新幹線内無差別殺傷事件に思うこと

またもや新幹線内で悲惨な事件が起こされた。犠牲になられた方とご家族に謹んでお悔やみを申し上げたい。それにしても、治安の良い日本の、それも新幹線という誰でもが利用する安全な乗り物の中でこんな凶行事件を起こすなんて信じられないし許せないことである。多くのマスメディアは、こういう凶行事件が起きる度に、なお一層の安全対策を求める声を大にして訴える。しかし、誰でも何時でも制限なく乗れる公共交通機関においては、このような凶悪事件が起きることを防止するのは基本的に難しいのが現状だ。自分で自分の身を守るしかないのであろうか。

こういう無差別凶悪事件が起きる度に、殆どのマスメディアは安全対策が不十分だからこんな事件が起きるという論調になる。そして、犯人がいかに凶悪で特別な人間であり、こんな人間は絶対に許せないと主張する。そして、マスメディアはどうしてこんな凶悪な犯人が生まれたのかという分析をして、親の養育に問題があったと結論付けてしまうことが多い。このような人間を生み出してしまったバックグラウンドや社会の歪みや闇までも明らかにして行こうという意思は感じられない。本当の再発対策は、こういう人間を生み出さない社会を創ることではないかと思うのだが、そこまで到達しないのが不思議である。

犯人の素顔や養育環境が、少しずつ明らかになってきている。子どもの頃に不登校になり、やがて引きこもりの状態になっていたという。世の中に非常に多いパターンである。そして、両親の手を離れ祖母の家に居候していた事実が明かされている。とても育てにくい子どもで親と仲違いしていたので、祖母に養育を任せていたという。父親のインタビューの返答がすごい内容である。こんな事件を起こした原因と責任は、あくまでも本人にあり、どのようにして償うかは本人次第だと言っていた。こんなにも子どもに対して冷たい親が存在するなんてびっくりである。

確かに、成人したらすべて自己責任である。だとしても、いつまで経っても親子の関係は断ち切れない。どんなに年齢を重ねても、我が子を思う親の愛情はある筈である。それなのに、この犯人の父親には我が子を思う情愛がまったく感じられないのである。今まで、いろんな無差別凶悪事件の犯人像を見てきたが、やはり父親の愛情が希薄であったように思う。どんなに厳しい子育てであっても、その根底に愛があれば良い。しかし、愛情の欠落した躾は、子どもに悪影響しか与えない。

父親のインタビューでさらに驚くことが語られていた。子どもは家庭内暴力を奮っていたらしいが、父親自身も子どもを虐待していたと認めていたのである。暴力は連鎖するし、世代間にまたがって伝わっていく。この若者が無差別な存在にまで暴力を奮うようになったのは、暴力の連鎖によるものであろう。そして、この父親だけにその責任を押し付けるのは、筋違いとも言えよう。この父親だって、その祖先からもまた愛情をかけられなかったに違いない。愛情を持って育てられた経験のない親は、子どもを心から愛せない。

このような家庭は、今非常に多い。このような親子・兄弟の関係性が破綻した家族を機能不全家族と呼んでいる。そして、この機能不全家族を生み出した張本人は、我々であると言っても過言ではない。つまり、今回引き起こされた無差別殺傷事件の根本原因は、この歪みのある社会を構成する我々にあるのだ。この犯人の両親も、そしてその親もまた機能不全家庭で育った可能性が非常に高い。犯人の祖母のインタビューを聞いていても、やはり孫に対する愛情が感じられない。こういう機能不全家族を生み出したのは、間違った教育を続けてしまったこの社会にある。

子どもを愛せない、または子どもの愛し方が解らないという親が増加している。それは基本的に、社会教育と家庭教育が機能していないという証左でもある。しかし、そればかりが原因ではない。添加物過剰の食事などにも原因があるし、農薬や化学肥料を過剰使用した農産物にも原因がある。また、必要以外のワクチン使用や抗生物質などの乱用、または薬物の過剰使用にも原因があると言われている。これらによって腸内環境の悪化が起きて、脳内ホルモンの異常を生み、セロトニン、オキシトシン、ノルアドレナリンなどの分泌不足が起きて、親の愛情不足を生み出しているとも言えよう。このような社会の歪みや闇を放置した我々にも責任がある。二度とこのような無差別凶悪事件が起きないように、我々自身が社会変革に乗り出したいものである。

 

児童虐待は個人でなく社会に責任がある

児童虐待による悲惨な死亡事件が起き続けている。各地の児童相談所や子どもセンターが関わっているにも関わらず、解決することなく痛ましい結果を招いてしまっている。警察にも傷害事件として届けられていながら、適切な対応がされず何らの解決がされなかったという。ネット上やSNSでは、実際に虐待した父親だけでなく、守れなかった母親にも批判の矛先が向いている。また、児童相談所や警察にも批判が相次いでいる。確かに、適切な対応がされていれば、悲惨な結果だけは防げたかもしれない。しかし、この虐待問題は当事者だけの問題なのであろうか。

児童相談所は増え続けている虐待のケースに対して、絶対的なマンパワー不足があり、対応しきれていないのが現状である。1人の相談員で100人ものケースを扱っている相談所もあるという。ましてや、とても難しいケースがある虐待に対して、適切な指導力を発揮できる、経験豊かで能力のある相談員が少ないという事情もあろう。警察だって、刑事事件にして訴訟を維持できる証拠・証言を集めるのが非常に難しいことが解っているからこそ、児童虐待を見ないふりをしたがる。

