わいせつ教師は絶対に許せない

 教師による性被害の報告が増加している。今まで、泣き寝入りをしていたり、子どもが性被害だと認識できなかったりしたケースもあったが、現在は性被害だという社会の認識も広がったことにより、性被害の報告がしやすくなったのであろう。それにしても、これだけ日本の教育界に性被害が蔓延していたとは驚きである。イスキアの郷しらかわで過去にサポートしていた不登校やひきこもりの方々の中にも、高い割合で教師による性被害者がいらしたので、やっぱりそうかという思いが強い。

 どうして、こんなにも教育現場において性被害が多いのであろうか。または、わいせつ教師がこんなにも多いのかと不思議に思う人も多いに違いない。以前は、『聖職者』と呼ばれて世間からリスペクトされていた教師が、こんなにも不祥事を起こしてしまうとは、信じられない思いである。それにしても、教師とはどんな時も子どもたちの味方であり、子どもを正しい道に導く存在でもあり、子どもたちの見本となるべきなのに、地に墜ちたものである。子どもに対してわいせつ行為をする教師は、絶対に許せない。

 教師以外でも、わいせつ行為をする人間は存在する。だとしても、教師が子どもに対してわいせつ行為を行うのは、絶対に許せないのである。何故かと言うと、子どもは先生に対して「嫌だ」と言えないからである。先生は子どもに対して常に優位な立場にあり、子どもたちは先生には逆らえないのである。そんな状況にあるのを利用して、か弱い立場にある子どもにわいせつ行為を行うというのは、鬼畜にも劣る卑劣な行為である。ましてや、子どもは逃げることも闘うことも出来ない状況に追い込まれて、シャットダウン化してしまうのだ。

 どういうことかと言うと、人間の副交感神経は殆どが迷走神経である。その迷走神経には、腹側迷走神経と背側迷走神経の二つあることが、最新の医学研究により判明した。その腹側迷走神経は、安心、休息、免疫を活性化させる。ところが、背側迷走神経は回避や逃避も出来ず闘う事もできない危機的状況に追い込まれると、心身の遮断が起きて考えることもできず、身体が凍り付いて動けなくなるのである。つまり、わいせつ教師のほうでは児童生徒が拒否もせず逃げもしないから、同意したと勘違いしているが、まったく違うのである。

 この『遮断・凍り付き』の状況になってしまうと、身体が硬直して動けなくなるし、何も考えられず「嫌だ」と声も出せなくなるのである。逃げもせず嫌だと拒否もしないから、自分に好意を抱いているのだとわいせつ教師は勘違いする。こうして、罪悪感を抱くこともなく非業の性行為に及ぶ。そして、拒否されないからと複数回の性的行為に及ぶケースも少なくない。かくして、性被害児童生徒たちは恐怖のどん底に落とされて、怖くて誰にも訴えられない。さらに、逃避できず拒否できない自分が悪いからだと、自分を責めてしまうのである。

 大人になった女性が、上司や権力者・著名人から無理にレイプされた際にも、遮断・凍り付きが起きて、拒否や逃避が出来なくなる。そして、拒否や逃避が出来なかった自分が悪いからだと、自分を責めるだけでなく、警察に訴えることも躊躇ってしまうのである。そして、このあまりにも悲惨な出来事をなかったこととして、右脳の奥底にトラウマの記憶として仕舞い込む。教師から性被害を受けた児童生徒も、同じように右脳の奥底に強烈なトラウマとして仕舞い込み、なかったこととして永久に現れないように重い蓋をするのだ。

 右脳の奥底深くに仕舞い込んでないことにしてしまったトラウマは、同じような場面に出くわすと、表出してしまうことがある。これがフラッシュバックであり、圧倒的な恐怖感で苦しめられる。性行為そのものだけでなくても男性が怖くて、触れられるのも怖いと思う女性もいる。教師による性被害は、当該児童生徒を大人になってもなお苦しめることになるのである。つまり、わいせつ教師による鬼畜のような性被害は、人の一生を台無しにしてしまう、絶対に許せない行為なのである。万死に値する罪だと言えよう。死をもって償うほどの重罪だと言っても過言でない。文科省の初期研修に、迷走神経による遮断・凍り付きの学びを含めるべきだ。

引きこもりを乗り越える方法

 引きこもりの状況に追い込まれてしまうと、この状況から抜け出すのは容易でない。だから、8050問題と呼ばれる社会的な大きな問題にもなっているし、内閣府の調査によると146万人にも及ぶという。なんと50人に1人が引きこもりだというのだから、驚きの調査結果である。さらに、引きこもりになる人は増加の一途だと言われている。深刻なのは、引きこもりは若者だけでなく、中高年者にも多いと言う事実である。そして、一旦引きこもりになってしまうと、その状況が長期間に及ぶことから、支える家族にとっても深刻だ。

 引きこもりになるきっかけはそれぞれ人によって違うし、どうして引きこもりになったのか当人にも解らないケースも少なくない。そして、引きこもりになった本当の原因が、当人にも家族にも認識できていないのである。勿論、人生における大きな挫折や仕事での失敗や躓き、職場でのいじめやネグレクトが原因だと思っている場合も多いが、それは本当の原因ではない。大切な人を失ってしまった心的外傷により引きこもりになったと思う人もいるが、けっしてそれが原因でもない。引きこもりの本当の原因を認識していないのである。

