HSP(ハイリーセンシティブパーソン)を生きる

最近、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)という語句が、ツィッターやSNSで盛んに用いられている。これは、心理学、もしくは精神医学の一部の専門家の間で使われている気質的特性・神経学的特性を持った人の総称である。勿論、その特性には強弱があるものの、約5人に1人がHSPだとされている。20%の人がHSPで、それ故に生きづらさを抱えているというのである。その割合の多さも驚きであるが、生きづらさの原因がHSPにあったとするなら、原因が解ることで少しは安心するのではなかろうか。

HSPとは、以前はまったく注目されることもなく、そんな特性を持った人間が存在することさえ認識されていなかった。1996年にエレイン・N・アーロン博士が主張した生得的特性である。HSPは強くて眩しい光、刺激的で不快な匂い、大きな音や意味のない雑音などに過剰反応して、強い不安や恐怖感を持つ。また、他人の微妙な言動に対して、過剰な反応をしてしまうことが多い。特に、自分に対して相手が悪意を持っているのではないかとか、攻撃をしてくるのではないかと不安になることが多い。つまり感受性が強過ぎるというか、あまりにも敏感な感覚を持つ人がHSPの特徴だと言われている。

こんなふうに記すと、マイナスのイメージしかないが、感受性が強いと言うのは繊細な心を持つので、芸術面や文芸における才能が突出するという側面もある。素晴らしい才能を発揮して、凡人には残せないような足跡を残すことも少なくない。とは言いながら、HSPは他人の言動に感じやすいことから、強い生きづらさを抱えることが多い。学校では教師や学友の発する悪意を敏感に感じてしまうし、いじめやパワハラなどが自分に向ってされたものでなくても、不安感や恐怖感がマックスに達して、不登校になることもしばしばである。社会における人間関係に不安を感じてひきこもりになるケースも多々ある。

また、HSPは発達障害と誤認識されることもしばしば起きるし、自閉症スペクトラムと混同されることも少なくない。さらに付け加えると、HSPであるが故に、大人になることへの無意識の拒否反応から、アダルトチルドレンになってしまう傾向もあると言われる。いずれにしても、HSPは感受性が強過ぎるというその生得的特性がある故に、強烈な生きづらさを抱えて生きているのは確かである。そして、そのHSPの特性を周りの人々に理解してもらえなくて、辛い日々を過ごすことが多い。

HSPは感受性が強いが故に、他とのコミュニケーションが苦手な傾向にある。どうしても、自分よりも相手の感情を優先してしまうので、相手の気持ちを慮ってしまい言葉が発せられなくなるのであろう。気兼ねのない人間関係を築き上げることが難しく、親しい友達が出来にくい。SNSなどで何気ない言葉に傷付いてしまうことがあるので、ブログやツィートすることに臆病な傾向がある。他人と接することが極めて苦手なので、人が多い雑踏や満員電車などに不安感を覚えてしまい、対人恐怖症的な症状を呈することもある。

HSPの原因は、生まれつきの遺伝子的な特質によるものだと推測されている。それが真実ならば、このHSPを克服したり乗り越えたりすることが極めて難しいということになる。そうなると、このHSPの特性と一生付き合って生きることになり、生きづらさを克服するのが困難だということだ。それは当事者に取っては、とても辛い現実である。これはあくまでも私見だと断った上で、HSPの原因はDNAの他にもあると提起したい。生まれつきの特性はあったとしても、養育環境によってHSPの特性が強化されたのではないかという推測が出来る。そのキーワードはオキシトシンという神経伝達物質である。オキシトシンという安心ホルモンが不足するような子育てにより、HSPが強化されたのではないかと思うのである。

オキシトシンという脳内ホルモンは、不安や恐怖感を和らげる神経伝達物質である。その効用と分泌作用はまだ不明の部分が多いものの、乳幼児期の不適切な養育によって不足気味になることが多いと言われている。まさしくHSPの症状は、このオキシトシンというホルモンが不足しているから起きるのではなかろうか。このオキシトシンは、愛情たっぷりのスキンシップや触れ合いによって分泌量が増えると言われている。また、このオキシトシンは他人の幸福を実現させる無償の行動をして感謝された時にも分泌量が増える。つまりボランティアや社会貢献活動をすると増えるのである。実際に、HSPの方が社会貢献活動に熱心に取り組んで乗り越えたケースが少なくない。HSPはオキシトシンやセロトニンの分泌量を増やす行動を重ねることで、乗り越えることが出来ると思われる。

 

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精神疾患は脳のせいじゃない!

メンタルの不調や精神疾患は、脳の不具合から起きると殆どの人は思っている。精神科医やセラピストさえも、脳の器質的な機能障害からメンタルの不具合を起こすと思い込んでいる。確かに、精神医学の世界では長年に渡ってそう教育してきたし、脳神経学の研究でもそのように発表されてきたのだから仕方ないであろう。脳内における神経伝達物質(脳内ホルモン)の分泌や受け渡しの不具合が起きて、精神疾患が発症するとされてきた。しかし、最新の医学研究ではそれが間違いだと判明したのである。

勿論、脳原因説が全面否定された訳ではない。ごく一部においては、脳の機能障害による影響があるのは間違いない。しかし、それは限定的であり、メンタルの不調は人体における全体のネットワークシステムの不具合により起きるというのが真実である。それなのに、脳の機能障害によって起きるのが精神疾患だと思い込んでいる精神科医やセラピストがいて、その脳原因説にいまだに固執していて、クライアントを治療しているのは非常に残念である。患者さんたちが可哀想で仕方がない。

