家庭問題を解決するキーパーソンは大黒柱

一家の大黒柱という言葉が死語になっている。今の若い人に「一家の大黒柱は誰のこと?」と聞いても答えられないだろう。そんな言葉を今時使う人もいないし、家庭に大黒柱になる人なんていないだろう。そもそも大黒柱という意味さえ知らないに違いない。それは伝統的な建築手法で建てられた民家で、土間と居室部分の境目に立てられる一番太い柱のことである。家を支える大事な柱のことで、転じて一家の主人を差すようになったという。通常は、家庭における家長のことを大黒柱と呼ぶことが多い。

戦後、GHQの指導によって家長制度が廃止になり、男女平等の考え方が浸透して、一家の大黒柱という言い方が敬遠されたと思われる。そして、実質的にも大黒柱が不在となる家庭が殆どになってしまった。家族がみんな平等で、それぞれの基本的人権が保障され、大黒柱がいなくても困らないだろうと思っている人が多い。確かに、大黒柱に頼り切ってしまい、家族が一家の大黒柱に依存し過ぎてしまい、精神的にも経済的にも自立出来なくなるというのは困る。しかし、一家の大黒柱が不在になることで起きている家庭の諸問題が、実に多いように感じられて仕方がない。

家庭における諸問題が次から次と起き続けている。家庭内における児童虐待や育児放棄、パートナー間におけるパワハラやモラハラ、ひきこもりやニートの長期化と高齢化、家庭内暴力などが多発する事態となっている。家族の中に、発達障害やメンタル疾患が急増している。そして、これらの家庭内における問題が解決されることもなく、長期化するばかりか深刻化している。離婚してしまう夫婦も多くなっているし、親子関係が断絶してしまい、家庭崩壊を招いているケースも少なくない。これらの家庭における諸問題は、家族の中に大黒柱が不在になってから、増えているように感じられる。

ここでいう大黒柱というのは、経済的な支柱になっている収入の中心者という意味ではない。精神的な拠り所という意味であり、すべての家族の守り神という役割を担う人を差す。そして、この一家の大黒柱を家族みんなが頼りにしているし、いざという時には家族の為に命を賭してスーパーマンのように大活躍する存在である。家族が困ったり悩んだりした時は、メンターの役割を果たしてくれるのが大黒柱である。通常は父親がその役割を担うことが多いが、母親だって大黒柱になれない訳ではない。母親が大黒柱として家族を守っているケースも少なくない。けれど男性よりも精神的な拠り所としては難しいと思われる。

女性が男性よりも劣っていると言いいたい訳ではない。男性のほうが女性よりも強いという意味でもない。ある意味、男性よりも精神的に頼りになる女性も少なくない。社会では男性よりも活躍している女性が非常に多い。だとしても、家庭内においては女性よりも男性のほうが圧倒的に頼りにされるケースが多い。しかし、残念なことに家庭における父親が頼りにならなくなっているのである。家庭内における諸問題が起きている家族関係において、父親の存在が希薄化しているケースが圧倒的に多いのだ。家庭内の諸問題を心配して何とか解決しようと努力している人は、殆どが母親なのである。

つまり、家庭内の諸問題が発生しているのは、名実共に一家の大黒柱と呼ばれる人物が不在の家庭なのである。ということは、家庭内の諸問題を解決するキーパーソンは一家の大黒柱ということになる。家庭における主人が、大黒柱としての本来の働きをすれば、家庭内の諸問題が解決に向かうのではないかと想像できる。精神的支柱となって、家族をひとつにまとめ上げ、関係性を親密にして、お互いの信頼関係を高めることで、問題は解決される。くれぐれも言っておきたいが、戦前のように大黒柱が絶対的権力を持つような支配構造を持つことは絶対に避けたい。あくまでも、精神的な拠り所としての役割だけだ。

一家の主人が大黒柱としての役割を立派に果たすには、まずは家族の話を傾聴することが大切だ。それも共感的態度で対話することが肝要だ。相手の気持ちに成りきって否定せず話を聞く姿勢が必要だ。そのうえで、指示することなく命令することなく、相手の自己組織化をそっと見守る姿勢が大事である。家族それぞれが自己成長して、主体性や自主性、そして責任性を発揮できるように寄り添いサポートすることが求められる。そういう意味では、大黒柱は優秀なカウンセラーでありセラピストでありたいものだ。家庭内において父親が名実共に大黒柱となって、諸問題を解決する役割を果たせるようになって欲しい。仕事も大事であるが、家族はもっと大切であると自覚してもらいたいものである。

指導教育は最新の複雑系科学によって

スポーツの指導方法において、根性論や精神論を基本に据えてコーチをする指導者は流石に少なくなったものの、相変わらず旧態依然とした指導法を続けている指導者は少なくない。コーチングというと、自らの技術や知識を披露して、その技術や知識を教え込むことだと勘違いしている指導者がいる。山本五十六の、「やって見せて言ってきかせてやらしてみて誉めてやらねば人は動かじ」が指導者の正しい心得なのだと思い込んでいる指導者がいる。企業や学校教育の現場でも、知識や技術を教え込むのが教育だと思う人も多い。

家庭教育においても、子どもに必要な知識や技能を教え込むことが大切だと勘違いしている親が少なくない。当然、子どもはそのような教え方に反発するし学ぼうとする意識が低いから、教育効果は上がらない。子どもに教えなければならないのは、命に危険が及ぶような事柄、人に迷惑をかけたり人を傷つけたりしないということだけでよい。それも、何故なのかという人間の尊厳に関わるような大切な理由も含めて伝える必要がある。ただ、これはダメあれも駄目というような単純な押し付けをしてはならない。

