仕事で失敗や挫折をする訳

仕事は人間を大きく成長させてくれると言うが、確かにそうだと思う。行政などの官公庁の仕事でも人間は成長するが、やはり民間ビジネスにおける厳しい仕事こそが大きな成長をさせてくれるような気がする。最近は、民間ビジネスを嫌ってNPO法人などに勤務したがる若者が増えているし、独立して起業したがる人も少なくない。好きでもない仕事を無理やり押し付けられて、しかもパワハラ・モラハラやセクハラにさらされる民間ビジネスの職場も多い。だとしても、民間ビジネスの厳しい環境で、失敗や挫折を乗り越えてこそ人間は成長するのではないだろうか。

行政や独立行政法人などにおいて、失敗や挫折を繰り返すこともあるだろう。しかし、その責任を痛感して、自分の進退にまで発展することはまずない。しかし、民間ビジネスの世界では、会社・組織に多大な損失を与えたとしたら、本人の進退や降格につながるケースが多い。大きな失敗や挫折をして、その責任の重さに耐えきれず、メンタルを病んでしまうことも少なくない。だからこそ、民間ビジネスの厳しさを耐えて乗り越えてきた人間は、強い精神力と忍耐力を獲得できるのではないかと思われる。

とは言いながら、出来ることなら失敗や挫折は避けたいし、ましてや取り返しのつかないような大きな失態は演じたくない。大事な顧客を失ったり、多大な損失を与えたりするようなことは、ビジネスマンとしては絶対にしたくないものである。企業内のいろんな社員を見ていると、何度も大きな失敗を繰り返す人と、小さなミスはするけれど大きな失態はまったくしない人がいることに気付く。どうして、大きな失敗を繰り返す人としない人がいるのだろうか。

失敗や挫折を繰り返す人には、明らかな特徴がある。それは、非常に独善的であるという点である。表面的には、会社に対して忠誠心を持っているように振る舞っているが、自分の地位や名誉に固執し、自分にとって損か得かで行動を決めがちである。したがって、自分の利害が一番であり、他人がどうなろうと知らんぷりの態度を取りがちである。企業内も競争社会である。出世競争もあるし、手柄を立てたいというのは人情であるが、あまりにも自己の利益にこだわる傾向にある社員が、どういう訳か失敗を繰り返す。

大きな失敗や挫折を繰り返す人は、他人の気持ちに寄り添うことが苦手なようである。つまり、同僚や部下の気持ちを推し量ることが不得意である。相手の気持ちになり切って、自分のことのように共感することが出来ないから、周りの人から好かれない。同僚や部下に対して冷たいので、敬愛されないし信頼されない傾向にある。端的に言えば、良好な関係性を作ることが苦手なのである。当然、顧客や取引先との関係性も劣悪になることが多い。クレームや解約になるケースも少なくない。

会社や組織というのは、ひとつの完全なシステムである。構成要素である部門や社員が、全体である会社を支えている。そして、構成要素である部門や社員は、会社というシステム全体を最適化するように最大の努力をしながら働く。全社最適を目指すのである。当然、会社だけの最適を目指すだけでなく、社業を通して地域社会や社会全体の幸福や豊かさにも貢献する。つまり、全体最適を目指して活動しているのがシステムとしての企業であり、それを支える社員も全体最適を目指すべきなのである。そして、全体最適を実現するには、構成要素どうしの関係性が何よりも大切なのである。

ところが独善的で自分の損得を第一義的に考えている社員は、個人最適を目指しているのである。全体最適と関係性というシステム思考に反する行動をするのだから、不適合を起こすのは当然である。つまり、失敗や挫折という不適合を起こすのは、システム思考という哲学に反するからなのである。このように個別最適を目指す社員が出世して経営トップになった企業は、間違いなく大失態を起こしたり経営破綻したりする。東芝や神戸製鋼が失敗したのは、これが原因である。失敗や挫折を避けるには、全体最適と関係性を重視するシステム思考の哲学に基づいて行動すれば良いという結論になる。

 

※イスキアの郷しらかわでは、失敗や挫折を繰り返す社員の教育研修をしています。システム思考の哲学を学習することは勿論のこと、自己マスタリーという大切な人間成長の基本となる原則を学びます。真のリーダーシップを獲得するための研修も充実しています。MIT上級講師のピーター・センゲ氏が提唱しているシステム思考を深く理解し、「学習する組織」を創造するためのサポートをしています。

依存症や中毒から抜け出すには

統合型リゾート(IR)整備推進法(カジノ法)が衆議院を通過した。参議院でも承認されるのは間違いないであろう。現在、ギャンブル依存症が益々増加しているのに、合法カジノが出来たら、さらにギャンブル依存症は増加してしまうだろう。日本の公営ギャンブルは、依存症を起こさせて人生の破綻を生みやすい。さらに、パチンコはもはやギャンブルの領域を遥かに超えて、賭博と化してしまっている。合法カジノはギャンブル依存症で苦しむ本人と、それらを支える家族を益々悲惨な状況に追い込むことであろう。

依存症はギャンブルだけではない。薬物依存や麻薬・覚醒剤依存もあるし、アルコール依存やニコチン依存も深刻である。買い物依存や過食・拒食への依存に苦しんでいる人がいる。シンナー中毒やカフェイン中毒もあるし、砂糖と炭酸飲料(ジャンクフード)依存やカップ麺の依存症は本人が気付いていないから離脱が難しい。ネット依存、PC依存、スマホ依存、ゲーム依存に若者が取り込まれている。暴力依存(ドメスティックバイオレンス)もあるし、セックス依存症などに苦しむ人が少なくない。宗教依存やスピリチュアル依存になっている女性も以外と多い。