マスメディアやネット上の批判者たちは、あいつが悪いこいつが悪いと批判をするが、本当の原因を希求するという態度が見られない。ましてや、抜本的な解決策を提起する人も少ない。政治も行政も虐待に対する対応は一応しているものの、根本原因を見つけ出して解決策を法案化する動きさえ見えない。ましてや、これらの解決策と呼ばれるものは、緊急避難的な対応策であり、完全に児童虐待を無くすというものではない。児童虐待が起きる本当の原因は、現代社会の歪みにあるにも関わらず、そこを解決する方向に一切向かわないのが不思議である。

このような悲惨な虐待事件が起きる度に感じるのは、この社会は本当に病んでいるんだなあという思いである。本当の我が子であろうとなかろうと、か弱くていじらしい幼子に対して荒々しい攻撃性を示すというのは、考えられない。この人間はどんな育てられ方をしたんだろうという忸怩たる思いがある。自分よりも圧倒的に弱い存在を、本来は守り育てる気持ちを持つのが人間である。人間として当たり前の感情が育っていないのである。こんな教育をしてきた保護者や学校、そして地域社会こそが糾弾されるべきであろう。

児童虐待事件は、まだまだ明らかにされないケースが沢山あると思われる。やってはいけないと思いながら、虐待を繰り返してしまう母親や父親がいて、自己嫌悪に陥っている人間もいることだろう。我が子を虐めてしまう自分自身に対して、自己嫌悪感を持つ母親も多いに違いない。そして、こんな母親が頼るべき存在もなく、救いの手を差し伸べる人もいないという地域社会が問題なのである。相談センターがあるだろうと思う人がいるだろうが、自分の心に闇を抱え込んでいる人がセンターに相談するというのはハードルが高過ぎるのである。

児童虐待が起きてしまう本当の原因は、日本の教育制度の不備にあるのは間違いないだろう。それも、教育制度というよりも教育理念の間違いにあると言える。何の為に教育するのかという、本来の教育の目的が教育者にまったく欠落しているのである。だから、日大のアメフト部や志学館大学のレスリング部のような不適切指導事案が起きるのである。教育が本来目指すべきものは、『全体最適と関係性を発揮できる人間育成』である筈である。自ら積極的に、社会全体の幸福と福祉を実現するために主体性を発揮して努力する人間を育成することが教育の目的なのである。

ところが、今の教育は自己利益や自己評価を高めるために努力する人間を育てているのである。「誰の為に勉強するの?」子どもに聞いてみれば解る。「そりゃ、自分の為でしょう」と子どもは答える。親と教師が小さい頃から言い含めているからである。やがて社会全体に貢献できる人間として成長する為にこそ、勉強が必要なのであり自分の為ではない。自己中心で身勝手で、自分のことしか考えない利己的な人間だけを育成している現代教育の誤謬が、児童虐待を生み出していると見るべきだ。客観的合理性の近代教育の間違いが、児童虐待の悲惨な事件を起こしているのである。親子や夫婦の関係性の欠如が、愛の家庭内循環と愛情の世代間連鎖を阻害してしまい、我が子を心から愛せなくなったと考えるべきであろう。教育理念の間違いを今こそ正すべき時である。

 

※悪いことだと分かっていながら、つい児童虐待をしてしまい自己嫌悪感を持って苦しんでいるお母さんがいらしたら、イスキアの郷しらかわにご相談ください。何故、我が子を虐めてしまうのかの本当の原因を一緒に考えましょう。そして、この苦しくて悩ましい事態から一刻も早く抜け出す方策を一緒に見つけ出しましょう。ご相談は、電話でもメール、またはLINEでも結構です。問い合わせからメール相談ができますし、電話番号もお知らせします。FBのメッセンジャーでもいいです。LINEのアカウントは「natural1954」です。

スポーツの指導は科学的手法で

日大アメフト部の不適切指導が大変な問題になっているが、そもそも内田監督という人物が、指導者として相応しかったのかということが話題になっている。至学館大学の栄和人監督も同じような批判にさらされた。どちらもそれなりの成績を残しているものの、指導される側からは、その指導法に疑問を呈されている。彼らの指導法に共通しているのは、精神論や感覚論に偏っているという点だ。そして、体力の限界を超えるような猛練習を課しているのも特徴的である。確かに日本のトップレベルを保つにはハードな練習が必要なのは理解できる。しかし、自らが求めた練習ではなくて、嫌々やらされているという感覚ならば、そんな練習はするべきではない。

旧来のスポーツ指導においてもてはやされてきた精神論が、まだ横行していることに驚く。内田監督と栄監督はあまりにも精神論に固執していたように思える。新しい技術や戦略的部分はコーチが補佐していただろうが、基本的な組織全体の科学的な管理手法については、疎かったように感じる。厳しい練習に耐え抜いた選手だけが結果を残せるという考え方は間違っていない。だとしても、選手の心が折れてしまうような押し付けの練習は逆効果である。科学的な根拠のないやみくもな練習など、まったく役に立たないのである。

スポーツにおける心身の鍛練において、根性を示せ、気合で乗り切れ、精神を鍛えろなどと前時代的なことを平気で言う指導者がいる。内田監督や栄監督などは、その部類であろう。特に日大のアメフト部は、深夜時間まで及ぶような長い練習を部員に課していたというから、考えられない横暴ぶりである。精神論、根性論、気合論で結果が残せると本気で思っていたなら、時代錯誤と言えよう。スポーツにおいては、科学的・論理的にどうすれば選手が成長し向上できるのかは、ほぼ解明されている。ましてや、メンタル面においても、どうすれば心が平静になって実力が発揮できるのかも、科学的に説明できるのだ。