 引きこもりの本当の原因は、外的原因ではなくてあくまでも内的原因なのである。つまり、外的な事故・事件や現象によって引きこもりになったのではなくて、あくまでも本人の内因にそもそもの原因があるのだ。外的な事件・事故は単なるきっかけであり、引きこもりになった本当の原因は本人が抱えている精神的な偏りや拘りにあるのだ。抱えている一番深刻な精神的偏りとは、強い自己否定感である。自己肯定感が極めて低いのである。そして、その原因は親との豊かな愛着が形成されていないことが根底にあるのだ。

 親との豊かな愛着が形成されておらず、極めて劣悪な愛着となっている。愛着障害と言っても過言ではない。引きこもりになっている人は、殆どが愛着障害であり自己肯定感が極めて低いのである。さらにHSP(神経学的過敏症&心理社会学的過敏症)があり、いつも不安や恐怖感に支配されている。その不安も、特定の不安だけでなく、得体の知れない不安に苛まれることが多い。特定の不安であれば、その不安を消すための努力ができるのであるが、得体の知れない不安は、対象が不明なので対応し切れないのである。

 このように、引きこもりの本当の原因が愛着障害にあって、極めて強い自己否定感とHSPが根底に存在することで、強い不安を抱いて引きこもりになると言える。普通の人なら心的外傷にならない程度の事件・事故が強烈なトラウマとなってしまい、それが積み重なり複雑性のPTSDのような症状を起こすと考えられる。小さい頃からの積み重なった心的外傷が、ボディーブローのように心を蝕んでしまい、引きこもりを選択するしかなくなるのだ。根底にある愛着障害を癒すことが出来なければ、引きこもりは解消できないことになる。

 愛着障害は親との不健全で歪んだ愛着によって起きるのであるから、親が変わらなければ愛着障害は癒すことが出来ない。親が劇的に変わって、乳幼児期からの子育てをやり直すことで、愛着障害は解消される。しかし、現実的には引きこもりの親はどうして良いのか解らないことが多い。子どもとの健全な愛着を形成するのを自ら阻害したとは、気付くことはあるまい。ましてや、8050問題と言われているように親が高齢になれば、親が自ら変わることは難しい。自分自身が自ら変わるしか方法がないが、極めて難しいと言えよう。

 結論から言うと、引きこもりは親が変わらなくても乗り越えることは可能である。その際に、心理的安全性を提供してくれる『安全基地』は必須である。安全と絆を提供してくれる安全基地が存在して、その安全基地がいつもそっと寄り添い、傾聴と共感をしてくれるならば、引きこもりは解消できるのである。そして、引きこもりの当人は根底に愛着障害があり、HSPと自己否定感が強いという認識も必要である。そして、安全基地の全面的協力の元で、認知行動療法やナラティブアプローチ療法、またはオープンダイアローグ療法を駆使して、愛着障害を癒すことで、引きこもりを解消できるのである。勿論、安全基地には誰もがなれる訳ではない。森のイスキアの佐藤初女さんのような特別な方しか、安全基地にはなれないのである。

※引きこもりを乗り越えるために必要な安全基地になれるのは、森のイスキアの佐藤初女さんのような、広い心と形而上学に基づく高い使命感を持った、メンタライゼーション能力の高い人だけです。しかし、佐藤初女さんは既に亡くなられています。それで、イスキアの郷しらかわでは、佐藤初女さんを継承しようと高い志を持った方々をサポートしていて、第二、第三の佐藤初女さんを目指す方たちの研修を提供しています。

#引きこもり

#森のイスキアと佐藤初女さん

行政による少子化対策は効果がない訳

 国が少子化対策の財源を、健康保険料に追加徴収する案が示されて、猛反発をされている。少子化対策費を国民から医療保険税として徴収するのは、増税というそしりを受けたくないという姑息な魂胆があるからである。そもそも、行政による少子化対策が実際に効果を表しているのかの検証もされていない。何等かの少子化対策をしないと、高齢になった国民を支える労働者人口が不足してしまい、財政規律が保てなくなるからと必死になっているのであろう。しかし、行政による様々な少子化対策の効果は殆どなく、少子化の傾向は止まらない。

 行政による少子化対策とは、主に出産費用や育児費用に対する援助金、産み育てる保育所の充実、育児休暇取得をしやすい環境と支援制度、男性が育児に参加しやすい労働環境の整備などが実施されている。確かに、こういった少子化対策はある程度の効果はあるが、大きな成果を産みだしていない。ということは、本当の少子化の原因を政府は把握していないということになろう。政府だけではなく、県や市町村の行政も少子化の本当の原因を把握していないし、多くの国民も認識しているとは到底思えない。だから少子化は止まらないのだ。

 少子化の本当の原因は、経済的な理由や産み育てられる環境が不整備だからということではない。そもそも、子どもを産みたくないと55%以上の若者たちが思っているのだ。どんなに経済的に余裕があっても、育児環境が整えられても、若者たちが子どもを産もうとしないのでは、少子化対策は無駄になる。どうして若者たちは子どもを産まないのか。それは自分自身が、心から十分な幸福感を味わうような子育てをされなかったからである。だから、自分と同じように不幸感を持つ子どもを、この世に送り出したくないと思うのは当然だ。

 そんなことはない、十二分に幸福な思いをさせて育てて来た筈だと思う両親は多いかもしれない。また、愛情をたっぷりと注いで育てたと認識している親は少なくない。それは、あくまでも親の感じ方であって子どもの感じ方は別である。愛情をたっぷりと注いできたと思っているのは、無条件の愛ではなくて条件付きの愛である。多くの子どもたちは、親にあまりにも支配され干渉され過ぎて、自分らしく自由に生きられず、生きづらいと感じていたのではなかろうか。そして、自分のことをまるごと愛することが出来なくなったのである。

