べてるの家とオープンダイアローグ

べてるの家という精神障害者の自立支援施設がある。北海道の浦河町という片田舎にあるこの施設には、世界中の精神保健に携わる多くの人たちが見学にやってくる。先進的な精神障害者の支援をしているからである。支援というと健常者が障害者をサポートしているように思われるが、このべてるの家はまったく違う。障害を持つ当事者どうしが支援しあうのである。さらに障害を持つ人々は、障害を克服することを目標としない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、彼らはあるがままの自分を認め受け入れ、そしてその障害さえも楽しんでいるという。そういう意味では、オープンダイアローグを実践している施設だと言える。

べてるの家では、毎年べてるまつりというイベントを開催している。その中で、幻覚妄想大会が行われ、当事者たちが自分の幻覚妄想を発表しあっている。自分たちが持っている障害を恥じることなく隠すことなく、当たり前のようにカミングアウトしている。障害があることを特別視していない。そして特筆すべきなのは、べてるの家においては三度の飯よりミーティングが好きだということである。毎日のように当事者どうしが集まってミーティングをしている。そしてそのミーティングでは、オープンダイアローグのように参加者すべてが、心を開いた対話を実践しているというのである。

オープンダイアローグでは、セラピストがクライアントに対して、否定しない、介入しない、指示しないことを徹底している。そして、診断しないし、治療の見通しも述べないし、治療方針も明らかにしない。あくまでも、クライアントの症状だけに注目して、その話に傾聴して辛さや悲しさに共感するだけである。べてるの家でのミーティングでも同じように、傾聴と共感を基本としている。そして、参加どうしが、けっして否定しないし指示しないし介入しないのである。そして、自分の症状をありのまま話して、それを認め受け入れてもらうことで、不思議と症状が緩和される。べてるの家の利用者の薬物摂取量は、極めて少ないという。

べてるの家は、そもそも赤十字浦河病院という精神科病院から退院した患者の受け皿として設置された支援施設である。べてるの家での支援によって、再入院する患者がいなくなり、入院施設が不要となり閉鎖されたのである。オープンダイアローグを実践し続けたケロプダス病院があるフィンランドの西ラップランド地方では、統合失調症を新規に発症する人がいなくなったことと、非常に似通っている。適切な医療と支援があると、地域全体が変革するのである。オープンダイアローグとべてるの家の支援は、実に効果的なコミュニティケアだと言えよう。

日本の精神科医療は薬物投与に依存している。フィンランド発祥のオープンダイアローグ療法では、原則として薬物療法をしない。ごく稀に、精神安定剤を投与することもあるが向精神薬は処方しない。統合失調症でさえも薬物療法をしないのである。日本では、統合失調症ならば、100%向精神薬を処方する。そして、日本の精神科医療において、減薬・断薬に取り組む医師は殆どいない。一度向精神薬を投与された患者は、本人が通院を止めない限り、ずっと投薬が続けられる。べてるの家の利用者は、ごく普通に減薬・断薬をしているという。それも、利用者自らがそれを決断して、医師と相談して進めているというから驚きである。

べてるの家とオープンダイアローグの類似点がもうひとつある。それは、この療法や支援が行われている地域が大都会のような都市部でなくて、どちらかというと片田舎と呼べる地方で発祥し進化しているという点である。実は、これが重要な点ではないかと思っている。べてるの家やオープンダイアローグのような療法や支援というのは、大都会のようにコミュニティがまったく機能していない場所では、実践が難しいと思われるからである。大都会のように、コミュニティが崩壊していて、人々の関係性が希薄になっていて、お互いを支えあう関係がまったくないような地域では、成功しなかったのではないかとみられる。

実際に、べてるの家のような活動は、都市部においてはまったく取り上げられていないし、広がりを見せていない。オープンダイアローグも同様である。ということは、日本でもしオープンダイアローグが定着するとすれば、都市部ではなくて、コミュニティの機能がまだ存続している、東北地方の片田舎ではないだろうか。地域の方々の温かい協力や支援が必要だと考えるからである。是非、イスキアの郷しらかわ周辺でこのオープンダイアローグ療法を広めて行きたいと密かに思っている。共感してくれて、協働を申し出てくれる精神科の先生が手をあげてくれるのを期待している。

 

オープンダイアローグが有効な訳②

オープンダイアローグ(OD)が何故有効なのかというと、ひとつは今までの精神療法や心理療法でよい効果がある部分を統合的に活用しているということもある。まずはベイトソンのダブルバインドの理論の一部を参考にしているという点である。さらにベイトソンのシステム論を発展させたイタリアのミラノ派の家族療法をも参考にしていることも特筆される。ODは、単なる診断や治療をすることを優先させることなく、あくまでも現状を認め受け入れて、その将来の不確実性を皆で共有して安心させていくのである。クライアントたちが変化するかどうかは、セラピストが決めるのではなくて、家族を含めたクライアント側が決めるという点が斬新である。

さて、今までの精神科の治療や心理療法などを行う際、あくまでも治療をする主体者となるのは医師またはセラピストである。診断し、治療計画を立て、その計画にしたがって治療をするという決定は治療者が実施する。当然、決定権は治療者が持つのであるから、治療者である医師やセラピストがクライアントよりも優位にならざるを得ない。質問したり指示したりするのも、圧倒的に治療者が優位性を保ったままに行われる。つまり、クライアントは受け身であり、主体性や自発性などのアクティビティを持つことは制限されてしまうのである。

