子どもの腰痛は危険!

腰痛を訴える子どもが増えているという。腰痛と言えば、本来は中高年の男女が悩む症状なのであるが、それがどうやら子どもたちにも急増してしまっているらしい。若い筋肉と骨格を持っている子どもが、腰痛を患うことは本来あり得ないことである。しかし、実際に腰痛を子どもたちが訴えている。腰痛を主訴に整形外科を受診している子どもが大勢いるというから驚きである。それも、腰痛だけでなく首の痛みや肩こりまで訴える子どもが多いというのは、まるで高齢者のようではないか。

医療の専門家によると、子どもたちの腰痛や肩こりの原因は、重すぎるランドセルによる筋肉痛ではないかという分析をしている。昔のランドセルと違って、一回り大きくなって豪華になったお陰で重量も増しているという。そこに、教科書や副読本の記載内容増えて、重くなっているらしい。そこに、塾の参考書も入っているというのである。重くなり過ぎたランドセルを背負って、学校から塾にまで遠回りして帰るので、筋肉痛が酷くなっているというのである。

果たして、それが腰痛のすべての原因なのであろうか。腰痛が起きている原因は、骨とか神経系ではないというのは、確かだそうである。あくまでも、筋肉内に起きているというのは間違いなさそうである。疲れによって筋肉に痛みが起きるメカニズムというのは、こういうプロセスを辿ると見られている。まずは筋肉が疲労してくると、血管内に疲労物質の乳酸が溜まる。さらに筋肉が疲れてくると、筋肉が収縮する。そうすると、血管が圧迫されて細くなる。血管内の血液の流れが悪くなり、乳酸が流れにくくなり痛みを発するらしいのである。

ところが、この乳酸原因説は現在否定されつつあるというのである。運動後、乳酸が多くなると言われていたが、実際に乳酸値を測定するとあまり増えていないことが解ったのである。最近では、筋肉痛の原因は筋繊維の炎症によるものだという説が有力である。筋肉を使い過ぎると、筋肉繊維の細かい部分が傷ついてしまい、その傷を治す時に炎症が起きて痛みが発するという説が有力になった。傷を治す際に、ブラジキニン、ヒスタミン、セロトニン、プロスタグランジンなどが筋肉内の血管に多く生まれて痛みが出るらしい。

子どもの腰痛は、この菌繊維の炎症によるものであろうか。どうも、この菌繊維の炎症による筋肉痛とは違うような気がするのである。腰痛が起きる他の原因というと、繊維筋痛症がある。これは脳の誤作動によるものだと言われている。他にはTMS(緊張性筋炎症候群)というものがある。これは、怒りとか憎しみを無意識下で脳が忘れさせようとして起きる痛みである。子どもの腰痛の本当の原因は、もしかすると脳による誤作動か無意識下で起こしている筋繊維の炎症かもしれない。これらの要因は、ストレスやプレッシャーからである。子どもたちの脳に大変なことが起きているのかもしれない。

今までの多くの方々の心と身体の悩み相談を受けていて、メンタルや深刻な身体の疾病についての経験談を聞かせてもらった。その中で殆どの人に共通しているのが、重大な疾病やメンタル障害を起こす前に辛い腰痛の症状があったという点である。不思議なことに、多くの人々が腰痛や肩こりに長い期間悩まされてきて、最期にはメンタル障害や重篤な疾患に追い込まれているのである。そして、家庭や職場で多大なストレスやプレッシャーに悩まされていたというのも共通している。特に、深刻な人間関係に悩んでいて、自分の努力ではどうしようもない状態に追い込まれていたというのである。

もしかすると、子どもたちの腰痛の身体的な原因ではなくて、多大なストレスやプレッシャーによるものではないのではなかろうか。中学生受験や学業成績に対する親からの過剰なプレッシャー、回りの教師や学友からのいじめや嫌がらせによるストレス、家族との軋轢などが複雑に絡みあって、子どもたちの脳に無意識に誤作動などを起こさせて、痛みを発症しているとすれば大変なことである。近い将来、メンタル障害や重篤な身体的疾患を起こしはしないだろうか。または不登校やひきこもりを起こす前の症状ではなかろうか。深刻な腰痛や肩こりを起こしている子どもたちに対して、適切なカウンセリングが必要ではないかと思われる。単なる腰痛だからと、投薬治療を選択してほしくないものである。腰痛はメンタル障害のサインだと心得たい。

巣立ちの息子に伝える父の言葉

今の時期になると、三人の息子が大学入学のために独り暮らしを始める際に、こんな言葉を必ず伝えていたことを思い出す。三人の息子は、それぞれ県外の大学に入学したので、アパートに入居するために、3月のこの時期に引っ越し準備をしていた。その息子に対して大事な話があると、二人きりでお互いに正座して、じっくり話をした。それは、一人の男として人間として生きていくうえで必用不可欠なことであり、息子に対して父親しか言えないことでもあった。