 自分のことをまるごと愛せる人間でなければ、他人を心から愛することが出来ない。その証拠に非婚化が進んでいて、若い世代の離婚も急激に進んでいる。そもそも恋愛も出来ない若者なのだから、結婚も出産も無理なのだ。どんな自分でも大好きだと言える、絶対的な自己肯定感が育っていないのである。ましてや、自分の両親の結婚生活が幸福だと感じられないのだから、結婚したいと思わないのは当然である。特に、母親が家事や育児に1人で苦労していた姿を間近に見ていた娘が、あんな苦しみを味わいたくないと思うのは当たり前だ。

 ましてや、自己中で身勝手で妻に対する思いやりのかけらもないような横暴な父親の言動を身近に見ていた娘が、男性に対して恋愛感情さえも湧かないのは当然ではなかろうか。さらに、母親がまるごとありのままに父親から愛されて満たされていなければ、我が子を無条件で愛することは難しい。子どもはありのままにまるごと愛されなければ、絶対的な自己肯定感が確立されないであろう。自尊感情が根底にあってこそ、自分をまるごと愛せるし、相手をありのままに愛せる。非婚化や少子化が起きている根底には、自己肯定感が欠如した若者が増えていることが影響しているのは間違いない。

 非婚化や少子化が若者たちの間で急激に進んでいるのは、経済的な理由や環境のせいではなく、若者たち自身の自己肯定感が育っていないからである。それは学校教育のせいではなく、家庭教育が間違っているからである。行政の責任ではないとは言いながら、価値観や思想の教育を怠ってきた学校教育にもその責任の一端はあるとも言える。子どもたちに正しく豊かな母性愛と父性愛を注ぐ家庭教育をしないと、非婚化と少子化が益々進んでしまうであろう。日本という国家の存亡に関わる重要課題なのに、その原因を正しく把握していないというのは困ったものである。行政を担う政治家と行政職は、正しい見識を持ってほしいものである。

京アニ放火殺人事件の犯人は怪物か

 京都アニメに放火して、殺人罪として起訴された青葉信二被告は、一審判決で死刑を宣告された。青葉被告は死刑判決を不服として控訴した。あまりにも残酷なこの事件を起こした青葉被告は人間ではなく、とんでもない怪物だとするSNSの書き込みが多い。あんなにも多数の犠牲者を出しながら、反省の言葉なく自分の正当性しか主張せず、犠牲者に対する謝罪の気持ちもないのは、モンスターとしか思えないという主張をする人も多い。普通の感覚を持っている良識ある人にとっては、怪物にしか見えないのであろう。

 確かに、常人には理解できない行動である。いくら酷い虐待や仕打ちを親から受けたとしても、最終的には自己責任だと言う人もあろう。社会的にいくら恵まれなかったとしても、そういう生き方を選んだのは自分自身だから、親や社会のせいにすべきではないという主張も見られる。おそらく、死刑判決も妥当なのだから、控訴なんてしないで刑に服して欲しいと思っている国民が殆どであろう。被害者やその家族と遺族の心情を思うと、被告には極刑で償ってもらいたいという気持ちになるのは当然かもしれない。

 このような残虐な事件を起こす犯人に共通しているのは、そのあまりにも悲惨な家庭環境である。親との愛着関係において、殆どが問題のあった犯人だ。端的に言えば、親からあるがままにまるごと愛されて育ち、親との関係がとても良好な人間が、凶悪な事件を起こすことはない。ただし、一見すると経済的に裕福で両親の愛情をたっぷりと受けながらも、凶悪事件を起こすケースもある。しかし、それは条件付きの愛情であり、過干渉や過介入を受け続けて育てられた場合であり、無条件の愛情を受けた訳ではないと言える。

 青葉被告は、まさしく無条件の愛は勿論、条件付きの愛さえもまったく注がられることなく育った。そればかりではなく、父親から酷い虐待を受け、四六時中殴る蹴るの暴力を受け続けて育ったとの供述が得られている。ろくな稼ぎをしない青木被告の父親を見かねて、妻がミシンの営業で大きな実績を収めた。それが気に入らないと妻と子に八つ当たりして暴力を奮ったとされている。青葉被告の母親は、家を出るしかなくなり離婚する。この事件も、青葉被告の心に深い影を落とすことになった。その後、父親の暴力はエスカレートしたのである。

 親からの愛情をまったく受けられず育った人間が、まともに育つ筈がない。ましてや、大好きな母親さえも自分を見捨てたと思い込まされて育った人間が、人を信頼出来ないのは当たり前である。同じように親からの愛情をまったく受けられず、父親から酷い虐待を受けて育った人物がいる。大阪大学付属池田小学校の殺傷事件を起こした宅間守死刑囚である。連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎勤死刑囚もまた、親との愛着が形成されなかった。秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大死刑囚も酷い教育虐待を受けて、歪んだ愛着を抱えていた。いずれも愛着障害と言ってもよい。

 このように、悲惨な家庭環境と養育環境があって凶悪事件を起こした犯人を列挙すれば、きりがない。他にも、沢山の凶悪事件を起こした犯人がいるが、似たり寄ったりの養育を受けている。ただし、養育環境が悲惨で愛着障害を抱えると、凶悪事件の犯人になってしまうかというと、けっしてそうではない。社会に対する憎しみを持ち攻撃的になるケースと、自分を責めて自身の存在を消してしまおうとする人がいる。どちらになるかは紙一重なのである。青葉信二被告のように虐待やネグレクトを受けて育った人物は、親に対する憎しみを社会に転化する危険があるのは間違いない。

