発達障害者を雇用する意味(グッドドクター)

グッドドクターというTVドラマが先週の木曜日から開始した。第一回目を見逃したのでFODの無料配信で本日鑑賞した。このTVドラマは、数年前に韓国で放映されて高視聴率を取ったドラマを、フジTVがリメイクしたらしい。自閉症スペクトラムでサヴァン症候群の若い医師が主人公である。小児外科医というと、高度な手術と診断技術が要求されるエリートドクターである。発達障害のドクターが主人公のTVドラマが観れるなんて、なんと有難い時代に生まれたものである。すごく楽しみにしている。

日本でも、発達障害の医師は実際に存在する。他の職員とのコミュニケーションに多少問題はあるものの、患者さんとの微妙な対話が不要な部署で働くことは可能であろう。どういう職場かというと、ER(救急救命室)の医師や麻酔科医である。目の前の緊急事態だけに特化するような業務なら、得意分野である。十分に職責を果たすだけでなく、優秀な技能を発揮する。また、発達障害の看護師も存在する。手術室など患者さんとの微妙な会話が必要ない職場では、いかんなくその技量を発揮できる。米国では、発達障害の医師や看護師がかなりの割合でERや手術室で働いていると言われている。

このグッドドクターというTVドラマで描かれている内容は、実際にあり得る話なのである。これからの時代は、発達障害の方々がいろんな職場で活躍できるということを示してくれていて、好感が持てるドラマである。周りの人々の理解が得られるのであれば、発達障害があっても、業務の遂行が可能である職場は数多くあるに違いない。このグッドドクターでは、こんなシーンがあった。この自閉症スペクトラムのレジデント(後期研修医)を受け入れる病院長が、「この医師が病院で働くことにより、他の職員が多くのことを気付き学び、そして大きく成長することができる。病院が大きく変わる」と訴えるのである。

実にいい話である。障害者の雇用に消極的な企業が多い。雇用保険の保険料率を低減するために渋々障害者を雇用する大企業は多い。こういうケースでは、軽い身体障害の方々を選んで雇用する傾向があり、知的障害や精神障害を避けることが多い。日本の障害者雇用が遅々として進まないのは、企業における採用者側の不理解があるからである。最初から無理だろうとの思い込みがあるからだ。確かに、知的障害や精神障害の方々を雇用するには、受け入れる側の困難さが予想される。だとしても、障害者と共に働くことで、他の職員が学ぶことは多い。人間的に大きな成長が望めるのである。

私自身も現役で働いていた時に、知的障害や精神障害、さらには発達障害の方々を積極的に雇用していた。さらには、明らかにパーソナリティ障害だろうなと思われる方々も排除せずに採用した。そういう方も働ける職場があり、適材適所で配置した。周りの職員にも事情と特性を説明して、協力を求めた。上手く定着したケースもあったが、すぐに辞めてしまうことも少なくなかった。自分自身が毎日傍に居れば定着したであろうが、業務委託で派遣する社員なので、常にフォローするのが出来なかったからである。

障害者の方が定着した職場では、他の職員が人間的に大きく成長してくれた。知的障害の若者を優しく指導したり支援したりするうちに、その指導をした職員が驚くような自己成長を遂げたのである。知的障害の方が持つ純粋性や誠実さに触れることで、自分の穢れた部分や仮面を被らせた自己(ペルソナ)に気付いたみたいである。このように障害者雇用のマイナス面だけでなく、他の職員に及ぼす効果についても考慮したいものである。勿論、障害者自身も働きがいを持てたし、大きく成長できたことも付け加えておきたい。

グッドドクターというTVドラマが、これからどんな展開を見せるか楽しみである。発達障害でありながらも、サヴァン症候群なので驚異的な能力を発揮して、徐々に他の職員から絶大な信頼を得て行く様子が描かれるであろう。または、コミュニケーションが上手く行かなくて苦労する場面もあるに違いない。そういうことも、他の職員にとっては貴重な学びとなることも描いてくれると予想する。このTVドラマを観て、障害者雇用に対する消極性が払拭されることを期待したい。障害者と共に働くことで、人間の多様性を実感でき、障害者もそれ以外の職員も大きく自己成長できたら嬉しい限りである。日本でも、発達障害があっても普通に働ける社会になってほしいものである。

優秀なセラピストが陥る誤謬

世の中には、この人はすごいなという人物がいるものだ。頭が切れて優秀で、様々な知識や技能があり、経験豊富で実績のある人に出会うことがある。そういう人と出会うと、圧倒されてしまい、それでなくても小さい自分が益々委縮してしまうような気がする。そういう人は、人々からの評価もあり社会的な地位も高い。いわゆる社会の成功者である。そういう人物は各界で活躍しているが、精神医学界にも数少ないが存在する。セラピストとして成功していて、多くのクライアントから頼りにされている人物がいる。

