不登校を見守るだけでいいのか

学校にどうしても行けなくなったら、無理して登校しなくても良いのだという考え方は一般に認識されてきたようだ。文科省も何がなんでも学校に登校させることがゴールだという考え方を、転換することにもなった。そのお陰で、これ以上の苦しみを子どもに与えなくて済むことになったし、いじめや不適切指導による自殺を防ぐという効果もあった。しかし、学校に行かなくてもいいのだという認識が広がることで、逆に不登校を乗り越える例が減ってしまい、やがて深刻なひきこもりに移行してしまうケースが急増している。

不登校に対する世間の認識が、まったく変化してしまったと言える。一昔前なら、どうしたら登校できるようになるのか、その原因を追究すると共に対策をあれこれと練っていた。ところが、不登校の状態が異常ではなくて、学校に行かないという状態になり続けてもいいのだと当事者と保護者も誤認してしまったのである。ましてや文科省や学校関係者も、不登校という現状を認めなくてはならないというような間違った認識を持ったが故に、解決策に本気で取り組むことをやめてしまったのである。

不登校という選択肢を選ぶのも大事だし、その状況にある子どもを批判したり否定したりしないことも必要である。無理して登校を強いるのは避けたいものである。しかし、不登校の状態を保護者が放置することは絶対にしてはならない。何故なら、そのような状況に追い込まれてしまった子どもは、不登校というSOSのサインを発して、助けを求めているからである。緊急避難的に不登校という選択を認めるのは正しいが、その状況を続けても是とする考え方は危険である。子どもとの絆を結び直す絶好のチャンスと捉えるべきである。

不登校になってしまう原因は、学校におけるいじめや不適切指導、または不登校当事者の資質や性格、成績不良、自己肯定感のなさ、発達障害などのメンタル障害などにあると思っている人が殆どであろう。当事者も家族も、そして学校関係者もそのように認識している。しかし、不登校になる真の原因はそんなものではない。不登校になる本当の原因は、家族どうしの不安定な愛着にある。家族の絆が希薄化、または劣悪化していて、機能不全家族の状態になっているのである。そのために、親子や夫婦どうしの愛着が不安定化、もしくは傷ついた愛着になっているのである。つまり、愛着障害を起こしているのだ。

このように不登校の原因は、不登校をしている当事者にあるのではなく、家族との関係性にあると認識すべきである。そして、家族の関係性が薄れていたり乱れていたりして、当事者と家族が愛着障害を起こしているが故に、不登校という状況に追い込まれているのである。その証拠に、不登校の原因であるいじめや不適切指導を止めさせても、すぐに登校できる訳ではない。不登校の子どもは家庭の中に安全で安心な居場所が提供されず、いつも不安や恐怖感を抱えている。母親も不安定な愛着を持つと、子どもにとっての安全基地となりえない。絶対的な安全基地を持たない子どもは、苦難困難から逃げてしまうのだ。

絶対的な安全基地は誰にでも必要である。子どもだけでなく、大人にとっても必要不可欠のものと言えよう。安全基地がないと、不安や恐怖感が先立ってしまい、苦難困難を乗り越える勇気が持てない。特に子どもは安全基地がないまま育つと、愛着障害を抱えてしまい、やがて苦難困難に向かい合うと回避してしまうのである。学校で嫌なことや恐怖に思うことに出会うと、不登校にならざるを得ない。特に母親との愛着が大切で、母親が子どもにとって安全基地となりえていない場合、不登校に逃げ込んでしまうしかないのだ。

不登校の状態をそっと見守るしかないと思い込むのは、まったく見当違いである。不登校というのは、機能不全家族を解決するチャンスでもあるのだ。崩壊家庭になっている状況を何とか解決すれば、不登校も乗り越えることができる。不登校という選択をしてもいいが、不登校をそのまま放置してはならないのである。母親が抱えている不安定な愛着を癒してあげれば、母親が子どもの安全基地となりえる。そうすると愛着障害を抱えている子どもは、愛着障害を癒すことが出来て、母親との愛着を再構築できる。不登校だって乗り越えられるし、機能不全家族も見事に解決するのである。

※不登校になっている子どもの家庭がすべて機能不全家族ではありませんが、殆どが家族関係に何らかの問題を抱えています。そして、そのことに自分たちも気づいていないケースが殆どです。だから、不登校が長い期間解決しないのです。愛着障害(傷ついた愛着・不安定な愛着)を親子共に癒すことができて、安定した愛着を再構築することが出来たら、劇的に問題は解決します。適切な愛着アプローチによって、愛着障害を乗り越えることが可能なのです。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

我が子を心から愛せない親

千葉県の心愛(みあ)ちゃんが親から虐待を継続的に受けていて、虐待死を迎えてしまうという不幸な事件が起きてしまった。父親の心愛ちゃんに対する異常なまでの虐待や妻へのDVの内容が報道されているが、こんな親がいるのかと慄然としてしまう状況が明らかになっている。母親が虐待に加担せざるを得ない状況まで追い込まれてしまった原因が、夫からの暴力を伴う支配や制御にあったとされる。こんな両親の元に生まれた心愛ちゃんがあまりにも不憫である。この親のように、子どもを心から愛せない親が増えている。

子どもを心から愛せない親が、この心愛ちゃんの親だけでなく、他にも多く存在していることは、虐待事件が無くならないことからも推測できる。虐待事件まで発展していないものの、何となく子どもを心から愛せない親は多いはずである。我が子に愛情を感じなくても、周りの目を気にするとか常識から外れないようにと気を付けて、何となく『良い親』を演じている親は想像以上に多い。こういう親は、子どもを『しつけ』だと勘違いして、自分の価値観を押し付けたり、必要以上に子どもをコントロールしたりする。

