父親が育児で学ぶ本当の優しさ

育児をする男性をイクメンと呼ぶのは定着してきたようで、非常に喜ばしいことである。とは言いながら、逆説的に考えれば育児に協力的な男性は、またまだ少数派であり、多くの男性はあくまでも仕事優先であるという証明でもある。殆どの父親は、空いた時間に申し訳程度に育児を手伝うレベルかと思われる。そもそも、育児は母親の役目だと思っている人が大多数であり、共働き世帯であったとしても、家事育児は女性のほうが圧倒的に担う割合が多い。だから、「お母さんをやめる」などと悲痛な叫びが起きてしまうのであろう。

専業主婦であったとしても、育児に対する負担は大きいのである。だから、出来得る限り育児や家事の役割分担を夫にしてほしいと思っている。ところが、仕事が忙しいし育児は苦手だと勝手な理由をつけて、育児を放棄する男性が多いのである。良妻賢母なんて言葉があるが、これはとても危険なワードだと思われる。家事育児は女性の役目だと言わんばかりであるし、女性たちに無言の圧力をかけている。家事育児を女性がするのは当たり前であり、良い妻であり賢い母であることが当然だと、女性たちに強制する悪魔の言葉であろう。こんな男性の立場から自分達に都合よく勝手に作った言葉に騙されてはならない。

さて、イクメンは素晴らしいことだと世間では賞賛されているが、なかなかイクメンになろうとしない人たちがいる。それは、やはり育児をしようという気持ちになるハードルが結構高いのではないかと見られる。育児は、非常に難しいと男性が思い込んでいる節がある。まず幼子が泣いていると、何故泣いているのかが解らない。オシメを替えたり授乳したりするのも難しそうであるし、うんちをした際にふき取るのは勇気がいる。遊んであげるのはいいが、むずがったり反抗されたりされたら、お手上げである。育児をするくらいなら、仕事をしていたほうが遥かに楽だと思っているから、仕事に逃げ込むのであろう。

ところが、男性がこの育児をすることで、驚くほどの自己成長を遂げることが出来るのである。それも、育児でしか気付くことが出来ないし学べないことがあるのだ。それは、人間として一人前になるために通過しなければならない『修行』みたいなものである。端的に言えば、心の成長である。男性は、どちらかとい言えば女性に比べると相手の心を読むことが苦手だ。相手の気持ちになりきって、相手の悲しみや悩み、苦しみを自分のことのように感じることが出来にくい。だから、よく言われるように男性は空気が読めないのである。話も聞かないし、相手に共感できないのだ。

どの家庭においても同じだと思うが、夫は妻の話を我がことのように思いながら話を聞くことはあるまい。優しいのだが冷たいとは、こういうことである。妻の辛くて悲しい話を聞いて、涙をぼろぼろ流しながら聞く夫がどれだけいるだろうか。こんな夫はそうそういない筈である。相手の話を自分のことのように聞いて、感情を共有することを、『慈悲』と呼ぶ。つまり、相手の悲しみをまるごと否定せず慈しみ、我がことのように涙を流して悲しむことを言うのだ。この慈悲の心を持つことが出来ないと、人間としては一人前とは言えない。

ところが、数人の子育てで苦労を経験した女性には、ありがたい慈悲の心が芽生えるのである。勿論、育児をしないと絶対に慈悲を獲得できない訳ではないが、極めて少ない。何故かと言うと、子育てをしている際に、泣いている我が子の気持ちや思いを汲み取ろうと真剣に努力するのだ。子どもが何故泣いているのか、何故怒っているのか、何故嫌がるのか、子どもの心になりきって心を読もうと必死になるのである。つまり、子どもの心と一体化させないと、子育ては上手く行かないのである。これが自他一如という極意でもある。自分と他人の心がひとつになるには、子育てを経験するのが一番である。

男性も子育てをたくさん経験することで、この『慈悲』の心を獲得する道が開かれるのである。この相手の気持ちを我がことのように感じられるようになると、自分の至らなさや未熟さもよく認識できるから謙虚になる。コーチングの基本は、傾聴と共感だと言われている。まさに、育児をすることで知らず知らずのうちにコーチングが出来るのである。これはビジネス場面においても、非常に有効である。会社のリーダーとして、なくてはならない能力である。慈悲を持つビジネスマンは、お客様にも部下にも好かれるから、敵なしである。だからイクメンは、会社で出世するのである。育児を経験することで、本当の優しさが生まれる。夫婦愛が強まるし、家族愛が高まるから不登校や引きこもりも起きない。こんなにも男性を成長させてくれる子育てを、しないという手はない。

 

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お母さんをやめる

「お母さんをやめる」と子どもに言ってしまったと、母親が後悔の念をSNSでつぶやいて、そのことに対する賛否のコメントが多数寄せられて話題になっているという。概ね共感と励ましが多いようで、「私も同じだよ」と言って慰めてくれる人が多いのには驚く。こんなにも子育てに悩みを抱えている多数のお母さんたちが存在するんだと、とてもびっくりすると共に、一人きりで悩み孤独感を抱えた母さんをほっといていいのだろうかという思いにかられた。良い母親と良い妻を演じることに疲れてしまったお母さんが、メンタルを病んでしまわないかと、とても心配している。

悩みを持つ多くの母親の家庭はこんな事情らしい。小さい子どもが複数いて、難しい反抗期を迎えている子どもに対応するのに悩んでいるという。親の言う事は聞かないし、ちっとも協力してくれない子どもに対して、毎日イライラするばかり。そして仕事ばかりしていて家事育児を分担してくれないばかりか、ちっとも悩みや苦しみを聞いてくれない夫。誰も助けてくれず、一人で思い悩む自分。誰かに訴えようか、または助けを求めたいと思いながら、共働きであるからママ友もいない。八方塞がりの状況に追い込まれ、こんな駄目な自分だからと、自らを責めているというようなことらしい。