人間というのは、自分で判断し自分で決定したものは自発的に実践したくなる。そして結果責任も自分が持ちたくなる傾向が強い。他人が決定して他人がそれを実践したとなると、あくまでも受動的になるから、そこに自らリスクとコストを持つことはない。クライアントが自ら変化するかどうかの決定を自分がするのであれば、能動的になるのは当然である。つまり自ら自己組織化をするひとつのシステムである人間は、アクティビティを自ら発揮する存在なのだ。OD療法はそれを支援するシステムなのだから、人間として自ら自己組織化するし、分断から統合へと向かうのであろう。

OD療法は詩学的であり高い文学性を持つという点が注目される。対話で重要な働きをするのは言葉である。それも単なるコンテンツではなく、コンテキストでありセンテンスである。しかも、意味深くて、なるべく長いセンテンスであって物語性を持つ。ここにナラティブセラピーの要素も含み、ストーリー性をも大切にしている点がある。古い価値観に支配されたドミナントストーリーを自ら捨てられるよう支援をする。そして、新たな価値観に基づいたオルタナティブストーリーを自ら進んで構築するのを、ただ対話を続けながら支援する。その際、セラピストはある意味「詩人」であり「ストーリーテラー」でなければならない。ODは、まさしく相手と自分を統合させ、クライアントが自ら統合したくなるような言葉を紡ぎ出すのである。

このように、OD療法というのは精神医学の重要なエッセンスを保ちながら、文学性や哲学性、さらには社会科学的な要素も取り入れている。勿論、最新の自然科学である自己組織化の理論も含んでいる。つまり、統合的な治療理論なのである。人間どうしの統合や精神の統合を目指しているOD療法が、まさしく統合そのものであるという点がユニークなのである。だから、このODという手法が有効性を持つに違いない。

今まで精神疾患や精神障害というものが脳の機能障害によって起きるものだと考えられてきたが、最新の医学ではそれが否定されつつある。脳だけの機能障害だけでなく、腸や腎臓などの各臓器、筋肉組織、骨、神経組織、など人体すべてのネットワークに障害が起きることで障害が起きることが解ってきたのである。言い換えると、統合されている人体という全体が、それを構成する各部分が分断化や孤立をした時にこそ、様々な障害が起きるということが判明したのである。当然、治療は分断化された部分を統合へと向かう支援をすることが求められるが、それがまさしくOD療法なのである。

さらに言えば、精神疾患や精神障害というものが身体的な部分の分断化だけでなく、社会的にも分断と孤立をすることによって起きているとも言える。つまり、家族というコミュニティが分断し、絶対的な孤立感を持つことで精神疾患が発症するきっかけを生み出すと考えられている。さらには、職場や地域においても社会的に孤立することも深く影響していると思われる。OD療法は、コミュニティそのものの統合を支援するのである。共通言語というものを紡ぎ出し、開かれた対話によってお互いの関係性を再構築するのだ。OD療法というのは、希薄化・低劣化してしまった関係性を『対話』によって、良好な関係性に変革する働きを持つのである。つまり、ODはコミュニティケアをも実現するのである。だから、再発がなくなってしまうのであろう。

 

さらに明日に続く

 

※イスキアの郷しらかわでは、オープンダイアローグの研修会を開催しています。個別指導もいたします。まずは問い合わせをお願いします。

薬物治療をしない精神科医

最近、原則として薬物治療をしない医療を実践する医師が増えてきている。実に好ましい動きだと思う。しかし、これはごく一部の小児科医や内科医だけであり、外科系の医師はそんなことは絶対に無理だと認識している。ましてや、精神科の医師は薬物投与なくしては、精神疾患を治療出来ないというのが共通認識であろう。医師はもちろんのこと、患者も薬物治療をしないで治すことなんて不可能だと思うに違いない。日本の精神医療で、薬物を用いないで治療を施す医師なんている筈がないと思っていた。ところが、実際に薬物治療をしない精神科医に、昨日出会ったのである。

実に不思議な出会いだった。たまたま一昨日フェイスブックのイベント開催のお知らせが入り、実に面白そうな内容だったので急遽参加することにした。インド古来の医療であるアーユルヴェーダを活用した精神医療の研修会だった。茨城県袋田病院の新人ナースの為に研修会を開催するに当たり、一般の人々にも聞かせたいとアーユルヴェーダの診療補助をしている女性の方が講演を行ったのである。その講演内容も興味深いものであったが、実際に診療をしている医師も同席していたのである。袋田病院の精神科医でアーユルヴェーダの精神科医療を実践している日根野先生がその人である。

日本の医療保険制度というのは、精神医療においては薬物治療を前提にして制定されている。院外処方だから患者を薬漬けにしても、精神科医の収入は増えないと主張する医師もいる。しかし、薬物治療をしないと一人当たりの診療時間がとてつもなく必要になるから、ある程度の診療人数をこなせなくなり、診療報酬がもらえなくなる。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、日本の医療保険制度は実に愚かな厚労省の官僚によって制定されているのである。故に、薬物治療をしない精神科医は病院では冷たい目でみられる。医療経営が成り立たないのだから、当然である。

例えば、通院の精神療法は1時間行ったとしても診療報酬は400点(4,000円)だけである。精神科医の一時間時給は、まず10,000円を下回ることはない。だとすれば経営上6,000円のマイナスとなる。臨床カウンセラーの資格者がカウンセリングを1時間弱実施すれば、10,000円以上の費用を請求される。それよりも精神科医の報酬が少ないなんてことがあり得ない。しかし、厚労省が規定した精神科の診療報酬算定基準ではそうなっている。だから、精神科医は患者数をこなせるように、薬物治療に頼るしかなくなるのである。国の制度が悪い。精神科医療は、民間営利には馴染まなく、国立病院が担うべきであろう。

