なぜ自殺をしてはいけないのか

 なぜ自殺をしてはならなのか?と子どもや孫に問われて、どのように答えるだろうか。または、自殺をしてはならない理由を児童生徒に聞かれて、先生たちはなんと答えるのか。適確にそして適切に、自殺してはならない理由を明確に答えられる人は、おそらくごく少数であるに違いない。殆どの人が答に窮すると思われる。どうして自殺をしてはならないのか、この答を明確に答えられる大人が少ないから、そして子どもたちに自殺をしてはならないことを教えてこなかったから、子どもたちの自殺が減らないのである。

 自殺者の総数は減少傾向にあるものの、子どもたちの自殺者数は減ってないどころか増え続けている。生きていく苦しさをもうこれ以上抱えられない、自ら死を選んだほうが楽なんだと思ってしまうのであろう。そんなにも悩み苦しんでいる子どもを、救ってあげられる大人がいないというのは、実に情けないことではないだろうか。自殺の原因は何なのかと調べていくと、学校でいじめられていたとか、成績不良で挫折していた、友人関係で悩んでいた、家族との関わり合いで問題を抱えていたとか、実に様々である。

 自殺の原因をそのように特定してしまうと、自殺を防ぐことは永遠に出来ないのではないかと思えて仕方ない。何故ならば、これらの自殺の原因を完全取り除くことが出来ないからである。そして、これらの問題を抱えている子どもは、もっと多い筈であり、実際に自殺をしてしまうかどうかは、別の要因によって大きく違ってくるのではないだろうか。そして、自殺をする本当の原因は他にあるのではないかと思われる。まず、自殺をする子どもたちは、自己肯定感を持っていなかったし、安全基地になってくれる存在がなかったのは確かだ。

 絶対的な自己肯定感を持てなかったのは、愛着に問題があったからだろうし、安全基地が存在しなかったというのは、愛着障害だったからであると思われる。もし、自殺してしまった子どもたちに絶対的な自己肯定感が育っていて、安全基地という存在があったなら、同じような境遇に追い込まれても、絶対に自殺はしなかった筈だ。絶対的な自己肯定感を育むように成長し、安全基地に守られていたなら、自分から死を選ぶことはなかっただろう。そして、人間はなぜ自殺をしてはならないのかを教えられていたら、どんな苦境も乗り越えただろう。

 なぜ自殺をしてはならないのか、この問いに大抵の人はこんなふうに答えることだろう。人は自分ひとりで生きてきたのではなく、多くの人に支えられて生きてきた。そして、その育てられた恩に報いずに死んではならない。また、自殺してしまうと自分を支えてきた人をおおいに悲しませてしまうと。多くの人を悲しませるようなことをしてはならないのだと諭す人は多い。または、こんなことを言うかもしれない。自殺とは自分で自分を殺すということで、殺人と同じなのだから、そんな罪を犯すようなことをしてはならないと説得する。

 こんな理由で自殺をしてはならないと、苦しんでいる子どもを説得しようとしても、おそらく自殺を思い止まらせることは難しいことであろう。何故なら、自殺をするような子どもは、親・家族との関係性、友達や先生たちとの関係性が希薄なのだからだ。良好な関係性がないから、一人で悩み苦しんで誰にもその苦しみを打ち明けられないのだ。当然、自分が死んでも悲しんでしまう人がいると実感できないのだ。または、自分を殺してはならないのだと倫理的に訴えても、聞き入れる訳がない。

 それでは、なぜ自殺をしてはならないのか、真の理由は何か。人間は自ら自己組織化をするひとつのシステムである。人体とはこのシステムによって全体最適を目指す。37兆2000億個の細胞のひとつひとつがそれぞれの関係性(ネットワーク化)によって、全体最適のために協力し合う。さらに、それぞれの多様性があるからこそ、自己進化をするのである。人間社会もまったく同じでひとつのシステムである。当然、多様性と関係性があってこそ、自己組織化するし自己進化をする。その多様性と関係性を自ら断ち切るような行為である自殺をすることは、社会を否定し破壊するエゴ行為なのである。だから、自殺をしてはならないのだ。

性善説と性悪説のどちらが正しいのか

 生まれつき人間は善であるという性善説は、中国の思想家孟子が提唱した。一方、生まれつき人間は悪であるという性悪説は、荀子が主張したとされる。どちらの説が正しいのだろうか。生まれつきの人間というものは、悪なのであろうかそれとも善なのであろうか。生まれつき人間には自己中心的な欲求があり、我が儘であり利己的で悪なのだと荀子は説いた。修養や学びにより徐々に善を獲得するという。逆に、生まれつきの人間は善であるのに、育てられ方や環境によって悪にもなると孟子は説いたと言われている。

 性善説と性悪説のどちらが正しいのであろうか。生まれつきの人間は善なのか、それとも悪なのか、どっちなのであろうか。どちらの考え方にも一理ありそうだ。欧米の考え方からすると、性悪説を取る人が多いような気がする。一方、日本を始めとした東洋では、性善説を取る人が多いかもしれない。性善説にしても性悪説にしても、その主張は観念論的なものだと言えよう。どちらにしても完全に肯定することも否定することも難しい。明確な科学的根拠に基づいて、どちらかが正しいのかを明らかにしてみたい。