金足農業高校の吉田輝星選手を指名した日本ハムファイターズの指導育成法は、独特であるという。監督コーチは育成する選手に野球の技術を進んで教えることをしないという。選手が自分で練習してもなかなか上手く行かなくて、悩んで困り抜いた末に、「教えてください」と自ら申し出た際にだけ教えるという。そうでないと、選手が聞く耳を持たないからだという。監督コーチから技術を教え込もうとすると、謙虚にしかも素直に聞くことをせず、まったく効果が上がらないというのである。

日本ハムファイターズに入団した高卒選手、大谷翔平選手や中田翔選手が伸びたのは、このような指導育成方法によるものらしい。吉田輝星選手や清宮幸太郎選手も、このような指導法によって大成すると思われる。このように、最近の野球界や他のスポーツ界において、教え込む指導法から自ら技術を学び吸収するという指導法に変えるチームが増えてきた。それも、指導者が選手に対してただ質問をするだけという指導法を取るやり方である。この質問を繰り返していくうちに、本人が自ら気付き学ぶのだという。

さらに、セリーグで圧倒的な強さを誇る広島は、ドラフトで指名する時に重要視するのは、実績ではなくて潜在能力や基礎体力だという。そして、もっとも考慮するのはその人間性だとも言われている。どんなに才能があったとしても、人間性が劣悪であれば伸びないからだという。特に、謙虚で素直な人間性や全体に貢献したいという価値観を持たない選手は、絶対にドラフト指名をしないらしい。こういう選手を集めて地道に育成したおかげで、すべて生え抜きの選手だけでレギュラーを占める成果を上げているのだというのだ。

最新のこれらの指導育成法は、最新の複雑系科学に基づいたものである。最先端の物理学や分子生物学、脳科学におけるシステム論、またはシステム思考に基本を置いている。人間という生物は、生まれつき自己組織化するようになっている。つまり、主体性、自発性、自主性、責任性を本来的に持つのである。さらに、人間は自ら進化して自己成長をしていく生き物なのである。この機能をオートポイエーシス(自己産生)と呼んでいる。人間というシステムは、生まれつき自己組織性とオートポイエーシスを持つのである。この自己組織性とオートポイエーシスを引き出してあげることが、本来の教育の使命なのである。

そして、この自己組織性とオートポイエーシスの機能は、外からの強い介入によってその機能を果たせなくなるのである。つまり、何らかの外から行き過ぎた介入(教え込む指導育成)があると、本人の自己成長が止まるし進化しないばかりか、深刻な退化が起きかねない。これはスポーツ選手ばかりではなく、我が子にも起きてしまう由々しき事態なのである。大切なのは、指導育成する際にこの自己組織性とオートポイエーシスを発揮できるように、強い介入をせずに本来持つ良さを『引き出す』という観点が必要である。そして、素直で誠実で謙虚でしかも全体最適の価値観を持つ子どもに育つように見守ることが肝要なのである。そうすれば、必ず教育の効果が上がるに違いない。

主体性を喪失した指示待ち社員

ファーストフード店において、若いアルバイト店員が発する決まりきった質問に対して、突然予想外の質問やお願いをしてみると面白い。まずは、答に窮するに違いない。そして、自分で判断できず、誰かに応援を求めるか、もしくは黙り込んでしまうであろう。ファーストフード店で働く若いアルバイト店員は、細かいマニュアルに基づいて業務をこなしている。マニュアルで示された業務や受け答えは出来るものの、イレギュラーの対応ができる店員は殆どいない。そんな教育はされていなのだから当然だが、主体性がないのである。

他の会社でも、決まりきったルーチンの作業は出来るものの、何かイレギュラーな業務が発生すると遂行できない社員がいる。また、何かのトラブルが起きるとその対応や解決が出来なくて、おろおろしてしまう社員が存在する。上司や同僚から指示命令を受ければ動くが、自ら率先して動くことが出来ない社員も見受けられる。このような指示待ち社員は、想像以上に多いようだ。このような社員は、業務改善や問題解決に主体的に取り組むことはないし、問題に気付かないことも多い。このように主体性を持てない社員が増えている。

ひと昔前であっても、こういう困った社員がまったく居ない訳ではなく、僅かだがそれぞれの部署に少数だが在社していた。しかし、最近は自発性を発揮できない指示待ち人間が増えている。毎日決まりきった業務しかしないのであれば、何とか目の前の業務をこなすだけだからそれなりに役に立つ。しかし、日々の業務が臨機応変の対応が日々求められるような職場であれば、まったく役に立たない社員として烙印を押されてしまう。主体性や自発性だけでなく、自分の仕事に責任性を持たない社員が増えているのである。

このように主体性を持たない指示待ち人間が増えている原因は、教育における間違いであろう。学校教育では、知識や技能を詰め込むだけの教育であり、智慧を育てる教育をないがしろにしているからである。家庭教育では、子どもが行動を起こす前に親が先取りや先読みをしていて、子どもの行動を制御してしまうのである。親が事前に指示をしないと、行動できないし話せない子どもが増えているのである。しかし、知力だけは人並みに育つから、一定の学力は発揮して高校と大学は優秀な成績を残し、就職試験も突破する。

このように主体性を発揮できず指示待ち社員は、益々増えることになる。官公庁の職場で、マニュアル通りの業務しかしない特定の職場においては、何とか仕事は務まる。また、工場や現場作業において、マニュアル通りの業務しかしないケースならば、指示待ち社員でも困らない。しかし、複雑な顧客対応やイレギュラーな業務だらけの職場では、まったく使えない社員とされてしまう。上司からは毎日のように叱責されるし、同僚からは馬鹿にされる。自分がいじめにあっているように感じて、勤務できなくなり休職に追い込まれる。