袋田病院の日根野先生は、敢えて問題がある保険診療の範囲内で治療を実施されている。自費診療では、患者負担が大き過ぎるので、診療機会を奪ってしまうからと思われる。患者さんに優しいから、採算を度外視してていねいに診察していらっしゃる。おひとりの患者さんに再来でも基本1時間の診察をしていらっしゃるという。薬物は用いず、アーユルヴェーダを基本にした精神療法や心理療法だけの「対話」で診療をされている。それも患者さんを否定することなく、介入することなく、ただ患者さんの尊厳を認め受け入れるだけの「開かれた対話」で症状を緩和されているという。素晴らしい理想の診療である。

このような採算度外視をするような診療を許している、袋田病院という民間病院の経営者も素晴らしい。的場院長を初めとして、職員一丸となって患者ファーストの医療を実践しているからと思われる。こんな素敵な精神病院が、茨城県の片田舎の町にあるというのが奇跡とも言える。日根野先生以外の精神科医は、近代医療の治療を実施しているらしいが、患者さん本位の治療を基本としているのは間違いないだろう。こんな精神科クリニックが増えてほしいものである。

この袋田病院の日根野先生の行う、アーユルヴェーダを基本にした薬物投与のない診療は残念ながら週1回だけとのこと。患者さんが増えれば、病院側も診療日を増やしてくれるかもしれない。いきなり診察を求めて病院に行っても、予約診療なので診察をしてもらえない。事前に病院の担当者に電話して、予約をしてから診察してもらうことになる。人気があるので2か月先くらいになるかもしれないとのことだが、希望者が多くなればもう少し早く診察してもらえる可能性もあるだろう。茨城県県北の大子町にある袋田病院が、日本の精神科医療を大胆に変えて行くフロンティアになる可能性を秘めている。実に楽しみである。

 

日本の医療は患者ファーストでない

日本の医療制度は世界に誇る国民皆保険制度で、他のどの国よりも恵まれていると思っている人が多いことであろう。しかし、現実はまったく違う。日本の医療制度は、医療を提供する側と薬品会社や医療器械の企業に有利になるように仕組まれている、世界でも最悪の医療制度だと言えよう。そんなことはない、望むならすべての国民が平等に医療を受けることが出来るし、医療保険が適応され少ない自己負担で済むから、とても恵まれていると主張することであろう。医療技術のレベルも高いし、薬品開発や医療器械の高度化も進んでいるから、日本の医療は素晴らしいと思い込まされている人が殆どである。

確かに日本の医療は、診断技術や外科的治療のレベルでは、世界最高の評価を受けているのは間違いない。しかしながら、内科的慢性疾患や精神疾患で、完治した人で再発しない患者がどれだけいるであろうか。日本の医療による恩恵で、病気から完全に離脱できて二度と再発しないという人がいたならお目にかかりたいものである。勿論、ごく一部の例外はある。外科的治療や統合医療などで疾病を完治させた人がいない訳ではない。しかし、多くの患者は症状を抑えるだけの対症療法に追い込まれ、慢性的に薬漬けにされている。

日本の医療費は年々高騰し続けている。高齢者が増えているし、高度な医療や高額な医薬品が開発進化しているから当然だと多くの人が思い込ませられているが、そんなことはまったくのウソである。素晴らしい医薬品が開発されているのだから、疾病は完治される筈なのに、患者数は少なくなっていない。逆に増加しているのである。人口は減少しているのに、罹患率と投薬されている医薬品の金額が年々増加しているという不思議な現象が起きているのである。

ひとつの極端な例をあげてみたい。うつ病を劇的に治すと言われて、多くの患者に処方されているSSRIとSNRIという薬がある。この医薬品は、うつ病に効くし副作用がないという触れ込みで精神科以外の一般内科医でも処方されることが多い。それだけ効き目のある医薬品なのだから、うつ病患者は、相当減少すると思われていた。ところが減るどころか、2倍から3倍に患者数に急増したのである。そして、うつ病患者は増加し続けている。この抗うつ剤だけでなく他の薬剤も、一度飲み始めたら一生飲み続けなければならなくなることが多い。皮肉なことに、精神科の治療によって薬物依存になっているのである。

メンタル不調になる時に最初に起きる症状は、睡眠障害であることが多い。こういう症状を患者が訴えると、ほとんどの医師は睡眠導入剤や睡眠薬、または精神安定剤を投与する。そして、この睡眠導入剤や睡眠薬を減薬・断薬することを薦める医師はいない。やがて、効かないという訴えに対して、益々強い睡眠薬に変更する。そして精神安定剤から抗うつ剤や向精神薬へと進んでいくケースが多い。睡眠障害を訴えてきた患者に、適切な精神療法や心理療法で改善してあげたら、精神疾患にならずに済んだであろう。

生活習慣病などの慢性疾患や精神疾患を治療する医療機関において、減薬・断薬を薦める医師はどれだけいることだろう。かなりの少数であることは間違いない。何故ならば、そんな指導をすれば医療経営が成り立たなくなるからである。日本の医療保険制度は出来高払いになっている。投与した薬剤、施術した治療はすべて保険者と本人に無条件で請求できる。普通の営利企業なら、製品やサービスを購入して代金を支払ってもらい収益を得る。その効果や成果がないと苦情になるし二度と購入してもらえない。医療だって、完全な効果や成果をあげて、その対価を支払うべきなのである。完治させたら報酬を得る制度にすればよいのに、どういう訳か日本の医療保険制度は症状を悪化させても慢性化させてしまっても報酬を得るのだ。