その話とは、女性に対する思いやりであり、女性の人権を尊重するということでもあった。身体的にも脆弱で精神的にも傷つきやすい女性に対して、男たるものはその弱さや傷つきやすさをまずは深く認識すべきだということを伝えた。そのうえで、女性の身体を傷つけたり精神的な迫害をしたりしてはならいないということを肝に銘じておくようにと言い含めた。さらには、女性の尊厳を傷つけてしまうようなことも、絶対に避けるべきだということも伝えたのである。

例えば、単なる欲望の捌け口として、女性を利用しようとしてはならないし、相手の望まない性交渉を強要してはならないこと。性行為は、お互いの同意が必要であることは勿論のこと、根底に愛情が伴わないような衝動的性交渉は避けるべきこと。ましてや、性行動には妊娠という結果がついてくるので、お互いに経済的な自立基盤がない時期に、結婚するという覚悟がなければなるべく性行為はすべきでないということ。万が一妊娠させてしまうと、学生の身分では堕胎せざるをえず、そうすれば2度と妊娠が出来なくなるような心身のダメージを女性に与えてしまうから、絶対に避けなければならないことを伝えた。

さらには、男たるものどうしても愛欲や性欲に流されてしまうこと。だからこそ、そのような欲望にも毅然として立ち向かい、欲望に負けない精神性を持つことも伝えた。例えば、お酒を飲んだ時などは、ブレーキが利かなくなることが多い。だからこそ、自分を制することができるレベルまでしか酔わないような飲酒をしなさいと言い聞かせた。飲んだ時に歓楽街を歩いていると、いろんな誘いをかけられる。くれぐれも呼び込みを使って誘い込むような飲食店には、危ない目に遭うから絶対に付いて行かないようにと釘を刺した。

世の中には、女性の身体を売り物にした商売が存在する。例えば、下着姿や裸を売りにしたようなキャバレーやパブがある。飲みに来たお客に売春をさせる店もある。ソープランドと呼ばれる場所もある。このようなお店に行くことは、絶対に勧められない。何故ならば、お金で女性の身体を自由するということは、本人も納得しているし収入を得る為とは言え、女性の尊厳を傷つける行為であるからである。女性がお金の為に自分の身を売る行為は、自らの尊厳を傷つけてしまい、自己否定感情を強化させてしまうから不幸な人生を歩むことになりやすい。それを利用する男性がいるから、このような商売が成り立っていることを認識すべきだと付け加えた。

このように、独り暮らしをする息子らに対して、言いにくいことをしっかりと伝えたのである。看護師をしているwifeは、仕事柄多くの不幸な女性を見てきた。そういうこともあって、自分の息子が女性の心身を傷つけてしまうようなことをしてほしくなかったと思われる。だから、女性の親としては言いにくいことを、男の私に言わせたのだろうと思われる。娘を持てなかった私たち夫婦だからこそ、娘さんを大事に育ててきた親御さんのことを思うと、このようなことを息子に伝えざるを得なかったと言えよう。

武士道においては、惻隠の情(惻隠の心)を大事にしなさいと教えている。会津藩では、什の掟というものがあり、その中で『弱きものをいぢめてはなりませぬ』と戒めている。つまり、社会的弱者に対しては、強者たるものはいじめたり傷つけたりしてはならないということである。「強きをくじき弱きを助ける」をモットーにして生きるべきだと思っている。息子たちにも小さい頃から、惻隠の情としての弱きものに対する慈悲の心を持つことを、教えてきたつもりである。身体的には男性よりも圧倒的に弱い女性を、外敵や攻撃する者から身を挺してでも守るのが男性である。そのことをしっかりと伝えてから、独り暮らしをさせてきた。今でも、その戒めを守ってくれているものと信じている。

NPOで人材育成が出来ない訳

NPO法人は、経営としての自立は出来ないものの、人材を育てるという役割を果たしてくれていると、肯定的に見ている人は少なくない。確かに、ある意味人材育成という点ではある程度の貢献をしているように思える。県からの委託事業において、東日本震災後に緊急雇用委託事業として多大な金額が福島県を始め、宮城県、岩手県などでばらまかれた。その緊急雇用委託事業として多くの人材を雇用できて、NPO法人が人材育成に力を注いだのも事実である。

しかし、緊急雇用委託事業で育成した人材が、どれほど一般企業に厚遇で採用されただろうか。または、NPO法人で学んだことが、どれほど民間企業で生かされたのであろうか。NPO法人で、18年間に渡り実際にいろんな人材の育成に携わってきての感想であるが、満足な成長や進化を遂げた職員は残念ながら居なかった。勿論、私は非常勤の理事・役員であるし、指導専門の事務局も居たので、あまり出しゃばることを控えていたせいもあるが、満足な指導が出来なかった。それじゃ、専任の理事がしっかりと指導教育をしたのかというと、残念ながら満足の行く成長は出来なかったと言わざるを得ない。

