オカルト宗教にはまった人を救うには

 安倍晋三元総理の銃撃事件から、にわかに旧統一教会に関わる政治家への糾弾が激しくなった。いまさらと思うが、マスコ・SNS上でも、それらの政治家批判が広がっている。それにも増して、旧統一教会の悪質な資金集めが注目を浴びると共に、えげつない会員勧誘の実態が明らかになり、教会員になった当人だけでなく、その家族の悲惨な状況が報道され始めている。一度旧統一教会のようなオカルト宗教に入信してしまうと、あまりにも巧妙な脱退引き止め工作もあるが、当人が洗脳されているので脱会が困難となる。

 入信してしまった当人の家族は、何とか脱会させようと説得を試みるのであるが、家族の話に聞く耳を持たない。オーム真理教の時もそうだったが、一度信じてしまうと頑なに脱会への説得に反抗する。自分が正しくて、入信しない人たちが騙されていると思い込んでいるのだ。逆に家族を説得しようとする始末で、手に負えない状況になっていることが多い。多額の寄付をさせられたり、高額な壺や教本、または書画などを買わされたりして、破産することも少なくない。信者二世は、貧困に喘ぐことになる。実に可哀そうなのである。

 オーム真理教事件の際にも、大きな社会問題になったのであるが、信者たちは巧妙に洗脳されてしまっているという事実である。強力なマインドコントロールを受けているから、どんなに説得しようとしても、効果がまったくないのである。まさしく、旧統一教会を初めとしたオカルト宗教は、強力なマインドコントロールを実施しているのである。心理学や脳科学に精通した科学者たちが助言しているのであろうが、実に巧妙な洗脳策なのである。一度マインドコントロールをされてしまうと、その制御から覚めることは、まずないのである。

 それでは、一度マインドコントロールをされると、絶対に覚醒することはないのかというと、そうではない。心から信頼をしている支援者から、適切できめ細やかなサポートを受ければ、洗脳から目覚めることが可能になる。しかし、その適切な支援方法を知っている人は少ないし、その技量を持ち合わせている人は極めて少ない。ましてや、その方法を知っていたとしても、長くて苦しいマインドコントロールからの脱却を支援するのは、並大抵の苦労ではない。自分自身も心身ともに疲弊するし、自分の生活を犠牲にする覚悟も必要だ。

 オカルト宗教にはまった人を助け出す方法を論じる前に、何故オカルト宗教にはまってしまうのかを明らかにしたい。オカルト宗教だけでなく、殆どの宗教において信者にする為に、今のままだと不幸から抜けきれないし、これからも不幸が続くと脅す。人々の持っている不安感を煽るのである。普通の感覚や感性を持っている人ならば、そんな言葉に騙されない。ところが、愛着障害を抱えていてHSP(ハイリィセンシティブパーソン)の人は、不安感や恐怖感を持っているので、簡単に引っかかってしまう。HSPは神経学的過敏と心理社会的過敏を持っているので、強烈な生きづらさを抱えているし、愛情に飢えている。

 そんな愛着障害とHSPを抱えているが故に、オカルト宗教に簡単に騙されて、マインドコントロールされてしまうのである。こうなってしまうと、どれ程「あなたは騙されているし洗脳されている」と説いても、聞く耳を持てないし反発するのである。歪んだメンタルモデルが一旦作られてしまうと、どんな言葉も受け入れない。宗教関係者の声にしか耳を傾けないのである。このような状況になってしまった人には、ナラティブアプローチかオープンダイアローグしか効果がない。出来れば、ナラティブアプローチの手法を用いたオープンダイアローグが必要である。

 ナラティブアプローチは、対象者をけっして否定しない。まずは、共感をするし傾聴するだけである。どんなに間違った価値観や哲学を持っていたとしても、それを批判したり否定したりしないのである。何度も何度も同じ話を聞いて、否定せず共感するのである。そうすると、セラピストを信頼するし安心するのである。そして、本人にいろんな質問をして行くうちに、自らの間違いに気付き始めるのである。オープンダイアローグ療法にて、家族と一緒に複数のセラピストと共にナラティブアプローチを活用した質問をして行き、時折適切なリフレクティングを活用していくと、より効果が高くなる。そうすれば、マインドコントロールから抜け出せるに違いない。

依存させる子育ては駄目なのか

 子どもを育てる際にどの親も願うのは、自立した子どもに育ってほしいということだろう。それは、経済的に自立できる大人になるということであるが、それ以上に願うのは、親も含めて誰にも依存しない生き方をしてほしいという意味である。誰にも依存せず、しっかりと自分の足で大地に立ち、主体性を持って自主独立の道を歩むことを、親は心から願っている。そのために、親たちは我が子が甘えようとしても甘えさせず、依存をさせないようにと自分でやりなさいと突き放すことが多い。依存性を持たないようにという親心である。

 確かに、子どもに依存性を持たせないようにすることは必要である。小さい頃から依存させないような子育てをしたいと思うのは、親にしてみたら当然であろう。しかし、あまりにも小さい頃から、自立させようとして我が子に厳しく接するのは、逆効果になってしまうことを知らない親が多い。特に、三歳になる頃までは、依存させて構わないのである。三子の魂百までもという諺があるが、三歳になるまでが子育てでは大切なのは言うまでもない。三歳まではどんなに甘えさせても、過保護であっても良いのである。

