怒りを自制しない人は我が身を滅ぼす

『憤りの心は燎原の火の如し』という格言がある。どういう意味かと言うと、怒りの心を持ち続けていると、火が燃え広がった原っぱにいる自分が焼き死ぬのと同じに、怒りの炎が自分自身をも焼き尽くすという意味である。燎原というのは、枯れた草の原っぱという意味であり、そこに一旦火が付くとすべてが燃え尽きるまで火を消せない。怒りの心というのは枯れた原っぱに火が付いたのと同じで、周りの人々だけでなく自分をも焼き尽くすという意味である。

 だから、憤り(怒り)はどんな理由があったとしても、持ってはならないし、怒りが起きたらすぐに消し去らなければならない。最近、アンガーマネジメントという言葉がもてはやされているが、まさしく怒りを収める心の働きが求められるのである。会社や組織の中には、ことあるごとに怒りを爆発させる上司がいる。感情的に怒りをぶちまけられる部下はたまったものではないが、怒りを爆発させている当人の心身もボロボロになってしまうことを認識している人は極めて少ない。怒りをぶつけ続けていると、やがて組織の中で信頼を失い孤独なってしまう。

 怒りをぶつけ続けていると心身共にボロボロになるというのは、次のような理由からである。怒りが高まってくると、アドレナリンとコルチゾールという副腎皮質ホルモンが放出される。このホルモンによって、一時的に一時的にストレスを解消させてくれる働きがもたされる。ところが、怒りを持ち続けていると、アドレナリンとコルチゾールは過剰に分泌される。そうなると、血圧や血糖値が上がり続けてしまうだけでなく高脂血症にもなり、生活習慣病になりやすくなる。また、脂肪を溜めやすく肥満にもなるし、心筋梗塞や脳梗塞になる危険性も高まる。

 身体の不調はそれだけでは終わらない。コルチゾールが分泌され続けると免疫力が下がるから、感染症を起こしやすい。コルチゾールは脳の偏桃体を刺激するから、偏桃体が肥大化する。偏桃体が肥大化すると、記憶力を発揮させる海馬が委縮する。怒りやすい人は、記憶障害を起こしやすいし、認知症になる危険性が高まる。また、コルチゾールは前頭前野脳まで委縮させかねないから、正常な判断能力まで阻害され、仕事でミスも増える。人の上に立つ者として致命的とも言える、朝令暮改を繰り返すことにもなる。こうなると周りからの信頼まで失う。

 徳川家康が「怒りは身を滅ぼす」と言ったのは、あまりにも有名な話である。徳川家康はアンガーマネジメントを上手に実施していたから、天下を取れて長生きしたのである。怒りを爆発させて生きている人は、織田信長のように恨みを買うし、長生きできないことが多い。毎日のように怒りを爆発させてしまっている人は、一刻も早くアンガーマネジメントをしないと大変なことになる。身を滅ぼしかねないからだ。身体と心がボロボロになってからでは遅い。とは言いながら、アンガーマネジメントをひとつのメンタルテクニックとして実施して、6秒ルールを真面目に実践しても、怒りを完全に消し去ることはできない。

 何故、アンガーマネジメントによって怒りを完全に消せないかというと、自分のメンタルや生きる価値感に偏りや拘りを抱えているから怒りが生まれるんだということを認識していないからである。自分の思想や哲学に問題があるから怒りをコントロールできないのだということを知らなければ、いくらアンガーマネジメントをしたとしても効果は上がらない。自分の間違った価値観を変革しなければ、怒りを昇華させることは難しいのだ。怒りを爆発させてしまうのは、部下たちが仕事を満足にできないとか、お粗末な仕事ぶりなのだから当然だと言えよう。とは言いながら、怒りに任せて部下たちを怒鳴りつけたとしても、部下たちは一向に成長しないであろう。

 部下たちを満足できるレベルまで成長させるには、上司としての人間哲学が必要なのである。ましてや、怒りを爆発させない為には、そもそも正しい価値観が必要なのである。その正しい価値観や哲学というのは、全体最適と関係性重視の価値観であり、自らの自己組織化とオートポイエーシスを生み出す哲学でもある。言い換えると、システム思考の哲学である。上に立つ者はシステム思考の哲学を持たないと、部下を成長させることは出来ないし、怒りを収めることは不可能だ。そして、自己マスタリーを実現することで怒りを昇華させることも可能になる。アンガーマネジメントは、システム思考の哲学と自己マスタリーの実現によってしか、成功しないのだということを認識すべきである。

縄文人の細胞記憶を目覚めさせよう

 最古の日本人である縄文人のルーツは、まだ完全には解明されていないらしい。しかし、最新のDNA分析によると驚くべきことが解ったのだという。縄文人は、中国や朝鮮半島を渡ってやってきたのではないかと見られていた。だから、縄文人の祖先は中国人や朝鮮人なのではないかと思われていたのである。ところが、DNA解析をしてみると中国人や朝鮮人の渡来人のDNAとは明らかに違っているのだというから驚きである。そして、現代人の身体にも縄文人のDNAが色濃く残っているというのである。