確かに、ごく一部の人材について言えば、素晴らしい自己成長を遂げたと言えるかもしれない。しかし、それは例外中の例外であって、日々の事務的な業務に追われるのが常であり、民間企業にとっても必要不可欠な人材として成長できたケースは殆どない。何故、そんな結果になったかというと、NPO法人において人材を立派に指導育成するような常勤理事や事務局が存在しないからである。ごく稀に自己成長できたケースは、自ら学ぼうと決意し自分で勉学に励んだ人だけである。内部の人材育成によって見事に自己成長を遂げたと言える例は、殆どないと言っても過言でない。

NPO法人は人材不足である。勿論、事務員としてある程度使える人材はいる。しかし、自分で発案して企画し、デザイン思考に基づいて計画立案し、各行政機関や民間企業と調整しながら営業活動をして、事業管理をすると共に微調整しながら完遂し、すべてをマネジメントできる人材は皆無である。ましてや、リーダーシップを取りながら完璧なコーチング技法や心理学的な育成手法を駆使して、優秀な人材を育成できる常勤理事や事務局長はいない。NPOの常勤で働く人材は、残念ながら民間企業でも活躍できるような人材がいないのである。

民間企業において、それこそ将来にトップに立てるような優秀な人材は、間違ってもNPO法人に転職するようなことはあり得ない。どちらかというと、民間企業で役に立たないというか、他の役職員と良好な関係性が保てないような社員がNPO法人に転身するケースが多い。非常勤のNPO役員であれば、民間企業で活躍している人材が兼務する例もあるが、常勤の役職員ではあり得ないのである。1千万円前後の年収を棒に振って、NPO法人に年間300万円以下の年収で転職するなんて、考えられないのである。

人材が成長する為には、優秀な『師』が必要であろう。その師とは、圧倒的に優秀な能力や経験も必要であるが、関わる人すべてがリスペクトしてしまうような人間力が求められる。こういう人材が、民間企業には多く存在するが、残念ながらNPO法人の常勤役職員には居ない。NPO法人の役職員の理念は、立派であるのは間違いない。しかし、その理念は、経済的しかも精神的な自立に基づいたものでないと、所詮付け焼刃的なものでしかない。言葉だけの理念は、人々をけっして感動させないし、社会の意識改革を果たすことは出来ない。行動や実績を伴わないと、人々は信頼しないのである。

民間企業にだけ優秀な『師』が存在する理由は、次の通りである。民間の営利企業において存続と発展をし続ける為には、役職員はそれこそ一丸となって不退転の決意で努力する。民間企業は多くのステークホルダーを背負っているから、その利益を損なうようなことをしてはならないと、真剣に我が身を削ってでも精進せざるを得ない。残念ながら、NPO法人の経営にはそれほどの真剣さは感じられない。人材は切磋琢磨されないと成長しないのである。民間企業の役職員に、優秀な人材と『師』が育つのは当然である。NPO法人でも優秀な人材を育てる為には、ビジネスとしても成功するような自立経営が必要不可欠であろう。

一人でも真の味方がいれば

不登校・ひきこもりの青少年が増えている。学校も含めたこの社会があまりにも『不寛容社会』であるが故に、学校や職場などに居場所が見つからず、不登校やひきこもりという選択をするしかなかったと思われる。そんな不登校とひきこもりの状態にある青少年は、何とかこの状況から抜け出したいと、懸命にもがき苦しむ。しかし、焦れば焦るほどメンタルや肉体は傷つくし、自己否定感は益々強くなる。だから、不登校・ひきこもりの状態を抜け出せないのである。

保護者、学校関係者、職場の人たちは、何とか救い出したいと努力をするが、一度不登校やひきこもりの状態になってしまうと、どんな方法を駆使したとしても救い出せないのが実情である。メンタルの障害を何とかしなければと、医療や福祉、または精神保健の専門家に助けを求めるが、一時的な症状の緩和は認められるものの、残念ながら完全復帰は難しい。深刻なのは、本人が治療や復帰に対して消極的であるという点と、一度復帰したとしても再度不登校やひきこもりの状態に陥ってしまい、益々症状が強化されてしまうことである。

不登校とひきこもりの青少年に共通しているのは、非常に強い孤独感である。つまり、自分はひとりぼっちだという感覚に陥っているのだ。親もいるし、先生もいるし、上司や同僚もいるし、精神保健の専門家や医師も味方だと言っているものの、自分の本当の味方だとは当人が認識していないのである。ここに、実は社会復帰できない理由があると思われる。「私はあなたの味方ですよ」と温かく言葉掛けをしているのだが、その言葉が実は当人の心には響いていないことが多い。自分の真の理解者は、誰もいないんだと思い込んでいるのである。

何故、彼らはそんな孤独感を抱えてしまっているのであろうか。親も、先生も、上司や同僚も、精神保健の先生たちも、みんなが心配している。それぞれが、当人の味方になりたいと思っているのは間違いない。しかし、当の本人は味方と認識していないのである。それは、味方になり支援しようと思っている人たちが、その当事者であり利害関係者であるからである。当人を何とか完治させて、社会復帰させようという強い意思を持っていることが、ありありと本人に解ってしまっているが故に、皮肉にも『真の味方』になり得ていないのである。

