サプリや漢方薬でも長期飲用は避けたい

サプリメントや栄養補助食品が巷では大人気である。医薬品は絶対に飲まない主義の人たちでも、あまり抵抗感がなくてサプリや栄養補助食品だけは飲む人が多い。また、西洋薬品は飲まないが漢方薬なら副作用も少ないからと、安心して飲んでいる人も少なくない。さらに、ホメオパシーやバッチフラワーなどで用いられるレメディなら安心安全だとして、飲んでいる女性も多く存在する。その場合、気を付けなければならないことがある。これらの薬もまた、西洋薬と同じように長期連用することは、副作用等の危険性があるという点である。

サプリや栄養補助食品、漢方薬、レメディなどは、副作用がない、または極めて少ないと思われている。しかし、そんなことはけっしてない。漢方薬による深刻な副作用で苦しんでいる人だって少なくない。または、サプリや栄養補助食品を長期連用した副反応によって、人間本来の機能を低下させてしまった人も多い。レメディに依存し過ぎてしまい、毎日のように使用しないと不安になって過ごせないような人もいる。そもそも人間または人体というのは、完全な自己完結のシステムである。外部から介入や干渉をしてはならないのである。

人体というシステムは、本来は自然に添った生き方や生活習慣をしていれば、健康で長生きする。病院に行く必要もないし、薬も飲む必要もない。勿論、正しい食生活をしていれば、サプリや栄養補助食品だって摂取しなくてもよい筈だ。ところが、日本人の食習慣も含めた生活習慣全体が乱れている。運動不足もあるし、ストレス解消もあまり上手でない。生活環境も悪化しているし、農薬や化学肥料を多用した農産物が多い。食品添加物が大量に含まれている食品を食べているのだから、健康を損なうのも当然なのかもしれない。

正しい食生活や生活習慣をしていれば病気にはならないのに、間違った生活習慣という身体に対する悪い介入をやり続けていると、人間は病気になる。その際に、臨時的に薬やサプリなどを使用して、緊急避難的に健康を取り戻すのは必要なことであろう。しかし、それはあくまでも臨時的な措置であり、長期間に渡り投薬を受けたりサプリを長期飲用したりするのは避けたいものである。それよりも、食生活を含めた生活習慣を見直したほうがLOHASだと言える。適切な運動と休養を取り入れ、そしてストレス解消をすれば、健康を保てる。

ただし、このストレス解消という点が難しそうである。現代社会は高ストレス社会である。家庭でも職場でも対人関係ストレスが多大である。しかも、ストレスが積み重なってしまい、もはやトラウマ化しているのである。ストレスからトラウマ化してしまうと、いくら医学的アプローチをしても治癒することは期待できない。漢方薬やサプリメントを使用しても、トラウマは解決できない。さらにアロマエッセンスやレメディを使用しても、トラウマを乗り越えるのは極めて難しい。トラウマによって迷走神経が暴走して、シャットダウンを起こしているのだから、どんな医薬品やサプリを飲んでも治ることはないのである。

原因不明の疼痛やしびれに対して、サプリメントや漢方薬を長期間に渡り飲用している人がいる。これは、とても危険なことだと思われる。これも迷走神経のシャットダウンで起きている症状なので、どんなに飲み続けても変わることはないし、副作用や副反応が益々強くなってしまうだけである。また、臨時的に飲んで一時的に症状が改善したとしても、元のシャットダウンが解けていないので、すぐに戻ってしまうのである。さらに、整体やマッサージに行っても、一時的に症状は改善したとしても、すぐに元に戻ってしまう。

深刻なメンタル疾患などに対して、いろんなサプリや漢方薬を長期間飲んでいるケースが多く見られる。一時的に多少なりとも症状が緩和されることがあっても、効果は極めて限定的だ。ましてや完治しないのだから、漫然と飲んでしまうことが多い。人間は、自己免疫力や自己治癒力が生まれつき備わっているのだから、漫然と薬を飲んでいると免疫力や治癒力が阻害されてしまうのは言うまでもない。そして、迷走神経のシャットダウンによる症状なのだから、投薬によって完治することはありえない。どんな薬であっても、長期投与は避けたいものである。

病院という環境が治癒を阻害する

病気やケガをしたら、ほとんどの人は病院や診療所に行って診察と治療をしてもらうだろう。自分で治すというのは、ごく軽い風邪や傷ならあり得るが、まずは医療機関に行くに違いない。そして、傷病が重い場合は入院治療となる。その際に、入院した部屋には鍵がかからないし、個室であってもプライバシーを守る術がないというのはご存じだろう。看護師や医師が入室しようとするのを拒むことは不可能である。そして、誰かが無理に入室しようとしても防ぐ手立てはない。つまり、病室というのは防犯上、とても脆弱なのである。

入院して着用が義務付けられる病衣であるが、あれは中身が見えてしまうのではないかと思われる素材と作られ方である。また、病室で聞こえてくるあの雑音には、神経が疲れてくる。他の患者さんのうめき声や話し声、医療関係者の騒々しく走り回る音、エアコンなどの機械音、ストレッチャーや車いすの車輪の回転音、これらの音が24時間聞こえてくるのである。大部屋なんて最悪である。カーテンひとつ隔てた空間で、裸の状態にされることもしばしばある。医療関係者は患者の羞恥心に対する配慮などあまりしない。