今は科学的に実証された、効果の高いトレーニング方法が確立されている。最新のフィジカルトレーニングは、短い時間でも必要な筋肉や体力が作られるし、持久力を上げるのに長い時間走るだけのトレーニングなんて、時代遅れになっている。メンタルトレーニングも科学的な手法が用いられる。心理学的に、そして脳科学的に検証されている手法でメンタル面が強化されている。精神論や根性論なんて、今の青少年は誰も信用していない。科学的合理性の教育を受けてきた青少年は、科学的に正しいのか正しくないのかで取捨選択するようになっているからだ。

最近のスポーツ指導者、とりわけ日本トップレベルにある高校や大学の指導者たちは、自然科学を駆使した指導だけでなく、社会科学を活用した指導法を取り入れている。チームワークやリーダーシップ、または自主性や自発性を選手たちに発揮させるには、どのような指導法が良いのかを研究しているのである。最新の経営管理学の理論を学んでいる。チームをどのようにマネジメントしていくかが問われているからである。チームをまとめきって、部下との信頼を得ていなければ結果を出せないからである。

日大のアメフト部は、監督を神格化してコーチと部員を完全に支配しようとした。部員たちに何も考えさせなくして、監督の手足として動く選手だけを重宝した。部員たちが自分達で考えたり、自主的に行動したりすることを何よりも嫌ったのである。戦略を立てるのは監督であるが、試合中に刻々と変化する情勢に臨機応変に自主的に自発的に動ける選手が必要である。瞬間的に対応するには、常日頃からアクティビティが養成されていなければならない。アイコンタクトでお互いが何を考えているのか理解できる関係性が必要である。監督にすべて支配され制御された選手は、いざという時に役に立たなくなる。

最新の科学では、スポーツのチーム全体をひとつのシステムとして捉えている。そのシステムが効率的に機能するには、システムの構成員であるひとりひとりの選手が、全体最適を目指して主体的に動くことが求められる。監督やコーチから、いちいち指示されることなく、自主性を持って行動できるように自己組織化されていなければならない。それぞれの選手たちが、ネットワークを組んでそれぞれが過不足なく連帯性を持って行動出来た時に、最大の効果や成果を発揮できるのである。その為には、選手どうし、選手と指導者、指導者どうしの関係性が大事である。その豊かな関係性を築くには、自己組織化されたシステムという考え方をチーム全員が認識しなくてはならない。スポーツの指導は、精神論でなく科学論でするべきだ。

 

和食文化継承の担い手

和食文化は世界遺産にもなるくらい素晴らしいものであり、欧米でも和食の良さが認識されて、人気を博している。日本が世界に誇る文化のひとつであるから、この文化は後世にも引き続き継承していきたいものである。和食文化を継承する担い手の一番手と言えば、日本料理店の板前さんとその調理補助者であろう。寿司店や割烹の板さんや旅館・ホテルの料理長が和食文化の継承者であるのは間違いない。しかし、そもそも和食とは特別な料理ではなくて、日常的に家庭でも食されているものである。故にその和食文化を継承しているのは、いわゆる『お母さん』でもあると言える。

ところが、若いお母さんがまともな和食を作れなくなっているのである。以前は、嫁入り前の若い女性は母親から和食の基本を叩き込まれたものである。または、嫁入り修業として料理学校に通い、家庭料理の基本を習ったものである。ところが、今時そんなことをしている若い女性は殆ど居ない。必要だと思っていないのだから当然だ。スーパーに行けば惣菜は豊富に陳列してあるし、インスタント製品や冷凍食品が用意してあるから、簡単に食事の用意が出来る。丁寧に出汁を取って作る味噌汁とか、煮物や漬物などの手作り惣菜を作れなくなっているのである。

洋風料理や中華料理は、ある程度のレベルの料理なら作れるが、本格的な日本料理を作れる若いお母さんは少なくなってしまっている。つまり、若いお母さんが和食文化の継承者になり得ていない。これでは、和食文化はごく一部の専門家にだけ残るようになってしまうのではないだろうか。和食は家庭料理においてこそ、その存在価値があるのに、家庭料理に和食がなくなってしまったとしたら、日本人の肉体と精神はどうなってしまうのであろうか。

日本人の肉体と精神は、和食を食べてこそ最適な状態に保つことが出来るように遺伝子が進化してきたのである。日本人が和食をあまり食べなくなってから、生活習慣病を始めとして心臓血管障害や脳血管障害などが増加してきた。日本人の多くがメタボになったのも食事が洋風化した影響が大きい。各種のアレルギー疾患が増えたことや、悪性腫瘍が増加したのもその一因だと考えられている。発達障害や気分障害などメンタル面での障害が増えているのも、本格的な和食から遠ざかったせいだと言う専門家がいる。

お母さん以外でも、和食文化の継承を担っているケースもある。一家のお父さんが和食を極めていて、おふくろの味ではなくて親父の味を子どもたちに伝えている例もある。自分も、会津の母が作っていた伝統的な郷土料理を継承している。三人の息子たちに和食を中心にした食事を提供していたから、確かな味覚が育った筈だ。やがて、親父の作った料理を再現してくれるだろう。娘がいなかったが、結婚した長男は時折台所に立っているというから、親としても嬉しい。お母さんに限定することなく、和食文化を誰かが継承してほしいものである。

最近、幼児教育の現場で伝統的な和食文化を継承しているのを知って驚いた。福岡県にある高取保育園では、毎日本格的な和食の給食を提供している。園児たちが味噌を手作りして、それで作った味噌汁を毎日飲んでいる。玄米ご飯、味噌汁、納豆、旬の野菜で作った惣菜を提供している。化学調味料や保存料などの添加物が一切入っていない、自然食である。幼児期にこのような本格的和食を食べていれば、正常な味覚が育つから、大人になっても和食を食べ続けるに違いない。神奈川県の座間市にある『麦っこ畑保育園』も、同じように自然食の給食を出している。このように幼児教育で和食文化を継承しているというのは、非常に心強い。

