命短し恋せよ乙女

♪いのち短し恋せよ乙女♪というのは、ご存知のようにゴンドラの唄のフレーズである。この唄を聞くと、よく思い出すのは黒澤明監督の『生きる』という名作映画である。主人公演じる志村喬が人気のない雪降る夜の公園で、ブランコに座りながら唄うこのフレーズが強烈に記憶に残っている。この唄い出しのフレーズは知っているものの、その後の歌詞は知らない人が多い。『いのち短し恋せよ乙女、朱き唇褪せぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に、明日の月日のないものを』が一番の歌詞である。

実に意味深い歌詞でもある。いのち短しというのは、おそらく乙女でいられる時間が限られているという意味であろう。明日にはもう若さを失うかもしれない。紅き唇も明日には色褪せるかもしれないし、熱く燃え滾る熱情だって明日は冷え込んでしまうかもしれない。だから、乙女たちよ、若いうちに恋をしなさい。という意味だろうと想像している。現代の若い女性は、恋に対して臆病なように感じる。恋愛をするのが怖くて二の足を踏んでいるように感じる。恥ずかしい自己などすべてを相手にさらけ出す勇気が持てないし、自分が嫌われたり捨てられたりすることを必要以上に怖れているような気がするのである。

恋愛をすることは、人間の成長には欠かせない重要な体験である。何故なら、恋愛を通して気付き学ぶことがあまりにも多いからである。人間としての成長には、恋愛が欠かせないと確信している。その意味は、こういうことである。付き合いが深くなり恋愛感情が高まり、相手のことが好きで好きで堪らなくなると、相手の嫌な処や醜い部分までも許せるし受け容れることが出来るのである。それは身体的な部分も精神的な部分もという意味である。誰かが、恋愛なんて錯覚だよと言っていたが、まるで錯覚のように相手のマイナスの自己も含めてすべてが好きになり愛せるようになるのである。

人間は、相手のこういう部分は好きだけど、こんな部分は到底許せないという処が必ずある筈である。ところが、恋愛感情が極限まで高まると、相手のすべてを許せるようになるから不思議である。そして、相手の悪い部分を好きになり愛せるようになると、自分の同じ悪い部分もあることを認めて許せるようになるのである。ただし、恋愛感情が高ぶりを見せているうちは良いが、少しずつ愛が冷めてくると相手の嫌な処が目につくことがある。ましてや、結婚してしまうと恋愛感情が冷めるケースも多々あり、相手の嫌な処が許せなくなることもある。結婚してもラブラブの関係が続くようにしなくてはならないのである。

さて、ラフラブな恋愛を続けるためにどうしたらいいかというと、嫌われない努力が必要だと言える。つまり、自分の至らない点や恥ずかしい所を少しでも改善しなくてはならない。恋愛期間というのは、正式な婚約をした訳ではないので、いつでも別れてもいいのである。嫌いになったら、相手は離れて行ってしまう。だからこそ、自分を高め成長させなくてはならない。特に、人間としての魅力を豊かにする必要があるのだ。包容力があり、相手のすべてを許せる度量の大きい人間にならなくてはならない。

つまり、このように恋愛が始まっても、そしてその恋愛が続くためにも、自己成長が付いて回るのである。だからこそ、人間というものは恋愛をする必要があるのである。恋愛なんか一度もしたことがないような人を見てみれば、すぐに解るであろう。相手の心が読めなくて、共感出来ないばかりか、実に冷たい感じがすることが多い。人間としての温かさが感じられない人が少なくない。だからこそ、乙女が恋をすることを勧めているのである。それじゃ、乙女しか恋をする必要がないかというと、けっしてそうではない。老若男女、すべて恋をすることを推奨したい。中高年の男女も恋をして、自己が磨かれるべきである。

結婚して何年も経ってから夫に幻滅して、もう結婚なんてこりごりだと思っている妙齢の女性が結構いると思われる。そういう方は、結婚はせずに恋愛だけをすれば良い。結婚すると、夫という安定した地位に甘んじて、話も聞かず、家事は一切せず、自分の好きな事しかしないという男性が少なくない。だから、結婚と言う形を取らずに、恋人関係や同棲関係を続けたほうがよいかと思う。そうすれば、緊張感を持って魅力ある男性として長く振る舞ってくれる筈である。人間としての成長をする為に、そして人間としての魅力を磨き続ける為にも、すべてをさらけ出せる勇気を持って、恋をしたいものである。恋せよ、すべての紳士淑女諸君!

引きこもりに対する父親の役割

引きこもりの子どもをどう扱ってよいか解らず迷っている両親は、相当に多いに違いない。叱って無理やり外に連れ出すのか、医療機関や専門家に任せるのが良いのか、それとも優しく諭すのがいいのか、そっと見守るしか術がないのか、悩んでいることであろう。勿論、同じ引きこもりの状態にあっても、子どもの性格から成育環境も含めて、みんな違っている。それゆえ、画一的な対応というか、正解だと言えるような対応の仕方なんてないと思っている人も少なくないと思われる。

引きこもりの子どもは、親にしてみれば実に扱いにくいことだろう。何を考えているか解らないし、予想がつかない行動をしがちである。また、気分もその日その時によって変化するし、突然キレたり怒り出したりするものだから、腫れ物に触るような対応をせざるを得ない。とは言いながら、親としてみればどうにかして社会復帰してもらいたい思いが強いことであろう。何故なら、どうみたって自分達のほうが先にお墓に行くことになる。自分たちが居なくなったらと思うと、その後の子どもの生活が不安でならないのは当然である。