悩み苦しみ、自分を否定して、自らを責め抜いてしまっている人間に、今の考え方や生き方が間違っていると、益々否定するようなことを知らず知らずのうちに言ってしまっているのである。言葉に出さずとも、あなたの生き方には同意できないという行動、つまりは不機嫌な態度や悲しい表情、無言の圧力を与え続けているのである。どんなに優しい言葉や態度であっても、本人の行動を否定するような意思が見え隠れしていたとしたら、当人はその人間を心から信頼することはないし、心を開くことはあり得ない。だから、味方とはなり得ないと言える。

まず大切なのは、悩み苦しんでいて、自分自身を情けなく思っている当人に対して、まるごと否定せずに受け止めることである。ひとつひとつの行動も、発する言葉も、考えも、性格も、人間性も、一切否定せずにすべてに共感することである。彼らの悲しみ苦しみ悩みをまるごと受け容れて、同じ感情を共有することが肝要であろう。例え、その認識や考え方が間違っていたとしても、間違いだと指摘せず、まずは共感することが必要なのである。そうすれば、彼らの心の奥底までも入り込むことが出来て、真の味方として認知してくれるのである。

そのうえで、否定していると思われないように優しく質問をしてあげるのである。それは、共に学び気付きたいという態度で、けっして相手に何かを気付かせようとする態度を取ってはならない。そうすれば、彼らは自分のこだわりや固定観念に対して、初めて疑念を抱くことが出来て、ニュートラルな考え方にシフトできるようになる。そして、新たな正しい物語を自分の心の中に築き始めることができるのである。その新たな物語を再構築するのを、そっと寄り添い支援するだけでいい。これが彼らの認知を再構築できる唯一の方法である。誰か一人でも、彼らの真の味方になりえることが出来たとしたら、苦しい生き方から抜け出せること可能になる。真の理解者が一人でもいれば、彼らは勇気を持って自立に向かって歩み始められるのである。

※「イスキアの郷しらかわ」での相談業務は、真の味方(理解者)になれる『ナラティブアプローチ』の手法を取っています。私たちは、利害関係者でもありませんし当事者ではないので、クライアントに対して支配的でもないしコントロール的でもありません。保護者に対しても、本人に対しても何も否定せずまるごと受け止めて共感をする態度で相談を受けています。相談料も研修料も頂いていませんから、あくまでもボランティアなので、相手に何も求めませんし、相手の尊厳を認めます。支援とは、本来はこのようにありたいものです。

自分を責めなくていいんだよ

不登校やひきこもりの状態にある子どもたちや若者に共通して存在するのは、自分を責める心である。自分がこのような状態に追い込まれているのは、自分が悪いせいだと責めているし、こんなにも弱い自分が許せないと思っている。そして、何よりも親に心配かけていることにも自責の念を抱いている。そして、自分でも何とか解決したいと思いながら、どうにもならない自分の勇気のなさも気にかけている。さらに、主に子育ての役割を果たしていた母親もまた、不登校やひきこもりの子どもにしてしまった自分を責めている。

★セツブンソウ(2月から3月に咲く花)

不登校やひきこもりをするようになったのは、本人と子育てをした親に責任があると思っている人は多い。何故なら、誰にとっても同じ学校の環境なのに、学校に行けないのは本人の心の弱さであり、そのように育てた親に責任があると考えてしまうからである。学校の先生も同じように考えている節がある。すべての児童生徒に対して、同じように教育と指導をしている筈なのに、どうして特定の児童生徒だけが不登校になるのか不思議だと思っている。本人とその保護者に責任があると思うのだから、口にこそ出さないが不登校の責任は学校にはまったくないと思い込んでいる。

しかしながら、不登校やひきこもりになった責任は、本人にはまったくない。ましてや、子育てをした親にも責任はない。不登校やひきこもりにさせてしまった本当の責任は、学校と社会にある。学校、職場、地域すべての社会は、不寛容社会だと言われている。他と少しばかり違っていると、仲間から排除したがる。自分達と同じ考え方や言動をしないと、仲間外れにしたり虐めたりする。他との違いを個性として認めないし受け容れないのである。不寛容社会は、多様性を認めないから生きづらいし居場所がない。だから、不登校やひきこもりがなくならないのである。

不登校児とひきこもりの青少年、そしてそのご両親に対して、自分のことを責めなくていいんだよ!と申し上げたい。そのうえで、敢えてご両親に助言したいことがいくつかある。先ずは、子どもたちは学校に行けないことで罪悪感を持っていることを認識してほしい。したがって、学校に行けないことを責めるのは止めてほしいということだ。自分で自分を否定している子どもを、さらに親が否定することは避けなくてはならないということである。学校に行けないことを、ことさら問題視しないでそっと見守ってほしい。

また、子どもを言葉で動かせると思い込むことは、よくないということも認識しなくてはならない。幼少年期までなら、言葉で子どもを動かせる。しかし、思春期に入ってある程度の自我が芽生えてくると、親の言葉で子どもを動かすことが出来なくなる。そして、やがてはお互いに言葉で主導権争いをしてしまうのである。さらに、それがお互いに不可能だと察すると、不機嫌な態度や無言の圧力をかけて、相手を支配し制御しようとする。これは、けっしてよくない結果を生み出すこということを認識したい。