 青葉信二被告は、けっして怪物ではない。極めて稀なモンスターだと決めつけて、滅多に産まれることがない特別な存在だと思ってほしくない。彼のような愛着障害の人物は他にも沢山存在するし、同じような凶悪犯罪を起こしかねない人間は大勢いるのだ。だからこそ、彼のような存在を産み出さないように、正しい子育てや教育をする世の中に変革しなければならないのである。母性愛と父性愛を正しく注げるような社会を構築しなければならない。我が子をあるがままにまるごと愛せる母親と、しっかりと正しい父性愛を発揮できる父親が子どもには必要なのである。二度とこのような酷い愛着障害の子を産み出さない為に。

育てにくい子を育て直す

 育てにくい子は発達障害グレーゾーンと不安型愛着スタイルがあるということを、まずは親が認識する必要がある。そして、お母さんだけに子育てを任せないで、父親や祖父母にも育児・教育の役割分担をしてもらうことが肝要である。特に、父親には正しい父性愛を注いでもらう必要がある。何故なら、母親が母性愛に専念できないからだ。母親が母性愛と父性愛を同時進行的に注いでしまうと、育てにくさは解消できない。もし、父親が子育てに非協力的であれば、何度も誠意を持って説得すべきだ。それでも駄目なら、別居をするしかない。

 世の中の父親の多くは、ともすると子どもに嫌われたくないと、子どもにおもねるような態度を取りがちだ。だから、子どもの味方のふりをする傾向がある。自分自身も発達障害グレーゾーンである父親は、精神的に幼稚で自分が嫌われたくなくて、面倒なことを避けたがる。子どもと正面から対峙して、例え自分が嫌われても正論を子どもに伝えなくてはならない。それを父親がしてくれるから、母親は安心して子どもをあるがままにまるごと愛することが出来る。母性愛だけをたっぷりと注ぐ子育てが、すべての出発点である。

 育てにくい子どもは発達障害グレーゾーンであり、当人も生きづらさを抱えている。そして、いつも不安や恐怖感を抱えている。自分が嫌われてひとりぼっちになってしまうのではないか、大切な人から見捨てられるのではないか、という不安を抱えている。だから、無意識下で自分が嫌われたり叱られたりすることを敢えて実行して、相手を試すのである。これがいわゆる試し行動である。だから、保護者はそのことを理解して、どんなことがあってもけっして揺るがない愛情を注ぐ必要があるのだ。試し行動に惑わされないことだ。

 育てにくい子を持つお母さんは、心身共に疲れ切ってしまい心が折れてしまっている。そんな状況に子どもが試し行動を、これでもかこれでもかと何度も起こしてくる。夫やその他の家族の子育て協力がないケースでは、相談する相手もなくて、孤軍奮闘をしがちである。ついつい試し行動を感情的に叱ってしまう。これでは逆効果になってしまう。なにしろ、育てにくい子どもは、不安型愛着スタイルをも抱えているから、安全で安心な居場所がないのである。安全と絆を提供してくれる『安全基地』がないので、いつも不安を抱えているのだ。

 育てにくい子どもを育て直すのは、並大抵のことではない。育てにくい子どもというのは、実は人間本来の生き方を実践しているからである。自由な生き方を望んでいるのだ。どういうことかというと、人間は元々自己組織化する働きがあり、オートポイエーシス(自己産生)という機能を生まれつき保持している。そしてこの自己組織化とオートポイエーシスの機能は、周りの人間から強く干渉や介入をされてしまうと、低下するばかりか無くなってしまうのである。そして、家族との愛着関係が希薄化してしまうと、益々自己組織化とオートポイエーシスの機能が働かなくなるのだ。

 育て直しにおいて、同じ轍を踏んではならない。育てにくい子というのは、愛着関係が薄くなり干渉を受け過ぎて、自己組織化とオートポイエーシスの機能が低下している。社会常識や親にとっての常識を、子どもに無理に押し付けてはならない。育てにくい子は、誰にも束縛されず自由気ままに生きたいのである。まずは、育てにくい子というのが特別なギフトを与えられた素晴らしい存在なのだということを、両親は認識しなくてはならない。そのうえで、子どもの尊厳を認め受け容れ、あるがままにまるごと愛することから始めなければならない。

 育てにくい子が生まれてくる本当の理由は、親に深い気付きや学びを授けたいからである。その学びというのは、人間とは本来あるがまま自由に自分らしく生きる存在だということである。お母さん自身が、有形無形の過干渉をされてしまいあまりにも良い子で育ち、自分らしく生きることが制限されてしまい、生きづらい生き方をさせられてしまったのだ。そのことを、育てにくい子を育て直しすることで、深く学ぶことが出来て、自分が人間本来の生き方に変わるチャンスをもらっているのである。育てにくい我が子をぎゅっと抱きしめて「お母さんにギフトをくれてありがとう」という言葉を何度もかけてあげれば、子は変わる。親が変われば、子は必ず変わる。

※育てにくい子を持つお母さんにこそ、安全と絆を提供してくれる『安全基地』が必要です。イスキアの郷しらかわでは、個別支援はしないと方針変換をしましたが、メールによる簡易な相談には応じます。安全基地にはなれませんが、困った時の相談相手にはなりますので、問い合わせフォームからご相談ください。