引きこもりの子どもは、自分の人生や将来をどのように考えているのであろうか。本人に確認した経験はないものの、おそらくは今のままで良いとは考えていないのは確かであろう。そして、将来の不安も親と同等かそれ以上の不安を持っているに違いない。何とか現状を打破したいと思いながら、どうあがいても身体が動かないのである。社会復帰してほしいという親の願いは、痛いほど認識しているし、親が多大な不安を持っていることも先刻承知している。ところが、親が不安なればなるほど、不思議と子どもの不安も増幅してしまい、お互いにその不安を強化しあってしまうのだと思われる。

引きこもりが起きてしまっているのは、親に原因や責任がある訳ではない。勿論、本人にも責任はない。生きづらい世の中にしてしまっている我々の社会全体に責任があるのだと思っている。学校、地域、企業、職場に安心な居場所がないのである。家庭にも居場所がないけれど、自分の部屋だけがかろうじて認められるべき居場所なのだろう。引きこもりになってしまったのは、今の社会における人々の価値観が劣悪だからである。客観的合理性をとことん追求していて、行き過ぎた競争原理により関係性が破綻し、コミュニティが崩壊してしまっているこの社会には、安心する居場所がないに違いない。

勿論、家庭における父親もまた、そんな価値観に支配されてしまっている。それ故に、家族の関係性が希薄化してしまっている。家族の関係性が悪いのは、父親に正しい哲学や価値観がないからであると考えられる。しかし、そうなってしまったのも父親が誰からも正しい哲学や価値観を教えられていないのだから当然であるし、責められない。明治維新以降の近代教育導入から、正しい思想哲学の教育を排除し、それが戦後にさらに強化されてしまったのだ。親からもそして学校でも価値観教育がなくなってしまったことにより、人々は生きづらさを抱えてしまったのだと確信している。

それじゃ、引きこもりの父親はどうしたらいいのかというと、今からでも遅くはないから正しい価値観を学ぶことを勧めたい。それもこの世の真理に基づく正しくて普遍的な価値観を学ぶべきと考える。この世の中で、「父親学」というものが今必要なのではないか思うのである。イスキアの郷しらかわでは、この「父親学」をレクチャーしたいと考えている。単なる観念論ではなく、最先端の複雑系科学に基づいた真理である、システム思考の哲学という価値観の学びもするし、ノーベル賞を受賞したイリヤ・プリゴジンの提唱した自己組織化の理論学習をサポートしたい。そうすれば、子どもが尊敬して止まない父親の後ろ姿を見せられることであろう。

この関係性が劣悪化してしまった社会、つまり生きづらいこの世の中を変えない限り、引きこもりや不登校はなくならないかというと、けっしてそうではない。学校教育における価値観教育をしっかりするように、教育のイノベーションが必要だと思っている。しかし、この教育のイノベーションをするには、まだまだ世論が成熟していないこともあり、今すぐには難しい。家庭教育において価値観教育を始めるのは、父親が目覚めれば可能である。引きこもりの子どもは、父親に価値観教育に目覚めなさいと教えてくれているのかもしれない。父親が正しい価値観を確立して、引きこもりの子どもに対する価値観教育が出来れば、社会復帰が可能となるに違いない。社会が間違っていても、自分が正しいと確信する価値観を持っていれば、自信がついて社会に踏み出す不安がなくなるからである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「父親学」の講座を実施しています。ご依頼があれば、出張講座も承ります。父親が不在で一人親の場合は、母親学としてのレクチャーもします。

子どもの愛し方が解らない

子どもの愛し方が解らないという親が増えているという。勿論、子どもを愛していないのではないのだが、愛情の掛け方が解らないのである。そして、好きで好きで堪らないという感覚はなくて、嫌いではないという程度の感じだというのである。とても微妙な感覚なのであるが、子どもをどう扱っていいのかも解らないし、子どもに対してどのような態度をとっていいのかが判然としないらしい。どのような言葉をかけるのが好ましいのか、まったく解らないのだろう。親子の関係性は、残念ながら非常に希薄なものとなると思われる。

何故、子どもの愛し方が解らないかというと、あくまでも想像でしかないが、乳幼児期に自分自身が親から充分に愛されたという経験がないからではないだろうか。人間という生きものは、様々な経験から学ぶものである。見本となる人の模倣を通じて、自己成長を遂げていく生物である。とすれば、乳幼児期に愛される体験が不足してしまうと、我が子をも愛せないという事態に陥るのである。こういう親が、現代に意外と多いのである。だから、親子の関係性が希薄になり、養育上の諸問題が起きやすいと言われている。

それじゃ、何故自分が親から愛情を注がれなかったというと、実はその親もまた自分の親から愛されたという経験が欠如していることに原因がある。つまり、我が子を愛せないのは、先祖からのずっと続いている負の連鎖なのである。我が子を心から愛することが出来ないという症状が、先祖からずっと続いているという悲惨な事実が判明するに至り、これ以上ないという不幸に突き当たってしまうのである。勿論、愛したくなくて子どもを愛さないのではなくて、愛したくても愛する方法が解らないのであろう。