 科学の大きな進歩によって、縄文人の遺伝子解析が驚くようなレベルで解明されてきた。人間の祖先はアフリカ大陸から生まれたと言われている。それがユーラシア大陸を渡り、進化しながら日本に渡ってきたのではないかと見られている。そして、日本に縄文人が渡ってきた後から、中国大陸に別の人種が渡ってきて進化したという説が有力になってきたらしい。つまり、中国大陸から朝鮮半島を渡ってきて、稲作文明を広めた弥生人は、縄文人とはまったく違う人種だったのだろうと考えられている。

 縄文人のDNAが色濃く残っているのは、アイヌ人と沖縄の人々ではないかと見られている。そういえば、彫りが深くて独特の顔立ちは、お互いに共通している処が多いように見られる。縄文人のDNAが残っている割合が極めて低いのは、関西地方と四国に住んでいる人だという。青森や岩手などの東北地方の人々には、縄文人のDNAが多く残っていると言われている。縄文人のDNA割合が低い日本人と、縄文人のDNAの比率が高い日本人がいるということである。住んでいる地方によって比率が違うというのだ。

 あくまでも想像であるが、縄文人が大陸からやってきて最初に定住したのは沖縄と九州各地、そして本州の海岸に近い地域で住んだのではなかろうか。そして、弥生人が大陸からやってきて縄文人は追いやられて、流れ流れて東北地方を定住の地として選んだのではないかと思われる。縄文人の末裔のアイヌの人々は東北から北海道に移り住んだと想像する。一部は沖縄に永住して、縄文人のDNAが残ったのではなかろうか。弥生人から定住の場所を奪われた縄文人は北陸地方から東北地方に移り住んだのではなかろうか。

 せいぜい1000年前後しかなかった弥生時代と違い、縄文時代は一万三千年もの長期間に渡り平和な時代を築いた。どうして平和だということが解るかというと、縄文時代の人骨には武器によって傷ついた跡がないからだとされる。一方、弥生時代の人骨には明らかに戦った痕跡が多いのだと言う。また、縄文時代はお互いが支え合うコミュニティが確立されていたというから驚きだ。高福祉で全体最適の価値観を大事にした共同体が形作られていたことが歴史研究家によって明らかにされている。

 全体最適の価値観を持っていた縄文人と比して、個別最適を目指して自分の利益を最優先に暮らしていた弥生人は、身勝手で自己中な生き方をしたと思われる。そして、弥生人のDNAを多く持った人々の細胞記憶は、現代人にも引き継がれて、自分にとって損か得かという価値観を何よりも大切にして、人を騙したり蹴落としたりしても自己利益を求める。一方、縄文人のDNAを色濃く残した現代人の細胞記憶は、個別最適よりも全体最適を目指して、全体の幸福を願った生き方をするに違いない。どちらの細胞記憶も、普段は眠っていたとしても、人生の中で重大な危機に立たされた時に目覚めるだろう。

 縄文人の細胞記憶を目覚めさせることが出来た人間は、人間本来の生き方が出来るに違いない。何故なら、全体最適と関係性重視の価値観を持つ縄文人は、システム思考の生き方を実践していたからである。つまり、自らの自己組織化を目覚めさせ成長させて、主体性、自主性、自発性、責任性を発揮していたのである。人間の細胞は、本能的に自己組織化する働きを持つ。縄文人のDNAを多く持つ細胞が目覚めたなら、自らが自己組織化する生き方をするだろうし全体最適の哲学を実践するに違いない。故に現代人は、縄文人の細胞を目覚めさせることが求められる。

女は男を遺伝子レベルで選ぶ

 ちっとも女性にもてない男がいる。顔だって悪くないし、スタイルもいい。経済力もあるし地位もある。人柄だって悪くないし、優しい性格である。それなのに、女性にはからっきし人気がないという男がいる。周りの人からみても、どうして女性にもてないのか不思議でならない。こういう男は、お見合いしても付き合いが続かないし、合コンを何度やっても選んでもらえないのだ。どうしてなのか、本人も周りの人もまったく解らないのである。女性はそういう男性を選ばないのには訳がある。DNAレベルで選んでいるからだ。

 

 そんな馬鹿な、DNAの優劣なんて科学的解析をしなければ解らないだろうと、猛烈に反論する人も多いことだろう。確かに、医学的・科学的に詳しく検査しなければ、いわゆる遺伝子解析をしなければ、DNAの優劣なんて解らない筈だ。しかし、不思議なことに女性は男性を一目見ただけで、遺伝子レベルで相手のことが解ってしまうというのだ。勿論、科学的な分析をしている訳ではなくて、直観で見抜くというのである。それは、相手の姿かたち、身のこなしや雰囲気、姿勢や態度、表情や声などから、わずか数秒で判断するという。

 

 わずかの時間で判断出来ても、すべての女性が遺伝子レベルで好みの相手と結ばれる訳ではない。いいなあと思っている男性が、自分を好きになってくれるかどうかは別なのである。男性は遺伝子レベルで選んでいる訳ではなくて、容姿とか自分をどれだけ深く思ってくれているかとか、自分に取って都合の良い女を選ぶ傾向にあるのだ。または、自分の夫婦生活に取って必要かどうかという基準で選びやすい。料理が上手いかとか、家事や育児をテキパキとこなしそうだとかいう選択基準でセレクトする傾向がある。身勝手なところもあるのだ。

 

