母性愛を発揮できない原因

母親からの我が子への虐待事件が後を絶たない。自分が産む苦しみを乗り越えて、ようやく誕生した我が子を何よりも愛おしく思うのは当然の筈だ。それなのに、どういう訳なのか我が子を可愛いいと思えない母親が実際に存在する。そして、そういう母親はどうして我が子を愛せないのか不思議に思うと共に、母性愛を発揮できない自分が駄目なんだと自分を責めとしまう。本来は、我が子を目に入れても痛くない筈なのに、母性愛を発揮できる母親とまったく母性愛を感じない母親がいるのはどうしてなのだろうか。

それは、どうやらエストロゲンという女性ホルモンやオキシトシンという神経伝達物質(通称:脳内ホルモン)に関係しているということが判明した。妊娠と出産というのは、女性にとっては人生の一大事である。そして、この一大事を無事に成し遂げることが出来るように、人体のネットワークシステムは様々な工夫を凝らしている。各種のホルモン分泌を抑制したり、より多く分泌させたりして妊娠と出産を安全に成功させるのである。

妊娠中から出産にかけては、エストロゲンを母体に対して十分に分泌させる。しかし、出産した途端に、エストロゲンの分泌を減少させてしまう。どういう理由かというと、エストロゲンを大量に出産後も分泌させ続けると、一人で育児の何もかも頑張りすぎてしまうからだと言われている。それで、エストロゲンの分泌を少なくして、出産後の母体を休ませるみたいである。または、出産後の育児は配偶者も含めて周りの人々が共同で行うことができるように、エストロゲンの分泌を抑制するのだと考えられている。

人間というのは長年の進化によって、適切なホルモンの分泌をするようになったと思われる。出産後にはそれでなくても母親ばかりに育児の負担が集まる。それを抑制して、母親が頑張り過ぎないようするのと、共同育児というシステムのほうが、赤ちゃんが健全に育つからという理由でエストロゲンの分泌を低下させるのだと推測される。あまりにも赤ちゃんを可愛いいと思い過ぎて、他の人に赤ちゃんを渡したくないと思うのを阻止したのではなかろうか。夫も育児に参加して、義理の両親も育児の手伝いをしやすくしたのだろう。

ところが、このホルモン分泌の微妙なシステムを母親が知らないが故に、産まれた我が子を可愛く思えず、授乳や抱っこすることに違和感を覚えてしまうのかもしれない。そして、そんな気持ちが起きるのは、自分が母親として失格なんだと責めるようになる。酷くなると、育児ノイローゼになったり、育児を放棄したり虐待をしたりするケースにも発展することがある。これが、母性愛を発揮できなくて、逆に我が子を虐待してしまう訳である。

ところで、世の中には母性愛を十分に発揮することが出来て、我が子を愛おしくたまらないと思う母親が存在する。どちらかというと、このような母親のほうが圧倒的に多い。エストロゲンの分泌量が減るというのに、どういう訳なのだろうか。それは、夫が育児に対して協力的である場合である。または、周りの人々が育児に積極的にかかわった場合には、安心して母性愛を発揮できる。共同育児が可能だと確認するとエストロゲンが出るらしい。

パートナーが育児に対して非協力的であり、周りの人々もまた共同育児に対して消極的であると、エストロゲンの分泌は低下したままになるという。そうなると、育児期間中は母性愛を我が子に注げないという不幸を背負ってしまう。慈しみを持って抱っことか授乳をすることが出来なくなる。泣き続ける我が子に怒りさえ覚えてしまうのである。子どもは愛情が不足して、愛着障害やHSP(ハイリーセンシィティブパーソン)になる危険性が増してしまう。ましてや、エストロゲンが出ないとオキシトシンの分泌不足が起きて、いつも不安や恐怖感に襲われて不眠になり、産後うつになることもある。

その後もエストロゲン不足が続くと、我が子に対する母性愛が正常に育たず、育児放棄や虐待のようなケースになり兼ねない。または、我が子を良い子に育てようと頑張り過ぎて、子どもをあまりにも支配したりコントロールしたりする。世間でよく言われる「毒親」になってしまう危険性がある。子どもはいつも愛に飢えて育つことになるから、HSPやパーソナリティ障害になり、不登校やひきこもりの状態になる危険性も高まる。だから、産後は特にパートナーは妻に寄り添い支えて、育児や家事に積極的にならなければならない。共同育児という考え方を取り、周りの人々も積極的に育児参加したいものである。

 

※母性愛を何故発揮できないのか、どうすれば母性愛を正常に発揮できるようになるのかの研修を「イスキアの郷しらかわ」ではレクチャーしています。家族全員でご参加していただければ、ご家族にも丁寧に解りやすく説明します。一人で悩まずに、まずは問い合わせフォームからご相談ください。

アスリート育成は科学と哲学で

またまたスポーツ界にパワハラ育成の不祥事が発覚した。女子体操、パワーリフティング、そして日体大の駅伝競技部にパワハラによる選手育成があったという。いろいろと背景や事情があるにせよ、スポーツ界というのは根っからのパワハラ体質らしい。根性論やら精神論がまかり通る古い体質がいまだに残っているというのが驚きだ。ましてや、指導者が選手を管理して統制し、さらに制御する育成の仕方が横行しているというのが情けない。

根性論や精神論を用いて、選手を管理して制御する方法で育てるという考え方は既に古い。今は、普遍的で正しい科学的な手法で選手を育成するのが主流となっている。そうしないと選手たちが納得しないし、成果が上がらない。昔の選手なら、トレーニングをする理由とその効果を科学的に説明しなくても、コーチを信じて従っていた。しかし、現在の若者や学生は、徹底した客観的合理性の教育を受けてきているから、科学的な根拠を示さないと自ら頑張ろうとはしない。半信半疑でトレーニングを受けても効果がないのは当然だ。