こういう親は、子供どもを自分の所有物だと勘違いしているし、支配するために暴力を奮ってしまう。そして、自分の思い通りにならない子どもに虐待と言えるような『しつけ』を繰り返す。自分の意に添わない行動をする子どもに対して、平気で暴言・暴力やペナルティーを与えて、支配・制御を強めていく。本来、子どもは自由であるべきだ。そもそも大人だって人間は自由であることで、人間本来の自己組織性やオートポイエーシス(自己産生性)を獲得していく。支配・制御を繰り返された子どもは、自己成長しなくなる。

子どもをまるごと、そしてあるがままに受け容れて許す愛情は、母性愛と呼ばれる。母性愛は、無条件の愛とも言われる。子どもが生まれたら、自動的に母親に母性愛が育まれると思っている人が多いが、そんなことはない。どうしても生まれてきた我が子を愛せない母親だって存在する。そして、そんな我が子を心から愛せない母親が増えているのである。我が子のことが愛しくて仕方がないと思わなくてはならないと、義務感のように感じてしまう母親がいるのだ。そして、自分が母親失格であることに悩み苦しむのである。

どうして、我が子を心から愛せない母親や父親がいるのだろうか。それは、自分の親からまるごと愛されるという経験をしていないからであろう。いつも親から条件付きの愛だけを注がれてしまい、無条件の愛である母性愛を享受できなかったからに違いない。人間は模倣の生き物であるから、自分が経験しなかったことを出来る筈がないのである。人間が健全に育つためには、まずは母性愛をたっぷりと注がれて、それから父性愛である『しつけ』がされなければならない。母性愛が中途半端で終わってしまい、父性愛中心の子育てをされると、愛着障害を起こしてしまうのである。

愛着障害の親から子育てをされた子どもは、同じように愛着障害を起こしてしまう。つまり、愛着障害の連鎖が起きてしまうのである。虐待をされて育った子どもが親になり虐待をすることが多いし、DVも世代間連鎖することが少なくない。虐待やDVをする大人は、愛着障害を抱えているし、学校で日常的にいじめをするような子は、愛着障害を起こしている。子どもの時に学友や弟妹にいじめをしていた人間は、大人になってから我が子を素直に愛せないばかりか虐待やDVを起こしてしまう。心愛ちゃんの父親もそうだった。

それでは、心から我が子を愛せない親は、ずっと我が子を愛せずに過ごしてしまうのかというと、けっしてそうではない。適切な『愛着アプローチ』を受ければ、愛着障害は癒えて我が子を愛せるようになるのである。愛着アプローチをしてくれるような医師・カウンセラー・セラピスト、またはメンターの資質を持った第三者によるサポートが必要である。共感的メンタライジングと認知的メンタライジングの知識と技能、そして豊富な経験を持ったメンターが支援する必要がある。子どもが愛着障害を起こしてメンタルで苦しまないように、母親が我が子を心から愛せるように支援する制度が求められている。

※「イスキアの郷しらかわ」では、我が子を心から愛せない親に対して、愛着アプローチを実施しています。まずは、何故我が子を愛することが出来ないのか、その原因や成り立ちと背景を学び、その克服のために必要なことを学習します。また、適切な愛着アプローチを受けることで、愛着障害を癒すことができます。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

引きこもりを乗り越える

引きこもりは若者だけかと思っていた人も多いが、実は中高年の引きこもりのほうが多いことが判明したという。内閣府が引きこもりの調査をしていたが、それは15歳~39歳の若者が対象者だった。しかし、中高年者の引きこもりも多いのではないかという指摘があり、40歳~64歳の中高年者の引きこもりを調査したところ、なんと61万人もいると推計されたという。15歳~39歳の引きこもり推計数が54万人だから、それよりも多いということになる。若い引きこもりが高年齢化したとも言えるが、困った事態になっている。

引きこもりになるのは、圧倒的に男性が多いらしい。7割以上が男性だというから、驚きである。中高年の引きこもり男性は、老齢の母親と二人暮らしをしているケースが多いと言われる。中高年の引きこもりは、親と同居して養ってもらっている場合が多いが、親が他界したらどうするのであろうか。年金の受給権を持たない引きこもりは、やがて生活保護の受給者になることだろう。引きこもりの多くが5年以上に渡り長期化していることが多いことから、一旦引きこもりになると社会復帰は極めて難しいと思われる。

どうして社会復帰が難しいかというと、引きこもりを自分の力だけで乗り越えるのが難しいからである。かと言って、親などの家族がどんなに支援したり働きかけたりしても引きこもりを乗り越えることが困難である。行政も引きこもりを解決する働きかけを積極的にすることが出来ないし、メンタルを病んでいなければ医療の対象になることはない。つまり、引きこもりを解決する手立てがないのだ。だから、引きこもりが長期化するのである。社会復帰の支援をしている民間業者があるが、利用料が高額になるので、高額所得者しか利用することが出来ない。

引きこもりやニートを乗り越えるには、そもそも引きこもりやニートになった根本的な原因を探り出し、その原因を解決しなければならない。引きこもりになる原因は、彼らにとってあまりにも生きづらい社会だからであるのは間違いない。彼らにとっては学校や職場があまりにも冷たくて厳し過ぎるので、適応しにくいのであろう。しかしながら、生きづらさを抱えているのは引きこもりになっている人だけではない。生きづらさを抱えて居ながらも、社会に適応できている人もいる。とすれば、引きこもりになる人とならない人の違いはどこにあるのだろうか。