共働きであろうとシングルワーカーであろうと、またはシングルマザーであろうとも、同じような子育てに関する悩み苦しみを抱えた人がとても多いのである。これは、日本の母親なら誰でも感じたことではないだろうか。あまりにも、夫や周りの人々が子育てに対して、協力してくれないのである。確かに仕事が忙しいというのは仕方ないかもしれないが、土日の休みまでも仕事の為に出勤するというのは考えられない。子育て中の父親にそんな働き方を強いるような会社は許せないし、こんな酷い会社なら即刻辞めればいい。妻をそんな状況に追い込むような働き方をしてはいけないのである。

安倍内閣は、働き方改革をすると意気込んでいるが、これが世の中の悲惨な状況だとすれば、先ずはこんな働き方をさせる会社を無くすことが先決である。厚労省は、それぞれの会社に対して、労働者の勤務状況を、外部委託会社を使ってアンケート方法で調査する。しかも、会社の総務部に対するアンケートである。こんな調査で誰が実情を話すだろうか。どうして、個々の労働者に直接調査しないのであろうか。厚労省の役人、とりわけ労働局や労働基準監督署の人間というのはこんなにも愚かなのかと呆れてしまう。こんな酷い労働環境の実態を知っているのに、見て見ないふりをしているのであろう。

まずは、世の中の小さい子どもを持つ父親の働き方改革を実行してほしい。少なくても、サービス残業をゼロにすること、そして月単位の残業時間を最大30時間まで、毎日の時間外労働は3時間以内と決めるべきである。そして、これ以上はどんな理由があっても認めないという労働基準法の改正を行うべきである。そして、その為に思い切ったワークシェアーを実施しなければならない。そうしないと、『お母さんをやめる』と悲痛な叫びをするお母さんを救えないからである。小さいお子さんを持つ父親は、少しぐらい待遇が悪くても即刻違う会社に転職すべきである。

今から25年前に、自分は以前務めていたある団体を辞めた。何故なら、子育てを最優先に考えたからである。残業が多くて休日もまともに取れず、看護師をしていた妻だけに育児の負担と不安を抱えさせることは出来なかったからである。3年に一度転勤があり、次は単身赴任をしなければならない状況にあったことも理由のひとつだ。収入は激減したが、人間らしい生活が可能になり、子育てや家事を分担できるようになり、親子の触れ合いも可能になった。収入や待遇は大事であるが、子育てよりも大切なことは他にない。それ以来、台所を守るのは妻の役目ではなくて、自分になった。料理をすることや子育てを、心から楽しんできた。

人生において、何を最優先にするかは人それぞれである。ただし、少なくても仕事がすべてだと思う価値観は危険であろう。私は仕事・家庭・地域の3つの柱を三等分にして、それぞれに貢献したいと思い努力してきた。妻にお母さんをやめたいと思わせるような夫は、夫婦失格であり父親失格、いや人間失格だと思う。行政や政治も『お母さんをやめたい』と思わせないような社会を創り上げる努力をしてもらいたい。夫はイクメンを心から楽しめる価値観を持ってほしいし、それが可能となる働き方改革を最優先で実行してもらいたい。おそらく『お母さんをやめたい』などと思うお母さんがこんなにも多い国は、世界広しと言えど、日本だけだろう。政治主導で一刻も早く悩めるお母さん救ってほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、若いお母さん方たちの悩み相談を受けています。良い母親や良い妻でいることに疲れ切った方々が、一時的に家庭を離れて心身を癒す時間を持てるように支援しています。イスキアで何もせずぼーっとした日を過ごしませんか。無農薬でオーガニックのお米と野菜で作った健康的で美味しい料理を食べながら、傾聴と共感のカウンセリングを受けませんか。ご夫婦とお子さん連れでいらっしゃれば、父親に対して、楽しく学べんで、イクメンを進んでしたくなる研修を実施します。

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科学的根拠派VSスピ系

SNS上での様々なやり取りが実に面白い。何故かと言うと、あくまでも科学的な根拠、いわゆるエビデンスに基づいたものじゃないと真実ではないとするグループと、スピ系のグループがバトルを繰り広げているからである。勿論、双方共に大人だから、名指しをするとか面と向かって非難をするということはしないようだが、SNSの記事やブログを観察していると、明らかにあの人の記事に対する反論なんだなと確信できる。どちらかというと、科学的検証のグループのほうが、スピ系の記事に対してエビデンスがないと攻撃をするという図式が多いみたいである。

スピ系の方々の記事は、エビデンスらしきものはあるものの、科学的に明らかに正しいと言う根拠を示すことは難しい。どちらかというと、観念的・直観的な理論を展開している。なるほど、そういうこともあるだろうなとは想像できるし、実際に効果を上げているケースも少なくない。霊的な啓示、スピ系占い、アーユルヴェーダやホメオパシーなどの代替医療、レイキ、アロマテラピー、カラーセラピーなどをすべてスピ系として嫌悪感を示す人も少なくない。こういうスピ系の女子が多いせいか、教養と学歴が高くてエビデンスにこだわる男性や理系女子が攻撃するケースが多いようである。

確かに、科学的根拠派からエビデンスを示せと言われると、現代の科学では完全に正しいという論証を示せないのも事実である。ましてや、医学界や薬学会ではスピ系の蔓延に対して苦々しく思っていることもあり、その反証としてのエビデンスを、アカデミーの総力を挙げて研究し続けている。かたや、スピ系はそもそも科学的な検証を求めてはおらず、自分の直観や霊示を信じて行動しているのだから、エビデンスに対する反論が出来ない。しかし、実際に大きな効果は上げていることもある。しかし、間違ったスピ系のやり方によって悲惨な結果になる場合も少なくないから、それをあげつらって科学的根拠派は攻撃するのである。