どんな子どもであっても、親が大好きである。表面的には憎しみを持つ場合もあろうが、それは愛があるからこその感情であり、嫌いな感情があったとしてもそれは本心ではない。子どもは親から心から愛されたいと思うのである。しかも、兄妹が他にいたとしても、自分が他の誰よりも愛されたいと思うのが子どもの心理でもある。ところが、親が子どもを愛する術を知らないと、その本心が子どもに伝わらないという不幸が起きてしまう。愛に飢えた子どもが育ってしまうのである。そうすると、親からの愛を過剰に求めてしまうので、不登校、引きこもり、DVなどの問題行動に発展しやすいのである。

この子どもの愛し方が解らないという不幸な歴史は、何時から始まったのかと言うと、少なくても江戸時代の親子の情愛はあったのだから、明治維新以降ではないかと見られる。あまり知られていないことだが、江戸時代の父親はイクメンであったのである。当時の職人たちは、朝の早い時刻から仕事をした。4時か5時には仕事を開始して、お昼過ぎくらいには仕事を終えて自宅に帰るという日課であった。残業なんて滅多にせずに家に真っすぐ帰り、幼い子どもと一緒に銭湯に行ったらしい。そして、帰宅したら家事育児を自ら進んでやったという。だから、子どもは父親が大好きであったし、父親も豊かな愛情を子ども注いだのだろう。

子どもというのは、何かを買ってもらったり何かをしてもらったりすることで、親の愛情を実感することはない。一緒に遊んでもらったり本を読んでもらったりの行動を共にして、その行動を親が心から楽しんで笑顔が溢れていると分かった時に、子どもは自分が愛されていると実感するものである。行動を一緒にする関わりあいや支え合いを通して、子どもと親が幸福感に包まれた時に、愛を実感するのだ。まずは、一緒の行動をしなくてはならないし、しかも子どもを支配したり制御したりせずに、ただ見守って寄り添うだけで良い。これが子どもを愛するということである。

江戸時代には豊かな愛情を注げた父親たちが、明治維新以降の近代化により、家族に関わる時間や機会がなくなった。したがって親の愛情をたっぷりと子どもに注げないばかりか、父である夫が妻を心から愛することも叶わなくなった。愛は連鎖して循環するものである。夫からの妻への愛が不足して、我が子への愛も注げなくなるのである。明治維新後の富国強兵策によって、働き方が変わってしまうことで家族との関わりあいが減少して、家族の関係性が希薄化してしまったのが、子どもの愛し方が解らなくなった元凶であろう。日本人は働き過ぎだろうと思う。家族や地域との関わりあいの時間が、たっぷりと持てる働き方を推進すべきである。子ども愛し方が解らないという親が、これ以上増えないためにも。

 

※イスキアの郷しらかわでは、父親学や母親学を学ぶ講座をしています。子どもへの愛情のかけ方、接し方、親子の情愛を深める方法などを学びます。原則として、講義料はいただきません。昼食代や宿泊料だけを頂戴するだけです。基本的にボランティアでやらせてもらいます。なお、出張講座もいたします。ご用命ください。

不登校の責任は親にはない

不登校と引きこもりの原因は何かというと、育てた親にあると思っている人が多い。何故かというと、学校、教師、学友に原因あるとすれば、他の子どもたちも皆不登校になるのにそうなっていないからである。とすれば、不登校になるのは特定の子どもであり、それは親の子育てに何か問題があったに違いないと類推するのであろう。ほとんどの教師と学校関係者はそう思っているし、スクールカウンセラーが親のカウンセリングをするのも、そう確信しているからだと思われる。そして、親たちも自分たちに不登校の責任があるのではないかと思い、自分を責めるのである。

学友によるいじめ、学業不振、部活における不振や挫折、教師による誤った指導、発達障害、メンタルの障害等が不登校になった直接原因だと思いがちである。そして、不登校になってしまった本人の心に問題があるし、そのように育ててしまった親に根本的な原因があるとみている学校関係者が多い。スクールカウンセラーだけでなく、民間のカウンセラーや専門の児童精神科医も、親に対するカウンセリングを重視して実施しているのも、同じ理由からであろう。他の子どもたちの親や社会一般も、不登校になった責任は親にあると思っているみたいである。

果たして、本当に不登校の責任の大半は親にあるのだろうか。この世において、一番難しいのが子育てである。子育ての教科書やマニュアルがあったとしても、個別の問題に関してはまったく役に立たない。ましてや、日々刻々と様々な問題・課題が子育ての最中に置き続ける。子どもだって画一的でないし、いろんな子どもがいる。兄弟であってもまったく違う性格にもなる。環境も違うし、社会的背景もその時代で違っている。核家族の社会であるから祖父母と同居していないから、子育ての経験者が傍に居ない。子育ての指導者もない状況で、手探りの子育てをせざるを得ないのである。

子育てをしている親たちにインタビューをすると、子育てに悩んでいる人が殆どである。子育ての悩みや問題に対して誰も適切な解決策を示してくれない。自分達で考えて対応するしかない。当然、失敗を繰り返しながら学んでいくしかないのである。それなのに、子育ての失敗は親にあるなどと軽々しく言うのは、実に残酷だと言わざるを得ない。無難に子育てできたのは、たまたま好運だったに過ぎないと思うべきだろう。だから、不登校になった責任を親に押し付けるべきではないのである。

家庭における子育てにおいては、兼業主婦であっても、子育ての大半を母親が担っている。ましてや専業主婦の家庭であれば、母親が子育ての役割をすべて果すケースが多いだろう。だからこそ、母親に対する責任を問う声が大きくなるという悲惨なことが起きてしまうのである。父親は仕事が忙しいからと家庭の役割を果していなくて、何か問題が起きると妻を責めるというケースが多くなる。それでは、父親が悪いのかと言うとそうではない。不登校の根本的な責任は、両親にはないと断言してもよい。