 遺伝子レベルで相性がいいというが、男性のどういうDNAを女性が好むのであろうか。人間の遺伝子には、過去の記憶が書き込まれているのではないかと言われている。その遺伝子記憶とはどんなものかということだ。日本人の起源は、古代から住んでいた縄文人と大陸からやってきたのではないかと見られる弥生人だと言われている。縄文人は、一万数千年に渡り、平等で平和な暮らしを続けていた。大陸から渡ってきた弥生人がその生活に入り込んできて、縄文人を駆逐したと言われていたが、今は否定されている。とは言いながら、好戦的で経済観念が豊かな弥生人は、縄文人を凌駕したのではなかろうか。

 

 縄文人は、自分の利益や幸せよりも全体の幸福を追求していたと見られる。つまり、世の為人の為に生きるという価値観が強かったようである。個別最適よりも全体最適の哲学を大事にしていたらしい。そして何よりも関係性を重要視した生活を心がけていたことが想像されている。一方、弥生人はそれとは正反対に、個別最適の価値観を強く持っていたと思われる。端的に言うと、弥生人はエゴな生き方、縄文人はエコな生き方をしていたと言える。女性が瞬間的に遺伝子レベルで求める男性と言うのは、縄文人の遺伝子記憶を持つ人と言える。

 

 何故に女性は、縄文人の遺伝子記憶を持つ男性を選ぶのであろうか。それは単純な理由からだと思われる。縄文人にしっかり根付いていた全体最適と関係性重視の価値観こそが、人間として必要であり、この価値観を持っている人間は周りから信頼されるし尊敬されて、成功することが約束されているからである。そして、こういう高い価値観を持っていれば、家族を大切にするし愛する人を決して裏切ることがない。直観力が高くて遺伝子情報を感じ取ることが可能な女性だからこそ、わずか3秒から4秒で男の値踏みが可能なのだ。

 

 日本人の中には、元々縄文人の遺伝子記憶を強く持っている人と、弥生人の遺伝子記憶を強く残している人がいるのであろう。弥生人の遺伝子記憶を強く持つ人間は、個別最適を目指そうとするから、自分の損得を優先する行動をしたがる。身勝手で自己中な人間であり、自分さえ良ければいいという価値観を大事にするから、自分だけの経済的な豊かさを追求する。周りの人々の豊かさや幸せを実現しようなんてことは考えることがない。こういう人間は、誰からも相手にされないし、やがて独りぼっちの人生を送る。こんな男は、女性から相手にされないのは当然である。もてないのには、それなりの理由があるのだ。

海外で働くということの是非

 若者たちが、日本国内で働くことを嫌がり、外国で仕事をするケースが増えている。日本の労働環境に我慢ならないし、外国で働くほうが自分に合っていると思う若者たちが増えているらしい。確かに、日本の労働環境はあまり良いとは言えないが、それにしても外国で働く理由が、日本で働くことが嫌だからというのはあまり感心するものではない。何故ならば、いくら労働環境がよくないと言っても、苦難困難を避け続けていたら人間として自己成長が止まってしまうような気がするからだ。自分を育成し成長させてくれた日本で働いて恩返しもせずに、他国で働いて貢献するというのは如何なものであろうか。

 

 雇い主側からの要請、またはビジネス展開をする理由で、外国で働くというのならば理解もできる。しかし、自分の個人的理由により外国で働くというのは、あまりにも安易な考えではなかろうか。そもそも、働くことの意味や生きる目的をしっかりと把握して労働をしているのか、はなはだ疑問である。最近の労働に対する若者の意識調査を見てみると、働くという意味を正しく理解している若者が圧倒的に少ないことに愕然とする。労働とは、あくまでも生活手段を得るためのものだと割り切っている若者が実に多いのである。

 

 確かに労働は生活手段を得る為にするという側面を持つのは確かだ。しかしながら、それだけではない筈である。働くというのは、人々の幸福や豊かさに貢献することでもある。働いて物やサービスを産み出し提供することで、全体最適(全体幸福)を目指すことができるのである。ところが、最近の労働者の意識というのか持っている価値観は、最低で劣悪だと言える。個別最適(個人幸福)しか求めていないのである。若者だけではなく、中高年者もまた、同じく個人最適しか求めていないというのは情けない。

 

 いや、私は自分の為に働いているのではないと胸を張って答える人もいる。自分は、家族の幸福や豊かさの為に働いているんだと強弁する人もいる。家族の為というのは、全体最適の価値観ではない。それは、あくまでも個別最適なのである。そんな基本的な間違いさえ知らないのだから、海外に住んで働きたいというのはエゴでしかない。ましてや、税金が安いところや高福祉の国に住みたいと考えるご老人がいるのは、あまりにも短絡的で情けない。仕事をリタイアしたら、社会貢献なんかする気はさらさらないというのも情けない。

 

 何も外国に住んで働くことが悪い訳ではない。後進国や紛争地に赴いて、社会インフラを整備したり学校を作って子どもに教育をしたりする尊い活動をするというなら大賛成である。おおいに尊敬したい。でも、自分の利害を優先したいから外国に住んで働くというのは、許されない行為であろう。昔、ある著名なアーティストが日本は税金が高いからと、外国に住居を移したことがある。その後、そのアーティストは落ちぶれてしまった。自分の損得で動くようなアーティストが、人を感動させる立派な作品を作れる筈がない。

 