一旦依存症になってしまうと、本人の生活だけでなく家族の生活も波乱を招くことが少なくない。睡眠障害や食の乱れも起きるし、生活リズムが崩れるだけでなく、ウソをつく傾向により家族との関係性も破綻する場合が多い。仕事や学校を休みがちになるし、借金を繰り返すことにもなり、人生が滅茶苦茶になってしまうこともある。依存症の人がどれくらいいるかというと、ニコチン依存症だけでも1,800万人もいると言われている。アルコール依存症だって相当いる筈だし、砂糖・炭酸飲料とカップ麺依存症はおそらく2,000万人は下らないと推測される。国民の殆どが何らかの依存症になっているのではなかろうか。

これらの依存症から離脱しようと努力している人は相当いるものの、依存症から抜け出すのは非常に難しい。依存症を軽く考えている人もいる。自分が依存症だと自覚している人さえ少なくない。依存症は精神的な障害だと捉えたほうが良いし、医学的心理学的ケアーを受けたほうが良いと主張する専門家が多い。依存症になるのは性格や人間性の影響もあるが、脳の神経伝達物質と神経伝達回路の異常によるものだというのが一般化している。だとすれば、どうしたって医療によるケアーも必要だということになる。しかし、薬物治療や心理療法を受けたとしても、依存症から離脱するケースが少ないのが実情である。

何故、医学的心理学的ケアーによる効果が少ないかというと、本人が心から治そうと決断していないことと、依存症から離脱する『目的』を持っていないからではなかろうか。依存症から完全に抜け出した人の話を聞いていると、実に興味深いことを言う。自分がまずは依存症であることを深く自覚し、家族や周りの人々に迷惑をかけていると認識したと述べる。そして、絶対に依存症から抜け出すことを決断し、周りの人々にも宣言(コミットメント)したという。そして、出来得る限りの努力を毎日続けたと言うのである。

これだけでは足りないとも言える。さらに、何の為に依存症を離脱するのかの目的を持つことが必要だし、その目的に適った到達目標を設定することが肝要だと言える。さらに言えば、目的を持つには正しくて高潔な価値観が必要でもある。言い換えると、生きるためのしっかりした哲学である。正しくて高い価値観や哲学を持たないと、目的を持つことは出来ないのである。依存症によって、自分の人生を駄目にしてきただけでなく、家族を含めた周りの人々に迷惑をかけてきたのは、自分にしっかりした正しい価値観がなかったからだと認識するべきだろう。

依存症になる人は、おしなべて生きる目的を見失っている。実に低劣な目標は持っているが、人生の高邁な目的がないのである。人間という生きものは、高潔で正しい価値観や哲学を持たないと、挫折を繰り返してしまう。人間は、自分だけの損得や利益で生きると周りから信頼されない尊敬されない。家族を含めた周りの人々との関係性も希薄化しやすい。つまり、個別最適は関係性も悪化させるのである。人間は全体最適を目的にして生きなければならないし、関係性を重視した生き方が求められる。このような生き方をすれば、幸福な生き方が出来るし、依存症にはならないのである。とすれば、依存症から完全に抜け出すには、この全体最適と関係性の哲学と価値観を学び習得すればよいと言える。

 

※イスキアの郷しらかわは、各種依存症に苦しんでいらっしゃる方とその家族の支援をしています。何故、依存症になるのか?依存症になる背景、依存症になるシステムとプロセス、そして依存症からの離脱をする助言をしています。依存症から抜け出すには自然体験や農業体験も必要ですし、食事や生活習慣の改善も求められます。そして、価値観や哲学の学習が肝要です。まずは「問い合わせフォーム」から質問してみてください。

ネットで批判コメントする愚か者

ネット上でアップしたブログに対して、困ったコメントを書く人がいる。先日も、労働に対する価値観について記したら、実に汚い言葉でののしられてしまった。内容からしても、けっして怒るようなことを書いた訳ではないのに、かなり激怒させてしまったみたいで、老害だと批判されてしまった。若い人の労働観はあまりにも自己中で身勝手であり、自分の損得や利害を重視した働き方は、自分自身の人間としての大切な理念を見失ってしまい、挫折してしまう危険があると提言したのだが、それが気に入らなかったようである。

自分の考え方や価値観と違うブログや書き込みを見つけると、ついつい批判をしたがるのは人間の性かもしれない。しかし、ブログというのはあくまでも私的日記である。その人の考えや思いをつれづれに綴るのであって、お金をもらっている訳でもないし、有料で閲覧させている訳ではない。読者に対して教訓を垂れている気持ちもないし、自分の考えを押し付けているのでもない。自分の考えや思いはこうなのだと、ひとつの提案として述べているだけなのである。

それなのに、自分の考えに合わないからと、攻撃してくる輩がいるのだ。もし、自分の考え方と違うならば、自分自身のSNSでブログやツィートすればよいのであって、他人のブログにコメントを残すのは、完全なネットマナー違反である。例えば、明らかなコンプライアンス違反や犯罪行為になることを書いていて、読者や社会に悪い影響を与える危険性があるというならば、注意を喚起するコメントを載せるのも許される。しかし、明らかに間違っていることを書いてあるにしても、他人を傷つけたり社会に悪影響を与えたりしなければ、スルーするのが大人の対応というものだ。