それでは不登校になってしまうのは何故かというと、教育の制度やシステムそのものに問題があるからだ。さらには、社会全般における人々の価値観の間違いが教育の諸問題を起こしていると言えよう。江戸時代まで延々と続いてきた、システム思考の哲学を基本とした教育制度を明治維新政府が完全否定をしてしまったのだ。欧米から仕入れた近代教育を導入したのである。この近代教育は、客観的合理性の教育であり、しかも要素還元主義の教育である。この教育は、全体最適を目指すことを忘れ、あくまでも個別最適を優先する教育であり、行き過ぎた競争主義を生んでしまった。自分さえ良ければよいという個人主義に走らせたのである。さらに、関係性をないがしろにして、お互いに支え合うという大切な価値観を人々から忘却させたのである。だから、コミュニティが崩壊したのである。

お互いが支え合うという関係性豊かな共同体をなくして、家庭、学校、地域、国家というコミュニティを崩壊させしまったのである。自分さえ安全で豊かであれば他はどうなっても良いという学校の劣悪な環境にいたたまれず、不登校という選択肢を選ぶしかなかったのが、心優しく思いやりのある児童生徒なのである。家庭でも近代教育の間違った価値観を強いてしまう親もまた、その両親、祖父母から個別最適、関係性を無視する教えを受けたのであるから、間違った価値観を持つに至ったのである。だから、学校でも家庭でも自分中心の価値観がはびこる環境に耐えられないのである。ひきこもりもこうして起きているのである。最後にもう一度言うが、不登校の原因は親にはないのである。

 

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よいお母さんをやめる日

不登校や引きこもり、またはDVなどの問題行動を起こすお子さんを持つお母さんは、極めて真面目で素晴らしいお母さんが多い。つまり、日本の典型的な『よいおかあさん』なのだ。こんなにもお子さん思いで、誰もが認める良いお母さんなのに、どうしてお子さんが不登校になるんだと不思議に思う関係者が多い。例外もあるが、おしなべて良いお母さんで、しかも教養が高くて見識も高い。お母さんの学歴が高いケースが多い。そして、子どもの教育に懸命であり、息抜きや手抜きが出来ないし、いい加減な処がないのである。

さらに、不登校や引きこもり、またはDVなどの問題行動を起こしていることに対しての捉え方、考え方がまた良いお母さんなのである。たいていのお母さんは、こういう状況になってしまったのは自分のせいだと思い、自分を責めるのである。誰かの責任にしたり、子どもが悪いなどとは露ほど思ったりせず、自分の責任だと自らを責めるのである。さらに、父親はというと、やはりこうなったのはお前の子育てが悪かったのだと妻を責めるケースが多いのである。言葉に出して言わなくても、不機嫌な態度や表情をして妻を暗に責めることが多い。こうして、やはり自分が悪いんだと母親は落ち込むことになる。

よいお母さんは、子どもが不登校や引きこもりになってしまった原因をあれこれと考える。自分が甘やかしすぎたせいであろうか、過保護し過ぎたのが悪かったのだろうか、そんなことを考えるケースが多いという。夫からも同じことを言われることが多いし、真面目なものだから、自分を責めるのである。しかし、甘やかし過ぎて不登校になることはけっしてないし、過保護が原因で引きこもりになるケースは殆どない。不登校になるのは、親子、夫婦、家族の関係性が希薄化、もしくは低劣化しているからである。

結論的に言えば、不登校、引きこもりになる原因は、お母さんにはないと言ってもよい。世間では、不登校はお母さんが甘やかし過ぎたせいどこうなったとか、過保護が原因だと思っている。お母さんも、それが原因だと思い込んでいて、悔やむ。しかし、過保護が原因で不登校になるケースは殆どない。過保護というと悪というイメージがあるが、幼少期には必要なことである。子どもというのは、無防備で危険な事も解らないし、ちょっと目を離すととんでもないことをやらかしてしまう。だから、母親は常に子どもを守らなければならない。沢山の愛情をかけ続けなければならない。

ただし、よく勘違いされるのは過保護と過干渉を同じものと捉えていることである。これは、まったく違う概念である。過干渉というのは、子どもの言動に対して何でもかんでも干渉したり、先回りしてすべて子どもの言動を先取りしたりすることである。根底には、無意識で子どもを自分の所有物と勘違いして、支配し制御を繰り返してしまう心が存在しているのかもしれない。そうなってしまう原因は、父親が子育てに非協力というか、子育てに必要で大事な父性愛を発揮できていないからであろう。したがって、母親が母性愛だけでなく父性愛まで発揮せざるを得なくなり、過干渉になっているのではないかだろうか。

過干渉にならないようにする為には、父親に本来の役割を果してもらうことである。そのうえで、母親は子どもが自分で判断し行動するのをそっと見守り続けるだけでよいのではないだろうか。さらに、母親があまりにもよいお母さんを演じるのを、少し控えてみてはどうかと思う。子どもと母親というのは、非常に強い関わりと絆が存在する。無意識で深く繋がっている。母親が不安になったり元気がなくなったりすると、子どもにもその気持ちが伝わり同じような状態になりやすい。母親が怒りや憎しみを持ち、それを我慢していると、不思議と子どもがそれをまったく同じように感じて、不機嫌になってしまうのである。だから、母親は平穏で安らかな気持になったほうが良いのである。