 戦後の日本で、外貨が極端に少なくなってしまい、デフォルトしてしまうのではないかと危惧された時があった。その時に、国家・国民の為に何とか外貨を稼がなくてはならないと立ち上がった企業があったのである。東京通信工業という会社だった。世界で初めて自社で開発したトランジスタラジオを世に出し、世界中に輸出して外貨を稼いで国家・国民を救ったのである。その東京通信工業という会社が、やがて世界的な大企業のSONYに発展したのは有名な話である。世の為人の為に貢献する企業こそが成功するのだ。

 

 それが個人であっても同じだ。心から世の為人の為にと骨身を惜しまず働く人なら、大成功を収めるに違いない。多大な社会貢献もするが、結果として経済的にも裕福なるのは間違いない。トランジスタラジオやウォークマンの開発に成功した当時のSONYの社員たちは、どうしたら社会貢献ができるかという哲学を毎日真面目に語り合ったという。自分の損得のために外国で働きたいなんて、ゲスな考えを持つ人はいなかったのである。ところが世の中も変化してしまい、名だたる大企業の社員たちから哲学は喪失して、自分の名誉・評価・収入のためにだけ外国で働きたいという低レベルの価値観を持つ社員が増えたのである。海外で働く日本人が、外国人から尊敬されないのは当然である。

学問は誰のためのもの(優しく哲学を学ぶ)

 学問とは、誰の為にあるのだろうか。高度の専門的な学問は大学や研究機関のものであり、単純でしかも優しく学べるような学問は庶民のものというように思っている人が多いかもしれない。しかし、そんなことはあり得ない筈だ。どんなに高度で難しい学問だろうと、みんなの為に存在するし、学びたいと思うすべての人のものだろうと確信している。ところが実際は、アカデミックの世界での学問は、研究者や教授・助教授のための学問になっているように感じる。わざわざ難解で理解不能の言葉を操り、敢えて難しい理論展開にしているように思えて仕方がない。

 

 専門の知識や素養が必要な複雑系の物理学や化学、非線形数学などが、まるっきり理解不能なのは仕方あるまい。理解できそうなのに、なかなか理解できない学問の代表は、哲学であろう。哲学は、凡人が理解するのに苦労する。特に、哲学者とその学問を研究する人たちの、難し過ぎる言い回しが理解するのを困難にしていると思う。どうして、こんなにも難解な言い回しをするのだろうと、いつも不思議に思う。それに、専門用語を羅列することが多いし、その理論展開について行けそうもない。わざわざ難解にしているとしか思えない。

 

 そもそも大学教授たちの授業は、おしなべて難解である。教授が著した教科書・文献を読んでも、理解するのが極めて難しい。どうしてこんなにも難解にしなくちゃならないんだと、憤りさえ感じてしまう。敢えて言わせてもらうと、自己満足の世界だと思ってしまう。わざと難しくして、どうだ難しいだろ、バカなお前たちなんて解りっこねえんだよ、と言っているようなものだ。哲学を学ぼうとする学生が少ないのは、こういう馬鹿な教授たちのせいであろう。相手が理解しやすいように、優しい語句と言い回しで教えるのが賢い教授なのだ。

 

 仏教には、仏陀の尊い教えを伝えるお経というものがある。言わば、仏教の教科書みたいなものである。浅学菲才の私はそのお経を読めないし解説も出来ない。非常に難しいと思われているが、実はこのお経は仏陀自身が書き記したものではないという。アーナンダという第一弟子が、口述筆記したものだと言われている。仏陀が集まった人々に講演をして、その言葉を一言一句違わずに文字に起こしたのがアーナンダらしい。集まった人々のレベルに合わせて解りやすいように物語にして聞かせたという。

 

 集まった人々のレベルは千差万別である。仏教を習いたいという専門家(僧侶志願)も居れば、一般庶民も居たという。市井のおばちゃんたちの認知レベルに合わせて、話の内容を変えたという。なるべく理解しやすいように平易でストリー性を持たせて語って聞かせたというのである。仏教とは苦しんでいる人々を救う教えである。当然、悩み苦しむ人たちというのは、悟りを開いていないのは勿論だが、どちらかというと教養や学びの薄い人たちである。そういう人こそが救われるべきだと、仏教を学べるように優しく教えたのであろう。

 

 本来学問とは、仏陀のように優しい語句と言い回しで、誰でも学べるようにしなければならないのだ。それをわざわざ難解にして、賢い人だけが理解できればいいんだという態度や姿勢では、学問を詰まらなくするだけだ。そもそも哲学という学問は、人々を悩み苦しみから救う手立てとするものだ。物事の本質をどう見極めていくのかという、形而上学としての立場があるのだから、人間が人間らしく生きるために必要不可欠な学問なのである。わざわざ難解にして、人々を排除しようとするなんて愚の骨頂と言えよう。

 

 アカデミックの世界で教授と呼ばれる人たちは、どうして学問を難解にしてしまっているのであろうか。それは、ひとつには格調高い文章にしようとして、必要以上に難解にしなくてはならないと勘違いしていることに起因しているようだ。さらには、学歴や教養が高くなっている人ほど、身勝手で自己中心的になっているからだ。文章を読んだり授業を聞いたりする人たちの気持ちになりきれないのである。自分の言っている言葉を理解できないのは、聞くお前たちがバカなのだと突き離しているのである。学問を教える人は、学ぶ人の能力や力量に合わせて、解りやすいように物語にして聞かせ、理解してもらう努力をすべきなのである。