それなのに、今まで根性論や精神論でやってきたし、それしか教えられていないから古い理論を踏襲していると、選手たちはまったく付いて来なくなる。その為に、力で無理やり従わせようとして、パワハラになるのであろう。下手なコーチは、選手が自分の命令に従わないと、ついつい暴言や暴力で選手をコントロールしたがるものだ。育成される選手たちの心は、コーチから益々離れてしまう。そして、パワハラはエスカレートするのである。

それではすべて客観的合理性があり科学的根拠のあるトレーニング方法にするとよいかというと、それでは選手は成長しないに違いない。何故なら、体力・能力・技術というのは、あくまでも育成される選手のメンタルモデルに問題がないという前提条件が必要だからである。どんなに先天性の優秀な能力があって、優秀なコーチの技術指導を受けたとしても、メンタルモデルが歪んでいれば選手として大成することはない。謙虚で素直な性格を持ち、しかも自発性や主体性の高い人格を持たなければ、成長がしないからである。

したがって、選手の技能や体力のトレーニングと共に、メンタルモデルを磨く努力も必要となる。それでは、メンタルモデルを磨くにはどうしたら良いだろうか。メンタルモデルを高邁なものにするには、哲学または形而上学が必要だ。人間として何を目指して成長するのかという根本的な価値観を学ぶことである。または、自分がスポーツを通して何を学びどう成長するのかという事とか、どのように生きるべきなのかをスポーツから学ぶということである。そのような視点を持つことをなくしては、一流のアスリートにはなりえない。だからこそ、アスリートの育成には科学と哲学の両方の観点が必要なのである。

メンタルモデルを高品質で正しいものにするには、正しくて清浄なる言動にすることである。ひとつは挨拶や礼儀をしっかりと身に付けることである。正しい言葉遣いをしないと、メンタルモデルは低劣化してしまう。さらに身の周りを整理整頓することと、徹底的に清掃して清浄なる場にすることが大切である。無名だった西脇工業高校駅伝チームを8度の全国優勝に導いた渡辺公次監督は、先ずはトラックをチリ一つなく清掃することを選手たちに教えた。伏見工業高校のラグビー部山口良治監督は、部員にはまずあいさつと礼儀を教えた。無名の済美高校を全国優勝させた野球部監督の上甲監督は、まずは挨拶と清掃を徹底させた。明治大学野球部の嶋岡監督も部員にトイレ清掃をして心を磨かせた。

勿論、選手たちのメンタルモデルを高品質で正しいものに導くためには、挨拶、礼儀、清掃だけでは難しい。指導者は、何故そのような言動を正しくしなければならないのかを、選手たちに科学的な検証を示しながら解りやすく丁寧に説明しなければならない。例えば、主体性・自発性・責任性などの自己組織化を目指す理由、または自らの成長は他からの介入によっては実現しないというオートポイエーシス論などを科学的に説明できなければ、選手たちは納得しない。最先端の科学であるシステム論や量子力学論、または分子細胞学や人体ネットワークシステム論などを駆使しながら、科学哲学の観点から証明する必要がある。そうすれば、科学的に真逆の効果があるパワハラ事件などは絶対に起きる筈がない。一流アスリートの養成には、科学哲学的に正しいトレーニングが必要だ。

 

※アスリートの育成に必要な科学理論、例えばシステム論、量子力学、分子細胞学、人体ネットワークシステム論、宇宙物理学などの研修を「イスキアの郷しらかわ」で開催しています。勿論、社員研修にも活用可能です。さらに、科学哲学の観点からの人材育成についても研修させてもらいます。メンタルモデルの改善、自己マスタリーについても科学的な検証を加えながら講義しています。問い合わせフォームからご相談ください。

ポイズンドーター・ホーリーマザー

湊かなえの小説を読むと、自分の隠し通している嫌な本心を見透かされる気がして、痛いという思いをする人が多いらしい。そんなに痛い思いをするくらいなら、彼女の小説なんて読まなければいい。ところが、その痛さを感じながらも湊かなえの小説にはまってしまう読者が多いという。どうやら、人間というものは、恐くて読みたくないと思いながらも、こわいもの見たさというのか、自分でも触れられたくない闇の自分を覗き見したくなるのではないだろうか。だから、湊かなえという小説家のファンが多いのであろう。

ポイズンドーター・ホーリーマザーという小説もまた、そんな複雑な気持ちの湊かなえファンを惹きつけるのかもしれない。毒親という言葉がネット上で盛んに飛び交っている。自分の親が毒親だったとか、SNSに暴露されている記事によくお目にかかる。圧倒的に多いのが、娘を支配し制御し過ぎる母親という関係である。英語で言うと、ポイズンマザーと言う。ところが、湊かなえさんの今回の小説の題名は正反対のポイズンドーター・ホーリーマザーである。娘と母親の両方の視点から描いた短編小説の傑作集である。

湊かなえという小説家は、世間からはミステリー作家と呼ばれている。告白やリバースなど不可解な謎解きの物語が多く、最後にどんでん返しがあるパターンである。普通の推理小説だと、物語を読み進めて行くと徐々に真犯人を読者が類推できるように描いてある。そのほうが、読者に安心感を持てさせてくれるし真犯人を当てるという自尊心をくすぐる効果が出るからと、作者がヒントを与えているのかもしれない。ところが、湊かなえの小説は最後まで結末が予想さえ出来ないのである。これも彼女の描く物語の魅力である。

ポイズンドーター・ホーリーマザーで描かれている人間関係も複雑で、最後まで真実が明かされない。その結末の意外性に魅力を感じている読者も多いのではなかろうか。湊かなえという小説家は、これだけ人間の深層心理を鋭く描写できるのだから、相当に神経質でいかにも切れ者というような風貌であろうと勝手に想像していた。ところが、その予想は彼女の小説のように見事に裏切られてしまった。TVの山番組で拝見したら、山でよく見かける『山女』そのものであった。実に優しそうで話がよく解るという人柄が滲み出ている、素敵なおばさまであった。