日本の医療制度は、実に不思議である。症状を完全に抑えて断薬をして、完治させたら多額の報酬を支払う制度にすればよいのに、その真逆になっている。患者を治さずに、長い期間に渡り薬漬けにしたほうが多額の報酬を得る制度なのである。そんな保険制度にしてしまった厚労省が愚かなのである。元々、医療は民間の営利企業が行うべきではない。できれば、国が医療を担うべきである。何故なら、営利を目的にすれば、患者本位の医療にならないからである。患者ファーストを謳うのであれば、まずは減薬・断薬をするべきだ。完治することを目標にして、慢性化しないように医師は努力しなければならない。それが本来の患者ファーストの医療なのである。

本物の医師、真弓定夫先生

先日、『蘇れ 生命(いのち)の力 ~小児科医 真弓定夫~』という映画の自主上映会に参加した。予想した以上の感動を受け、やはり観てよかったと心から思った。こんなにも素晴らしい先生がいるということが、いまだに信じられない。尊敬する本間真二郎先生も素晴らしいが、この真弓先生に影響を受けて今の診療スタイルになったというのだから、まさに真弓先生こそ本物の医師だと言える。今の医療界においては、まともな医師はごく一部を除き、殆どいないと思っている。言葉では患者中心の医療をすると言いながら、実際は患者の為の医療を実践しているとは思えないからである。

真弓先生は、薬と注射を原則として使用しない。先生の診療所には、薬と注射が置いていない。どうしても必要な場合は、院外処方の薬局で必要最小限の調剤してもらうという。あくまでも、子どもの診察とお母さんに対する生活指導だけで診療を行っていたのである。開業当初は、毎日50人から60人の子どもさんを診療していたが、その後患者は激減して、毎日数人の外来診療しかしなかったという。何故なら、診察と生活指導を受けた子どもさんたちは完全治癒すると共に、殆ど再発しなかったからである。

真弓先生は、現代の医療界の状況について、痛烈な批判をしている。ご自分が医師としてデビューした60年前、日本の総人口は6,400万人だったという。その時の総医療費は2,400億円。現在の総人口はその2倍になった。当然、総医療費はその2倍かそれ以下でなければならない筈だと。これだけ医療技術が発達して、医師も優秀になっているのだから、一人当たりの医療費は減少していなくてはならない。ところが実際には、日本の総医療費は当時の180倍になっているというのである。こんなことは本来あり得ないことだと言う。

真弓先生は、さらに世の中の医師たちを糾弾する。医療というのは、病気を根本的に治すのが本来の役目である。医師は完全治癒を目指すべきである。ところが、現代の医師たちは最初から完全治癒を諦めていて、対象療法に安穏としているというのだ。勿論例外もあり、一部の診療科や医師たちは完全治癒を目指し努力している。しかし、殆どの医師たちは、疾病の根本原因を突き止め完全に治癒させようとはしない。対症療法の投薬と注射をすることしか考えていないと主張する。だから、医療費は減らないばかりか、増大する一方だと言うのである。

人が病気になるのは、人間本来の生き方をせず、間違った生活習慣をしているからだと真弓先生は断定する。そこに大きなストレスが加わり、自律神経のアンバランスを生み、免疫力を著しく低下させてしまうことで、傷病を発症させているという。だから、日本人の体温は著しく低下していると言い切る。伝統的な和食が基本で、一汁一菜の質素な食事と、冷暖房の空調をしないで、なるべく自然のままに生きれば、低体温にならず病気にもならないと主張する。ご自分も、実に質素な食事を続けているし、冷暖房の空調のない生活をしている。

真弓先生は、50年前から小児科クリニックを開院して、理想とする医療を実践してきた。そうした努力をしていても、なかなか医学界は変わらず、残念ながら対症療法から根本治療への転換は出来なかったと嘆いていらした。しかし、真弓先生に続くドクターは確実に増えているように感じる。本間真二郎先生も同じ小児科医として、根本治療を続けていらしてる。他にも、統合医療や自然療法を標榜して、対症療法ではなく完全治癒を目指しているドクターも増加している。真弓先生が続けていらした努力はけっして無駄ではなかったと思っている。

日本の保険診療制度は、普通に対症療法だけをしていれば医療経営は上手く行く。完全治癒を目指して投薬や注射に頼らない治療をしていると、医療経営は行き詰るようになる。真弓先生のクリニックは、患者を完全治癒させて再発もしなかったので、経営的に厳しかったらしい。つまり、まともな医療を行えば行うほど、医療経営が成り立たなくなる保険診療制度になっているのである。日本の保険診療制度を抜本的に改革しなければ、真弓先生のようなまともな医師は育ちようがないのだ。心ある政治家は、保険診療制度の抜本改革に取り組んでほしいものである。そして、我々も本物の医師、真弓先生や本間先生のような医師を選びたいし、病気にならない生き方をしたいものである。

減薬・断薬してくれる医師こそ本物

医師による診療・治療を継続的に受けている人は、相当な割合で存在している。高齢者の半数以上は何らかの治療を受けているし、生活習慣病で治療を受けている中高年者は多い。ましてや、最近は若者たちもメンタル障害で治療を受けている人も少なくない。その治療内容はというと、殆どが定期的な検査と診察、そして投薬治療である。その投薬治療は、根本治療ではなくて対症療法である。したがって、その投薬治療は緊急避難的に行われるものであり、徐々に減薬・断薬に向かうべきものであろう。