主体性、自発性、自主性、責任性などを総称して『自己組織性』と呼ぶことにする。システム論において、ノーベル賞物理学者のイリヤ・プリゴジンが提唱した自己組織化の理論から導き出した説である。物体や生物など、そしてそれらの構成要素には、すべて自己組織性が存在する。当然、人間の構成要素である細胞にも自己組織性がある。誰からも指示命令しなくても、自己組織性を発揮して過不足なく全体である人間の最適化のために日々働いている。当然、人間は生まれつき自己組織性を発揮できるようになっている。ところが、間違った教育によって、不幸にも自己組織性を発揮できないようにされてしまっているのである。自己組織性が乏しく、主体性がなく指示待ち社員になっているのだ。

このように、間違った学校教育と家庭教育をされた為に、自己組織性を発揮できずマニュアル通りの業務しかできなくなった社員に、自己組織性を取り戻すことが可能なのであろうか。社員教育や職場指導で、自己組織性を取り戻すことは殆ど不可能であろうと思われる。何故なら、システム論を把握していて、本来人間の持つ自己組織性を引き出す術を知っている指導者・管理者はいない。ましてや、自己組織性を引き出すには当人に対して介入してはならないのに、知識や技能を強制的に植え付ける指導法を取るのだから、かえって逆効果なのである。ひとつだけ本来持つ自己組織性を引き出す教育指導の手法がある。それは、オープンダイアローグという心理療法を利用した指導教育である。

 

※オープンダイアローグを利用した最新の社員教育の技法を、「イスキアの郷しらかわ」ではレクチャーしています。指示待ち社員の教育で困っている管理者・指導者に、オープンダイアローグの社員教育手法をお教えします。また、主体性を持てず指示待ちの社員に対して、自己組織性を発揮できるように教育いたします。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

どうしていいか解らないひきこもり

ひきこもりは、全国で54万人もいるという。しかも、これは39歳までの年齢層だけであり、40歳以上のこきこもりも加えたら、100万人を超える数字になるかもしれない。何故なら、ひきこもりの実態をひた隠しにしている家庭は多いし、自分の子どもがひきこもりだとは思いたくない親が多いのである。厚労省の調査統計上は、6ケ月以上に渡り家庭内にいるというしばりがあるので、その期間に少しでもアルバイトをすれば除外される。しかも、実質的にはひきこもりなのにその範疇にはじかれるひきこもりも多いと思われる。

ひきこもりの5人に1人近くは、不登校から移行するらしい。そして、ひきこもりになるきっかけは、学校でのいじめや職場における嫌がらせ・パワハラ・セクハラ・モラハラなどがあげられるという。特徴的なことは、それらのきっかけになったことを家族に相談しないというのである。一人でそれらの問題を抱え込んで、悩み苦しみ行き場もなくて、ひきこもってしまうらしい。家族はいたとしても、孤独感を抱えて生きているというのだ。

どうして、ひきこもりになるきっかけが起きた際に家族に相談できないのだろうか。その時に家族に相談してくれたとしたら、なんとか対応もできたに違いない。しかし、ひきこもっている人は、親に相談できない人が殆どである。ひとつは、親に心配をさせたくないという気持ちもあろうが、親に相談をしたいと思わないのではなかろうか。親を信頼していないなどというと少し乱暴であるが、親が解決してくれるだろうという確信を持てないからではなかろうか。親への絶対的な信頼感と敬愛感があるなら、相談するに違いない。

ひきこもりや不登校の方たちの相談を受けていて感じるのは、育児や家庭教育における父親の存在感が希薄であるケースが多いということである。父親の職業がハードな勤務状況にあるとか、単身赴任で不在であるようなケースならある意味仕方ない。しかし、子育てや教育に関与する時間があるにも関わらず、あまり父親が協力的でなく、母親だけにその役割負担が過大になっている例が多いのである。ましてや、夫婦関係が希薄化・劣悪化している場合が多いというのも特徴的である。

ひきこもりや不登校になる原因が父親だなんて極端なことは言わないが、その一因になっているように思えて仕方ない。そして、子どもに対して正しい思想や哲学を語ることが出来ない父親が多いのである。勿論、ひきこもりに陥っているケースで父親を心から信頼し尊敬しているというのは極めて少ない。だから、ひきこもりの人々は、相談もできず何をしていいか分からないのである。当然、ひきこもりから離脱することは出来ないし、長期化することが多い。とは言いながら、父親ばかりに責任を押し付けるのも正しくない。

ひきこもり家庭の父親に事情を聞いてみると、子育ての仕方も解らないし子どもを愛する術を知らないと言うのである。勿論、子どもに語れる正しい思想や哲学も習ったことがないというのである。これでは、父親にひきこもりの原因を求めるのは酷である。父親自身も自分の父から教えられていないのである。とは言いながら、ひきこもりになった我が子を救う最大限の努力をしたかというと、そういうようには見えない。ひきこもりの我が子を本当に心配しているのは母親であるし、何とかしたいといつも心を砕いているのは父親よりも母親であるケースが多いのである。

ひきこもりや不登校の相談にいらっしゃるのは、圧倒的に母親が多い。そして、一人で悩んで苦しんでいるのは母親が多い。とは言いながら、ひきこもりをどうして解決していいか解らず苦しんでいるのは両親である。どう対応して解らず、差しさわりのない会話は出来るが、心を開いた本音での対話は出来ないでいる。ひきこもりの当事者は、解決したいと思いながら、どうしていいのか分からず苦しんでいる。相談するところもなく、解決をしてくれるところもないことから、現状に甘んじているのである。社会として、この状況を解決する手立てを見つけなければ、大変なことになる。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、ひきこもりの当事者からの相談、そしてご両親からの相談を受けています。また、どうしたらひきこもりの状態から離脱できるのかの研修を開催しています。さらに、家族と当事者に対するオープンダイアローグ療法を研修させてもらっています。ひきこもりには、このオープンダイアローグが高い効果をあげます。是非とも、ご利用ください。まずは、問い合わせフォームからご相談ください。