引きこもりになる人は、学校や職場で嫌なことが続いたり、失敗や挫折を繰り返したりした経験を持つ。そして、そうした体験から不安や恐怖感が極限まで高まり、また同じことが起きるのではないかと思い込み、外で活動することに臆病になり、引きこもりになるのではないかと想像されている。一方、引きこもりにならない人は、たとえ嫌なことに遭ったり失敗や挫折をしたりしても、不安や恐怖感でいっぱいになることはない。どこが違うのかと言うと、オキシトシンやセロトニンなどの脳内ホルモンの分泌異常が起きているのではないかとみられている。

そのような脳内ホルモンの分泌異常が起きるのかというと、乳幼児期から思春期にかけての養育環境、または育てられ方の影響が大きいとみられる。親の育て方が悪かったという訳ではない。あくまでも、親としては子どもの為にと精一杯努力したし、健全に育つようにと懸命に尽くしたのは間違いない。手抜きや育て方のミスがあったという訳ではなくて、あまりにも一生懸命過ぎたせいかもしれない。良い子に育てようという親の思いが強過ぎてしまい、介入し過ぎたというか干渉し過ぎた為に、人体システムの異常が起きて、子どもの自己組織化が阻害されたと推測される。

したがって、引きこもりを解決するには、子どもだけのカウンセリングやセラピーだけでは難しいと思われる。子とその親の両方との家族カウンセリングが、引きこもりを乗り越えるには必要だと考える。それもミラノ型の家族カウンセリングを利用したオープンダイアローグ療法が望ましい。親に対しても、当事者の子どもに対しても、けっして批判することなく否定もせずに、ただ優しく質問を繰り返すセラピーである。そして子どもが自分の幼児期や思春期に言えなかった親への思いを吐露し、その辛くて苦しかった気持ちを親が受け止めて共感する作業を通して、傷付いた心を癒していく。誰も傷つけないで、家族の関係性を再構築していくオープンダイアローグこそ、引きこもりを乗り越える為に必要なプロセスであると言えよう。

※「イスキアの郷しらかわ」では、オープンダイアローグ療法を駆使した引きこもり解決プログラムを実施しています。老齢の親だからといって、このオープンダイアローグが機能しない訳ではありません。いくつになっても親は親です。親子が共に変わることで、引きこもりやニートが解決します。不登校もまったく同じです。まずは、イスキアの郷しらかわに問い合わせフォームからご相談ください。

場当たり的不登校対策は効果がない

文科省や学校関係者の努力によって、不登校は減っていると言うが本当にそうであろうか。そもそも不登校という定義にこそ疑問がある。文科省の不登校の定義は、年間30日以上欠席した者で、経済的理由や病気が原因の児童生徒を除くとなっている。つまり、精神的な障害があって医師の診断書があれば不登校にはならない。しかも、保健室登校は何日に渡っても不登校とはならない。そして、少しでも学校に行けば、遅刻でも早退であっても不登校の欠席日数には含まれない。敢えて不登校を少なくする意思が働いているようだ。

不登校という問題が放置されていると、学校関係者だけでなく教育委員会や文科省の責任が問われる。したがって、不登校を少なくする努力が実っていると社会に対して発信したいから、不登校の数字を少なくカウントしたいのであろう。これは、自殺者の数を出来るだけ少なくカウントしたいとの思惑が働く厚労省と同じ構図である。官僚というのは、無能だと批判されるのを極端に嫌う。したがって、統計数字のマジックを使いたがる。これだけ努力していますよと、と示したいだけなのである。

文科省から各県の教育庁に対して、不登校対策をしっかりしなさいと激が飛ぶ。そして、県の教育庁から市町村の教育委員会へ、さらには各学校の管理者に伝達される。当然、校長や副校長は不登校の数を少なくする為の知恵を働かせる。何故ならば、不登校の多い学校管理者の評価が下がり出世できないからである。場当たり的な不登校対策が施される。保健室登校でも何でもいいから、1度だけでも学校に来させればよいと無理やり登校をさせる。不登校の原因なんてどうでもいいから、数字だけ減らせという厳命が飛ぶ。

不登校になる本当の原因を学校関係者は知らない。文科省も教委だって、不登校の本当の原因を掴めていない。不登校になる原因は、当事者の精神的な弱さ、強過ぎる感受性、発達障害、成績不振、いじめ、不適切指導、同級生の確執などにあると学校関係者は思いたがる。しかし、不登校の本当の原因はそんなことではない。これらは、あくまでも不登校の単なるきっかけでしかない。不登校の本当の原因は、『関係性』にある。つまり、本来良好にあるべき関係性が劣悪化、もしくは希薄化しているから不登校が起きるのである。

児童生徒と先生との関係性、同級生や先輩との関係性、教師どうしの関係性、保護者と教師の関係性、親と子の関係性、親どうしの関係性、その他の人間関係に問題があるから、不登校という事象が起きてしまうのである。ひきこもりも同じ原因でおきる。関係者がそれらの関係性に原因があると気付いて、良好な関係性を再構築できたとしたら、不登校やひきこもりは見事に解決するのである。その本当の原因である劣悪な関係性を放置したままで、場当たり的な不登校対策に終始しているから、いつまで経っても不登校は解決できないのである。実に情けない話である。

