オープンダイアローグが有効な訳

オープンダイアローグ(開かれた対話)療法が統合失調症だけでなく、PTSD、パニック障害、うつ病などにも有効であるし、ひきこもりや不登校にも効果があることが解ってきたという。薬物も使わないし、カウンセリングや認知行動療法なども実施しないのに、どうして有効性を発揮するのか不思議だと思う人も多いであろう。開かれた対話だけをするだけで、どうして統合失調症が治るのであろうか。何故、オープンダイアローグ療法が有効なのか明らかにしてみたい。

オープンダイアローグを以下の記述からは便宜上ODと記すことにしたい。ODを実施する場合、原則として統合失調症が発症して24時間以内に第1回目のミーティングを実施する。緊急性を有するので、クライアントの家庭にセラピストチームが伺うことが多い。セラピストは複数人であることが絶対条件で、単独での訪問はしない。何故なら、ミーティングの途中でリフレクション(セラピストどうしの協議)を行うからである。そして、それから連日その家庭に同じメンバーが訪問して、患者とその家族を交えて10日から12日間ずっとミーティングを実施する。

ODで派遣される医師やセラピストなど治療者は、診断をしないし、治療方針もせず、治療見通しもしない。そして、そのあいまいさをクライアントが受け入れられるように、安心感を与えることを毎日続ける。ODでのミーティングは開かれた対話を徹底する。そして傾聴と共感を基本として、患者とその家族にけっして否定したり介入したりしない。一方的な会話(モノローグ)ではなくて、必ず双方向の会話(ダイアローグ)にする。開かれた質問を心がけて、必ず返答ができる質問にする。また、セラピストが逆に質問されたり問いかけたられたりした場合、絶対に無視せずに必ずリアクションをするということも肝要である。

OD療法では、患者には薬物治療を実施しない。どうしても必要な場合でも、必要最小限の精神安定剤だけである。ただひたすらに、開かれた対話だけが続けられるのである。どうして、それだけで統合失調症の症状である幻聴や幻覚がなくなるのであろうか。そもそも、幻覚と幻聴が起きるのは、現状の苦難困難を受け入れることが出来なくて、想像の世界と現実の世界の区別が難しくなるからと思われる。ましてや、この幻聴と幻覚を話しても、家族さえも認めてくれず、自分を受容し寛容の態度で接してくれる人がまったくいないのだ。他者との関係性が感じられず、まったくの孤独感が自分を覆いつくしている。

こういう状態の中で、OD療法は患者が話す幻聴や幻覚を、否定せずまるごと受け止める。その症状の苦しさ悲しさを本人の気持ちになりきって傾聴する。患者は自分の気持ちに共感してもらい安心する。さらに、家族にも患者の言葉をどのように感じたかをインタビューをして、患者の気持ちに共感できるようサポートする。家族に対しても、けっして介入しないし支配したり制御したりしない。家族の苦しさや悲しさに寄り添うだけである。

そうすると実に不思議なのであるが、患者自身が自分の幻聴や幻覚が、現実のものじゃないかもしれないと考え出すのである。患者の家族も、患者の幻覚や幻聴が起きたきっかけが自分たちのあの時の言動だったかもしれないと思い出すのである。さらには、患者と家族の関係性における問題に気付くのである。お互いの関係性がいかに希薄化していて劣悪になっていたかを思い知るのである。家族というコミュニティが再生して、お互いの共同言語が再構築されるのである。誰もそうしなさいと指示をしていないのに、患者とその家族が自ら変わろうとするのである。

勿論、仕事や地域との共同体に問題があることも認識する。いかに地域や職場におけるコミュニティにおける関係性にも問題が存在することに気付くのである。例えコミュニティの問題が解決されなくても、自分自身には問題がなく、そのコミュニティにこそ問題があると認識しただけで、安心するのである。家族の関係性の問題が解決されて、地域と職場のコミュニティの問題を家族間で共有し、お互いにそれを共感しただけで症状が改善するのである。まさに化学反応のような変化が起きるようである。人間というのは、実に不思議なのであるが、関係性が豊かになり共通言語を共有できた時に、幸福感を感じるものらしい。オープンダイアローグというのは、まさにこのような関係性の再構築が可能になるので、症状が収まるだけでなく、再発も防げるのである。

続きはまた明日に

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ダイアローグが西野ジャパンを活性化

サッカー日本代表西野ジャパンがロシアワールドカップで大活躍をした。戦前の予想では、活躍は期待出来ないと思われていたのに、決勝リーグまで残りベルギーと互角に渡り合えたのは、西野監督の采配とマネジメントの賜物であるのは間違いない。あんなに短い期間によくチームをまとめあげたし、選手の掌握によくぞ成功したなと感心するばかりだ。西野監督のチーム管理が成功を収めた一番の要因は、彼と選手間の徹底した『対話』にあったと言われているが、まさしくその通りだと思われる。

監督に就任してから、各選手と徹底して対話したと伝えられている。しかも、選手たちをリスペクトして、彼らの言い分にしっかりと耳を傾けて、取り入れるべき戦術の参考にもしたと聞き及んでいる。そして、選手たちとの心を開きあった対話によって、選手と監督との『関係性』が非常に良くなり、揺るぎない信頼関係が構築されたのである。監督が考えていることをチーム全員が理解して、それを一丸となって実行できたのは、対話によって彼らの『共通言語』が創造できたからに他ならない。

スポーツのチームにおいて、強くなったり成果を残したりするには、チームワークが大切であるのは言うまでもない。良好なチームワークを作り上げるには、コミュニケーションが大事だというのは誰にも共通した認識であろう。だからこそ、常日頃からの対話が必要なのである。対話というのは、モノローグ(一方的な会話)であってはならない。ダイアローグ(双方向の会話)でなければならない。ともすると、監督と選手間というのは、圧倒的に監督が優位な立場であるが故に、モノローグになってしまうことが多い。上位下達という形である。これでは、共通言語が形作れないから対話にならないのである。