さらに、入院すると大量の確約書や承諾書にサインをさせられる。検査や手術の際にも、承諾書が用意される。あたかも、失敗することもあるのが当然だと言わんばかりの事前対応である。これでは患者は安心するどころか、益々不安をかき立てられるに違いない。ホテルと病院を同列に扱うことは出来ないが、ホテルよりも高い入院費をもらいながら、事前のオリエンテーションはいかにもお粗末だ。トイレや洗面所、各種検査や処置室の場所、ナースステーションとナースコールの扱い方、電話や見舞者への対応について詳しく案内されない。

そして、一番我慢がならないのは、医師や看護師の態度である。医師や看護師との信頼関係を築けなければ、安心して治療を任せることなんてできやしない。まずは信頼関係を築くためには、笑顔での十分なコミュニケーションが必要であろう。ところが、病名、病状や治療方針についての紙ベースでの伝達はあるが、言葉で丁寧に患者が安心するように、十分な説明などしてくれない。特に医師は、患者の目を見ずに、PCの画面を見て入力をしながら話している。患者がどんな表情やリアクションをするかなんて、医師には関係ないらしい。

つまり、与えられた入院環境はまったく安心できなくて、不安になる要素ばかりがいっぱい詰まった環境なのである。心が休まる環境ではないのは確かである。これでは、いつも不安感や恐怖感を持ちながら治療を受け続けなければならないのである。しかも、医療関係者と患者との信頼関係は築けないばかりか、不信感ばかりが募るだけである。そもそも、病気になるのは迷走神経がニューロセプションを起こしてしまい、身体が自己防衛反応を引き起こしたからなのである。ニューロセプションという神経による勝手な身体反応は、安全と絆がないばかりに起きた反応だ。安全と絆がない病院環境で良くなる訳がないのだ。

ポリヴェーガル理論という多重迷走神経を基盤にした神経生理学の考え方によると、ほとんどの病気(精神的な疾病も含む)は、古い迷走神経がニューロセプションの働きによって暴走し、引き起こされたものであると言える。その際に、ニューロセプションを起こすかどうかは、安全と絆が確保されているかどうかにかかっているのである。生命が危険にさらされるような緊急事態に陥っても、安全と絆がしっかりと担保されていれば、ニューロセプションは起こらない。ところが、安全と絆がなくていつも不安や恐怖を抱えている人は、容易にニューロセプションが起きて、心身のシャットダウン化を来し病気になってしまう。

一度でも心身にシャットダウン化が起きてしまうと、この状態から抜け出すのは至難の業である。唯一このシャットダウンから抜け出す方法は、絶対的な安全と豊かで信頼できる絆が確保できた時だけである。勿論、一時的に投薬治療や手術・セラピーが必要なのは言うまでもない。安全と絆が確保できなければ、どんな医学的アプローチも無駄になる。だから、病院環境は先ずもって安全であり患者との絆づくりが大事なのである。ここの部分を大事にせず、いくら高度な医療を提供したとしても、病気は完治しない。一時的に寛解したとしても、必ずと言っていいほど再発するのである。病院は安全と絆が確保される環境づくりに邁進することが求められると言える。

ポリヴェーガル理論が医学の常識変える

ポリヴェーガル理論という神経学における画期的な大発見が、今までの医学的な常識を大転換しようとしている。この多重迷走神経理論と日本語訳されている理論は、1994年に米国で発表されて、医学界において圧倒的に支持を受けているが、日本の医学界ではあまり知られていない。既に一部の大学の研究室では認識されているものの、文科省や厚労省は敢えて認めたくないから、無視をしているのかもしれない。なにしろ、今までの医学界の常識を覆す大発見だし、医学的アプローチでは病気が治らないことを証明しているのだから、医療界が認めたくないのも当然だ。

ポリヴェーガル理論とは、米国のイリノイ大学名誉教授のステファン・W・ポージェス博士が提唱した理論である。この世紀的な大発見によって、精神医学界の変革は勿論のこと、医療のイノベーションが起きるかもしれないのである。今までは難治性の精神疾患とされてきたPTSDやパニック障害などが、医学的アプローチではなくても完治するし、自閉症の子どもたちの症状が見事に改善したという実績を上げている。この理論がいろんな症状に応用されたら、糖尿病・高血圧症という生活習慣病も投薬せずに完治するかもしれないのである。

ポリヴェーガル理論の概略について述べたい。今までの医学的常識では、自律神経というのは交感神経と副交感神経があって、それぞれが調整し合いバランスを取って、人体の健康を保っていると考えられてきた。ところが、副交感神経には二つの迷走神経が存在して、まったく別の働きをしていることが判明したのである。ひとつは今まで考えられてきた、腹側迷走神経の働きである健康・調整・交流を司っている神経系統である。ところが、これ以外にある背側迷走神経は、これとはまったく違う驚きの働きをしていることが解ったのである。

交感神経は、生命が危険な状況に陥った際に、闘争するかそれとも逃走するのかを選択する神経である。ところが、闘争も逃走も出来ない状況に追い込まれた動物は、背側迷走神経のスイッチを入れる。すると、死んだように気絶または失神するのである。死んだふりをするとか狸寝入りとか言われている同じ状態である。死んだように気絶した動物を、肉食動物は食べない。死んでいる動物の肉は腐敗しているかもしれないので食べないのだ。何故、動物は気絶するのかというと、失神すると助かるというDNAの記憶がそうさせるのか、それとも気絶していると痛みを感じないから、そうするのかもしれない。