 逆に、三歳の頃までに過保護にしなくて、甘えさせることなく、依存させずに育てると、自立できなくなってしまうのである。そんな馬鹿なことがあるかと思うかもしれないが、幼子とはそういうものなのである。乳幼児期の子どもには、まずはたっぷりと母性愛を注ぐことが肝心なのである。無条件の愛である母性愛を注ぎ続けて、『あるがままにまるごと愛する』ことが必要だ。あまりにも小さい頃(3歳未満)に、時に親から厳しくされて、ある時は突き放されて、自分は嫌われているんじゃないかと不安感を持つと、自立できなくなる。

 子どもは、『親にどんなに甘えてもいいんだ、自分はどんなことがあっても守られているんだ、いかなることがあっても自分は見離されることがないんだ』という安心感を持つことが必要なのである。その為には、いかなる時もどんなことが起きようとも、親は我が子を見捨てることはないのだと、常に言い続けることが必要だし、安心させる行動が求められるのだ。だからこそ、乳幼児期まではどんなに過保護でもいいし、甘えさせていいのである。中途半端な過保護や依存は逆効果になる。一貫して、依存させていいのだ。

 子どもを十分に甘えさせ、依存させ続けて3歳に到達すると、子どもは不安感や恐怖感がなくなる。子どもに絶対的な自己肯定感が確立されるのである。そうすると、ひとりでに自立心が芽生える。このように絶対的な自己肯定感が確立されれば、どんなに厳しく辛い境遇も受け入れ乗り越えられるし、困難を極めるチャレンジにも挑める。あるがままにまるごと愛され続けてから、条件付きの愛である父性愛(しつけ)をされるなら、自立できる。自我を乗り越えて自己を統合できる。真の自立が実現するだけでなく、自己を確立できるのだ。

 三歳頃までに、あるがままにまるごと愛され続けると、オキシトシン・ホルモンが十分に分泌される。オキシトシン・ホルモンは、幸福ホルモンとか愛情ホルモン、または安心ホルモンとも呼ばれる、生きる上で大切なホルモンである。母性愛が注がれず、このホルモンが不足すると、いつも不安で恐怖感を持ち続けるし、常に愛情に飢えているので、強烈な生きづらさを抱えることになる。HSP(ハイリーセンシティブパーソン)と呼ばれる、神経学的過敏と心理社会学的過敏になってしまう。そして、深刻な愛着障害を抱えることになる。

 愛着障害を抱えると、精神的な自立が出来ないばかりか、不安や恐怖感がいつも心を支配する。睡眠障害を抱えることも多いし、メンタル疾患にもなりやすい。深刻な摂食障害を起こしたり、パニック障害で苦しんだり、PTSDで長い期間に渡り悩んだりする。それも、三歳頃までに自立させたいと、甘えさせずに依存させずに、過介入や過干渉を繰り返したせいである。幼児期にたっぷりと依存させることは必要なのである。小さい頃には我が子を過保護と思われるほど愛し続けることが必要だ。そうすれば、成長すると共にしっかりと自立できるし、自己組織化もするし、幸福な人生を送れるのである。

15歳少女は何故刺傷事件を起こしたのか

 東京渋谷で15歳少女が見知らぬ親子を刃物で刺したという事件には、驚いた方も多かったと思われる。逮捕者が15歳というまだ幼い中学生であり、しかも少女だったという点で、今までにない衝撃を世間に与えたのではないだろうか。ましてや、彼女が本当は自分のお母さんと弟を殺したかったものの、その勇気がなくて、トレーニングとして他人を刺してしまったという供述をしているのは驚きである。どこの中学校かというのは、本人が特定されてしまう危険から伏せられているが、不登校だったとも伝えられている。

 このような少年事件が起きると、マスコミは内情を知りたがるし、その本当の動機を暴きたくなる。不思議なもので、マスコミの記者とは言え、自分とその子どもとは違った人物だと思いたいという気持ちなのか、普通の人とはいかに違った特別な子どもだったと決めつける傾向にある。だから、インタビューしていてもいかに変わった人物だったかということを印象付けたい質問をしたがる。答える側でも、同じように普通の子どもとは違っていたとのレッテルを張りたがるのである。それ故に、実像とはまったく違う人格の人間に創り上げられるのだ。

 マスコミだけが悪い訳ではないが、凶悪事件を起こす少年少女は特別な存在だったとすることで、政府関係者も、そして学校関係者も自分たちに責任はなかったのだと思いたがるのかも知れない。勿論、それは不登校やひきこもりの子どもたちにも、同じような分析をしたがる傾向にある。しかし、同じ人間であるし、その本質はそんなに変わらないのである。いろんな凶悪事件の犯人をプロファイリングすると、一般人とそんなに違っていなくて、ただ育てられ方や育児環境が少し違っていただけだということである。