ところが、実際に減薬・断薬をするケースは非常に少ないのが実情である。一度飲み始めた薬は増えることはあるものの、減薬・断薬に積極的に取り組んでいる医師は、極めて稀である。辛くて苦しい症状を抑える対症療法の薬は、患者にとって有難いものである。患者にとっても、減薬・断薬をするということに対するハードルは高いと思われる。減薬・断薬によって症状が再発しないかと、不安になるのは当然である。ドクターも、減薬・断薬によって症状が悪化すれば責任を問われ兼ねない。減薬・断薬に積極的になれないのは当たり前であろう。

対症療法の投薬で問題になるのは、薬を長期間飲用することにより、人間本来の機能の低下が起きてしまい、死ぬまで薬の投与が続くことである。だから、基本的に対症療法の薬というのは、長期間化の引用は避けなければならないということが大原則である。したがって、対症療法の薬物治療で症状が落ち着いたら、疾病の原因を探り出し根本治療をする必要がある。根本治療をしながら、徐々に減薬・断薬をして完治させるというプロセスを辿るべきである。ところが、外科的な治療は根本治療をするケースがあるものの、内科的な治療においては、根本治療をするケースは殆ど見当たらない。

対症療法の薬物治療を漫然と続ける医師が非常に多いのには辟易する。特に精神科のドクターは、減薬・断薬するどころか、徐々に増やし続けるのが現状である。量も種類も増やし続ける。抗精神薬の副作用として、便秘、低血圧、肝機能障害、腎機能障害、貧血、意欲減退などが起きて、その対症療法の薬物治療も行われるので、膨大な薬を飲まなければならなくなる。さらに問題なのは、脳神経に直接作用する長期間の薬物治療をすると、薬物の血中濃度が下がると禁断症状が起きてしまい、依存性が高まることで益々減薬・断薬が益々困難になってしまうことである。

世の中には、対症療法の薬物治療だけでなく根本治療を実施している医師も存在する。小西先生や本間真二郎先生は、広く知られている。真弓定夫先生も、薬物治療をしないで治療していた名医である。他にも全国には根本治療に取り組んでいらっしゃる医師が存在する。対症療法の薬物治療は診療時間もあまり必要ないし、多くの患者を扱うことができる。根本治療をする医師は、問診や診察、生活指導を丁寧にするので、長時間の診療時間が必要で手間がかかるので、多くの医師は根本治療をやりたがらない。

なにしろ、日本の医療保険制度は、対症療法を基本にして作られている。根本治療をすると、経営的にも困難になるのである。ましてや、根本治療をし続けると患者さんがいなくなるのだから、収入が激減する。真弓定夫先生のクリニックは、最初は多くの患者さんで賑わっていたが、殆どの患者さんが完全治癒して、再発もしなくなったから閑古鳥が鳴いていたという。根本治療という療法を志向しない医師が多いのは、こういう理由もあるからであろう。経営が成り立たないクリニック経営をする医師が居ないのは当然である。減薬・断薬をしたがらない要因はここにもあるのだ。

減薬・断薬に取り組む根本治療をしているクリニックが経営困難に追い込まれて、廃院に追い込まれているかというと、そうではない。本間真二郎先生のクリニックは、評判を聞いて連日大盛況であるし、全国各地から講演依頼が舞い込んでいる。本間先生の著作はベストセラーになっている。統合医療の小西先生のクリニックも、難治性の患者さんが大勢押し寄せている。出来ることなら、減薬・断薬をしてくれる医師を選びたいものである。もし、接客的に減薬・断薬をしてくれない先生なら、自分から減薬・断薬を申して出てみたらどうだろうか。拒否されたら、ネット情報で減薬・断薬をしてくれる医師を探し出せばよい。減薬・断薬をしてくれる先生こそ、本物の医師であると言えよう。

高齢者の味覚異常が危険!

若者の味覚異常や味覚障害が深刻だと、以前ブログにも書いたが、今度は高齢者の味覚異常が増えているということが報道されていた。高齢者は、味を感じる味蕾(みらい)という部分の味覚細胞が減少することもあり、どうしても濃い味でないと感じにくいという。乳幼児期の味蕾数と比較すると、高齢者はなんと3分の1になってしまうらしい。したがって、高齢になればなるほど味覚を感じる細胞が減少するので、少しずつ濃い味の食事を求め、やがては味覚異常にまで発展してしまうというのである。

確かに、年老いた人たちの作った料理を食べてみると、味が濃いものが多いことに気付く。森のイスキアの佐藤初女さんの料理を食べた時に、異常に塩味が強いのに驚いた経験がある。青森県は、元々塩味の強い料理を作る傾向があると言われているが、こんなにも塩辛いものを食べるんだとびっくりした。高齢になり味蕾の数が少ないと、各種の味を感じにくくなることから、調味料を多量に使用するのではないかと思われる。これでは、高血圧症や糖尿病などの生活習慣病を益々発症させてしまうのも当然であろう。

高齢者の味覚異常は、味蕾の数だけがその原因ではないらしい。高齢者は高血圧症、糖尿病、高脂血症などの生活習慣病の薬を飲んでいる。その副作用もあるというから恐い。味覚細胞が、そのような薬の副作用によって正常に働かなると言うのである。高齢者の殆どの人は生活習慣病で投薬治療を受けている。となると、味蕾の数が減るだけでなく、投薬によって味覚細胞の働きも低下するという、二重の影響があるのだから、味覚異常が重症になるのは当然であろう。