育てにくい子になってしまった訳

 世の中の多くのお母さんが持つ共通の悩み、それは『どうしてこの子はこんなにも育てにくい子になってしまったのだろう?』である。愛情をたっぷりとかけて、何不自由のない幸福な生活が出来るようにと、せっせと世話を焼いて育てたのに、何故こんなにも育てにくい子どもになったのだろうと悩んでいるのである。幼児期の頃には、あんなにも素直で良い子だったのに、小学生の頃からどういう訳か手のかかる子になってしまい、しまいにはことごとく親の言うことを、まったく聞かないか守らない子になってしまったのである。

 中学生から高校生になった子どもは、何を考えているのか解らず、突拍子のような言動をして母親を困惑させてしまっている。ごく普通の子育てをしてきたつもりなのに、どうしてこんなにも育てにくい子どもになってしまったのか、訳が分からず途方に暮れてしまっているお母さんが実に多いのである。そして、このような場合共通しているのは、お父さんは困っていないし、大変なことだという認識がないのである。それだけでなく、この育てにくい子どもの味方をする始末で、許せないのは躾の邪魔をしてしまうことである。

 世の中の多くのお母さんたちは、自分が育てられたと同じように我が子を育て上げるのが常である。自分自身がまともに育ち、どちらかというと良い子だと評価を受けて育ってきた。両親からも、そして社会的にもある程度の良い評価を得られているし、何も問題なく普通に生活を営めている。自分と同じように愛情をかけて我が子を育てたつもりなのに、どうしてこんなにも育てづらいのか訳が解らない。原因さえ解れば手の打ちようもあるし、何とか対策や改善策が見つかればと探求をするけれど、解決策は見つからない。

 とても育てにくいとお母さんが感じるのは当然で、ことごとくお母さんの常識や社会的常識と違うことを子どもは平気でしてしまうのである。勉強や片付けは後回しにして、ゲーム・コミック等にはまってしまう。ひとつひとつの動作が遅くて手際が悪く、いつも夜遅くまで起きている。朝はひとりで目覚めることが出来ず何度も起こされてようやく目覚め、朝の準備も出来ず忘れ物も多い。学校からの宿題・課題はいつもぎりぎりか、期限を過ぎるのが常。なにしろ勉強は後回しで、自分の好きな事だけに熱中する始末。

 育てにくい子どもになってしまった原因は、元々その子の遺伝子にあるかもしれない。現代の医学の急激な発達に伴い、乳児死亡率は飛躍的に低下した。一昔前には、遺伝子にエラーがあり脳機能の障害がありながらも産まれてきた子どもは、当時の医療水準では助けるのが難しく、死産または早逝していた。ところが、周産期医療の発達と小児科医療の水準向上により、脳の器質的な障害があっても助かるようになったのである。これは、喜ばしいことであるが、一方では社会に適応しにくい子どもさえ、生存が可能になったのである。

 こうして医学の発達により生き延びてきた子どもたちを、ごく普通の子どもだと思って子育てをしてしまうと、持って生まれてきた少し変わった気質や性格を、益々強化させてしまうのである。こうして、発達障害グレーゾーンと呼ばれる育てにくい子どもが、増えてきているのである。ここで注目すべきは、親はとても育てにくい子どもだと感じてしまうのだが、当の本人は自分が育てられにくいという認識はなく、生きづらいというように感じているという点である。そして、自己組織化やオートポイエーシスの機能が働かなくなっているのである。

 育てにくい我が子が、発達障害のグレーゾーンであるという認識を親が持たないが故に、お母さんは子育てに心身ともに疲れ切ってしまうのだ。ましてや、こういうケースのお父さんは自分自身も発達障害グレーゾーンであるから、子育てを苦手にしているので逃避してしまう。当然、子育ての役割の殆どが母親の分担となる。さらに不幸なのは、母親があるがままにまるごと愛する母性愛だけでなく、躾の愛としての父性愛まで注がなくてはならない点である。こうなると、母親は育てにくい子に対して、さらに強い過干渉と過介入を繰り返すことになる。益々、発達障害グレーゾーンは強化されてしまい、不安型愛着スタイルを抱えることになる。育てにくさが益々増大してしまうのである。

※次回のブログでは、育てにくい子をどのように育てればいいのかをお伝えします。

甘えて依存するのは悪いこと?

 メンタルを病んでしまい、ひきこもりの状況になってしまった方たちが、元気になり社会復帰するための支援をさせてもらっていて、常に気を付けていたことがある。それは、不安型の愛着スタイルや愛着障害を抱えた方々は、支援者に依存しやすい傾向があるということである。すべてのひきこもりの方々がそうだとは言えないが、安全と絆を提供してくれる『安全基地』を持たないひきこもりの人たちにとって、支援者は唯一の安心できる味方なので、どうしても依存しやすいのだ。支援者は、依存されないようにと距離を保つのである。

 また、精神科の医師、カウンセラー、セラピストたちもまた、要支援者から依存されないようにと、距離感を持って接するのが基本となる。世の中の母親たちも、子どもから依存されないようにと、普段から気を付けて子育てをするよう心掛けている。母親というのは、子どもを甘やかし過ぎると駄目になると、姑や夫から口酸っぱく言われるものだから、甘やかすということに神経質になりやすい。親が子どもを甘やかし過ぎたり、支援者が要支援者に対して甘やかしの態度を取ったり、依存させてしまうことは悪いことなのだろうか。