科学的根拠派は、スピ系や代替医療の上げている効果や成果は、あくまでも偽薬効果(プラシーボ)でしかないと言い切っている。特にスピ系や代替医療に対する攻撃は、アカデミーの威信をかけた闘いの様相を示している。面白いのは、どちらの立場であったとしても、相手の反論や反証を認めない点である。これも、実に大人気ないことであるし、最初から相手の理論が間違っているという立場に固執しているのは、滑稽でもある。科学の研究者というのは、自分の仮説や想像を科学的に正しいかどうかを実験等により証明する形を取っている。こうして、学会で素晴らしい研究成果を上げてきた。

ところが、自分の仮説が正しい筈だという思い込みが強過ぎてしまうと、正しいと証明する証拠集めに奔走してしまい、反証に対する研究が疎かになる。ましてや、あまりも成果を求めるあまり、実験結果のねつ造も起きてしまっている。だから、科学者たる者は自分の考えや理論に対して、もしかして間違っているのかもしれないという謙虚さを忘れてはならないのである。ましてや、天動説がガリレオガリレイによって覆された実例や、ニュートン力学が量子力学で否定された歴史があるのだ。科学者たるもの、または科学的根拠を主論調にする者は、現代の科学では証明されないが、将来は真実だとされるかもしれないという観点を忘れてはならないであろう。

実際に、2500年以上も前にブッダは、この世の万物に実体はなく、人間の意識で実体があると思えば在るし、ないと思えばないと唱えた。こんなことは、完全なまやかしであり、科学的な根拠を示すことは到底出来ないと思っていたのである。ところが、量子力学の素粒子研究と実験によって、完全な真実だと判明したのである。ということは、スピ系や代替医療で主張していることは、科学的根拠がないのであるからすべて誤りであると主張するのは、乱暴な事ではないだろうか。科学的根拠がないのだから、こんな迷信じみたことは信じてはいけないとSNSで発信・攻撃するのは、傲慢ではないかと思うのである。

という自分も、科学的根拠のある真実しかSNSとかブログでは発信しないように心がけている。何故なら、多くの人々に対して心の豊かさや幸福を実感してもらう活動をする為には、ちょっとしたことで反論されて信頼を失くしてしまうことを怖れているからである。たまには、まだ科学的根拠に乏しいこともブログにアップすることもあるが、これは近い将来には科学的根拠が得られるという確信に基づいているからである。科学的根拠派の人たちは、スピ系の人たちの理論がすべて間違いだと攻撃するだけでなく、もしかすると近い未来は真実だとするエビデンスが得られるかもしれないという謙虚さを忘れないでもらいたい。逆にスピ系の人たちは、エビデンスが得られるように努力を怠らないでもらいたいし、論理的証明を心掛けてほしい。将来は間違いなく、科学的根拠派とスピ系の人たちの主張が統合される時代が必ずやって来ると確信している。

 

家では良い子を演じさせない子育て

若者が起こした凶悪事件の保護者にインタビューすると、こんな話を聞くことが多い。「こんな怖れ多い事件を起こすような悪い子じゃなかった。とても素直で良い子だったんですよ」と語る例が殆どである。また、家庭の周りに住んでいる住民も同じような感想を漏らす。特に同居する祖父母は、「本当に優しい孫で、こんな悪いことをするとは信じられない。何かの間違いじゃないのでしょうか」と孫を庇うことが多い。身内を過大に良い評価をしやすい傾向はあるとしても、どうしてこんなギャップが生まれるのか、不思議だと思う人が多いと思われる。

学校で他の児童生徒をいじめるなどの問題行動をする子どもが、家庭ではまったくの良い子で、従順で素直な子どもであるケースもまた多い。学校では、陰湿でしかも陰に隠れて表舞台に立たず、裏で指図する悪質ないじめの首謀者の子どもは、家庭では良い子を演じていることが多い。だから、その悪質ないじめがばれて親が学校に呼ばれて、その事実を告げられると、どうしても信じられないと親は主張するらしい。このように、学校での行動と家庭における言動のギャップが見られるのである。

子育てというのは、非常に難しい。これが正解だというマニュアルは存在しない。それぞれの子どもの性格や人格も違うし、親もそれぞれ違っているから、育つ環境は違っている。日々いろんなことが起きるし、その場面場面で子どもに対してどのような言動をしていいか迷うことがしばしばある。自分でも、子育ての様々な場面でどんなにか迷い、苦悩したか解らない。育児というのは、この世の中で一番難しいことである。そして価値がある。だから、子育ては親を成長させる糧ともなるのである。

少しは身の回りの片づけをしたらいいんじゃないかと、珍しく当時小学生高学年だった三男の息子に苦言を呈したことがある。その言葉に対して、息子はこんなことを言い放った。「あのね、僕は学校ではすごく良い子で通っているんだよ。それは、家庭で無理して良い子を演じないでいるからだよ。家にいる時は、誰からの支配も受けず、無理な生き方をせずにのんびりと過ごしているから、外では良い子でいることが出来るんだよ。だから、そんなことを言わないでほっといてよ」それを聞いて、私たち夫婦はお互いの目を見て、苦笑いをするだけで、何も言い返せなかった。

我々夫婦は、お互いに子育てについて話し合っていた。育児とはどうあるべきか、子育ての方針はこうしようああしようと意見交換をしていた。子どもたちがいる食卓でも、育児について話し合っていたのである。そして、息子が言い放ったこの言葉は、まさしく自分たちが常日頃言っていたことである。聞いていないと思っていたのに、息子はしっかりと心に刻んでいたのである。そして、それを実践していたのである。確かに、どの先生たちからはすごく良い子だと言われ続けてきたし、先生の手助けを自分から進んでしてくれて、学級をまとめるリーターシップが取れると子どもだと誉められていた。

その息子が高校から進学する際、国公立の大学に推薦してもらえる成績がありながら、親が期待する道は歩まないと宣言し、敢えて自分の信じた道を進みたいと東京の私立大学を選んだ。我々は子どもたちに、こういう進路を進んでほしいと、高校や大学を押し付けたことは一度もないし、就職も自分で選ぶのをそっと見守るだけだった。上の二人は、親の経済状態を考えて地方の国公立大学を選んでくれた。三男は兄二人とは違う道を選びたいと、親の期待を見事に裏切ってくれたのである。精神的に完全に自立していたのだと思われる。主体性と自発性を常に発揮して、様々な苦難も自分で乗り越えている。