 人間として観るのではなく、人体というひとつのシステムとして捉えて、自然科学と社会科学によって検証すると、どちらの説が正しいのか判明するに違いない。人体とはどういう組織で組成されているのかというと、60兆個に及ぶ細胞によって全体が形作られていると言われてきた。最先端の科学では、37兆2,000億個の細胞数だということが解明された。その細胞は、脳や臓器を組成しているし、筋肉や骨格を形成している。血管を形成し、その中を流れる血液なども細胞によって形作られているのである。

 人間の細胞というのは、脳神経からの指示・命令を受けて、必要な働きをするのではないかと見られていた。ところが、最新の科学で解明されたのは、驚くべき事実であった。どういうことかというと、それぞれの細胞は何からも命令されず、自発的に自主的に主体的に、連携して人体を守る為に懸命に働くのである。細胞自身の為にではなくて、全体の為に必死で働くのだ。テレビ東京で放映されていたアニメ『働く細胞』でも詳しくその様子が描かれていた。つまり、人間の細胞は、個別最適ではなくて全体最適を目指して活動しているのだ。

 人間の細胞は、人体というシステム全体の為に働いているということが判明したのである。システムダイナミックスの理論で言えば、構成要素である細胞がシステム全体(人体)を最適に保つ為に、自己組織化の働きをしているのである。細胞は、自分の命を犠牲にしても人体を守る。例えば、人体に有害なウィルスが侵入したとしよう。または、指先に傷が出来て細菌が侵入したとする。それらの有害な細菌やウィルスに、白血球は果敢にも攻撃してやっつけてくれる。そして、白血球細胞は闘い終えて命を落とすことも少なくない。

 自分の命を犠牲にしてでも、人体を守ってくれる細胞は正義の味方である。人体を構成する細胞は、善であると言える。自分の損得や利害を考えて個別最適の為に働くこと、自分の利益の為に他人を騙したり傷つけたり殺害したりすることを『悪』とするなら、その反対に位置する人間の細胞は『善』であろう。善である細胞で形成されている人体も善であるのは間違いない。当然、人間もまた生まれつき善であるのは当然である。人間は、元々生まれつき善であり、個別最適のために活動するのではなくて全体最適の為に働くのである。

 システムダイナミックスの理論からすると、人間が自己組織化の働きをする為には、人間どうしの良好な関係性が必要なのである。人間どうしの関係性が悪化してしまうと、自己組織化の働きをしない。細胞どうしの関係性(ネットワーク)が阻害されると、自己組織化しないのと同じことである。人間どうしの関係性(愛)が阻害されると、善の働きがなくなり悪の働きが強くなる。親子の愛が阻害されると子どもは『愛着障害』になり、夫婦の愛が阻害されると家族崩壊を迎えてしまう。細胞が自己組織化するのと同じで、人間は生まれつき自己組織化の働きをするのだから、性善説が正しい。それが悪になるかどうかは、人間どうしの関係性(愛)にかかっていると言えよう。

※生まれつき善である人体(人間)は、関係性(ネットワーク)=愛が良好に発揮されるなら、自己組織化が健全に働き心身の病気にもならないし人間関係が破綻することはない。ところが、親からの十分な無条件の愛が与えられず育てられると、良い親子関係や夫婦関係が形成することが叶わず、幸福な人生を歩めなくなる。子どもはメンタルを病んでしまい、不登校やひきこもりになることも少なくない。そうなってしまった子どもを幸福にするには、良好な親子の関係性(ネットワーク)=愛を取り戻すしかない。

目的と目標の使い方間違っていませんか

 目的と目標の使い方を間違っている人が少なくない。そもそも目的と目標はどういうものかということを、正確に認識していないのだから仕方ない。一番多いのは、目的と目標の意味を逆に覚えているケースである。目標というのは目的を達成する際のひとつの段階というのか、ランドマークである。目標とは具体化数値化するものであるが、目的は具体的なものではなくて、抽象的な概念である。目的を達成するためにある目標を定め、それが達成出来たら、さらに高い目標を再設定する。そして、目的に近づいていくのである。

 よく間違っているのが、最初から到達できないような高い目標を設定してしまうことだ。例えば、業界第一位になるというような目標である。または世界一になるというような目標である。絶対に実現できないような高い目標を立てるというのは、社員が一丸となって努力しやすいのではと思われる。しかし、それは勘違いである。それぞれの社員は勿論のこと幹部社員たちも、本心では達成を諦めているからである。そうなると、無意識下でどうせ努力しても無駄なんだと思っていて、努力するのを止めてしまうのである。

 目標を立てる時に大切なのは、ちょっと努力すれば達成できる目標にするということだ。そして、短期目標と中期目標、そして長期目標というような3段階の目標を定めることも肝要だ。その際に、短期目標が達成できたら、少し高い目標を再設定するというように、常に短期目標の見直しをするのも必要である。さらに大事なことがある。目標は、それぞれの個人、または部門に決めさせることだ。上司や部門長が目標を与えてはいけない。自分で設定せずに与えられた目標を達成しようと思わないのが人間の常なのだ。