さらに、親の期待が大きければ大きいほど、子どもを責めることになることを認識しておく必要がある。そして、それは本人への直接的な言葉でなくても、子どもを責めてしまうことにも繋がる。例えば、兄や弟が学業やスポーツで優秀な成績を取った場合に、不登校やひきこもりの子の前で誉めることは、無言の期待をかけることになる。また、親戚や知人の子が、優秀な成績で有名高校や著名大学に入ったこと、大企業に入社した話なども、その子の前で言う事は禁物である。優秀な子と比較されることは、自分が責められている事と同じなのである。他と比べるということは、本人を責めてしまうことになるのだ。

最後に、意外だと思うかもしれないが、励ましも本人を益々責めることになるということも認識すべきだ。やがては学校に行けるようになるよ、ひきこもりから復活できるから心配ないよ、という言葉は本人にとって実に残酷なのだということを知らない親が多い。親がこんなに励ましてくれているにも関わらず、実際にその通りに出来ない自分がもどかしく、そして期待に応えられないことに幻滅し、自分が情けなくて益々自分を責めることになる。辛い自分、苦しい自分、情けない自分、責めてしまう自分に対し、親はまるごと共感して、否定せずにそっと寄り添うことが求められる。そうすればやがて、自分を責めなくてもいいのだと自ら思えて、少しずつ自立に向かうことが出来るに違いない。

不登校は必ずなくせる

不登校がゼロの学校は、全国では殆どないという。ごく少人数の分校程度の小規模校や離島の学校なら不登校ゼロもありえるが、たいていの学校において不登校児童が存在する。文科省が不登校をどのように定義しているか、正確に把握している人は極めて少ないという。年間30日以上、病気や経済的理由以外で休んだ場合を不登校と定義している。

しかし、特記事項が付いていて、実際に30日以上休んでいても不登校と扱うかどうかは、当該学校の管理者の判断に委ねると記してある。しかも、保健室登校や放課後登校でも登校扱いされるのである。不登校児童の数が実際よりも少なくカウントされるというマジックが存在するのである。文科省、県や市町村の教委、そして学校の管理者も不登校が多いと自分たちの管理責任が問われるのだから、実数よりも不登校を少なく見せようという意思が働いても不思議でない。

不登校がゼロの学校が唯一存在する。それも大阪市立の公立小学校である。大空小学校という1学年1クラスの小規模学校であるが、不登校児童はまったくいない。何故、不登校児童がいないかというと、不登校ゼロを学校の絶対に達成すべき目標に設定していて、教職員が一丸となって努力しているからである。発達障害や知的障害の児童も普通学級で一緒に勉強しているが、不登校児童がゼロである。学校だけでなく地域の人々もボランティアで不登校を無くす努力をしているので、「みんなの学校」と呼ばれている。

この学校では厳しい規則はまったくないが、守るべき約束がある。『人が嫌がることをしない、言わない』というのがそれである。これを守らない児童は、校長室に呼ばれて自らの非を認めて、2度としないことを約束する。勿論、教職員も同じだ。子どもたちに対して不適切な指導をしたら、校長室に呼ばれて「教師なんか辞めちまえ!」と厳しく叱責される。児童中心の教育を徹底して実施しているのである。だから、教師による不適切な指導で子どもたちが学校に行けなくなることが皆無なのだ。

地元の小学校で、ある校長がこんな指導をしていた例があると聞いた。心優しく優秀な児童が不登校になった。この児童に対して、校長は放課後の時間に校長室に来て勉強するようにと提案した。心無い教師や他の児童が居ない環境で、安心して勉学に励んで、無事に卒業できたという。その子どもは、中学校に行っても不登校になった。校長は定年退職後に地元の公民館で社会指導主事をしていた。公民館に来なさいと子どもを誘い、可能な限り勉強を教えたという。この子どもは、地元で一番優秀な高校の特別進学クラスに進み、著名大学に進んだとのことである。

このような実例から導き出される結論は、不登校は学校関係者の対応が適切であれば、無くすことが可能だということである。学校関係者は、不登校の原因は本人とその家族にあると思い込んでいる。他の児童生徒は普通に登校しているのに、学校に来れない原因は本人にあると勘違いしているのである。これは、完全な間違いである。普通に登校している児童生徒が異常だと言えるのである。お互いの関係性が最悪で、悪意と攻撃性に満ちている学校の現状に、息苦しさを抱えている不登校児童が正常なのである。

不登校の子どもたちは、心優しく感受性が強いという特性がある。他人の悪意に満ちた言動に、心が傷つけられる。自分は虐められていないが、回りの子どもがそのような虐めに遭っているのに、自分がそれを助けられない自責の念にさいなまれていることが多い。自分が同じ目に遭うのではないかという不安もある。先生の心無い言動にも傷ついているのである。他の鈍感な子どもたちが気付かないことにも感じてしまい、いたたまれないのである。