背側迷走神経のスイッチが入って気絶・失神した小動物は、危険な状態が過ぎると体をぶるぶるっと震わせて目覚め、何事もなかったように走り去る。つまり、背側迷走神経のスイッチを入れたり切ったりするのである。ところが人間は、それが出来ない生き物なのである。勿論、危険を察知しての気絶や失神からは抜け出せるが、過大なストレスや生命の危険を感じるような状態に置かれると、自分を守るためにニューロセプションが起きて、背側迷走神経が働き、心身の不動化(シャットダウン)が起きてしまう。そして、そのニューロセプションは自分の意思では止められない。心身の遮断が長い期間続いてしまうのだ。

自分の命の危険を感じて、心身の遮断状態に陥ってしまうと、PTSDやパニック障害などを引き起こす。または、現実と想像の世界が混濁したり意識の解離が起きたりする。妄想性障害、強迫性障害、パーソナリティ障害、統合失調症、うつ病、双極性障害などの症状が起きることもある。神経過敏による身体症状として、三叉神経麻痺、眼瞼下垂、顎関節症、聴覚過敏、しびれ、痛み、めまい、難聴などの症状が起きてしまう。不登校やひきこもりが長い期間に渡り続くのは、この心身のシャットダウンによる影響である。

それでは、どんな人にでもこれらの症状が起きるのかというと、けっしてそうではない。愛着障害が根底にあると、この心身の遮断が起きやすいと言われている。つまり、絶対的に安全な場所や環境があって逃げる処があり、良好で豊かな絆(関係性)があれば、シャットダウンは起きないのである。誰も助けてくれないし守ってもくれなくて、孤独感にさいなまれていると、心身の遮断が起きてしまうのである。一旦スイッチが入ってしまった背側迷走神経が回復したり修復したりすることはないかというと、けっしてそうではない。絶対的な安全と絆が確保されて、愛着アプローチが適切に受けることが出来たら遮断から完治できる。

※この難解で理解しにくいポリヴェーガル理論を、イスキアの郷しらかわでは懇切丁寧に分かりやすく説明します。メンタル疾患に苦しんでいる方やひきこもりの方には、心身のシャットダウンから抜け出す方法をお伝えしています。音楽療法、簡単で長続きする運動療法、ボディーワーク、簡単で優しいヨーガ、等を実際に実施して学びます。

介護されない老後を目指す

介護施設において、短期間で多くの利用者が死傷する事件が起きている。それも、特定の男性介護職員が関わっているのではないかという疑惑に発展している。それにしても、介護施設では高齢者虐待や窃盗事件が多発するようになっている。介護施設で働く職員が過重労働の割に待遇も悪く、評価されないという特有の事情もあると言われているが、明らかになっていない虐待や殺人事件も他にもあるのではないかと想像されている。日本の介護制度に、大きな欠陥や制度設計のミスがあるから、こんな事件が起きるのだろう。

介護される対象者が増え過ぎてしまい、介護に携わる職員が絶対的に足りなくなってしまっているという問題がある。介護職員の定着率が非常に悪く、介護施設や介護組織を渡り歩く転職組が多いし、介護職から離職する人が少なくない。よく言われていることだが、あまりにも介護職員が足りないので、どんな人間でも採用してしまうことから、介護職員の質が低下しているという。介護という職業を自ら希望して選ぶのではなく、消極的な選択として介護職を選ぶしかない人間が多いと聞いている。日本の介護制度が根本的に間違っているから、こんなミスマッチが起きてしまっているに違いない。

そもそも、厚労省が介護保険制度を設計する際に、寝たきりになってしまう高齢者を皆無することが目標だった筈である。ましてや、介護施設で高齢者を介護させる為に介護保険制度を作ったのではなく、自宅で自らの老後を自分の力で健康で暮らすために作った制度である。施設で介護するのは、緊急避難的な措置として必要なケースだけだった筈だ。ところが、実際は本来介護されなくてもいい高齢者を自宅から施設へという流れが起きてしまった。それも、QOLが改善して自宅に帰る人は皆無で、亡くなって退所する人が殆どである。厚労省が予想した介護制度とは、まるっきり正反対になっている。

厚労省だけが悪い訳ではない。高齢者とその家族が、大きな誤解をしているからである。そんなふうに誤解させてしまった厚労省にも責任があるが、国民が勘違いしているのである。高齢者になってしまうと、何らかの障害を持ったり認知症になったりするのは、当然だと思い込んでいるのである。厚労省の役人だって、介護される高齢者、寝たきりの高齢者をゼロにするのは難しいと諦観さえしている。しかし、自分の生活を抜本的に見直せば、要介護や寝たきりになることは予防できるのである。

それでは、介護されない老後を目指すには、どんな生活をすれば良いかというと実に簡単である。まずは、食生活を抜本的に見直すことである。腸内細菌を健康にするような食事にすることが肝要である。出来る限り添加物、農薬、化学肥料の少ない野菜中心の食事にすると、腸内フローラが実現する。さらに、脂肪分、糖分、乳製品、牛肉や豚肉を控えると共に、バランスの良い食事を心がけることが求められる。過食もよくないし、インスタント食品やスナック菓子、ジャンクフードやファストフードを食べないようにするべきだ。