 これは家庭や学校でも、よく犯してしまう過ちでもある。親や先生が子どもに対して、本人に確認もせずに、目標を与えてしまうというとんでもない誤りをするケースは、想像以上に多い。自分でよく考えて目標を自主的に決めたのであれば、その目標を何とか達成しようと努力する。しかし、他から与えられた目標には真剣に向き合えないのが人間である。それは、人間の自己組織性を無視したやり方であり、本人の主体性を阻害してしまうのだから、失敗してしまうのは当然である。目標設定は本人にやってもらうのが正しい。

 目標を設定するには、まずは正しい目的を持つことが必要不可欠である。そして、この正しい目的を設定するには、高い思想哲学が必要であり、崇高な価値観が根底に存在しなければならない。劣悪で低レベルの価値観に縛られている人間には、正しい目的は持てないのである。例えば、自分の損得や利害を大切にして、自己中心の考え方をしているような価値観を持つ人間には、正しい目的が持てない。関係性を重視して全体最適を目指して生きている、システム科学の哲学を理解している人間しか、目的は設定できないのである。

 現代社会において、正しい目的(経営理念)を施ってして社内一丸となって実践している企業は極めて少なくなってしまった。だから、経営危機に陥っている会社が増えたのである。正しい目的に沿って生活を営んでいる家庭も少なくなった。それ故に、親子関係や夫婦関係が破綻してしまい、家庭崩壊が起きているのである。不登校やひきこもり、虐待、DVなどの問題が顕在化しているのは、正しい目的を父親が持っていないからである。こうして、地域社会も含めて現代のあらゆるコミュニティは崩壊しつつあるのである。

 正しい目的を設定しなくても、生活はできるし経済活動も卒なく行えるから、目的なんて不要だと嘯く人々もいる。確かに、その通りで目的がなくても生きていける。しかし、よく考えてみると、それがどんなに無謀なことかということが解る。目的のない人生は、コンパスや地図のない航海のようなもので、遭難の危険が極めて高い。登山地図のない登山、ナビ無しで知らない土地を運転するようなものである。現代社会における諸問題は正しい目的を設定しないからだと言っても過言でない。崇高で正しい価値観に基づく、全体最適や全体幸福という正しい目的を設定したいものである。

子どもは哲学が大好き

 子どもなんて哲学とか思想の話に興味を持つ筈はないだろうと、殆どの大人が思っているに違いない。実際に試したこともないだろうから解らないのも当然だが、子どもに思想・哲学の話をすれば、目を輝かしてその話に聞き入る筈だ。そんな馬鹿なと思うであろうが、子どもは思想や哲学の話が大好きなのだ。思想・哲学の話に興味を持つ子どもなんてごく少数であって、殆どの子どもは哲学を嫌う筈だと大人は思うに違いない。確かに、今の大人たちは哲学や思想が嫌いだ。しかし、子どもは哲学の話を欲しているのだ。

 今から30年以上も前に、こんなことがあったのを覚えている。一家5人が車で一緒に出掛けた時のことである。その時にどんな話をしたのかは忘れてしまったが、こんな話だったろうと思う。人間は本来こういう生き方を志すべきであり、それこそ人間がこの世に生まれてきた意味である、というようなことを言ったと思う。子どもに対して、そんな難しいことを言っても興味を示さないだろうと、冷ややかな目をしていて呆れていたのは愚妻である。その時助手席に乗った小学生高学年の愚息が、驚くような反応をしたのだ。

 彼の様子を運転席から眺めたら、なんと涙をボロボロとこぼしていたのである。あまりにも泣いていたので、心配してどうしたのかと尋ねたら、今の話に感動したからだと答えたのである。10歳そこそこの子どもが、父親の話に感動して涙を流すほど感動するなんてありえないと、その時は思ったものである。しかし、20年くらい過ぎた時に、そういうこともあり得ると確信したのである。何故なら、他の子どもたちに哲学的な話をした時にも、真剣になって聴く姿を見たからである。子どもというのは、哲学が好きなんだと気付いた。

 日本人の大人たちは、哲学の話を聞くのも話すのも避けたがるというか、嫌っている。そして、子どもたちに哲学を語れる親がいない。親が哲学とか思想を嫌っているのだから、学ぶ機会もなかったと思われる。おそらくは、哲学・思想を自分自身の親から聞かされてなかったのではなかろうか。ましてや、学校教育においては、哲学・思想を文科省が敢えて排除してきたのだから、親がその大切さを知らないのは当然である。思想・哲学なんて生きる上で必要としないと思うのだから、子どもに大人が語らないのも仕方ない。

 子どもは何故哲学が好きなのかというと、それは子どもの魂というか深層無意識のレベルで思想・哲学を欲しているからである。人間そのものというのか人体というネットワークシステムが正常に働いて本来の機能を発揮する為には、哲学が必要不可欠なのである。車の運転に、操作システムと制御システムが必要なように、人間が健全に生きる為には人体ネットワークシステムを制御する『哲学』がなくてはならない。その哲学は何でも良い訳ではなく、正しくて崇高なる価値観によって裏付けされた哲学が求められるのである。

 詳細は省くが、明治維新政府は欧米から近代教育を取り入れ、学校教育から思想哲学を敢えて排除した。さらにGHQの指導もあって、戦後の学校教育から思想教育を徹底排除した。こうして日本においては、思想哲学が廃れてしまったのである。それでも、純真無垢であって、変な固定観念に縛られていない子どもは、哲学が好きだし求めているのである。しかし、残念ながら哲学を語れる大人がいないので、子どもは哲学を学ぶことなく大人になってしまうのである。現代の日本人が、本来生きるべき道を忘れ迷い、生きづらさを抱えているのも、哲学がないからだ。メンタルを病んで不登校やひきこもりになる所以もここにある。