このように不登校の優秀で心優しい子どもたちを、見殺しにしている学校とその教職員に責任があると言えよう。だから、学校が変われば、そして教職員の意識が変われば、不登校はなくなるのである。しかし、教職員や登校している子どもの保護者たちは、先生が忙し過ぎてそんなことは不可能だと口を揃えて言う。そんなことはない、やろうとしていないだけである。『なせばなる、なさねばならない何事も、なせぬは人のなさぬなりけり』と上杉鷹山は断言して、米沢藩の行政改革を成し遂げた。不登校をゼロにしようと努力もしないで、最初から出来ないと諦めるのは無責任であり、『悪』である。

※イスキアの郷しらかわでは、不登校の本当の原因を追究して、日本から不登校を無くす活動をしています。さらに、不登校の子どもさんのサポートと、ご両親への相談支援をさせてもらっています。下記の問い合わせフォームから相談を受けています。すべてボランティアでさせてもらっています。

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不登校児の親を悩ませる専門家

不登校とひきこもりの子どものお母様方から相談を受けているが、絶対に許せない対応をしている専門家がいることに驚く。ある臨床心理士(カウンセラー)に不登校の子どもの対応について相談すると、「卒業式に出られないようなら、もう望みはないから、絶対に卒業式だけには無理してでも出席しなさい」と子どもを説得したらしい。それも、50分のカウンセリング時間、ずっとそのことだけを言い続けたと言う。今時、そんな時代錯誤のことを子どもと親に言うカウンセラーがいること自体が不思議である。

カウンセラー(臨床心理士)は、それこそ大学院まで専門教育を受けて、著名な教授から認定を受けた専門家である。心理学を専門に勉強して、児童心理学だって相当深く学んだ筈である。不登校の子どもの心理が解らないことなんてあり得ない。カウンセリング後にこの子どもは、カウンセラーが大嫌いになり、他のカウンセラーであっても2度とカウンセリングに行かないと宣言したという。懸命な判断であろう。こんなカウンセラーに相談しても、悪化することはあっても良くなることは絶対にありえない。クライアントに信頼されないカウンセラーがいるなんて、信じられないことである。

さらに、このカウンセラーを不登校児の親に紹介したのが、学校の教頭だったらしい。その教頭は、このカウンセラーはとても優秀なので、是非カウンセリングを受けなさいと勧めたという。それで、相談後に教頭にくだんの話をして、酷いカウンセラーだったと伝え、とんでもない専門家を紹介してくれましたと苦情を言ったら、黙り込んで謝罪もしなかったということである。この教頭も最低の人間である。このカウンセラーは、以前から悪評で有名な人物である。教育の専門家ならば、事前にそういう情報の収集をしっかりとしてから紹介すべきであろう。

また別の発達障害の子を持つ親が、ある権威ある児童精神科医に診察してもらい相談したところ、「この子は高校に入学するのは難しいから、就労のための訓練を早々に始めなさい」と言われたらしい。いくら発達障害の専門家だと言っても、小学生のうちから将来を悲観するようなことを親に言う権利があるのだろうか。発達障害であっても、高校、大学を出て立派な職業に就いている人がいることを知らない訳でもあるまい。それなのに、可能性を否定するようなことを平気で言って、親を絶望させてしまうなんて許せない卑劣な行為である。

このように、医療や教育の専門家が不登校児や発達障害児の親を不安がらせ、益々悩ませるようなこと言うのは、本来あり得ないことである。不登校児や発達障害児の親が、子どものことをどれだけ心配して、とても不安な気持でいることを知らないのであろうか。その不安な心を逆なでするような行為は非道とも言えよう。実は、これらの専門家だけではなく、他にも沢山の酷い医療専門家がいるのも事実である。こんな問題のある専門家だらけであるから、不登校児や発達障害児の親たちは、安心して相談する相手がいないのである。多くの親たちが、困り果てて悩んでいるのは、こんな事情があるからである。

昨日と本日の2日間に渡り、イスキアの郷しらかわにて発達障害・不登校・ひきこもりについて学ぶ会を開催させてもらっている。発達障害・不登校・ひきこもりの子どもや若者たちが増加している要因とその背景、そして保護者がどのように関われば良いかを、解りやすく説明させてもらっている。適切な保護者の対応と支援、そして数多く自然体験や農業体験をすること、さらには食事や生活習慣を適正にすることにより、今の症状を緩和させることが出来る可能性があることを伝えている。親たちの将来に対する不安や恐怖感を和らげてあげることが、子どもたちの不安を取り除くのに有効であることを、今までの数多くの相談経験から学んでいるからだ。