それでは、何故お互いの関係性が悪くなっているかというと、日本の教育制度にその根源がある。明治維新以降に、列強の欧米に追い付き追い越す為に富国強兵を推し進めた。その一環として、欧米の近代教育を取り入れた。この近代教育の理念は、徹底した個人主義と競争主義、実学主義、客観的合理性の教育だった。この近代教育の考え方が浸透して、あまりにも個人最適や個別最適が進み、自分さえ良ければいいという考え方が支配的になった。当然、このお陰でお互いの関係性が悪化したのである。行き過ぎた競争主義は、お互いの関係性を希薄化してしまったし、お互いが支え合うコミュニティも崩壊させた。

関係性が悪化してしまった学校では、平気でいじめはするし誰も助けようとしない。先生も子どもとの信頼関係を構築できないから、子どもはいじめを告白しないし、先生はいじめがあっても真剣に対応しようとしない。親子の信頼関係がないから、学校でのいじめを訴えられない。親どうしの夫婦関係が最悪でいつも言い争いしている家庭の子どもは、無意識のうちに不登校やいじめ等の問題行動を起こす。問題行動を起こせば、危機意識を持って夫婦の関係性が再構築できると、自分を犠牲にしていじらしい行動を取る。すべては、関係性が劣悪化・希薄化していることに原因があるのである。対症療法的で場当たり的な不登校対策なんて止めて、関係性の再構築に力を注ぐべきである。

子どもの為と言いながら・・・

子どもの為にと、必死になりながら子育てをされているお母さん方に、そんなに頑張らなくてもいいんだよと伝えたい。そして、本当に子どもの為と思っているのか、自分自身にもう一度問い直してみてはどうかということも伝えたい。とかく、子育てはお母さんが中心になってするもの、という固定観念が支配している。実はそんなことはなく、父親だって中心になっていいし、祖父母も子育てを担うこともあり得る。さらには、地域全体で子育ての役割を負担することも必要であろう。子育てはみんなですればいいのだ。

子どもの幸福と豊かさの実現を願わない親はいない。健やかに育って、幸福な人生を送ってほしいと親は思うものだ。子どもの為なら、どんな苦労も厭わないと思っている。そして、子どもが日の当たる道を歩き続ける事を期待する。一流高校への進学から国公立大学の入学を願い、卒業後は官公庁もしくは一流企業への就職を後押しする。また、その為に塾通いをさせるし、有名な私立小中学校の受験をさせたがる。そういう教育熱心な親は、想像以上に多いと思われる。将来に渡り安定した生活を送ることを願うのである。

こういう教育熱心な親は、すべて子どもの将来の為を思っての行動であると思いたがる。そして、必要以上に子どもに頑張れと働きかけることが多い。しかし、よく考えてみてほしい。本当に子どもの為に教育熱心な親になるのだろうか。子どもが将来不幸な人生を送り苦しむ姿を見る自分が、辛い思いをするからではないのか。自分の子どもが幸福な人生を送る姿を見て、自分の子育てが間違いなかったと安心して、自分が満足したいだけではなかろうか。親というのは、周りの人々や親せきに我が子のことを自慢したがるし、自分の子どもが誉められるのが大好きだ。

たいていの場合、大人は子どもの学業成績が良くて優秀な高校や大学に入学したことを誉めたがる。しかし、よく考えてほしい。学校の成績が良いことや一流の学校に入学したことが、人間として素晴らしいことなのだろうか。そんなことが誉めて認めるかどうかの基準であるというのは、実に情けないことである。人間として大切なのは、物事に対する考え方や姿勢、または言動が崇高な価値観に基づいていることである。または、あらゆる場面で、主体性や自発性、そして責任性や自己犠牲性を発揮できることが、称賛されるべきである。さらに、弱きを助け強きにも怖気ることなく立ち向かう勇気を持つことも大事だ。

どんな時にも自分自身を見失わず、自利や損得にとらわれず、人々の幸福実現の為に苦労を厭わずに頑張れるような子どもを育てることが親の務めではないだろうか。そういう子どもに育てたなら、たとえ学業の成績が良くなくても、一流の学校に入学できなくても、官公庁や一流企業に就職できなくても、親として誇りに思うものである。子どもの為にと言いながら、学校の成績に一喜一憂して、必要以上勉強を強いる教育虐待をしている親は少なくない。自分には三人の男の子がいるが、どんな高校を受験するか、どこの大学に進学するか、本人にすべて任せたし、就職先についても一切口出しをしたことはない。

子どもは親の所有物ではないし、支配したり制御したりするべきでない。ましてや、親が思う通りの人生を歩ませるような干渉をしてはならない。子どもの人生は子どものものであるし、子どもが決めることである。例え不幸になったとしても、また辛い人生になったとしても、それは子どもの自己責任としてそっと見守る姿勢が必要だ。ただし、子どもから助けてほしいという依頼があれば、どんな犠牲を払っても守ってあげなくてはならない。そして、子どもに対して、いざという時は身を挺してでも守ってあげるよと伝えておくのは必要だ。そういう安心感があれば、子どもはどんな苦難困難も乗り越えられるものである。子どもの為にと言って、あまりにも子どもに介入する親になってはならない。

子どもの為と言いながら、子どもに自分の価値観を押し付けてはならない。ましてや、自分の損得や自己利益を求めるような低劣な価値観を持つ生き方を強要してはいけない。しかし、多くの親たちはいい高校や大学に進み、高収入の職業に就くことを子どもに薦めたがる。それも、子どもの為にという隠れ蓑を着て、実際は親の自己満足の為であり、自分が立派な子どもを育てたと社会に認められたいからである。子どもが大人になり、社会に貢献できるようにそっと見守り寄り添い、子ども自身が自己組織性を発揮できるように育てることこそが親の務めである。子どもの為になんて思うこと自体が、親の思い上がりなんだと気付く必要があろう。