 つまり、凶悪事件を起こすような犯人と普通の人間とは、共通する部分は多くあるが、少しだけ違っているだけなのだということを認識すべきであろう。だからこそ、育てられ方や親の関わり方が大切であり、ほんのちょっとした愛情の掛け違いによって、子どもの人生は大きく変わってしまうのである。おそらく、今回の渋谷親子刺傷事件を起こした15歳の女の子も、ごく普通のおとなしい女子生徒であり、こんなだいそれた大事件を起こすと誰が想像したであろう。家庭教育や学校教育が根本的に間違っているから、今回の事件は起きたのだ。

 まだまだ15歳少女のプロフィールは明らかになっていないが、警察関係者がマスコミに少しずつ供述内容を伝え始めているので、その証言に基づいて考察してみよう。まずは、少女が母親と弟を殺したかったと言っている点から考えると、家族を憎んでいたということが解る。また、刺してしまった人が母親に似ていたという供述からも、余程の恨みが母親に対してあったのだろう。弟も殺したかったというのは、母親は弟だけを可愛がったのかもしれないし、弟と仲が悪かったのかもしれない。家族関係が最悪だったと思われる。

 また、凶悪犯罪を起こせば死刑になるだろうと言っているらしく、死刑にしてほしかったのでこの事件を起こしたとも供述しているとのこと。これらの供述から言えるのは、親との愛着に相当な問題があったというのは間違いない。親との愛着がしっかりと形成されていれば、親が安全基地となって子どもは安心して親に頼れる。いかなる時と場合でも、親が守ってくれるという信頼と安心があれば、けっして不登校にはならない。何故、殺したいくらいに親を憎んでいたかというと、親がまるごとあるがままに愛してくれなかったからだ。

 愛と憎しみというのは、裏表の関係にある。愛してほしいのに、愛されないと、その愛は憎しみに変化する。愛されたいのに愛されていないという思いが強ければ強いほど、憎しみは強大になる。叶えられない愛をずっと求め続けていたのであろう。その思いを親が気付いてくれなかったのではなかろうか。もしかすると、親は15歳の娘に、たくさん愛情を注いでいたのかもしれない。しかし、その愛は母性愛のような無条件の愛ではなく、過干渉や過介入の父性愛のようなものだったかもしれない。その愛の掛け違いによって、深刻な愛着障害を起こしてしまったのであろう。やったことは許せないが、育った環境が実に気の毒だったと思われる。

※15歳の少女がしたことは許せませんし、その罪を粛々と償わなければなりませんが、この女子生徒にすべての責任がある訳ではないと思われます。しかし、その親にすべての責任がある訳でもないのです。彼女の親を責めないでほしいのです。何故かというと、彼女の親も、その親から過干渉と過介入の育児をされて育ったから、同じように育ててしまったからです。そして、その親も同じように育てられたと推測されます。愛着障害は、世代間連鎖するのです。だからこそ、どこかの世代でその間違いに気付いて、愛着障害の連鎖を断ち切ってほしいのです。

LGBTが増えた原因

 LGBTの正しい認識がされてきて、偏見がなくなりつつあり、社会に適応しやすくなってきたのは喜ばしいことである。とは言いながら、LGBTが増えることで社会の生産性が低下してしまうと、本音では受け入れることが出来ない人たちが存在する。特に、政権与党の中でも特に保守的なグループでは、LGBTを社会が受け入れてしまうと、社会秩序が壊れてしまうと本気で思っているようだ。だから、時々本音での発言を思わずしてしまうのかもしれない。LGBTは生産性がないなどと言ってしまうのであろう。

 LGBTの方々の生きづらさや苦しみを思うと、そんな人権を否定するような発言をするべきではない。苦しんでいる人たちの気持ちに共感できないというのは、政治家として失格であろう。社会的弱者や障がい者が生きやすい社会にするのが政治家の務めである筈だ。このような保守的な政治家は、男女の性差に関するジェンダーにも、こだわるケースが多い。自分たちの主張に迎合する科学者を招いて研修会を開催して、LGBTの原因を追究して、イレギュラーとしての存在だと主張したがる。批判的な分析は避けてほしいものだ。

 けっしてLGBTを否定したり批判したりするつもりはないが、LGBTが起きる原因についての考察をすることは必要だと思う。原因を科学的に分析した論文を発表すると、盲目的にバッシングする人たちがいる。確かに、LGBTをあまりにも病的なもの、社会の歪みだとして扱うのは良くないと思う。あくまでも科学的に原因を洞察することは、彼らが自分のことを正しく理解する為にも有効であろう。ただし、彼らが不幸だという前提とした科学的分析は避けねばならない。彼らが抱く生きづらさを少しでも和らげる手助けにしたい。

 LGBTになってしまう原因は、遺伝子の異常によるものだというのが定説である。確かに、DNAが何らかの影響を与えてしまい、LGBTになってしまうことは考えられる。だとしても、すべての原因が遺伝子異常だというのは言い過ぎのような気がする。ただひとつ言えるのは、LGBTの方々は強烈な生きづらさを抱えて生きてきたということだ。勿論、社会が理解してくれないし受け入れてくれないから当然であるが、それだけが生きづらさの原因ではなさそうだ。小さい頃から自分の人生を生きてないという実感があったと思われる。