味覚異常は、自分自身では気付かないから困る。ましてや、独り暮らしの老人家庭ならなおさらであり、老夫婦二人だけの家庭も増えているから、味覚異常だと気付くことはないであろう。どんどん味の濃い料理になるし、そうすると食事があまり美味しいと感じられなくなる。当然、食欲も落ちてしまい、簡単な食事になってしまう。複雑な料理を作る気力も失せてしまい、インスタント食品やスーパーやコンビニの惣菜で、簡単に済まそうと思ってしまう。それらの食品に調味料をさらに追加して食べてしまうのだから、益々味覚異常が強化されるというスパイラルに陥ってしまう。

味覚異常の原因は、味蕾の数が減少すること、薬の副作用だけではない。食生活の乱れも、味覚異常を生む原因になる。最近の食生活で、どうしても不足するのが亜鉛である。亜鉛が不足すると、味覚細胞が正常に働かなくなってしまう。昔の食生活では、亜鉛が豊富であったと言われる。ところが、最近の野菜やお茶などに亜鉛があまり含まれていないらしい。それは、農薬や化学肥料を大量に使用している影響であろう。農地が痩せてしまい、亜鉛などの微量元素が極端に少なくなり、野菜やお茶に亜鉛があまり含有されてないというのである。

さらに、加工食品や総菜などに含まれている食品添加物も微量元素の吸収を阻害すると言われている。化学調味料や合成保存料などの食品添加物に含まれているフィチン酸やポリリン酸は、亜鉛の吸収を妨げるだけでなく亜鉛の排泄を促してしまうというのである。実に怖いことである。このように二重三重にも渡り、高齢者が味覚異常を起こしてしまう原因が、現代には多く存在するということだ。どうしたって、高齢者が味覚異常になるシステムが、現代では完全に出来あがっていると言えよう。だからこそ、我々高齢者は食生活に充分に留意すべきだという結論になる。

味覚異常を予防するには、天然のだしを用いて、オーガニックの食材を用いて丁寧に料理をすることが求められる。化学調味料や合成保存料、または着色料、発色剤、殺菌剤などの食品添加物が含まれている惣菜やコンビニ弁当などを避けるべきであろう。農薬や化学肥料を多量に使用した農産物も避けたい。さらには、毎日の食生活において、なるべく薄味の料理でも美味しく感じるような工夫も必要である。天然だしや天然水を使用して料理をすると、薄味でも美味しいと感じやすい。また、亜鉛が多く含まれる山菜、例えばコゴミ(クサソテツ)などを食べるのも効果がある。味覚異常を予防して生活習慣病を防ぎ、健康生活を継続していきたいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、無農薬で有機栽培の食材を用いて、丁寧に天然素材で調理します。したがって、3日~4日滞在すると、身体の中に溜まっている化学添加物や重金属などの毒素がデトックスできます。そのうえで、亜鉛、マグネシウム、カルシウム、鉄分などの微量元素が豊富に含まれた料理を食べることで、味覚異常が緩和されます。一度、正しい味覚に戻すことで、自分の味覚異常に気付くことができます。自分がもしかすると味覚異常かもしれないと思われる方は、是非ご利用ください。

生活保護や貧困は自己責任か?

生活保護費の見直しがされて、減額されることになったというニュースが流れている。厚労省の発表によると、低所得世帯の消費実態と合わせるために、最大で5%程度の減額を18年10月から実施することにしたという。都市部に住む生活保護世帯の減額が一番大きく、逆に町村部の生活保護世帯は増額になったケースもあるという。いずれにしても、生活保護世帯に対する行政の対応は、厳しいものとなりつつある。その根底にあるのは、世間の人々からの生活保護世帯に対する批判の存在があるからと思われる。生活保護費を受給していない貧困家庭に対しても、同じように自己責任だと批判する人は少なくない。

年金受給生活をしている老齢者は生活保護の申請をしないで、何とか工夫しながら我慢して生活している。それなのに、生活保護費を受給している人は、努力もしないで国民年金よりも高い受給額を得ているというのはおかしいという批判にさらされている。生活保護費を受給することに対して、田舎では世間体があるし恥ずかしいからと、勧められても断るケースが多い。勿論、生活保護費を受給すると原則として財産や車を持てないし、すべての財産を処分して使い果たしてからでないと保護費を受給できないから、申請を嫌がる人が多い。それにしても、生活保護世帯に対する世間の風当たりは強い。

生活保護費を受給している家庭は、原則として医療費も無料であるし、保護費に対する所得税もないし、住民税なども非課税である。つまり、保護費はまるごと衣食住の生活費に充てることが出来る。一方、年金生活者は、年金受給額から国民健康保険料や住民税を支払うし、医療費の個人負担がある。単純に比較すると、年金生活者のほうが衣食住に対する支出は少ないケースが多いと見られている。こういう事情もあることから、生活保護家庭に対する批判が多いのではないだろうか。厚労省はこうした批判を意識して、保護費の減額を決めたのではないかと見られる。

生活保護受給世帯は、働いて収入を得ることが出来ないか、もしくは収入が支出に追い付かないから国が保護費で補填している。日本国憲法における基本的人権の生存権が、生活保護の法的根拠とされている。その趣旨から言うと、年金受給者の生活レベルが生活保護世帯よりも低いとすれば、問題なのは生活保護費が高いことではなくて、年金生活者が最低レベルの生活が出来ていないことに根源的な問題があるというべきであろう。いずれにしても、生活保護家庭や貧困家庭になるのは、病気や不遇な境遇も含めて、自己責任なのではないかと冷たく突き放す人々が少なくない。