精神科医の9割以上は、精神疾患に対して投薬治療を行っている。その薬剤は、脳に働く機能を持つ。精神症状はその投薬によって少しは効果がある場合が多い。しかし、その効果は限定的であるし、症状が緩和されることはあっても完治することはない。あくまでも症状を緩和する効果しかないし、次第に投薬量が増えるケースが殆どである。ましてや副作用が深刻であり、便秘や低血圧、肝機能障害というような副作用に対して、さらに薬剤投与が増える。患者はクスリ漬けにされてしまうのである。

投薬治療による効果が何故あまり上がらないのかというと、脳の機能障害が精神疾患の原因ではないからである。確かに脳の神経伝達系の異常が起きているのは、間違いないと思われる。しかし、脳の神経伝達系に働く薬を投与すると、その薬の効果を減少させようという人間の恒常性が働いてしまう。人間の脳における恒常性を保つ機能があって、そうしなければならない訳があって神経伝達系の異常を起こしていると思われる。人間全体を守る為に異常を起こしてしまっているのである。それを無理やり投薬によって直そうとすると、逆に異常を強める働きが起きると考えるべきである。

日本における精神医療において、抗うつ剤や向精神薬が大量に用いられている。そして、それらの投薬治療によって精神疾患の患者は増えることはあるものの、完治して離脱する患者は殆ど存在しない。この事実だけでも投薬治療が無駄であるばかりでなく、患者を益々苦しめているのは間違いないであろう。精神疾患が起きる原因が脳の機能障害にないのだから、治療方針や治療計画が間違っているのである。投薬治療をすべて否定している訳ではない。緊急避難的に短期間使用するケースがあるのも承知している。しかし、何ケ月や何年にも渡り同一薬剤による投薬治療を行うべきでない。患者と治療者は一刻も早くその間違いに気付いてほしいものである。

メンタル不調や精神疾患を発症する原因は、人体におけるネットワークシステムの不具合である。人体には37兆2千億個の細胞がある。細胞どうしがネットワークを持っていて、過不足なく協力し合って働いている。また細胞によって組成されている臓器、骨格、筋肉組織は同じく親密なネットワークを組んでいて、人体の全体最適を目指している。誰かに命令指示されている訳でもなく、細胞や組織自体が自発的に主体的に働いている。セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミン、オキシトシンなどの神経伝達物質は、人体の適切なネットワークによって生成されて必要箇所に適量が運ばれる。

食べ物、環境因子、人間関係のストレスなどが不適切な場合に、そのネットワークが不具合を起こすのである。例えば、食品添加物、農薬、化学肥料が含まれた食事が腸内環境を悪化させると、体内ネットワークの不具合を起こすことはよく知られている。精神疾患だけでなく様々な身体的疾患もまた、人体におけるネットワークの不具合で起きることは最近知られるようになった。さらに人体のネットワークシステムの不具合は、社会における人間どうしのネットワーク(家族関係等)が希薄化したり劣悪化したりすると起きることが判明している。このネットワークを正常に戻したり再生したりすることが、メンタル不調や精神疾患を治すということを認識してほしいものである。

妻の寿命は夫が握っている

妻の寿命は夫が握っているなんてことを言うと、世の中の旦那さまからクレームが来るに違いない。そんなことはない、寿命は自分が決めている、または神様がお決めになっていると主張する男性が多いと思われる。妻の立場にある女性の多くも、そんなことはあり得ないと反論することであろう。ところが、多くの奥様たちは知らず知らずのうちに、旦那さまの言動によって心身共に傷つけられ痛めつけられ、身体疾患や精神疾患に苦しんでいる。そして、旦那さまによって寿命が縮められているということさえ自覚していない。

奥様を傷つけている旦那さま自身も、自分がそうしていることを自覚していない。つまり、夫婦が共に傷つけて傷つけられていることを自覚していないことが問題なのである。例えば、女性特有の疾病である、子宮筋腫、子宮がん、卵巣嚢腫、乳がんなどは、夫からの行き過ぎた『介入』により発症していると言っても過言ではない。独身の方も発症しているケースもあるが、それは親か上司による介入で起きている場合が多い。『介入』していない場合もあるが、それは『無関心』という態度で傷つけているのである。

介入と無関心(無視)とはどういうことなのか、具体的に示すとこういう態度である。介入とは、指示、指導、圧力であり、それが酷くなると所有、支配、制御の態度になる。つまり、夫が妻に対して、様々な言動で自分の思い通りに操ろうとするのである。妻の自由を奪い、まるで操り人形のように支配するのである。そんなことはないと言うかもしれないが、当事者たちも気付いていないだけである。勿論、夫婦お互いが尊厳を認め受け容れて愛を与えている例外もあるが、殆どの夫婦は夫が妻を支配しようとしている。

無関心(無視)の態度とは、妻の話を聞かないとか妻の姿や行動に関心を持たないという態度である。そんなことはないと夫は主張するかもしれないが、多くの夫は「あんたは私の話をちっとも聞いてくれない」と言われていることだろう。聞いているふりははしているかもしれないが、傾聴と共感の態度で聞かなければ、聞いているとは言えない。また、妻が美容院に行ってきた際、精一杯おしゃれをした時に、「それ似合うよ」と言う夫がどれほどいるだろうか。または、自分の意に添わない時に不機嫌な態度や沈黙してしまうことがあるが、これが無関心・無視の態度である。