さらに大学教育の現場で、和食文化を継承する努力をされている人がいる。郡山女子大学で、管理栄養士を育成している亀田明美准教授である。学校給食の栄養士とか、大学や企業の食堂を管理する栄養士などを養成している大学の現場で、和食の大切さを訴えている。亀田女史は、大学で教鞭を取りながら、プライベートで学校給食を見直す活動もされている。その活動に賛同した大花慶子さんたちと一緒に、学校給食に伝統的な和食や自然食を取り入れる運動を展開されている。多くの若いお母さんたちが、この運動に参加している。このように、いろいろな和食文化継承の担い手が現れている。これで日本の和食文化の素晴らしさが社会的に認知されて、和食の文化が広まっていくに違いない。

※イスキアの郷しらかわでは、伝統的な和食を提供しています。玄米ご飯(無農薬・有機栽培)、玄米餅、手作りの味噌で作った味噌汁、発酵食品、旬の野菜(無農薬・有機栽培)など自然食を中心にした食事です。4日~5日滞在すると、和食の良さを実感します。食習慣を改善できますし、本格的な和食の作り方を学べます。是非、ご利用ください。問い合わせフォームからご相談ください。

映画『いただきます』から学ぶ和食の大切さ

園児たちが自ら味噌づくりをする保育園がある。そして、その味噌で作った味噌汁を毎日の給食で保育園児は食べる。小泉武夫東京農大名誉教授は、この保育園の子どもたちを日本一しあわせな子どもたちだと言う。この保育園は高取保育園と言って、開園時からずっと西園長が食育を続けてきた。この保育園児たちの味噌づくりと日常を描いたドキュメンタリー映画が『いただきます』である。涙無くしては見られない感動の記録映画であり、多くの学びを与えてくれる秀作である。

数年前に福岡県でインフルエンザが猛威を奮い、学校閉鎖や学級閉鎖が相次いだ時期がある。この時でも、この保育園では感染による体調不良で休む保育園児は僅かだったという。重度のアレルギーやアトピー性皮膚炎の園児も、数か月登園すると治ってしまうというからすごい。この園児たちは保育士が指導している訳ではないのに、冬でも半そで半ズボンである。おそらく基礎体温が高いのであろう。当然、免疫力が高くなるから風邪もひかないし、病気にならない。それもすべてこの保育園の給食と教育方針の賜物であろう。

この保育園では、園児たちが毎月100㎏の味噌を作る。そして、その手作り味噌で味噌汁を作り、毎日園児たちが飲んでいる。毎日の給食の献立は、玄米ご飯、味噌汁、納豆、旬の野菜料理である。食養生、医食同源の考え方に基づいて、伝統的な和食が作られている。園児たちは、梅干し、沢庵、高菜漬けさえも作ってしまうらしい。給食の定番であるハンバーグ、鳥の唐揚げ、焼き肉、とんかつなどは勿論、肉、乳製品はまったく出さない。あくまでも発酵食品と玄米が主に提供されている。

小泉武夫東京農大名誉教授は、この映画の中で和食の大切さを説いている。日本人のDNAは、農耕民族の長い歴史の中で、味噌や納豆などの発酵食品、玄米、大豆・野菜類に適応するように進化してきたという。だから、狩猟民族や牧畜民族としての歴史がある欧米人のDNAとは根本的に違っている。欧米人の食べるような肉や乳製品を日本人が食べたら、不適応を起こすのは当たり前だと力説する。日本人に生活習慣病やアレルギー、またはガンが多発したのは、間違った洋食の食生活をしたせいだと断言している。

小泉名誉教授は、こんなことも言っている。国際フリーラジカル学会で、活性酸素やフリーラジカルを無害化させてしまう抗酸化作用の強い食べ物は何かを調査したという。その結果、第1位が味噌で、第2位がテンペ(インドネシアの発酵食品)、第3位が納豆だったという。酸化作用が強い活性酸素やフリーラジカルは、各種感染症や心疾患、脳疾患などを招く。悪性腫瘍が発生するのも同じ原因からである。日本人の伝統的な和食がどれほど健康によいか解ろうというものだと力説している。伝統的な和食に立ち返ることを勧めている。「祖先の道へ還ることは退化ではない」と説く。

高取保育園では、「知育・体育・徳育の基本は食育にある」という教育理念を実践している。給食を伝統的な和食にしているだけでなく、まるで禅寺のように園児たちが掃除をしている。保育園内の雑巾がけを毎日園児たちが笑顔でしているのが日課であるし、トイレのスリッパや玄関の靴を揃えるのは園児たちが率先して行う。園児たちに座りましょうと言うと、自然と正座をする。無駄に騒いだり動き回ったりする園児がいない。おそらくこのような伝統的な和食を食べていると、発達障害さえも和らいでしまうのに違いない。幼児教育に対する功労を認められて、西園長は2度も勲章を授与されている。

この『いただきます』を観て一番驚くのは、園児たちの食事風景である。給食を食べ残す子どもが皆無なのである。それも、米一粒だって残さない。おかずもすべてたいらげる。ひじきの小さなひとかけらだって、丁寧につまんで食べる。けっして上品とは言えないが、器を舐めまわして食べる園児までいる。食べ物を粗末にしないことを徹底している。なによりも驚くのは、食べる時の園児たちの笑顔である。本当に美味しそうに食べている。味噌汁を飲み終わった後の満足そうで屈託のない笑顔は、私たちを癒してくれさえする。食べることの楽しさを、大人の我々に教えてくれる素晴らしい映画だった。