そんな心優しい彼女がどうしてこんなにも悲惨で心が折れるような結末を描けるのかというと、彼女なりの使命感を抱いて小説を世に出しているからであろう。彼女の小説を読んで、少しでも読者が何らかの学びや気付きをしてほしいと願って、湊かなえは物語を紡ぎ出しているようだ。世の中に対する、強烈なメッセージを小説の中に込めている。勿論、そんなことを読者は感じていない。純粋に物語を楽しんでいるだけである。湊かなえは教訓めいた言葉は一切小説には記していない。しかし、彼女の小説を深読みすれば意図しているメッセージが解るようになっている。すごい仕掛けだと、えらく感心する。

湊かなえが小説を書き続ける目的は、とても生きづらいこの社会においてさえも、生きる勇気を持つ術を読者に与えることだと思う。児童心理学的観点から、現代の子育てにおける様々な問題点があることを描き出している。そして、その育児における偏りによって子どもの正常な精神発達が阻害されていることを暗示している。しかし、親たちはその育児における過ちを気付いていない。子を愛するが故に起こしている過ちであるから、親を責めることは出来ない。その誤った子育てによって苦しんでいる子どもが、親の過ちに気付いて、親を許し受け容れてこそ立ち直ることが可能であることを描いている。

生きづらさを抱える原因は、親の子育てや学校教育における誤謬にある。そして、その誤った教育により、自我人格の芽生えさえなくて青春期を迎える若者がいる。また、自我人格が芽生えても、あまりにも自我が強過ぎて自己人格との統合が出来ずに大人になってしまうケースが非常に多い。そんな親子の姿を湊かなえは描き続けている。彼女の小説を読んで、自分が自己人格の確立がまだ出来ていないということを気付いてほしいと湊かなえは思っているに違いない。自分の醜い自我人格をないことにして、仮面(ペルソナ)で隠し通して生きづらさを抱えて生きる愚かさに気付いてほしいと小説を描き続けていると思われる。ポイズンドーターやポイズンマザーがこの世から居なくなることを願いながら。

 

※ポイズンマザー(毒親)によって苦しんでいらっしゃる方、またはご自分がポイズンマザーやポイズンドーターではないかと疑い、辛い人生を歩んでいらっしゃる方々の支援を「イスキアの郷しらかわ」がさせてもらっています。どうしてポイズンマザー・ポイズンドーターが生まれるのか、どうしたらそれを乗り越えられるのかを詳しく学ぶことができます。是非、問い合わせのフォームからご相談ください。

中高年のひきこもり

ひきこもりの実態調査を国は実施しているが、総数は減少しているという。そんな筈はないと思う人が多いに違いない。本人や家族に確認した訳ではないが、自宅周辺にも何人かのひきこもりがいることが何となく解っている。ひきこもりは増えているという実感があるのに、少なくなっている訳がないと思う人が多い筈である。ひきこもりの実態調査は対象者が若者だけである。ひこもりの若者が、その状態のまま中高年になっているから、調査結果のひきこもり該当者総数が減少しているだけであり、全体の総数は変わりないか増えていると思われる。

それで厚労省では、今回は中高年者のひきこもり実態調査をすることになったということである。今までは、10代から30代を対象とした調査であったが、今回の調査対象は40代から60代までの中高年にしたという。中高年のひきこもり者数が多いと感じた厚労省が、このまま見捨てておけないと、ようやく腰を上げた形である。若い頃にひきこもってしまって、その後ずっと社会復帰できずに中高年になってしまったケースが多いと思われる。このままでは、親が要介護になり施設に入所したり鬼籍に入ったりすれば、一人きりになってしまうひきこもりが多くなってしまう。

それでは、中高年のひきこもりの実態を明らかにして、それから国としてどうするのかというと、明確なビジョンはないらしい。とりあえず実態を調査してから、考えようとしているみたいだ。実態調査もそうだが、場当たり的な対応だとしか思えない。おそらく、正確な中高年のひきこもり者数の把握は難しいと思われる。それでなくても、子どもがひきこもりしていることを、恥ずかしいからと親はひた隠しにしていた。正直に子どもがひきこもりだとは、なかなか認めたがらないのではないだろうか。原因も解らず、その有効な対応策も見いだせないのだから、手の打ちようがないだろう。

中高年のひきこもりも含めて、何故そうなるのかという詳しい分析を、行政はまったくしていない。今までは、困った状況であるという認識はあったものの、原因の分析と解決策の検討はしていないのである。今回の中高年のひきこもり実態調査をしたとしても、有効な解決策を立てるのは難しいに違いない。何故ならば、ひきこもりの本当の原因を探り当てるのは到底出来そうもないからである。おそらく、ひきこもりの原因は、当事者の性格や気質、または何らかのメンタルの障害によるものだと結論付けるからである。そして、そうなったのは親の子育ての間違いだと考えているからである。

ひきこもりの原因は、当事者とその親にある訳ではない。全然責任がないとは言わないが、どちらかというと社会全体にあると見るべきであろう。つまり、社会システムの不備や不具合こそが、ひきこもりという社会問題を起こしていると考えなくてはならない。教育システムの誤謬、社会における間違った価値観、企業における経営哲学の不具合、そして各種コミュニティにおける関係性の劣化、そういう本来のあるべき姿からの乖離こそが、ひきこもりという問題を起こしているのである。不登校という問題も同様である。