人間という生き物は、本来自由であり自律性を持っているし、関係性をもっとも大切にして生きる。それが、夫によって支配され制御され無視されたとしたら、妻の心身はボロボロに傷付いてしまうということは容易に想像できる。妻は、夫から愛されていないし嫌われているのではないかと思い込んでしまう。それは私が悪いからではないかと、自分を責めるのである。そうすると、メンタルはボディブローのように毎日痛め続けられる。そのため、身体の血流やリンパの流れの循環機能だけでなく、人体のネットワークの不具合を起こして、臓器や筋肉組織の石灰化が起きて病気になると考えられている。

これが妻の寿命を夫が握っているというエビデンスである。夫源病という疾病があると主張しているドクターが存在する。妻が夫の機嫌を損なわないように一喜一憂しながら生きていると、様々な不定愁訴が起きて、やがて重篤な身体疾患に発展するというのである。これもやはり夫が妻の寿命を決めている証左である。ということは、妻が病気になるかどうかは、夫の態度次第ということになる。介入と無関心の態度をすることを改めないと、夫は妻を早く失ってしまうということになり、孤独になるということだ。

老後を一人で生きるというのは寂しいものである。仕事をリタイアして夫婦で余生を楽しもうと思ったら、妻が他界していないとしたら、詰まらない老後を生きることになる。または、もう我慢がならないと妻が定年を機に家を出て行くことがあるかもしれない。そんなことがないように、夫は妻の話を傾聴し共感することから始めてみてはどうだろうか。妻の寂しさ悲しさ苦しさを我がことのように聴いて、自分のことのように悲しむことを慈悲と呼ぶ。まさに慈悲の心を発揮して、妻が喜ぶことや満足することを精一杯提供しようと心を入れ替えることを薦める。そして、妻を所有・支配・制御することなく、自由を満喫させることである。そうすれば、いつまでも妻は若々しく元気で健康で長生きすることだろう。

うつ病が発症する本当の原因

うつ病またはうつ状態に陥ってしまっている患者が激増している。うつ病は脳の機能障害だと思われている。神経伝達物質セロトニンの不足が影響して、神経伝達回路における不具合がうつ病の発症に関係しているらしいと思われている。だから、SSRIという選択的セロトニン再取り込み阻害薬がうつ病に効果があると言われている。このSSRIという画期的な抗うつ薬が発売された際には、これでうつ病患者は救われたと思った人も多い。ところが、うつ病患者は減少するどころか、逆に数倍にも増えてしまったのである。

そんな馬鹿なことはあり得ないと思うかもしれないが、実際にSSRIという薬が出来たお陰で、うつ病患者は激増したのである。しかも、SSRIという薬によってうつ病が完治する人は殆どいない。だとすれば、うつ病にSSRIは効かないし、うつ病の医療費だけが増加させる役割しかないということになる。ましてや、うつ病の発症が脳の神経伝達回路系の不具合によるものではなくて、違う原因らしいということが判明している。脳だけでなく、腸内細菌や人体全体のネットワーク回路の不具合もうつ病の発症に関わっている。だから、脳だけに働くSSRIの薬効がないというエビデンスが得られたのである。

それでは、何故腸内細菌などを含む人体全体のネットワークシステムが不具合を起こすのであろうか。ネットワークシステムの不具合は、システム論から観ると実に良く理解できる。複雑系科学におけるシステムとは、構成要素が全体最適を目指して、それぞれが関係性を発揮して自己組織性(自律性)とオートポイエーシス(自己産出)を機能させる。ところが、何らかの原因によって関係性を損なって個別最適を目指してしまうと、ネットワークシステムが破綻を起こす。これが人体というシステムにおける不具合(疾病)である。

人体における構成要素とは、60兆個に及ぶ細胞や100兆個以上あると言われる腸内細菌などであろう。ネットワークシステムの不具合は、構成要素そのものに問題の原因がある訳ではなく、それらの関係性(ネットワーク)の劣化にある。そして、その関係性の劣化や希薄化は、ストレスに起因しているというのが医療界における定説になっている。ストレスとは精神的なそれだけでなく肉体的ストレスも含まれる。食品添加物、化学肥料や農薬、クスリ、過大な飲酒や喫煙などが身体に過剰なストレスを与える。対人ストレスや過大過ぎるプレッシャーなども影響している。

それらのストレスが原因になり、人体ネットワークシステムの不具合を起こし、身体的疾患や精神疾患を起こすと考えられている。それでは、何故人間はこんなにもストレスに弱いのであろうか。ストレスを乗り越えることが出来るなら、システムの不具合が起きないからうつ病にはならない筈である。人間には、そもそもある程度のストレスなら乗り越えることが出来る自己組織性とオートポイエーシスを持っている。ところが、多重ストレスや連続したパワハラ・セクハラ・モラハラを受けると、それらの機能が劣化してしまうのである。それも人間関係が破綻しているとなおさらである。

うつ病などの精神疾患が発症する本当の原因は、本人だけでなく社会システムそのものの不具合にある。家族という社会システム、会社や各部門における社会システム、地域社会のシステムなどにおいて、ネットワーク(関係性)の不具合や破綻を起こしていると、その構成要素である人間にも大きな影響を与えてしまう。人間の精神そのものにも自己組織性がありオートポイエーシスが本来備わっている。つまり、主体性・自発性・自主性・責任性などの自律性があるし、自らが価値を生み出すオートポイエーシスを持つ。家族どうし、社員どうし、住民どうしの関係性が希薄化したり劣悪化したりしていると、精神の自己組織性とオートポイエーシスが機能劣化を起こしてしまうのである。