日大のアメフト部のコミュニケーションは、モノローグであった。志学館大学のレスリングも同様である。ハリルジャパンも、言葉の壁もあっただろうが、ダイアローグでなかったのは確かであろう。野球の巨人がカリスマの監督を据えて、優秀で実績のある選手を金でかき集めても、実績を上げられないのは、実はチーム全体の共通言語を持たないからである。FIFAランク61位のチームが決勝トーナメントに残る活躍が出来たのは、ダイアローグ(対話)のおかけであろう。

日本人の素晴らしい精神文化を形成した根底には、「和を以て貴しとなす」という聖徳太子が提唱した価値観があると思われる。個の意見も大切であるが、お互いの意見を尊重しあい、共通の認識や意見に集約するまで、徹底した対話を続けるという態度が大切であろう。西野監督は、まさにそうした対話を続けることで、チームをひとつにまとめあげたのである。勿論、監督のリーターシップも必要である。最終的には、監督が重要な決断をしなければならないし、すべての責任を取らなければならない。今回のポーランド戦は、まさに西野監督が苦渋の決断をして、その責任を一身に背負った。あれで、チームはひとつにまとまったのである。

西野監督が、オープンダイアローグという心理療法の原理を知っていたとは到底思えないが、彼はチーム内の対話をまさしくオープンダイアローグという手法を使って活性化していたのには驚いた。各選手の話を傾聴して共感したと言われている。監督としての優位性を発揮せず、対等の立場で対話したらしい。しかも、否定せず介入せず支配せずという態度を貫いたという。このような開かれた対話をされたら、誰だって西野監督のことが好きになり、信頼を寄せる。このような対話を続けると、選手たちは自ら主体性を持ち、自発性も発揮するし、責任性を強く持つ。つまり、アクティビティを自ら強く発揮するのである。

ともすると、組織のリーダーは圧倒的な権力を持つことにより、構成員を支配し制御したがる。こうすることで、ある程度の成果は出せるものの、継続しないし発展することはまずない。大企業の著名経営者が陥るパターンであり、中小企業のオーナー経営者が失敗するケースである。家庭において、圧倒的な強権を持つ父親が子どもを駄目にするパターンでもある。ひきこもりや不登校に陥りやすいし、弱いものをいじめたり排除したりする問題行動をしやすい。組織をうまく機能させるには、開かれた対話、つまりオープンダイアローグの手法により、共通言語を形成し関係性を豊かにすることが必要である。西野ジャパンが対話によって成功したように、コミュニティケアを目指せばよいのである。

※スポーツチームのリーダーや組織の管理者、または企業のマネージャーがオープンダイアローグを学びたいと希望するなら、イスキアの郷しらかわにおいでください。組織の活性化が実現できます。1泊2日のコースで丁寧にレクチャーいたします。勿論、家族とのコミュニケーションが苦手だと感じるお父様も、是非受講してください。

ひきこもりが解決する方法

どんなにこじれてしまったひきこもりや不登校でも解決する共通の方法なんて、絶対にないと思っている人が殆どであろう。確かに、ひきこもりや不登校の原因やきっかけはそれぞれ違っているし、当事者や家族の考え方や置かれた環境も違っているのだから、そう思うのも無理はない。高名な精神科医やカウンセラーにも相談して治療を受けたし、改善に効果あるといういろんな方法を試してみたことであろう。しかし、今度は改善するかもしれないという期待は、残念ながらことごとく裏切られたに違いない。ましてや、ひきこもりや不登校の子どもをカウンセリングや精神科医の元に連れて行くことさえ困難なのだから、当然である。

ひきこもりや不登校の原因が、何となく親と子育てにあると思っている保護者が多いことだろう。その判断は、あながち間違いではないと思われる。しかし、それがすべての原因ではない。もっと複雑な原因やきっかけが絡み合っている。その絡み合った糸をほどけさせて、二度と絡み合わないようにすることが求められている。本当の原因を探り出して、その原因をひとつずつ根気よくつぶすしかないと、思い込んでいる人も多いに違いない。精神科医やカウンセラーはそういうふうに思っている。だからこそ、家族のカウンセリングを重要視している。しかし、そんな家族カウンセリングをいくら受けたところで、改善しないことが多いのも事実である。

ましてや、家族カウンセリングを受けるケースであっても、父親が自ら進んでカウンセリングを受けることはまずない。母親が家族カウンセリングを受けて、父親も一緒に受けるようにカウンセラーから勧められても、断ることが多い。よしんば、父親がカウンセリングを受けたとしても、カウンセラーの指示や指導に素直に従うことはないであろう。自分には我が子のひきこもりの原因がないと思い込んでいるし、母親が原因だと思い込みたい自分がいるからである。さらには、既に離婚して父親が不在だというケースも少なくない。

家族カウンセリングを行うカウンセラーや精神科医にも、家族カウンセリングが上手く行かない原因がありそうだ。まず、カウンセラーや精神科医というのは、子どもがひきこもりや不登校になった原因を追究したがる傾向がある。カウンセラーや精神科医というのは、何か家族の誰かに問題があると、その原因を分析して問題解決をしたがるのである。そして、家族の誰それにこういう問題があって、これがひきこもりの原因なので、それを解決しなさいと深く介入し、指導を行う。これが絶対にやってはいけないことなのである。