可愛い子には旅をさせよ

『可愛い子には旅をさせよ』という諺は、我が子の自立を促すには子どもに独り旅行をさせるのが良いという意味であると思われる。それが転じて、あまりにも子どもに対して過干渉だったり、支配したり、コントロールしたりすると、自立を阻害してしまうから注意しなさいということも教えてくれている。親というのは、我が子に対して心配するあまり、危険性の少ない安全な道を歩ませたがる。先回りしたり同行したりして、子どもの危険を取り除くことをしてしまう。それが子どもの成長を遅らせてしまうことに繋がるのに、親心というのは困ったものである。親離れ子離れできない親子が多い。

現代では、若い女性の一人旅も多くなったが、危ない輩もいることからリスクもある。ましてや、中学生や高校生ならなおさら危ない。したがって、中高生の我が子を一人旅させるのは躊躇してしまうことだろう。可愛い子には旅をさせよと言っても、あまりにも危険な現代では二の足を踏むのは当然だ。そういう場合、昔は我が子をこのように自立をさせる方法があった。会津地方で古く行われていた方法である。『飯豊山参り』と呼ばれていたと記憶しているが、13歳~15歳の子どもたちを飯豊山に登山させていた行事があったのである。

武士は12歳~15歳に元服という、成人として認める儀式をする。町民には、元服という儀式はなかった。この元服に替わるものとして、飯豊山参りをしていたのではないかと思われる。数え年13歳~15歳になった子どもを近くの神社に1週間お籠りをさせて、身も心も浄める。そして先達と呼ばれる経験豊かな大人が先導して、飯豊山にお参りする。飯豊山は霊峰であり、しかもアプローチがとんでもなく長い。さらに、登山口から飯豊山本山の山頂まで、大人でも8時間くらい要する。当時は車もなくて、長いアプローチも歩いて行ったので、おそらく行き還り10日間ほど要したと思われる。

飯豊山は毎年のように沢山の登山者を迎えているが、今でも上級者でしか登れない。長い時間を要するということもあるが、かなり標高差がありきつい登りもあるし、危険な箇所がいくつもあるからだ。今でも滑落して亡くなる人も少なくない。当時は、登山道だって今のように整備されていないから、飯豊山参りで滑落して亡くなった子どもたちも相当いたらしい。大人の先達の指導に従わず勝手な行動をしてしまう子どもは、危険な目に遭ったであろう。子どもたちにとって、飯豊山参りはかなり厳しい一大イベントであったろうし、相当なプレッシャーがあったに違いない。

私が小さい頃になくなってしまった行事なので、自分は経験していない。ただ、幼児期にこんなことを言われて育った。『嘘をついたり人を傷つけたりするような悪いことをすると、飯豊山参りで神様が怒って落っこちて死ぬぞ』と脅されて育てられた。当然、滑落死することもあったと聞いていたから、神様が見ているぞと言われれば、誰が見ていなくても良い子であらねばならないと心に誓ったものである。小さい頃は、神様とか仏様という存在は絶対的なものであり、胡麻化しの効かないものだと信じていた。今はこのような教えがないというのは、子どもの健全育成にとって大きなマイナスであろう。

飯豊山参りをすることで、子どもたちは身体的にも精神的にも大きく成長して名実ともに『大人』になった。これだけ危険で厳しい行事を成し遂げたという達成感と、神様に自分の生き方が認められたという自己肯定感が、精神的な自己成長をさせたのであろう。忍耐力やどんな厳しい試練にも負けない精神力が養われたに違いない。飯豊山参りを成し遂げた若者たちは、人間を超越した『神』という存在を信じたであろうから、自分を偽るような生き方をしなかったと思われる。死に直面した経験は、命の大切さを知り、他人を傷つけるようなことはしなかった。飯豊山参りをした子どもたちは、立派な大人になったのである。

今は、このような飯豊山参りという風習がなくなったというのが、とても残念である。現代の若者が自立できていないというのは、このような自立支援プログラムがなくなってしまった影響もあろう。このような飯豊山参りほどのハードな行事ではなくても、子どもに厳しい登山をさせることで、自立を促すことに繋がるように思える。特に、親が同行せずに、先達のような他人に預けて、厳しい登山をさせることが子どもの自立支援になると確信する。我が子を心配過ぎて、常に自分の目が届かないと不安な親は、他人に預けて子どもに登山をさせてみてはどうだろうか。思い切って可愛い子には旅をさせてみようではないか。

 

※イスキアの郷しらかわでは、登山による子どもの自立支援をしています。飯豊山の登山案内もしますが、日帰りでの登山は勿論のこと、1泊程度の日本アルプスや東北の名山の登山ガイドもいたします。子どもさんだけを預けてもらってもいいですし、心配ならば最初だけは保護者が同行しても構いません。登りながら子どもさんたちにいろんな人間教育(生きる智慧)もさせてもらいます。問い合わせフォームからご相談ください。

育児パパは優秀な人材になる

イクメンという言葉がもてはやされている。何となくファッショナブルなワードで、格好よく聞こえることもあり、育児に参加する父親が増えてきそうにも感じる。しかしながら、イクメンと呼ばれる父親はごく一部であり、世の中の大多数の子育て夫婦では、母親に育児の負担が重くのしかかっているのが現状であろう。運動会や学習発表会、保護者参観には昔と違って大勢の父親が来ている姿を見かけるので、父親の育児参加が進んでいるように見えるが、実態は違うようである。