とすれば、この社会システムにおける歪みを本来あるべき姿に正さなければ、ひきこもりや不登校が解決できないかと言うと、けっしてそうではない。間違ったり歪んでいたりする価値観や哲学によってこの社会が形成されていることを、まずはしっかりと認識することが必要である。そのうえで、社会に適応しにくくなっているのは、自分こそが正しいからだということを知ることである。自分の性格や気質が悪いからだとか、自分に適応能力がないからだという自己否定感を払拭しなければならない。そして、そのように育てた親に対する反発、恨みを持つことを止めることである。

明治維新以降に、富国強兵を進めるには欧米の近代教育が必要だと、客観的合理性の教育観を取り入れた。このあまりにも行き過ぎた客観的合理性の教育は、人々に個人主義、利益主義、競争意識を植え付けて、自分さえ良ければいいんだという利己主義を強化した。故に、他人に対する優しさや慈しみという感覚を捨てさせ、社会に対する貢献意識を無くしてしまった。当然、お互いの関係性を希薄化・劣悪化させ、家族・地域・企業などのコミュニティを崩壊させてしまった。この客観的合理性、言い換えると要素還元主義にシフトし過ぎた価値観の間違いを認め、正しい全体最適と関係性重視の価値観を認識することが必要である。この正しい価値観を親子ともども認識して、少なくても家族というコミュニティが再構築されれば、ひきこもりや不登校という問題は解決に向かうであろう。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、中高年のひきこもりの解決をサポートしています。どうして「ひきこもり」をしてしまうのかの本当の訳、その解決策についての講座を開催しています。正しい価値観を学ぶと共に、間違っているこの社会にどのように対応していくのかを、ていねいに説明しています。まずは「問い合わせ」でご相談ください。ひきこもりの当事者だけでなく保護者に対する支援もしています。

産み育てることを自ら拒否する親

LGBTの方たちを生産性のない人たちと断言して、内外から大きなバッシングを受けた杉田氏という女性国会議員がいた。所属する自民党からも苦言を呈されたようだが、本音においては、LBGTを批判的に見ている保守系議員は多いのであろう。普段から仲間内の会合では、LGBTを批判する会話が日常的にされているのではないかと想像する。だから、あんな発言になってしまったのであろう。自ら進んでLGBTの生き方を選択したのではなく、その道しかなかった方々から見たら、許せない発言であろう。

しかし、誤解を受けずに言えば、あの発言は許せないものの、考え方としては共感する部分がない訳ではない。LBGTの方ではなくて、自ら進んで子どもを産まないし育てないという選択をしている夫婦がいる。母体が出産と育児に耐えられないという事情があるケースなら仕方ないが、自分たちの人生を楽しむ為に敢えて出産・育児をしないという夫婦が増えているのである。共働きで子どもを産まないという選択をする夫婦を、DINKSと呼ぶ。このDINKSを選択することは、社会的に見たら果たしてそれでいいのだろうかという疑問を持つのである。

子どもを産んで育てながら働くというのは、かなりの難しさと制限を夫婦共に要求されてしまう。日本の働く環境は、けっして良くない。特に共働きの女性にとっては、子育てする環境が整っていないからだ。東京医大の入学試験で、女性の試験結果を不正操作した事件があったが、子育て中の女性の職場環境が不整備だからであろう。そういう働く環境だから、DINKSを選択せざるを得ないというのも理解できる。だとしても、すべての女性が生み育てないという選択をしたらどうなるであろうか。それではサステナブル(持続可能)な社会が実現しなくなってしまうのである。

人間には、いろんな考え方や生き方があっていいと思う。生み育てないという生き方を選択してもいいだろう。ただし、それが自分にとって損か得かという基準で選択するのはどうかと思う。自分の利害だけで、生み育てない生き方を選ぶというのは感心しない。自分が社会に大きな貢献をするとか、それが自分にしか出来ないという事情があるので、どうしても出産する訳にはいかないというなら仕方ない。夫婦だけで人生を楽しむのに、子どもは要らないという身勝手な理由なら、許されないと思う人も多い筈だ。

子どもを生み育てないという選択が、社会的損失だということからあの女性国会議員が、生産性がないと批判した。しかし、それは非常に軽薄な考え方であろう。それよりも、子育てをしないことによる損失は、経済的な側面の目に見えるものだけではない。それよりも、もっと大切なものが失われることを忘れてはならない。子育てを実際に真剣に行った親ならば、それが解るに違いない。子育てによって、親が大きく成長させられるし、子どもが心身共に成長する姿を観る喜びを享受できる。子育てというのは、親子が共に学び気付かされることが多いのだ。

子どもを育てる経験をしないと人間として一人前に成長しない、なんて乱暴なことは言わないが、子育てを体験しないと学ぶことが難しいことが沢山あるのは事実だ。学べることの中で大切なひとつとは、母性愛というか慈悲愛である。子育てをしなくても、母性愛や慈悲愛を発揮できる人がいない訳ではないが、極めて稀である。慈悲の愛とは、相手の悲しみを自分のことのように感じて慈しむという愛である。我が子は目に入れても痛くないという比喩の表現があるが、これは実際に子育てしなければ実感できない。幼い我が子の鼻が詰まって苦しんでいる時に、その鼻の孔に口を押し当てて、鼻汁を優しく吸ってあげられるのは親しかいないであろう。不潔だとか気持ち悪いという感情よりも、我が子を想う心が優先する。自分も躊躇することなく、我が子の鼻汁を何度も吸ってあげた。このような行為を通して、慈悲の心が育つのである。

子育ての経験においては、辛いことや苦しいこと、そして悲しい想いをすることが多い。しかし、そういう苦難・困難を経験するからこそ、人間として一回りも二回りも成長するのである。そして、そのような苦難・困難を乗り越えた時の喜びも大きいのである。子どもは、親を選んで生まれてくるというのは、胎内記憶の科学的検証から間違いないらしい。何故、親を選んで生まれて来るのかというと、選んだ親と共に苦難困難を経験して、それを乗り越えて自己成長する為だと、胎内記憶を残している子どもは断言する。ということは、自ら出産と子育てを経験しないと選択してしまう夫婦は、自己成長をするチャンスを自ら放棄しているということになる。そんな挑戦権を自分から捨てるというのは、実にもったいないことである。