何故いけないかというと、そのように指摘されて指導された人間の気持ちになってみるがいい。そんなことを言われて、「はいそうですか、私がいけなかったのですか、直しますね」と素直に認めて受け容れる人がいるであろうか。そんな謙虚で素直な人なんて、絶対にいない。特にひきこもりを起こしている子どもの保護者は、そんなことは認めたがらない。もし、素直に認めて「解りました、努力します」と答えたとしても、それはけっして本心からではない。その証拠に、それ以降はカウンセラーの言うことを聞かなくなるし、行かなくなるに違いない。家族カウンセリングが失敗する典型例である。

人間というのは、自分に非があることを他人から指摘されるのを極端に嫌うものである。ましてや、図星のことを指摘されるのは怖いことだ。特に、変なプライドを持つ人間ほど、この傾向が強い。社会的な地位や名誉を持つ人間や教養の高い人ほど、他人の指摘に反抗したがる。こんなことを赤の他人から指摘されたとしたら、それを素直に聞き入れるようなおめでたい人間なんていない。だから、絶対にそんなことを指摘してはならないし、深く介入し、その保護者を無理に変えようとしてはならないのである。

ひきこもりや不登校をしてきた当事者は勿論のこと、その保護者たちは支配され制御されることを嫌う。それは人間なら当たり前のことである。全き自由でありたいと思うし、誰かの操り人形で生きるなんて、まっぴらご免である。ましてや、人間という生き物は、本来アクティビティーを持つ生き物である。誰からか命じられて行動するのは苦手で、主体性・自発性・自主性を自ら発揮したいのである。故に、当事者と保護者が自分のこだわりや誤りに気づき、自ら変化することを選択したいと本心から思うようになれば、ひきこもりも解決する道筋が見えてくる。現在考えられるその唯一の方法とは、オープンダイアローグ(開かれた対話)という手法である。

 

※オープンダイアローグについての研修を、イスキアの郷しらかわでは開催しています。宿泊していただいた人が希望すれば、ていねいに解りやすく説明します。日帰りの研修会も実施しています。何名かの方が集まればランチ会と共に開催しますので、お申込みください。

富山の交番襲撃事件に思うこと

富山市の交番が襲撃されて、警察官が刺されて殉職し、奪われた拳銃で警備員が射殺されたという痛ましい事件が起きた。亡くなられた方々のご冥福を慎んで祈りたい。それにしても、残忍な事件が相次いで起きている。ついこの前は、新幹線内で悲惨な殺傷事件が起きた。共通しているのは、不登校からひきこもりの経過をした青年で、家庭内暴力があったらしいとのことである。くれぐれも言っておきたいが、ひきこもりで家庭内暴力を奮う若者がすべて危険だとは、絶対に思わないでほしい。そんな色眼鏡で見ることだけはしないようにと、強く言っておきたい。

彼らが悪くないとは言わないが、特別に凶悪な人間だとは思ってほしくない。マスメディアは、このような凶悪事件が起きる度に、いかに彼らが異常だったかのような報道をする。そして、自分たちは正常だと言わんばかりに批判するし、彼らの親に対しても攻撃的な報道が行われる。果たして、そんな報道だけで良いのだろうかと、凶悪事件の報道に接する度に思ってしまう。こんな凶悪事件が起きると、犯人からの攻撃からどのように守るかという再発対策だけを取り上げる。本来は、こういう悲惨な事件を起こさないような社会を創造するために、コミュニティケアについて議論すべきだろうと思う。

凶悪事件を起こした家庭では、家族というコミュニティが機能していなかったと見られている。おそらく親子関係は希薄化、もしくは劣悪なものになっていたように言われている。さらには、親どうしの夫婦関係にも問題があったとも想像できる。そうなってしまった原因は、彼ら家族だけに責任がある訳ではないと思える。社会全体や地域全体のコミュニティに問題があったように思えて仕方ない。コミュニティ(生活共同体)は、それを構成する人のお互いの関係性によって成り立っている。その個人に問題があるのではなくて、その関係性にこそ問題の根源があると見るべきだろう。

不登校とひきこもり、または生きづらさを抱える社会人とその家族を支援していて感じるのは、その当事者だけでなく、そこに生きている社会というコミュニティ、学校や職場、または家族の関係性にこそ問題の本質が隠れているという実感を持つことが多い。つまり、関係性が希薄だったり劣悪だったりした時に、いろんな問題が起きているのである。ということは、この関係性を改善することが出来れば、諸問題が解決する方向に向かうと確信している。言い換えると、問題の責任は本人とその家族だけでなく、社会を構成している我々にも責任があるという訳である。

新幹線殺傷事件や交番襲撃事件の犯人たちは、この社会に相当な生きづらさを抱えていたに違いない。そして、この生きづらい社会に適応するのが困難であり、相当悩んで苦しんでいたに違いない。そんな彼らを助けてあげることが出来なかった我々に責任がないとは言い切れないと思われる。甘ったれたことを言うな、みんな生きづらさを抱えても頑張っているんだという方もいるに違いない。確かにその通りである。それでもみんなその生きづらさを抱えながらも懸命に仕事したり学業に精を出したりしているのだ。だから、人のせいにしてはならないというのも正論なのである。

だとしても、こういう生きづらさを抱えて、犯罪行為を起こしてしまうまで、社会に対する怒りを増幅させる前に、誰かが救えなかったのかという思いがある。子どもがひきこもりであり家庭内暴力で悩んでいる家庭のご両親から相談を受けることが多い。そういうケースの場合、家族の関係性に問題を抱えていることが多く、特に父親が子どもに対して嫌悪感を持つことが多い。あまりにも父親が子どもの生き方を認めたがらず、子どもの言い分に耳を傾けないケースが多いのである。確かに育てにくい子どもだということがあるが、あるがままに子どもを敬愛して信頼する気持ちが少なく、良い子でなければ愛さないと頑固な態度を取ることが多い。