人間という生き物は、様々な社会システムの中で、どれかひとつのネットワーク(関係性)悪化だけならば、何とか乗り切ることができる。ところが家庭でも、そして会社や地域社会でも関係性を無くしてしまうと、ストレスを自ら乗り越えることが出来なくて、人体のネットワークシステムの不具合を起こす。これがうつ病発症の本当の原因である。企業における関係性を改善することはなかなか出来ないが、家族というシステムの不具合なら、家族どうしが努力して協力し合うことで改善することは可能だ。勿論、身体的ストレスを解消する食生活の改善も可能だ。食生活も含めた生活習慣を改善し、家族という社会システムを本来あるべき姿(介入せず・支配せず・制御せず・攻撃せず)に改善して、関係性を良好なものにすればうつ病は完治できるのである。

 

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精神疾患が薬で完治しない本当の訳

精神疾患は投薬では治らないなんてことを言うと、とんでもない間違いだと怒りを露わにして抗議する精神科医がいることだろう。そんなエビデンスのない戯言を言って、人々を惑わすのはとんでもないと言うに違いない。確かに、精神疾患に対する投薬治療による改善効果はエビデンスがあると信じられてきたのは事実である。しかし、ここにきて投薬治療による薬剤の作用機序が、薬品会社によって巧妙に仕込まれたものではないかという疑いが出てきたらしい。ましてや、治験結果そのものがかなり怪しいと言われているのである。

うつ病の特効薬として現れたSSRIの作用機序は、正常な理解力がある人間ならば、まったく納得できない説明である。セロトニン濃度が上がる筈だという思い込みだけである。しかも、脳の働きそのものがまだ解明されていないのに、まったくの想像による仮説でしかないのである。誰も実際に確認していないのに、効く筈だと勝手に思い込まされて処方された患者が、実に可哀そうである。薬品会社の治験によるとかなりの効果があるとされているのに、第三者が効果判定をすると、優位性が認められないという結果が出ているという。これこそ、エビデンスが保証されていないのだ。

他の抗うつ剤や向精神薬も、実は似たり寄ったりなのである。すべて仮説に基づいた薬効であり、誰も明らかな具体的科学的根拠を示せないという。確かに、向精神薬によって一時的な改善はみられるケースもあるようだ。しかし、しばらくすると薬効が感じられなくなり、さらに増量するか別の向精神薬に変更せざるを得なくなったりする。多剤投与という最悪の結果になることもしばしば起きるらしい。これでは、精神疾患が投薬治療によって完治するなんてことは起きる筈がないであろう。

そもそも、精神疾患は脳の神経伝達系の異常によって起きると考えられてきたが、最新の医学研究では脳だけの異常ではないということが明らかになってきた。ということは、脳の神経伝達系統に働く薬を処方されても、そんなに効果が上がらないのは明白である。とすれば、これだけでもエビデンスは崩壊しつつあるという証左になる。しかも、投薬治療が精神疾患には不要だとする、もっと確かな科学的根拠が存在するのである。それだけでなく、かえって投薬が悪影響を及ぼすというエビデンスがあるということが判明した。

最新の複雑系科学におけるシステム論がある。その最先端の第三世代のシステム論においては、システムそのものには自己組織性(自律性)だけでなくオートポイエーシス(自己産出・自己産生)があることが解明されている。社会もシステムであるし、宇宙全体もシステムである。勿論、人体そのものもシステムである。家族というコミュニティもひとつのシステムとして考えられている。地域コミュニティ、そして企業も、そして国家もシステムとして捉えられる。地球もひとつのシステムであり、自己組織性とオートポイエーシスが存在していることが判明している。

人体システムは、60兆個に及ぶ細胞という構成要素によって人体という全体が形成されている。そして、60兆個の細胞には自己組織性があるしオートポイエーシスという機能が存在している。100兆個以上ある腸内細菌にも自己組織性がありオートポイエーシスがあることが解明されつつある。腸が第二の脳とも呼ばれるのは、そのせいである。これらの細胞や腸内細菌は、過不足なく人体という全体の最適化を目指して働いている。勿論、細胞によって自己組織化されている筋肉・骨・臓器などのネットワークシステムは、人体の健康とその維持のために過不足なく働いている。人体というネットワークシステムは恒常性や自己免疫などの自己組織性を発揮しているし、自らのシステムにおいてオートポイエーシスを発揮している。つまり、人体とは本来、外からの介入(インプット)をまったく必要としない完全なシステムなのである。

人体は、外部からの不必要で過度の悪意に満ちたインプットを受けてしまうと、機能不全を起こしてしまう。例えば、社会的なストレスや人間関係における過度のプレッシャーなどのインプットをされ続けると精神的な障害を起こす。または、家族からの過度の介入や支配を受け続けると、ストレスによる身体疾患や精神疾患を発症する。免疫系や自律神経にも悪影響を及ぼして、重篤な身体疾患さえも起こす。これがシステム異常である。そして、このシステム異常は人体に対する過度の介入で起きているのだから、それを投薬という過剰介入をすることは、さらに人体システムを悪化させてしまうことになる。自己組織性とオートポイエーシスを機能低下させるからである。精神疾患は、社会システムの機能不全が起こしているのだから、そのシステムを正常に戻すことでしか治癒しないのである。投薬は治癒を妨げるだけでなく、過度の介入が精神疾患をさらに悪化させるだけであると言えよう。

 

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発達障害者を雇用する意味(グッドドクター)