思想教育に対する誤解を解く

思想教育というと、アレルギー反応を起こす人が多いことだろう。思想という言葉が、全体主義、軍国主義という戦前の間違ったイデオロギー教育を連想させてしまう。また、北朝鮮や中国における共産主義だけを是とする原理主義の教育を思い浮かべるからであろう。確かに、思想教育というのは国家による国民の洗脳に使われた負の歴史があるから、どうしても危険なものとして取られてしまう。しかし、本来の思想教育とはそんなに危険なものではなく、むしろ青少年の健全なる精神の教育には必要不可欠なものなのである。

正しい思想教育を排除してしまったのは、明治維新から始まった。近代教育を西欧から輸入した明治新政府は、それまでの江戸時代までに行ってきた思想教育を徹底して排除した。富国強兵を進めて行くうえで、思想教育は反国家運動に繋がり、邪魔になるとして思想教育を学校教育から閉め出した。客観的合理性の価値観だけが正しいものとして、思想・哲学なんて富国強兵の邪魔になるからと、排除してしまったのである。この要素還元主義を重視した学校教育は、人が生きる上での大切な価値観の教育を不要としたのである。

戦後になり、軍国主義や全体主義に陥ったのは、思想教育に原因があると誤解してしまったGHQは、徹底して思想教育を学校教育から排除した。特に神道に関連した価値観や、家父長制度を槍玉にあげて、家族を思いやり、絆を大切にする思想を徹底して嫌ったのである。特に、個別最適主義を徹底して教育し、全体最適に貢献するという考え方を排除したのである。明治維新から始まり戦後にさらに強化された、この個人主義という考え方は、利己的で自己中心的な人間ばかりを増やしてしまったのである。これは、思想教育をないがしろにした悪影響によるものでしかない。

さらに問題なのは、思想教育を学校教育から排除したおかげで、家庭においても思想を教育することも止めてしまったことである。人間として必要な価値観を持ち、清く正しく生きるべき道を示す思想教育を、家庭でも除外したのである。本来は我が子に対して行うべき思想教育を、父親も出来なくなってしまったのであろう。この思想教育を排除する動きは、民間企業や官公庁にまでも波及してしまった。戦後しばらくは企業でも思想教育を実施していたが、高度成長以降はまったく実施しなくなった。それが企業におけるモラルハザードを起こし、コンプライアンス違反を数多く引き起こした要因であろう。

官公庁において、贈収賄事件や文書改ざん事件が起きているのは、思想教育を排除してしまった影響からであろう。単なるモラル教育だけでは、不祥事を防止できない。人間として何の為に生きるのか、誰の為に仕事をするのか、生きる意味や生まれてきた理由をしっかり認識してもらう思想教育をしてこなかったつけが現れた格好である。学校現場で起きているいじめ問題や不適切指導の問題も、思想教育を排除した悪影響であると思われる。不登校やひきこもりの問題も思想教育をしてこなかった為に起きていると考えられる。

原理主義などのイデオロギー教育と思想教育はまったくの別物である。おおいなる誤解である。全体主義や国家主義の教育と思想教育はまったく違うものである。ここにも大きな誤解がある。思想教育というのは、人間として正しく生きる上で必要な価値観、または仕事や公益活動を行う上で基本とする考え方を教えることである。企業内で思想教育がなくなり、劣悪な労働観が支配的になると、企業の生産性が低下するだけでなく収益が生まれなくなり、存続さえ危うくなる。東芝の業績低下、日産や神戸製鋼の不祥事、東電の原発事故は、思想教育をしなかった故に起きた悲しい事態である。

家庭内において、正しい思想教育ができる父親が居なくなった不幸がある。清く正しく生きる価値観を教え育てる思想教育は、本来父親の役目である。子どもというのは、思想教育を求めている。試しに子どもに思想教育をしてみれば解る。目を輝かして、父親の話に耳を傾ける。我が子たちに思想教育をすると、感動のあまり涙を流していたのを覚えている。特に、自らの自己組織化を促すような思想教育が大好きである。人間とは個別最適でなくて、全体最適を目指して生きるべきだと伝えると、子どもたちの魂まで響く。しかも関係性を大切にして生きるべきなんだと教えると、家族間の絆も深まるし、学校でのいじめもなくなる。勿論、不登校やひきこもりも起きることがない。思想教育を我が子にしっかりと出来るような父親でありたいものである。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、家庭内での思想教育のやり方、企業内における思想教育方法について研修を行っています。思想教育を的確に行えば、ひきこもりや不登校を防げますし、驚くほど自発的に勉強をするようになります。また、社員教育に思想教育を取り入れると、生産性が上がるだけでなく顧客が増えて収益が向上します。問い合わせフォームからご相談ください。

幼児性を示す大学生

大学生の幼児性が話題になっている。大学というのは学びの世界における最高学府である。その最高学府に在籍する大学生は、それこそ日本の将来を担う逸材である筈だ。その将来を嘱望されるべき大学生が、幼児性を持っていると言われているのである。そんな馬鹿なと多くの人々は思うのだろうが、実際にその大学生と日常接している大学の教職員たちは、学生たちのあまりにも酷い幼児性に呆れているというのである。なんとも情けない時代になったものである。