母親は、今まで良いお母さんとしてずっと頑張ってきたのだから、少し息抜きをしてもいい。子どもと夫とも一時的にでも完全に離れて、休暇を取ってもいいだろう。あまりにもよいお母さんを続けてきたものだから、心が一杯一杯になってしまい、かえって不安になったり恐怖感を持ったりしまったのではないかと思われる。その不安が子どもにも伝播したのかもしれない。たまには、よいお母さんを止めて、子どもの人生は子どもにすべてを任せてもいいんじゃないかと思う。よいお母さんを一切やめてもいいし、ちょっといい加減なお母さんでもいい。子どもが自分でしっかりしなくちゃと思うようなお母さんでもいいではないかと思う。思い切ってよいお母さんをやめてみたらどうだろうか。

 

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暴力による指導をなくせ!

元横綱日馬富士の傷害事件が世間を賑わせている。生意気な態度を改める為に指導の一環として、やむを得ずしてしまったと弁解しているようだが、それは完全な間違いである。また、その暴行事件の場に居て止めなかった他の横綱たちにも責任があるのは明らかである。そもそも、人を教育指導する際には、どんな理由があったとしても暴力はいけない。あるミュージャンが、指導している中学生に暴力を奮った事件もあったが、やはりどれだけ止むを得ない事情があったとしても、暴力で人を指導するのは間違いである。

中高生を暴言や暴力によって指導教育したという事件が後を絶たない。悲惨な指導死も起きている。これだけ騒がれていても、相変わらず中学校や高校の部活においては、体罰による指導が横行している。それも名門と呼ばれるような中高校で、体罰的な指導が行われているケースが少なくない。体罰というのは、完全なる暴力である。どんな事情があったとしても、言葉の暴力や身体的な暴力はしてはならない。理由を問わず、これは法律違反の行為なのである。人を指導する立場にある教師が法律違反行為を生徒たちの目の前で実行するのは、異常な行為であるということを先ず持って認識するべきである。

さらに言えるのは、暴力で指導された生徒たちは目立った成長はしないということである。暴力で支配されコントロールされた人間は、指示されたことは出来るが、自分で創意工夫したり自発的に動いたりすることが出来なくなるのである。だから、ここぞという時に力が発揮できない。人は、暴力によって身体は支配されても『心』は支配されることを拒む。従っているように見せて、暴力で指導する人間を嫌い尊敬せず、しかも内心では軽蔑している。だから、大切な試合でしかもいざという刹那にミスをしてしまうし、身体が無意識で動かなくなってしまうのである。

人間は本来、全き自由に生きるものである。誰からも支配されず制御されず、自らの意思で行動する。それも自発的に、自主的に主体性を持って生きるのだ。それこそ、これが人間の自己組織性という、人間に賦与された機能なのである。それを暴力が伴う指導によって、人間から自主性や主体性を失わせるという行為は、創造主である神を冒涜しているようなものと言えよう。人を指導したり教育したりする際に、恐怖によって従属させるのは百害あって一利なしなのである。人間の主体性や自発性を伸ばす指導をすべきであり、暴力による指導は逆効果だと言えよう。

それじゃ、暴言や暴力を使わないで人を指導教育するにはどうしたらいいかというと、カウンセリングマインドを発揮する方法が有効あろう。最近は、コーチングと呼んでいる専門家もいる。つまり、指導される側の気持ちをまず理解することである。それも、表層の意識ではなく、深層の意識を理解しなくてはならない。その為には、指導される側の心に寄り添い、その人間の気持ちになり切ることが必要である。さらには、深層無意識のレベルでつながることも必要であろう。つまり、集合無意識でお互いの意識が統合されることが大切である。端的に言えば、傾聴と共感による無意識の統合ということであろう。

しかも、大切なのはお互いの絶対的な信頼関係がなければならないということであるし、関係性があって初めて指導が成り立ち効果を上げられる。そのうえで、指導者が適切な質問をすることで指導される人が自分の間違いに気付いて、自ら変化し進化しようと思うのである。それは、単なる教育ではなくて、共育ちという関係になるのである。教育ではなくて、まさに共育と言うべきであろう。暴力や暴言によって身に付いた技術・能力なんて、薄っぺらですぐに剥がれ落ちてしまうものでしかない。暴力による指導は絶対にしてはならないのである。この世の中から、暴力と暴言による指導が一掃されることを強く望んでいる。

コーチングの効果がない理由

コーチングというと、もっとも効果が上がる指導教育法として定着しているが、実際に導入した企業では、思ったほどの効果がないという課題に遭遇している。コーチングという手法が開発されて提唱されたのは、そんなに古くない。米国で1992年から始まり、日本に紹介されたのは1997年頃だと言われている。当初、それまでのティーチング型の指導教育の効果が芳しくなかったことから、急速に普及した。そして、ある程度の教育効果が認められたことから、多くの企業において採用すると共に、コーチングのセミナーが各地で開催されるに至っている。

コーチングとは、受講者への傾聴と共感を基本にして、さらには適切な質問をすることで受講者の自らの気付きや学びを啓発する指導手法である。なんのことはない、カウンセリングの方法を指導教育に転用しただけである。このコーチングをする際に大事な事は、受講者をけっして否定しないという点である。寛容と受容を基本として、受講者の欠点やマイナス面を指摘して、それを否定することを避けるのを原則とする。こうして、これは効果があるに違いないと認知され、コーチングはもてはやされたのである。ところが、特定の社員や職員には効果がある程度あるものの、大半の者にはまったく効果が上がらないという現実に突き当ったのである。