 哲学というと、あくまでも観念論であって非科学的な学問だと認識する人が多い。非科学的であり、我々が経済生活を営む上で不要なものだと考える人が少なくない。しかし、哲学は非科学的ではない。最新の正しく崇高な価値観に基づいた哲学は、科学的にも正しいのである。特に、複雑性科学に基づくシステム思考の哲学は、科学的にも正しいことが世界一般に認められつつある。哲学は科学と統合されつつあり、科学哲学と呼ばれているのである。雑念に惑わされていない子どものうちに、科学哲学を学ばせたいものである。そもそも子どもは哲学が大好きなのだから。

嫌な人や苦手な人と出会ってしまう訳

 学校でもそして職場においても、何故か嫌いな人や苦手な人に出会うものである。不思議なことであるが、出会いたくないと思っているのに、どうしても関わってしまうのである。それも、学校では同じクラスや部活で一緒になるし、担任になってしまうケースも少なくない。職場においては、よりによって直属の上司になる例が多いのである。どうして、そんなに嫌いな人苦手な人と関わってしまうのであろうか。それは、無意識の意識というのか潜在意識が引き寄せているとしか思えないのである。

 潜在意識の話は後から述べるとして、まずは嫌な人だと感じるのはどうしてかということを、心理学的に考察してみよう。人間の心には、自我と自己がというものが存在する。自我というのは簡単に言うとエゴであり、欲望とか煩悩により支配されている心の部分である。一方、自己というのはエコとも言える、自我を乗り越えた崇高な価値観に基づいた美しい心の部分である。自我を乗り越えること、または自我と自己を統合することが、人間として生きる上での課題とも言える。自我を乗り越えてこそ、一人前の人間と言えよう。

 さて、自我をあまりにもさらけ出して生きると、人から嫌われたり遠ざけられたりして独りぼっちになってしまう。それ故に、殆どの人間は自我を隠して生きるのである。または、自分の心には自我がないことにして、立派な人間を演じて生きるのである。当然、隠している自我は時折言動の中に顔を出すことがある。多くの人間は、自分でも完全なる自己を確立している訳ではないので、関わる人々の心の中に自分と同じ恥ずかしくて嫌な自我を発見すると、自我をさらけ出している相手を嫌い苦手だと感じるのである。

 例えば、自分さえ良ければいいんだという自己中の人であり、我が儘し放題の言動を繰り返し、欲望をむき出しにしている人に出会ったとする。または、良い人を演じていながら、自分の思い通りに相手を支配してコントロールしたがる相手に出会ったとする。皆が見ている処では善人を演じているのに、誰も見ていない処では思いっきり悪人ぶりを発揮している人に出会ったとしよう。そうすると、殆どの人は嫌だな苦手だなと感じて、関わりたくないと感じる筈だ。同じような自我を自分は抱えているにも関わらず、隠して生きているから逃げたくなるのである。

 自我を超越出来ていない、または自我と自己を統合出来ていない故に、自我をさらけ出してしまう相手を許せないし受け容れられないのである。人間として不十分な成長段階に止まっている故に、自分の恥ずかしい自我を含めて、自分をまるごと愛せないのである。完全なる自己を確立して、絶対的な自己肯定感を持っていれば、相手の中に汚い自我を発見しても、嫌わずに慈悲の心で応じることが出来るのだ。嫌いな人や苦手な人に出会うというのは、自分自身が自我と自己を統合出来ていないから、そう感じるのである。

 そして、脳の奥底に存在する深層無意識が、自我をさらけ出すような人間に出会わせているのだ。つまり、自分自身が自己の確立を出来ていないから、自我を超越させる為に恥ずかしくて嫌な自我を見せてしまう人間と出会わせるように、自分の潜在意識が仕組んでいるのである。自分の心の中に恥ずかしい自我を仕舞い込んで、ないことにして演じている自分に、まだまだあなたの中には恥ずかしい自己があるじゃないかと悟らせる為に、潜在意識が嫌な人苦手な人と出会わせてくれているのである。

 出会った相手の中に、自分で隠している嫌な自我を発見しても、その自我を受け容れて心から許すことが出来たら、自己の確立や自我と自己の統合が出来るのである。そうすれば、自分の恥ずかしくて嫌な自我を愛せるし、生きづらさも解消できるのである。人間とは、相手の嫌な自我(=自分の嫌な自我)を受け容れるため許すために生まれてきたのである。言い換えると、寛容と受容の心を確立することこそが、人間の生きる目的でもあるのだ。自己の確立が実現できれば、嫌な人や苦手な人とは出会わなくなるし、例え出会ったとしても何とも思わなくなり平気で付き合えるのである。