 児童養護施設で、利用者に対する支援の業務を行う職員の方たちも、利用者から依存されないように細心の注意を払う。親から虐待やネグレクトを受け続けてきた児童たちに取っては、養母さんたちはまさしく親の代わりであるから、甘えたいし依存したくなるのも当然である。幼稚園や小学校の担任教師たちも、甘えてきたり依存しようとしたりする子どもたちとは、距離感を持って接しようとする。施設の管理職や上司からは、子どもたちに依存の気持ちを芽生えさせると、自立できなくなると釘を刺されているからだ。

 子どもが親に依存すると自立出来なくなるというのは、本当であろうか。支援者が依存させるような態度を取ると、要支援者は依存してしまい自立が出来なくなるのであろうか。子育てにおいて、甘やかしてはいけない、過保護に育ててはならない、依存させると子どもは自立できなくなるというのは、本当に正しい子育てなのであろうか。何か子どもが大変な事件を起こすと、親が過保護だったとか甘やかし過ぎたと非難され、自立できないのは当然だと言われる。本当に、依存させてしまうと自立が阻害されるのであろうか。

 子どもの発達段階において、特に3歳頃までは母性愛がたっぷりと注がれることが必要だということは、最近になり認識されるようになってきた。母性愛と言うのは、あるがままにまるごと子どもを愛する事であり、無条件の愛のことである。先ずは母性愛をたっぷりと注ぎ続けて、子どもの不安や恐怖感を完全に払拭させてから、条件付きの愛である父性愛をかけるのである。この順序を間違って最初に父性愛を注いだり、父性愛と母性愛を同時にかけたりすると、絶対的な自己肯定感が持てず、不安型の愛着スタイルを抱えてしまうのだ。

 不安型愛着スタイルや愛着障害を根底に抱えていて、メンタルを病んでしまいひきこもりの状況に追い込まれた方々は、頼れる存在がない。どこにも居場所がないし、安全基地と言える存在がないのだ。ある程度の年齢になれば、自分で何とか自立しようともがき苦しむ。しかし、得体の知れない不安や恐怖感は拭い去ることが出来ず、誰にも甘えられないし頼れないから、怖くて社会に出て行くことが難しい。大人になったのであるから、甘えることなんて出来ないし依存することは絶対に避けなければならないと思い込んでいる。しかし、不安型愛着スタイルや愛着障害を癒すには、もう一度幼児期からの子育てをやり直すしかないのだ。

 不安型愛着スタイルを抱えてしまいメンタルを病んでいる人の母親が、もう一度最初からまるごとあるがままの愛を注いでくれて、育児のやり直しをしてくれたなら、病んだメンタルは癒される。しかし、それはいろんな意味で非常に難しい。だとすれば、誰かが母親に代わって、要支援者の臨時の安全基地になり、母性愛のようなまるごとあるがままの愛を注ぎ続け、とことんまで甘えさせることが必要だ。それはある意味、過保護にして依存させるということでもある。人間と言うのは、とことんまで依存し尽してしまうと、ひとりでに自立するものである。そして、何かあるといつも温かく受け容れてくれる場所があれば、自立し続けられる。森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が、誰にも欲しいのだ。

※複雑性PTSDのように、長い期間に渡り心的外傷を何度も何度も受け続けてメンタルを病んでしまった方は、元々愛着に問題を抱えています。親から無条件の愛である母性愛を受けられず育ち、元々心が折れやすいのです。安心して甘えて依存できる安全基地がありませんので、いつも得体の知れない不安を抱えて生きています。このような状況を乗り越えるには、臨時的にも甘えて依存できる、森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が必要です。佐藤初女さんのような『お母さん』が、不安の時代と言われる今の日本にこそ必要なのです。

学校からいじめがなくならない訳

 昨年度の不登校といじめ件数調査がまとまり、どちらも増加し続けていて過去最高の件数となったことが解った。不登校の人数が、なんと前年度比22%も増加し、29万9,048人となった。いじめの件数も前年度より6万件も増えて、68万1,948件になったという衝撃的な報道がなされた。不登校になった原因がすべていじめだとは言えないが、相当数の不登校に一因にいじめがなっているのは間違いないだろう。学校でのいじめは、増えているだけではなくて、益々過激化していて陰湿化している。SNSを利用したいじめも増えている。

 これだけ学校におけるいじめが問題になっていて、文科省、教委、学校がいじめを無くす対策を取っているにも関わらず、いじめが無くならないばかりか減りもしないのは何故なのか。いじめ対策が功を奏していない形になっているのは、どうしてであろうか。文科省、教委、学校のいじめ対策はまった不十分であると言えるし、本気でいじめを壊滅しようと関係者が考えているとは到底思えないのである。何故なら、いじめを受けている子どもへのサポートだけであって、いじめをしている子どもへの指導がまったく効果がないのである。

 いじめをする子どもに対して、厳罰化せよという声やなるべく早い段階で司法の手に任せるべきだという主張が多くなっている。確かに、それもひとつの有効ないじめ対策だと言えよう。しかし、学校というのは子どもの指導教育の場である。子どもを罰則の強化や司法の力を借りて解決するというのは如何なものであろうか。教師であるなら、しっかりと子どもと向き合うべきである。それをせずに厳罰化するとか司法に任せることで、困難なことから逃避するというのは、けっして許されることではない。

 いじめがなくならないのは、問題ある子どもを指導教育できる教師がいないということがひとつの要因であるのは間違いない。また、いじめをする子どもの保護者にも問題があるからいじめがなくならないとも言える。いじめをする子どもの保護者にいじめの事実を伝えると、自分の子に限っていじめをする訳がないと認めたがらないのである。うちの子はすごく良い子であるから、そんな悪いことをするとは考えられないと言う。それはそうだ、いじめをする子どもは、家では『良い子』を演じているのであるから、親も解りっこない。