グッドドクターというTVドラマが先週の木曜日から開始した。第一回目を見逃したのでFODの無料配信で本日鑑賞した。このTVドラマは、数年前に韓国で放映されて高視聴率を取ったドラマを、フジTVがリメイクしたらしい。自閉症スペクトラムでサヴァン症候群の若い医師が主人公である。小児外科医というと、高度な手術と診断技術が要求されるエリートドクターである。発達障害のドクターが主人公のTVドラマが観れるなんて、なんと有難い時代に生まれたものである。すごく楽しみにしている。

日本でも、発達障害の医師は実際に存在する。他の職員とのコミュニケーションに多少問題はあるものの、患者さんとの微妙な対話が不要な部署で働くことは可能であろう。どういう職場かというと、ER(救急救命室)の医師や麻酔科医である。目の前の緊急事態だけに特化するような業務なら、得意分野である。十分に職責を果たすだけでなく、優秀な技能を発揮する。また、発達障害の看護師も存在する。手術室など患者さんとの微妙な会話が必要ない職場では、いかんなくその技量を発揮できる。米国では、発達障害の医師や看護師がかなりの割合でERや手術室で働いていると言われている。

このグッドドクターというTVドラマで描かれている内容は、実際にあり得る話なのである。これからの時代は、発達障害の方々がいろんな職場で活躍できるということを示してくれていて、好感が持てるドラマである。周りの人々の理解が得られるのであれば、発達障害があっても、業務の遂行が可能である職場は数多くあるに違いない。このグッドドクターでは、こんなシーンがあった。この自閉症スペクトラムのレジデント(後期研修医)を受け入れる病院長が、「この医師が病院で働くことにより、他の職員が多くのことを気付き学び、そして大きく成長することができる。病院が大きく変わる」と訴えるのである。

実にいい話である。障害者の雇用に消極的な企業が多い。雇用保険の保険料率を低減するために渋々障害者を雇用する大企業は多い。こういうケースでは、軽い身体障害の方々を選んで雇用する傾向があり、知的障害や精神障害を避けることが多い。日本の障害者雇用が遅々として進まないのは、企業における採用者側の不理解があるからである。最初から無理だろうとの思い込みがあるからだ。確かに、知的障害や精神障害の方々を雇用するには、受け入れる側の困難さが予想される。だとしても、障害者と共に働くことで、他の職員が学ぶことは多い。人間的に大きな成長が望めるのである。

私自身も現役で働いていた時に、知的障害や精神障害、さらには発達障害の方々を積極的に雇用していた。さらには、明らかにパーソナリティ障害だろうなと思われる方々も排除せずに採用した。そういう方も働ける職場があり、適材適所で配置した。周りの職員にも事情と特性を説明して、協力を求めた。上手く定着したケースもあったが、すぐに辞めてしまうことも少なくなかった。自分自身が毎日傍に居れば定着したであろうが、業務委託で派遣する社員なので、常にフォローするのが出来なかったからである。

障害者の方が定着した職場では、他の職員が人間的に大きく成長してくれた。知的障害の若者を優しく指導したり支援したりするうちに、その指導をした職員が驚くような自己成長を遂げたのである。知的障害の方が持つ純粋性や誠実さに触れることで、自分の穢れた部分や仮面を被らせた自己(ペルソナ)に気付いたみたいである。このように障害者雇用のマイナス面だけでなく、他の職員に及ぼす効果についても考慮したいものである。勿論、障害者自身も働きがいを持てたし、大きく成長できたことも付け加えておきたい。

グッドドクターというTVドラマが、これからどんな展開を見せるか楽しみである。発達障害でありながらも、サヴァン症候群なので驚異的な能力を発揮して、徐々に他の職員から絶大な信頼を得て行く様子が描かれるであろう。または、コミュニケーションが上手く行かなくて苦労する場面もあるに違いない。そういうことも、他の職員にとっては貴重な学びとなることも描いてくれると予想する。このTVドラマを観て、障害者雇用に対する消極性が払拭されることを期待したい。障害者と共に働くことで、人間の多様性を実感でき、障害者もそれ以外の職員も大きく自己成長できたら嬉しい限りである。日本でも、発達障害があっても普通に働ける社会になってほしいものである。

優秀なセラピストが陥る誤謬

世の中には、この人はすごいなという人物がいるものだ。頭が切れて優秀で、様々な知識や技能があり、経験豊富で実績のある人に出会うことがある。そういう人と出会うと、圧倒されてしまい、それでなくても小さい自分が益々委縮してしまうような気がする。そういう人は、人々からの評価もあり社会的な地位も高い。いわゆる社会の成功者である。そういう人物は各界で活躍しているが、精神医学界にも数少ないが存在する。セラピストとして成功していて、多くのクライアントから頼りにされている人物がいる。

そういう優秀なセラピストは、さぞや多くの精神疾患の方々を完治させている実績を持つのかというと、意外とそうではないことに驚く。優秀なカウンセリング技術と知識を持ち、経験も豊富なのだから実績もあるだろうと思われるが、セラピストから完全に離脱し自立しているクライアントが少ないのである。多くのクライアントを持っていて、カウンセリングのスケジュールは空きがないくらいに忙しい。そしてクライアントからも絶大な信頼を受けていて、セラピストのカウンセリングを受けるのを何よりも望んでいる。それなのに、精神疾患は完治しないのはどういう訳であろうか。

優秀なカウンセラーやセラピストというのは、医師よりも診断が確かであるし、様々な心理療法にも精通していて、クライアントの心理を読むことが上手である。治療方針と治療計画も適切に設定することができる。勿論、クライアントにも診断とその根拠、そして治療方針と治療計画を告げる。したがって、自信たっぷりにセラピーを進めて行く。クライアントは、このセラピストに任せていれば大丈夫だという安心感を持つから、症状も軽くなっていく。しかし、いくら良くなって行っても、時々重い症状が再発するし、完全に良くなってセラピーを受けなくてもよくなるという状況にはならないのである。