 そして、LGBTの方たちの多くは自己肯定感が低いという特徴を有していると考えられる。さらに、何をするにしても不安や恐怖感を覚えることが多くて、神経学的過敏の症状を持っているような気がする。特定の音や匂いなどに拒否反応を起こしやすい。さらには、心理社会的過敏も加わり、メンタルを病んでしまい不登校やひきこもりにもなりやすい。そうなってしまうのは、根底に愛着障害を抱えているからではないかとみられる。虐待やネグレクトを受けてそうなっただけでなく、過介入や過干渉を受けて愛着障害になった例もあろう。

 LGBTの方たちのすべてに、愛着障害が根底にあるとは言えないが、乳幼児期の子育てに問題があったのではないかと推測している医療の専門家が多い。LGBTの方たちとその親との関係性が、あまり良くないケースが多いような気がする。親が我が子をあるがままに、まるごと愛するような態度で接して育てていれば、子どもの自己肯定感が育つ筈である。自己肯定感があまり育っていないというのは、やはり愛着に問題があると考えられる。日本の子育てにおいて、良好な愛着が形成されていない為、LGBTが増えている気がする。

 日本の家庭教育において、愛着障害を起こしてしまう子育てがこれからも続くとすれば、LGBTが益々増えてくるに違いない。ましてや、愛着障害を強化してしまう日本の学校教育であるから、LGBTは増え続けるであろうし、不登校やひきこもりも益々増え続けることだろう。日本の家庭教育にしても学校教育にしても、自己否定感を高めてしまう教育をしている。その誤った教育システムが愛着障害を生み出し強化させている。そのことによりLGBTを増やしているのであるから、日本の教育を正しいあり方に正さないといけない。

8050問題は解決できるのか

 8050問題は、その該当する家庭・家族・親族においても深刻な課題ではあるが、社会的にみても大変な問題となっている。いずれ親が病気なったり介護されたりするようになれば、ひきこもりの我が子を支援することや扶養することが出来なくなる。そうなると、ひきこもりに陥っている人を公的な支援で面倒をみるしか他に方法がなくなる。生活保護法や自立支援法による援助が必要になり、貴重な税金が使われることになる。憲法で生存権が保障されているのだから、社会で面倒をみるのは当然かもしないが、割り切れない思いがする。

 8050問題が深刻になると言われ始めてから、既に数年が経過している。抜本的な解決策は未だに見出せていないし、既に9060問題になっているとも言われている。政府内や国会でも盛んに議論され続けているし、都道府県レベルにおいても、そして市町村においても解決策を探し出そうと必死なのだが、ひきこもりは益々増加していて、手の打ちようがないという状況にある。民間の「引き出し業者」に依頼する保護者もいるが、効果が上がっていないようである。ひきこもりは、これからも増え続けることであろう。

 ひきこもりが何故増え続けるのかというと、その根本原因を正確に把握しいないからである。何となく子育てに問題があったのではないかと推測している人もいるが、その問題が何かというと正確に解っていないことが多い。親が甘やかし過ぎたからとか、過保護だったからと指摘する人もいるが、それは見当違いだと言える。本当の原因は、そのまったく逆である。過保護は問題ないし、甘やかせることは一向に構わない。甘やかしが足りなかったのであり、過保護にしてもらえなかったことでひきこもりになったのである。

 ひきこもりの真の原因は、『愛着障害』にある。愛着障害というと、虐待やネグレクト、または親の病気などによって起きると思われているが、実はそればかりではない。基本的には愛着障害は安全基地が存在しないことによって起きる。ごく普通に愛情不足なんてありえないくらいに子どもをたっぷりと愛して育てたのにひきこもりになったのだから、愛着障害なんてありえないと思う人が多いかもしれない。しかし、その愛情はまやかしであり、歪な愛情である。不純な愛情と言っても過言ではない。だから、子どもはひきこもりなのだ。

 どういう意味かというと、愛には無条件の愛と条件付きの愛があり、たっぷりと注いだつもりの愛というのは、実は条件付きの愛なのである。人間が正常に成長して自立する為には、まずは無条件の愛である「母性愛」をこれでもかという位に注ぎ続けなければならない。つまり、まるごとありのままに我が子を愛することである。そして、自分は親から愛されているという実感と、どんなことをしても親からは見捨てられないという安心感を醸成させなければならないのだ。子どもに安全基地が形作られてから、躾である父性愛を注ぐべきだ。

 ひきこもりの家庭においては、安全基地という存在がない。当然、子どもの心は不安感や恐怖感でいっぱいである。HSPが強く出ている。神経学的過敏だけでなく、心理社会学的過敏がある。だから、社会に出て行けないのである。自己肯定感も育っていない。小さい頃から、ああしろこうしろ、こうしては駄目だ、何故そんなことをするんだ、お前は何をしても駄目だな、というように否定され、支配され、コントロールされて育ってきた。これでは、自己肯定感なんて育つ訳がないし、自立なんて到底出来っこない。

 学校教育でも同じことをされ続けてきたし、いじめや虐待、不適切指導をされてきた。やっと就職した職場でも、パワハラ、モラハラ、セクハラ、いじめをされてきた。どこにも安全基地がなかったのだ。これでは、ひきこもりという選択肢以外は見いだせない。どうすれば、8050問題を解決できるかというと、愛着障害をまずは癒すことである。その為には、適切な愛着アプローチが必要である。80代の親が変われば良いが難しいので、誰かに臨時の安全基地になってもらい、適切なカウンセリングやセラピーを受けるしかない。または、オープンダイアローグ療法も効果的である。8050問題を解決するには、特効薬なんてない。地道な愛の溢れるサポートが必要なのである。