 保護者があまりにも厳格で厳しく子育てをしている家庭において、家で良い子を無理に演じさせられている子どもは、学校でいじめをすることが多い。何故なら、家で我慢に我慢を重ねさせられていて、ストレスが溜まっているから、学校で羽目を外したくなり、弱い子に攻撃性を発揮してしまうのである。特に、保護者が高学歴で教養が高く、社会的地位の高いケースほどその傾向が強い。子どもの知能が高く、いじめが陰湿で巧妙ないじめになる。当然、いじめは表面化しないし長期化することが多い。

 問題なのは、不登校になる原因をいじめだと特定した割合は、予想外に低いことである。学校側における調査であるから信用できないとしても、いじめが原因で不登校になった割合は、わずか0.2%だとされている。教師との不適切な関係が原因で不登校になった割合も、1.2%だという。明らかに、恣意的な統計調査結果だということが判明できよう。これだから、学校は本気でいじめ撲滅のために努力しようとしないし、不適切指導を無くそうとしないのである。学校、教委、文科省が本気になっていじめを学校から追放しようとしたなら、少しは効果が出たかもしれないのだが。

 いじめを学校から完全に撲滅するには、日本の教育を抜本的に改革しなければならない。その抜本改革の方法とは、明治維新以降の日本に導入された近代教育の根本的誤謬を変えることである。客観的合理性と要素還元主義にシフトし過ぎた教育ではなく、主観的互恵性と全体最適主義を是とする価値観を基本にした教育への変革である。また、本来持っている人間の自己組織化する働きを信頼する教育でもある。システムダイナミックスを基本にした教育とも言えよう。さらに言うと、形而上学を重視した科学と哲学の統合、科学哲学という考え方も必要である。家庭教育も、学校教育もこのように変革できたなら、いじめや不適切指導は皆無となるに違いない。

こもりびとを卒業するには

 ひきこもりとは呼ばないで、『こもりびと』と呼ぶ人が増えているらしい。確かに、若い人たちが家に籠っているケースは、ひきこもりと言うよりもこもりびとと言う方が正しいのかもしれない。ましてや、自分のことをひきこもりだと言われるよりは、こもりびとと呼ばれた方がましだと言えよう。言葉のイメージとしてだが、ひきこもりよりも症状が軽く、こもりびとは乗り越える可能性がありそうにも聞こえる。深刻だというようなイメージがない分だけ、こもりびとというように呼ばれたいし、使いたい気持ちになる。

 しかし、残念ながらこもりびとはひきこもりと同意語であり、その深刻な状況には変わりないし、こもりびとから抜け出すことは難しい。一度こもりびとになってしまうと、社会復帰するのは困難を極めるケースが多いのも事実である。何年、何十年にも渡りこもりびとになってしまうことも珍しくない。そうなってしまう原因はというと、人それぞれであり様々な理由があげられる。しかし、殆どのこもりびとに共通している事がひとつだけある。それは、『愛着』に問題を抱えているということである。不安定な愛着を抱えているのである。

 こもりびとになった原因はというと、学校や職場においてショックな出来事、または悲惨な苛めやパワハラが起きたからだという認識をしている人が多い。その事件や事故によってトラウマになって、メンタルが落ち込んでしまい、不安や恐怖を乗り越えられず、こもりびとになってしまったと思い込んでいる人たちが殆どだ。しかし、本当の原因は別にある。それらのいじめやパワハラ、ショックな事件や事故はあくまでもきっかけでしかなく、こもりびとの原因は別にある。不安定な愛着が、こもりびとになった本当の原因である。

 こもりびとになった人は、精神的なケアを受けることを拒否してしまうことが多い。精神科の受診を拒むケースが殆どである。よしんば精神医学的なケアを受けたとしても、改善するケースは少ない。カウンセリングや各種セラピーを受けたとしても、こもりびとを脱却するまでに到達するケースは極めて少ない。何故なら、その治療はトラウマやPTSDを克服するためのものであり、不安定な愛着を改善するためのケアをしていないからである。原因を認識しようとせず、対症療法だけをしていては、完治しないし社会復帰は無理なのだ。

 だから、こもりびとは益々増加しているし、こもりびとを卒業する人がいないのである。それでは、こもりびとを卒業することは無理なのであろうか。そんなことはない、こもりびとを卒業して社会復帰することは可能である。不安定な愛着を克服して、安定した愛着を獲得すれば、こもりびとは乗り越えられるのである。不安定な愛着とは、言い換えると不安型愛着スタイルである。幼少期に酷い虐待やネグレクトを受けて育ったケースは、愛着障害と呼ばれる。そんなに酷い養育環境ではなくても、不安型愛着スタイルになるのである。

 例えば、養育者が突然変更になった場合である。母親の病気や仕事、または離婚により、母親から祖母や叔母に養育者が変更になったケースである。または、両親の不仲や離婚も影響を受ける。父親か母親がアルコール依存症やギャンブル依存症で、養育が不安定になったケースも同じである。さらに多いのは、両親から過度の干渉や介入を受けた場合である。あるがままにまるごと愛されるという幼児期体験を受けないと、自尊感情は育まれない。自己肯定感が確立されず、いつも得体のしれない不安に悩まされることになる。これが不安型愛着スタイルという症状である。