体罰禁止を法制化する前に

体罰禁止を法制化する動きが加速している。内閣は体罰禁止を法律で禁止することを確認した。これから児童虐待防止法改正の手続きに入る予定である。東京都では一歩進んでいて、体罰を条例で禁止しようとしている。違反しても罰則はないが、児童虐待の防止に役立つのは間違いない。民法で親の子どもに対する懲戒権を認めているので、民法の改正も同時にしないと法律の矛盾が起きるであろう。今でも体罰は必要だと考えている前近代的な親がいるが、彼らの体罰に対する歯止め効果になるのは間違いないだろう。

体罰禁止を法制化することに対して反対ではないが、法律で体罰を禁止したからと言って、体罰が完全になくなることはないし、虐待がなくなることもないだろう。体罰や虐待を平気でするような親に対しての意識付けにはなるだろうが、体罰がより陰湿になるとか、秘密裡に体罰をするようになるのではないかという危惧を持つ。まずは体罰や虐待をするような親に対する教育や指導をする支援こそが、根本的に必要である。また、体罰や虐待をしてしまう親を生み出している社会の低劣な価値観を、変革することこそ求められる。

体罰を防止することを、可及的速やかに実行しなくてはならないことは言うまでもない。体罰から過激な虐待に発展することを防がなければならないからだ。だとしても、何故多くの親たちが体罰をしてしまうのか、本当の原因を探り当てないと、体罰を完全に防止することは出来ない。文科省、教委、行政、児相の担当者は、親たちが何故体罰をするのかを知る由もないし、知ろうともしないようだ。だから、体罰や虐待を防ぐ手立てを考えもつかないのだ。体罰や虐待が起きる原因は、システム論でしか解明できないからである。

体罰や虐待が起きるのは、人間が生まれつき持っている自己組織化する働きが関係している。システム論的に分析するなら、人間という生物はひとつの完全なるシステムである。完全なシステムである人間は、生まれながらにして主体性・自発性・責任性を持つのである。つまり、自らが主人公として自主的に考え決断して行動するのが人間である。子どもは自我が芽生えて、この自己組織化する働きが強くなってくる。親からの指示や命令に背きたくなるのは、自我が芽生えるということ=自己組織化するからなのだ。

この自己組織化の働きが強くなる自我の芽生えを、親は無理やり押さえつけてはならない。何故なら、人間が健全に成長する為には、自己組織化する働きを阻害してはならないからである。反抗期を親が押さえつけたり出さないように仕向けたりしてはならない。または、反抗期を一切出さないような『良い子』を演じさせてはならない。子どもの時に自我を安心して表出させて上げないと、やがて自我と自己の統合が上手く出来ずに、生きづらい生き方を強いられるからである。やがて重篤なメンタル障害を起こしかねない。

実は、体罰を行うような親は、小さい頃に親から支配・制御・所有を繰り返しされていたと思われる。自我の芽生えを許されないような親に育てられた可能性が高い。虐待に近いような体罰で、反抗することを抑えられた経験を持つ。だから、その裏返しで反抗する子どもが許せないのである。それで無意識のうちに、しつけとして必要なんだと勘違いして、体罰をしてしまうのである。このような体罰は、多世代に及ぶ負の連鎖でもある。このような虐待や体罰は、世代間で継続していくので、絶対に断ち切らなくてはならない。

明治維新以降に欧米の客観的合理性を重視する教育理念を、日本の教育界は導入した。それは列国の学術水準や技術レベルに追いつくために必要な能力至上主義でもあった。この要素還元主義とも言い換えられる分離分析主義は、物事を客観的に冷静に観察し問題解決するには重宝したのである。しかし、弊害も生んだ。あまりにも批判的否定的に相手の人間を観ることを強いた為に、実に冷酷で思いやりや優しさを欠如した人間を育ててしまったのである。つまり、相手の悲しみや苦しさに共感できず、相手の嫌がることも平気で実行するような冷たい人間を育成したのである。学校や職場で平気でいじめをするのも、そして家庭で虐待や体罰をするのも、この近代教育の影響が大なのである。日本の教育理念を見直して、客観的合理性の教育から共感的関係性の教育に変革することこそ、体罰禁止を法制化する前に必要なことである。

教員の働き方改革こそ喫緊の課題

公立学校でも民間の学校でも、教職者の働き方改革は非常に難しいと思っている人が多い。現在、教職にある人たちは殆どが超過勤務手当をもらわずに残業を強いられている。よく解らないような規則があって、長時間勤務をしても一定額以上は残業手当が支給されない制度になっている。いくら超過勤務をしても、みなし時間外手当を支給しているからという理由で、支給しないようになっている。だから、教職者は実際に何時間残業しているか記録されていない。こんな制度だから、残業時間は一向に減らないし、働き方改革なんて無理なのである。限りなくグレーな労働基準法違反の規則である。

ましてや、教師は皆が想像している以上に超多忙なのである。子どもたちを教えること、子どもたちの相談相手になったり指導をしたりする本来の業務以外に、様々な業務を抱えている。そして、先生たちはこれらの業務をすべて自分一人でこなしているし、他の先生が業務を手伝うことは殆どない。支援を申し出る先生もいないが、支援をお願いする先生も皆無なのである。自分で仕事を抱え込んでいて、他の先生にお願いするのはしない決まりでもあるかのように、一人で完結しようとしている。