介護されない老後を実現するには、休養や運動などの生活習慣も大切である。特に良質な睡眠を取ることは、認知症予防や高齢者のメンタル障害を防ぐのに有効である。良好な睡眠には、昼間に太陽光を浴びて運動をするのが必要である。認知症を防ぐには、骨に負荷をかける運動が必要不可欠だ。骨に衝撃を加える運動を日常的に実施すると、骨粗しょう症を防止するだけでなく、認知症を予防し、筋肉増強もするし、免疫力を高めることが判明している。つまり、骨にとって少しハードな運動を続けることが寝たきりを予防するのだ。介護されない老後を続けるには、アウトドアのスポーツが最適である。

さらに、介護されず寝たきりにならない大事な予防策がある。それは、精神的なタフさであり、しなやかな心である。つまり、プレッシャーに打ち勝てる心と、ストレスを乗り越えることができる精神の柔軟性である。このような健全な精神性を発揮することが可能になるには、高齢者になってもボランティア活動や市民活動を心から楽しめる価値観を持つことである。他人の幸福を心から願うことが出来て、豊かな社会の実現に自らが進んで尽力できる精神性があれば、身体が健康で元気な老後を過ごせるのである。介護をされずに老後を生きることは、自分の努力次第なのだと認識するべきであろう。

べてるの家とオープンダイアローグ

べてるの家という精神障害者の自立支援施設がある。北海道の浦河町という片田舎にあるこの施設には、世界中の精神保健に携わる多くの人たちが見学にやってくる。先進的な精神障害者の支援をしているからである。支援というと健常者が障害者をサポートしているように思われるが、このべてるの家はまったく違う。障害を持つ当事者どうしが支援しあうのである。さらに障害を持つ人々は、障害を克服することを目標としない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、彼らはあるがままの自分を認め受け入れ、そしてその障害さえも楽しんでいるという。そういう意味では、オープンダイアローグを実践している施設だと言える。

べてるの家では、毎年べてるまつりというイベントを開催している。その中で、幻覚妄想大会が行われ、当事者たちが自分の幻覚妄想を発表しあっている。自分たちが持っている障害を恥じることなく隠すことなく、当たり前のようにカミングアウトしている。障害があることを特別視していない。そして特筆すべきなのは、べてるの家においては三度の飯よりミーティングが好きだということである。毎日のように当事者どうしが集まってミーティングをしている。そしてそのミーティングでは、オープンダイアローグのように参加者すべてが、心を開いた対話を実践しているというのである。

オープンダイアローグでは、セラピストがクライアントに対して、否定しない、介入しない、指示しないことを徹底している。そして、診断しないし、治療の見通しも述べないし、治療方針も明らかにしない。あくまでも、クライアントの症状だけに注目して、その話に傾聴して辛さや悲しさに共感するだけである。べてるの家でのミーティングでも同じように、傾聴と共感を基本としている。そして、参加どうしが、けっして否定しないし指示しないし介入しないのである。そして、自分の症状をありのまま話して、それを認め受け入れてもらうことで、不思議と症状が緩和される。べてるの家の利用者の薬物摂取量は、極めて少ないという。

べてるの家は、そもそも赤十字浦河病院という精神科病院から退院した患者の受け皿として設置された支援施設である。べてるの家での支援によって、再入院する患者がいなくなり、入院施設が不要となり閉鎖されたのである。オープンダイアローグを実践し続けたケロプダス病院があるフィンランドの西ラップランド地方では、統合失調症を新規に発症する人がいなくなったことと、非常に似通っている。適切な医療と支援があると、地域全体が変革するのである。オープンダイアローグとべてるの家の支援は、実に効果的なコミュニティケアだと言えよう。

日本の精神科医療は薬物投与に依存している。フィンランド発祥のオープンダイアローグ療法では、原則として薬物療法をしない。ごく稀に、精神安定剤を投与することもあるが向精神薬は処方しない。統合失調症でさえも薬物療法をしないのである。日本では、統合失調症ならば、100%向精神薬を処方する。そして、日本の精神科医療において、減薬・断薬に取り組む医師は殆どいない。一度向精神薬を投与された患者は、本人が通院を止めない限り、ずっと投薬が続けられる。べてるの家の利用者は、ごく普通に減薬・断薬をしているという。それも、利用者自らがそれを決断して、医師と相談して進めているというから驚きである。

べてるの家とオープンダイアローグの類似点がもうひとつある。それは、この療法や支援が行われている地域が大都会のような都市部でなくて、どちらかというと片田舎と呼べる地方で発祥し進化しているという点である。実は、これが重要な点ではないかと思っている。べてるの家やオープンダイアローグのような療法や支援というのは、大都会のようにコミュニティがまったく機能していない場所では、実践が難しいと思われるからである。大都会のように、コミュニティが崩壊していて、人々の関係性が希薄になっていて、お互いを支えあう関係がまったくないような地域では、成功しなかったのではないかとみられる。

実際に、べてるの家のような活動は、都市部においてはまったく取り上げられていないし、広がりを見せていない。オープンダイアローグも同様である。ということは、日本でもしオープンダイアローグが定着するとすれば、都市部ではなくて、コミュニティの機能がまだ存続している、東北地方の片田舎ではないだろうか。地域の方々の温かい協力や支援が必要だと考えるからである。是非、イスキアの郷しらかわ周辺でこのオープンダイアローグ療法を広めて行きたいと密かに思っている。共感してくれて、協働を申し出てくれる精神科の先生が手をあげてくれるのを期待している。

 