不登校児と発達障害児の親に対する親身になった相談支援こそが、是非にも必要なのである。しかも、その相談はあくまでも、相手を否定しない傾聴と共感を基本にしたものであるべきだ。親たちの不安や恐怖感、または諦め感を助長させるような相談をしてはならない。不登校児と発達障害児の子育てで、それこそ悩ましく苦しく悲しい思いを沢山してきたのである。お母様たちに、「よく一人で頑張ってきましたね、さぞ辛かったことでしょう」とその苦労をねぎらい、悲しみや悩みに共感することで、お母さんたちの心は安らぐことができる。そして、すべてを受容して寛容の態度で接してもらえば、自らの自己成長を実現させることが可能になり、しいては子どもたちの心も変化する。これこそが、森のイスキアの佐藤初女が実施してきた相談支援である。とんでもない専門家によって傷つき心が折れてしまったお母さんたちを、これからも支援していきたいと思っている。

違いを怖れない

学校内などでの友達との関わりあいにおいて、皆と違う考え方や言動をすると、笑いものにされるらしい。それだけでなく、排除されたり虐められたりもするというから怖い。いじめの行為に対して、勇気を持って止めるように注意をすると、皆と違う行動する変な子として、次はいじめの対象者になることも多いと聞く。学校現場においては、皆が同じ方向を向いて、同じような考え方で行動することが、暗黙の了解らしいのである。したがって、それに背こうものなら、『変な人』というレッテルを貼られて、仲間外れにされるというから恐いことである。

他と違っているということだけで、疎外をしてしまうというのは、やり過ぎではないだろうか。そう言えば、皆と違うような意見を述べると、ネット上で炎上してしまうのも同じようなことかもしれない。なにしろ、皆が同じでないと安心できない人々がいるのは確かである。人は人、私は私と割り切れないものであろうか。そう言えば、あまりにも厳しい校則があり、生まれつき茶髪の子が黒く染めなさいと指導された学校があったと聞く。少しぐらい髪の毛の色が違うからと、目くじら立てて厳しく指導するというのも、違いを許せない性分から出た行為であろうか。

自然界の中で、多くの植物や動物が存在し、それぞれ同じものや生き物が二つとないことを知っているであろうか。勿論、人間も二つとして同じ人間はいない。何故かというと、それが生物の多様性であり、同じものだけだと種が滅びかねないからである。厳しい気候変動や地殻変動などで、その環境変化についていける動植物やついていけない動植物がある。種が生き残るためには、様々な環境にも適応した種が必要である。まったく同じ個体であれば、すべての種が滅んでしまうからではないかと見られる。人間だって例外ではない。種の保存には、多様性があったほうが生き残る確率は高くなる。

地球上には、実に様々な病原菌やウィルスが存在する。それらの病原菌やウィルスに強い人間がいないと全体が死滅してしまう。だから多様性を与えてもらったのかもしれない。さらに、人間に多様性が必要だった理由が特別に存在する。それは、人間がそれぞれに違うことによって、他人と自分の違いを認識できて、自分という存在がどういうものかということを知って認めることができる点である。人間全員が同じであったなら、他人との違いを認識できず、自分の存在意義を知ることが出来ない。自分はあってもなくても良くなってしまう。他人と違うから自分の必要性を感じることができるのではないだろうか。

さらに、自分と他人の違いがあることで、自分よりも優れていたり尊敬出来たりする部分を他人に発見すれば、自分もそうなりたいと努力すべき目標ができる。または、相手の中にとても醜いものや汚れた部分を発見すれば、そういう部分が自分にもあることを知ることで、そのマイナスの自己を乗り越えることができよう。だから、自己成長や自己実現の為にこそ、他人と自分が違うことが必要なのである。これこそが人間に多様性が与えられた理由ではないかと思うのである。それなのに、皆と同じように考えて同じことをしていたのでは、自らの成長がありえないし、人間の進化も停止してしまうのではないだろうか。

学校や職場で、発達障害や自閉症スペクトラムの人を排除したりいじめたりすることは、多様性の観点からも絶対にしてはならないことである。そして、その違いを認め受け容れることで、自分のさらなる成長も約束されるのであるから、違いを揶揄したり笑いものにしたりしてはならない。自分が他人と違っていることを、卑屈に感じたり恥ずかしいと思ったりしてもならない。堂々と違いを見せつけていいのである。違いを怖れてはならない。そして、その違いを認め受け容れられるような寛容社会を創り上げる努力を、我々は粛々と実行して行かなくてはならないのである。

このように皆が同じような考え方をして同じ行動をしたがるのは、絶対的な自己肯定感がないからではないかと見られている。何故、自己肯定感が育てられなくて、自己否定感が強いまま大人になっているかというと、生きていくうえでの確かな価値観が確立されていないからであう。例えば、システム思考という価値観がある。全宇宙におけるすべての物体と生き物、または人間そのものは、全体最適と関係重視の価値観によって存在している。自分もその全体最適と関係性重視の価値観に基づいて生きるという確固としたシステム思考の価値観が身についていれば、絶対的な自己肯定感が生まれる。そうすれば、他人と違うことを幸福に感じ、『変人』と呼ばれることを逆に喜びにできる。違いを怖れることはないのである。

不登校とひきこもりを考える会

不登校・ひきこもり・発達障害を考える会を開催します。翌日の26日にも開催しますが、土日にも開催してほしいとの要望を受けて、2月25日(日曜日)にも開くことにしました。是非、ご参加ください。質疑応答や個別相談会もお受けいたします。