何故コーチングが大半の者に対して効果が上がらないのかというと、コーチングをする側の問題と受講者側の問題の両方が存在する。まずコーチングを受ける側の問題としてあげられるのは、メンタルモデルが固定化してしまっているということである。別の言葉で言い換えると、指導される人に低劣なドミナントストーリーが存在していて、他の考え方を受け容れることが出来なくなっているのである。養老猛さんが主張した『バカの壁』である。この低劣なメンタルモデルが脳に固着してしまうと、正しい考え方を聞いてもすべて素通りさせてしまうから、指導教育の効果がまったくないのである。

コーチングする側にも問題がある。コーチングの指導技能のレベルが低いということもあるが、それ以上にコーチングする人の自己マスタリーが確立されていないという問題がある。効果を発揮するコーチングをする人は、真の自己確立、つまりはアイデンテティーの確立がされていないと、コーチングの受講者の心を開くことが出来ない。そうでないと相手を否定しまうからである。コーチングをしながら、相手を自分の思うままに支配し制御したがるのである。そうなると相手は、心を閉ざし自分の低劣なメンタルモデルに固執して、一切耳を貸さなくなるのである。

コーチングをする際に留意しなければならないのは、傾聴と共感である。さらに、まずは受講者の悪い点や至らない点をまるごと受容し寛容の態度で接することである。つまり、一切否定しないで、まずは相手のマイナスの自己に寄り添うのである。言い換えると、相手の低劣なドミナントストーリーに共感する必要があるのだ。一般的なコーチはこれが出来ないのである。さらに、コーチがする質問の仕方が稚拙なのである。あくまでも指導するのではなく、本人が自ら気付けるように適切な質問をするだけである。あくまでも、本人が自分の悪い点を発見して、自ら変化したいと思うような質問をするだけなのである。この技術が不足しているのだ。

このようにコーチングする人のレベルが何故低いのかというと、根本的に言えば自分自身もまた低劣なメンタルモデルしか持っていないからである。自分中心で、自己利益だけを求めがちで、損得での判断で行動し、自分の名誉や地位に固執し、相手を尊厳する気持ちがないのだ。そんな人間を誰が信頼し、自分を解放するのか、あり得ないことである。こんなコーチングをする人だけだから、効果が上がらないのであろう。コーチングをする人は、全体最適と関係性を重視するような高潔な価値観を持つ必要があると思われる。つまり、システム思考を身に付けなければ、コーチングの効果が上がらないと言えよう。

 

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スペシャリストからセネラリストへ

明治維新以降に近代教育を日本が取り入れてからというもの、各分野におけるスペシャリストを養成する機運が高まった。それは分業制や専門性を要求される産業やアカデミーにおいて、必然的に起きたことでもある。例えば、生産工場においては企画、デザイン、部品調達、旋盤、研磨、検査などのスペシャリストが養成された。効率とコスト削減、そして品質向上の為には、それぞれの専門家を養成することが、企業にとって一番好都合だったのであろう。

また、アカデミーの世界でも一部門に秀でた専門家が続々と輩出した。各研究部門において、専門の研究に専念することで、大きな学術的成果がもたらされた。医学界と医療分野はその傾向が顕著であった。最初はせいぜい内科・外科・精神科などの診療科目しかなかったのに、今は同じ外科でも、脳外科・上部消化管外科・心臓血管外科・乳腺外科・移植外科など実に多岐多彩に渡って、細分化されている。その中でもさらに肝臓専門・胃専門・膵臓専門などスペシャリストがいる。

それぞれ医療界のスペシャリストとして、優秀な頭脳と技能、そして経験を身に付けたドクターは、どのような患者さんの難しい診断・治療も可能になったかというと、実はそうではないことを医療界は認識することになった。医療のスペシャリストがそれぞれの分野において診断できない場合は違う分野の医療スペシャリストと連携して確定診断を行うことになる。しかし、残念なことに医療のスペシャリストどうしの連携だけでは、確定診断が難しい症例が極端に増加してしまったのである。故に、必然的に総合診療科が出来るとか、または統合医療という分野が発生して、診断と治療を行うようになったのである。言わば医療のゼネラリストである。

工場の生産現場や販売・営業部門においても、同じようなことが起き始めたのである。各工程や各部門において、スペシャリストが最善の生産工程を実施しているにも関わらず、不良品や返品が出てしまっているのだ。さらには、スペシャリストがそれぞれの専門性の発揮をしているにも関わらず、デザインの陳腐化やヒット商品が出ないという事態が起きているのである。これだけ優秀なスペシャリストを集めているのに、まったく成果が上がらないらしいのである。そこで生まれたのが、すべての部門に精通して管理できるゼネラリストと呼べるようなチームリーダーが必要になったのである。

どうしてスペシャリストだけでなくゼネラリストが社会全般に必要になったかというと、それは人間社会の仕組みや存在そのものが、『システム』だと気付いてきたからである。人間そのものもまた、システムである。60兆個もある細胞がそれぞれ自己組織性を持っていることが判明した。つまり、細胞ひとつひとつがあたかも意思を持っているかのように、人間全体の最適化を目指して活動しているのである。そして、細胞たちはネットワークを組んでいて、それぞれが協力しあいながら、しかも自己犠牲を顧みず全体に貢献しているのである。