哲学を語れないのは父親失格

 小学生の高学年や中学生に対して、親が真面目に哲学の話をしても、けっして耳を傾けることはないと思っているに違いない。しかし、試しに子どもに哲学を語ってみてほしい。そうすると、意外に思うかもしれないが、子どもは熱心に哲学の話に聞き入るだろう。しかも、目を輝かせながら、時には涙を流しながら聞くのである。勿論、ただ単に哲学のエッセンスだけを語っても子どもは聞く耳を持たないかもしれない。あくまでも、物語化させた哲学を熱く語らなくてはならない。そうすれば子どもは生き生きとした表情を見せながら、その哲学的物語に耳を傾けることだろう。

 

 子どもは、基本的に哲学の話が好きなのである。何故かと言うと、人間というのは生まれながらにして、自分自身の哲学や価値観を求めているからだ。最新の医学的な所見に基づけば、人間の細胞どうしはネットワークによって連携している。さらに細胞は、ある意味哲学的とも言えるようなひとつの法則によって活動が行われていることが判明した。その法則とは、関係性の哲学であり、全体最適の価値観なのである。細胞は人体を網羅したネットワークを組んで、各種のメッセージ物質をやり取りしながら、全体最適を目指して活動しているのである。

 

 人間は、37兆2千億個からなる細胞で組成されている。当然、人間もまたその細胞の影響を受けているし、細胞そのものの哲学に反した活動をすると、深刻なシステムエラーを起こす。病気とか怪我もそのエラーのひとつであるし、家族崩壊や企業破綻などもシステムエラーである。親子や夫婦が破綻を起こすのも、関係性重視と全体最適の哲学を無視した生き方によるエラーである。子どもは純真で大人のように穢れていないから、関係性重視と全体最適の哲学を聞くと、すんなりと受け容れて感動するのである。

 

 この関係性重視と全体最適の哲学を『システム思考』の哲学と言う。このシステム思考のような正しくて高邁な哲学を子どものうちから父親は語って聞かせておかないと、子どもは大人になってシステムエラーを引き起こす。夫婦間における破綻、家族崩壊、企業破綻などを起こしてしまうからである。ところが、この哲学を語れる父親がいないのである。父親自身が哲学を知らないのだから、子どもに哲学を語れないのも当然である。父親が哲学を語って聞かせて、子どもが涙を流して感動する様を見たことがないだろう。

 

 子どもは哲学に飢えているのである。現代の学校教育では、先生が思想哲学の話をするのはタブーとなっている。終戦後、GHQは学校教育現場から思想哲学を排除した。天皇崇拝や全体主義につながると誤解した為である。今では、一部の大学にしか哲学科は残っていない。思想哲学の勉強をしても、全体主義には陥らないし、逆に全体主義には批判的になる。全体最適と全体主義とは、正反対の思想である。このような誤解があって、日本の教育から思想哲学が消えてしまい、哲学を知らない親たちは子どもに哲学を語れなくなった。

 

 父親が子どもに哲学を語れないというのは、由々しき一大事なのである。思想哲学と言う生きる上での道しるべというか航海における羅針盤が抜け落ちたまま大人になるのである。人生の大事な選択に際して、間違った生き方を志してしてしまうこともあるし、大きな過ちを犯すことも多々ある。こういう不幸な生き方を子どもにさせてしまったら、父親失格である。母親だって哲学を我が子に聞かせることが出来ると思うかもしれない。しかし、やはり母親では無理なのである。母親は、母性愛という無条件の愛で子どもを包むだけである。

 

 現代の父親が哲学を子どもに語れなくなったのは、本人の責任ではない。父親が自分の親から哲学を語って聞かせてもらえなかったからであり、学校教育で思想哲学を排除されてしまったからである。自分に責任がないと言いながら、子どもが不幸になるのは父親の責任である。とすれば、これからでも遅くないから、父親は正しくて高邁な哲学を学んで、子どもに語って聞かせるべきである。関係性重視と全体最適というシステム思考の哲学を、子どもに語って聞かせなくてはならない。父親失格の烙印を押されないように。

鬼滅の刃が人気なのはシステム思考だから

 鬼滅の刃の映画興行収入額が史上最高を記録した。コロナ感染症という特殊な事情があったとしても、アニメ映画にこれほどの圧倒的な人気を博したのは不思議である。それも子どもや若者のアニメファンだけでなく、大人や高齢者にも絶大な支持を受けた。多くの老若男女が鬼滅の刃に魅せられたのである。どうして鬼滅の刃が人気になったのであろうか。いろんな理由をマスコミや評論家は上げている。しかし、本当の理由はそれだけでないように思われる。鬼滅の刃が人気を博したのは、システム思考を描いているからではないだろうか。

 

 鬼滅の刃を見た人は解るだろうが、この物語は人間としての正しい生き方を説いている。思想・哲学的であるし、見る人に高い価値観を示している。こんなにも鋭く人生哲学を描いたアニメは他にないだろう。しかも、それが押し付け的でなく、見る人すべてが素直にその哲学を受け要れてしまうような描き方をしている。この鬼滅の刃に終始流れている思想・哲学は、関係性重視と全体最適である。人と人との絆を何よりも大切にしているし、個人最適ではなくて、全体に対する貢献と最適化を描く。つまり、システム思考なのである。