ひきこもりは社会的な支援で解決

ひきこもりの状態に追い込まれてしまっている人が益々増えている。そして、その実態が明らかにされていない故に、ひきこもりの解決を遅らせてしまっているだけでなく、固定化させてしまっている。当事者の家族が、ひきこもりの実態をひた隠しにしていて、誰にも知らせないようにしているからだ。隣近所の方たちはひきこもりにあることを薄々感じているものの、支援することも相談に乗ることも出来ず、手をこまねいている。

ひきこもりが増えて固定化しているが、行政は手出しが出来ないでいる。当事者や家族が支援を要請しない限り、行政は何らサポートが出来ないからである。もし万が一、支援を行政に願い出たとしても、ひきこもりを解決する有効な手立てはない。保健師や精神保健福祉士などの専門家が家庭に赴いて支援行為をしようとしても、当事者は面談を受けないであろうし、家族だって面倒なことになることを回避したいと思うに違いない。長年に渡りひきこもりの状態にあり、一応平穏が保たれていれば事を荒立てたくないからだ。

ひきこもりの方々は、今の状況に甘んじている訳ではない。なんとか現状を打破したいと思っているし、社会復帰したいと願っているのは間違いない。しかし、そんな心とは裏腹に身体は言うことを利かないのである。ましてや、ひきこもりになった原因は、社会における間違った価値観による関係性の歪みや低劣さである。人の心を平気で踏みつけ痛めつけるようなことを日常的にしている、学校現場や職場の人々の悪意に満ちた環境に身を置くことなんか出来やしない。こんなにも生きづらい世の中にどうして出て行けようか。

そして、ひきこもりの人々がそんな社会に対する不信感を持っていること、さらにはそんな気持ちを家族も含めて誰も理解してくれないことに対する焦燥感が著しいのである。行政や福祉の専門家たちは、そんなひきこもりの当事者の気持ちに共感出来ないのである。そればかりではなく、ひきこもりになったのは当事者のメンタルに問題があり、そのようにしてしまったのは家族に原因があると勘違いしているのだ。これでは、ひきこもりの当事者と家族だって、支援を求めたくなくなるのは当然なのである。

それじゃ、ひきこもりのからの脱却は、間違った社会の価値観を改革しないと実現しないかというとそんなことはない。適切できめ細かな支援がありさえすれば、ひきこもりを乗り越えることが可能になる。しかし、今の行政に身を置く専門家にとっては、そのような支援は難しい。また、医療や福祉の専門家にも、そのような大変な労力を要する支援を提供する余力はないし、技能もないに等しい。だから、ひきこもりというこんなにも大変な問題が、社会的に置き去りにされてしまっているのだ。

ひきこもりから脱却するには、どのような支援が必要かというと、次のようなものだと思われる。まずは、支援者はひきこもり当事者の心に共感をすることである。ひきこもりになったきっかけは、それこそ人それぞれで違っている。そういった過去の辛く苦しかった過去を否定することなく黙ってじっと聞いて共感をすることである。当事者のメンタルや価値観に多少の問題があるように感じても、その病理を明らかにしてはならない。ましてや、当事者の行動にこそ問題があったように思っても、批判的に聴いてはならない。あくまでも、本人の気持ちに成りきって傾聴することが求められる。

出来たら、両親などの家族と一緒に話を聞けるなら、なおさら高い効果が生まれる。ひきこもりの家庭では、家族間での心が開かれた対話が失われている。この聞き取りと共感的な対話が、家族間にあったわだかまりやこだわりを溶かすことに繋がるのである。しかし、支援者はそのような家族間に存在する『病理』を指摘してはならない。あくまでも、現状における困っている事実や症状を聞いて行くだけである。その際に、聞き取った内容を出来る限りストーリー性のある言葉で言い換え、詩的で柔らかな表現に置き換えるのである。悲惨なこととして話した内容、憎しみや怒り、妬みや嫉みをストレートに表現すると、相手を非難している感情が強くなり過ぎるからである。

このように『開かれた対話』を繰り広げて行くと、不思議なケミストリー(化学反応)が起きるのである。当事者とその家族がお互いに大好きで愛し合っているという事実に気付くのである。愛しているからこそ、憎しみという感情に転化している事実にも。そして、その互いの愛情表現がいかに稚拙であったかということに気付くと同時に、それぞれの深い関係性にも思いを馳せるのである。勿論、正しい価値観や哲学を学ぶことにもなるし、間違っている社会であってもそれに対処していける勇気を持つことが出来る。家族の豊かで強い愛が感じられれば、人間は強く生きられるのである。これが『オープンダイアローグ』という支援である。このようなオープンダイアローグにより、ひきこもりの当事者と家族を救えるように、社会的な支援として確立していきたいものである。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、このオープンダイアローグを活用したひきこもり解決の支援を実施しています。ご家族でイスキアにおいで頂ければ対応いたします。外出が出来ないという事情があれば、交通費をご負担していただければ、出張もいたします。まずは問い合わせフォームからご相談依頼のメッセージをください。ご親戚の方からのご相談も受け付けます。

母性愛を発揮できない原因

母親からの我が子への虐待事件が後を絶たない。自分が産む苦しみを乗り越えて、ようやく誕生した我が子を何よりも愛おしく思うのは当然の筈だ。それなのに、どういう訳なのか我が子を可愛いいと思えない母親が実際に存在する。そして、そういう母親はどうして我が子を愛せないのか不思議に思うと共に、母性愛を発揮できない自分が駄目なんだと自分を責めとしまう。本来は、我が子を目に入れても痛くない筈なのに、母性愛を発揮できる母親とまったく母性愛を感じない母親がいるのはどうしてなのだろうか。

