医療が発達してるのに病人が増加する不思議

これだけ日進月歩している医療技術があるのに、病人が一向に減らずに、逆に増加しているということを不思議だと思う人は、どれだけいるだろうか。西洋の近代医療は、着実に進歩し続けている。診断技術は格段に進化している。X線診断撮影装置がなかった時代は、触診と聴打診、問診や脈診、顔色などで診断をしていたのである。レントゲン撮影が可能になり、内蔵や骨の状態まで確認できるようになり、そしてCTスキャンやMRIによる診断に進み、さらには核医学診断やPETまでが出現するに至っては、確定診断技術は飛躍的に進化したと言える。

血液や尿などの検査技術も発展したし、超音波診断装置は極めて鮮明な画像診断を可能にし、内視鏡による診断と治療は格段の進歩を遂げてきた。診断技術だけではとどまらない。薬物治療は、抗生物質という夢のような薬剤が開発されて、あらゆる感染症の重症化や術後感染を防ぐことが可能となった。抗がん剤や抗精神薬や抗うつ剤など、画期的な薬剤開発がいくつも成功している。さらには、手術などの治療技術は、特に発展を遂げている。よほどの転移をした末期がんでない限り、かなりの成功確率で手術が可能になっている。

これだけ医療技術が発展しているにも関わらず、病人は一向に減らないのである。医療技術が向上すれば、それだけ医療費が嵩むというのは理解できるが、病人が完治すれば患者数は減るはずなのに、実際は患者数も増えているのである。ということは、近代医療技術の発展は、患者を減らすことは出来ないし、逆に増やしているという結論になる。いや、診断技術が上がって今まで見つけられなかった疾病を見つけられるようになったと主張する人もいよう。さらには、今まで助からなかった患者が医療技術の進歩により長生きできるようになったと言う人もいるだろう。果たして、その通りだろうか。

全国広しといえどもたった一人の医師だけが、患者さんを劇的に減らしている。その医師とは、既に現役をリタイアしているが、真弓定夫先生である。医大卒業後に病院の勤務医をしていたが、自分が理想としている医療とは程遠い現実に嫌気がさして、小児科医院を開業した。開業当時は、押すな押すなの大盛況で、待合室は溢れんばかりであったという。評判が悪いとか、治らないからという理由ではない。患者さんが完全に治癒するばかりでなく、その後は永久に再発もせず、ましてや他の病気にならないからである。したがって、開業して何年か経つと、患者さんは激減してしまったのである。

しかし、真弓先生の評判を聞いて、小児科の患者さんだけでなく、全国から一般の大人の患者さんも訪れているので、経営が困難になるほど少ない訳ではない。先生の医院には、薬も注射も置いてない。すべて、食事や暮らし方、そして精神の持ち方などの生活指導だけの治療で劇的に病気を治す。いや、『治す』という言葉は相応しくない。患者自らが治すのであって、真弓医師はその患者さんの治す力を引き出す手伝いをしているだけである。適切な食事と運動、そしてストレスの解消などで病気が自然に治るという。

真弓先生の食育はごく単純な理論であり、誰でも実践が可能である。日本人のDNAに合った、伝統的な和食を勧めている。真弓先生が絶対に摂ってはならないと強く指導しているのは、牛乳と肉である。病気がちだった乳幼児と少年たちが、牛乳と肉食を止めることで、病気にならない強い身体になったらしい。牛乳は元々牛が成長するためのものであり、人間が常時飲むものではないという主張である。動物の体温は常に37度以上あり、それを人間が食べると血管が詰まるという単純な理由からであるという。つまり、自然の摂理に従った食べ方と生き方をすれば、自然治癒力が向上し病気にならないと言うのだ。

医療経営というのは、常に重大なパラドックスを抱えている。病気を治すのが医療機関であるが、完全に治してしまえば医療経営は成り立たない。医薬品製造会社も、完全に治す薬品を作り続ければ、薬品会社の経営は破たんする。精神科医療の経営者は、精神薬を投与し続けなければ経営が行き詰ることを承知している。意識的に、医療機関や薬品会社は病気を治さないようにしているなどと乱暴なことを言うつもりはない。しかし、現実にそういうことが起きているということを、国民は認識すべきであろう。真弓定夫先生のような本物の先生が増えてくれば、病気にならない幸福な人生を歩める人が増えるに違いない。

禅寺の修行でアレルギーが治った?