そして、父親の子どもに対する見方を、そのまま母親が認めて、同じように対応していることが多い。こういう場合、今までどのように治療していたかというと、家族療法という形で、家族に対するカウンセリングを実施するケースが多かった。ところが、こういう問題の家庭において、父親は聞く耳を持たないし、そもそも家族カウンセリングを拒否することが多い。いくら周りの人が助けの手を差し伸べても、その助けを受け入れることは少ない。このような場合、オープンダイアローグこそが有効だと確信している。否定せず、介入せず、あるがままを認めて受け入れる「開かれた対話」であるなら、両親も自ら変化するに違いない。このようなコミュニティケア的支援を、社会がして行く責任を負っているのだと強く思っている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、オープンダイアローグの研修会を開いています。また、求めがあれば、社会的コミュニティケアを支援いたします。お子さんのひきこもりや家庭内暴力でお困りの方は、お問い合わせください

新幹線内無差別殺傷事件に思うこと

またもや新幹線内で悲惨な事件が起こされた。犠牲になられた方とご家族に謹んでお悔やみを申し上げたい。それにしても、治安の良い日本の、それも新幹線という誰でもが利用する安全な乗り物の中でこんな凶行事件を起こすなんて信じられないし許せないことである。多くのマスメディアは、こういう凶行事件が起きる度に、なお一層の安全対策を求める声を大にして訴える。しかし、誰でも何時でも制限なく乗れる公共交通機関においては、このような凶悪事件が起きることを防止するのは基本的に難しいのが現状だ。自分で自分の身を守るしかないのであろうか。

こういう無差別凶悪事件が起きる度に、殆どのマスメディアは安全対策が不十分だからこんな事件が起きるという論調になる。そして、犯人がいかに凶悪で特別な人間であり、こんな人間は絶対に許せないと主張する。そして、マスメディアはどうしてこんな凶悪な犯人が生まれたのかという分析をして、親の養育に問題があったと結論付けてしまうことが多い。このような人間を生み出してしまったバックグラウンドや社会の歪みや闇までも明らかにして行こうという意思は感じられない。本当の再発対策は、こういう人間を生み出さない社会を創ることではないかと思うのだが、そこまで到達しないのが不思議である。

犯人の素顔や養育環境が、少しずつ明らかになってきている。子どもの頃に不登校になり、やがて引きこもりの状態になっていたという。世の中に非常に多いパターンである。そして、両親の手を離れ祖母の家に居候していた事実が明かされている。とても育てにくい子どもで親と仲違いしていたので、祖母に養育を任せていたという。父親のインタビューの返答がすごい内容である。こんな事件を起こした原因と責任は、あくまでも本人にあり、どのようにして償うかは本人次第だと言っていた。こんなにも子どもに対して冷たい親が存在するなんてびっくりである。

確かに、成人したらすべて自己責任である。だとしても、いつまで経っても親子の関係は断ち切れない。どんなに年齢を重ねても、我が子を思う親の愛情はある筈である。それなのに、この犯人の父親には我が子を思う情愛がまったく感じられないのである。今まで、いろんな無差別凶悪事件の犯人像を見てきたが、やはり父親の愛情が希薄であったように思う。どんなに厳しい子育てであっても、その根底に愛があれば良い。しかし、愛情の欠落した躾は、子どもに悪影響しか与えない。

父親のインタビューでさらに驚くことが語られていた。子どもは家庭内暴力を奮っていたらしいが、父親自身も子どもを虐待していたと認めていたのである。暴力は連鎖するし、世代間にまたがって伝わっていく。この若者が無差別な存在にまで暴力を奮うようになったのは、暴力の連鎖によるものであろう。そして、この父親だけにその責任を押し付けるのは、筋違いとも言えよう。この父親だって、その祖先からもまた愛情をかけられなかったに違いない。愛情を持って育てられた経験のない親は、子どもを心から愛せない。

このような家庭は、今非常に多い。このような親子・兄弟の関係性が破綻した家族を機能不全家族と呼んでいる。そして、この機能不全家族を生み出した張本人は、我々であると言っても過言ではない。つまり、今回引き起こされた無差別殺傷事件の根本原因は、この歪みのある社会を構成する我々にあるのだ。この犯人の両親も、そしてその親もまた機能不全家庭で育った可能性が非常に高い。犯人の祖母のインタビューを聞いていても、やはり孫に対する愛情が感じられない。こういう機能不全家族を生み出したのは、間違った教育を続けてしまったこの社会にある。

子どもを愛せない、または子どもの愛し方が解らないという親が増加している。それは基本的に、社会教育と家庭教育が機能していないという証左でもある。しかし、そればかりが原因ではない。添加物過剰の食事などにも原因があるし、農薬や化学肥料を過剰使用した農産物にも原因がある。また、必要以外のワクチン使用や抗生物質などの乱用、または薬物の過剰使用にも原因があると言われている。これらによって腸内環境の悪化が起きて、脳内ホルモンの異常を生み、セロトニン、オキシトシン、ノルアドレナリンなどの分泌不足が起きて、親の愛情不足を生み出しているとも言えよう。このような社会の歪みや闇を放置した我々にも責任がある。二度とこのような無差別凶悪事件が起きないように、我々自身が社会変革に乗り出したいものである。

 

児童虐待は個人でなく社会に責任がある

児童虐待による悲惨な死亡事件が起き続けている。各地の児童相談所や子どもセンターが関わっているにも関わらず、解決することなく痛ましい結果を招いてしまっている。警察にも傷害事件として届けられていながら、適切な対応がされず何らの解決がされなかったという。ネット上やSNSでは、実際に虐待した父親だけでなく、守れなかった母親にも批判の矛先が向いている。また、児童相談所や警察にも批判が相次いでいる。確かに、適切な対応がされていれば、悲惨な結果だけは防げたかもしれない。しかし、この虐待問題は当事者だけの問題なのであろうか。