 不安型愛着スタイルを自分の力で克服するのは、極めて難しい。何故なら、不安型愛着スタイルというのは、安全と絆が喪失しているから、誰かが安全と絆を保証する『安全基地』として機能しなければならないのである。本来ならば両親のどちらかが安全基地になり、あるがままにまるごと愛するという育て直しをして、安定した愛着を確立するのが望ましい。しかし、現実的には両親がそこに気付くことは出来ないから、誰かが臨時の安全基地として機能しなければならない。そして、その安全基地が揺るぎない愛情を注ぎ続けたら、不安型愛着スタイルを克服して、こもりびとも卒業できるのである。誰でもこの安全基地になれるかというと、そうではない。深い愛情と限りない優しさを持った佐藤初女さんのような人しかできないのである。

 森のイスキアを主宰しておられた佐藤初女さんは、もうこの世にはいません。しかし、佐藤初女さんのような活動をしたいと志していらっしゃる方は、大勢います。佐藤初女さんのようになりたいと思っても、そう簡単になれる訳ではありません。まずは、自分自身が進化や成長を遂げて、自己マスタリーを確立して、高い価値観である形而上学に基づいて、天命を認識した言動を続けることが必要です。そのような学びを「イスキアの郷しらかわ」では支援しています。第二、第三の佐藤初女さんがこの世に生まれ、活躍することを祈って活動しています。

父原病こそが母原病の根本原因

 母原病という深刻な病気が、子どもの正常な精神発達や人格形成を阻害してしまうということで一時期問題になった。この母原病によって、不登校やひきこもりまで起こしてしまうとまで言われて、世の中の母親たちは言われなきバッシングを受けた歴史がある。最近は、母親に子どもの問題の原因を押し付ける風潮は少なくなってきたものの、子育ての失敗は母親が原因だと思い込んでいる人は思った以上に多い。今でも、子どもの教育問題が起きると、教育はすべてお前に任せていたのだから、お前が責任を取れと嘯く夫がいかに多いことか。

 世の中の父親の多くは、仕事が忙しいからと子育てから逃避してしまう。そして、妻に子育てを任したと宣言して、自分の趣味や娯楽に没頭する夫がすこぶる多いのである。そこまでではなくて、学校行事にも積極的に参加するし、普段は子どもの面倒を見る夫もいるが、子育ての重要な局面になると腰が引ける。そして、母親だけに子育ての責任が押し付けられるのである。したがって、母原病と呼ばれるような子どもの症状は、元々母親に原因があるのではなくて、父親にそもそもの根本的原因があるのではないだろうか。

 母現病というと、母親が子どもにべったりで、子どもに依存してしまい、逆に子どもが母親に依存してしまっている状況で起きると思われている。つまり、母親があまりにも子どもを過保護扱いにしてしまい、子どもが自立できなくしてしまっていると思い込んでいる人がなんと多いことか。そして、主体性・自発性・責任性がない子どもに育てたのは、母親にすべて原因があると勘違いしているのである。しかし、真実はまったく違うのである。確かに、母親が子どもに対してそうしてしまった部分はあるものの、そうさせられたのに違いない。

 母現病になってしまい、依存性が強くて自立できない子どもは、学校でもいじめの対象になったり社会に出ても使えない人間だと蔑まれたりすることも多い。それは、母親が子どもを甘やかし過ぎて過保護状態にして育てた為だと思われている。しかし、実際はそうではない。母親が過保護の子育てをしても、何も問題が起きることはない。どんなに甘やかしても子どもは健やかに育つ。悪いのは、過干渉と過介入の子育てであり、支配したり制御したりする育て方をした場合である。そして、母親が強い不安感や恐怖感を抱えているケースである。

 母親が強い不安や恐怖を抱えて子育てしてしまうのは、父親に原因がある。そして、子どもに対して強い過干渉や過介入を繰り返してしまうのも、父親の行動に根本的な問題があるからである。強い支配され感や所有され感を子どもが持ってしまうのも父親に責任があるのだ。何故かと言うと、父親が本来果たすべき子育ての責任を放棄しているからである。そもそも母親が安心して子育てが出来る為には、何かあればすべての責任を父親が果たすからと宣言して置かなければならない。その宣言を今の父親はしていないのである。

 母親というものは、子育てする際に大きな不安を抱くのが普通である。そういう不安を抱いたとしても、父親が子育てに参加してくれて、最終的な結果責任を父親が果たすと言ってくれたなら、母親の不安が安らぐ。そして、父親である夫がまるごとあるがままに妻を愛してくれたなら、妻は安心して子どもに無条件の愛である母性愛を注げる。条件付きの愛情である父性愛(躾)を父親が担当してくれたなら、母親は子どもをあるがままにまるごと愛せるのである。そうすれば、子どもは安心するし自己組織化が進むので自立できる。

 夫が妻に対する行動において、起こしてしまう大きな過ちがある。夫は、妻を所有したがるし支配をしやすい。自分が思うように妻をコントロールしてしまうのである。意識してそうしている訳ではなくて、無意識下でそうしているのである。自分の思うような言動をした際に、不機嫌な態度をしたり無言になったりする。そうすると、妻は夫を不機嫌してしまったことを悔やみ、自分さえ我慢すればといいと思い込み、夫のご機嫌取りを続けてしまうのである。かくして妻は自由を失い、元気を無くしてしまい、人生を心から楽しめなくなる。このような状況に陥った母親が、子どもをあるがままにまるごと愛せる訳がない。つまり、子どもが母原病になる根底には父原病があると言える。