このような優秀なセラピストなのだから、クライアントからの依存という症状が起きるということは承知しているのが当然である。したがって、セラピストやカウンセラーというのは、依存を避けるように細心の注意を払うものである。それなのに、ある意味の依存が起きてしまっていて、クライアントがセラピストに頼り切っていて、自立できなくなってしまうことが多い。それが、優秀なセラピストであればあるほど起きるのである。何故かというと、優秀なセラピストだからこそ、クライアントとその家族に介入しやすいからである。

優秀なセラピストは、精神疾患を起こしてしまった原因を探り当てることに長けている。そしてその原因をつぶして行く方法も承知している。当然、当事者とその家族にその事実を告げて、改善方法についても詳しく解説する。そして、当事者に対して様々なセラピーを実施していくし、家族療法も並行して行っていく。最新の心理療法にも精通していて、適切で効果的なセラピーやカウンセリングを随時行っていく。そして、これらの選択はけっして間違っていないし、適切である。それなのに、不思議なことに完治しないのである。

優秀なセラピストほど、クライアントに対して適切で効果的な指示や指導をしてしまうものである。これを専門用語で介入と呼ぶことにする。つまり解決策を、優秀なセラピストはクライアントに与えてしまうのである。するとどうなるかというと、クライアントは自分の進むべき道を自分で考えることなく、与えられた道を歩むだけになる。メンタルを病んだ原因だって、セラピストから指摘されるのだから、自分で深く洞察したり考えたりすることを放棄してしまう。人間はあまりにも介入されてしまうと、主体性や自発性を失うだけでなく、責任性も失い、完全に依存してしまう傾向になる。

優秀過ぎるセラピストが陥る誤謬は、行き過ぎた介入である。その介入による依存が、クライアントの完治を奪ってしまうのである。優秀過ぎるセラピストほど饒舌である。クライアントの悲しみ、苦しみ、憤りなどの感情を言い当てる。そして、その感情をついつい言葉に出してしまい、クライアントの同意を求めてしまう。クライアントが自分の言葉で紡ぎ出す前に、言い当ててしまうのである。これは時間短縮になってよいかと思うと、けっしてそうではない。本来は、自分の感情を自分の言葉で言い出すまで、セラピストはじっと待たなければならない。優秀過ぎるセラピストは、これが不得意なのである。つまり、本来はダイアローグ(対話)にならなければならないのに、モノローグ(独語)になっているのである。優秀過ぎるセラピストに、依存しないように留意したいものである。

 

佐藤初女さんとオープンダイアローグ

2016年の2月に佐藤初女さんは、永遠の眠りにつかれてしまわれた。まだまだ彼女を必要としていた人は多かった筈だ。惜しい人をなくしてしまった。彼女をリスペクトして、イスキアの郷しらかわを立ち上げのであるが、まだまだこの施設が世間には知られていないし、いろんな面で佐藤初女さんには遠く及ばない。最近、オープンダイアローグという精神療法を学んでいるが、研究すればするほど佐藤初女さんの対話手法におそろしく似ていることが判明したのである。心が折れて森のイスキアを訪れた方々に佐藤初女さんが応対していた方法は、まさしくオープンダイアローグだったことに気付いて驚いている。

佐藤初女さんの「森のイスキア」は、1992年に弘前市の郊外に施設を移転した。元は弘前市内の自宅に「弘前イスキア」を設立したのだが、訪れる人も増えて手狭になったこともあり、岩木山が見える自然豊かな地に「森のイスキア」として移転した。心が傷つき、心が折れて、もう生きて行く気力も失ってしまわれた方、または身体疾患によるあまりの苦しみに、死んだほうがましだと思うような方々をお迎えして、心身ともに癒してさしあげていた。その手法は、特別な心理療法や精神療法を駆使していた訳でもない。様々な助言や指導をしたのでもない。ただ、黙って話を聴いていただけだという。

佐藤初女さんは、徹底して傾聴と共感を実践したのである。そして、温かくて真心がこもった食事でもてなしたのである。特に、佐藤初女さんのおむすびは食べた人を感動させて心を癒した。特筆すべきは、佐藤初女さんの優しい眼差しと思いやりの対話であろう。彼女は、心が折れてしまって話すことさえままならない状況でも、本人が話し出すまで黙って待っていたという。最初は、なかなか言葉を紡ぎ出すことが出来なかったのに、佐藤初女さんの温かい応対に徐々に心を開いて、少しずつ話し出すという。そして、彼女は助言する訳でもなく何らの介入もすることなく、ただ黙って聞いていただけである。

何等の指示や指導などもしなかったであろうが、佐藤初女さん自分自身の生い立ちや生きてきた経過などは話したと思われる。それはお互いの信頼を得ることにつながる自己開示でもあったと想像する。彼女の半生は、それこそ苦難困難のイバラの道を歩むようなものだった。女学生の時に、肺結核に罹患した。それから17年間もの間、喀血しながら病気に苦しんだ。その当時は難治性の病気で死を覚悟しなければならなかったであろう。ある時、この病気は薬や注射では治らないと悟り、食事で治すんだと、命をいただく食事を心がける。そして、見事に完治する。その実体験を話すことで、訪れた方々に食の大切を示したと思われる。