確かに父親が学校行事に、大勢参加してくれるようになってきた。でも、大事なのは日常における育児参加であり、特別な日だけカメラを持って子どもの姿を記念に収める良いパパぶりを発揮するのは、育児参加とは呼べない。そもそも、育児参加という言葉が頂けない。あくまでも育児は母親が主体であり、父親はそのお手伝いだから『参加』だという意識がありありである。育児の責任は、父親と母親の両方にある筈である。その責任を、父親が放棄して母親に押し付けるのは問題であろう。育児とは両親が協力し合いながら行う共同作業であるべきだ。

世の中には、共働き家庭で父親が育児の多くを担っているケースがある。残業を極力控えて、家庭中心のシフトを敷いて、家事育児に奮闘している父親がいる。そういう父親は会社や組織ではあまり使えない人材かというと、けっしてそうではなく優秀な人材であることが多い。時間を有効に使うので時間効率がとても高くて、発想力や企画力でも他にはないような高い能力を発揮する。さらに、部下や女性社員からも人気があり、とても信頼されている。顧客からも好かれるし、驚くような成績も上げている。

一方、育児には興味を示さないばかりか、妻に育児を押し付けて家事育児には手も出さない口も出さないというような社員・職員は、実は仕事が出来ないというケースが少なくない。決められたルーチン作業はこなすが、何か微妙な調整や根回しが必要な仕事は無理なことが多い。さらに、他の社員・職員との良好な関係性が築けないし、部下からの信頼もなく嫌われるケースが多い。女性社員からは好かれていないことが多い。つまり、空気が読めないのである。顧客からもあまり好かれない。

何故、そんなことになるかというと、育児をするというのは実は非常に高い能力を要求されるからである。赤ちゃんと共に過ごすと、言葉を話せない赤ちゃんが何を要求しているのか、何をして欲しいのかを、常に想像しなくてはならない。微妙な態度や表情から、赤ちゃんの心を読み取らなければならないのである。つまり、赤ちゃんの気持ちになりきって感情を共有しなければ育児は出来ないのである。現代の若い男性にとって、一番苦手なのが感情共有である。空気が読めない男性が多いというのは、こういう理由からである。

そもそも女性の脳梁が太いので、右脳と左脳の情報交換がスムーズであることから、育児や家事を上手にこなすことが出来る。赤ちゃんの感情を読み取る力も高いのは、脳梁が太いからである。男性は生まれつき脳梁が細いので、右脳と左脳の情報交換が苦手であり、周りの人々の感情に対して共感できないことが多い。だからこそ、周りの人々の気持ちを推し量る能力を高める努力をしなければ、空気が読めなくて使えない社員・職員になるのである。家事・育児を積極的に、しかも楽しみながら実行していると、脳梁の機能が徐々に高まってくるのである。料理なんて、同時進行の作業が出来なければ、時間がかかり過ぎてしまい、美味しく出来ないばかりか失敗をする。育児は常に複数のことを同時にこなさなければ、出来ない複雑な作業である。これらのことを何度も繰り返すことで、脳梁の機能が亢進して、仕事の能力も高まるのである。

父親が育児をし始めるのは、かなりハードルが高い。小さくて弱くて壊れそうな赤ちゃんを抱くのも怖いし、おしめの交換だって最初は勇気がいる。小学生高学年や中学生の頃に、育児参加をした経験があれば、男性でも育児をすんなり出来る。甥や姪の育児をした経験がある男性ならば、育児にすんなり入り込める。そういう経験がない中学生や高校生に育児経験を積ませるような学習カリキュラムを組むのがよいと思われる。親戚に赤ちゃんが生まれたら、是非とも子どもに育児を経験させてもらうとよい。赤ちゃんが好きになるに違いない。そうすれば、将来には育児パパになり、優秀な社員・職員になれると確信している。

※イスキアの郷しらかわでは、男性のために育児の研修講座を開催しています。料理教室もご希望により行います。優秀な人材を育成するには家事・育児を学ぶことが有効です。是非、お試しください。

休職者と中途離職がないのが良い職場

職場から休職者と中途離職者をゼロにするなんて、絶対に不可能であると思っている人が多い。しかし、戦前の会社や行政組織においては休職者なんて殆ど居なかったし、中途離職者は稀な存在であった。終身雇用が当たり前であり、男性職員は定年退職まで勤務していたし、女性だって結婚退社ぐらいしか中途離職はなかったのである。現在、どの職場でも休職者はかなりの人数に上っているし、中途離職者をする職員もかなりの人数である。これは企業や組織にとって多大なる損失であるし、本人にはかなりの不利益になる。

休職をする理由は、病気によるものが多く、そのうち殆どはメンタルが休職の原因であるようだ。そして、中途離職の理由もまたメンタルが多いと言われている。そして、メンタルを病むのは、本人にその原因もあろうが、職場の人間関係によることが多い。特に、上司に問題があるケースが殆どであると想像できる。特に中途離職者の離職理由は、本人が職場では明らかにしていないが、上司と折り合いが合わなくて辞める決断をしていると思われる。勿論、上司だけに人間関係悪化の原因を押し付けるのも乱暴ではあるが、それだけ問題上司が多いのも事実であるに違いない。

離職率50%であった会社が、数年後になんと10分の1の5%になった会社がある。オンデーズという眼鏡販売の会社がそれだ。販売不振で倒産寸前の会社に、その経営手腕を買われて社長になった際、離職率が50%だと聞かされて唖然とした。どうしてそんなに離職率が高いのだと一般の社員に聞くと、「社長は何も解らないんですね」と嘆かれたという。管理職は社長が選んでいたが、上にゴマすりをしているイエスマンばかりで、部下に対する態度がとても酷くて、職場環境が最悪だったらしい。