メンタルを病むのは自分のせいでない

 人間、誰しもメンタルを病んでしまったという経験を持つことだろう。勿論、一度もメンタルを病んだことがないという人も居ない訳ではないが、ごく少数に違いない。それだけ、現代日本のような職場環境や家庭環境では、精神的な病気に追い込まれても仕方ないということだろう。メンタルを病んでしまうのは、周りの環境のせいだから仕方ないと思う一方で、やはり自分の性格や気質がメンタルを病んでしまう要因だと思う人が殆どであろう。そして、そんな自分が嫌いになり、自分自身を責めてしまうことが多い。

 しかし、メンタルを病んでしまうのは、自分のせいではないのである。科学的に考察しても、医学的に検証したとしても、自分自身が原因でメンタルの疾患になることはない。メンタルを病んでしまう原因は、自分には100%ないと言い切れるのである。何故なら、メンタルを病んでしまうのは、育てられ方に起因しているからである。間違った家庭教育や学校教育に、その原因があるのだ。勿論、間違った価値観に支配されている現代社会にも原因がある。間違った教育と社会の価値観によって、大量のメンタル患者が産みだされているのだ。

 間違った教育というのは、どういうことかと言うと、まずは家庭教育から紐解いてみたい。三つ子の魂百までもという諺をご存知だろう。3歳頃までの子育てで、その後の人生が決まってしまうと言っても過言ではない。昔の人々は、3歳までの子育てによって、その子どもの人格が形成されてしまうということを経験的に学んでいたのである。子育ての基本は、まずは豊かな母性愛だけを注いで育て、それから父性愛を用いて躾けるのである。この順序を間違うととんでもないことになる。父性愛と母性愛の同時進行も良くないのである。

 生まれたての赤ん坊は純粋無垢の存在である。その赤ちゃんを育てる際に、過保護に育ててしまうと、依存心が生まれて自立を阻んでしまうと今でも勘違いしている親がいる。世間の人々も、過保護は良くないと未だに思っている人がいるのは残念である。過保護はまったく問題ない。ただし、過干渉や過介入は良くない。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすという諺があるが、あれはまったくの出鱈目である。ライオンの母親は、我が子を過保護にして育てる。殆どの動物の親も同様で、十分に自立できるまでは過保護である。

 本来、人間もそういう育て方をすべきなのである。おそらく、縄文時代は子どもを過保護で育てたに違いない。だからこそ、一万数千年もの間に渡り、争いのない平和な社会を築けたし、お互いが支え合う高福祉の社会を構築できたのだ。乳幼児期においては、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注いであげなければならない。我が子をあるがままにまるごと愛することだ。そして、子ども自身が自分は親から愛されていて守ってあげられているという実感を子どもに与え、子どもの不安を完全に払拭しなければならない。安全基地が存在するということが大切なのである。

 ところが、親があまりにも過介入と過干渉を繰り返して子育てをすると、子どもの自己組織化が阻害され、絶対的な自己肯定感が育たないばかりか、愛着障害を抱えてしまう。こうなると、やがてメンタルを病んでしまうばかりか、不登校やひきこもりをも起こしてしまうことにもなる。さらに、学校でも過介入と過干渉の教育を繰り返すから、主体性や自主性を失ってしまうのだ。これでは自己肯定感なんて育つ訳がない。家庭教育と学校教育の誤謬が、メンタルを病んでしまう人を大量に作り出しているという構図になる。

 そして、社会に出て職員教育や指導を受ける場合も、自己組織化を阻害するような過干渉が行われる。企業や組織において、間違った人材育成が蔓延っている。もっといけないのは、間違った価値観に支配されている社会になっていることである。自分さえ良ければいいとか、自分の利害や損得を基準にした行動規範になっている。本来は、全体最適(全体幸福)の価値観を基準して行動すべきなのに、個別最適を重視する価値観になっている。人を蹴落としてでも自分が出世したり昇給したりすることが正しいと思い込まされている。これでは、メンタルを病むのも仕方ない。つまり、メンタルを病んでしまうのは、自分のせいではないのである。

こんな誉め方や叱り方をしてはいけない

 子どもは誉めて育てると言われているが、ただ誉めればいいと言うものではない。また叱り方が正しくないと、子どもは健全に育たないばかりか、とんでもない障害を起こしてしまうこともある。正しい誉め方と叱り方があるし、絶対にしてはならない誉め方と叱り方があるのだ。間違った誉め方を続けてしまうと、パーソナリティ障害を起こしたりアスペルガー症候群の症状を呈したりすることもある。また、叱り方を間違うと子どもの自己組織化が阻害されてしまうこともある。職場において、部下を誉めたり叱ったりする時も同様である。

 先ずは誉め方について考えてみたい。誉める時には、何を誉めるのかということが大切である。とかく、親は子どもが何かをして、出した結果を誉めることが多い。テストの点数が高いとか成績表が良かったりした時に誉めることが多いことだろう。ビジネスの場面においても、良い結果を出した時に誉める上司が多いに違いない。確かに、良い成果を出した時に誉めるというのは良くあることだ。しかし、部下は結果主義や成果主義になってしまい、努力をするプロセスを大切にしなくなる。誉める相手が子どもでも同じ弊害が起きてしまう。