佐藤初女さんの傾聴と共感力は、それこそ半端ない。相手の話をけっして否定することなく、ただ黙ってうんうんと頷きながら聴くだけである。それも、相手の気持ちに成りきって、自分のことのように悲しみ苦しみ、時には涙を流す。こんなにも自分のことを理解してくれた人が今までいなかったから、一度で佐藤初女さんの虜になってしまう。さらに佐藤初女さんは、クライアントよりもけっして優位に立つことはなく、常に対等の立場であった。そして、クライアントに寄り添うという立場を守ったのである。

通常、医師やセラピストは患者よりも優位に立つ。そして、何らかの指示や指導をする。患者は、自分がセラピストから見下されているとは感じながらも、治療してくれるからその立場を容認してしまう。しかし、自分の気持ちを分かってくれない苛立ちを持つし、親身になってくれない治療者を信頼しないから、自ら変革することを止めてしまう。オープンダイアローグのセラピストは、佐藤初女さんと同じようにクライアントとその家族を見下すことなく、否定せず、介入せず、ただ傾聴と共感をするだけである。時折、質問をするものの、それも制御しようしての質問ではなく、クライアントの気持ちや本音を引き出すだけのためにする。

人間及び家族というひとつのシステムは、自己組織化する。しかも、オートポイエーシス(自己産出)という特性を持つ。つまり、自分の肉体や精神のネットワークを自ら図るし、家族という共同体は関係性をおのずと深めるのである。そして、自らがその問題解決を図ろうとするし、自らが全体最適のために変革し進化するのである。これが第三世代のシステム論である。オープンダイアローグはこの第三世代のシステム論に準拠している。だから、クライアントにもその家族にもインプットしないし、アウトプットも求めない。自らの自己組織化とオートポイエーシスを信頼して、任せるのである。だから、クライアントが自ら気付き変革するのである。まさに何も介入せず、何も求めない佐藤初女さんの態度と姿勢と同じだ。それ故に、佐藤初女さんは多くの悩める人々を救うことが出来たのである。

※イスキアの郷しらかわは、佐藤初女さんと同じようなおもてなしを心がけています。クライアントとオープンダイアローグという開かれた対話をしています。科学的に根拠のある対応をさせてもらっています。是非、問い合わせフォームからご質問ください。

べてるの家とオープンダイアローグ

べてるの家という精神障害者の自立支援施設がある。北海道の浦河町という片田舎にあるこの施設には、世界中の精神保健に携わる多くの人たちが見学にやってくる。先進的な精神障害者の支援をしているからである。支援というと健常者が障害者をサポートしているように思われるが、このべてるの家はまったく違う。障害を持つ当事者どうしが支援しあうのである。さらに障害を持つ人々は、障害を克服することを目標としない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、彼らはあるがままの自分を認め受け入れ、そしてその障害さえも楽しんでいるという。そういう意味では、オープンダイアローグを実践している施設だと言える。

べてるの家では、毎年べてるまつりというイベントを開催している。その中で、幻覚妄想大会が行われ、当事者たちが自分の幻覚妄想を発表しあっている。自分たちが持っている障害を恥じることなく隠すことなく、当たり前のようにカミングアウトしている。障害があることを特別視していない。そして特筆すべきなのは、べてるの家においては三度の飯よりミーティングが好きだということである。毎日のように当事者どうしが集まってミーティングをしている。そしてそのミーティングでは、オープンダイアローグのように参加者すべてが、心を開いた対話を実践しているというのである。

オープンダイアローグでは、セラピストがクライアントに対して、否定しない、介入しない、指示しないことを徹底している。そして、診断しないし、治療の見通しも述べないし、治療方針も明らかにしない。あくまでも、クライアントの症状だけに注目して、その話に傾聴して辛さや悲しさに共感するだけである。べてるの家でのミーティングでも同じように、傾聴と共感を基本としている。そして、参加どうしが、けっして否定しないし指示しないし介入しないのである。そして、自分の症状をありのまま話して、それを認め受け入れてもらうことで、不思議と症状が緩和される。べてるの家の利用者の薬物摂取量は、極めて少ないという。

べてるの家は、そもそも赤十字浦河病院という精神科病院から退院した患者の受け皿として設置された支援施設である。べてるの家での支援によって、再入院する患者がいなくなり、入院施設が不要となり閉鎖されたのである。オープンダイアローグを実践し続けたケロプダス病院があるフィンランドの西ラップランド地方では、統合失調症を新規に発症する人がいなくなったことと、非常に似通っている。適切な医療と支援があると、地域全体が変革するのである。オープンダイアローグとべてるの家の支援は、実に効果的なコミュニティケアだと言えよう。

日本の精神科医療は薬物投与に依存している。フィンランド発祥のオープンダイアローグ療法では、原則として薬物療法をしない。ごく稀に、精神安定剤を投与することもあるが向精神薬は処方しない。統合失調症でさえも薬物療法をしないのである。日本では、統合失調症ならば、100%向精神薬を処方する。そして、日本の精神科医療において、減薬・断薬に取り組む医師は殆どいない。一度向精神薬を投与された患者は、本人が通院を止めない限り、ずっと投薬が続けられる。べてるの家の利用者は、ごく普通に減薬・断薬をしているという。それも、利用者自らがそれを決断して、医師と相談して進めているというから驚きである。

べてるの家とオープンダイアローグの類似点がもうひとつある。それは、この療法や支援が行われている地域が大都会のような都市部でなくて、どちらかというと片田舎と呼べる地方で発祥し進化しているという点である。実は、これが重要な点ではないかと思っている。べてるの家やオープンダイアローグのような療法や支援というのは、大都会のようにコミュニティがまったく機能していない場所では、実践が難しいと思われるからである。大都会のように、コミュニティが崩壊していて、人々の関係性が希薄になっていて、お互いを支えあう関係がまったくないような地域では、成功しなかったのではないかとみられる。