オープンダイアローグが有効な訳②

オープンダイアローグ(OD)が何故有効なのかというと、ひとつは今までの精神療法や心理療法でよい効果がある部分を統合的に活用しているということもある。まずはベイトソンのダブルバインドの理論の一部を参考にしているという点である。さらにベイトソンのシステム論を発展させたイタリアのミラノ派の家族療法をも参考にしていることも特筆される。ODは、単なる診断や治療をすることを優先させることなく、あくまでも現状を認め受け入れて、その将来の不確実性を皆で共有して安心させていくのである。クライアントたちが変化するかどうかは、セラピストが決めるのではなくて、家族を含めたクライアント側が決めるという点が斬新である。

さて、今までの精神科の治療や心理療法などを行う際、あくまでも治療をする主体者となるのは医師またはセラピストである。診断し、治療計画を立て、その計画にしたがって治療をするという決定は治療者が実施する。当然、決定権は治療者が持つのであるから、治療者である医師やセラピストがクライアントよりも優位にならざるを得ない。質問したり指示したりするのも、圧倒的に治療者が優位性を保ったままに行われる。つまり、クライアントは受け身であり、主体性や自発性などのアクティビティを持つことは制限されてしまうのである。

人間というのは、自分で判断し自分で決定したものは自発的に実践したくなる。そして結果責任も自分が持ちたくなる傾向が強い。他人が決定して他人がそれを実践したとなると、あくまでも受動的になるから、そこに自らリスクとコストを持つことはない。クライアントが自ら変化するかどうかの決定を自分がするのであれば、能動的になるのは当然である。つまり自ら自己組織化をするひとつのシステムである人間は、アクティビティを自ら発揮する存在なのだ。OD療法はそれを支援するシステムなのだから、人間として自ら自己組織化するし、分断から統合へと向かうのであろう。

OD療法は詩学的であり高い文学性を持つという点が注目される。対話で重要な働きをするのは言葉である。それも単なるコンテンツではなく、コンテキストでありセンテンスである。しかも、意味深くて、なるべく長いセンテンスであって物語性を持つ。ここにナラティブセラピーの要素も含み、ストーリー性をも大切にしている点がある。古い価値観に支配されたドミナントストーリーを自ら捨てられるよう支援をする。そして、新たな価値観に基づいたオルタナティブストーリーを自ら進んで構築するのを、ただ対話を続けながら支援する。その際、セラピストはある意味「詩人」であり「ストーリーテラー」でなければならない。ODは、まさしく相手と自分を統合させ、クライアントが自ら統合したくなるような言葉を紡ぎ出すのである。

このように、OD療法というのは精神医学の重要なエッセンスを保ちながら、文学性や哲学性、さらには社会科学的な要素も取り入れている。勿論、最新の自然科学である自己組織化の理論も含んでいる。つまり、統合的な治療理論なのである。人間どうしの統合や精神の統合を目指しているOD療法が、まさしく統合そのものであるという点がユニークなのである。だから、このODという手法が有効性を持つに違いない。

今まで精神疾患や精神障害というものが脳の機能障害によって起きるものだと考えられてきたが、最新の医学ではそれが否定されつつある。脳だけの機能障害だけでなく、腸や腎臓などの各臓器、筋肉組織、骨、神経組織、など人体すべてのネットワークに障害が起きることで障害が起きることが解ってきたのである。言い換えると、統合されている人体という全体が、それを構成する各部分が分断化や孤立をした時にこそ、様々な障害が起きるということが判明したのである。当然、治療は分断化された部分を統合へと向かう支援をすることが求められるが、それがまさしくOD療法なのである。

さらに言えば、精神疾患や精神障害というものが身体的な部分の分断化だけでなく、社会的にも分断と孤立をすることによって起きているとも言える。つまり、家族というコミュニティが分断し、絶対的な孤立感を持つことで精神疾患が発症するきっかけを生み出すと考えられている。さらには、職場や地域においても社会的に孤立することも深く影響していると思われる。OD療法は、コミュニティそのものの統合を支援するのである。共通言語というものを紡ぎ出し、開かれた対話によってお互いの関係性を再構築するのだ。OD療法というのは、希薄化・低劣化してしまった関係性を『対話』によって、良好な関係性に変革する働きを持つのである。つまり、ODはコミュニティケアをも実現するのである。だから、再発がなくなってしまうのであろう。

 

さらに明日に続く

 

※イスキアの郷しらかわでは、オープンダイアローグの研修会を開催しています。個別指導もいたします。まずは問い合わせをお願いします。

薬物治療をしない精神科医

最近、原則として薬物治療をしない医療を実践する医師が増えてきている。実に好ましい動きだと思う。しかし、これはごく一部の小児科医や内科医だけであり、外科系の医師はそんなことは絶対に無理だと認識している。ましてや、精神科の医師は薬物投与なくしては、精神疾患を治療出来ないというのが共通認識であろう。医師はもちろんのこと、患者も薬物治療をしないで治すことなんて不可能だと思うに違いない。日本の精神医療で、薬物を用いないで治療を施す医師なんている筈がないと思っていた。ところが、実際に薬物治療をしない精神科医に、昨日出会ったのである。

実に不思議な出会いだった。たまたま一昨日フェイスブックのイベント開催のお知らせが入り、実に面白そうな内容だったので急遽参加することにした。インド古来の医療であるアーユルヴェーダを活用した精神医療の研修会だった。茨城県袋田病院の新人ナースの為に研修会を開催するに当たり、一般の人々にも聞かせたいとアーユルヴェーダの診療補助をしている女性の方が講演を行ったのである。その講演内容も興味深いものであったが、実際に診療をしている医師も同席していたのである。袋田病院の精神科医でアーユルヴェーダの精神科医療を実践している日根野先生がその人である。