子どもは親の所有物ではないし、子どもを支配しコントロールしないことを子育ての基本に据えてきた。しかし、けっして放任主義ではない。人に迷惑を掛ける行為や、自分さえ良ければいいというような行動は慎まなければならないということは伝えてきた。さらには、子どもたちの弱いものに対する慈悲の心を育んできた。勿論、人の生きる意味や目的という価値観の教育もしてきた。言葉だけでなく、親の正しい生き方の後ろ姿も見せてきたつもりである。家庭であまりにも良い子を演じさせてしまうと、子どもが安心していられる居場所がなくなってしまう。だから、良い子であることを無理強いしたことはない。このような子育てを、子どもたちもまた孫たちに実践してくれると信じている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、子育てに関する様々な悩みや心配なことに関する無料相談を承っています。発達障害やパーソナリティ障害のお子さんを育てていらっしゃる保護者の相談にも対応させてもらいます。問い合わせフォームからご相談ください。さらには、これから子育ての研修会や相談会も開催して参ります。是非、合わせてご活用ください。

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教師の不適切指導にどうするか?

教師と言っても、経験が豊かで教える技能も確かな素晴らしい先生もいるし、経験が浅くて指導技術もまだまだの先生もいる。それぞれの先生は独立していて、学校内の先生どうしがそれぞれの指導について、注意し合う風土は醸成されていない。独立心が旺盛で、依存性がないと言えばそれまでだが、管理職でない先生が他の先生に対して助言したり意見したりすることは殆どないのである。児童生徒に対して、明らかに不適切な指導をしているのを目撃したとしても、まず注意することはない。先生どうしが指導面で協力し合うということも極めて少ないのである。

何か不適切な指導が問題になっても、それを隠したがる。ましてや、内部告発することはまずない。それだけ、閉鎖された空間でもあり、内部の事情が外に漏れにくい。その証拠に、これだけ多くの教師によるいじめ事件や指導死事件が起きていても、問題が大きくならないうちに、内部告発があって事なきを得たという事例は皆無である。自分たちの身内を守るという意識が強いのか、隠ぺい体質が強いのか、教師中心の環境が学校に存在する。問題があっても、見て見ないふりをしている先生が殆どなのである。だからこそ、いじめや不登校、そして悲惨な指導死がなくならないのであろう。

ただ、素晴らしい先生もいらっしゃるということも付け加えなければならない。本当に子ども中心の教育を徹底して、子どもたちからの信頼も厚く、保護者の尊敬を集めている先生も何人かいらしたのは事実である。ただ残念なのは、そういう先生は圧倒的に少数なのである。そういう素晴らしい先生が、昇任試験を突破して、校長や副校などの管理職になってくれたら嬉しいのだが、残念ながらそういうケースはけっして多くはない。これも不登校やいじめ、そして指導死が一向に減らない要因でもある。

ある教師が極めて不適切な指導をするのを、過去に実際に経験した。帰宅したら中学1年の息子が、「僕は明日から学校に行けなくなったから」と言うのである。どうしたんだと聞くと、薄暗くなった駐輪場で学友と談笑していたら、担任の先生が玄関先に見えたらしい。それを見かけた息子が、「あっ、〇〇だ」とその先生を呼び捨てにしたという。先生に向かって言った訳ではなく、あくまでも子どもどうしの会話である。ところが運悪く、その言葉がその先生に聞こえたらしい。しかし、その場で指導されたのなら理解できるが、帰宅した後でその先生が自宅に電話してきたのだという。

その先生が言うには、「先生に対して呼び捨てにするとは何事だ。絶対に許さない。謝りなさい。謝らなければ学校に来るな!」と激高して電話をしてきたらしい。息子は先生に対して直接呼び捨てにした訳ではない。したがって、謝らないと学校に来るなという理屈に合わない理不尽なことに納得できないので、謝ることができなかったという。その先生は、30代の男性で、どちらかというと体育系の頑健な身体を持ち、スポーツ系の部活の顧問をしていた。短気な性格であったと思うが、一度興奮してしまうと自分を抑えることが出来ず、体罰が常態化していたらしい。

翌朝、学校に行けないという息子を無理に登校させず、私が学校に向かった。校長と担任の先生と話がしたいと申し出た。先ずは昨日の息子からの話を伝えて、間違いはないかどうかを確認した。大きな違いはないとの返答であった。そのうえで、日本国憲法における教育を受ける権利という基本的人権の尊重に違反しているのではないか。教育基本法の趣旨にも反するのではないかと伝えた。どんな理由があるにせよ、学校に来るなという言葉は、教育上の指導として相応しいとは思えないと話した。校長は、謝罪すると共に、今からすぐに自宅に赴いて子どもに謝罪してきなさいと、その教師に指示した。その教師はその後に、体罰事件を起こして異動させられた。

このような不適切な指導に対して、子どもを守ってあげられるのは親しかいない。このような不適切な指導があったことを、親に対して素直に告げる信頼関係が必要である。親は自分の味方であり、必ず守ってくれるんだという子どもの確信がないと、親には話せない。親子の関係性は、努力しなければ深まらない。常日頃からの親子の触れ合いとコミュニケーションが必要だろう。そのうえで、どんなことがあったとしても、子どもを守る為に命を賭して行動することを宣言することが肝要だ。勿論、普段の行動においても、子どもを最優先で守り育てることを実感してもらうことが大切である。実際にこの例のように、どんな相手であっても臆せず対決して、問題解決する勇気も要求される。仕事や多忙を理由に、問題から逃避するような親では、子どもは不安になり不登校を選ばざるをえない。子どもが安心して学校に行けるのは、親からの絶対的守護が実感できるからだ。特に父親の役割は大きいのだと認識すべきである。