そして、意外と教職者は事務処理が苦手であるし、パソコンなどの操作が不得手の人が多い。当然、教職者の業務はパソコンでの事務処理が多いので、処理時間を多く要する。当然、本来の大切な指導教育の時間が足りなくなるし、残業時間も多くなる。さらに、スポーツ系の部活顧問をしている先生は、超多忙となる。どの先生も共通して訴えるのは、事務処理などの雑務が多くて忙しいという点である。文科省からの統計調査や実態調査などの依頼が多く、その対応に時間を割かれる。実にもったいない時間である。

超多忙で仕事に追いまくられている教師は、悲鳴を上げている。そして、あまりにも頑張り過ぎてしまった先生は、しまいには心を病んでしまう。普段の忙しさと、難しい児童生徒の指導と扱いにくい保護者への対応により、過重ストレスとなって精神的に参ってしまうのである。そして、やがて出勤できなくなり、休職という状況に追い込まれる。そして、何度か復帰と休職を繰り返して、完全に離職してしまう。忙しさが解消されることがないし、職場環境は良くなるばかりか悪化する一方なのだから、そうなるのは仕方ない。

こんな超多忙な実態を何とか解決しようと教育委員会や学校管理者は心を砕いているが、まったく解決策が浮かばないみたいである。勿論、教師の数を増やせばいいのだが、教育予算がぎりぎりに削られている現状では難しい。防衛予算は年々増えているのに、教育予算は増えないのである。となれば、限られた予算の中でどうにか対応しなくてはならない。そもそも柔軟な考え方が出来ない文科省のキャリア官僚や教育委員会の幹部は、ドラスティックな発想が出来ない。先生の定員は決まっていて、絶対に増やせない。となれば、定員以外の職員を採用すればよい。パートの教員補助職員を採用するのは可能なのである。

教員免許がないと出来ない業務がある。実際に授業をする行為や指導をすることである。それは、他の職員が代行することは出来ない。しかし、雑務の事務処理業務は誰でも出来る。優秀なパート女性事務職員を雇用すれば、事務処理業務は短い時間で済ますことができる。さらに、少しだけ指導すれば、テストの原案作りや採点もできる。また、採点されたテストの集計とその評価の原案作成もできる。先生が最終チェックをして微調整すればいいだけである。スポーツの部活においても、ボランティアコーチを積極的に活用すればよい。そうすれば、先生は本来の授業や個別指導に力を注ぐことが可能となる。

しかも、コスト面においても正式雇用の教諭だと、社会保険や賞与と退職金引き当ても含めると、年間の平均人件費コストは一人当たり1,000万円を超える。ところがパート事務職員だと、一人年間120万円程度で雇えるのである。教師一人雇う人件費コストで8人以上のパート補助員を雇うことが可能になる。そして、一人の優秀なパート事務職員がいれば、3人の教諭の補助業務だって出来るに違いない。県や市町村独自の人件費負担で、雇用することも可能だ。このように雑多な事務処理などを教諭に負担させなければ、本来の指導教育に専念できるから、いじめや不登校も激減する。そして先生たちの休職や離職を防ぐことができる。先生の業務は他の人が代行出来ないという思い込みを払拭することがまず必要だ。

体罰は子どもを不健全にする

親からの虐待や体罰について、話題になっている。また、躾(しつけ)のやり方についても議論になっている。親からの虐待によって不幸にも亡くなってしまった子どもがいた事件があり、児童相談所や行政の対応の拙さも批判されている影響もある。また、東京都が体罰防止の条例を制定することになり、民法で懲戒権を認めているのはおかしいという議論にも発展している。体罰をしなければ躾は難しいという意見もあるし、どんな理由があるにせよ暴力はいけないと完全否定の人たちもいる。体罰は本当に必要なのだろうか。

体罰という行為は、家庭だけでなく学校や各種スポーツの指導現場でも横行している。体罰をしなければ子どもたちは健全に育たないと思い込んでいる指導者は少なくない。子どもたちを適正に導くには、何らかのペナルティーを与えなければ不可能だと彼らは主張する。家庭において、頭や尻を軽く叩いたり頬を叩いたりする行為なら、自分の手のひらも痛みを感じて、お互いの愛情を感じるからと自らの行為を正当化するお母さんもいる。愛情が根底にあれば、ケガや心の傷を負わせない程度ならいいと肯定する親がいる。

世界各国で体罰については、大きく意見が分かれる。世界中で、法律によって体罰を禁止する傾向にあるのは間違いない。数年前までは11か国が体罰を禁止するだけだったが、現在は57か国が法令によって体罰禁止をしているという。いち早く体罰禁止を打ち出したスウェーデンでは、体罰防止のキャンペーンが功を奏して、8割あった体罰の家庭は今では1割程度に減少したという。さらに驚くことに、このことによって青少年の犯罪が激減したというのである。暴力の連鎖が止まったのだと、専門家は分析している。

一方、体罰を容認している国家もある。先進国で代表的な国は、アメリカ合衆国である。各州によってまちまちであるが、保守的なフロリダ州などは体罰を積極的に認めていると言われている。青少年犯罪も多いし、銃乱射事件など多発している実態、他人や他国に対して暴力的態度で従わせるような姿勢は、もしかすると体罰による教育による影響かもしれない。子どものうちに、暴力によって相手を従わせるということを体験的に学んだ子どもは、大人になれば無意識に暴力で相手を支配するという行為をするのは当然である。