それは、どうやらエストロゲンという女性ホルモンやオキシトシンという神経伝達物質(通称:脳内ホルモン)に関係しているということが判明した。妊娠と出産というのは、女性にとっては人生の一大事である。そして、この一大事を無事に成し遂げることが出来るように、人体のネットワークシステムは様々な工夫を凝らしている。各種のホルモン分泌を抑制したり、より多く分泌させたりして妊娠と出産を安全に成功させるのである。

妊娠中から出産にかけては、エストロゲンを母体に対して十分に分泌させる。しかし、出産した途端に、エストロゲンの分泌を減少させてしまう。どういう理由かというと、エストロゲンを大量に出産後も分泌させ続けると、一人で育児の何もかも頑張りすぎてしまうからだと言われている。それで、エストロゲンの分泌を少なくして、出産後の母体を休ませるみたいである。または、出産後の育児は配偶者も含めて周りの人々が共同で行うことができるように、エストロゲンの分泌を抑制するのだと考えられている。

人間というのは長年の進化によって、適切なホルモンの分泌をするようになったと思われる。出産後にはそれでなくても母親ばかりに育児の負担が集まる。それを抑制して、母親が頑張り過ぎないようするのと、共同育児というシステムのほうが、赤ちゃんが健全に育つからという理由でエストロゲンの分泌を低下させるのだと推測される。あまりにも赤ちゃんを可愛いいと思い過ぎて、他の人に赤ちゃんを渡したくないと思うのを阻止したのではなかろうか。夫も育児に参加して、義理の両親も育児の手伝いをしやすくしたのだろう。

ところが、このホルモン分泌の微妙なシステムを母親が知らないが故に、産まれた我が子を可愛く思えず、授乳や抱っこすることに違和感を覚えてしまうのかもしれない。そして、そんな気持ちが起きるのは、自分が母親として失格なんだと責めるようになる。酷くなると、育児ノイローゼになったり、育児を放棄したり虐待をしたりするケースにも発展することがある。これが、母性愛を発揮できなくて、逆に我が子を虐待してしまう訳である。

ところで、世の中には母性愛を十分に発揮することが出来て、我が子を愛おしくたまらないと思う母親が存在する。どちらかというと、このような母親のほうが圧倒的に多い。エストロゲンの分泌量が減るというのに、どういう訳なのだろうか。それは、夫が育児に対して協力的である場合である。または、周りの人々が育児に積極的にかかわった場合には、安心して母性愛を発揮できる。共同育児が可能だと確認するとエストロゲンが出るらしい。

パートナーが育児に対して非協力的であり、周りの人々もまた共同育児に対して消極的であると、エストロゲンの分泌は低下したままになるという。そうなると、育児期間中は母性愛を我が子に注げないという不幸を背負ってしまう。慈しみを持って抱っことか授乳をすることが出来なくなる。泣き続ける我が子に怒りさえ覚えてしまうのである。子どもは愛情が不足して、愛着障害やHSP(ハイリーセンシィティブパーソン)になる危険性が増してしまう。ましてや、エストロゲンが出ないとオキシトシンの分泌不足が起きて、いつも不安や恐怖感に襲われて不眠になり、産後うつになることもある。

その後もエストロゲン不足が続くと、我が子に対する母性愛が正常に育たず、育児放棄や虐待のようなケースになり兼ねない。または、我が子を良い子に育てようと頑張り過ぎて、子どもをあまりにも支配したりコントロールしたりする。世間でよく言われる「毒親」になってしまう危険性がある。子どもはいつも愛に飢えて育つことになるから、HSPやパーソナリティ障害になり、不登校やひきこもりの状態になる危険性も高まる。だから、産後は特にパートナーは妻に寄り添い支えて、育児や家事に積極的にならなければならない。共同育児という考え方を取り、周りの人々も積極的に育児参加したいものである。

 

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アスリート育成は科学と哲学で

またまたスポーツ界にパワハラ育成の不祥事が発覚した。女子体操、パワーリフティング、そして日体大の駅伝競技部にパワハラによる選手育成があったという。いろいろと背景や事情があるにせよ、スポーツ界というのは根っからのパワハラ体質らしい。根性論やら精神論がまかり通る古い体質がいまだに残っているというのが驚きだ。ましてや、指導者が選手を管理して統制し、さらに制御する育成の仕方が横行しているというのが情けない。

根性論や精神論を用いて、選手を管理して制御する方法で育てるという考え方は既に古い。今は、普遍的で正しい科学的な手法で選手を育成するのが主流となっている。そうしないと選手たちが納得しないし、成果が上がらない。昔の選手なら、トレーニングをする理由とその効果を科学的に説明しなくても、コーチを信じて従っていた。しかし、現在の若者や学生は、徹底した客観的合理性の教育を受けてきているから、科学的な根拠を示さないと自ら頑張ろうとはしない。半信半疑でトレーニングを受けても効果がないのは当然だ。

それなのに、今まで根性論や精神論でやってきたし、それしか教えられていないから古い理論を踏襲していると、選手たちはまったく付いて来なくなる。その為に、力で無理やり従わせようとして、パワハラになるのであろう。下手なコーチは、選手が自分の命令に従わないと、ついつい暴言や暴力で選手をコントロールしたがるものだ。育成される選手たちの心は、コーチから益々離れてしまう。そして、パワハラはエスカレートするのである。