 

 システム思考というのは、この宇宙における万物の真理に基づく価値観である。私たちがこの世界に生きている意味であり、生きる目的でもある。我々人間も含めたすべての生きとし生けるものだけでなく、物体が物体として存在する理由でもある。鬼滅の刃は、それを鬼退治、そして家族愛と人類愛の『ものがたり』として表現している。私たちの住む宇宙はシステムそのものであり、我々の住む地球そのものがシステムである。あらゆる植物や生物もシステムであるし、人間もそして鉱物さえもシステムとして存在している。

 

 人間が関係するすべての組織はシステムである。家族、企業、団体、地域、国家、地球、宇宙すべてがひとつのシステムである。そして、人体もまたひとつの完全なネットワークシステムだということが、医学的・生物学的にも判明している。人体を組成する37兆2000億個の細胞は、それぞれが自己組織化する働きがある。そして、オートポイエーシス(自己産生)の能力を持つ。誰からも指示命令を受けず、ひとりでに細胞分裂をするし、お互いが関係性を持ち、全体最適を目指す。過不足なく、少しも誤りなく人体を組成し活動する。

 

 ところが、この人間の完全無欠な人体と精神は、時折システムエラーを起こす。あまりにも外部から介入され過ぎたり強く制御され続けたりすると、システムエラーを起こして健康を損なう。メンタルが障害を起こすのも同じ理由からだ。鬼滅の刃というものがたりでは、人間の社会システムが関係性を損ない、全体最適でなく部分最適を目指してしまい、自らの自己組織化やオートポイエーシスの機能を失ってしまった状況を映し出す。鬼どもが人間を襲って殺したり操ったりする恐怖の世界である。

 

 鬼が生き永らえて強くなるために人を喰らい、さらに人間を襲う社会が現われるのはシステムエラーを起こしていると言えよう。人間が鬼になってしまうのも、家族というシステムが崩壊しているからであろう。鬼滅の刃に出てくる鬼たちは、家族から愛されず見離されて絶望し、絆や信頼する関係性を見失っている。一方、鬼殺隊の柱たちは自分の犠牲を厭わずに、愛する者を守るために勇気を振り絞って鬼と闘う。その決心はけっしてぶれることがない。炭次郎も命を賭けて全体最適のために死闘を繰り広げる。自分の私利私欲や損得のために、人間を殺していく個別最適の鬼とは根本的に違うのである。

 

 鬼殺隊の柱たちの絆は強いし、その関係性が損なうことはない。炭次郎、善逸、猪之助の友情は、何よりも固く結ばれていて、その信頼関係は揺らがない。柱たちや炭次郎たちの心にはシステム思考の価値観が強く根付いているからに違いない。炎柱煉獄杏寿郎は、自分の命を投げうってまで、無限列車から人々を救い出した。これはまさしくシステム思考の哲学に支えられた行動である。システム思考とは、人間が正しく生きるための哲学である。多くの人々は、自分たちが本来持っているシステム思考の価値観を、鬼滅の刃を鑑賞することによって目覚めさせるのであろう。だからこそ、鬼滅の刃がこれだけ熱狂的に支持されて人気を博しているに違いない。

自己マスタリーとは

自己マスタリーという言葉は、あまり聞きなれないかもしれないが、とても大切で生きるには必要不可欠なことである。自己マスタリーを実現していないと、人生において間違った生き方をすることにもなるし、企業や組織への貢献が出来ないばかりか、社会的な存在価値を失いかねない。一人前の人間としての成長や進化ができなくなるのである。この自己マスタリーという言葉を生み出したのは、MITの上級講師ピーター・センゲという人である。学習する組織を確立するための5つのディシプリンのひとつが自己マスタリーである。

 

ピーター・センゲという人物は、システムダイミクスを学び、ビジネスにシステム思考を活用することを提案した。そして、学習する組織という書物を著し、5つのディシプリンを提起して、企業が発展して永続性を持つには、学習する組織にすることが肝要であると説いた。自己マスタリーを実現するには、根底にはシステム思考が必要だとも主張している。自己マスタリーというと、自己練達とか自己熟達と訳されるが、単なる技術や能力が熟練することではない。もっと深い精神面における自己確立のことを指している。

 

自己マスタリーとは、自己をマスターすることであり、自分自身を把握し深く認識するという意味でもある。自己という言葉にこそ意味があると思われる。我々は、自分のことをすべて理解していると誤解している。しかし、それはまったくの幻影であり妄想であると言える。おそらく日本人の中で、真の自己を理解し受容して、自己をマスターしているのは、ほんの一握りしかいないであろう。『自分』を理解している人はいるかもしれないが、『自己』を深く理解している人は、殆どいないと言っても過言ではないのである。

 

自己と対比されるのが、自我である。自我とはエゴとも言われ、どちらかというと自我が強い人はあまり好かれない。しかし、自我の確立は人間の成長期において必要なことであり、自我が確立されていないと自分を主張できなくなってしまう。反抗期というのは自我が芽生えてきて起きると考えられている。現代の子どもは、反抗期を迎えずに大人になってしまうケースが多く、愛着障害になってしまうことも少なくない。あまりにも親から執拗に介入され続けると、自我の確立がされない。

 