怒りを自制しない人は我が身を滅ぼす

『憤りの心は燎原の火の如し』という格言がある。どういう意味かと言うと、怒りの心を持ち続けていると、火が燃え広がった原っぱにいる自分が焼き死ぬのと同じに、怒りの炎が自分自身をも焼き尽くすという意味である。燎原というのは、枯れた草の原っぱという意味であり、そこに一旦火が付くとすべてが燃え尽きるまで火を消せない。怒りの心というのは枯れた原っぱに火が付いたのと同じで、周りの人々だけでなく自分をも焼き尽くすという意味である。

 だから、憤り(怒り)はどんな理由があったとしても、持ってはならないし、怒りが起きたらすぐに消し去らなければならない。最近、アンガーマネジメントという言葉がもてはやされているが、まさしく怒りを収める心の働きが求められるのである。会社や組織の中には、ことあるごとに怒りを爆発させる上司がいる。感情的に怒りをぶちまけられる部下はたまったものではないが、怒りを爆発させている当人の心身もボロボロになってしまうことを認識している人は極めて少ない。怒りをぶつけ続けていると、やがて組織の中で信頼を失い孤独なってしまう。

 怒りをぶつけ続けていると心身共にボロボロになるというのは、次のような理由からである。怒りが高まってくると、アドレナリンとコルチゾールという副腎皮質ホルモンが放出される。このホルモンによって、一時的に一時的にストレスを解消させてくれる働きがもたされる。ところが、怒りを持ち続けていると、アドレナリンとコルチゾールは過剰に分泌される。そうなると、血圧や血糖値が上がり続けてしまうだけでなく高脂血症にもなり、生活習慣病になりやすくなる。また、脂肪を溜めやすく肥満にもなるし、心筋梗塞や脳梗塞になる危険性も高まる。

 身体の不調はそれだけでは終わらない。コルチゾールが分泌され続けると免疫力が下がるから、感染症を起こしやすい。コルチゾールは脳の偏桃体を刺激するから、偏桃体が肥大化する。偏桃体が肥大化すると、記憶力を発揮させる海馬が委縮する。怒りやすい人は、記憶障害を起こしやすいし、認知症になる危険性が高まる。また、コルチゾールは前頭前野脳まで委縮させかねないから、正常な判断能力まで阻害され、仕事でミスも増える。人の上に立つ者として致命的とも言える、朝令暮改を繰り返すことにもなる。こうなると周りからの信頼まで失う。

 徳川家康が「怒りは身を滅ぼす」と言ったのは、あまりにも有名な話である。徳川家康はアンガーマネジメントを上手に実施していたから、天下を取れて長生きしたのである。怒りを爆発させて生きている人は、織田信長のように恨みを買うし、長生きできないことが多い。毎日のように怒りを爆発させてしまっている人は、一刻も早くアンガーマネジメントをしないと大変なことになる。身を滅ぼしかねないからだ。身体と心がボロボロになってからでは遅い。とは言いながら、アンガーマネジメントをひとつのメンタルテクニックとして実施して、6秒ルールを真面目に実践しても、怒りを完全に消し去ることはできない。

 何故、アンガーマネジメントによって怒りを完全に消せないかというと、自分のメンタルや生きる価値感に偏りや拘りを抱えているから怒りが生まれるんだということを認識していないからである。自分の思想や哲学に問題があるから怒りをコントロールできないのだということを知らなければ、いくらアンガーマネジメントをしたとしても効果は上がらない。自分の間違った価値観を変革しなければ、怒りを昇華させることは難しいのだ。怒りを爆発させてしまうのは、部下たちが仕事を満足にできないとか、お粗末な仕事ぶりなのだから当然だと言えよう。とは言いながら、怒りに任せて部下たちを怒鳴りつけたとしても、部下たちは一向に成長しないであろう。

 部下たちを満足できるレベルまで成長させるには、上司としての人間哲学が必要なのである。ましてや、怒りを爆発させない為には、そもそも正しい価値観が必要なのである。その正しい価値観や哲学というのは、全体最適と関係性重視の価値観であり、自らの自己組織化とオートポイエーシスを生み出す哲学でもある。言い換えると、システム思考の哲学である。上に立つ者はシステム思考の哲学を持たないと、部下を成長させることは出来ないし、怒りを収めることは不可能だ。そして、自己マスタリーを実現することで怒りを昇華させることも可能になる。アンガーマネジメントは、システム思考の哲学と自己マスタリーの実現によってしか、成功しないのだということを認識すべきである。

縄文人の細胞記憶を目覚めさせよう

 最古の日本人である縄文人のルーツは、まだ完全には解明されていないらしい。しかし、最新のDNA分析によると驚くべきことが解ったのだという。縄文人は、中国や朝鮮半島を渡ってやってきたのではないかと見られていた。だから、縄文人の祖先は中国人や朝鮮人なのではないかと思われていたのである。ところが、DNA解析をしてみると中国人や朝鮮人の渡来人のDNAとは明らかに違っているのだというから驚きである。そして、現代人の身体にも縄文人のDNAが色濃く残っているというのである。

 科学の大きな進歩によって、縄文人の遺伝子解析が驚くようなレベルで解明されてきた。人間の祖先はアフリカ大陸から生まれたと言われている。それがユーラシア大陸を渡り、進化しながら日本に渡ってきたのではないかと見られている。そして、日本に縄文人が渡ってきた後から、中国大陸に別の人種が渡ってきて進化したという説が有力になってきたらしい。つまり、中国大陸から朝鮮半島を渡ってきて、稲作文明を広めた弥生人は、縄文人とはまったく違う人種だったのだろうと考えられている。