日本の医療保険制度というのは、精神医療においては薬物治療を前提にして制定されている。院外処方だから患者を薬漬けにしても、精神科医の収入は増えないと主張する医師もいる。しかし、薬物治療をしないと一人当たりの診療時間がとてつもなく必要になるから、ある程度の診療人数をこなせなくなり、診療報酬がもらえなくなる。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、日本の医療保険制度は実に愚かな厚労省の官僚によって制定されているのである。故に、薬物治療をしない精神科医は病院では冷たい目でみられる。医療経営が成り立たないのだから、当然である。

例えば、通院の精神療法は1時間行ったとしても診療報酬は400点(4,000円)だけである。精神科医の一時間時給は、まず10,000円を下回ることはない。だとすれば経営上6,000円のマイナスとなる。臨床カウンセラーの資格者がカウンセリングを1時間弱実施すれば、10,000円以上の費用を請求される。それよりも精神科医の報酬が少ないなんてことがあり得ない。しかし、厚労省が規定した精神科の診療報酬算定基準ではそうなっている。だから、精神科医は患者数をこなせるように、薬物治療に頼るしかなくなるのである。国の制度が悪い。精神科医療は、民間営利には馴染まなく、国立病院が担うべきであろう。

袋田病院の日根野先生は、敢えて問題がある保険診療の範囲内で治療を実施されている。自費診療では、患者負担が大き過ぎるので、診療機会を奪ってしまうからと思われる。患者さんに優しいから、採算を度外視してていねいに診察していらっしゃる。おひとりの患者さんに再来でも基本1時間の診察をしていらっしゃるという。薬物は用いず、アーユルヴェーダを基本にした精神療法や心理療法だけの「対話」で診療をされている。それも患者さんを否定することなく、介入することなく、ただ患者さんの尊厳を認め受け入れるだけの「開かれた対話」で症状を緩和されているという。素晴らしい理想の診療である。

このような採算度外視をするような診療を許している、袋田病院という民間病院の経営者も素晴らしい。的場院長を初めとして、職員一丸となって患者ファーストの医療を実践しているからと思われる。こんな素敵な精神病院が、茨城県の片田舎の町にあるというのが奇跡とも言える。日根野先生以外の精神科医は、近代医療の治療を実施しているらしいが、患者さん本位の治療を基本としているのは間違いないだろう。こんな精神科クリニックが増えてほしいものである。

この袋田病院の日根野先生の行う、アーユルヴェーダを基本にした薬物投与のない診療は残念ながら週1回だけとのこと。患者さんが増えれば、病院側も診療日を増やしてくれるかもしれない。いきなり診察を求めて病院に行っても、予約診療なので診察をしてもらえない。事前に病院の担当者に電話して、予約をしてから診察してもらうことになる。人気があるので2か月先くらいになるかもしれないとのことだが、希望者が多くなればもう少し早く診察してもらえる可能性もあるだろう。茨城県県北の大子町にある袋田病院が、日本の精神科医療を大胆に変えて行くフロンティアになる可能性を秘めている。実に楽しみである。

 

日本の医療は患者ファーストでない

日本の医療制度は世界に誇る国民皆保険制度で、他のどの国よりも恵まれていると思っている人が多いことであろう。しかし、現実はまったく違う。日本の医療制度は、医療を提供する側と薬品会社や医療器械の企業に有利になるように仕組まれている、世界でも最悪の医療制度だと言えよう。そんなことはない、望むならすべての国民が平等に医療を受けることが出来るし、医療保険が適応され少ない自己負担で済むから、とても恵まれていると主張することであろう。医療技術のレベルも高いし、薬品開発や医療器械の高度化も進んでいるから、日本の医療は素晴らしいと思い込まされている人が殆どである。

確かに日本の医療は、診断技術や外科的治療のレベルでは、世界最高の評価を受けているのは間違いない。しかしながら、内科的慢性疾患や精神疾患で、完治した人で再発しない患者がどれだけいるであろうか。日本の医療による恩恵で、病気から完全に離脱できて二度と再発しないという人がいたならお目にかかりたいものである。勿論、ごく一部の例外はある。外科的治療や統合医療などで疾病を完治させた人がいない訳ではない。しかし、多くの患者は症状を抑えるだけの対症療法に追い込まれ、慢性的に薬漬けにされている。

日本の医療費は年々高騰し続けている。高齢者が増えているし、高度な医療や高額な医薬品が開発進化しているから当然だと多くの人が思い込ませられているが、そんなことはまったくのウソである。素晴らしい医薬品が開発されているのだから、疾病は完治される筈なのに、患者数は少なくなっていない。逆に増加しているのである。人口は減少しているのに、罹患率と投薬されている医薬品の金額が年々増加しているという不思議な現象が起きているのである。

ひとつの極端な例をあげてみたい。うつ病を劇的に治すと言われて、多くの患者に処方されているSSRIとSNRIという薬がある。この医薬品は、うつ病に効くし副作用がないという触れ込みで精神科以外の一般内科医でも処方されることが多い。それだけ効き目のある医薬品なのだから、うつ病患者は、相当減少すると思われていた。ところが減るどころか、2倍から3倍に患者数に急増したのである。そして、うつ病患者は増加し続けている。この抗うつ剤だけでなく他の薬剤も、一度飲み始めたら一生飲み続けなければならなくなることが多い。皮肉なことに、精神科の治療によって薬物依存になっているのである。