ネットの世界で、どうしてこんなにも批判的かつ攻撃的な人間が多いかと言うと、自己の確立をしていない人間が増えているからであろう。自分の悪いことや恥ずかしいことも含めてすべてを認め受け容れることが出来たなら、真の自己肯定感を持てる。しかし、中途半端な自己肯定感があるため、自分と違う他人のことが許せずについつい批判し攻撃するのだ。根底には、大きな自己否定感が存在し、マイナスの自己を認めたがらず、他人のマイナスの自己を許せないのである。つまり、多様性を受け容れられないのである。

学校や職場でいじめやパワハラが横行しているのは、同じく多様性を認めることが出来ないからである。人間は違っていて当たり前である。姿と形も違うし、感情の表し方も異なるし、考え方や価値観もその人特有のものであり、違いがあるのは当然である。このような多様性があるからこそ、人間は進化してきたのだし、社会の発展が実現したのである。この多様性を認めず、自分の考え方や生き方だけが正しいと思うのは、傲慢であろう。自分が正しく、他人の考えや生き方の価値を認めないというのは、人間としての謙虚さや柔軟性を喪失して、自己成長を阻害してしまう。

自分の価値観、それも劣悪で低い価値観に捉われてしまうと、そこから抜け出すのが難しい。だから、自分の認知や考え方と違う意見や提言に接すると、謙虚に受容出来ないし寛容になれない。正しく高い価値観を持つ人は、他人の違いを受け容れられるし許せる。学校や職場においていじめやパワハラをするような人は、間違いなく正しく高邁な価値観や哲学を持たない人である。こういう人がネット上でキレたようなコメントで、他人を批判するのである。しかも、自分の誤謬に気付かないから、いつまでもこんな愚かな行動を続けて、他人を傷付けるのである。

ネットで批判され攻撃された善良な人は、あまりにも怖い批判コメントなので、怖くなってしまいブログをアップできなくなることが多い。自分のブログが炎上してしまうのではないかと、恐怖心で身がすくむ。そんな怖れは無用である。そんな批判コメントは受け付けなければ良いのである。承認制にして、リコメせずに即削除することである。こんなマナー違反の人間のコメントは無視するに限る。丁寧に反論するのは、無駄なのである。劣悪なメンタルモデルに支配された人間は、他人の意見に耳を貸さないから、反論しても、一切聞き入れない。時間が浪費されるだけだと心得よう。とんでもない批判コメントがない、共感のネット社会にしたいものである。

女人禁制と不易流行

大相撲の春巡業で救命措置の為に女性看護師が土俵に上がり、土俵から降りるようにとアナウンスされたということが報道された。今でも、大相撲の土俵には女性が立ち入れないというしきたりが存在する。大相撲は神様に豊作を祈願した神事であることから、女性が土俵に上がると、神様が嫉妬するからという理由から土俵に上がれないとされている。確かに、伝統を守るという意味では大切なしきたりかもしれないが、大峰山への女人禁制も含めて、検討すべき時期にきているのではなかろうか。

日本百名山の中で、奈良県の大峰山だけが今でも女人禁制となっている。信仰の山であることから、女人の登山を禁止していると言われている。しかし、大峰山全体が女人禁制なのではなくて、山上ケ岳という山だけが女人が立ち入れなくなっている。大峰山域の稲村ケ岳は女人でも登れる信仰の山として立ち入りが許されている。また、大峰山域の最高峰である八経ヶ岳は女性でも登山が許されている。山上ケ岳の登山口には、女人結界の門があって、立ち入れないことになっている。

時代が変わっても絶対に変えてはならないことと、時代に即して変えなくてはならないことがある。それを、四文字熟語で不易流行と言う。この不易流行という言葉は、松尾芭蕉が奥の細道を旅する際に確立した、俳諧における大切な理念の一つらしい。この言葉は、大事なことを私たちに教えてくれている。自分の生き方を決める時にも、伝統や慣習を重視すべきか、それらを思い切って変えていくべきなのかを示唆してくれる。常に新しいことを取り入れることこそが、大切な基本原則を守り育てることになるとも言える。

絶対に変えてはいけないということが、女人禁制ということなのかを熟慮する時代になっているような気がするのは、私だけではあるまい。連日の報道番組でも、大相撲の土俵が女人禁制であるべきなのかどうかの論議が活発に行われている。外国の人から見ると、女人禁制というのはかなり奇異に映るらしい。男女共同参画社会を目指していて、男女平等を謳っている現代社会において、いまだに女人禁制が守られているというのは、実に不思議なことである。

大相撲の土俵に上がれないのは、女性が穢れているからという意味もあろう。大相撲は神事であり、土俵という聖域には穢れのある女性を上がれなくしたと思われる。もっともらしく、神が嫉妬するという理由付けは、後に作られたのではなかろうか。大峰山が女人禁制になった理由は、厳しくて危険な登山道なので、足腰も弱く危なげな女性が登って怪我をしてはいけないと登らせなかったと言われている。また、男の修験者が女性を見て心が乱れて修行の邪魔になるのを防いだ為とも言われている。

女性が穢れているという理由は、女性特有の生理と出産における出血に由来しているようである。日本では昔から血液は穢れているという認識があったらしい。女性のお腹から産道を通って、血液にまみれて生まれて来る男の子も、そういう意味では穢れていると言えるだろう。それなのに、女性だけが穢れているとされるのは、納得できないことである。ましてや、修行の場に女性がいるとその妨げになるという理由は、益々不可解である。修行するのは、この社会において様々な欲望を乗り越える人間力を身に付ける為であろう。修験者が女性に心を奪われて、修行出来ないというならば、そんな低レベルの人間では元々修行すること自体が無駄な事と言えよう。