アレルギー患者が禅寺で修行すると、その辛い症状が治まってしまうという驚きの結果が現れているという。その注目されているお寺とは、神奈川県川崎市鶴見にある曹洞宗の大本山總持寺である。ここでは若い修行僧である雲水が日々厳しい修行を続けている。禅寺の朝は早い。早朝3時から起きて座禅やお掃除などのお勤めをする毎日である。質素な食事と厳しい修行は、贅沢な食生活を送ってきた若者にとっては、相当な苦難の日々であろう。しかし、何週間かその辛い修行を続けているうちに、アレルギー症状が緩和されるという。個人差はあるものの、徐々に症状が和らいできて、しまいには殆どなくなるというから不思議である。

三大禅宗のひとつである曹洞宗は、道元禅師が始祖とされる仏教の宗派である。福井県に大本山永平寺があり、能登にも總持寺祖院がある。石川県能登の總持寺が消失したのをきっかけにして、現在の鶴見に建立されたのが大本山總持寺であると伝えられる。禅寺の食事は、ご存知のように精進料理である。野菜と胡麻豆腐、そしてごくわずかなお粥だけである。成年男子が必要とされるエネルギー量にはほど遠いカロリー量だという。無用な外出は禁じられ、食事の他におやつや菓子などは食べられない。この精進料理こそが、アレルギー症状を緩和してくれる救世主ではないかと見られている。

精進料理はそれこそ、ゴボウ、大根、ニンジン、青菜などの繊維質の豊富な野菜と胡麻豆腐、そして米が原料である。肉、魚は摂取できない。この精進料理の食物繊維がアレルギーを治してくれるのではないかとみられている。最近になって、さらに進化した最新医学研究によって、腸の働きがアレルギー症状を軽減してくれることが判明してきた。腸内細菌が免疫を正常にしてくれるらしい。アレルギー疾患や免疫異常が最近特に増えているのは、腸内細菌が異常になっているからではないかというのである。

最新の医学研究によって、腸内細菌の中のひとつクロストリジウムという菌が注目されている。このクロストリジウムという菌が少ないとアレルギー疾患や免疫異常を起こしやすいということが解ったからである。このクロストリジウム菌が少ないと、免疫を制御する働きを持つ制御性T細胞というものが作られなくなる。そうすると、免疫細胞が暴走してしまい、免疫異常を起こすというメカニズムがある。この制御性T細胞は、通称Tレグと呼ばれる。Tレグが作られないと免疫の暴走が止められないというのである。

実は、アレルギー疾患の患者さんと免疫異常の疾患を起こした患者さんの便を検査したところ、共通していたのはクロストリジウムという腸内細菌が殆どなかったという事実である。さらに驚いたのは、修行前にはクロストリジウム菌が少なかったアレルギーを持つ雲水たちが、驚くことに修行後はこのクロストリジウム菌が増えていたのである。つまり、クロストリジウム菌が精進料理によって増えて、免疫を制御するに充分なTレグが作られたということが検証されたのである。それによってアレルギー症状が改善したのである。

何故、こんなにもアレルギー疾患や免疫異常の疾患が増えたかと言うと、食事の欧米化と食生活の乱れであろう。自己免疫疾患と呼ばれる、リウマチ、膠原病が中高年女性に増加している。免疫の暴走は、クロストリジウムの減少が起きて、Tレグが作られなくなったからだということが判明した。腸内細菌を正常にすれば、自己免疫疾患だって良くなる可能性があるという喜ばしい情報がもたらされたのである。それじゃ、精進料理を毎日食べたら、アレルギー疾患と免疫異常の疾患が治るかと言うと、そう単純なものではないだろう。他の食生活や生活習慣、またはストレスもおおいに関係しているに違いない。

雲水の修行生活では、まず便利な生活ではなくて不便を強いられ、毎日自分達で掃除して料理を作り座禅をする。修行そのものはストレスでもあるが、慣れてきてそれがクセになればストレスではなくなる。座禅は、マインドフルネスという唯識を実践するから、これもストレス解消になる。さらには、ファストフードやジャンクフード、化学薬品や食品添加物からほど遠い生活を余儀なくされる。腸内細菌が喜ぶものしか身体に入らない。こんな生活を普段からできたとしたら、アレルギー疾患や免疫異常の疾患が緩和されるに違いない。試してみる価値はあるだろう。

※イスキアの郷しらかわでは、完全な精進料理ではありませんが、それに近い健康的な食事を提供しています。オーガニックで無農薬のお米と野菜を使った自然食です。おやつも自然食ですし、回りにはコンビニもありませんから、滞在中は修行僧と同じような食生活になります。アレルギー疾患や免疫異常の疾患で苦しんでいらっしゃる方は、是非1週間程度の滞在をお勧めします。天然の山菜料理も提供いたします。親戚の者に山菜を送って食べてもらったら、アレルギーが改善されたと喜んでいました。

心はどこにある?