 子どもが頑張った経過を誉めるのは、良いことだ。しかし、出した良い成果だけを誉めることをし続けると、良い結果だけを見せて悪い結果なら隠すということをしかねない。頑張っている姿を見かけたら、それをタイムリーに誉めることをしたいものだ。また、結果を誉める時に、絶対にしてはならないことがある。本人の前で、兄弟姉妹のことを誉めてはならないということだ。自己肯定感が育っていず、劣等感を持っている子どもの前で兄弟姉妹のことだけを誉めてしまうと、益々自信を喪失しまうし、やる気を失わせてしまう。

 努力したというプロセスを誉めるのも大切だが、考え方やチャレンジする姿勢、諦めない精神を誉めてあげたい。そして何よりも大事なのは、子どもが自分のことよりも周りの人々の為に頑張ろうとした行動を誉めることだ。つまり、個別最適よりも全体最適を優先した時こそ誉めてあげたい。さらには、誰かに言われて行動するのでなく、自らが主体的に自発的に行動しようとした時にも誉めたい。主体性や自発性が働いた時にこそ誉めることで、自己組織化が進化するであろう。このように誉めれば、子どもは健全に育つに違いない。

 子どもを誉める為には、子どもの言動に注目しなければならないし、深く観察することが必要である。しかも、子どもの本当の気持ちを推し測らなければならない。部下を誉める時にも同じことが言える。部下がどんなふうに誉めたら嬉しいのかを、自分のことのように推察することが必要である。そして、子どもは親のことが大好きだから、親が喜ぶことをしたいのだ。だから、子どもの言動や考え方を誉めてあげて、そのことで親がとても嬉しいということを伝えることが大事である。そうすれば、子どもは伸びるし自立するに違いない。

 さて、叱る時はどうしたらいいだろうか。子どももそうだが、部下を叱る時は皆の前では避けたほうが良い。身の危険がある時や緊急性のある場合は仕方ないが、本人のプライドを傷つけるようなことは避けたい。一対一で対面にて叱りたいものだ。メールやLINEトークなど、または電話で叱るのは絶対に避けたい。LINEのグループトークで叱るなんて最悪だ。さらに、悪い結果や成果を叱るのは避けたい。努力をしないプロセスを叱るべきだ。間違っている考え方や哲学を叱るのも大事だ。私利私欲の行動や人を傷つける言動には、しっかりと叱責したい。

 叱るのは勇気のいることだ。叱るには多大なエネルギーが必要である。勿論、相手をよく観察しなければならないし、叱るということは自分が同じことはしていないし、これからもしないということを宣言しているようなものだ。特に、思想や哲学の元になる価値観が間違っているということを叱るには、自分が正しい価値観を持って揺るぎない目的を目指して人生を歩んでいるという自負が必要である。そうでなければ、相手の間違った価値観を叱ることは出来ない。叱ることも誉めることも、相手の成長を願っての行動であることが前提だ。感情的に叱ったり誉めたり、または自己満足や自分が利する為にしてはならないのだ。

我が子をありのままに愛したいのに

 子どもが3歳になる頃までに、ありのままにまるごと愛し続けてあげれば、大人になっても健全で幸福な人生を歩める。つまり無条件の愛である母性愛を注ぎ続けることで、自尊心が芽生えて、自分をまるごと好きになれるし、どんな苦難困難も乗り越えられる。ところが、母性愛を十分に注ぎ続ける前に、父性愛(条件付きの愛)で接してしまうと、自己肯定感が確立されない。または、母性愛と父性愛を同時に注いでしまうと、愛着障害になることもある。お母さんは、我が子をまるごとありのままに愛したいと思うのである。

 ところが、我が子をまるごとありのままに愛することが出来るお母さんは、極めて少ないのである。どうしてかというと、子どもというのは基本的に我が儘だし、母親の言うことを素直に聞くことが少ない。素直で従順な良い子なら愛せるけど、反抗的な態度を取るような子どもはどうしても愛せないのだ。良い子に育てたいから、強く叱ってしまうし、しつけを優先してしまうのである。ましてや、父親が父性愛を発揮してくれなくて、母親だけが育児をしなければならない状況なら、なおさら子どもに厳しく当たってしまうのだ。

 お母さんが我が子をまるごと愛せない理由は他にもある。お母さん自身が自分の母親からまるごとありのままに愛されていなのだ。つまり、お母さんに絶対的な自己肯定感が確立されていないケースである。お母さん自身が自分のことをまるごと愛せないと、自分の嫌な部分や恥ずかしい自分を好きになれない。誰でも自分の中には、好きな部分と嫌いな部分が同居している。好きな部分は愛せるし、嫌いな部分は自分にはないことにしたいのである。我が子の中に自分と同じ嫌な自己を発見すると、我が子をまるごと愛せなくなるのだ。