世の中には、いろんな慣習や伝統文化があるし、古くからのしきたりも多い。そういうものは、すべて意味があって造られてきたものである。女人禁制もいろんな意味があって、作られてきたものである。それも、神や仏そのものが作ったものではなく、人間が作ってきたものである。特に、男性たちが権力や権威を守り、自分達の権益を確保するために作られた伝統的な慣習が多い。女人禁制もまた、男性が自分たちの優位性を示すためのものであるならば、けっして看過できないものである。不易流行という言葉を深く噛みしめることにより、女人禁制が時代遅れのものだということを認識できるのではなかろうか。女人禁制などという女性蔑視の考え方は、一刻も早く捨て去らないと、世界から笑いものになるに違いない。

何事もバランスが必要

森友問題が佐川氏喚問を終えて、政府自民党はこの問題を収束させたいと思っているし、野党はさらなる追求をしようと目論んでいる。貴重な国会の議論をこれだけに集中するのは、国民にとって多大な損失であろう。もっと大切な議論があるし、報道機関としても国民が他に知りたいことが沢山あるのにも関わらず、森友一色になるのも困る。とは言いながら、文書改ざんは今後の行政の信用に関わる大問題であるから、再発防止策を講じない限り、ないがしろには出来ないことである。

それにしても、こんな森友の不祥事や加計学園の問題が何故起きたのであろうか。それは、安倍一強政治の傲慢が招いたのではないかと思う人が、とても多いように感じる。内閣人事局が制定されたのも、官邸に忖度する官僚ばかりになってしまったのも、あまりにも内閣と官邸の力が強大になってしまったからである。どうして安倍一強になったのかというと、別な視点から見ると、安倍総裁の他に有力な政治家がいなくなってしまったことと、野党がだらしないということに尽きるであろう。

過去の歴史を紐解くと、独裁政治が長く続くと政権内部から崩壊が起きていることが殆どである。国の政治もそうであるが、県や市町村においても首長が絶対的な権力を持ってしまうと、内部から腐敗が起きてしまうケースが実に多いのである。組織や企業においても、トップがあまりにも大きな権力を持ってしまうと、イエスマンだけの部下に成り下がってしまい、内部崩壊を起こしてしまうことが多い。現代においても、米国、中国、ロシア、北朝鮮などで国民の意思を無視した独裁政治が行われていて、内部崩壊が始まりつつある。

強力なリーダーシップを発揮できることで、政権運営や企業経営が上手く行くケースも少なくない。リーダーシップのあるトップだけが、低迷する現状を解決できるのではないかと、そのようなリーダーを求めたがる意思が働く。だからこそ、国政選挙においてもこのようなリーダーを求める国民が、投票するのであろう。しかし、あまりにも強いリーダーシップを持つ権力者と、それに対抗する勢力があまりにも弱すぎると、微妙なバランスが崩れてしまい、『裸の王様』になる例が多く、やがて内部腐敗や崩壊が起きる。

このようなケースは、家庭内でも起きる。あまりにも父親が家庭内で大きな権力を持ってしまうと、妻や子は何時も父親の顔色をうかがうような暮らしをし兼ねない。夫婦関係においても、どちらかがあまりも大きな力を持って相手を支配してしまうと、横暴な行為を許してしまう。親子関係でも、親が子どもの尊厳を認めず、すべて親の言いなりになる子どもにしてしまうと、子どもの自立を阻害してしまうことになる。夫婦の相互自立や子どもの自立がされないと、やがて家庭というコミュニティは崩壊することになる。

家庭内が微妙なバランスによって成り立っていれば、一方的に指示して従うというような関係になり得ない。お互いの人間としての尊厳を認め合うことで、自立がしやすい。だから、経済的にも精神的にも自立するには、一部に力が集中することを避けて、パワーバランスを保つことが必要であろう。男性は女性よりも腕力が強い。暴力によって相手を支配し、バランスが保てなくなることは絶対に避けなければならない。ある程度のリーダーシップが必要であろうが、微妙なバランスを保てるようなお互いを尊重する対話こそが根底に求められる。

一人の人間においても、どちらかに偏らないバランス感覚も必要なのではなかろうか。政治的に右翼的な考え方と左翼的な認識のどちらかに偏向してしまうと、世の中の真実が見えなくなってしまう。政治的におけるバランス感覚があれば、耳に心地よいマニュフェストに騙されることもないであろう。人間性においても、あるべき姿を求めて努力する姿勢と共に、あるがままの自分を好きになる気持ちも大切であろう。条件付きの愛を注ぐ男性性も必要であるが、無条件の愛を与える女性性も大事である。これらのバランスを保つことは、『中庸』と呼ばれている。政治的な中庸が保てれば、森友加計問題も起きず、国民ファーストの政治が実現するに違いない。

 

心を真に癒せるのは自分だけ

ヒーリングセミナーとか癒しのセッションなどが盛んに行われている。または、スピ系ヒーリングとか、自分を神と名乗って人々を癒すセッションなどが各地で開催されている。一時的な心の平穏や安心を得られるという効果があるのは承知しているし、それをきっかけにして自分自身を深く見つめて、自分の精神的な成長に繋がるような努力をするというならば、受講する意味があろう。しかし、これらのセミナーや勉強会を受けるだけで、心が癒せると思い込ませるだけならば、こんなセミナーを受講するのは百害あって一利なしである。