 

※イスキアしらかわの郷では、教師による不適切な指導やいじめがあった際に、親がどう対応すればよいのか、相談を承ります。親の役割も含めて、どうすれば問題が先鋭化せず、さらには長期化しないで問題解決できるのかを助言させてもらいます。ひとり親の場合、または父親が対応がしてくれないケースでも支援させてもらいます。遠慮なくご相談ください。

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子育てにおける父親の役割

イクメンが増えているという。それはそれで好ましいことである。父親が育児を分担してくれていることにより、母親の家事負担が減少して、余裕のある育児ができるから、子どもに対して豊かな愛情を注ぐことが可能となる。そして、父親が育児を経験することで、子どもの微妙な心の動きを解ろうと努力することにより、共感の心が育まれる。さらに、両親が協力して育児をすることによって、夫婦お互いの支え合いの気持ちが生まれるので、家族の絆が強まることであろう。これらの理由から、イクメンがもっと増えてほしいと願っている。

しかし、イクメンという言葉が何となく軽々しい感じがするし、子育てにおける父親の本来の役割が果たせているのかという不安がある。イクメンというファッショナブルな言葉で、育児を喜んでする父親が増えるというメリットがあるとしても、何となく違和感を覚えるのである。何故かというと、子育てにおける父親の役割とは、根本的に母親のそれとは違っていると思うからである。ましてや、イクメンというと乳幼児期の育児参加という意味合いが強い。父親の子育てにおける本来の役割が発揮されるべきなのは、乳幼児期を過ぎた頃からではないかと思うのである。だから、イクメンだけで子育ての役割を果たしたと満足してほしくないのである。

三人の息子たちを育てた経験から、過去を振り返ると実に様々なシーンが甦る。家族5人揃って車に乗って外出した時のことである。車中で、いろいろな会話をしていた時のことである。助手席に座っていた当時小学生高学年の長男が涙を流しながら、嗚咽しているのに気付いた。どうしたんだいと問うと、「お父さんの話に感動したあまり、泣けてしまったんだよ」と言うのである。確かに、その時に人間として生きる意味やあるべき生き方の話をしていたので、感動するというのは解るが、感涙するまでに心に染みるというのは意外でもあった。それを聞いた自分も涙を流して喜んだのを鮮明に覚えている。

子どもに対して、父親がいろんな教訓や教示を話すケースは少なくない。しかし、子どもがそれらの話を聞いて、感涙するまでのレベルまで到達するのは、そんなにないだろうと思われる。手前味噌の話ではあるが、父親と言うのはそれぐらいの話を子どもに出来ないというのは、情けないことだと思う。小学高学年の子どもが哲学的な話をしても解らないだろうと思う人が多いかもしれないが、子どもというのは、この手の話を渇望しているのである。試しに、子どもに哲学や思想、または価値観の話をしてみてほしい。子どもはこのような話を、それこそ目を輝かせるほど生き生きとして聞くことであろう。

近代教育を受けている子どもたちは、学校教育で思想・哲学の学びをしていない。何故なら、明治維新以後に西欧から近代教育を導入して以来、思想哲学は富国強兵の近代国家の設立には不要なものとして排除された。そして、戦後はGHQ政策により、家長制度と軍国主義を崩壊させる為、思想哲学を学校教育で禁じたのである。さらに、日教組は価値観の教育こそ民主主義の敵だと勘違いしてしまい、教室で人間の生き方やあるべき人間教育までも止めてしまったのである。だから、愛国心という言葉さえ死語化させてしまったのである。これが日本人を不幸にさせてしまった根源的問題であろう。GHQにより日本人は洗脳されてしまったのである。

今、学校で的確で適切な道徳教育ができる教師は殆どいない。恐る恐る「心のノート」を棒読みして倫理観や心の在り方を教える先生が少しは存在する。しかし、日教組は「心のノート」を、国家権力を強めるものだとして排除しようとしているし、道徳教育に懐疑的である。小さいところの問題に固執して、大局を見失ってしまっているのだ。ということは、思想哲学や価値観の教育を子どもたちは渇望しているのに、応えられていないのである。とすれば、父親かそれに代わる誰かが、子どもたちに価値観教育をしなければ、子どもたちが生きる道標を見失ってしまうのは当然である。

現在、不登校や引きこもりという大きな教育的問題が存在する。その原因は、社会の制度や学校の環境そのものの問題にあるとしても、そんな中でも根本的な生きる価値観を持てたとしたら、苦難困難にもチャレンジできる勇気を奮い立たせることができるに違いない。そして、その価値観教育をする役割こそ、父親かその代役が務めなければならない。子育てにおける本来の父親の役割が、思想哲学、そして価値観の教育である。社会には様々な苦難困難が待ち受ける。それらの苦難困難に逃げることなく立ち向かっていく強い精神は、価値観の教育で養われるのである。その父親の役割を全うしてほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、この思想哲学や価値観の教育を父親または母親に対して実施します。ご希望される方があれば、お申込みください。1泊2日コースか2泊3日コースで価値観教育を重点的にさせてもらいます。なお、家庭の都合で日帰りの研修をお望みであれば、数日間を要しますがご相談ください。子どもに幸福な人生を歩んでほしいと思うなら、是非ともご利用ください。

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いじめから子どもを守る対処法

子どもがいじめに遭っている場合、どのように対処したらいいのか迷う処である。そもそもいじめに遭っていることを子どもが内緒にしいるケースが殆どである。先生にも親にもいじめられていることを訴えることが出来ないのである。何故なら、先生に話しても適切な対応が出来ないばかりか、かえって陰湿ないじめに発展するとか、先生にちくったということでより過激ないじめになりかねないことを知っているからである。先生が守ってくれるという確信を持てるなら訴えるのであろうが、残念ながら期待できないのであろう。