児童相談所は増え続けている虐待のケースに対して、絶対的なマンパワー不足があり、対応しきれていないのが現状である。1人の相談員で100人ものケースを扱っている相談所もあるという。ましてや、とても難しいケースがある虐待に対して、適切な指導力を発揮できる、経験豊かで能力のある相談員が少ないという事情もあろう。警察だって、刑事事件にして訴訟を維持できる証拠・証言を集めるのが非常に難しいことが解っているからこそ、児童虐待を見ないふりをしたがる。

マスメディアやネット上の批判者たちは、あいつが悪いこいつが悪いと批判をするが、本当の原因を希求するという態度が見られない。ましてや、抜本的な解決策を提起する人も少ない。政治も行政も虐待に対する対応は一応しているものの、根本原因を見つけ出して解決策を法案化する動きさえ見えない。ましてや、これらの解決策と呼ばれるものは、緊急避難的な対応策であり、完全に児童虐待を無くすというものではない。児童虐待が起きる本当の原因は、現代社会の歪みにあるにも関わらず、そこを解決する方向に一切向かわないのが不思議である。

このような悲惨な虐待事件が起きる度に感じるのは、この社会は本当に病んでいるんだなあという思いである。本当の我が子であろうとなかろうと、か弱くていじらしい幼子に対して荒々しい攻撃性を示すというのは、考えられない。この人間はどんな育てられ方をしたんだろうという忸怩たる思いがある。自分よりも圧倒的に弱い存在を、本来は守り育てる気持ちを持つのが人間である。人間として当たり前の感情が育っていないのである。こんな教育をしてきた保護者や学校、そして地域社会こそが糾弾されるべきであろう。

児童虐待事件は、まだまだ明らかにされないケースが沢山あると思われる。やってはいけないと思いながら、虐待を繰り返してしまう母親や父親がいて、自己嫌悪に陥っている人間もいることだろう。我が子を虐めてしまう自分自身に対して、自己嫌悪感を持つ母親も多いに違いない。そして、こんな母親が頼るべき存在もなく、救いの手を差し伸べる人もいないという地域社会が問題なのである。相談センターがあるだろうと思う人がいるだろうが、自分の心に闇を抱え込んでいる人がセンターに相談するというのはハードルが高過ぎるのである。

児童虐待が起きてしまう本当の原因は、日本の教育制度の不備にあるのは間違いないだろう。それも、教育制度というよりも教育理念の間違いにあると言える。何の為に教育するのかという、本来の教育の目的が教育者にまったく欠落しているのである。だから、日大のアメフト部や志学館大学のレスリング部のような不適切指導事案が起きるのである。教育が本来目指すべきものは、『全体最適と関係性を発揮できる人間育成』である筈である。自ら積極的に、社会全体の幸福と福祉を実現するために主体性を発揮して努力する人間を育成することが教育の目的なのである。

ところが、今の教育は自己利益や自己評価を高めるために努力する人間を育てているのである。「誰の為に勉強するの?」子どもに聞いてみれば解る。「そりゃ、自分の為でしょう」と子どもは答える。親と教師が小さい頃から言い含めているからである。やがて社会全体に貢献できる人間として成長する為にこそ、勉強が必要なのであり自分の為ではない。自己中心で身勝手で、自分のことしか考えない利己的な人間だけを育成している現代教育の誤謬が、児童虐待を生み出していると見るべきだ。客観的合理性の近代教育の間違いが、児童虐待の悲惨な事件を起こしているのである。親子や夫婦の関係性の欠如が、愛の家庭内循環と愛情の世代間連鎖を阻害してしまい、我が子を心から愛せなくなったと考えるべきであろう。教育理念の間違いを今こそ正すべき時である。

 

※悪いことだと分かっていながら、つい児童虐待をしてしまい自己嫌悪感を持って苦しんでいるお母さんがいらしたら、イスキアの郷しらかわにご相談ください。何故、我が子を虐めてしまうのかの本当の原因を一緒に考えましょう。そして、この苦しくて悩ましい事態から一刻も早く抜け出す方策を一緒に見つけ出しましょう。ご相談は、電話でもメール、またはLINEでも結構です。問い合わせからメール相談ができますし、電話番号もお知らせします。FBのメッセンジャーでもいいです。LINEのアカウントは「natural1954」です。

スポーツの指導は科学的手法で

日大アメフト部の不適切指導が大変な問題になっているが、そもそも内田監督という人物が、指導者として相応しかったのかということが話題になっている。至学館大学の栄和人監督も同じような批判にさらされた。どちらもそれなりの成績を残しているものの、指導される側からは、その指導法に疑問を呈されている。彼らの指導法に共通しているのは、精神論や感覚論に偏っているという点だ。そして、体力の限界を超えるような猛練習を課しているのも特徴的である。確かに日本のトップレベルを保つにはハードな練習が必要なのは理解できる。しかし、自らが求めた練習ではなくて、嫌々やらされているという感覚ならば、そんな練習はするべきではない。

旧来のスポーツ指導においてもてはやされてきた精神論が、まだ横行していることに驚く。内田監督と栄監督はあまりにも精神論に固執していたように思える。新しい技術や戦略的部分はコーチが補佐していただろうが、基本的な組織全体の科学的な管理手法については、疎かったように感じる。厳しい練習に耐え抜いた選手だけが結果を残せるという考え方は間違っていない。だとしても、選手の心が折れてしまうような押し付けの練習は逆効果である。科学的な根拠のないやみくもな練習など、まったく役に立たないのである。