オオミスミソウ(雪割草)新潟県角田山

スピ系や神系の考え方をすべて否定する訳ではない。なるほどと思えるようなことは少なくない。心の癒しのきっかけや自分との対話への導入部として活用するというならば、否定するものではない。しかし、自分の深い学びや心の成長に向かわずに、神や霊などを信じるだけで、自分が救われるという安易な方向に向かわされてしまうケースが多いのが気になる。ましてや、自分の心を誰かとか何かによって救ってもらえるというように、勘違いさせてしまうのであれば、これらのヒーリングセミナーは絶対に受講すべきでない。

それにしても、こんなにも世間ではヒーリングセミナーが流行しているということは、それだけ心の癒しを多くの人が求めているという証左でもあろう。誰かによって癒されたい、何かを信じることで自分が救われると思い込んでいるのかもしれない。または、このグッズを自分の周りに配置すれば癒される、このパワースポットをお参りするだけで救われると信じているのである。誰も支援してくれないし助けてくれないと思っているからこそ、何かにすがりたいというのも頷ける。

ヒーリングセミナー、占いとかスピ系の癒しセッションなどを受講するだけで、傷ついてしまった心が真に癒されることはない。ましてや、PTSDやパニック障害、メンタル障害に陥り苦しんでいる方々を、完全に治せる筈がない。百歩譲って、自分を傷つけたいと思うような事態に追い込まれている人を救う、緊急避難的な効果は認められかもしれないが、完全に癒されることはないと認識すべきであろう。冷たい言い方かもしれないが、自分の心を真に癒せるのは、自分しかないのである。

一部の医療機関では、薬物治療をなるべく用いないで精神療法や心理療法を駆使して、完全治癒を目指している。しかし、殆どの医療機関では漫然と薬物治療だけをして、根本治療を怠っている。真に心を癒して完全治癒の効果を上げているカウンセラーもあまり見当たらない。自分の心は自分自身でしか癒せないし、何故自分がメンタル障害になったのかを完全に認識させてくれる医療機関や福祉機関は殆どない。だから、メンタル障害の完全治癒のケースが極めて少ないのであろう。

自分で自分の闇の心を深く見つめ、自分の間違った認知傾向とその基になっている低劣な価値観に気付いて、自分の考え方と生き方を自ら変えた人しか、自分を治せないのである。何度も繰り返すが、傷ついて折れてしまった自分の心を『魔法の杖』で治してくれることなんて存在しない。残念ながら、ヒーリングセミナーや神系セッションに何度も参加しても、無駄である。高い参加料や受講料は、ドブに捨てるようなものだと言ってよい。スピ系グッズだけで問題が解決するなんて、あり得ないのである。スピ系の皆さんにお叱りを受けるだろうが、自分を肯定させるセミナーだけで、人は癒せないと心得てほしいのである。

自分を真に癒せるのは自分しかいないというと、突き放しているように誤解されてしまうかもしれない。けっして、見捨てている訳ではない。自分を真に癒すのは自分だとしても、それを見守り個別支援する人は必要であろう。完全に自分だけで自分の心を癒してきた人も居ない訳ではない。しかし、それは実に稀なことであり、やはり何らかのサポートは必要であろう。心が傷ついた方にそっと寄り添い、本心から共感し、苦しくて悲しい感情を自分のことのように感じ、まるごと受け止めて寛容し受容し、例え間違っていたとしてもその物語に寄り添うことが必要である。その間違った物語に本人が気付き自ら捨て去るように、否定することなく対応する人が求められる。そして、新たな正しい物語を再構築できるように支援してくれる者がいてくれたなら、自分で真に心を癒せるのに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、心を癒すための治療はしていません。しかし、農業体験や自然体験をしながら自分の傷ついて閉ざしてしまった心を開くことが可能になり、自分の心を見つめ直すきっかけ作ります。さらに、クライアントの相談相手になります。森のイスキアの佐藤初女さんのようにただお話を伺うだけです。ナラティブアプローチのように、自ら古くて間違った物語(ドミナントストーリー)を破壊して、新たな正しい物語(オルタナティブストーリー)を創るお手伝いをさせてもらいます。自己マスタリーやシステム思考の学びがその新しい物語を創る支援になりますので、その研修も受講してもらいます。

命よりも大切なもの

財務省の決裁文書改ざん問題で、国会が揉めている。こんな低レベルのことを、世界に誇る日本の優秀な官僚が実際に行ったという事が驚きであるが、一人の官僚が自殺してしまったという痛ましい事件に発展していることが注目される。このような官僚を巻き込んだ事件が起きると、一番弱い立場にある下働きの行政職員が犠牲になることが多い。民間人であっても、贈収賄・汚職事件で自殺してしまうケースも多々ある。何よりも尊い命を絶ってまでも、守るべき存在なんてあるのだろうか。

巨悪に立ち向かうことが優先すべきだということは理解するが、一人の生命がないがしろにされてしまっているのに、その責任を追及しないマスメディアの姿勢も問題であろう。過去にも汚職事件などで、誰かを守るために犠牲になった方々がいて、追い込んでしまった責任を誰が取ったであろうか。守ってもらった人が、自分を守る必要はないよと言ってあげたりすれば、命は守られたであろう。亡くなった方の名誉を守るため、自分が悪かったと贖罪した人物はいなかったように記憶している。