これは保守系の国会議員たちも、同じ意見を持っていることが、普段からの発言内容から類推できる。時々、自己責任発言がぽろっと漏れ聞くことができる。確かに、生活保護を受けている人の中には、こんなにも元気で溌溂としているのに、病気のせいで働けないというようにはとても見えない人がいる。ましてや、生活保護費をギャンブルに浪費している人も少なくない。病気になっているのも、普段の生活習慣に原因があるのだから、自己責任だろうという人や、アリとキリギリスの逸話を上げて、若い頃に貯蓄をしないで浪費生活をしておきながら、いまさらなんだという批判をする人が多い。

おそらく、生活保護や貧困の家庭に対する批判的意見を持つ人は、想像以上に多いのかもしれない。問題なのは、生活保護や貧困の家庭に生まれた子どもたちは、やがて大人になっても同じような生活をする確率が非常に高くなるということである。つまり、貧困の世代間連鎖である。これも公的教育に原因があるのではなく、家庭教育に原因があるんだと言う人が少なくない。家庭においての教育で、しっかりとした健康意識と勤労意欲を持つための子育てをしていないから世代間連鎖が起きるという意味で、自己責任を問う人も多い。

確かに、自己責任論があるのは承知しているし、完全な間違いではないし、批判も的を射ている。だとしても、貧困になってしまったすべての責任が本人にあるというのは、乱暴過ぎると思うのである。何故なら、生活習慣病の原因が本人のルーズな生活だとしても、健康に対する意識が低いのは本人だけの責任ではない。便利であまりにも不健康な食品が世間には満ち溢れているし、農薬や化学肥料まみれの野菜・米・麦を食べさせられているのである。勤労や学習に対する意識向上、社会全体に対する貢献意識高揚、自己成長に努力する意識確立、このような価値観をしっかりと教育してこなかった我々に責任があるのではないだろうか。ましてや、貧困家庭には非常に複雑なメンタル障害が存在しているケースが非常に多いのである。これらの解決に向けて、積極的に果たして行くべき責任が社会にあるのだ。これらの課題を社会として解決しなければ、貧困はなくならない。

科学的根拠派VSスピ系

SNS上での様々なやり取りが実に面白い。何故かと言うと、あくまでも科学的な根拠、いわゆるエビデンスに基づいたものじゃないと真実ではないとするグループと、スピ系のグループがバトルを繰り広げているからである。勿論、双方共に大人だから、名指しをするとか面と向かって非難をするということはしないようだが、SNSの記事やブログを観察していると、明らかにあの人の記事に対する反論なんだなと確信できる。どちらかというと、科学的検証のグループのほうが、スピ系の記事に対してエビデンスがないと攻撃をするという図式が多いみたいである。

スピ系の方々の記事は、エビデンスらしきものはあるものの、科学的に明らかに正しいと言う根拠を示すことは難しい。どちらかというと、観念的・直観的な理論を展開している。なるほど、そういうこともあるだろうなとは想像できるし、実際に効果を上げているケースも少なくない。霊的な啓示、スピ系占い、アーユルヴェーダやホメオパシーなどの代替医療、レイキ、アロマテラピー、カラーセラピーなどをすべてスピ系として嫌悪感を示す人も少なくない。こういうスピ系の女子が多いせいか、教養と学歴が高くてエビデンスにこだわる男性や理系女子が攻撃するケースが多いようである。

確かに、科学的根拠派からエビデンスを示せと言われると、現代の科学では完全に正しいという論証を示せないのも事実である。ましてや、医学界や薬学会ではスピ系の蔓延に対して苦々しく思っていることもあり、その反証としてのエビデンスを、アカデミーの総力を挙げて研究し続けている。かたや、スピ系はそもそも科学的な検証を求めてはおらず、自分の直観や霊示を信じて行動しているのだから、エビデンスに対する反論が出来ない。しかし、実際に大きな効果は上げていることもある。しかし、間違ったスピ系のやり方によって悲惨な結果になる場合も少なくないから、それをあげつらって科学的根拠派は攻撃するのである。

科学的根拠派は、スピ系や代替医療の上げている効果や成果は、あくまでも偽薬効果(プラシーボ)でしかないと言い切っている。特にスピ系や代替医療に対する攻撃は、アカデミーの威信をかけた闘いの様相を示している。面白いのは、どちらの立場であったとしても、相手の反論や反証を認めない点である。これも、実に大人気ないことであるし、最初から相手の理論が間違っているという立場に固執しているのは、滑稽でもある。科学の研究者というのは、自分の仮説や想像を科学的に正しいかどうかを実験等により証明する形を取っている。こうして、学会で素晴らしい研究成果を上げてきた。

ところが、自分の仮説が正しい筈だという思い込みが強過ぎてしまうと、正しいと証明する証拠集めに奔走してしまい、反証に対する研究が疎かになる。ましてや、あまりも成果を求めるあまり、実験結果のねつ造も起きてしまっている。だから、科学者たる者は自分の考えや理論に対して、もしかして間違っているのかもしれないという謙虚さを忘れてはならないのである。ましてや、天動説がガリレオガリレイによって覆された実例や、ニュートン力学が量子力学で否定された歴史があるのだ。科学者たるもの、または科学的根拠を主論調にする者は、現代の科学では証明されないが、将来は真実だとされるかもしれないという観点を忘れてはならないであろう。

