界でもトップクラスの豊かさだと思う。その絆の強さは、監督の人柄と言動によるものだと思われる。指導力は高いし戦略性のある外国人監督だが、残念ながら言葉の違いもあるし日本人独特の文化・習慣に疎いので、関係性を高めることは出来なかったように思う。誰よりも優しく思いやりのある日本人らしい森保監督だからこそ、関係性が豊かになりシステムの機能が高まって、結果を残したのである。決勝トーナメントでも、今まで通りに選手を指導してくれることを期待したい。

オカルト宗教にはまった人を救うには

 安倍晋三元総理の銃撃事件から、にわかに旧統一教会に関わる政治家への糾弾が激しくなった。いまさらと思うが、マスコ・SNS上でも、それらの政治家批判が広がっている。それにも増して、旧統一教会の悪質な資金集めが注目を浴びると共に、えげつない会員勧誘の実態が明らかになり、教会員になった当人だけでなく、その家族の悲惨な状況が報道され始めている。一度旧統一教会のようなオカルト宗教に入信してしまうと、あまりにも巧妙な脱退引き止め工作もあるが、当人が洗脳されているので脱会が困難となる。

 入信してしまった当人の家族は、何とか脱会させようと説得を試みるのであるが、家族の話に聞く耳を持たない。オーム真理教の時もそうだったが、一度信じてしまうと頑なに脱会への説得に反抗する。自分が正しくて、入信しない人たちが騙されていると思い込んでいるのだ。逆に家族を説得しようとする始末で、手に負えない状況になっていることが多い。多額の寄付をさせられたり、高額な壺や教本、または書画などを買わされたりして、破産することも少なくない。信者二世は、貧困に喘ぐことになる。実に可哀そうなのである。

 オーム真理教事件の際にも、大きな社会問題になったのであるが、信者たちは巧妙に洗脳されてしまっているという事実である。強力なマインドコントロールを受けているから、どんなに説得しようとしても、効果がまったくないのである。まさしく、旧統一教会を初めとしたオカルト宗教は、強力なマインドコントロールを実施しているのである。心理学や脳科学に精通した科学者たちが助言しているのであろうが、実に巧妙な洗脳策なのである。一度マインドコントロールをされてしまうと、その制御から覚めることは、まずないのである。

 それでは、一度マインドコントロールをされると、絶対に覚醒することはないのかというと、そうではない。心から信頼をしている支援者から、適切できめ細やかなサポートを受ければ、洗脳から目覚めることが可能になる。しかし、その適切な支援方法を知っている人は少ないし、その技量を持ち合わせている人は極めて少ない。ましてや、その方法を知っていたとしても、長くて苦しいマインドコントロールからの脱却を支援するのは、並大抵の苦労ではない。自分自身も心身ともに疲弊するし、自分の生活を犠牲にする覚悟も必要だ。

 オカルト宗教にはまった人を助け出す方法を論じる前に、何故オカルト宗教にはまってしまうのかを明らかにしたい。オカルト宗教だけでなく、殆どの宗教において信者にする為に、今のままだと不幸から抜けきれないし、これからも不幸が続くと脅す。人々の持っている不安感を煽るのである。普通の感覚や感性を持っている人ならば、そんな言葉に騙されない。ところが、愛着障害を抱えていてHSP(ハイリィセンシティブパーソン)の人は、不安感や恐怖感を持っているので、簡単に引っかかってしまう。HSPは神経学的過敏と心理社会的過敏を持っているので、強烈な生きづらさを抱えているし、愛情に飢えている。

 そんな愛着障害とHSPを抱えているが故に、オカルト宗教に簡単に騙されて、マインドコントロールされてしまうのである。こうなってしまうと、どれ程「あなたは騙されているし洗脳されている」と説いても、聞く耳を持てないし反発するのである。歪んだメンタルモデルが一旦作られてしまうと、どんな言葉も受け入れない。宗教関係者の声にしか耳を傾けないのである。このような状況になってしまった人には、ナラティブアプローチかオープンダイアローグしか効果がない。出来れば、ナラティブアプローチの手法を用いたオープンダイアローグが必要である。