今回の財務省の文書改ざん事件で自殺された方の名誉を回復させてあげたいと、自分が指示したことだと誰も言わないのは不思議であり、とても残念である。命は何よりも尊厳されるべきだということは理解している筈なのに、財務省官僚や政治家たちは口をつぐんでいる。命を軽視しているとしか思えない。亡くなった方の家族は、いたたまれないことであろう。この日本という国のかじ取りと航海を仕切っている政治家と官僚は、命よりも大切なものがあると思い込んでいるのかもしれない。

命よりも大切なものとは何であろうか。たぶん、日本を牛耳っている政治家とキャリア官僚たちは、国全体の利益とか国体の維持と考えている節がある。全体の利益ためには、個別の利益がある程度制限されることがあり得るのは理解している。しかし、人命までも奪ってまで守る利益なんて、本当にあるのだろうか。太平洋戦争時、特攻隊は国のために自分の命を犠牲にした。あの時に特攻隊を指示した高級軍人たちは、危険な戦場には出ることなく、のうのうと生き残った。あの当時の考え方が、今でも残っているとしたら、実に情けないし許せないと思うのは私だけではあるまい。

命よりも大切なものがある筈がない。人間としての尊厳、名誉、哲学、生き方を守る為に、自分の命を犠牲にしてでも守らなければならないという人がいるかもしれない。それは完全な間違いだという事を、親たちは子どもたちに教えてきただろうか。学校においても、命の大切さを教える教育はしていると思うが、子どもたちの心に響く言葉で教師たちは伝えてきたであろうか。どうも、このような命を尊ぶ教育が不十分だったのではなかったと思えて仕方ない。だから、汚職事件の犠牲者だけでなく、日本では自殺者が多いのではなかろうか。

命よりも価値があると言い張る人間がいる。それは、自分の命が脅かされることがない人間が言っているケースが多い。自分で命を絶つしかないと思う立場に追い込まれてしまったことがない人であり、テロや紛争が日常的に起きている地域に住んだことがない人であろう。自分の命が危機的な状況に追い込まれて、明日の命が解らないというような日々を過ごした経験があれば、絶対に命を軽視するような発言はしないものである。命よりも大事なものなんてないと、言い切ることであろう。

何故、そう言えるかというと、人間は生きていることでしか成し遂げられないことがあることを実感しているからである。死んでしまったら、家族、会社、地域、国家というコミュニティに対して貢献できないのである。どんな状況にあったとしても、人間は存在そのものが社会貢献をしているのである。死んで貢献することがあるという人もいるが、それは詭弁である。守護霊になって、家族を守るという人がいるかもしれないが、絶対にそんなことはない。自殺者が他の人たちに影響を与えて、後追い自殺をする人が多数いるのを見れば明らかである。命よりも大切なものなんて存在しない。だから、どんなに追い込まれても、自殺は絶対にしてはならないのである。生きていれば、今抱えている問題は必ず解決できるし、多くの人々の幸福や豊かさに貢献できるのである。

 

※学校や職場、または家族のことで悩んでいて、死んでしまいたいと思っている方がいらしたら、まずはイスキアの郷しらかわにご相談ください。匿名でもいいですし、事情などを詳しく問いただしたりすることはありません。言いたいことだけをおっしゃってください。問い合わせのメールだけのやりとりでもいいですし、個人アドレスでなくてもいいですから、まずはご連絡ください。問い合わせフォームからお願いします。

巣立ちの息子に伝える父の言葉

今の時期になると、三人の息子が大学入学のために独り暮らしを始める際に、こんな言葉を必ず伝えていたことを思い出す。三人の息子は、それぞれ県外の大学に入学したので、アパートに入居するために、3月のこの時期に引っ越し準備をしていた。その息子に対して大事な話があると、二人きりでお互いに正座して、じっくり話をした。それは、一人の男として人間として生きていくうえで必用不可欠なことであり、息子に対して父親しか言えないことでもあった。

その話とは、女性に対する思いやりであり、女性の人権を尊重するということでもあった。身体的にも脆弱で精神的にも傷つきやすい女性に対して、男たるものはその弱さや傷つきやすさをまずは深く認識すべきだということを伝えた。そのうえで、女性の身体を傷つけたり精神的な迫害をしたりしてはならいないということを肝に銘じておくようにと言い含めた。さらには、女性の尊厳を傷つけてしまうようなことも、絶対に避けるべきだということも伝えたのである。

例えば、単なる欲望の捌け口として、女性を利用しようとしてはならないし、相手の望まない性交渉を強要してはならないこと。性行為は、お互いの同意が必要であることは勿論のこと、根底に愛情が伴わないような衝動的性交渉は避けるべきこと。ましてや、性行動には妊娠という結果がついてくるので、お互いに経済的な自立基盤がない時期に、結婚するという覚悟がなければなるべく性行為はすべきでないということ。万が一妊娠させてしまうと、学生の身分では堕胎せざるをえず、そうすれば2度と妊娠が出来なくなるような心身のダメージを女性に与えてしまうから、絶対に避けなければならないことを伝えた。

さらには、男たるものどうしても愛欲や性欲に流されてしまうこと。だからこそ、そのような欲望にも毅然として立ち向かい、欲望に負けない精神性を持つことも伝えた。例えば、お酒を飲んだ時などは、ブレーキが利かなくなることが多い。だからこそ、自分を制することができるレベルまでしか酔わないような飲酒をしなさいと言い聞かせた。飲んだ時に歓楽街を歩いていると、いろんな誘いをかけられる。くれぐれも呼び込みを使って誘い込むような飲食店には、危ない目に遭うから絶対に付いて行かないようにと釘を刺した。