親に対してもいじめられていることを訴える子どもは少ない。いじめられていることを訴えても、適切な対応をしてもらえないということと、かえってこじれることが予想されるからであろう。さらには、それだけの深い親子の関係性が構築されていないからではないだろうか。どんなことがあっても親は自分を守ってくれるという、親子の絶対的信頼関係があれば、子どもはいじめられていることを訴えるに違いない。ただし、いじめられていることに対してどんな対処法をすれば良いのか、迷うものであろう。

親が学校に行って、いじめの実態を先生に話したら、どのような解決をしてくれるのであろう。子どものことを先生は守ってくれるのであろうか。いじめている子どもは仕返しをしないであろうか。そんな心配もあるから、安易に学校関係者に話すことを躊躇するに違いない。とはいいながら、警察や法務局などに訴えることまではしたくないのが本音である。自分自身で解決できるならいいが、下手に動いたら悪化させかねない。いじめている子どもと直接話す機会もないし勇気もなく、どんな説得をしたらいいか解らないであろう。いじめている子どもの保護者に直接話すのも、その後の進展を考えると厳しいと思われる。

自分の子どもが中学生の時にいじめられた経験がある。その時にある対処をして上手く行った例があるので、参考にしてもらえたら有難い。当時中学1年生の息子が、学校から帰ってくるなり、「明日から僕は学校に行かない」と言い放った。どうしてと聞くと、どうやら同じ部活の生徒からいじめを受けたからだという。息子はあるスポーツの部活をしていて、その同じクラブの生徒から執拗ないやがらせを受けたという。それも息子が乗っている時に、自転車を蹴って倒すということを何度も繰り返す陰湿ないじめである。「やめてよ!」と何度も言ったが聞き入れてくれないという。

うちの息子は、非暴力主義というのか争い事が嫌いなので、暴力で対応するのはしなかったせいか、度を過ぎた嫌がらせが続いたらしい。いじめをした子どもは身体も大柄で、常日頃乱暴な行動を学校でしていたこともあり、反抗できなかったみたいである。息子はスポーツ少年時代から同じスポーツをしていたので、1年からレギュラーをしていたことから嫉妬もあったのではないかと推測している。子どもたちの心というのはデリケートであり、子育ては難しい。変な対応をしてしまうと、心の傷を残しかねないので、どうしたらいいのか自分でも正直迷った。

そして、次に驚くような行動をしていた自分がいた。息子を連れて、その家に今から行こうと誘った。幸運にも同じ部活だったこともあり、その家の住所を知っていたし、親とも面識があった。自家用車に乗って、そのいじめをした子どもの家に親子ふたりで向かった。たまたま、その家にはご両親が揃っていた。その親に挨拶して、「子どもどうしがどうやら気まずい出来事があったみたいなので来ました。仲直りをしてほしいので二人で遊ばせてもらいたいと思ってきたのでよろしくお願いします」と頼み込んで、家に入れてもらった。子どもどうしは、親が見ているから何事もなかったかのように遊び始めた。その間、親同士はいじめがあったことを敢えて話題にはせず、たわいもない世間話をしていた。

その家の子どもは学校では乱暴なことをしていたが、家の中では『良い子』を演じているというのは予想していた。ご両親もしっかりした方で、おそらく厳しい躾をしていたと想像していた。だから、あえていじめのことは触れず、子どもどうしを遊ばせることにしたのである。意地悪をしていた子どもは、家の中でよい子を演じ過ぎているが故に、そのストレスの捌け口を学校で発揮していたと思われる。親にいじめをしたことが解ったら、どんなに厳しく叱られるか解らない。内心、びくびくしながら遊んでいたに違いない。今後、何か息子に嫌がらせをしたら、今度こそ告げ口をされないとも限らないと思ったのであろうか、その後いじめはなくなった。親同士がこんなにも親しく会話しているということが、いじめのストッパーになったのには間違いない。いじめ事件を通して、子どもどうしの関係性が深まり、そして親同士の関係性も豊かになった。いじめに対応する時に考慮すべきなのは、『関係性』という価値観である。息子との関係性が良かったから、いじめを告白してくれたと思う。このような解決策が出来たのは、好運だったのかもしれないが、参考にして頂けたら有難い。

みんなの学校を創ろう

「みんなの学校」は、本来あるべき理想の教育を実践している場所だ。そんな確信をさせてくれる珠玉の映画であった。ふとした縁からこの映画が会津若松市で上映されることを知り、早速申し込んで事務局の方に何とか定員の中に入れてもらい、鑑賞させてもらった。予想していた内容ではあったが、その予想を上回る感動を与えてくる秀作だった。どんな名演技の俳優が演じたフィクションよりも、実在の人物がリアルに織りなすドラマは感激させてくれる。出演しているのは、大阪市立大空小学校に実在する児童と教職員たちなのだ。実に素晴らしい感動のドキュメンタリー映画である。

日本国憲法では、基本的人権の中で教育を受ける権利が保障されている。誰でも平等に教育を受ける機会が与えられている。ところが、障がいを持つ子どもたちは、普通学校の普通学級に行きたいと希望しても、何らかの理由で適えられないケースが殆どである。たとえ普通学級に入ることが出来たとしても、心無い同級生や教師の対応次第で学校に行けなくなることも少なくない。ところが、この大空小学校は障がいを持った子もそうでない子もすべて一緒に同じ学級で学ぶのである。

この学校の目標は、不登校を無くすことである。新任して2年目の講師が担任している子どもがある日登校しなくて、親の携帯と繋がらないケースが起きた。どうして良いか解らずおろおろするその先生に、木村泰子校長はこのように諭す。残された学級の授業は私でも出来るが、その子の対応をするのはあなたしかいないと。すぐにその新米担任は、自転車でその家庭に子どもを迎えに行った。不登校をさせない為に、教師たちは最大限の努力をするのである。先生たちは常に子どもの立場で考え行動する。だからこの学校は不登校ゼロなのである。