心は人間の身体のどこにあるのか?と問われて即座に答える人が圧倒的に多い部位は、左胸の部分であろう。心臓の部分を指して、心はここにあると答えるのは昔からのならいである。科学的な考察によると心臓には心がないということが解り、脳が感情や思考を作っているということが判明してからは、さすがに心は心臓の部分にあると示す人は少なくなった。しかし、そういう科学的なことが判明してもなお、心は胸にあると示す人が少なくないのも不思議なことである。

さて、それでは心は脳にあるのだろうか。先ほど述べたように、思考、記憶、感情、本能は脳に由来するのは間違いなさそうである。とすれば、心は脳にあるとするのが正しいのであろうか。江戸時代以前には、心は丹田(臍の下部分)にあるという漢方医が多くいたようである。解剖学的に観てそのように主張していた訳ではなく、経験的に丹田に心があるに違いないと思っていたようである。漢方では、丹田の働きを重要視していた。心の在り場所は、胸、丹田、脳の三か所のうちどれかひとつであるのだろうか。

心の在り場所が胸と丹田であると言われてきたが、近代以降は科学的にあり得ないと思われてきた。けれども、最先端の科学的に観てもあながち間違いではないことが解明されてきた。つまり、丹田である大腸の部分では、人間の感情を支配するセロトニンという神経伝達物質が作られているということが判明した。また、丹田の温度を上げたり下げたりすると、感情や思考が影響を受けるということが解明されつつある。また、感情の起伏が心臓の機能を左右して、それが脳や他の臓器にも指令を出すということも解ってきたようだ。

最先端の医学と科学は、さらにすごいことも解明してきた。今までは、身体の各臓器と組織へのすべての指示命令は脳を通して行われているものと思い込んでいたのであるが、それがまったく違うということが解明されたのである。心臓は勿論、肝臓、すい臓、腎臓、脾臓、さらには大腸・小腸までもが、それぞれに独立して各臓器に指示命令を出していることが解ったのである。さらには、筋肉組織や脂肪細胞までもが、自分で判断して各臓器に指示命令をしていることも解明されつつある。驚くことに、身体の各臓器や各組織だけでなく各細胞までもが、自己組織性を持つということが証明されたのである。

言い換えると、各臓器や各組織、そして各細胞が、主体性と自主性・自発性を持つと共に、責任性を持ってお互いに協力し合いながら、人間全体の為に過不足なく働いているというのだ。ということは、『心』は脳だけでなく、心臓、肝臓などの各臓器、筋肉などの各組織、そして各細胞に存在するということになる。つまり、人間の身体全体に『心』が在るということだ。この人間の身体全体のネットワークは、寸分違わず働き続けている。しかし、時折このネットワークは誤作動を起こす。それが疾病であるとも言われている。

人間全体の心は実に複雑であり、いろんな機能を発揮する。そして、人体の全体に存在する心はどちらかというと無意識の心である。無意識のうちに、人体全体の最適のために働き、それぞれが深い絆とつながりを持って協力しながら活動しているのである。あたかも、人間が社会全体の最適化の為に働き、人間どうしが深い絆とつながりで結ばれ、お互いに支え合って生きているようなものなのである。本来人間とは、自分だけの幸福を求めるようなことはせず、社会全体の幸福を目指して生きるようになっている。人体にある心もまた、無意識でそのような働きをしている。

ところが、時折人間というものは自分の豊かさと幸福だけを求めて生きてしまう性(自我)を持っている。こういう自我(エゴ)に基づいた行動をしてしまうのが人間の悲しさでもある。このような行動をすると、人間は誰からも相手にされず、敬愛されることもなく、孤独になる。つまり、関係性を失い社会から抹殺されるか見放されてしまうのである。そして、無意識の心である身体の働きと違った行動をしてしまうことで、心と身体の動きが乖離してしまい、誤作動を起こしてしまうのである。これが病気である。人体全体に存在する心と同じように、我々は全体最適(全体幸福)を目指して、生きなければならないと心得たい。