 ナラティブアプローチは、対象者をけっして否定しない。まずは、共感をするし傾聴するだけである。どんなに間違った価値観や哲学を持っていたとしても、それを批判したり否定したりしないのである。何度も何度も同じ話を聞いて、否定せず共感するのである。そうすると、セラピストを信頼するし安心するのである。そして、本人にいろんな質問をして行くうちに、自らの間違いに気付き始めるのである。オープンダイアローグ療法にて、家族と一緒に複数のセラピストと共にナラティブアプローチを活用した質問をして行き、時折適切なリフレクティングを活用していくと、より効果が高くなる。そうすれば、マインドコントロールから抜け出せるに違いない。

依存させる子育ては駄目なのか

 子どもを育てる際にどの親も願うのは、自立した子どもに育ってほしいということだろう。それは、経済的に自立できる大人になるということであるが、それ以上に願うのは、親も含めて誰にも依存しない生き方をしてほしいという意味である。誰にも依存せず、しっかりと自分の足で大地に立ち、主体性を持って自主独立の道を歩むことを、親は心から願っている。そのために、親たちは我が子が甘えようとしても甘えさせず、依存をさせないようにと自分でやりなさいと突き放すことが多い。依存性を持たないようにという親心である。

 確かに、子どもに依存性を持たせないようにすることは必要である。小さい頃から依存させないような子育てをしたいと思うのは、親にしてみたら当然であろう。しかし、あまりにも小さい頃から、自立させようとして我が子に厳しく接するのは、逆効果になってしまうことを知らない親が多い。特に、三歳になる頃までは、依存させて構わないのである。三子の魂百までもという諺があるが、三歳になるまでが子育てでは大切なのは言うまでもない。三歳まではどんなに甘えさせても、過保護であっても良いのである。

 逆に、三歳の頃までに過保護にしなくて、甘えさせることなく、依存させずに育てると、自立できなくなってしまうのである。そんな馬鹿なことがあるかと思うかもしれないが、幼子とはそういうものなのである。乳幼児期の子どもには、まずはたっぷりと母性愛を注ぐことが肝心なのである。無条件の愛である母性愛を注ぎ続けて、『あるがままにまるごと愛する』ことが必要だ。あまりにも小さい頃(3歳未満)に、時に親から厳しくされて、ある時は突き放されて、自分は嫌われているんじゃないかと不安感を持つと、自立できなくなる。

 子どもは、『親にどんなに甘えてもいいんだ、自分はどんなことがあっても守られているんだ、いかなることがあっても自分は見離されることがないんだ』という安心感を持つことが必要なのである。その為には、いかなる時もどんなことが起きようとも、親は我が子を見捨てることはないのだと、常に言い続けることが必要だし、安心させる行動が求められるのだ。だからこそ、乳幼児期まではどんなに過保護でもいいし、甘えさせていいのである。中途半端な過保護や依存は逆効果になる。一貫して、依存させていいのだ。

 子どもを十分に甘えさせ、依存させ続けて3歳に到達すると、子どもは不安感や恐怖感がなくなる。子どもに絶対的な自己肯定感が確立されるのである。そうすると、ひとりでに自立心が芽生える。このように絶対的な自己肯定感が確立されれば、どんなに厳しく辛い境遇も受け入れ乗り越えられるし、困難を極めるチャレンジにも挑める。あるがままにまるごと愛され続けてから、条件付きの愛である父性愛(しつけ)をされるなら、自立できる。自我を乗り越えて自己を統合できる。真の自立が実現するだけでなく、自己を確立できるのだ。

 三歳頃までに、あるがままにまるごと愛され続けると、オキシトシン・ホルモンが十分に分泌される。オキシトシン・ホルモンは、幸福ホルモンとか愛情ホルモン、または安心ホルモンとも呼ばれる、生きる上で大切なホルモンである。母性愛が注がれず、このホルモンが不足すると、いつも不安で恐怖感を持ち続けるし、常に愛情に飢えているので、強烈な生きづらさを抱えることになる。HSP(ハイリーセンシティブパーソン)と呼ばれる、神経学的過敏と心理社会学的過敏になってしまう。そして、深刻な愛着障害を抱えることになる。

 愛着障害を抱えると、精神的な自立が出来ないばかりか、不安や恐怖感がいつも心を支配する。睡眠障害を抱えることも多いし、メンタル疾患にもなりやすい。深刻な摂食障害を起こしたり、パニック障害で苦しんだり、PTSDで長い期間に渡り悩んだりする。それも、三歳頃までに自立させたいと、甘えさせずに依存させずに、過介入や過干渉を繰り返したせいである。幼児期にたっぷりと依存させることは必要なのである。小さい頃には我が子を過保護と思われるほど愛し続けることが必要だ。そうすれば、成長すると共にしっかりと自立できるし、自己組織化もするし、幸福な人生を送れるのである。