ひと昔の学生ならば、論文を書くのに細かく指導しなくても出来ていたという。ところが、研究テーマの設定からその仮説と実証、そして結論までも、すべて手取り足とり指導しなければ書けないらしい。しかも、文章を書く能力もないというから驚きである。ネットの中のそれも不確かな情報であるウィキペディア等の文章をコピペするだけというのだから情けない。当然、寄せ集めの文章だから、起承転結のない一貫していない文章だという。こんなにも酷い学生の低レベルに嘆いている教授は多いという。

こんな幼児性を示す大学生ながら、大学入試においては、そこそこの成績で合格しているらしい。記憶力や計算能力は図抜けているという。小論文や記述式の成績は良くないが、殆どの受験者が同じ成績だから、試験を通ってしまうのであろう。あらかじめ決められていたり指示されていたりすることなら、ある程度出来てしまうらしい。試験勉強を専門にしてきているから、記憶力があれば一定レベルの点数は取れてしまうという。したがって、応用力やリスク対応力などはなくても、大学に合格してくるらしい。

大学生の幼児性は、学力だけでないという。考え方や生き方自体も非常に幼稚らしい。専門書を読まないし、純文学も読まないらしい。読むのは専らコミックだけである。また、ゲームが三度の飯よりも好きらしい。スマホを片時も手離せないし、SNSに完全に依存している。食べ物も幼児が好むようなジャンクフードを好むし、お菓子や炭酸飲料をバッグの中に常備している。誰からか指示されないと動けないし、自発的行動が出来ない。自ら考えて主体的に行動することが苦手だし、何事にも責任を取れないのである。困ったものである。

大学生の幼児性は、どこから生まれたのであろうか。誰がこんな若者にしてしまったのであろうか。大学の教授たちは、この学生の幼児性は学校教育による影響ではなくて、家庭教育に責任があるんじゃないかと見ているらしい。学校教育にも責任がまったくないとは言えないが、精神性が幼児のまま成長していないのは、家庭における子育てに原因があるに違いないと推測する教育者が多い。乳幼児期の子育てにおいて、あまりにも親が過干渉な態度を取り続けたせいと考えられる。子どもが何か話そうとすると先取りして親が話してしまうとか、親が次の行動を指示してしまうような干渉を繰り返したと思われる。その為に自分で考えて自ら自発的に行動するという事が出来なくなってしまったのであろう。

親が子に対して過干渉を繰り返すと、何故に子どもが主体性を失ってしまうのかというと、人間の自己組織化というシステム論から説明できる。人間というのは、生まれつき自己組織性が本来備わっている。生まれ育つうちに、人間には少しずつ自己組織性が成長する。ところが、あまりにも行き過ぎた『介入』を繰り返してしまうと、自己組織性が育たないのである。自己組織性というのは、人間にとって必要不可欠な主体性・自主性・自発性・責任性というものである。乳幼児期と少年期に指示・支配・制御などの介入を必要以上に繰り返すと、自己組織性が育つことがなく、幼児性が残ってしまうと考えられる。

大学生や若者に自己組織性が育つことなく、あまりにも幼児性が残ってしまっているのは、やはり家庭教育にその責任がありそうだ。だとすれば、その幼児性を青年期に払拭することは出来ないのであろうか。成人してからは、自己組織性を獲得することが出来ないとしたら、職場においても使いものにならないであろう。企業においても、指示待ち人間が増えたと聞き及んでいる。大学生の幼児性だけでなく、社会人でもその幼児性が発揮されているのであろう。家庭教育にその原因があったとしても、若者になってからの教育のやり直しで幼児性を払拭するのは困難ではあるが、不可能ではない。何故なら、人間は本来自己組織性を持つからである。行き過ぎた介入により自己組織性が育っていないのなら、介入のない教育を一からやり直すことで、自己組織性が必ず育つのである。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、自己組織性を育てる研修を実施しています。主体性・自発性・自主性・責任性を発揮できる人材を育てる教育をしています。つまり自ら自己組織化をする人材を育てる研修です。是非ご相談ください。

ひきこもりを乗り越える

ひきこもりは、個人的な要因によって起きるのではなくて、社会システムの偏りや歪みによって発生しているということを前回のブログで明らかにした。そうなると、社会システムの誤謬を正さない限り、ひきこもりを乗り越えることが出来ないと思う人が多いかもしれない。しかし、けっしてそうではない。社会システムの中で最小単位である家族というコミュニティの社会システムを、本来あるべき正しい形にすれば、それだけでひきこもりを乗り越えることが出来て、社会復帰することが可能になる。これは、不登校さえも乗り越えることが出来る方法でもある。

家族という最小単位の社会システム(コミュニティ)が、壊れてしまっているということを認識している人は極めて少ない。すべての家族というコミュニティが崩壊しているとは言わないが、殆どの家族は本来のコミュニティ本来の機能を失っている。何故、そんなことになってしまっているかというと、あまりにも偏ってしまった価値観にあると言えよう。家族というのは、お互いの尊厳を認め合い、お互いを支え合い、お互いに何も求めず愛を与えるだけの存在である。愛が溢れ、安心で平和な暮らしができる『場』である。しかし、現実にはそういう愛が溢れる安心の居場所になっていないのである。

人間が生きる上で絶対に必要な価値観とは、深い絆(関係性)と全体最適であろう。ところが今の日本人は、この全体最適を忘れてしまい、個人最適に走ってしまっている。そして、お互いの関係性を大切にする生き方を忘れ、個人主義に陥ってしまっている。家族というコミュニティにおいても、それぞれが身勝手で自己中心的な生き方をするあまり、家族がバラバラになってしまっている家庭が増えてしまった。父親は仕事優先の生き方をするあまり、家事育児に協力しないし、妻の話を聞かないし共感しない。父親は、家族から敬愛されていないばかりか、一人浮いている。そんな家庭が増えてしまったのだ。