医療は総合・統合の時代へ

診断及び治療における医療技術の進歩は著しいものがある。それは、近代医療がもたらしたものと言って差し支えないであろう。最先端の診断用機器の開発や診断技術の進化は、驚くほどの正確さで確定診断が出来るようになった。医療技術の進歩は目を見張るものがある。それはある意味では、専門性が増したことによる恩恵であろう。内科系・外科系というようなあいまいな診療科目ではなく、こと細かく細分化されて、臓器や組織、疾病ごとの専門医が養成されてきた。つまりスペシャリストが生まれ、診断や治療の成果をあげてきたのである。

それぞれ医療界のスペシャリストとして、優秀な頭脳と技能、そして経験を身に付けたドクターは、どんな患者さんの診断・治療も可能になったかというと、実はそうではないことを医療界は認識することになったのである。専門医がそれぞれの分野において診断できない場合は、違う分野の医療スペシャリストと連携して確定診断を行うことになる。しかし残念なことに、専門医どうしの連携だけでは、確定診断が難しい症例が極端に増加してしまったらしいのである。それぞれの専門医が診断しても、なんの疾病なのか、そしてその原因が一向に解らないという症例が激増しているというのである。

その為に最近の医療界では、総合診療科が出来たり統合医療という分野が発生したりして、診断と治療を行うようになったのである。言わば医療のゼネラリストである。優秀な専門医がどうしても解明できなかった疾病名や原因が、総合診療科の医師たちが明らかに出来たのである。または、専門医とは別に統合医と呼ばれるドクターが、診断と治療に多大な成果を上げているのである。勿論、専門医たちも治療においては大きな成果を上げているのは間違いない。しかし、確定診断と疾病原因が解明出来なければ、治療計画も組めないし、再発の恐怖から逃れられない。

どうして医療界において、スペシャリストだけでなくゼネラリストが必要になったかというと、それは人間の身体、つまり人体が『システム』だと気付いてきたからである。人間そのものは、システムである。60兆個もある細胞がそれぞれ自己組織性を持っていることが判明した。つまり、細胞ひとつひとつがあたかも意思を持っているかのように、人間全体の最適化を目指して活動しているのである。そして、細胞たちはネットワークを組んでいて、それぞれが協力しあいながら、しかも自己犠牲を顧みず全体(人体)に貢献しているのである。

これは、細胞だけでなく人体の各臓器や各組織が同じようにネットワーク(関係性)を持っていて、全体最適の為に協力し合っていることが、最先端の医学で判明したのである。つまり、人体は脳が各臓器や各細胞に指令を送っているのではなく、それぞれが主体性と自発性を持って活動していることが解明されたのである。完全なシステムである人体が、どこかの各細胞や各臓器が誤作動を起こせば、それが人間全体に及び疾病が起きるということである。ということは、人間そのものの生き方が全体最適と関係性を忘れたものになると、細胞や各臓器などが誤作動を起こしやすくなるという意味でもある。

医療が専門性を発揮し、疾病だけを診て人間全体を観ていないというのは、まさに樹を見て森を見ずというようなことと同じであろう。人体そのものだけでなく、その人間の置かれた環境や育ち、特に家族との関係性などを詳しく知らないと、疾病の原因が解明できないと思われる。人間全体を観ないとそのエラーと原因を特定できないということなのである。特に大切なのは、その人間の生き方の根底となる価値観が低劣で劣悪化すると、人間という『システム』に反する言動をしてしまうという点である。人体システムの在り方と生き方そのものが矛盾を起こすと、人体の誤作動が起きると言えないだろうか。

メンタルの障害における原因究明は、非常に難しい。だからこそ、他の身体的疾病と比較して完治や寛解が著しく少ないという結果にも表れているのであろう。脳科学的や神経学的に、神経伝達物質の誤作動や極端な分泌異常がメンタル障害を誘発することは解っていても、その誤作動が起きる真の原因は残念ながら掴めていないのである。人間は『システム』だということを認識することで、原因が解明できるのではないだろうか。全体最適、つまり社会全体に貢献するという目的をしっかり持つための価値観を持てないと、人間の精神は誤作動を起こすのである。しかも、関係性を大切にしなければならないという生き方を実践しないと精神は破綻を起こすのである。幾何学的に精神疾患が増加しているのは、システム思考の哲学である、全体最適と関係性の哲学が希薄化し低劣化したせいだと言える。精神科医のゼネラリストであれば、そのことに気付いてもらえるのに、実に残念なことである。