それで社長は一計を案じ、管理職は部下の社員による選挙で選ぶという制度を導入したのである。それから会社の職場環境は一変したと言う。管理職は立候補制であるから、部下から信頼されて支持を受ければ、実績や経験、能力に関係なく誰でもなれる。当然、若くて経験年数に関係なく管理職になれるのである。俄然、社員のやる気が出てきた。売り上げも鰻上りで、倒産の危機も乗り越えて、優良企業になってしまった。部下の話もよく聞いて、パワハラ、セクハラ、モラハラも皆無になった。当然、休職者もいなくなったし、メンタルを病む社員もいない。

投票制で管理職を選ぶなんて、なんという暴挙だと思う人も多いし、部下におべっかを使って、おもねる態度をする上司ばかりになり、強いリーダーシップが取れないだろうと危惧する人も多かったという。ところが、実際はそんなことがなかったという。投票で選ぶということは、自分たちが選んだ責任が生ずる。選ばれたほうも、投票で選ばれたという自信が持てるし、信頼されたという確信から思い切った決断も出来るようになったという。勿論、決断する前に部下全員から有用な情報が上がるようになったのは当然である。

殆どの会社や組織において、管理職は社長や上司に気に入られなければなれない。民間のそれもオーナー社長であれば、社長と気が合わないと管理職にはなれないのである。当然、社長には良い情報しか上げないし、マイナスの結果報告や自分のミスなどは絶対に伝えない。部下のミスを自分の責任だと捉えないし、余計な事をして怒られたくないと思ってしまい、主体性や自発性を喪失してしまう。つまり、主体性、自発性、責任性というリーダーに必要不可欠の人間力を失うのである。部下は、こういう上司に仕えたらモチベーションを失うし、自己成長しない。

本人にある程度の原因はあるものの、休職したり中途離職したりするのは、上司にその原因の大半があると言っても過言ではない。そして、そのような管理職を選んだのが社長であり、行政職であれば首長とその側近である。だから、休職者や中途離職者が多い職場をドラスティックに変革しようとするには、まずはトップの意識が変わらなければならない。休職者や中途離職者が出るのは、そしてメンタルを病む人が多いのは、その職員本人の気質や人間性にあると思い込んでいるうちは、休職者と中途離職者はなくならない。本人の再教育も必要であろうが、管理職の選び方と幹部研修のやり方を大胆に変革することが求められるのである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、休職者と中途離職者をない職場にするためのサポートをしています。休職者の職場復帰するための教育研修を開催していますし、管理職の教育研修を実施しています。何故、部下がメンタルを病むのか、どうしたら職場復帰できるのか、メンタルを病む職員を出さないようにするにはどうしたら良いのかを、懇切丁寧にレクチャーさせてもらっています。

無条件の愛を注げない親

子育てにおいて、母性愛と父性愛の両方が必要なのは言うまでもない。母性愛とは無条件の愛、または無償の愛と言い替えることができる。一方、父性愛とは条件付きの愛、しつけ愛や承認の愛とも言われている。父性愛も大事であり、子育てにおいて必要な愛であるが、母性愛である無条件の愛こそが子育てで最も重要で必要不可欠な愛と言えよう。これがないと、子どもは健全な成長が妨げられてしまうだけでなく、大人になって大きな生きづらさを抱えてしまうからである。

この無条件の愛は、母親からの愛でしか受け取ることが出来ないかというと、そうではない。母親だけでなく、祖母や祖父から受容することもあるし、父親が無条件の愛を注ぐことも稀ではない。大切なのは、父性愛と母性愛を注ぐ順序であると、児童精神科の専門家は説いている。まずは、母性愛をこれでもかとたっぷりと注いで、それから父性愛を注ぐべきだと主張している。乳幼児期には、まず無条件の愛で満たされることで、しっかりとした自己肯定感を確立したうえで、父性愛を注ぐことが大切なのである。

何故、無条件の愛が最初に必要かというと、子どもの発達段階においては、まずは自分の存在価値がしっかりと感じられ、いかなる時も愛されて見捨てられることがないんだと確信する必要があるからだ。この見捨てられるかもしれないという不安や恐怖感があると、その後の生き方に大きく影響してしまうのである。この見捨てられ感というのは、大人になっても深刻な影響を及ぼすし、父性愛を注がれた時に、いう事を聞かなければ自分は見捨てられてしまうのではないかという恐怖心に追いやられるのである。

母性愛である無条件の愛をたっぷりと充分に与えられず大人になってしまった人間は、健全な子育ても出来なくなってしまう。どちらかというと条件付きの愛しか我が子に注げなくなってしまうのである。また、パートナーに対していつも無条件の愛しか与えられなくなり、健全な夫婦愛や恋愛を育めなくなってしまうのである。夫婦関係や恋愛関係が破綻しやすいし、子どもが何らかの問題行動を起こしやすくなる。こういう無条件の愛の枯渇状態は、世代間連鎖を起こしてしまうことが多い。負の連鎖が続くのである。

この無条件の愛を注げない親というのは、想像以上に多いのが実態であろう。おそらくは、少なくても半数以上の親が無条件の愛を注げないのではなかろうか。大人になって問題行動を起こす人々、例えば犯罪者、セクハラ、パワハラ、モラハラをする人々、覚醒剤などの薬物依存、アルコールやニコチン依存、ギャンブル依存、過食や拒食、各種依存症、生活習慣病、メンタル障害などを起こす確率が限りなく高くなる。恋愛恐怖症の人も無条件の愛が不足したからであろう。