この大空学校では、発達障害、知的障害、自閉症スペクトラムなどの子どもたちが他の子どもたちと一緒に学んでいる。他の学校で不登校になった児童も、住所地を変更してまでして転校してくる。そして、子どもたちはお互いに支え合いながら共に学ぶ。先生たちもお互いに協力し合う。地域のボランティアの支えもある。この学校では、他の学校では既になくなってしまった豊かな『関係性』がしっかりと根付いている。先生どうしもチームを組んでお互いに助け合い支え合う。子どもどうしの関係性をしっかりと築いているから、いじめも不登校もないのである。

こんなエピソードが描かれている。くだんの新米担任の先生が、子どもを大声で怒鳴りつけていた。それを見ていた木村校長が、その教師を呼びつける。木村校長は部下の先生を頭ごなしに厳しく指導することはしない。子どもに対しての指導もそうだが、必ず質問をするのである。その先生にこう質問する。大声で子どもを指導していたが、あれは教育の一環として冷静に演技したのか、それとも怒りの感情で興奮したのかと問う。教師は怒りに任せてしたことだと正直に答える。もし、それで子どもがいたく傷ついて、窓から飛び降りたらどうするのか、そんなことも考えられず怒りを抑えられないなら教師不適格だからいますぐ辞めなさいと言い放つ。勿論、木村校長は反省して子どもに謝った先生を許すのである。

このように木村泰子校長は、常に子どもが中心の教育を志して行動している。故に先生への対応も厳しくなるが、愛情溢れる指導だから絶大な信頼を得ている。子どもたちもどうにもならなくなったら木村校長を頼ってくる。通常の学校長はマネージャー、つまり管理者である。しかし、木村校長はリーダーである。それも理想のチームリーダーだ。けっして高圧的でもないし独善的でもない。校長を加えたチームはいつも皆で相談しながら進むべき方向性を確認している。他の学校では、担任の学級運営に対して口を出さないのが暗黙のルールである。しかし、大空小学校では担任で手に負えなくなったら、他の先生たちに助けを求め、そして快く協力するし助け合う。

この学校では、絶対に守らなければならないルールがひとつだけある。それは『自分がされていやなことは人にしない 言わない』である。そのルールを破った子どもは校長室に行ってやり直しを約束するのである。大空学校では、このルールを子どもたちも教職員も常に守っている。だから、いじめやパワハラもないし、不登校もないのである。不登校が起きるひとつの要因は、子どもたちや教師による心無い言動が子どもの心を傷つけ、学校からそして教室から居場所を奪うからだ。このルールを徹底することで安心できる居場所が確保できるのだ。大空小学校は、快適な居場所をみんなが努力して作り上げているから不登校がないのである。

大空小学校では、障がいを持った子どもたちを、そうでない子どもが自ら進んで温かい心で支援する。そして、このような支援や助け合いをすることが、自分の喜びとなり自分自身を認め誉めることに繋がり、自己肯定感を育てることになる。そして、何よりも重要な価値観として、つながりや絆の大切さを学ぶことになる。さらに、人間の多様性を受け入れて、共生ということの大切さを実感するのである。みんなが大きな自己成長を遂げる。そして教師もまた同じように、深い自己啓発が生まれる。さらには障がいを持った子たちも、認められ評価され誉められて大きく育つ。まさしく大空小学校は教育の場でなく、『共育』の場なのである。大空小学校のような「みんなの学校」をもっとたくさん創れば、学校で起きている不登校、いじめ、指導死などの諸問題は起きる筈もない。すべての学校が「みんなの学校」になることを目指して、これからも活動していくことを心に誓った。

初心忘るべからず

新しい年の初めに当たり、『初心忘るべからず』という言葉について、今年の最初の日記を書くことにしたい。昨夜、NHK紅白歌合戦を視ていたら、羽生善治永世七冠がこの初心忘るべからずという言葉の本当の意味について述べられていた。この初心忘るべからずという言葉は、最初に志した自分の命題や目標を忘れることなく精進しなさいという意味で使われている。ところが、本来の意味は違っているという。この言葉は、能楽を完成させたと言われる世阿弥が54歳の時に、「花鏡」(かきょう)という能楽の伝書で、示した言葉らしい。

初心とは、最初の志のことだけではなくて、何かを新たに思い立った時、または人生の節目(せつもく)の際に、こうしようと心に誓ったことを言うらしい。だから、初心は人生の中でただ1回だけではなくて、何度もあるというのだ。自分も誤解していたことを恥じたい。何か一生に一度の大きな目標を掲げた時、または一生を捧げるような職業に就いた時に思ったことを初心だと勘違いしていた。そうすると、初心はその時その時の心の在り様、人間的成長の各段階において、または価値観や哲学をさらに向上させた時に、初心をバージョンアップさせるものなのだということである。

人間と言うのは、ある程度の成功を実現させると、現状に満足して成長することを止めてしまうことが往々にある。ところが、人間と言うのはこれでもう学び切ってしまったということはあり得ないのである。学べば学ぶほど、自分の浅学菲才ぶりに気付くものである。何でも解ったように勘違いして、もう自分は悟り切ったと思うような人間は、けっして大成することはない。自分が無知だと思うからこそ、まだまだ愚かな人間だと謙虚になり、勉学に勤しむものであろう。そして、その人生の節目(せつもく)に初心を自分の胸に刻んで、さらに精進し続けるのだろうと確信している。

15年以上も前に、自分が胸に刻んだ初心は、イスキアの郷しらかわを必ず開設することであった。佐藤初女さんの森のイスキアのような施設を創るという夢であった。そして、昨年の9月に様々な人のご支援を頂き、開設することが出来た。これは、ひとつの通過点でしかない。まだまだ、イスキアの郷しらかわの認知度は低い。そして、利用される方々もまだ多くはない。今度の初心は、皆さまのご支援に報いる為、イスキアの郷しらかわを多くの皆さんに知って頂くことと、もっと多くの方々を深くご支援申し上げたいということである。そして、心が癒されて幸福になってイスキアを卒業される方々を、笑顔で見送りたいという初心でもある。