父親が育児で学ぶ本当の優しさ

育児をする男性をイクメンと呼ぶのは定着してきたようで、非常に喜ばしいことである。とは言いながら、逆説的に考えれば育児に協力的な男性は、またまだ少数派であり、多くの男性はあくまでも仕事優先であるという証明でもある。殆どの父親は、空いた時間に申し訳程度に育児を手伝うレベルかと思われる。そもそも、育児は母親の役目だと思っている人が大多数であり、共働き世帯であったとしても、家事育児は女性のほうが圧倒的に担う割合が多い。だから、「お母さんをやめる」などと悲痛な叫びが起きてしまうのであろう。

専業主婦であったとしても、育児に対する負担は大きいのである。だから、出来得る限り育児や家事の役割分担を夫にしてほしいと思っている。ところが、仕事が忙しいし育児は苦手だと勝手な理由をつけて、育児を放棄する男性が多いのである。良妻賢母なんて言葉があるが、これはとても危険なワードだと思われる。家事育児は女性の役目だと言わんばかりであるし、女性たちに無言の圧力をかけている。家事育児を女性がするのは当たり前であり、良い妻であり賢い母であることが当然だと、女性たちに強制する悪魔の言葉であろう。こんな男性の立場から自分達に都合よく勝手に作った言葉に騙されてはならない。

さて、イクメンは素晴らしいことだと世間では賞賛されているが、なかなかイクメンになろうとしない人たちがいる。それは、やはり育児をしようという気持ちになるハードルが結構高いのではないかと見られる。育児は、非常に難しいと男性が思い込んでいる節がある。まず幼子が泣いていると、何故泣いているのかが解らない。オシメを替えたり授乳したりするのも難しそうであるし、うんちをした際にふき取るのは勇気がいる。遊んであげるのはいいが、むずがったり反抗されたりされたら、お手上げである。育児をするくらいなら、仕事をしていたほうが遥かに楽だと思っているから、仕事に逃げ込むのであろう。

ところが、男性がこの育児をすることで、驚くほどの自己成長を遂げることが出来るのである。それも、育児でしか気付くことが出来ないし学べないことがあるのだ。それは、人間として一人前になるために通過しなければならない『修行』みたいなものである。端的に言えば、心の成長である。男性は、どちらかとい言えば女性に比べると相手の心を読むことが苦手だ。相手の気持ちになりきって、相手の悲しみや悩み、苦しみを自分のことのように感じることが出来にくい。だから、よく言われるように男性は空気が読めないのである。話も聞かないし、相手に共感できないのだ。

どの家庭においても同じだと思うが、夫は妻の話を我がことのように思いながら話を聞くことはあるまい。優しいのだが冷たいとは、こういうことである。妻の辛くて悲しい話を聞いて、涙をぼろぼろ流しながら聞く夫がどれだけいるだろうか。こんな夫はそうそういない筈である。相手の話を自分のことのように聞いて、感情を共有することを、『慈悲』と呼ぶ。つまり、相手の悲しみをまるごと否定せず慈しみ、我がことのように涙を流して悲しむことを言うのだ。この慈悲の心を持つことが出来ないと、人間としては一人前とは言えない。

ところが、数人の子育てで苦労を経験した女性には、ありがたい慈悲の心が芽生えるのである。勿論、育児をしないと絶対に慈悲を獲得できない訳ではないが、極めて少ない。何故かと言うと、子育てをしている際に、泣いている我が子の気持ちや思いを汲み取ろうと真剣に努力するのだ。子どもが何故泣いているのか、何故怒っているのか、何故嫌がるのか、子どもの心になりきって心を読もうと必死になるのである。つまり、子どもの心と一体化させないと、子育ては上手く行かないのである。これが自他一如という極意でもある。自分と他人の心がひとつになるには、子育てを経験するのが一番である。

男性も子育てをたくさん経験することで、この『慈悲』の心を獲得する道が開かれるのである。この相手の気持ちを我がことのように感じられるようになると、自分の至らなさや未熟さもよく認識できるから謙虚になる。コーチングの基本は、傾聴と共感だと言われている。まさに、育児をすることで知らず知らずのうちにコーチングが出来るのである。これはビジネス場面においても、非常に有効である。会社のリーダーとして、なくてはならない能力である。慈悲を持つビジネスマンは、お客様にも部下にも好かれるから、敵なしである。だからイクメンは、会社で出世するのである。育児を経験することで、本当の優しさが生まれる。夫婦愛が強まるし、家族愛が高まるから不登校や引きこもりも起きない。こんなにも男性を成長させてくれる子育てを、しないという手はない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「イクメン研修」をしています。どうすれば子育てが上手く出来るのか、実例を上げながら学びます。旦那様が育児に対して非協力的で困っているという奥様、ご夫婦でいらっしゃれば、さりげなく子育ての魅力と必要性について話をさせてもらいます。是非ご検討くだい。申し込みと問い合わせは下記の問い合わせフォームからどうぞ。

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