無条件の愛が不足して、条件付きの愛しか与えられないで育ってしまった大人は、揺るぎない自己肯定感が確立されていない。いつも不安感や恐怖感を持っている。愛する人から見捨てられるのではないかという不安を持つ。配偶者から見捨てられてしまうのではないかという不安もあるし、子どもから見捨てられてしまい愛されないのではないかという不安もある。激情的に怒り出したかと思ったら、いやに子どもにおべっかを使い始めたりする。子どもにおもねるような態度をしたかと思うと、急に怒り出すような不安定な子育てをするのである。

無条件の愛を注げない親というのは、すべてではないものの『愛着障害』的なパーソナリティを持つことが多い。無条件の愛が枯渇しているが故に、いつも無条件の愛を渇望している。パートナーや周りの人から愛されたいと熱望するが、その人格の歪み故に、無条件に愛されることがない。益々、孤独感が増してきて、我が子を無条件で愛することが出来なくなってしまう。愛というのは循環するものだ。豊かに無条件の愛で包まれた人間は、周りの人々を愛で満たすことができる。無条件の愛を注げない親は、まずは自分の本当の心を知ることから始めることが必要であろう。

 

※イスキアの郷しらかわでは、無条件の愛を注げない親のサポートをしています。または親から無条件の愛を注げられなかった子どもの支援もしています。自分がもしかするとそうではないかと気付かれた方は、ご相談ください。問い合わせフォームからお願いします。

恩返しと呼ばれる出藍の誉れ

あの天才と呼ばれる藤井六段が、師匠の杉本七段に勝利したニュースが流れている。将棋界では、師匠と公式戦で対戦して勝利することを『恩返し』と呼ぶらしい。藤井六段の活躍も素晴らしいが、杉本七段の態度も立派であると賞賛されている。師よりも弟子が優れることを、出藍の誉れと呼ぶ。『青は藍よりとりて藍よりも青く、氷は水よりつくりて水よりも冷たし』と荀子が弟子に諭す際に言った言葉らしい。杉本七段は出藍の誉れを実践したのだから、師匠として素晴らしい足跡を残したと言えるだろう。

学校の教育現場で、杉本七段のような先生ばかりであったなら、不適切指導なんてことは起きる筈がない。ところが、出藍の誉れという精神を限りなく発揮して、子どもたちを育成している教師がどれほど居るだろうかと疑ってしまうような出来事が起き続けている。どちらかというと、自分たちの保身や評価を気にして、子どもたちを犠牲にしている先生が多いのではないだろうか。指導死なんて不幸な事件が起きるということが信じられないことであるが、教師による言葉の暴力だけでなく体罰もなくならない学校現場が実在する。

スポーツ界でも、出藍の誉れが起きているケースもあるが、逆の例も少なくない。例えば、相撲界である。関取が付き人に対して暴力を奮う行為が起きているし、師匠である親方が弟子に対していじめのような行為をしているのも事実である。相撲界というのは、絶対的な縦社会であることから、権力を持つ者が持たない者に対して暴力や暴言を奮うのが日常茶飯事になっているのであろう。出藍の誉れという精神が発揮されているとは思えないような社会らしい。

出藍の誉れという精神がまったく発揮されなくなってしまったのは、企業内における上司と部下の関係であろう。国や県、市町村の行政現場でも出藍の誉れが起きにくい職場になってしまっている。職場というのは、上司が部下を指導教育する場でもある。仕事を問題なく遂行するためには、部下を一人前にする為に教え育てなければならない。優秀な部下を育てることは、上司の大事な務めである。ところが、部下をある程度のレベルまでは育てられる上司がいるものの、自分を遥かに凌駕するような部下を育てられる上司は皆無に近い。何故、そんなことになっているのだろうか。

企業内における競争意識は、非常に高い。若者たちに出世欲はあまりないと言われているが、中年を過ぎた頃から出世競争に否が応でもさらされてしまう。会社に勤務しているなら、少なくても役員にはなりたいと思う人が多いことであろう。しかし、役員にまで昇進する人はごく少数の選ばれた社員たちである。当然、業績を残そうと必死になる。同僚たちは競争相手だし、下手すると部下が自分を飛び越えて上司になるかもしれない、弱肉強食の社会である。自分で苦労して仕入れた情報や大切なノウハウをすべて部下にすべて教えてしまったら、自分を乗り越えてしまい、自分が取り残されてしまう恐れがある。出藍の誉れと呼ばれるような、自分よりも優れた部下を育成することを無意識で避けてしまうのは当然であろう。

企業内や行政の職場において、行き過ぎた競争意識が大きいが故に出藍の誉れが起きず、上司を凌駕するような部下が出現しなかったらどうなるか。年々、社員や職員は能力のレベル低下が起きてしまい、企業業績も低下し続けることになる。企業の生産性の低下が問題になっているが、これもひとつの要因であろう。企業の存続にも影響する大問題なのである。競争主義を導入すると、企業内におけるノウハウや情報の共有が阻害されるだけでなく、優秀な社員の育成が出来なくなり企業業績が低迷するのである。富士通やシャープ、東芝のケースを見れば良く理解できるであろう。

企業内における評価にも問題がある。上司やリーダーの評価基準として、本来は自分よりも優秀な部下を育成したことを何よりも高く評価するべきである。残念ながら、このような評価基準を一番大切なものとして設定している企業や行政の職場は皆無である。経営者たる者、出藍の誉れの精神を最大の企業文化として取り入れるべきである。そして、全体最適の価値観を共有して、個別最適を恥じるような企業文化を醸成すべきと考える。そうすれば、出藍の誉れの精神をいかんなく発揮できる職場になるに違いない。これが、企業を永遠に発展継続させる秘訣である。