 縄文人のDNAが色濃く残っているのは、アイヌ人と沖縄の人々ではないかと見られている。そういえば、彫りが深くて独特の顔立ちは、お互いに共通している処が多いように見られる。縄文人のDNAが残っている割合が極めて低いのは、関西地方と四国に住んでいる人だという。青森や岩手などの東北地方の人々には、縄文人のDNAが多く残っていると言われている。縄文人のDNA割合が低い日本人と、縄文人のDNAの比率が高い日本人がいるということである。住んでいる地方によって比率が違うというのだ。

 あくまでも想像であるが、縄文人が大陸からやってきて最初に定住したのは沖縄と九州各地、そして本州の海岸に近い地域で住んだのではなかろうか。そして、弥生人が大陸からやってきて縄文人は追いやられて、流れ流れて東北地方を定住の地として選んだのではないかと思われる。縄文人の末裔のアイヌの人々は東北から北海道に移り住んだと想像する。一部は沖縄に永住して、縄文人のDNAが残ったのではなかろうか。弥生人から定住の場所を奪われた縄文人は北陸地方から東北地方に移り住んだのではなかろうか。

 せいぜい1000年前後しかなかった弥生時代と違い、縄文時代は一万三千年もの長期間に渡り平和な時代を築いた。どうして平和だということが解るかというと、縄文時代の人骨には武器によって傷ついた跡がないからだとされる。一方、弥生時代の人骨には明らかに戦った痕跡が多いのだと言う。また、縄文時代はお互いが支え合うコミュニティが確立されていたというから驚きだ。高福祉で全体最適の価値観を大事にした共同体が形作られていたことが歴史研究家によって明らかにされている。

 全体最適の価値観を持っていた縄文人と比して、個別最適を目指して自分の利益を最優先に暮らしていた弥生人は、身勝手で自己中な生き方をしたと思われる。そして、弥生人のDNAを多く持った人々の細胞記憶は、現代人にも引き継がれて、自分にとって損か得かという価値観を何よりも大切にして、人を騙したり蹴落としたりしても自己利益を求める。一方、縄文人のDNAを色濃く残した現代人の細胞記憶は、個別最適よりも全体最適を目指して、全体の幸福を願った生き方をするに違いない。どちらの細胞記憶も、普段は眠っていたとしても、人生の中で重大な危機に立たされた時に目覚めるだろう。

 縄文人の細胞記憶を目覚めさせることが出来た人間は、人間本来の生き方が出来るに違いない。何故なら、全体最適と関係性重視の価値観を持つ縄文人は、システム思考の生き方を実践していたからである。つまり、自らの自己組織化を目覚めさせ成長させて、主体性、自主性、自発性、責任性を発揮していたのである。人間の細胞は、本能的に自己組織化する働きを持つ。縄文人のDNAを多く持つ細胞が目覚めたなら、自らが自己組織化する生き方をするだろうし全体最適の哲学を実践するに違いない。故に現代人は、縄文人の細胞を目覚めさせることが求められる。

女は男を遺伝子レベルで選ぶ

 ちっとも女性にもてない男がいる。顔だって悪くないし、スタイルもいい。経済力もあるし地位もある。人柄だって悪くないし、優しい性格である。それなのに、女性にはからっきし人気がないという男がいる。周りの人からみても、どうして女性にもてないのか不思議でならない。こういう男は、お見合いしても付き合いが続かないし、合コンを何度やっても選んでもらえないのだ。どうしてなのか、本人も周りの人もまったく解らないのである。女性はそういう男性を選ばないのには訳がある。DNAレベルで選んでいるからだ。

 

 そんな馬鹿な、DNAの優劣なんて科学的解析をしなければ解らないだろうと、猛烈に反論する人も多いことだろう。確かに、医学的・科学的に詳しく検査しなければ、いわゆる遺伝子解析をしなければ、DNAの優劣なんて解らない筈だ。しかし、不思議なことに女性は男性を一目見ただけで、遺伝子レベルで相手のことが解ってしまうというのだ。勿論、科学的な分析をしている訳ではなくて、直観で見抜くというのである。それは、相手の姿かたち、身のこなしや雰囲気、姿勢や態度、表情や声などから、わずか数秒で判断するという。

 

 わずかの時間で判断出来ても、すべての女性が遺伝子レベルで好みの相手と結ばれる訳ではない。いいなあと思っている男性が、自分を好きになってくれるかどうかは別なのである。男性は遺伝子レベルで選んでいる訳ではなくて、容姿とか自分をどれだけ深く思ってくれているかとか、自分に取って都合の良い女を選ぶ傾向にあるのだ。または、自分の夫婦生活に取って必要かどうかという基準で選びやすい。料理が上手いかとか、家事や育児をテキパキとこなしそうだとかいう選択基準でセレクトする傾向がある。身勝手なところもあるのだ。

 

 遺伝子レベルで相性がいいというが、男性のどういうDNAを女性が好むのであろうか。人間の遺伝子には、過去の記憶が書き込まれているのではないかと言われている。その遺伝子記憶とはどんなものかということだ。日本人の起源は、古代から住んでいた縄文人と大陸からやってきたのではないかと見られる弥生人だと言われている。縄文人は、一万数千年に渡り、平等で平和な暮らしを続けていた。大陸から渡ってきた弥生人がその生活に入り込んできて、縄文人を駆逐したと言われていたが、今は否定されている。とは言いながら、好戦的で経済観念が豊かな弥生人は、縄文人を凌駕したのではなかろうか。