世の中には、女性の身体を売り物にした商売が存在する。例えば、下着姿や裸を売りにしたようなキャバレーやパブがある。飲みに来たお客に売春をさせる店もある。ソープランドと呼ばれる場所もある。このようなお店に行くことは、絶対に勧められない。何故ならば、お金で女性の身体を自由するということは、本人も納得しているし収入を得る為とは言え、女性の尊厳を傷つける行為であるからである。女性がお金の為に自分の身を売る行為は、自らの尊厳を傷つけてしまい、自己否定感情を強化させてしまうから不幸な人生を歩むことになりやすい。それを利用する男性がいるから、このような商売が成り立っていることを認識すべきだと付け加えた。

このように、独り暮らしをする息子らに対して、言いにくいことをしっかりと伝えたのである。看護師をしているwifeは、仕事柄多くの不幸な女性を見てきた。そういうこともあって、自分の息子が女性の心身を傷つけてしまうようなことをしてほしくなかったと思われる。だから、女性の親としては言いにくいことを、男の私に言わせたのだろうと思われる。娘を持てなかった私たち夫婦だからこそ、娘さんを大事に育ててきた親御さんのことを思うと、このようなことを息子に伝えざるを得なかったと言えよう。

武士道においては、惻隠の情(惻隠の心)を大事にしなさいと教えている。会津藩では、什の掟というものがあり、その中で『弱きものをいぢめてはなりませぬ』と戒めている。つまり、社会的弱者に対しては、強者たるものはいじめたり傷つけたりしてはならないということである。「強きをくじき弱きを助ける」をモットーにして生きるべきだと思っている。息子たちにも小さい頃から、惻隠の情としての弱きものに対する慈悲の心を持つことを、教えてきたつもりである。身体的には男性よりも圧倒的に弱い女性を、外敵や攻撃する者から身を挺してでも守るのが男性である。そのことをしっかりと伝えてから、独り暮らしをさせてきた。今でも、その戒めを守ってくれているものと信じている。

女王蜂症候群にならない為に

女王蜂症候群という語句を聞いたことがあるだろうか。最初は、1970年代の米国で盛んに話題になった注目ワードである。その後、ずっと忘れられていたものの、ここ数年この女王蜂症候群という言葉が話題になっているというのである。本来の意味とは、企業内で幹部職に昇進した女性が、女王蜂のように君臨して、部下を働き蜂のようにこき使う姿を揶揄したものと思われる。ちょっと前までは、女王蜂のように颯爽と仕事と家庭を両立させている女性幹部に憧れていた女性が、自分もやがてそうなりたいと頑張っていたのだが、最近は逆に減滅してしまい、経営幹部になりたがらないというのである。

女性キャリア職ならば、やりがいのある仕事を任せられ、やがては業績を残して昇進したいと願うのは当然であろう。せめて部長職まで昇りつめたいと思うのではなかろうか。男女共同参画社会の意識が高まり、一般企業においても女性管理職に対するアレルギーが少なくなり、女性管理職が増えてきた。しかし、せいぜい係長や課長止まりが多くて、部長や取締役まで昇進する女性は極めて少ないという。何故かと言うと、課長までならいいけど、部長までにはなりたくないと思う女性キャリア職が多いと言うのである。その多くが、女王蜂のように活躍する部長職の下で働いているというのである。

女王蜂のように君臨して、バリバリ働いている幹部職は女性の部下を実に上手く使いこなせると想像することであろう。自分も女性であり、女性の細やかな感受性を持つのだから、女性部下の気持ちが良く解る。女性特有の体調にも配慮できるし、家事育児の両立を経験してきたから、女性が働くための環境を整えることが上手に出来る筈である。同性だという気安さもあり、いろんな助言や指導が適切に行える。女性ということで、社内の根回しも出来ることから、部下も仕事がやりやすいことであろう。

ところが、実際に女性管理職の下で働く女性キャリア職たちは、様々な不満を抱えているというから驚きである。まず、子どもの軽い体調不良があり、休みが欲しいと申請すると、そんな風邪ぐらいのことで自分は休んだことがなかったと皮肉を言うというのである。さらに、若い頃の自分はもっと仕事を頑張ったし、業績も残していたと部下に頑張りを押し付けるというのである。それも自分の実績を過大評価して、自分の過去を美化するというから始末に負えない。こんな上司の下では働く喜びを感じられず、過大なストレスを抱えて、うつなどの気分障害になる女性が多いというから深刻だ。

人間という生きものは複雑である。自分が苦労して手に入れた地位や名誉は、手放したくなくなるものである。自分よりも仕事が出来て、能力も高くて他からの評価や信頼が高い部下に対して、無意識で排除したがるのはよくあることである。これは女性に限らず、男性の管理職にも多い誤謬でもある。管理職というのは、自分よりも出来る部下を育てることを無上の喜びとしなければならない。ところが保身意識が強い上司は、自分の立場が脅かされると、無意識で部下を育てたくなくなってしまう。特に価値観の低劣な上司ほどこういう対応をしやすい。

このように、部下を育てられず部下を使い捨てにしてしまう、女王蜂のような女性管理職が増えてきたというのである。そして、女性管理職が陥ってしまっているこれらの症状を、『女王蜂症候群』と呼んでいるらしい。実に困った状況になっている。熊本市議会の女性議員などが、市の職員に対して乱暴な言動をしてパワハラをしているのは、まさに女王蜂症候群だと言えよう。権力や権威を長く持つと、どうしても自分が一番だと思いたがるようである。男女共同参画社会がこれだけ浸透しているのに、こんな議員や幹部職員がいると、逆行しかねない。由々しき大問題である。