体罰や暴力は世代間連鎖をする。親から体罰を受けて育った子どもは、親になったら何の躊躇もせず我が子を体罰で従わせようとする。体罰まで行かなくても、親の権力を使って暴言や態度で子どもを支配しようとする親は少なくない。長時間に渡り立たせたりトイレや押し入れに閉じ込めたり、はたまたおやつや食事を抜いたりするのは、どこの家庭でも見られる光景である。両親が激しい夫婦喧嘩を子どもたちの目の前で繰り広げることもあるが、これは子どもから見ると立派な虐待であり、子どもの脳を破壊する致命的行為だ。

自分も親から暴力を受けて育った。恥ずべきことであるが、自分も若い父親だった頃に、何度か子どもに体罰を行った。おおいに反省すべきことであり、子どもたちに謝っても謝りきれない卑劣な行為である。子どもたちが我が子に対して、この負の連鎖をしないことを祈っている。体罰によって、子どもを健全に育てられると思い込んでいるとすれば、それは完全な間違いである。科学的にも証明されている。システム科学的に論じれば、過度の子どもという人体システムへの介入(体罰)は、子どもの自己組織化を阻害するだけでなく、オートポイエーシス(自己産生)をストップさせてしまう怖れがあるからだ。つまり、体罰を繰り返すことで、人間として備わっている主体性・自主性・自発性・責任性といった自己組織性を育たなくすると同時に、人間が自己成長して何かを成し遂げる力を削いでしまうのである。

人間と言う人体システムは、自らが自己組織化して自己産生を続ける機能を持つ。システムというのは、外部からのインプットによって機能し活動するのではなくて、自らが主体的に動くのである。そして、アウトプットもすることなく、システムの中でアクションが完結している。人間と言うシステムは、本来外部からインプットされないし、外部に対してアウトプットしない完全無欠なシステムとして機能しているのである。それが、体罰という介入(インプット)をされると、本来の機能を失ってしまう。成長が止まってしまうばかりかシステムエラー(問題行動や病気)を起こすのである。勿論サポートは必要である。それも、愛情の籠った思いやりのある支援である。けっして子どもの自己組織化を妨げることなく、本人が自ら気付くように、学ぶように寄り添い支援を続けることである。子どもを健全に育むためには、体罰だけはしないことである。

いじめ自殺の損害賠償を認める判決

滋賀県大津市で起きたいじめによって自殺した中学生の事件について、民事訴訟でいじめた側に損害賠償を認める判決が出た。今までは自殺といじめの因果関係を認めようとしなかった司法が、初めて自殺といじめの関連性を認定して、原告の要求通りの損害賠償を被告に命じた。これは画期的な判決だと、報道各社は好意的に報じている。いじめじゃなくて単なる遊びや悪ふざけだと苛めた側は主張していたが、司法はいじめだと認定したうえで、自殺に追いやったのは苛めた側に責任があると認定したのである。

この判決は、非常に大きな意味があろう。いじめている子どもたちは、悪ふざけやいたずらという感覚でやっていることが、自殺までに追い込む悪質ないじめであり、損害賠償責任まで負うのだということを認識するきっかけになろう。また、自分たちのやっていることがとんでもなく悪いことなのだと反省して、自分たちの生き方を変える契機になるのであれば意味がある。この画期的な判決によって、悪質ないじめによる自殺が、少しでも減ることに繋がることを望んでいる。

しかしながら、このいじめ損害賠償の判決は相当な危険性を孕んでいるということを認識しなくてはならない。この損害賠償責任が認められたことで、学校におけるいじめが益々陰湿化すると共に、大人に知られないように秘密化してしまうという危険である。それでなくても最近のいじめは悪質なものになり、しかも自分は直接手を出さずに、巧妙に人を支配していじめを実行させるようになっている。SNSやツィッターなどで拡散させたり、間に何人も介在させたりして元情報を知られないように仕組むケースもあると聞く。これでは、いじめた本人が特定できないだろうと、益々いじめが過激になる可能性がある。

ましてや、いじめというのは受けた人を救うというのが第一次的な対処であるが、完全にいじめを無くすには、いじめた子どもを適切に指導しなくてはならない。罰則を強化したり損害賠償責任を負わせたりして、抑止効果を高めるだけでいじめがなくなる訳ではない。いじめを行うような子どもこそが救われなければならないのだ。いじめを行うような子どもは、自業自得なのだから罰を受けるのは当然だし救う価値もないという人がいるかもしれないが、けっしてそうではない。いじめをする人間こそ、心が傷ついているのである。いじめをする子どもがいなくなるような社会にしなければならない。

いじめをするような子どもは、適切で十分な愛を保護者からうけていない愛着障害や、人格に問題を抱えるパーソナリティ障害を持つことが多い。つまり養育環境に問題のある子である。結構裕福な家庭に育ち知能も高く、何をやらせても卒なくこなす器用な子どもが多い。親は社会的地位も高く、教養や学歴も高く、教育熱心な面もある。ところが、父性愛的な条件付きの愛が強過ぎて、母性愛的な無条件の愛に飢えている傾向がある。躾(しつけ)も厳しくて、親の価値観を無理やり押し付けられることが多い。

このように、親からの支配やコントロールを過剰に受けてしまい、主体性や自主性、または自由度が阻害されている家庭生活を送っていることが多い。家の中では非常に『良い子』である。ある意味、『良い子』を演じるように育てられていると言っても過言ではない。そして、親からの愛に飢えている。こういう子は家庭ではおとなしく過ごすが、学校ではその反動で自由を求めて暴れるし、いじめっ子に変化するケースが多いのである。人間は、ストレスやプレッシャーにさらされ、自分らしさを押し殺して生きていると、どこかで爆発せざるを得なくなる。それが他に対する暴言や暴力、いじめなどに変質するのである。