15歳少女は何故刺傷事件を起こしたのか

 東京渋谷で15歳少女が見知らぬ親子を刃物で刺したという事件には、驚いた方も多かったと思われる。逮捕者が15歳というまだ幼い中学生であり、しかも少女だったという点で、今までにない衝撃を世間に与えたのではないだろうか。ましてや、彼女が本当は自分のお母さんと弟を殺したかったものの、その勇気がなくて、トレーニングとして他人を刺してしまったという供述をしているのは驚きである。どこの中学校かというのは、本人が特定されてしまう危険から伏せられているが、不登校だったとも伝えられている。

 このような少年事件が起きると、マスコミは内情を知りたがるし、その本当の動機を暴きたくなる。不思議なもので、マスコミの記者とは言え、自分とその子どもとは違った人物だと思いたいという気持ちなのか、普通の人とはいかに違った特別な子どもだったと決めつける傾向にある。だから、インタビューしていてもいかに変わった人物だったかということを印象付けたい質問をしたがる。答える側でも、同じように普通の子どもとは違っていたとのレッテルを張りたがるのである。それ故に、実像とはまったく違う人格の人間に創り上げられるのだ。

 マスコミだけが悪い訳ではないが、凶悪事件を起こす少年少女は特別な存在だったとすることで、政府関係者も、そして学校関係者も自分たちに責任はなかったのだと思いたがるのかも知れない。勿論、それは不登校やひきこもりの子どもたちにも、同じような分析をしたがる傾向にある。しかし、同じ人間であるし、その本質はそんなに変わらないのである。いろんな凶悪事件の犯人をプロファイリングすると、一般人とそんなに違っていなくて、ただ育てられ方や育児環境が少し違っていただけだということである。

 つまり、凶悪事件を起こすような犯人と普通の人間とは、共通する部分は多くあるが、少しだけ違っているだけなのだということを認識すべきであろう。だからこそ、育てられ方や親の関わり方が大切であり、ほんのちょっとした愛情の掛け違いによって、子どもの人生は大きく変わってしまうのである。おそらく、今回の渋谷親子刺傷事件を起こした15歳の女の子も、ごく普通のおとなしい女子生徒であり、こんなだいそれた大事件を起こすと誰が想像したであろう。家庭教育や学校教育が根本的に間違っているから、今回の事件は起きたのだ。

 まだまだ15歳少女のプロフィールは明らかになっていないが、警察関係者がマスコミに少しずつ供述内容を伝え始めているので、その証言に基づいて考察してみよう。まずは、少女が母親と弟を殺したかったと言っている点から考えると、家族を憎んでいたということが解る。また、刺してしまった人が母親に似ていたという供述からも、余程の恨みが母親に対してあったのだろう。弟も殺したかったというのは、母親は弟だけを可愛がったのかもしれないし、弟と仲が悪かったのかもしれない。家族関係が最悪だったと思われる。

 また、凶悪犯罪を起こせば死刑になるだろうと言っているらしく、死刑にしてほしかったのでこの事件を起こしたとも供述しているとのこと。これらの供述から言えるのは、親との愛着に相当な問題があったというのは間違いない。親との愛着がしっかりと形成されていれば、親が安全基地となって子どもは安心して親に頼れる。いかなる時と場合でも、親が守ってくれるという信頼と安心があれば、けっして不登校にはならない。何故、殺したいくらいに親を憎んでいたかというと、親がまるごとあるがままに愛してくれなかったからだ。

 愛と憎しみというのは、裏表の関係にある。愛してほしいのに、愛されないと、その愛は憎しみに変化する。愛されたいのに愛されていないという思いが強ければ強いほど、憎しみは強大になる。叶えられない愛をずっと求め続けていたのであろう。その思いを親が気付いてくれなかったのではなかろうか。もしかすると、親は15歳の娘に、たくさん愛情を注いでいたのかもしれない。しかし、その愛は母性愛のような無条件の愛ではなく、過干渉や過介入の父性愛のようなものだったかもしれない。その愛の掛け違いによって、深刻な愛着障害を起こしてしまったのであろう。やったことは許せないが、育った環境が実に気の毒だったと思われる。