それではすべて客観的合理性があり科学的根拠のあるトレーニング方法にするとよいかというと、それでは選手は成長しないに違いない。何故なら、体力・能力・技術というのは、あくまでも育成される選手のメンタルモデルに問題がないという前提条件が必要だからである。どんなに先天性の優秀な能力があって、優秀なコーチの技術指導を受けたとしても、メンタルモデルが歪んでいれば選手として大成することはない。謙虚で素直な性格を持ち、しかも自発性や主体性の高い人格を持たなければ、成長がしないからである。

したがって、選手の技能や体力のトレーニングと共に、メンタルモデルを磨く努力も必要となる。それでは、メンタルモデルを磨くにはどうしたら良いだろうか。メンタルモデルを高邁なものにするには、哲学または形而上学が必要だ。人間として何を目指して成長するのかという根本的な価値観を学ぶことである。または、自分がスポーツを通して何を学びどう成長するのかという事とか、どのように生きるべきなのかをスポーツから学ぶということである。そのような視点を持つことをなくしては、一流のアスリートにはなりえない。だからこそ、アスリートの育成には科学と哲学の両方の観点が必要なのである。

メンタルモデルを高品質で正しいものにするには、正しくて清浄なる言動にすることである。ひとつは挨拶や礼儀をしっかりと身に付けることである。正しい言葉遣いをしないと、メンタルモデルは低劣化してしまう。さらに身の周りを整理整頓することと、徹底的に清掃して清浄なる場にすることが大切である。無名だった西脇工業高校駅伝チームを8度の全国優勝に導いた渡辺公次監督は、先ずはトラックをチリ一つなく清掃することを選手たちに教えた。伏見工業高校のラグビー部山口良治監督は、部員にはまずあいさつと礼儀を教えた。無名の済美高校を全国優勝させた野球部監督の上甲監督は、まずは挨拶と清掃を徹底させた。明治大学野球部の嶋岡監督も部員にトイレ清掃をして心を磨かせた。

勿論、選手たちのメンタルモデルを高品質で正しいものに導くためには、挨拶、礼儀、清掃だけでは難しい。指導者は、何故そのような言動を正しくしなければならないのかを、選手たちに科学的な検証を示しながら解りやすく丁寧に説明しなければならない。例えば、主体性・自発性・責任性などの自己組織化を目指す理由、または自らの成長は他からの介入によっては実現しないというオートポイエーシス論などを科学的に説明できなければ、選手たちは納得しない。最先端の科学であるシステム論や量子力学論、または分子細胞学や人体ネットワークシステム論などを駆使しながら、科学哲学の観点から証明する必要がある。そうすれば、科学的に真逆の効果があるパワハラ事件などは絶対に起きる筈がない。一流アスリートの養成には、科学哲学的に正しいトレーニングが必要だ。

 

※アスリートの育成に必要な科学理論、例えばシステム論、量子力学、分子細胞学、人体ネットワークシステム論、宇宙物理学などの研修を「イスキアの郷しらかわ」で開催しています。勿論、社員研修にも活用可能です。さらに、科学哲学の観点からの人材育成についても研修させてもらいます。メンタルモデルの改善、自己マスタリーについても科学的な検証を加えながら講義しています。問い合わせフォームからご相談ください。

ポイズンドーター・ホーリーマザー

湊かなえの小説を読むと、自分の隠し通している嫌な本心を見透かされる気がして、痛いという思いをする人が多いらしい。そんなに痛い思いをするくらいなら、彼女の小説なんて読まなければいい。ところが、その痛さを感じながらも湊かなえの小説にはまってしまう読者が多いという。どうやら、人間というものは、恐くて読みたくないと思いながらも、こわいもの見たさというのか、自分でも触れられたくない闇の自分を覗き見したくなるのではないだろうか。だから、湊かなえという小説家のファンが多いのであろう。

ポイズンドーター・ホーリーマザーという小説もまた、そんな複雑な気持ちの湊かなえファンを惹きつけるのかもしれない。毒親という言葉がネット上で盛んに飛び交っている。自分の親が毒親だったとか、SNSに暴露されている記事によくお目にかかる。圧倒的に多いのが、娘を支配し制御し過ぎる母親という関係である。英語で言うと、ポイズンマザーと言う。ところが、湊かなえさんの今回の小説の題名は正反対のポイズンドーター・ホーリーマザーである。娘と母親の両方の視点から描いた短編小説の傑作集である。

湊かなえという小説家は、世間からはミステリー作家と呼ばれている。告白やリバースなど不可解な謎解きの物語が多く、最後にどんでん返しがあるパターンである。普通の推理小説だと、物語を読み進めて行くと徐々に真犯人を読者が類推できるように描いてある。そのほうが、読者に安心感を持てさせてくれるし真犯人を当てるという自尊心をくすぐる効果が出るからと、作者がヒントを与えているのかもしれない。ところが、湊かなえの小説は最後まで結末が予想さえ出来ないのである。これも彼女の描く物語の魅力である。

ポイズンドーター・ホーリーマザーで描かれている人間関係も複雑で、最後まで真実が明かされない。その結末の意外性に魅力を感じている読者も多いのではなかろうか。湊かなえという小説家は、これだけ人間の深層心理を鋭く描写できるのだから、相当に神経質でいかにも切れ者というような風貌であろうと勝手に想像していた。ところが、その予想は彼女の小説のように見事に裏切られてしまった。TVの山番組で拝見したら、山でよく見かける『山女』そのものであった。実に優しそうで話がよく解るという人柄が滲み出ている、素敵なおばさまであった。