人間とは本来、自己組織化する機能を保持している。誰からも介入や干渉を受けず、自由に生きて主体性や自主性、自発性や責任性を自らが発揮するようになっているのだ。それが、過度に干渉や介入を受け続けて支配・制御を強くされてしまうと、正常な自己組織化を遂げずに、精神を病んでしまうばかりか発達が阻害される。利己的な人間になり、他者への愛を持てなくなる。生きづらくなるばかりでなく、その原因を他者にあると勘違いして、攻撃的な性格を持つようになる。いじめをする子どもの歪んだパーソナリティを、何とかして救ってあげないと、やがては社会に適応できない大人にしてしまう。いじめの損害賠償責任を認める判決は、こういう部分をきちんと理解したものならいいが、社会のいじめに対する反感に呼応したものであるなら、評価に値しないものと言えよう。

卒婚を密かに目論んでいる妻

日本人の夫婦のうち、約3分の1が離婚しているという。そして、その離婚を言い出すのは圧倒的に妻のほうが多いという。昔は、夫からの離婚申請が多かったのだが、現在は妻のほうから三行半を突き付けるらしい。そして、多くの妻たちは婚姻状態を続けることに疲れ果てていて、いつかは卒婚をしたいと密かに夢見ているという。夫はまったくそんな妻の心理状態に気付くこともないらしい。我が子が大学を卒業するまでの我慢とか、子どもが成人したらとか、子どもが結婚するまでとか、その時期をじっと待っているのである。

その卒婚さえ待ちきれず、もう夫との結婚生活には一刻も我慢できないと離婚してしまう若い妻も少なくない。昔ならば『子はかすがい』と離婚を踏みとどまる女性も多かったが、今は子どもが居ても離婚を踏みとどまる理由にはならない。それだけ妻たちは我慢し切れなくなっているのだ。離婚の理由はそれぞれあるだろうが、妻が望む夫婦関係や親子関係になっていなくて、改善の見込みもないので決断したのだと思われる。夫のほうでは、話し合いで問題決を図り、なんとか婚姻を続けたいと思うらしいが、妻の決断は変わらない。

妻が卒婚したいと思っていることさえ夫は知らないでいるし、卒婚を望む理由さえも夫は解らない。だから、その時が来るといきなり卒婚を言い出されて、夫はおろおろするばかりだという。妻は何故こんなにも卒婚を望んでいるのだろうか。妻たちが経済的に自立しているからだとか、財産分与や年金受給の分与が出来るようになったからだと思っているらしいが、それが卒婚の理由ではない。あくまでも、結婚生活における夫の態度に我慢がならないのである。我慢に我慢を重ねて熟慮した選択だから、決心は変わらないのだ。

妻が卒婚する原因は、夫のこんな態度や姿勢である。夫は家庭に安らぎを求めている。男は職場において全身全霊を傾けて仕事をする。男というのは仕事第一主義である。したがって、職場で仕事にエネルギーを使い果たしてしまい、家に帰るとのんびりと過ごしたがるし、家事育児に協力しようとしない。帰宅すると、テレビを見たりゲームをしたりするだけで、ソファに横たわっている。または、自分の趣味に没頭するか、PCやスマホに心を奪われている。家庭は自分だけの安らぎの場所だと勘違いしているのである。

それぐらいなら妻はまあ仕方ないかと諦めているが、我慢ならないのは夫が妻の話を聞こうとしないし、妻に共感しないという点である。しかも、妻の気持ちを少しも解ろうともしない夫のことが許せないのだ。夫は妻に対して優しい態度を取ることもある。例えばバースデーの贈り物やクリスマスのプレゼントはしてくれるし、たまには豪華な食事にも連れて行ってくれる。しかし、そんな優しさは見せかけだけだと妻は知っている。そういう優しさを見せるのは、夫の自己満足に過ぎないことを百も承知なのだ。職場では無理して『いい人』を演じているのに、家庭では身勝手で自己中の夫なのである。

育児についても、夫の態度は我慢ならない。普段の子どもの世話は、殆どを妻がやっているが、何かのイベントだけは自分が中心的な役割を果たして、子どもの点数稼ぎをしたがる。育児はお前に任せたと、一切口出しをしないが、何か子育ての問題が起きると『お前の子育てが悪いからだ』と責める。学校で何か子どもの問題が起きると、仕事を言い訳にして逃げたがる。いじめや不登校などの問題が起きて、母親の手には負えないから父親になんとかしてほしいと頼んでも、仕事だからと学校に行きたがらない。こんな父親では、子どもは信頼しないし、妻も愛想を尽かす。

男は結婚するまでは、交際相手の尊厳を認め自由を認める。ところが結婚すると豹変する。自分の所有物だと勘違いし、自分の理想の伴侶であってほしいと強く思い、自分の価値観を押し付けたがる。自分に都合の良い妻になるように仕向けるし、妻の行動を制御したがるし支配する傾向になる。それが上手く行かないと、怒りを爆発させたり暴言を吐いたりする。そんなことを出来ないひ弱な夫は、自分の思い通りにならないと不機嫌になるし、黙り込んでしまう。まるでイプセンの戯曲『人形の家』のノラのようである。我慢に我慢を重ねてついにノラも家を出て卒婚する。人間とは、本来は自由に生きる生物である。あまりにも自由を制限され尊厳を認められないと、妻たちは卒婚する。