 我が子の中に、自分でも許せないマイナスの自己を見つけてしまうと、我が子をまるごと愛せない。マイナスの自己も含めて自分をまるごと好きになることが出来ないと、我が子をまるごと好きになることが出来ない。だから、ついつい条件付きの愛である父性愛的な対応をしてしまうのである。または、我が子を完璧な良い子に育てようと、必要以上の介入と干渉をしてしまい、まるで毒親のような仕打ちをしてしまうのである。支配と制御を強く繰り返し、まるで母親の操り人形のように育ててしまうのだ。

 このように、母親との良好な愛着が形成されることなく、強い干渉や介入をされ続けてしまうと、子どもの自組織化が阻害されてしまい、システムエラーを起こしてしまうのである。これが愛着障害であり、二次的症状として『自閉症スペクトラム障害』(ASD)を起こしてしまう。ASDは発達障害と世間では呼ばれているが、アスペルガー症候群などもこれに含まれる。母親はありのままにまるごと我が子を愛したいのに、様々な要因が複雑に噛み合わさって愛せなくて、愛着障害やASDを発症させてしまうのだ。

 ASDは先天的な遺伝子の異常による障害だと医学界では言われている。確かに、遺伝子による影響もある。生まれつき、育てにくい子どもがいるのは確かである。育てにくいからこそ、あるがままにまるごと愛せないという側面もあろう。だとしても、愛着障害になってしまうのは、育てられ方に問題があるのは間違いない。だから、愛着障害による二次的症状としてASDが起きているなら、ASDの症状だって和らげることが出来る筈だ。今までの医学常識ではASDは治らないとされているが、愛着障害を癒すことで、ASDも改善するに違いない。

 子どもの愛着障害を癒すには、お母さんがまずは変わらなければならない。というよりも、お母さん自身の傷ついた愛着を癒す必要がある。それには、自分がまるごとありのままに愛される経験が必要だし、どんな時にも自分を守ってくれる安全基地が必要なのである。自分のパートナーがそういう存在になってくれることが確実なのであるが、なかなか難しいかもしれない。男性の約半数以上がASDの傾向があるからだ。お母さんをまるごとありのままに愛してくれる安全基地には、安定した愛着を持っている人しかなれないのである。自分の傷ついた愛着を乗り越えた経験を持つ人を安全基地に出来たら可能かもしれない。

 

厳しくて優しい母でした

 イスキアの郷しらかわでは、不登校やひきこもりの状況に置かれてしまっている方々をサポートさせてもらっている。そういう方々にどのような母親でしたかと聞くと、おしなべて「母は厳しくて優しい人でした」と答える。厳しいと優しいというのは、相反する形容詞であり、本来はあり得ない評価である。ところが、実際に不登校やひきこもりを起こしている子ども(若者)に聞くと、厳しいけど優しいお母さんという形容をするのである。彼らは不安定な愛着を抱えている。厳しくて優しい母に育てられると愛着障害を起こすのである。

 虐待やネグレクトの子育てをされるとか、または乳幼児期に母親から離される経験をすると愛着障害を起こすということは広く知られている。しかし、ごく普通に両親から愛情を注がれて育てられたというのに、不安定な愛着や傷ついた愛着を抱えてしまう子どもがいる。まさか、愛着障害になるなんて両親は夢にも思っていないのに、現実に愛着障害になってしまい、不登校やひきこもりを起こしてしまう子どもは大勢いる。または、愛着障害から摂食障害、ゲーム依存、ネット依存、薬物依存で苦しむ子どもは想像以上に多い。

 母親は厳しくて優しい人ですと、自分の母親を形容する子どもが多いのは何故であろうか。それは、母親がダブルバインドのコミュニケーションをして子育てをしているからである。ダブルバインドのコミュニケーションとは、二重拘束のコミュニケーションと訳されている。精神医学者のベイトソンが唱えた理論で、母親がダブルバインドのコミュニケーションを繰り返して子育てすると、子どもは統合失調症を発症すると主張した。子どもに対して相反する意味の言葉をかけ続けると、子どもはどちらの言葉が本心なのか疑心暗鬼となってしまう。

 母親が我が子に対して、「あなたのことは大好きだよ」と言ったかと思うと、違う場面では「あなたなんか大嫌い!」と言うことは良くある。母親が精神的に安定していないと、子どもの言動に切れてしまい、つい激高して子どもに対してきつい言葉をかけてしまう。特に、家事と育児に非協力的な夫だと、自分ばかりどうしてこんなに苦労するのかと思ってしまい、つい子どもに辛く当たることもある。また、発達障害のような夫である場合は、コミュニケーションが成り立たないから、孤独感を持ってしまい、つい子どもに厳しく対応する。

 このように母親がダブルバインドのコミュニケーションを子どもに対して繰り返し行っていくと、両価型の愛着障害になりやすい。親の愛情が信じられず、親に心から甘えられないし、親から見捨てられるのではないかという不安や恐怖感を持ち続けてしまうのである。子どもは、いつか自分は見離されてしまうのではないかという不安が心を支配しているし、周りの人は自分を嫌うのではないか、それは自分が駄目だからなんだと、自信を喪失する。つまり、絶対的な自己肯定感が育たないのである。