 

 縄文人は、自分の利益や幸せよりも全体の幸福を追求していたと見られる。つまり、世の為人の為に生きるという価値観が強かったようである。個別最適よりも全体最適の哲学を大事にしていたらしい。そして何よりも関係性を重要視した生活を心がけていたことが想像されている。一方、弥生人はそれとは正反対に、個別最適の価値観を強く持っていたと思われる。端的に言うと、弥生人はエゴな生き方、縄文人はエコな生き方をしていたと言える。女性が瞬間的に遺伝子レベルで求める男性と言うのは、縄文人の遺伝子記憶を持つ人と言える。

 

 何故に女性は、縄文人の遺伝子記憶を持つ男性を選ぶのであろうか。それは単純な理由からだと思われる。縄文人にしっかり根付いていた全体最適と関係性重視の価値観こそが、人間として必要であり、この価値観を持っている人間は周りから信頼されるし尊敬されて、成功することが約束されているからである。そして、こういう高い価値観を持っていれば、家族を大切にするし愛する人を決して裏切ることがない。直観力が高くて遺伝子情報を感じ取ることが可能な女性だからこそ、わずか3秒から4秒で男の値踏みが可能なのだ。

 

 日本人の中には、元々縄文人の遺伝子記憶を強く持っている人と、弥生人の遺伝子記憶を強く残している人がいるのであろう。弥生人の遺伝子記憶を強く持つ人間は、個別最適を目指そうとするから、自分の損得を優先する行動をしたがる。身勝手で自己中な人間であり、自分さえ良ければいいという価値観を大事にするから、自分だけの経済的な豊かさを追求する。周りの人々の豊かさや幸せを実現しようなんてことは考えることがない。こういう人間は、誰からも相手にされないし、やがて独りぼっちの人生を送る。こんな男は、女性から相手にされないのは当然である。もてないのには、それなりの理由があるのだ。

海外で働くということの是非

 若者たちが、日本国内で働くことを嫌がり、外国で仕事をするケースが増えている。日本の労働環境に我慢ならないし、外国で働くほうが自分に合っていると思う若者たちが増えているらしい。確かに、日本の労働環境はあまり良いとは言えないが、それにしても外国で働く理由が、日本で働くことが嫌だからというのはあまり感心するものではない。何故ならば、いくら労働環境がよくないと言っても、苦難困難を避け続けていたら人間として自己成長が止まってしまうような気がするからだ。自分を育成し成長させてくれた日本で働いて恩返しもせずに、他国で働いて貢献するというのは如何なものであろうか。

 

 雇い主側からの要請、またはビジネス展開をする理由で、外国で働くというのならば理解もできる。しかし、自分の個人的理由により外国で働くというのは、あまりにも安易な考えではなかろうか。そもそも、働くことの意味や生きる目的をしっかりと把握して労働をしているのか、はなはだ疑問である。最近の労働に対する若者の意識調査を見てみると、働くという意味を正しく理解している若者が圧倒的に少ないことに愕然とする。労働とは、あくまでも生活手段を得るためのものだと割り切っている若者が実に多いのである。

 

 確かに労働は生活手段を得る為にするという側面を持つのは確かだ。しかしながら、それだけではない筈である。働くというのは、人々の幸福や豊かさに貢献することでもある。働いて物やサービスを産み出し提供することで、全体最適(全体幸福)を目指すことができるのである。ところが、最近の労働者の意識というのか持っている価値観は、最低で劣悪だと言える。個別最適(個人幸福)しか求めていないのである。若者だけではなく、中高年者もまた、同じく個人最適しか求めていないというのは情けない。

 

 いや、私は自分の為に働いているのではないと胸を張って答える人もいる。自分は、家族の幸福や豊かさの為に働いているんだと強弁する人もいる。家族の為というのは、全体最適の価値観ではない。それは、あくまでも個別最適なのである。そんな基本的な間違いさえ知らないのだから、海外に住んで働きたいというのはエゴでしかない。ましてや、税金が安いところや高福祉の国に住みたいと考えるご老人がいるのは、あまりにも短絡的で情けない。仕事をリタイアしたら、社会貢献なんかする気はさらさらないというのも情けない。

 

 何も外国に住んで働くことが悪い訳ではない。後進国や紛争地に赴いて、社会インフラを整備したり学校を作って子どもに教育をしたりする尊い活動をするというなら大賛成である。おおいに尊敬したい。でも、自分の利害を優先したいから外国に住んで働くというのは、許されない行為であろう。昔、ある著名なアーティストが日本は税金が高いからと、外国に住居を移したことがある。その後、そのアーティストは落ちぶれてしまった。自分の損得で動くようなアーティストが、人を感動させる立派な作品を作れる筈がない。

 