これは、細胞だけでなく人体の各臓器や各組織が同じようにネットワークを持っていて、全体最適の為に協力し合っていることが、最先端の医学で判明したのである。つまり、人体は脳が各臓器や各細胞に指令を送っているのではなく、それぞれが主体性と自発性を持って活動していることが解明されたのである。完全なシステムである人体が、どこかの各細胞や各臓器が誤作動を起こせば、それが人間全体に及ぶということである。精神的に大きいストレスやプレッシャーがシステムにエラーを起こし、各臓器に及んで疾病などを起こすということが解ったのである。だから、人間全体を診る総合診療科や統合医療が必要になり、ゼネラリストが求められたと言えよう。

企業や工場、学校、家庭も『システム』である。その構成要素である各部門や人間が、ネットワーク(関係性)を豊かにして、全体最適を目指していればエラーである問題は起きない。スペシャリストだけでなくゼネラリストがシステム内に存在して、各部門や人間のネットワークを上手く調整して、全体最適に向かうようにマネジメントしていけば、システムは機能する。各部門や各人間も、主体性や自発性、そして責任性を持てる。そうすれば、システムは上手く回っていくから問題は起きないのである。これからの時代は、社会全般において、スペシャリストだけでなくゼネラリストが必要となってくると確信している。

 

※イスキアの郷しらかわでは、ゼネラリストのチームリーダー養成講座の研修を承っています。これからのチームリーダーは、チーム全体を俯瞰して、主体性・自発性・自主性・責任性を自ら発揮するチーム員を育てる技量・人間性が必要です。医療機関でも、このようなゼネラリストの管理者(看護師・医師・事務員・パラメディカル)が必須です。どのような研修なのか、是非問い合わせください。

新しい子どもたち2~教育のイノベーション~

不登校や引きこもりにある若者たちを「新しい子どもたち」と定義して、社会を変革するきっかけになるというブログを書き記した。字数の関係で、どのようにして社会を変革するのか具体的な道筋を示さなかったので、改めて述べてみたい。まず、社会を変革するにはいろんな方法が考えられる。政治・行政・市民活動等によって社会の改革がされてきた歴史がある。社会全体の価値観や生き方そのものを変えるには、やはり教育から変える必要があろう。教育界におけるイノベーションを起こさなければならないと考えている。

イノベーションというと、日本語では「技術革新」と一般的に訳されている。企業における新商品の開発、または革新的な品質・性能の向上に用いられている。しかし、本来この「イノベーション」という語句の意味は、単なる技術革新だけではない。イノベーションが初めて提唱されたのは今から80年前のことであり、オーストリアのシュンペーターという人物が発表した語句である。彼は、今までの企業経営や製品開発ではいずれ行き詰るから、イノベーションを継続的に実施しなければならないと提唱した。その手法として、『創造的破壊』と『統合』が必須であると説いたのである。

さて、教育界におけるイノベーションについて具体的に述べてみたい。現在の教育界に存在している価値観とは、客観的合理性の追求であり、能力至上主義である。明治維新以降の近代教育に欧米から導入して、日本の近代的発展に寄与した。ところが、この客観的合理性の教育が自分中心で利己主義の人間を育成したばかりでなく、主体性、自発性、自主性、責任性の欠落した人間を大量に生み出したのである。さらには、行き過ぎた競争主義の導入が、教育環境を悪化させ、教師と生徒児童、子どもどうし、教師と保護者などの関係性を希薄化もしくは劣悪化させてしまったのである。だから、教育界にいじめやパワハラ、モラハラ、アカハラが起きてしまったのである。

本来、お互いの人間関係が豊かで良好であり、お互いに支え合う学校というコミュニティが存在するなら、いじめなどの問題は起きないし、指導死などというとんでもない事故も存在しえない。生徒児童どうしがお互いに慈しみ合うような関係にあるなら、不登校や引きこもりなどの問題は起きない。それぞれの関係性が悪いから、学校の在り方そのものに問題があり、不登校という形で問題が顕在化しているのである。とすれば、教育界に蔓延る間違った価値観そのものを一度破壊して、新しい価値観を導入すべきであろう。その価値観とは、全体最適と関係性重視の哲学である。

オランダの小学校では、システム思考の学びをしているという。この世はシステムであるから、そのシステムの原則に則った生き方をすることを指導しているのである。そのシステム思考の原則が、全体最適と関係性重視の価値観である。MIT(マサーチューセッツ工科大学)の上級講師であるピーター・センゲ氏が『学習する組織』という著作で説き、全世界に広がりを見せている理論である。大企業の役員は、システム思考の価値観学習に本気で取り組んでいる。システム思考しか、企業内の問題を解決し、企業が生き残る方法はないと確信しているからである。

教育界に蔓延っている古い価値観である、客観的合理性重視主義、言い換えるとニュートン以来の要素還元主義では、問題は解決出来ないばかりか、益々問題が先鋭化するばかりであろう。不登校・いじめ・指導死などの問題は、益々増大化・先鋭化するばかりである。このような低劣化してしまった価値観を手放して、新しい価値観であるシステム思考を教育界に導入すべきと考えている。オランダばかりでなく、他の欧米諸国もこのシステム思考に注目していて、学校教育と社員教育に導入しようと計画している。