 厳しくて優しいお母さんは、子どもを立派に育てたいと思って必要以上に頑張るのである。学校の成績を上げて、良い大学に合格させて、高収入で安定した就職をさせようと必死になる。何かと、子どもに対して過介入や過干渉を繰り返す。無意識のうちで母親は自分が理想とする人生を子どもに歩ませようと、支配し制御してしまう。本来、母親は子どもをあるがままにまるごと愛するだけで良いのである。つまり、無条件の愛である母性愛を注ぐのが母親の務めである。ところが条件付きの愛である父性愛(しつけ)を父親が放棄するから、母親が母性愛と父性愛の両方を注いでしまい、厳しくて優しい母親になるのである。

 子どもを育てる際に、大事なのは先ず母性愛だけをたっぷりと注いで、それから父性愛を注ぐという順序なのである。父性愛を先に注いだり、または父性愛と母性愛を同時に注いだりするのは、絶対に避けなければならない。そうすると子どもは健全に育たず、いつも不安や恐怖を抱えてしまい、周りの人を信頼できないし、社会不適応を起こしたりメンタルを病んでしまったりする。「私の母はいつもすごく優しいし、大きな愛で包んでくれました」と子どもが言ってくれるような母親でありたいものである。間違っても母は厳しいけど優しかったなんて、子どもに言わせてはならないのである。

教育のイノベーションはシステム思考で

 日本経済の再生は教育のイノベーションによって実現できると、前回のブログで提起させてもらった。教育のイノベーションは、近代教育の問題点である客観的合理性偏重の教育を見直すことだと説いた。今回のブログではさらに踏み込んで、どういう価値観に基づいて教育を見直すべきなのかについて述べたい。本来目指すべき教育とは、普遍的な正しさを持つ価値観を基にした教育だと言える。その正しい価値観とは、システム思考である。システム思考とは全体最適を目指す価値観であり、関係性を根底にした自己組織化理論である。

 人間は完全なるひとつのシステムである。人間の構成要素である34兆2000億個の細胞からなるシステムである。人体におけるそれぞれの細胞のネットワーク(関係性)によって、人間は本来の機能を発揮できている。そして、それらの細胞は自己組織化されていて、誰からも指示命令を受けずとも、人体の維持・発展・成長・進化の為に昼夜働いている。それぞれの細胞は、主体性、自主性・自発性・責任性・進化性を持っている。細胞どうしのネットワーク(関係性)が壊れてしまうと、人体というシステムは機能を失い、病気になる。

 社会もひとつのシステムであるし、会社や職場もシステムである。地域社会も行政も、そして国家も世界も、さらには地球も宇宙もシステムである。そして、それらの構成要素も関係性によって存在しているし自己組織化の機能が発揮されている。すべてのシステムは全体最適を目指している。ところが、これらのシステムにおいて全体最適の価値観でなくて個別最適の価値観によって構成要素が動いてしまうと、システムは劣化したり破綻したりする。家族が崩壊するのも、全体最適ではなくて個別最適に陥り家族の関係性が壊れるからだ。

 すべてのシステムが正常な機能や働きを発揮するには、それぞれの構成要素のネットワーク=関係性が良好でなければならない。家族間の絆が損なわれると崩壊してしまう。夫婦が離婚するのは嫌いになったからではなくて、関係性が悪化するからである。子どもが不登校になったりひきこもりになったりするのは、親との関係性=愛着が形成されないからである。企業が破綻するのも、景気が悪い訳でもなく経営戦略が悪いせいでもない。社員どうしの関係性が悪いからシステムが機能せず自己組織化能力が発揮できないからである。

 つまりすべての集合体=システムは、全体最適の価値観を持つこと、そして豊かな関係性がないと、自己組織化が阻害されシステムが破綻してしまうのである。だからこそ、人間はシステム思考に基づく全体最適と関係性重視の価値観が必要なのである。小さい頃から、父親もしくはそれに代わる誰かからシステム思考の考え方や行動規範を教えられなければならない。そして、学校においてもシステム思考を基本にした教育が必要なのである。明治維新以降の教育は、システム思考と相反する教育をしてきたのである。

 明治維新以降の教育は、個別最適という間違った価値観を植え付けてしまった。能力至上主義や行き過ぎた競争主義を押し付け、自分だけの経済的な豊かさや地位名誉を求める利己主義を蔓延させてしまった。これでは良好な関係性は築かれない。人々は競い合いいがみあって生活し、人の不幸が自分の幸せだと感じるような利己主義の人間を作り出してしまったのである。これは、全体最適と関係性重視の価値観に基づくシステム思考という大切な哲学を子どもたちに教えてこなかったせいである。思想・哲学を忘れた教育は最悪だ。

 不登校、ひきこもり、いじめ、虐待、貧困、格差社会、孤独と孤立、自殺、生産効率の低下、経済の低迷、すべてはシステム思考という大切な哲学を失った為に起きていると言っても過言ではない。欧米では、このシステム思考の大切さに気付き始めている。特に北欧ではシステム思考的な教育が取り入れている。だから、北欧諸国の教育効果が非常に高いのである。オランダでも小学生からシステム思考を教えている。システム論に基づく自己組織化を発揮できるような自立・自律を重んじる教育をしている。米国でもシステム思考の第一人者であるMIT上級講師のピーター・センゲ氏が、多くの若者から支持されている。確実に世界ではシステム思考が支持を受けているのに、日本の教育だけが取り残されている。