メンタル不調になる時に最初に起きる症状は、睡眠障害であることが多い。こういう症状を患者が訴えると、ほとんどの医師は睡眠導入剤や睡眠薬、または精神安定剤を投与する。そして、この睡眠導入剤や睡眠薬を減薬・断薬することを薦める医師はいない。やがて、効かないという訴えに対して、益々強い睡眠薬に変更する。そして精神安定剤から抗うつ剤や向精神薬へと進んでいくケースが多い。睡眠障害を訴えてきた患者に、適切な精神療法や心理療法で改善してあげたら、精神疾患にならずに済んだであろう。

生活習慣病などの慢性疾患や精神疾患を治療する医療機関において、減薬・断薬を薦める医師はどれだけいることだろう。かなりの少数であることは間違いない。何故ならば、そんな指導をすれば医療経営が成り立たなくなるからである。日本の医療保険制度は出来高払いになっている。投与した薬剤、施術した治療はすべて保険者と本人に無条件で請求できる。普通の営利企業なら、製品やサービスを購入して代金を支払ってもらい収益を得る。その効果や成果がないと苦情になるし二度と購入してもらえない。医療だって、完全な効果や成果をあげて、その対価を支払うべきなのである。完治させたら報酬を得る制度にすればよいのに、どういう訳か日本の医療保険制度は症状を悪化させても慢性化させてしまっても報酬を得るのだ。

日本の医療制度は、実に不思議である。症状を完全に抑えて断薬をして、完治させたら多額の報酬を支払う制度にすればよいのに、その真逆になっている。患者を治さずに、長い期間に渡り薬漬けにしたほうが多額の報酬を得る制度なのである。そんな保険制度にしてしまった厚労省が愚かなのである。元々、医療は民間の営利企業が行うべきではない。できれば、国が医療を担うべきである。何故なら、営利を目的にすれば、患者本位の医療にならないからである。患者ファーストを謳うのであれば、まずは減薬・断薬をするべきだ。完治することを目標にして、慢性化しないように医師は努力しなければならない。それが本来の患者ファーストの医療なのである。

本物の医師、真弓定夫先生

先日、『蘇れ 生命(いのち)の力 ~小児科医 真弓定夫~』という映画の自主上映会に参加した。予想した以上の感動を受け、やはり観てよかったと心から思った。こんなにも素晴らしい先生がいるということが、いまだに信じられない。尊敬する本間真二郎先生も素晴らしいが、この真弓先生に影響を受けて今の診療スタイルになったというのだから、まさに真弓先生こそ本物の医師だと言える。今の医療界においては、まともな医師はごく一部を除き、殆どいないと思っている。言葉では患者中心の医療をすると言いながら、実際は患者の為の医療を実践しているとは思えないからである。

真弓先生は、薬と注射を原則として使用しない。先生の診療所には、薬と注射が置いていない。どうしても必要な場合は、院外処方の薬局で必要最小限の調剤してもらうという。あくまでも、子どもの診察とお母さんに対する生活指導だけで診療を行っていたのである。開業当初は、毎日50人から60人の子どもさんを診療していたが、その後患者は激減して、毎日数人の外来診療しかしなかったという。何故なら、診察と生活指導を受けた子どもさんたちは完全治癒すると共に、殆ど再発しなかったからである。

真弓先生は、現代の医療界の状況について、痛烈な批判をしている。ご自分が医師としてデビューした60年前、日本の総人口は6,400万人だったという。その時の総医療費は2,400億円。現在の総人口はその2倍になった。当然、総医療費はその2倍かそれ以下でなければならない筈だと。これだけ医療技術が発達して、医師も優秀になっているのだから、一人当たりの医療費は減少していなくてはならない。ところが実際には、日本の総医療費は当時の180倍になっているというのである。こんなことは本来あり得ないことだと言う。

真弓先生は、さらに世の中の医師たちを糾弾する。医療というのは、病気を根本的に治すのが本来の役目である。医師は完全治癒を目指すべきである。ところが、現代の医師たちは最初から完全治癒を諦めていて、対象療法に安穏としているというのだ。勿論例外もあり、一部の診療科や医師たちは完全治癒を目指し努力している。しかし、殆どの医師たちは、疾病の根本原因を突き止め完全に治癒させようとはしない。対症療法の投薬と注射をすることしか考えていないと主張する。だから、医療費は減らないばかりか、増大する一方だと言うのである。

人が病気になるのは、人間本来の生き方をせず、間違った生活習慣をしているからだと真弓先生は断定する。そこに大きなストレスが加わり、自律神経のアンバランスを生み、免疫力を著しく低下させてしまうことで、傷病を発症させているという。だから、日本人の体温は著しく低下していると言い切る。伝統的な和食が基本で、一汁一菜の質素な食事と、冷暖房の空調をしないで、なるべく自然のままに生きれば、低体温にならず病気にもならないと主張する。ご自分も、実に質素な食事を続けているし、冷暖房の空調のない生活をしている。