実際に、べてるの家のような活動は、都市部においてはまったく取り上げられていないし、広がりを見せていない。オープンダイアローグも同様である。ということは、日本でもしオープンダイアローグが定着するとすれば、都市部ではなくて、コミュニティの機能がまだ存続している、東北地方の片田舎ではないだろうか。地域の方々の温かい協力や支援が必要だと考えるからである。是非、イスキアの郷しらかわ周辺でこのオープンダイアローグ療法を広めて行きたいと密かに思っている。共感してくれて、協働を申し出てくれる精神科の先生が手をあげてくれるのを期待している。

 

オープンダイアローグはコミュニティケア

オープンダイアローグ(OD)が精神疾患や精神障害だけでなく、様々な社会問題の解決に対しても有効だと言える。例えば、組織における関係性の欠如から、組織の不健全化や崩壊が起きるケースがある。その際に、ODの手法を活用した日常のミーティングを徹底して行うことで、見事に関係性が復活することになる。行き過ぎた業績評価で社内競争が激烈になって、社員どうしが劣悪な関係になることはしばしば起きる。そういう時に、ODの手法でミーティングや会議をすると、社員どうしの協力関係ばかりでなく信頼関係が構築され、会社全体の業績が驚くほど回復することになる。

サッカーの日本代表がハリルホジッチの時は、選手間の連携がうまく機能せず、バラバラであった。西野監督がOD的手法で対話を重視してミーティングを活用したら、見事にチームが一丸となり、あの活躍となったのである。また、家族関係がぎくしゃくしてバラバラになることはよくあることである。この際に、ODの手法を活用して家族全体のミーティングを行うと見事に家族の関係性がよくなる。勿論、夫婦関係においてもOD的会話を心がけるだけで、見違えるように夫婦関係が改善する。会話が少なくて、親子関係が希薄化しているケースでもODが有効だ。ひきこもりや家庭内暴力が起きている家庭でも、ODで改善すると思われる。

何故ODによって社会問題が解決するのかというと、その問題がコミュニティの構成要素そのものにはなくて、その構成要素間(関係性)にこそ問題が存在するからである。様々な社会問題が起きる原因は、端的に言うとコミュニティが機能していないか、または崩壊しているからである。そして、このコミュニティの本来の機能が停止または停滞しているのは、関係性が希薄化しているか低劣化していることによる。コミュニティはひとつのシステムである。第三世代の最新システム論から言うと、家族というコミュニティが機能不全に陥るのは、関係性というネットワークが希薄化し、お互いが支えあうというシステム本来の働きが鈍るからである。

コミュニティというシステムの構成要素である個とか課・部そのものには自律性があり、オートポイエーシス(自己産生・自己産出)が働くはずなのである。したがって構成要素は、本来アクティビティ(主体性・自発性・責任性)を持ち、しかも自ら進んで自己組織化(関係性=ネットワーク化)する。さらにはオートポイエーシスにより、自らが自己進化や自己成長を遂げるのである。コミュニティというシステムは、本来自律的に全体最適を目指すのである。ところが、何らかの原因で、自己組織化の働きが鈍ることがある。そうなるとシステム全体に不具合を起こすのである。

例えば、夫婦関係の破綻や親子関係の憎悪感情など起き、家族がバラバラになり、不登校やひきこもり、または家庭内暴力などの問題が起き続ける。やがては、家庭というコミュニティは機能不全に陥る。企業も同様であり、地域もそして国家というコミュニティも崩壊してしまう。家族というコミュニティが崩壊するのは、個に問題があるからだと誤解されやすいが、そうではなくて個と個の関係性の劣悪さが問題を発生させていると見るべきである。個をいくら治療や指導教育しても改善しないのは、家族というシステムの関係性が希薄化している為に機能してしないのからである。

この関係性を良好なものに再構築することが出来たとしたら、コミュニティというシステムが本来の機能を取り戻すことが出来る筈だ。その豊かな関係性を取り戻す唯一の方法が、お互いが否定せず共感するだけの対話を続けるという、共通言語を紡ぎ出すODである。ODは構成要素である個の、一方だけの優位性を発揮させない。OD的ミーティングでは、すべて平等に取り扱うから、一方的な指示・命令・支配・制御がない。あくまでも構成要素である個が、自ら気付き学び自らアクティビティを発揮するのを待つだけである。構成要素どうしがお互いに支えあうコミュニティを創造するのである。そういう意味では、オープンダイアローグとはコミュニティケアであるとも言える。

現代ではコミュニティが機能不全に陥っていると言われている。家族の心がバラバラになりコミュニティとして機能していない。不登校、ひきこもり、児童虐待、家庭内暴力、モラハラ、などの様々な問題が起きている。企業においても不祥事が相次いでいるし、経営破綻も起きている。地域においても、お互いが支えあうという共同体意識がなくなっている。国家や官僚組織だって、モラルが欠如して収賄や文書偽造などが発生している。こういうコミュニティの機能不全をOD的な日常会話やミーティングが解決するに違いない。ODによるコミュニティケアが進化を遂げて、愛が溢れる関係性が構築され、お互いを支えあう社会が必ず実現すると確信している。

 

※家族の問題解決、または企業の問題解決にオープンダイアローグが効果を発揮します。オープンダイアローグを学びたいという方は、お問い合わせ願います。「問い合わせ」のフォームからご質問ください。