スポーツにおける心身の鍛練において、根性を示せ、気合で乗り切れ、精神を鍛えろなどと前時代的なことを平気で言う指導者がいる。内田監督や栄監督などは、その部類であろう。特に日大のアメフト部は、深夜時間まで及ぶような長い練習を部員に課していたというから、考えられない横暴ぶりである。精神論、根性論、気合論で結果が残せると本気で思っていたなら、時代錯誤と言えよう。スポーツにおいては、科学的・論理的にどうすれば選手が成長し向上できるのかは、ほぼ解明されている。ましてや、メンタル面においても、どうすれば心が平静になって実力が発揮できるのかも、科学的に説明できるのだ。

今は科学的に実証された、効果の高いトレーニング方法が確立されている。最新のフィジカルトレーニングは、短い時間でも必要な筋肉や体力が作られるし、持久力を上げるのに長い時間走るだけのトレーニングなんて、時代遅れになっている。メンタルトレーニングも科学的な手法が用いられる。心理学的に、そして脳科学的に検証されている手法でメンタル面が強化されている。精神論や根性論なんて、今の青少年は誰も信用していない。科学的合理性の教育を受けてきた青少年は、科学的に正しいのか正しくないのかで取捨選択するようになっているからだ。

最近のスポーツ指導者、とりわけ日本トップレベルにある高校や大学の指導者たちは、自然科学を駆使した指導だけでなく、社会科学を活用した指導法を取り入れている。チームワークやリーダーシップ、または自主性や自発性を選手たちに発揮させるには、どのような指導法が良いのかを研究しているのである。最新の経営管理学の理論を学んでいる。チームをどのようにマネジメントしていくかが問われているからである。チームをまとめきって、部下との信頼を得ていなければ結果を出せないからである。

日大のアメフト部は、監督を神格化してコーチと部員を完全に支配しようとした。部員たちに何も考えさせなくして、監督の手足として動く選手だけを重宝した。部員たちが自分達で考えたり、自主的に行動したりすることを何よりも嫌ったのである。戦略を立てるのは監督であるが、試合中に刻々と変化する情勢に臨機応変に自主的に自発的に動ける選手が必要である。瞬間的に対応するには、常日頃からアクティビティが養成されていなければならない。アイコンタクトでお互いが何を考えているのか理解できる関係性が必要である。監督にすべて支配され制御された選手は、いざという時に役に立たなくなる。

最新の科学では、スポーツのチーム全体をひとつのシステムとして捉えている。そのシステムが効率的に機能するには、システムの構成員であるひとりひとりの選手が、全体最適を目指して主体的に動くことが求められる。監督やコーチから、いちいち指示されることなく、自主性を持って行動できるように自己組織化されていなければならない。それぞれの選手たちが、ネットワークを組んでそれぞれが過不足なく連帯性を持って行動出来た時に、最大の効果や成果を発揮できるのである。その為には、選手どうし、選手と指導者、指導者どうしの関係性が大事である。その豊かな関係性を築くには、自己組織化されたシステムという考え方をチーム全員が認識しなくてはならない。スポーツの指導は、精神論でなく科学論でするべきだ。

 

和食文化継承の担い手

和食文化は世界遺産にもなるくらい素晴らしいものであり、欧米でも和食の良さが認識されて、人気を博している。日本が世界に誇る文化のひとつであるから、この文化は後世にも引き続き継承していきたいものである。和食文化を継承する担い手の一番手と言えば、日本料理店の板前さんとその調理補助者であろう。寿司店や割烹の板さんや旅館・ホテルの料理長が和食文化の継承者であるのは間違いない。しかし、そもそも和食とは特別な料理ではなくて、日常的に家庭でも食されているものである。故にその和食文化を継承しているのは、いわゆる『お母さん』でもあると言える。

ところが、若いお母さんがまともな和食を作れなくなっているのである。以前は、嫁入り前の若い女性は母親から和食の基本を叩き込まれたものである。または、嫁入り修業として料理学校に通い、家庭料理の基本を習ったものである。ところが、今時そんなことをしている若い女性は殆ど居ない。必要だと思っていないのだから当然だ。スーパーに行けば惣菜は豊富に陳列してあるし、インスタント製品や冷凍食品が用意してあるから、簡単に食事の用意が出来る。丁寧に出汁を取って作る味噌汁とか、煮物や漬物などの手作り惣菜を作れなくなっているのである。

洋風料理や中華料理は、ある程度のレベルの料理なら作れるが、本格的な日本料理を作れる若いお母さんは少なくなってしまっている。つまり、若いお母さんが和食文化の継承者になり得ていない。これでは、和食文化はごく一部の専門家にだけ残るようになってしまうのではないだろうか。和食は家庭料理においてこそ、その存在価値があるのに、家庭料理に和食がなくなってしまったとしたら、日本人の肉体と精神はどうなってしまうのであろうか。

日本人の肉体と精神は、和食を食べてこそ最適な状態に保つことが出来るように遺伝子が進化してきたのである。日本人が和食をあまり食べなくなってから、生活習慣病を始めとして心臓血管障害や脳血管障害などが増加してきた。日本人の多くがメタボになったのも食事が洋風化した影響が大きい。各種のアレルギー疾患が増えたことや、悪性腫瘍が増加したのもその一因だと考えられている。発達障害や気分障害などメンタル面での障害が増えているのも、本格的な和食から遠ざかったせいだと言う専門家がいる。