真弓先生は、50年前から小児科クリニックを開院して、理想とする医療を実践してきた。そうした努力をしていても、なかなか医学界は変わらず、残念ながら対症療法から根本治療への転換は出来なかったと嘆いていらした。しかし、真弓先生に続くドクターは確実に増えているように感じる。本間真二郎先生も同じ小児科医として、根本治療を続けていらしてる。他にも、統合医療や自然療法を標榜して、対症療法ではなく完全治癒を目指しているドクターも増加している。真弓先生が続けていらした努力はけっして無駄ではなかったと思っている。

日本の保険診療制度は、普通に対症療法だけをしていれば医療経営は上手く行く。完全治癒を目指して投薬や注射に頼らない治療をしていると、医療経営は行き詰るようになる。真弓先生のクリニックは、患者を完全治癒させて再発もしなかったので、経営的に厳しかったらしい。つまり、まともな医療を行えば行うほど、医療経営が成り立たなくなる保険診療制度になっているのである。日本の保険診療制度を抜本的に改革しなければ、真弓先生のようなまともな医師は育ちようがないのだ。心ある政治家は、保険診療制度の抜本改革に取り組んでほしいものである。そして、我々も本物の医師、真弓先生や本間先生のような医師を選びたいし、病気にならない生き方をしたいものである。

減薬・断薬してくれる医師こそ本物

医師による診療・治療を継続的に受けている人は、相当な割合で存在している。高齢者の半数以上は何らかの治療を受けているし、生活習慣病で治療を受けている中高年者は多い。ましてや、最近は若者たちもメンタル障害で治療を受けている人も少なくない。その治療内容はというと、殆どが定期的な検査と診察、そして投薬治療である。その投薬治療は、根本治療ではなくて対症療法である。したがって、その投薬治療は緊急避難的に行われるものであり、徐々に減薬・断薬に向かうべきものであろう。

ところが、実際に減薬・断薬をするケースは非常に少ないのが実情である。一度飲み始めた薬は増えることはあるものの、減薬・断薬に積極的に取り組んでいる医師は、極めて稀である。辛くて苦しい症状を抑える対症療法の薬は、患者にとって有難いものである。患者にとっても、減薬・断薬をするということに対するハードルは高いと思われる。減薬・断薬によって症状が再発しないかと、不安になるのは当然である。ドクターも、減薬・断薬によって症状が悪化すれば責任を問われ兼ねない。減薬・断薬に積極的になれないのは当たり前であろう。

対症療法の投薬で問題になるのは、薬を長期間飲用することにより、人間本来の機能の低下が起きてしまい、死ぬまで薬の投与が続くことである。だから、基本的に対症療法の薬というのは、長期間化の引用は避けなければならないということが大原則である。したがって、対症療法の薬物治療で症状が落ち着いたら、疾病の原因を探り出し根本治療をする必要がある。根本治療をしながら、徐々に減薬・断薬をして完治させるというプロセスを辿るべきである。ところが、外科的な治療は根本治療をするケースがあるものの、内科的な治療においては、根本治療をするケースは殆ど見当たらない。

対症療法の薬物治療を漫然と続ける医師が非常に多いのには辟易する。特に精神科のドクターは、減薬・断薬するどころか、徐々に増やし続けるのが現状である。量も種類も増やし続ける。抗精神薬の副作用として、便秘、低血圧、肝機能障害、腎機能障害、貧血、意欲減退などが起きて、その対症療法の薬物治療も行われるので、膨大な薬を飲まなければならなくなる。さらに問題なのは、脳神経に直接作用する長期間の薬物治療をすると、薬物の血中濃度が下がると禁断症状が起きてしまい、依存性が高まることで益々減薬・断薬が益々困難になってしまうことである。

世の中には、対症療法の薬物治療だけでなく根本治療を実施している医師も存在する。小西先生や本間真二郎先生は、広く知られている。真弓定夫先生も、薬物治療をしないで治療していた名医である。他にも全国には根本治療に取り組んでいらっしゃる医師が存在する。対症療法の薬物治療は診療時間もあまり必要ないし、多くの患者を扱うことができる。根本治療をする医師は、問診や診察、生活指導を丁寧にするので、長時間の診療時間が必要で手間がかかるので、多くの医師は根本治療をやりたがらない。

なにしろ、日本の医療保険制度は、対症療法を基本にして作られている。根本治療をすると、経営的にも困難になるのである。ましてや、根本治療をし続けると患者さんがいなくなるのだから、収入が激減する。真弓定夫先生のクリニックは、最初は多くの患者さんで賑わっていたが、殆どの患者さんが完全治癒して、再発もしなくなったから閑古鳥が鳴いていたという。根本治療という療法を志向しない医師が多いのは、こういう理由もあるからであろう。経営が成り立たないクリニック経営をする医師が居ないのは当然である。減薬・断薬をしたがらない要因はここにもあるのだ。

減薬・断薬に取り組む根本治療をしているクリニックが経営困難に追い込まれて、廃院に追い込まれているかというと、そうではない。本間真二郎先生のクリニックは、評判を聞いて連日大盛況であるし、全国各地から講演依頼が舞い込んでいる。本間先生の著作はベストセラーになっている。統合医療の小西先生のクリニックも、難治性の患者さんが大勢押し寄せている。出来ることなら、減薬・断薬をしてくれる医師を選びたいものである。もし、接客的に減薬・断薬をしてくれない先生なら、自分から減薬・断薬を申して出てみたらどうだろうか。拒否されたら、ネット情報で減薬・断薬をしてくれる医師を探し出せばよい。減薬・断薬をしてくれる先生こそ、本物の医師であると言えよう。