ひきこもりや不登校の子どもの家庭状況がすべてそうだとは言えないが、お互いが心から信頼し支え合う家族関係が希薄化しているケースが多い。つまり、お互いの尊厳を認め合い支え合うような、深い絆がなくなっている。何故、そんな状況になっているかというと、介入し過ぎるケースがある反面、関わり合いが極めて少なくて、無視をし合うような家族関係があるからだ。ある程度の親としての優位性は仕方ないが、必要以上に子どもに対して優位を保とうとして、所有・支配・制御などの介入を繰り返すことがある。または精神的に幼児性を持つ父親が、自分に都合が悪くなると沈黙したり無関心を装ったりすることもある。これらの不都合を日常的に繰り返して、関係性が非常に希薄化してしまうのだ。

家族というコミュニティは、ひとつの社会システムとして見られている。したがって、家族それぞれには自己組織化する働きがあるし、オートポイエーシス(自己産出)の機能を持つ。親が子どもに対して行き過ぎた介入をして、関係性を損なうようなことを繰り返してしまうと、この自己組織化と自己産出(成長や進化)を妨げてしまう。子どもがひきこもりや不登校になるのは、自己組織性と自己産出を自ら放棄してしまったということである。人間とは、自らの意思で自らの言動を決定する。そして、その自らの言動には責任を持つ。そして、自分の内部からふつふつと湧き出させるエネルギーで何事にも挫けず挑戦をするのである。これが、人間の持つ自己組織性と自己産出性である。

この自己組織性と自己産出性の機能を無くしてしまった家族だから、ひきこもりという問題が発生しているのである。とすれば、システムとしての家族が本来持つ機能である、自己組織性と自己産出性を持つようになれば、ひきこもりが克服できるに違いない。これは、当事者本人だけが機能回復すれば良いという訳ではない。家族全員が、自己組織性と自己産出性の機能を回復しなければならない。そして、家族全員が全体最適と関係性重視の価値観を持ち、自己犠牲を厭わずにお互いに支え合い守りあうコミュニティを再生すれば良いのだ。親がまずその機能を回復し、正しい価値観を持つことが重要である。それがひきこもりを乗り越える道筋を示すことなることだろう。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、ひきこもりからの回復をサポートしています。家族本来の機能を回復するには、一切介入をしない家族療法が必要です。何故ならば、介入をされれば人間は、その介入を拒否するからです。介入することなく、ただ当事者と家族との開かれた対話を繰り返す、オープンダイアローグという家族療法がひきこもりを乗り越えるのに非常に有効になります。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

ひきこもりの本当の原因

ひきこもりという状況に追い込まれてしまい、もがき苦しんでいる人はかなり多いと推測される。厚労省や市町村もその実数の把握が出来ないでいる。ひきこもりという統計上の定義も確立されていないし、ましてやひきこもりを家族がひたすら隠しているのだから、正確な人数を把握できる訳がない。さらに、当事者自身がひきこもりだと認識していないケースも少なくない。障害者として認定されていないし、精神疾患や精神障害でもないから、カウントする術がない。実態を把握できなければ、行政側としては積極的な対応も出来ないのかもしれない。

ひきこもりの子どもを持つ親は、どうしてこんな状況になってしまったのか、原因さえ掴めないでいると思われる。当事者自身もひきこもりになった確かな要因を認識できないでいる。不登校の原因が人間関係だとされているように、ひきこもりの原因も人間関係だとは何となく解ってはいるものの、何故社会に出て行けないのかが判然としない。原因が特定できなければ、対応策を考えることも不可能であろう。社会現象としてひきこもりが増えているという実態は何となく解っているし、何とかしなければならないと行政側は模索しているものの、抜本的対策を考える術を持ち得ていない。

ひきこもりの子どもを持つ親の苦悩は相当なものであろう。長年に渡りひきこもっている子どもを何とかしなければと思いながら、どうしようもない焦りや不安に苦しんでいる。将来は親自身が先に逝くのは間違いないのだから、その時がやってきたらどうなるかという不安は相当なものである。しかし、それ以上に苦しんでいるのは、当事者自身であろう。周りから見ていると、以外と呑気に見えるかもしれないが、ひきこもり本人の苦悩や不安は親以上にあるに違いない。自分の本当の気持ちを分かってくれる者はいないし、誰も助けてくれそうもないのだから、その孤独感は半端ない。

ひきこもりの原因は、人間関係における不都合だと思われているし、本人の資質やその性格にもその要因があると推測されている。親の子育てにおける偏りも指摘されている。親も含めた親族もそう思っているし、社会一般的にもそうだろうと認識されている。確かに、そういう要因やきっかけもあるだろうが、ひきこもりの本当の原因はそれだけではない気がしてならない。どちらかというと、ひきこもりという状況は社会システムの歪みが起こしているのではないだろうか。つまり、ひきこもりというのは個人的な要因によって起きているのではなく、社会全般に責任があるのではないかと思うのである。

ひきこもりの方々は、非常に大きな『生きづらさ』を抱えている。その生きづらさが何によって生じているのか定かでないが、何となく生きづらさを抱えるが故に、社会に出て行けないのであろう。つまり、強烈な生きづらさ故にひきこもりという状況を選ぶしかないのだ。そして、その生きづらさが発生する根源は、この社会そのものにある。誰でもひきこもりになるのではなく、特定の人しかならないのだから、生きづらさの原因は本人にあると思う人も多いだろう。しかし、生きづらさの原因は社会にあるし、その生きづらさを殆どの人は感じているが、我慢して生きているだけなのである。

それじゃ、社会そのものに原因がありそれにより生きづらさを感じるというのならば、その社会の歪みというのは何だろうか。社会というのはひとつのシステムである。様々なコミュニティが寄り集まって形成されている。家族、グループ、学校、地域、職場、市町村、県、様々なコミュニティが存在する。そのコミュニティというのは、共同体なのだから本来はお互いが主体的・自発的に支え合うものである。その構成要素であるそれぞれの人は、特定の人が優位性を持たず、公平で平等でなければならない。そして、基本的にお互いに介入し合わないのが原則である。そうでなければ、システムとして本来の機能を発揮できない。コミュニティも所属する人も自己組織性を失うからである。