※15歳の少女がしたことは許せませんし、その罪を粛々と償わなければなりませんが、この女子生徒にすべての責任がある訳ではないと思われます。しかし、その親にすべての責任がある訳でもないのです。彼女の親を責めないでほしいのです。何故かというと、彼女の親も、その親から過干渉と過介入の育児をされて育ったから、同じように育ててしまったからです。そして、その親も同じように育てられたと推測されます。愛着障害は、世代間連鎖するのです。だからこそ、どこかの世代でその間違いに気付いて、愛着障害の連鎖を断ち切ってほしいのです。

LGBTが増えた原因

 LGBTの正しい認識がされてきて、偏見がなくなりつつあり、社会に適応しやすくなってきたのは喜ばしいことである。とは言いながら、LGBTが増えることで社会の生産性が低下してしまうと、本音では受け入れることが出来ない人たちが存在する。特に、政権与党の中でも特に保守的なグループでは、LGBTを社会が受け入れてしまうと、社会秩序が壊れてしまうと本気で思っているようだ。だから、時々本音での発言を思わずしてしまうのかもしれない。LGBTは生産性がないなどと言ってしまうのであろう。

 LGBTの方々の生きづらさや苦しみを思うと、そんな人権を否定するような発言をするべきではない。苦しんでいる人たちの気持ちに共感できないというのは、政治家として失格であろう。社会的弱者や障がい者が生きやすい社会にするのが政治家の務めである筈だ。このような保守的な政治家は、男女の性差に関するジェンダーにも、こだわるケースが多い。自分たちの主張に迎合する科学者を招いて研修会を開催して、LGBTの原因を追究して、イレギュラーとしての存在だと主張したがる。批判的な分析は避けてほしいものだ。

 けっしてLGBTを否定したり批判したりするつもりはないが、LGBTが起きる原因についての考察をすることは必要だと思う。原因を科学的に分析した論文を発表すると、盲目的にバッシングする人たちがいる。確かに、LGBTをあまりにも病的なもの、社会の歪みだとして扱うのは良くないと思う。あくまでも科学的に原因を洞察することは、彼らが自分のことを正しく理解する為にも有効であろう。ただし、彼らが不幸だという前提とした科学的分析は避けねばならない。彼らが抱く生きづらさを少しでも和らげる手助けにしたい。

 LGBTになってしまう原因は、遺伝子の異常によるものだというのが定説である。確かに、DNAが何らかの影響を与えてしまい、LGBTになってしまうことは考えられる。だとしても、すべての原因が遺伝子異常だというのは言い過ぎのような気がする。ただひとつ言えるのは、LGBTの方々は強烈な生きづらさを抱えて生きてきたということだ。勿論、社会が理解してくれないし受け入れてくれないから当然であるが、それだけが生きづらさの原因ではなさそうだ。小さい頃から自分の人生を生きてないという実感があったと思われる。

 そして、LGBTの方たちの多くは自己肯定感が低いという特徴を有していると考えられる。さらに、何をするにしても不安や恐怖感を覚えることが多くて、神経学的過敏の症状を持っているような気がする。特定の音や匂いなどに拒否反応を起こしやすい。さらには、心理社会的過敏も加わり、メンタルを病んでしまい不登校やひきこもりにもなりやすい。そうなってしまうのは、根底に愛着障害を抱えているからではないかとみられる。虐待やネグレクトを受けてそうなっただけでなく、過介入や過干渉を受けて愛着障害になった例もあろう。

 LGBTの方たちのすべてに、愛着障害が根底にあるとは言えないが、乳幼児期の子育てに問題があったのではないかと推測している医療の専門家が多い。LGBTの方たちとその親との関係性が、あまり良くないケースが多いような気がする。親が我が子をあるがままに、まるごと愛するような態度で接して育てていれば、子どもの自己肯定感が育つ筈である。自己肯定感があまり育っていないというのは、やはり愛着に問題があると考えられる。日本の子育てにおいて、良好な愛着が形成されていない為、LGBTが増えている気がする。