 戦後の日本で、外貨が極端に少なくなってしまい、デフォルトしてしまうのではないかと危惧された時があった。その時に、国家・国民の為に何とか外貨を稼がなくてはならないと立ち上がった企業があったのである。東京通信工業という会社だった。世界で初めて自社で開発したトランジスタラジオを世に出し、世界中に輸出して外貨を稼いで国家・国民を救ったのである。その東京通信工業という会社が、やがて世界的な大企業のSONYに発展したのは有名な話である。世の為人の為に貢献する企業こそが成功するのだ。

 

 それが個人であっても同じだ。心から世の為人の為にと骨身を惜しまず働く人なら、大成功を収めるに違いない。多大な社会貢献もするが、結果として経済的にも裕福なるのは間違いない。トランジスタラジオやウォークマンの開発に成功した当時のSONYの社員たちは、どうしたら社会貢献ができるかという哲学を毎日真面目に語り合ったという。自分の損得のために外国で働きたいなんて、ゲスな考えを持つ人はいなかったのである。ところが世の中も変化してしまい、名だたる大企業の社員たちから哲学は喪失して、自分の名誉・評価・収入のためにだけ外国で働きたいという低レベルの価値観を持つ社員が増えたのである。海外で働く日本人が、外国人から尊敬されないのは当然である。

学問は誰のためのもの(優しく哲学を学ぶ)

 学問とは、誰の為にあるのだろうか。高度の専門的な学問は大学や研究機関のものであり、単純でしかも優しく学べるような学問は庶民のものというように思っている人が多いかもしれない。しかし、そんなことはあり得ない筈だ。どんなに高度で難しい学問だろうと、みんなの為に存在するし、学びたいと思うすべての人のものだろうと確信している。ところが実際は、アカデミックの世界での学問は、研究者や教授・助教授のための学問になっているように感じる。わざわざ難解で理解不能の言葉を操り、敢えて難しい理論展開にしているように思えて仕方がない。

 

 専門の知識や素養が必要な複雑系の物理学や化学、非線形数学などが、まるっきり理解不能なのは仕方あるまい。理解できそうなのに、なかなか理解できない学問の代表は、哲学であろう。哲学は、凡人が理解するのに苦労する。特に、哲学者とその学問を研究する人たちの、難し過ぎる言い回しが理解するのを困難にしていると思う。どうして、こんなにも難解な言い回しをするのだろうと、いつも不思議に思う。それに、専門用語を羅列することが多いし、その理論展開について行けそうもない。わざわざ難解にしているとしか思えない。

 

 そもそも大学教授たちの授業は、おしなべて難解である。教授が著した教科書・文献を読んでも、理解するのが極めて難しい。どうしてこんなにも難解にしなくちゃならないんだと、憤りさえ感じてしまう。敢えて言わせてもらうと、自己満足の世界だと思ってしまう。わざと難しくして、どうだ難しいだろ、バカなお前たちなんて解りっこねえんだよ、と言っているようなものだ。哲学を学ぼうとする学生が少ないのは、こういう馬鹿な教授たちのせいであろう。相手が理解しやすいように、優しい語句と言い回しで教えるのが賢い教授なのだ。

 

 仏教には、仏陀の尊い教えを伝えるお経というものがある。言わば、仏教の教科書みたいなものである。浅学菲才の私はそのお経を読めないし解説も出来ない。非常に難しいと思われているが、実はこのお経は仏陀自身が書き記したものではないという。アーナンダという第一弟子が、口述筆記したものだと言われている。仏陀が集まった人々に講演をして、その言葉を一言一句違わずに文字に起こしたのがアーナンダらしい。集まった人々のレベルに合わせて解りやすいように物語にして聞かせたという。

 

 集まった人々のレベルは千差万別である。仏教を習いたいという専門家(僧侶志願)も居れば、一般庶民も居たという。市井のおばちゃんたちの認知レベルに合わせて、話の内容を変えたという。なるべく理解しやすいように平易でストリー性を持たせて語って聞かせたというのである。仏教とは苦しんでいる人々を救う教えである。当然、悩み苦しむ人たちというのは、悟りを開いていないのは勿論だが、どちらかというと教養や学びの薄い人たちである。そういう人こそが救われるべきだと、仏教を学べるように優しく教えたのであろう。

 

 本来学問とは、仏陀のように優しい語句と言い回しで、誰でも学べるようにしなければならないのだ。それをわざわざ難解にして、賢い人だけが理解できればいいんだという態度や姿勢では、学問を詰まらなくするだけだ。そもそも哲学という学問は、人々を悩み苦しみから救う手立てとするものだ。物事の本質をどう見極めていくのかという、形而上学としての立場があるのだから、人間が人間らしく生きるために必要不可欠な学問なのである。わざわざ難解にして、人々を排除しようとするなんて愚の骨頂と言えよう。

 

 アカデミックの世界で教授と呼ばれる人たちは、どうして学問を難解にしてしまっているのであろうか。それは、ひとつには格調高い文章にしようとして、必要以上に難解にしなくてはならないと勘違いしていることに起因しているようだ。さらには、学歴や教養が高くなっている人ほど、身勝手で自己中心的になっているからだ。文章を読んだり授業を聞いたりする人たちの気持ちになりきれないのである。自分の言っている言葉を理解できないのは、聞くお前たちがバカなのだと突き離しているのである。学問を教える人は、学ぶ人の能力や力量に合わせて、解りやすいように物語にして聞かせ、理解してもらう努力をすべきなのである。