お母さん以外でも、和食文化の継承を担っているケースもある。一家のお父さんが和食を極めていて、おふくろの味ではなくて親父の味を子どもたちに伝えている例もある。自分も、会津の母が作っていた伝統的な郷土料理を継承している。三人の息子たちに和食を中心にした食事を提供していたから、確かな味覚が育った筈だ。やがて、親父の作った料理を再現してくれるだろう。娘がいなかったが、結婚した長男は時折台所に立っているというから、親としても嬉しい。お母さんに限定することなく、和食文化を誰かが継承してほしいものである。

最近、幼児教育の現場で伝統的な和食文化を継承しているのを知って驚いた。福岡県にある高取保育園では、毎日本格的な和食の給食を提供している。園児たちが味噌を手作りして、それで作った味噌汁を毎日飲んでいる。玄米ご飯、味噌汁、納豆、旬の野菜で作った惣菜を提供している。化学調味料や保存料などの添加物が一切入っていない、自然食である。幼児期にこのような本格的和食を食べていれば、正常な味覚が育つから、大人になっても和食を食べ続けるに違いない。神奈川県の座間市にある『麦っこ畑保育園』も、同じように自然食の給食を出している。このように幼児教育で和食文化を継承しているというのは、非常に心強い。

さらに大学教育の現場で、和食文化を継承する努力をされている人がいる。郡山女子大学で、管理栄養士を育成している亀田明美准教授である。学校給食の栄養士とか、大学や企業の食堂を管理する栄養士などを養成している大学の現場で、和食の大切さを訴えている。亀田女史は、大学で教鞭を取りながら、プライベートで学校給食を見直す活動もされている。その活動に賛同した大花慶子さんたちと一緒に、学校給食に伝統的な和食や自然食を取り入れる運動を展開されている。多くの若いお母さんたちが、この運動に参加している。このように、いろいろな和食文化継承の担い手が現れている。これで日本の和食文化の素晴らしさが社会的に認知されて、和食の文化が広まっていくに違いない。

※イスキアの郷しらかわでは、伝統的な和食を提供しています。玄米ご飯(無農薬・有機栽培)、玄米餅、手作りの味噌で作った味噌汁、発酵食品、旬の野菜(無農薬・有機栽培)など自然食を中心にした食事です。4日~5日滞在すると、和食の良さを実感します。食習慣を改善できますし、本格的な和食の作り方を学べます。是非、ご利用ください。問い合わせフォームからご相談ください。

映画『いただきます』から学ぶ和食の大切さ

園児たちが自ら味噌づくりをする保育園がある。そして、その味噌で作った味噌汁を毎日の給食で保育園児は食べる。小泉武夫東京農大名誉教授は、この保育園の子どもたちを日本一しあわせな子どもたちだと言う。この保育園は高取保育園と言って、開園時からずっと西園長が食育を続けてきた。この保育園児たちの味噌づくりと日常を描いたドキュメンタリー映画が『いただきます』である。涙無くしては見られない感動の記録映画であり、多くの学びを与えてくれる秀作である。

数年前に福岡県でインフルエンザが猛威を奮い、学校閉鎖や学級閉鎖が相次いだ時期がある。この時でも、この保育園では感染による体調不良で休む保育園児は僅かだったという。重度のアレルギーやアトピー性皮膚炎の園児も、数か月登園すると治ってしまうというからすごい。この園児たちは保育士が指導している訳ではないのに、冬でも半そで半ズボンである。おそらく基礎体温が高いのであろう。当然、免疫力が高くなるから風邪もひかないし、病気にならない。それもすべてこの保育園の給食と教育方針の賜物であろう。

この保育園では、園児たちが毎月100㎏の味噌を作る。そして、その手作り味噌で味噌汁を作り、毎日園児たちが飲んでいる。毎日の給食の献立は、玄米ご飯、味噌汁、納豆、旬の野菜料理である。食養生、医食同源の考え方に基づいて、伝統的な和食が作られている。園児たちは、梅干し、沢庵、高菜漬けさえも作ってしまうらしい。給食の定番であるハンバーグ、鳥の唐揚げ、焼き肉、とんかつなどは勿論、肉、乳製品はまったく出さない。あくまでも発酵食品と玄米が主に提供されている。

小泉武夫東京農大名誉教授は、この映画の中で和食の大切さを説いている。日本人のDNAは、農耕民族の長い歴史の中で、味噌や納豆などの発酵食品、玄米、大豆・野菜類に適応するように進化してきたという。だから、狩猟民族や牧畜民族としての歴史がある欧米人のDNAとは根本的に違っている。欧米人の食べるような肉や乳製品を日本人が食べたら、不適応を起こすのは当たり前だと力説する。日本人に生活習慣病やアレルギー、またはガンが多発したのは、間違った洋食の食生活をしたせいだと断言している。

小泉名誉教授は、こんなことも言っている。国際フリーラジカル学会で、活性酸素やフリーラジカルを無害化させてしまう抗酸化作用の強い食べ物は何かを調査したという。その結果、第1位が味噌で、第2位がテンペ(インドネシアの発酵食品)、第3位が納豆だったという。酸化作用が強い活性酸素やフリーラジカルは、各種感染症や心疾患、脳疾患などを招く。悪性腫瘍が発生するのも同じ原因からである。日本人の伝統的な和食がどれほど健康によいか解ろうというものだと力説している。伝統的な和食に立ち返ることを勧めている。「祖先の道へ還ることは退化ではない」と説く。

高取保育園では、「知育・体育・徳育の基本は食育にある」という教育理念を実践している。給食を伝統的な和食にしているだけでなく、まるで禅寺のように園児たちが掃除をしている。保育園内の雑巾がけを毎日園児たちが笑顔でしているのが日課であるし、トイレのスリッパや玄関の靴を揃えるのは園児たちが率先して行う。園児たちに座りましょうと言うと、自然と正座をする。無駄に騒いだり動き回ったりする園児がいない。おそらくこのような伝統的な和食を食べていると、発達障害さえも和らいでしまうのに違いない。幼児教育に対する功労を認められて、西園長は2度も勲章を授与されている。