 日本の家庭教育において、愛着障害を起こしてしまう子育てがこれからも続くとすれば、LGBTが益々増えてくるに違いない。ましてや、愛着障害を強化してしまう日本の学校教育であるから、LGBTは増え続けるであろうし、不登校やひきこもりも益々増え続けることだろう。日本の家庭教育にしても学校教育にしても、自己否定感を高めてしまう教育をしている。その誤った教育システムが愛着障害を生み出し強化させている。そのことによりLGBTを増やしているのであるから、日本の教育を正しいあり方に正さないといけない。

8050問題は解決できるのか

 8050問題は、その該当する家庭・家族・親族においても深刻な課題ではあるが、社会的にみても大変な問題となっている。いずれ親が病気なったり介護されたりするようになれば、ひきこもりの我が子を支援することや扶養することが出来なくなる。そうなると、ひきこもりに陥っている人を公的な支援で面倒をみるしか他に方法がなくなる。生活保護法や自立支援法による援助が必要になり、貴重な税金が使われることになる。憲法で生存権が保障されているのだから、社会で面倒をみるのは当然かもしないが、割り切れない思いがする。

 8050問題が深刻になると言われ始めてから、既に数年が経過している。抜本的な解決策は未だに見出せていないし、既に9060問題になっているとも言われている。政府内や国会でも盛んに議論され続けているし、都道府県レベルにおいても、そして市町村においても解決策を探し出そうと必死なのだが、ひきこもりは益々増加していて、手の打ちようがないという状況にある。民間の「引き出し業者」に依頼する保護者もいるが、効果が上がっていないようである。ひきこもりは、これからも増え続けることであろう。

 ひきこもりが何故増え続けるのかというと、その根本原因を正確に把握しいないからである。何となく子育てに問題があったのではないかと推測している人もいるが、その問題が何かというと正確に解っていないことが多い。親が甘やかし過ぎたからとか、過保護だったからと指摘する人もいるが、それは見当違いだと言える。本当の原因は、そのまったく逆である。過保護は問題ないし、甘やかせることは一向に構わない。甘やかしが足りなかったのであり、過保護にしてもらえなかったことでひきこもりになったのである。

 ひきこもりの真の原因は、『愛着障害』にある。愛着障害というと、虐待やネグレクト、または親の病気などによって起きると思われているが、実はそればかりではない。基本的には愛着障害は安全基地が存在しないことによって起きる。ごく普通に愛情不足なんてありえないくらいに子どもをたっぷりと愛して育てたのにひきこもりになったのだから、愛着障害なんてありえないと思う人が多いかもしれない。しかし、その愛情はまやかしであり、歪な愛情である。不純な愛情と言っても過言ではない。だから、子どもはひきこもりなのだ。

 どういう意味かというと、愛には無条件の愛と条件付きの愛があり、たっぷりと注いだつもりの愛というのは、実は条件付きの愛なのである。人間が正常に成長して自立する為には、まずは無条件の愛である「母性愛」をこれでもかという位に注ぎ続けなければならない。つまり、まるごとありのままに我が子を愛することである。そして、自分は親から愛されているという実感と、どんなことをしても親からは見捨てられないという安心感を醸成させなければならないのだ。子どもに安全基地が形作られてから、躾である父性愛を注ぐべきだ。

 ひきこもりの家庭においては、安全基地という存在がない。当然、子どもの心は不安感や恐怖感でいっぱいである。HSPが強く出ている。神経学的過敏だけでなく、心理社会学的過敏がある。だから、社会に出て行けないのである。自己肯定感も育っていない。小さい頃から、ああしろこうしろ、こうしては駄目だ、何故そんなことをするんだ、お前は何をしても駄目だな、というように否定され、支配され、コントロールされて育ってきた。これでは、自己肯定感なんて育つ訳がないし、自立なんて到底出来っこない。

 学校教育でも同じことをされ続けてきたし、いじめや虐待、不適切指導をされてきた。やっと就職した職場でも、パワハラ、モラハラ、セクハラ、いじめをされてきた。どこにも安全基地がなかったのだ。これでは、ひきこもりという選択肢以外は見いだせない。どうすれば、8050問題を解決できるかというと、愛着障害をまずは癒すことである。その為には、適切な愛着アプローチが必要である。80代の親が変われば良いが難しいので、誰かに臨時の安全基地になってもらい、適切なカウンセリングやセラピーを受けるしかない。または、オープンダイアローグ療法も効果的である。8050問題を解決するには、特効薬なんてない。地道な愛の溢れるサポートが必要なのである。