家族というコミュニティにおいて、親が子に対してあまりにも優位な立場を保つ為に、所有・支配・制御を繰り返し、指示指導など行き過ぎた介入をしやすい。仲間のグループにおいても特定の人間が支配者として君臨し、他に対する強い介入をする。職場でも同じ状況が起きるし、学校という場所でも歪みが生じている。コミュニティという様々な共同体というのは、お互いが平等で争いのない平和で安心できる場所であるべきなのである。つまり、安心できる『居場所』が家庭・学校・職場・地域にないのである。これでは生きづらさを抱えてひきこもるしかないのである。この社会があまりにも歪んでいるが故に、ひきこもりが起きているのである。

 

※ひきこもりが起きている本当の原因について、イスキアの郷しらかわでは研修を実施しています。そして、ひきこもりの原因が社会システムの歪みにあるとしても、どうすれば生きづらさを抱えながらも乗り越えて行けるのかを、一緒に考えます。地域・職場・学校などのコミュニティを変えるのは容易ではありませんが、少なくても家族というコミュニティを本来あるべき姿に変えることは可能です。そうすることで自分自身が変化できます。ひきこもりの家族に対する研修も実施しています。まずはご相談ください。

自己組織化を育む教育

自己組織化というのはシステム論を形成する重要な理論のひとつであり、簡単に言うと自律化と言い換えることもできよう。ノーベル賞を受賞した物理学者のイリヤプリゴジンが提唱した理論である。熱力学を応用した物理学の基礎理論であり、物体を形成する構成要素それぞれには自己組織化する性質があるという主張である。転じて、人体を構成する要素である細胞にも自己組織化する性質があるし、人間そのものにも本来自己組織化する性質を有していると考えられている。

この自己組織化する性質を、便宜的に自己組織性と呼ぶことにする。この自己組織性は自律性とも言い換えると前段で記したが、これは人間が生来有している主体性・自発性・自主性・責任性などと言えるものである。細胞の自己組織性については、最新の医学研究でも驚くような研究成果がもたらされている。人体というネットワークシステムは、細胞そのものが過不足なく全体最適を目指して活動していると共に、細胞によって組織化された骨格組織、筋肉組織、臓器組織などがやはり自己組織性をおおいに発揮していることが判明したのである。

この事実はどういうことを意味するかというと、人間という生物は生来自己組織性を持っていて、全体最適のためにそれぞれが豊かな関係性を発揮しながら活動する宿命を持って生まれているということである。全体最適というのは、自分だけの幸福や豊かさを求める個別最適ではなく、家族全体、地域全体、企業全体、国家全体、世界全体、宇宙全体の最適化のために貢献することを指している。言い換えると、人間とはみんなの幸福や豊かさ実現のために存在が許されているという意味である。したがって、自分だけの幸福や豊かさを追求するというのは、人間本来の生き方に反するということを示している。

したがって、あまりにも個別最適を求める生き方をすると不都合が起きるのである。例えば、自己中で身勝手な生き方をすると家族の中で孤立するとか、会社内で誰からも相手にされないとか、地域で評価されず見放されるようなことが起きる。さらには、主体性や自発性を失い、責任性も放棄するような生き方をするようになり、家族からも同僚や上司からも信頼を失ってしまう。自ら関係性を断ち切ってしまい、その影響で自己組織性も発揮できなくなるのである。本人だけでなく、周りの人々も身体の病気にしたりメンタルの病気にもなったりしてしまう危険が高まる。

人間という生き物は、本来自己組織性を持つ。この自己組織性を発揮するには、良好な関係性(ネットワーク)という条件が必要である。この自己組織性と関係性の大切さを認識して伸ばしてあげる教育をしないと、大人になってから不幸になる。したがって、幼児のときからこの自己組織性をしっかりと成長させる育て方が求められる。どんな育て方かというと、行き過ぎた『介入』をしないという姿勢である。なるべく本人が自ら気付き学び成長するのを待つという態度が大切である。そして関係性を感じられるように、愛情をたっぷりと注ぎ続けることである。

子育てほど難しいことはない。だからこそ、子育ては尊いことであるし自分を成長させてくれるミッションである。とかく、親というのは我が子の幸福を願うものである。ケガをしないようにとか病気にならないようにとか、細心の注意を払いながら育てる。それ故に、ついつい細かく事前に指示をしてしまうし、先回りをしてしまう。言いたいことやりたいことをついつい予測して助けてしまう。知能が高くて教養のある親ほど、こういう子育てをする傾向にある。こういう子育てが、実は自己組織性の成長を妨げてしまうのである。子どもが自ら考えて行動するという自己組織性を発揮することを阻害してしまうのである。

子どもが思春期になり反抗期を迎えたときに、あまりにも親に歯向かい反発する態度をした時に、ついつい父親は権力で子どもの反抗を抑え込む傾向がある。これも、子どもの自己組織性の進化を妨げてしまうことになる。学校においても、教師があまりにも子どもの自主性や主体性を無視して、すべて指示通りに行動させてしまうと、やはり自己組織性の成長を阻止してしまう。日本の学校教育というのは、この自己組織性を育てる教育をしていないと言える。中学校や高校の部活でも、自己組織化を妨げるような指導をしがちである。不登校やひきこもりが増加しているのは、自己組織化を認めない教育現場があるからではないかと考える。子どもたちの主体性・自主性・自発性を育んでいく教育をしないと、正常な自己組織性を発揮できなくさせてしまい、不幸にしてしまうことを認識すべであろう。