何故、このシステム思考が青少年の健全育成に有効かというと、宇宙の仕組み、地球の仕組み、自然界の仕組み、人体の仕組み、社会の仕組みなどすべての万物がシステム思考によって成り立っているからである。量子力学や宇宙物理学、または分子生物学、最先端の脳科学で明らかになっているように、すべてのものは実体として存在せず、関係性によって存在しているからである。しかも、それらの構成要素は、自己組織性を持っていて、全体の為に働いているのである。つまり全体最適と関係性重視のシステムとして機能しているのである。このシステム思考を教えた子どもたちは、生き生きとして自ら学習する。子どもたちは、本能によってシステム思考が正しいと認識し、全体最適と関係性重視の生き方を志向するのである。教育界の古い価値観をぶち壊し、システム思考という正しい価値観を導入するイノベーションを起こそうではないか。

 

※イスキアの郷しらかわでは、このシステム思考の学習をしています。ピーター・センゲ氏が説いたシステム思考、自己マスタリー、メンタルモデルなどの学びをしています。ピータ・センゲ氏が説いているのは、非常に難しく理解しにくい学説です。イスキアの郷しらかわでは、子どもでも理解しやすいようにストーリー性のある優しい言語で説明しています。是非、研修会としてもご利用ください。

新しい子どもたち~不登校児が社会を変える~

不登校の子どもたちは、学校生活に馴染めない子ども、または学校に不適応の子どもたちだという認識の人が多いに違いない。つまり、学校に行く子どもが正常であり、行けない子どもはイレギュラーだという考え方が支配的だということだ。本当にそうなのであろうか。不登校の子どもというのは学校における落ちこぼれだということを表だって言う人は少ない。しかし、教育関係者の殆どがそう思っているのではないかと推測できる。でも、これが間違っているとしたらどうだろうか。

不登校になるきっかけは、学校における子どもどうしのいじめ、教師による不適切な指導、部活などにおける人間関係悪化や不振、成績不振や学業の不適応等様々である。そして、不登校になるのは、心の優しい子どもたちが多い。つまり、どちらかというと繊細な気持の子どもであろう。心が強ければ学校に行けるのに、行けないというのは弱い心を持つからだと、教師の保護者も思ってしまうことが多い。そして、学校に無理しても行かなくてもいいと思い込んでしまう保護者が多い状況にある。

不登校や引きこもりの原因を子育ての失敗や本人気質・性格、またはメンタルの障害だと思い込んでしまっている人は多いであろう。精神医療に携わる医師やカウンセラーでさえも、そんなふうに認識している人は少なくない。だから、日本の社会では不登校・引きこもりが少なくならないし、増加しているのである。そんなとんでもない偏見に対して、実際に不登校や引きこもりを支援している方たちは、違和感を覚えている。どこがどのように違うのかということは明らかに出来ないものの、何となく子どもたちに原因があるのではなく、不登校・引きこもりの本当の原因は他にあるのではないかと感じている。

不登校を引き起こすのは、学校や社会の在り方が本来の理想と違っていて、間違った方向に進んでいるからではないかと見ている児童精神科医がいる。それも、今から20年以上も前から、社会に対して警告を発している。その代表的な精神科医は、崎尾英子先生である。また、児童精神科医で人格障害の権威として著名な岡田尊司先生である。崎尾先生は国立小児病院の医長をされていて、NHKラジオの不登校の保護者相談をされていた。ベイトソンとギリガンの研究では第一人者で「愛という勇気」という大作の翻訳もされている。残念ながら、鬼籍に入られてしまったと聞いている。岡田尊司先生は、あまりにも有名なので説明は不要であろう。

今の世の中は、非常に生きづらい。学校という環境も過ごしづらいし、職場に居場所がないと思っている人は少なくない。そして、地域や社会でも生きづらいし、家庭の中にも安心して生きられる場所がないのである。それは何故かというと、人間本来の生き方に反した社会であるからだと、崎尾先生や岡田先生は喝破されている。人間とは、本来はお互いに尊敬しあい、そして支え合って生きものである。過剰に競い合ったり、相手を蹴落としたりして、自分だけの利益や地位・名誉を求めるような社会であってはならない。ところが、学校、職場、地域社会は、身勝手で自己中心的な人間ばかりである。自分さえ良ければと思い、他人に対して思いやりや慈愛を注ぐことをしない世の中なのである。

不登校や引きこもりに陥っている子どもや若者は、そんな世の中に違和感を覚えているし、そんな環境に自分の身を置きたくないと思うのは当然だろう。不登校や引きこもりの人は、『新しい子どもたち』だと崎尾英子先生は考えていたと思われる。つまり、現代の生き方の誤謬に気付いて、人間本来の生き方を人々に考え直すきっかけを与えてくれているのではないかと考えたのである。不登校や引きこもりという現象は、特異なものではなく、起こるべくして起きたものであると考えていらしたと思われる。不登校という子どもたちが、我々大人に自分たちの間違いに気付けと警告を発してくれている主張されていた。

不登校や引きこもりを完全に解決するには、社会全体の価値観、または生きるうえで必要な思想・哲学を正しくするしかない。自己最適だけを目指し、関係性をないがしろにしてしまうような考え方と生き方は間違っている。社会の全体最適(全体幸福)を目指す生き方を誰もが志し、お互いの関係性を豊かにすることを常に志向する生き方を目指すべきである。地域、職場、学校、家庭も間違った価値観で進んでいるから、不登校や引きこもりという形で我々に間違いに気付いてほしいという悲痛な叫びをあげていると見るべきなのである。この『新しい子どもたち』に寄り添い、否定せずに耳を傾けて、望ましい社会に変えていく使命が我々にあるのだ。