本来は、自我が確立されて、その後に自己が確立されるという経過を辿るのが望ましい。自己の確立というのは、自我と自己を統合させるという意味もある。自我と自己の両方をバランスよく発揮できると、自分らしく生きることが可能となる。現代の日本人は、それが出来ないで大人になっている人が多い。だから、自我が強過ぎてしまい、自己中や身勝手な人が多いし、自分の利益や損得しか考えない人も少なくない。個別最適しか考えず、全体最適の生き方が出来ないから、企業内、組織、家庭の中で孤立する。

 

自己マスタリーは、努力をすれば誰でもできるのかというとそうではない。自我と自己を統合すれば、自己マスタリーが可能になるという単純なものでもない。システム思考を身に付けるというのも大事であるが、それはマストでありイコールではない。どのように自己マスタリーを実現するかを説明するのに、『U理論』を使うと理解しやすいと考えられる。一旦Uの底まで落ちて落ちて落ち込んでしまい、自分の内なるマイナスの自己(エゴ)を徹底して認め受け容れることが必要となる。醜く穢れて私利私欲にまみれた自己を発見して、それを自己糾弾するのである。そうして初めて自己が確立できて、Uの底から浮き上がれる。

 

認めたくない酷いマイナスの自己を発見すると、人は愕然とする。だから、マイナスの自己は自分にはないものとして生きている人間が殆どである。こういう人間は、100年経っても自己マスタリーを実現できない。マイナスの自己を自分の心に発見して、とことん糾弾して、そのうえでマイナスの自己を慈しむことが求められる。そうすると、マイナスの自己をプラスの自己に転化させて、全体最適の価値観に基づいた生き方にシフトできるのである。マイナスの自己が大きければ大きいほど、プラスに転化したときのエネルギーは強大になる。自分の深い心を素直に謙虚に見つめることが出来る人しか、自己マスタリーを実現できない。

 

※自己マスタリーを実現するための学習・研修を受けたいと思う方は、イスキアの郷しらかわにご相談ください。コロナ感染症が収まれば、研修の受講をお受けします。資料や参考図書を紹介してほしいという方には、お知らせしますので問い合わせフォームからご相談ください。

ボランティアと偽善

今年の夏もNTV系列の24時間テレビが放映された。今回のマラソンは金メダリストの高橋尚子さんがランナーを務め、自らが走った距離に応じて募金をするという企画であった。この企画に対して一部の視聴者から、偽善的だというコメントが寄せられたらしい。24時間テレビに対しては、チャリティーに名を借りた視聴率取りであるとか、出演者にはしっかりとプロダクションを通してギャラが支払われているという批判があった。今回は高橋尚子さんに対して、あからさまに偽善者だというレッテルを貼ろうとしたのだ。

 

この偽善批判に対して、番組内で高橋尚子さんは毅然とした態度でコメントした。『偽善だと言われても、それで1人でも多くの人が救われるならば、偽善でもやる価値はある』と。立派な態度だと思う。ボランティアやチャリティーに対して批判をする人々が、自分で何かをしたのかと言うと、何もしていないに違いない。何もしないで批判するよりも、たとえ批判されてもやったほうが素晴らしい。さだまさしさんも番組内で、そもそも自分は偽善者だと思っているから何とも思わないし、何もしないよりは良いのは確かだと語っている。

 

東大卒の僧侶で、『偽善入門』という著作を書いた小池龍之介氏も同じようなことを主張している。人は批判的にボランティアなんて所詮偽善だというが、結果として人々を救い幸福に出来たとしたら、良しとしよう。たとえ偽善の心があったとしても、継続すればいつかは限りなく善に近づくことになるのではないか。偽善は真善よりも価値が低いかもしれないが、悪や偽悪よりはましであろう。偽善を続けていけば、いつかは善になるのではないかと語っている。偽善だと思い一歩を踏み出せない人へ、強烈なエールを送っている。

 

私もボランティアとしてイスキアの活動を行っている。利用者やクライアントからは、一切の報酬を受け取っていない。電話やzoomなどでのカウンセリングも無料だし、農家民宿を利用しての相談や体験・研修もすべて無料でさせてもらっている。そんなことはあり得ないと思って、いつかは何かを要求されたり買わせられたりするんじゃないかと心配されている方もいらっしゃる。勿論、偽善者だと疑う人もいるに違いない。今まで、いろんな人から騙されたり裏切られたりしてきた人だから、善意を信じられないのは当然だと思われる。

 

私は、偽善者だと思われたとしても、それは自分に偽善の匂いを感じさせる至らなさがあるからだと思うので、仕方ないことだと思う。自分には評価を得たいとか感謝されたいとかいう下心がないかというと、けっしてそうではない。多少なりとも、世間から注目されたいし認められたいという下心もあるし、尊敬されたいとも思う心がまったくない訳ではない。私には、そんなよこしまな気持ちなんてさらさらないのだと、傲慢で謙虚さのかけらもないような態度だけは取らないようにと心がけている。

 

人は、誰しも他人から好かれたし敬われたいと思っている。自分の心の中には、薄汚れた欲望が確かに存在するのである。自分の心の中には清らかなものしかないし、醜さや穢れを存在しないと思い込んでいる人は、危険な人だと言えよう。そんなマイナスの自己を認めず受け入れず、自分だけは不浄な心なんてなくて清廉であると思っているような人は信用できない。そんな思いあがった人を偽善者と呼ぶ。自分の心の中に恥ずかしい自己を発見した時に、それを隠そうとするのか、それとも認め受け容れるのかによって、偽善者かどうかが決まるのではないだろうか。