この『いただきます』を観て一番驚くのは、園児たちの食事風景である。給食を食べ残す子どもが皆無なのである。それも、米一粒だって残さない。おかずもすべてたいらげる。ひじきの小さなひとかけらだって、丁寧につまんで食べる。けっして上品とは言えないが、器を舐めまわして食べる園児までいる。食べ物を粗末にしないことを徹底している。なによりも驚くのは、食べる時の園児たちの笑顔である。本当に美味しそうに食べている。味噌汁を飲み終わった後の満足そうで屈託のない笑顔は、私たちを癒してくれさえする。食べることの楽しさを、大人の我々に教えてくれる素晴らしい映画だった。

可愛い子には旅をさせよ

『可愛い子には旅をさせよ』という諺は、我が子の自立を促すには子どもに独り旅行をさせるのが良いという意味であると思われる。それが転じて、あまりにも子どもに対して過干渉だったり、支配したり、コントロールしたりすると、自立を阻害してしまうから注意しなさいということも教えてくれている。親というのは、我が子に対して心配するあまり、危険性の少ない安全な道を歩ませたがる。先回りしたり同行したりして、子どもの危険を取り除くことをしてしまう。それが子どもの成長を遅らせてしまうことに繋がるのに、親心というのは困ったものである。親離れ子離れできない親子が多い。

現代では、若い女性の一人旅も多くなったが、危ない輩もいることからリスクもある。ましてや、中学生や高校生ならなおさら危ない。したがって、中高生の我が子を一人旅させるのは躊躇してしまうことだろう。可愛い子には旅をさせよと言っても、あまりにも危険な現代では二の足を踏むのは当然だ。そういう場合、昔は我が子をこのように自立をさせる方法があった。会津地方で古く行われていた方法である。『飯豊山参り』と呼ばれていたと記憶しているが、13歳~15歳の子どもたちを飯豊山に登山させていた行事があったのである。

武士は12歳~15歳に元服という、成人として認める儀式をする。町民には、元服という儀式はなかった。この元服に替わるものとして、飯豊山参りをしていたのではないかと思われる。数え年13歳~15歳になった子どもを近くの神社に1週間お籠りをさせて、身も心も浄める。そして先達と呼ばれる経験豊かな大人が先導して、飯豊山にお参りする。飯豊山は霊峰であり、しかもアプローチがとんでもなく長い。さらに、登山口から飯豊山本山の山頂まで、大人でも8時間くらい要する。当時は車もなくて、長いアプローチも歩いて行ったので、おそらく行き還り10日間ほど要したと思われる。

飯豊山は毎年のように沢山の登山者を迎えているが、今でも上級者でしか登れない。長い時間を要するということもあるが、かなり標高差がありきつい登りもあるし、危険な箇所がいくつもあるからだ。今でも滑落して亡くなる人も少なくない。当時は、登山道だって今のように整備されていないから、飯豊山参りで滑落して亡くなった子どもたちも相当いたらしい。大人の先達の指導に従わず勝手な行動をしてしまう子どもは、危険な目に遭ったであろう。子どもたちにとって、飯豊山参りはかなり厳しい一大イベントであったろうし、相当なプレッシャーがあったに違いない。

私が小さい頃になくなってしまった行事なので、自分は経験していない。ただ、幼児期にこんなことを言われて育った。『嘘をついたり人を傷つけたりするような悪いことをすると、飯豊山参りで神様が怒って落っこちて死ぬぞ』と脅されて育てられた。当然、滑落死することもあったと聞いていたから、神様が見ているぞと言われれば、誰が見ていなくても良い子であらねばならないと心に誓ったものである。小さい頃は、神様とか仏様という存在は絶対的なものであり、胡麻化しの効かないものだと信じていた。今はこのような教えがないというのは、子どもの健全育成にとって大きなマイナスであろう。

飯豊山参りをすることで、子どもたちは身体的にも精神的にも大きく成長して名実ともに『大人』になった。これだけ危険で厳しい行事を成し遂げたという達成感と、神様に自分の生き方が認められたという自己肯定感が、精神的な自己成長をさせたのであろう。忍耐力やどんな厳しい試練にも負けない精神力が養われたに違いない。飯豊山参りを成し遂げた若者たちは、人間を超越した『神』という存在を信じたであろうから、自分を偽るような生き方をしなかったと思われる。死に直面した経験は、命の大切さを知り、他人を傷つけるようなことはしなかった。飯豊山参りをした子どもたちは、立派な大人になったのである。

今は、このような飯豊山参りという風習がなくなったというのが、とても残念である。現代の若者が自立できていないというのは、このような自立支援プログラムがなくなってしまった影響もあろう。このような飯豊山参りほどのハードな行事ではなくても、子どもに厳しい登山をさせることで、自立を促すことに繋がるように思える。特に、親が同行せずに、先達のような他人に預けて、厳しい登山をさせることが子どもの自立支援になると確信する。我が子を心配過ぎて、常に自分の目が届かないと不安な親は、他人に預けて子どもに登山をさせてみてはどうだろうか。思い切って可愛い子には旅をさせてみようではないか。

 

※イスキアの郷しらかわでは、登山による子どもの自立支援をしています。飯豊山の登山案内もしますが、日帰りでの登山は勿論のこと、1泊程度の日本アルプスや東北の名山の登山ガイドもいたします。子どもさんだけを預けてもらってもいいですし、心配ならば最初だけは保護者が同行しても構いません。登りながら子どもさんたちにいろんな人間教育(生きる智慧)もさせてもらいます。問い合わせフォームからご相談ください。