パラドックスを抱えた医療制度

医療技術は日進月歩という状況を呈している。診断技術も日々進化しているし、驚くような新薬や注射が開発されている。これだけ医療が発展しているのだから、さぞや疾病に罹患する割合は激減しているに違いないと誰でも思う。しかし、不思議なことに有病率は年々増加しているし、一度罹患してしまうと完全治癒するケースが非常に少ないのである。これだけ医療の診断技術や治療技術が発達して延命率は高くなっているのに、どうして完治率だけが低いのであろうか。

 

勿論、ケガや外科的な疾患、さらには一時的な炎症性の疾病の治癒率は高い。生活習慣病などを扱う内科、または精神科領域の疾病の完治率は低い。患者本人の完全治癒のための努力が足りないという面があるとしても、これだけ医療が進化しているのにどうして完治しないのかが不思議である。慢性疾患は治りにくいものだとしても、これだけ薬品や治療技術の研究が進んでいるのに効果が出ないというのが解せない。

 

このような医療界における不思議な状況が起こるには、何か訳がありそうである。あくまでも想像ではあるが、例えば慢性疾患であっても完治させる画期的な薬品を完成させたとしよう。しかも、その薬品は完治させれば二度と服用しなくてもよいものだとする。そうすると、薬品会社の売り上げは一時的に伸びるが、やがて減少してしまう。新規に罹患した患者は使用するが、完治した患者は使用しないのだから、どうしたって売り上げが減少していく。このように完治する薬は一部の例外を除いて、まったく開発されていないのである。

 

現在投与されている慢性疾患の薬品は、殆どが症状を抑えるものであり、一度飲み始めると一生飲まなくてはならなくなるものが多い。精神科の薬も同じようなものが多い。薬品会社にとっては、完治させる薬を開発したいが、そんな画期的な薬をしまうと売り上げが落ちるし、会社の存続も危うくなる。このようなジレンマが存在するのである。また、医療機関と開業医師も同じである。患者を完治させたいが、完治させてしまうと経営的に行き詰るというパラドックスを抱えているのである。

 

医療機関の経営、そして薬品会社の経営を優先させているが為に、患者の完全治癒を拒んでいるなどという乱暴なことを言うつもりはない。そんなことを考えている薬品会社の役職員や病院経営者がいる筈がない。しかしながら、これだけ完治率が低いというのも不思議だ。通常のビジネス世界では、顧客満足度を限りなく高めることを優先する。顧客の幸福や豊かさを追求し、ビジネスを通して社会貢献に寄与することで、企業の収益も向上する。ところが、医療ビジネスだけはクライアントである患者の健康と幸福を追求すればするほど、ビジネスとして成り立たなくなるのである。こんな矛盾やパラドックスを抱えて経営しているのは、医療関連事業だけである。

 

こういうパラドックスを医療が抱えているということを、マスメディアはあまり取り上げない。本来こういう矛盾を抱えているからこそ、第三者的立場の審査者が適正な医療が実施されているのか、公平な目で審査をするべきであろう。しかし、現代の医療を審議しているのは、厚労省や社会保険診療審査会などに所属する医師である。当然、同じ職業である医師が同じ立場の医師に対して厳しく審査することに及び腰になるのは仕方ないことであろう。ただし、患者の完治を目指して全力を尽くして、減薬や断薬を指導している医師もいる。投薬・注射をなるべくしないで、生活指導や心理療法を多用して、患者の完治をすべく努力を怠らない医師もいる。しかし、残念ながらそういう医師は極めて少ないのである。

 

保険診療制度も悪い。投薬・注射をしないで、生活習慣を改善するように時間をかけて指導しても、収入には結びつかない制度になっているのである。精神科の医療も、時間をかけてカウンセリングや心理療法をしても、収益向上には繋がらない。完全治癒が少ないというのが、こんなことが原因になっているとしたら、患者ファーストでない医療制度だと言わざるを得ない。完全治癒に対する多額の成功報酬を医療機関に与える保険診療制度を確立出来ないだろうかとも思う。そうすればこんなパラドックスを少しは克服できるかもしれない。