実際に、2500年以上も前にブッダは、この世の万物に実体はなく、人間の意識で実体があると思えば在るし、ないと思えばないと唱えた。こんなことは、完全なまやかしであり、科学的な根拠を示すことは到底出来ないと思っていたのである。ところが、量子力学の素粒子研究と実験によって、完全な真実だと判明したのである。ということは、スピ系や代替医療で主張していることは、科学的根拠がないのであるからすべて誤りであると主張するのは、乱暴な事ではないだろうか。科学的根拠がないのだから、こんな迷信じみたことは信じてはいけないとSNSで発信・攻撃するのは、傲慢ではないかと思うのである。

という自分も、科学的根拠のある真実しかSNSとかブログでは発信しないように心がけている。何故なら、多くの人々に対して心の豊かさや幸福を実感してもらう活動をする為には、ちょっとしたことで反論されて信頼を失くしてしまうことを怖れているからである。たまには、まだ科学的根拠に乏しいこともブログにアップすることもあるが、これは近い将来には科学的根拠が得られるという確信に基づいているからである。科学的根拠派の人たちは、スピ系の人たちの理論がすべて間違いだと攻撃するだけでなく、もしかすると近い未来は真実だとするエビデンスが得られるかもしれないという謙虚さを忘れないでもらいたい。逆にスピ系の人たちは、エビデンスが得られるように努力を怠らないでもらいたいし、論理的証明を心掛けてほしい。将来は間違いなく、科学的根拠派とスピ系の人たちの主張が統合される時代が必ずやって来ると確信している。

 

医療が発達してるのに病人が増加する不思議

これだけ日進月歩している医療技術があるのに、病人が一向に減らずに、逆に増加しているということを不思議だと思う人は、どれだけいるだろうか。西洋の近代医療は、着実に進歩し続けている。診断技術は格段に進化している。X線診断撮影装置がなかった時代は、触診と聴打診、問診や脈診、顔色などで診断をしていたのである。レントゲン撮影が可能になり、内蔵や骨の状態まで確認できるようになり、そしてCTスキャンやMRIによる診断に進み、さらには核医学診断やPETまでが出現するに至っては、確定診断技術は飛躍的に進化したと言える。

血液や尿などの検査技術も発展したし、超音波診断装置は極めて鮮明な画像診断を可能にし、内視鏡による診断と治療は格段の進歩を遂げてきた。診断技術だけではとどまらない。薬物治療は、抗生物質という夢のような薬剤が開発されて、あらゆる感染症の重症化や術後感染を防ぐことが可能となった。抗がん剤や抗精神薬や抗うつ剤など、画期的な薬剤開発がいくつも成功している。さらには、手術などの治療技術は、特に発展を遂げている。よほどの転移をした末期がんでない限り、かなりの成功確率で手術が可能になっている。

これだけ医療技術が発展しているにも関わらず、病人は一向に減らないのである。医療技術が向上すれば、それだけ医療費が嵩むというのは理解できるが、病人が完治すれば患者数は減るはずなのに、実際は患者数も増えているのである。ということは、近代医療技術の発展は、患者を減らすことは出来ないし、逆に増やしているという結論になる。いや、診断技術が上がって今まで見つけられなかった疾病を見つけられるようになったと主張する人もいよう。さらには、今まで助からなかった患者が医療技術の進歩により長生きできるようになったと言う人もいるだろう。果たして、その通りだろうか。

全国広しといえどもたった一人の医師だけが、患者さんを劇的に減らしている。その医師とは、既に現役をリタイアしているが、真弓定夫先生である。医大卒業後に病院の勤務医をしていたが、自分が理想としている医療とは程遠い現実に嫌気がさして、小児科医院を開業した。開業当時は、押すな押すなの大盛況で、待合室は溢れんばかりであったという。評判が悪いとか、治らないからという理由ではない。患者さんが完全に治癒するばかりでなく、その後は永久に再発もせず、ましてや他の病気にならないからである。したがって、開業して何年か経つと、患者さんは激減してしまったのである。

しかし、真弓先生の評判を聞いて、小児科の患者さんだけでなく、全国から一般の大人の患者さんも訪れているので、経営が困難になるほど少ない訳ではない。先生の医院には、薬も注射も置いてない。すべて、食事や暮らし方、そして精神の持ち方などの生活指導だけの治療で劇的に病気を治す。いや、『治す』という言葉は相応しくない。患者自らが治すのであって、真弓医師はその患者さんの治す力を引き出す手伝いをしているだけである。適切な食事と運動、そしてストレスの解消などで病気が自然に治るという。

真弓先生の食育はごく単純な理論であり、誰でも実践が可能である。日本人のDNAに合った、伝統的な和食を勧めている。真弓先生が絶対に摂ってはならないと強く指導しているのは、牛乳と肉である。病気がちだった乳幼児と少年たちが、牛乳と肉食を止めることで、病気にならない強い身体になったらしい。牛乳は元々牛が成長するためのものであり、人間が常時飲むものではないという主張である。動物の体温は常に37度以上あり、それを人間が食べると血管が詰まるという単純な理由からであるという。つまり、自然の摂理に従った食べ方と生き方をすれば、自然治癒力が向上し病気にならないと言うのだ。

医療経営というのは、常に重大なパラドックスを抱えている。病気を治すのが医療機関であるが、完全に治してしまえば医療経営は成り立たない。医薬品製造会社も、完全に治す薬品を作り続ければ、薬品会社の経営は破たんする。精神科医療の経営者は、精神薬を投与し続けなければ経営が行き詰ることを承知している。意識的に、医療機関や薬品会社は病気を治さないようにしているなどと乱暴なことを言うつもりはない。しかし、現実にそういうことが起きているということを、国民は認識すべきであろう。真弓定夫先生のような本物の先生が増えてくれば、病気にならない幸福な人生を歩める人が増えるに違いない。