 

チャリティーやボランティア、またはNPO活動を自分のビジネスに利用している人がいるのも確かである。今まで、綺麗ごとを言いながら、裏ではしっかりと利益・権益を受け取っている人も沢山見てきた。NTVの役員や管理職、または芸能プロの役員・幹部の中にも、そういう人がいるかもしれない。でも、だからと言って24時間テレビに出演している人たちがすべてそうだとは言い切れない。高橋尚子さんやさだまさしさんのように、勇気を出して自分は偽善者であると宣言する人は、けっして偽善者である筈がない。私もいつかはそうなりたいと思いながら、イスキアの活動を通して真善に到達するまで偽善をやり続けたい。

他力本願で生きてもよいではないか

他力本願で生きて行ってはいけない。あくまでも自力本願で生きなければならないと思っている人が、世の中には多いのではなかろうか。ここで言うところの他力本願とは、浄土真宗の教義で言えば、まったくの誤解であるとされる。つまり、他力とは他人による支援や助けではなく、阿弥陀仏の法力のことであり、本願とは衆人の悟りを導くことである。他力本願とは、人の助けで自分の欲望や願いを叶えることではないのである。対比して言われている自力本願という言葉も、仏教ではありえない言葉ということになる。

 

この他力本願という仏教本来の意味を否定する訳ではないが、敢えてこの他力本願という意味をもう少し緩く捉えてみたい。そして、他力本願で生きてみても良いことだと思えるようになり、それが少しでも生きづらさの解消につながることが出来たらと思う。他力本願という言葉の仏教的な意味とは少し違うかもしれないが、人々を幸せにすることが出来たならば、それもまた阿弥陀如来による慈悲の現れと言えよう。他力に頼って生きてはならないと、小さい頃から思い込まされ、甘えることを許されなかった人を救えるかもしれない。

 

人間は他人の力を借りずに生きるべきで、自立して生きることが大切だと、小さい頃から親から教え込まれる人が殆どであろう。祖父母や周りの家族も同じように、人に頼るなと教えるし、学校でも教師が依存せず自立しろと指導する。小さい頃から「依存心をなくせ、甘えるな」と言われ続けて育てられると、他人に頼ることは悪だと思い込んでしまうのだ。だから、他力本願は間違っていて、自力本願が正しいのだと勘違いするのである。意味をはき違えたとは言いながら、あまりにも他人に頼らないで生きるというのは、とても辛い生き方である。

 

何故ならば、そもそも人間というのはお互いが支え合って生きるように生まれてきているからである。そして、乳幼児期には一人で生きられないから、母親とか家族からの様々な支援で生かされる経験をして、気づきや学びを得るのである。そもそも人間は一人では生きていけない生物なのだ。システム論で言えば、人間というシステムは他人との関係性によって正常な活動が約束されている。その関係性を否定して、人に頼ることなく自力本願で生きろというのが本来無理なことなのである。

 

とは言いながら、あまりにも人に頼り過ぎることは好結果を生まないのは当然である。また、他人の力を借りても良いとは言っても、親、教師、上司から行き過ぎた介入や干渉を受け過ぎてしまうと、自立できなくなることも多々ある。人を育てるとか指導する立場にある者は、要支援者に対して支配したりコントロールしたりしてはならないのである。そして、育てられたり支援を受けたりする者は、自分の出来る限りの努力をし尽くして、それでも上手く行かない時に、他人の助言や援助を求めてもいいのである。

 

そこで大事なことは、結果や速さだけを追い求めてはならないということである。結果や速さを気にし過ぎてしまい、ついつい努力を中途半端なものにしてしまい、駄目だったと諦めてしまうことがよくある。結果よりも、途中でどのような努力をしたかが大切であろう。目標を達成するためのプロセスが問われるのである。そのプロセスにおいて、出来得る限りの精進をし尽くしたのであれば、たとえ目標に届かなかったとしても、その努力は無駄にはならないし、大いなる自己成長は遂げられた筈である。

 

仏教における『他力本願』も、人事を尽くして天命を待つという意味もあるように考える。仕事においても地域活動や家事育児の場でも、結果だけを追い求めるのではなく、自分にできる精一杯の努力を積み重ねれば、その時の結果はたとえ及ばずとも、いつか必ず花開く時があるのだ。そして、自分の力の限界を感じたら、素直に周りの人々に助言や助けを借りてもよいと思われる。他力本願とは、本来そういう意味ではないだろうか。すべての努力をやり尽くして、その結果はただ阿弥陀仏に委ねるというのは、そんな意味もあろうかと思う。周りの人々の助言や支援は、阿弥陀仏による慈悲と捉えても差し支えないと思うのである。

※あらゆる限りの努力を自分でし尽くしても、どうしようもない状況から抜け出せない時は、周りの人に助けを求めてもいいと思います。もし、周りに助けてくれる人がいない時は、「イスキアの郷しらかわ」を頼ってみてください。精一杯のサポートをさせてもらいます。八方塞がりの時には、一時的であっても環境を変え、イスキアの郷しらかわにいらして数日過ごしてみてください。きっと、出口が見つかります。他力本願でもよいと思います。問い合わせフォームからご相談ください。