15年以上前の初心は、様々な事情もあってなかなか貫徹出来ずにいた。経済的な問題もあって、踏み切れずにいたのである。今から思うと、初心を貫徹することに不安や怖れがあったことは否めない。もしかすると、イスキアを創るというのは無理なんじゃないかと諦めそうになったことが何度かある。何度も挫折しそうになった時に、不思議な出会いがあって、背中を押してくれた。それは、イスキアを必要とする方々との出会いであり、イスキアを応援したいと申し出てくれた人たちとの出会いである。そんな方々に申し訳ないと思いながら、ずっと伸び伸びになってしまっていたのだ。

昨年の2月に佐藤初女さんが亡くなられた。その後、森のイスキアが活動停止になり、こうしてはいられないと思い、昨年の9月にイスキアの郷しらかわを開設した。その際に、出会った方々には叱責されることを覚悟して、開設のお知らせをした。皆さんからは、どうしてこんなに遅くなったのだというお叱りの言葉もなく、温かく受け入れて頂いた。今度は、そんな皆さんに恩返しをしたいと思う。さらには、イスキアの運営が順調になったら、お世話になった方々を招いて、開設記念のパーティも開催したいと思っている。今年は、そのレベルまで必ず到達したいと誓う。この初心を深く心に刻んだ、1月1日の朝である。

毒親なんて呼ばないで!

ネット上で、酷い親のことを毒親と呼んで非難している。つい最近放映されていた『明日の約束』というフジTV系列のドラマでも、毒親がテーマでもあった。フジTVといえば、どちらかというとお笑い系やバラエティー系を得意としていて、恋愛ものドラマを主流としていたのに、最近はこんな真面目なドラマをするようになったんだと感心しながら視ていた。視聴率は低かったが、TV関係者からは高い評価を受けていた。ドラマの最後は、ちょっとあっけなかった気もするが秀作であった。仲間由紀恵や手塚理美が毒親を好演していた。好感度の高い女優に毒親を演じさせるという斬新なチャレンジも買いたい。

このドラマでも描いていたことではあるが、誰でも毒親になりうるということである。そして、毒親もなりたくてなった訳ではなくて、ある何かによりそうさせられてしまったということに注目したいのである。つまり、毒親である本人は好んで毒親であるのではなく、止む無くというのか、知らず知らずのうちに毒親にならざるを得ない状況に追い込まれてしまったといえよう。勿論、本人に何の責任もないなどと乱暴なことは言わないが、責めるべきは本人ではなく、本人に関わる周りの人間や社会全体にも責任があるということである。毒親なんて呼ばないで欲しいものである。

毒親と呼ばれる本人は、自分のことを毒親だとはまったく思っていなくて、こんなにも子どもに対する愛情が深い親は他にはないだろうと自負していると思われる。確かに、子どもを愛する気持ちが大きく、子どもが大好きで、なによりも子どもの幸福を願っているのは間違いない。そして、多大な期待を子どもにかけているし、子どもの成功を誰よりも願っているのである。ただし、それが度を過ぎてしまい、子どもに対して過干渉になり過ぎるきらいがあることは確かである。そして、子どもの平和や幸福が脅かされる事態になると、攻撃性が牙を剥くのである。

毒親は、自分が期待するような子どもにならないとみるや、その子どもには勿論のこと、学校や学友、またはパートナーに対しても攻撃する傾向にある。期待通りの子どもにならないのは、学校、教師、塾講師、家庭教師、部活の指導者、学友、先輩にあるに違いないと思い込みがちである。そうなると、クレーマーとなり学校に乗り込んでくる事態にも発展するのである。自分も学校に何度か乗り込んだ経験があるが、それは子どもの基本的人権が明らかに侵害されたと確信したからであり、子どもを守るにはそれしか方法がなかったからである。先生にも理解してもらったし、快く応じて改善してくれた。

毒親がこのような攻撃性まで発揮するような心理状態に何故なるかというと、子育てに対する根本的な価値観の間違いが指摘されよう。そもそも子育てには正解はないと言われているが、ある程度の原則的な価値観はあるだろう。まずもって、子育ては誰の為にするのかということである。毒親も含めて殆どの人は、教育は子どもの為でしょうと即座に答える。確かに、教育は子どもが主人公であり子どもが健全に育成されることを目指すのは間違いない。しかし、本当に教育の目的はそれだけであろうか。

教育をするのは子どもの為と言い切る保護者、学校関係者、文科省の役人、政治家は多い。果たしてそうであろうか。明治維新以降、戦後は特に、思想哲学を教育から排除した。軍国主義に発展してしまったという歴史から、戦後は全体主義や国家主義までも忌み嫌った。だから、国家が教育に対して及び腰になり、教育は世の為人の為に役立つ人間を育成するということを声高に宣言しなくなってしまったのである。これが完全な間違いであったと言わざるを得ない。教育は自分の為でもあるけれど、人々を幸福にして平和に生きる世の中を創る為であり、社会全体に自ら進んで貢献できる人間として成長する手助けをするのが教育の正しい目的である筈である。

学校でも家庭においても、勉強しないと良い学校に行けなくて収入の多い職業に付けないよ、と子どもを叱咤激励する。そんな教師と親たちだから、学校ではいじめや不登校という問題が起きるのである。引きこもりが起きるのも、元を正せばそんな誤った価値観に支配されている社会に魅力を感じないからであろう。毒親が生まれるのも、そんな間違った価値観を教え込まれた故である。この世の中は本来、自分の利益を求めるために存在するのではない。量子物理学、宇宙物理学、最先端の医学、脳科学、心理学、どれを取っても、世界は全体最適と関係性によって成り立っていることを証明している。間違った教育理念が、個別最適を目指していて関係性をないがしろにしているから、こんな毒親というモンスターを自ら生み出していることを肝に銘じるべきであろう。