そんな心優しい彼女がどうしてこんなにも悲惨で心が折れるような結末を描けるのかというと、彼女なりの使命感を抱いて小説を世に出しているからであろう。彼女の小説を読んで、少しでも読者が何らかの学びや気付きをしてほしいと願って、湊かなえは物語を紡ぎ出しているようだ。世の中に対する、強烈なメッセージを小説の中に込めている。勿論、そんなことを読者は感じていない。純粋に物語を楽しんでいるだけである。湊かなえは教訓めいた言葉は一切小説には記していない。しかし、彼女の小説を深読みすれば意図しているメッセージが解るようになっている。すごい仕掛けだと、えらく感心する。

湊かなえが小説を書き続ける目的は、とても生きづらいこの社会においてさえも、生きる勇気を持つ術を読者に与えることだと思う。児童心理学的観点から、現代の子育てにおける様々な問題点があることを描き出している。そして、その育児における偏りによって子どもの正常な精神発達が阻害されていることを暗示している。しかし、親たちはその育児における過ちを気付いていない。子を愛するが故に起こしている過ちであるから、親を責めることは出来ない。その誤った子育てによって苦しんでいる子どもが、親の過ちに気付いて、親を許し受け容れてこそ立ち直ることが可能であることを描いている。

生きづらさを抱える原因は、親の子育てや学校教育における誤謬にある。そして、その誤った教育により、自我人格の芽生えさえなくて青春期を迎える若者がいる。また、自我人格が芽生えても、あまりにも自我が強過ぎて自己人格との統合が出来ずに大人になってしまうケースが非常に多い。そんな親子の姿を湊かなえは描き続けている。彼女の小説を読んで、自分が自己人格の確立がまだ出来ていないということを気付いてほしいと湊かなえは思っているに違いない。自分の醜い自我人格をないことにして、仮面(ペルソナ)で隠し通して生きづらさを抱えて生きる愚かさに気付いてほしいと小説を描き続けていると思われる。ポイズンドーターやポイズンマザーがこの世から居なくなることを願いながら。

 

※ポイズンマザー(毒親)によって苦しんでいらっしゃる方、またはご自分がポイズンマザーやポイズンドーターではないかと疑い、辛い人生を歩んでいらっしゃる方々の支援を「イスキアの郷しらかわ」がさせてもらっています。どうしてポイズンマザー・ポイズンドーターが生まれるのか、どうしたらそれを乗り越えられるのかを詳しく学ぶことができます。是非、問い合わせのフォームからご相談ください。

中高年のひきこもり

ひきこもりの実態調査を国は実施しているが、総数は減少しているという。そんな筈はないと思う人が多いに違いない。本人や家族に確認した訳ではないが、自宅周辺にも何人かのひきこもりがいることが何となく解っている。ひきこもりは増えているという実感があるのに、少なくなっている訳がないと思う人が多い筈である。ひきこもりの実態調査は対象者が若者だけである。ひこもりの若者が、その状態のまま中高年になっているから、調査結果のひきこもり該当者総数が減少しているだけであり、全体の総数は変わりないか増えていると思われる。

それで厚労省では、今回は中高年者のひきこもり実態調査をすることになったということである。今までは、10代から30代を対象とした調査であったが、今回の調査対象は40代から60代までの中高年にしたという。中高年のひきこもり者数が多いと感じた厚労省が、このまま見捨てておけないと、ようやく腰を上げた形である。若い頃にひきこもってしまって、その後ずっと社会復帰できずに中高年になってしまったケースが多いと思われる。このままでは、親が要介護になり施設に入所したり鬼籍に入ったりすれば、一人きりになってしまうひきこもりが多くなってしまう。

それでは、中高年のひきこもりの実態を明らかにして、それから国としてどうするのかというと、明確なビジョンはないらしい。とりあえず実態を調査してから、考えようとしているみたいだ。実態調査もそうだが、場当たり的な対応だとしか思えない。おそらく、正確な中高年のひきこもり者数の把握は難しいと思われる。それでなくても、子どもがひきこもりしていることを、恥ずかしいからと親はひた隠しにしていた。正直に子どもがひきこもりだとは、なかなか認めたがらないのではないだろうか。原因も解らず、その有効な対応策も見いだせないのだから、手の打ちようがないだろう。

中高年のひきこもりも含めて、何故そうなるのかという詳しい分析を、行政はまったくしていない。今までは、困った状況であるという認識はあったものの、原因の分析と解決策の検討はしていないのである。今回の中高年のひきこもり実態調査をしたとしても、有効な解決策を立てるのは難しいに違いない。何故ならば、ひきこもりの本当の原因を探り当てるのは到底出来そうもないからである。おそらく、ひきこもりの原因は、当事者の性格や気質、または何らかのメンタルの障害によるものだと結論付けるからである。そして、そうなったのは親の子育ての間違いだと考えているからである。

ひきこもりの原因は、当事者とその親にある訳ではない。全然責任がないとは言わないが、どちらかというと社会全体にあると見るべきであろう。つまり、社会システムの不備や不具合こそが、ひきこもりという社会問題を起こしていると考えなくてはならない。教育システムの誤謬、社会における間違った価値観、企業における経営哲学の不具合、そして各種コミュニティにおける関係性の劣化、そういう本来のあるべき姿からの乖離こそが、ひきこもりという問題を起こしているのである。不登校という問題も同様である。

とすれば、この社会システムにおける歪みを本来あるべき姿に正さなければ、ひきこもりや不登校が解決できないかと言うと、けっしてそうではない。間違ったり歪んでいたりする価値観や哲学によってこの社会が形成されていることを、まずはしっかりと認識することが必要である。そのうえで、社会に適応しにくくなっているのは、自分こそが正しいからだということを知ることである。自分の性格や気質が悪いからだとか、自分に適応能力がないからだという自己否定感を払拭しなければならない。そして、そのように育てた親に対する反発、恨みを持つことを止めることである。