女王蜂症候群に陥ってしまい、部下を気分障害にしてしまったり、やる気を削いで辞職に追い込んだりする原因は、正しい哲学や価値観を持たないからに違いない。何のために仕事をするのか、どんな目的のために業務を遂行していくのかという、そもそも正しい働く目的がないのである。出世してトップになり、会社の業績を伸ばして、会社の役に立ちたいというのが目的だというなら、これは完全な間違いである。これは個別最適であり、社員同士やお客様、そして取引先との関係性を棄損してしまう。そうすると、結果として業績も伸ばせない。本来、働く目的とは人々のため世の中の為に、社業を通して貢献することにある。つまり全体最適にあるのである。その為に、関係性を重要視した管理が求められる。この全体最適と関係性重視の正しい価値観を持たないから、『女王蜂症候群』に陥っているのである。女性管理職には、正しい価値観を学んでほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、幹部職及び幹部候補生に対して、正しい経営哲学と価値観の学習を支援しています。部下がメンタル障害になったり休職離職に追い込まれたりしているのは、上司が正しい価値観を持たないのが要因のひとつです。是非、研修を受講してください。問い合わせフォームからご相談ください。

違いを怖れない

学校内などでの友達との関わりあいにおいて、皆と違う考え方や言動をすると、笑いものにされるらしい。それだけでなく、排除されたり虐められたりもするというから怖い。いじめの行為に対して、勇気を持って止めるように注意をすると、皆と違う行動する変な子として、次はいじめの対象者になることも多いと聞く。学校現場においては、皆が同じ方向を向いて、同じような考え方で行動することが、暗黙の了解らしいのである。したがって、それに背こうものなら、『変な人』というレッテルを貼られて、仲間外れにされるというから恐いことである。

他と違っているということだけで、疎外をしてしまうというのは、やり過ぎではないだろうか。そう言えば、皆と違うような意見を述べると、ネット上で炎上してしまうのも同じようなことかもしれない。なにしろ、皆が同じでないと安心できない人々がいるのは確かである。人は人、私は私と割り切れないものであろうか。そう言えば、あまりにも厳しい校則があり、生まれつき茶髪の子が黒く染めなさいと指導された学校があったと聞く。少しぐらい髪の毛の色が違うからと、目くじら立てて厳しく指導するというのも、違いを許せない性分から出た行為であろうか。

自然界の中で、多くの植物や動物が存在し、それぞれ同じものや生き物が二つとないことを知っているであろうか。勿論、人間も二つとして同じ人間はいない。何故かというと、それが生物の多様性であり、同じものだけだと種が滅びかねないからである。厳しい気候変動や地殻変動などで、その環境変化についていける動植物やついていけない動植物がある。種が生き残るためには、様々な環境にも適応した種が必要である。まったく同じ個体であれば、すべての種が滅んでしまうからではないかと見られる。人間だって例外ではない。種の保存には、多様性があったほうが生き残る確率は高くなる。

地球上には、実に様々な病原菌やウィルスが存在する。それらの病原菌やウィルスに強い人間がいないと全体が死滅してしまう。だから多様性を与えてもらったのかもしれない。さらに、人間に多様性が必要だった理由が特別に存在する。それは、人間がそれぞれに違うことによって、他人と自分の違いを認識できて、自分という存在がどういうものかということを知って認めることができる点である。人間全員が同じであったなら、他人との違いを認識できず、自分の存在意義を知ることが出来ない。自分はあってもなくても良くなってしまう。他人と違うから自分の必要性を感じることができるのではないだろうか。

さらに、自分と他人の違いがあることで、自分よりも優れていたり尊敬出来たりする部分を他人に発見すれば、自分もそうなりたいと努力すべき目標ができる。または、相手の中にとても醜いものや汚れた部分を発見すれば、そういう部分が自分にもあることを知ることで、そのマイナスの自己を乗り越えることができよう。だから、自己成長や自己実現の為にこそ、他人と自分が違うことが必要なのである。これこそが人間に多様性が与えられた理由ではないかと思うのである。それなのに、皆と同じように考えて同じことをしていたのでは、自らの成長がありえないし、人間の進化も停止してしまうのではないだろうか。

学校や職場で、発達障害や自閉症スペクトラムの人を排除したりいじめたりすることは、多様性の観点からも絶対にしてはならないことである。そして、その違いを認め受け容れることで、自分のさらなる成長も約束されるのであるから、違いを揶揄したり笑いものにしたりしてはならない。自分が他人と違っていることを、卑屈に感じたり恥ずかしいと思ったりしてもならない。堂々と違いを見せつけていいのである。違いを怖れてはならない。そして、その違いを認め受け容れられるような寛容社会を創り上げる努力を、我々は粛々と実行して行かなくてはならないのである。

このように皆が同じような考え方をして同じ行動をしたがるのは、絶対的な自己肯定感がないからではないかと見られている。何故、自己肯定感が育てられなくて、自己否定感が強いまま大人になっているかというと、生きていくうえでの確かな価値観が確立されていないからであう。例えば、システム思考という価値観がある。全宇宙におけるすべての物体と生き物、または人間そのものは、全体最適と関係重視の価値観によって存在している。自分もその全体最適と関係性重視の価値観に基づいて生きるという確固としたシステム思考の価値観が身についていれば、絶対的な自己肯定感が生まれる。そうすれば、他人と違うことを幸福に感じ、『変人』と呼ばれることを逆に喜びにできる。違いを怖れることはないのである。