明治維新以降に、富国強兵を進めるには欧米の近代教育が必要だと、客観的合理性の教育観を取り入れた。このあまりにも行き過ぎた客観的合理性の教育は、人々に個人主義、利益主義、競争意識を植え付けて、自分さえ良ければいいんだという利己主義を強化した。故に、他人に対する優しさや慈しみという感覚を捨てさせ、社会に対する貢献意識を無くしてしまった。当然、お互いの関係性を希薄化・劣悪化させ、家族・地域・企業などのコミュニティを崩壊させてしまった。この客観的合理性、言い換えると要素還元主義にシフトし過ぎた価値観の間違いを認め、正しい全体最適と関係性重視の価値観を認識することが必要である。この正しい価値観を親子ともども認識して、少なくても家族というコミュニティが再構築されれば、ひきこもりや不登校という問題は解決に向かうであろう。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、中高年のひきこもりの解決をサポートしています。どうして「ひきこもり」をしてしまうのかの本当の訳、その解決策についての講座を開催しています。正しい価値観を学ぶと共に、間違っているこの社会にどのように対応していくのかを、ていねいに説明しています。まずは「問い合わせ」でご相談ください。ひきこもりの当事者だけでなく保護者に対する支援もしています。

産み育てることを自ら拒否する親

LGBTの方たちを生産性のない人たちと断言して、内外から大きなバッシングを受けた杉田氏という女性国会議員がいた。所属する自民党からも苦言を呈されたようだが、本音においては、LBGTを批判的に見ている保守系議員は多いのであろう。普段から仲間内の会合では、LGBTを批判する会話が日常的にされているのではないかと想像する。だから、あんな発言になってしまったのであろう。自ら進んでLGBTの生き方を選択したのではなく、その道しかなかった方々から見たら、許せない発言であろう。

しかし、誤解を受けずに言えば、あの発言は許せないものの、考え方としては共感する部分がない訳ではない。LBGTの方ではなくて、自ら進んで子どもを産まないし育てないという選択をしている夫婦がいる。母体が出産と育児に耐えられないという事情があるケースなら仕方ないが、自分たちの人生を楽しむ為に敢えて出産・育児をしないという夫婦が増えているのである。共働きで子どもを産まないという選択をする夫婦を、DINKSと呼ぶ。このDINKSを選択することは、社会的に見たら果たしてそれでいいのだろうかという疑問を持つのである。

子どもを産んで育てながら働くというのは、かなりの難しさと制限を夫婦共に要求されてしまう。日本の働く環境は、けっして良くない。特に共働きの女性にとっては、子育てする環境が整っていないからだ。東京医大の入学試験で、女性の試験結果を不正操作した事件があったが、子育て中の女性の職場環境が不整備だからであろう。そういう働く環境だから、DINKSを選択せざるを得ないというのも理解できる。だとしても、すべての女性が生み育てないという選択をしたらどうなるであろうか。それではサステナブル(持続可能)な社会が実現しなくなってしまうのである。

人間には、いろんな考え方や生き方があっていいと思う。生み育てないという生き方を選択してもいいだろう。ただし、それが自分にとって損か得かという基準で選択するのはどうかと思う。自分の利害だけで、生み育てない生き方を選ぶというのは感心しない。自分が社会に大きな貢献をするとか、それが自分にしか出来ないという事情があるので、どうしても出産する訳にはいかないというなら仕方ない。夫婦だけで人生を楽しむのに、子どもは要らないという身勝手な理由なら、許されないと思う人も多い筈だ。

子どもを生み育てないという選択が、社会的損失だということからあの女性国会議員が、生産性がないと批判した。しかし、それは非常に軽薄な考え方であろう。それよりも、子育てをしないことによる損失は、経済的な側面の目に見えるものだけではない。それよりも、もっと大切なものが失われることを忘れてはならない。子育てを実際に真剣に行った親ならば、それが解るに違いない。子育てによって、親が大きく成長させられるし、子どもが心身共に成長する姿を観る喜びを享受できる。子育てというのは、親子が共に学び気付かされることが多いのだ。

子どもを育てる経験をしないと人間として一人前に成長しない、なんて乱暴なことは言わないが、子育てを体験しないと学ぶことが難しいことが沢山あるのは事実だ。学べることの中で大切なひとつとは、母性愛というか慈悲愛である。子育てをしなくても、母性愛や慈悲愛を発揮できる人がいない訳ではないが、極めて稀である。慈悲の愛とは、相手の悲しみを自分のことのように感じて慈しむという愛である。我が子は目に入れても痛くないという比喩の表現があるが、これは実際に子育てしなければ実感できない。幼い我が子の鼻が詰まって苦しんでいる時に、その鼻の孔に口を押し当てて、鼻汁を優しく吸ってあげられるのは親しかいないであろう。不潔だとか気持ち悪いという感情よりも、我が子を想う心が優先する。自分も躊躇することなく、我が子の鼻汁を何度も吸ってあげた。このような行為を通して、慈悲の心が育つのである。

子育ての経験においては、辛いことや苦しいこと、そして悲しい想いをすることが多い。しかし、そういう苦難・困難を経験するからこそ、人間として一回りも二回りも成長するのである。そして、そのような苦難・困難を乗り越えた時の喜びも大きいのである。子どもは、親を選んで生まれてくるというのは、胎内記憶の科学的検証から間違いないらしい。何故、親を選んで生まれて来るのかというと、選んだ親と共に苦難困難を経験して、それを乗り越えて自己成長する為だと、胎内記憶を残している子どもは断言する。ということは、自ら出産と子育てを経験しないと選択してしまう夫婦は、自己成長をするチャンスを自ら放棄しているということになる。そんな挑戦権を自分から捨てるというのは、実にもったいないことである。