そういう優秀なセラピストは、さぞや多くの精神疾患の方々を完治させている実績を持つのかというと、意外とそうではないことに驚く。優秀なカウンセリング技術と知識を持ち、経験も豊富なのだから実績もあるだろうと思われるが、セラピストから完全に離脱し自立しているクライアントが少ないのである。多くのクライアントを持っていて、カウンセリングのスケジュールは空きがないくらいに忙しい。そしてクライアントからも絶大な信頼を受けていて、セラピストのカウンセリングを受けるのを何よりも望んでいる。それなのに、精神疾患は完治しないのはどういう訳であろうか。

優秀なカウンセラーやセラピストというのは、医師よりも診断が確かであるし、様々な心理療法にも精通していて、クライアントの心理を読むことが上手である。治療方針と治療計画も適切に設定することができる。勿論、クライアントにも診断とその根拠、そして治療方針と治療計画を告げる。したがって、自信たっぷりにセラピーを進めて行く。クライアントは、このセラピストに任せていれば大丈夫だという安心感を持つから、症状も軽くなっていく。しかし、いくら良くなって行っても、時々重い症状が再発するし、完全に良くなってセラピーを受けなくてもよくなるという状況にはならないのである。

このような優秀なセラピストなのだから、クライアントからの依存という症状が起きるということは承知しているのが当然である。したがって、セラピストやカウンセラーというのは、依存を避けるように細心の注意を払うものである。それなのに、ある意味の依存が起きてしまっていて、クライアントがセラピストに頼り切っていて、自立できなくなってしまうことが多い。それが、優秀なセラピストであればあるほど起きるのである。何故かというと、優秀なセラピストだからこそ、クライアントとその家族に介入しやすいからである。

優秀なセラピストは、精神疾患を起こしてしまった原因を探り当てることに長けている。そしてその原因をつぶして行く方法も承知している。当然、当事者とその家族にその事実を告げて、改善方法についても詳しく解説する。そして、当事者に対して様々なセラピーを実施していくし、家族療法も並行して行っていく。最新の心理療法にも精通していて、適切で効果的なセラピーやカウンセリングを随時行っていく。そして、これらの選択はけっして間違っていないし、適切である。それなのに、不思議なことに完治しないのである。

優秀なセラピストほど、クライアントに対して適切で効果的な指示や指導をしてしまうものである。これを専門用語で介入と呼ぶことにする。つまり解決策を、優秀なセラピストはクライアントに与えてしまうのである。するとどうなるかというと、クライアントは自分の進むべき道を自分で考えることなく、与えられた道を歩むだけになる。メンタルを病んだ原因だって、セラピストから指摘されるのだから、自分で深く洞察したり考えたりすることを放棄してしまう。人間はあまりにも介入されてしまうと、主体性や自発性を失うだけでなく、責任性も失い、完全に依存してしまう傾向になる。

優秀過ぎるセラピストが陥る誤謬は、行き過ぎた介入である。その介入による依存が、クライアントの完治を奪ってしまうのである。優秀過ぎるセラピストほど饒舌である。クライアントの悲しみ、苦しみ、憤りなどの感情を言い当てる。そして、その感情をついつい言葉に出してしまい、クライアントの同意を求めてしまう。クライアントが自分の言葉で紡ぎ出す前に、言い当ててしまうのである。これは時間短縮になってよいかと思うと、けっしてそうではない。本来は、自分の感情を自分の言葉で言い出すまで、セラピストはじっと待たなければならない。優秀過ぎるセラピストは、これが不得意なのである。つまり、本来はダイアローグ(対話)にならなければならないのに、モノローグ(独語)になっているのである。優秀過ぎるセラピストに、依存しないように留意したいものである。

 

佐藤初女さんとオープンダイアローグ

2016年の2月に佐藤初女さんは、永遠の眠りにつかれてしまわれた。まだまだ彼女を必要としていた人は多かった筈だ。惜しい人をなくしてしまった。彼女をリスペクトして、イスキアの郷しらかわを立ち上げのであるが、まだまだこの施設が世間には知られていないし、いろんな面で佐藤初女さんには遠く及ばない。最近、オープンダイアローグという精神療法を学んでいるが、研究すればするほど佐藤初女さんの対話手法におそろしく似ていることが判明したのである。心が折れて森のイスキアを訪れた方々に佐藤初女さんが応対していた方法は、まさしくオープンダイアローグだったことに気付いて驚いている。

佐藤初女さんの「森のイスキア」は、1992年に弘前市の郊外に施設を移転した。元は弘前市内の自宅に「弘前イスキア」を設立したのだが、訪れる人も増えて手狭になったこともあり、岩木山が見える自然豊かな地に「森のイスキア」として移転した。心が傷つき、心が折れて、もう生きて行く気力も失ってしまわれた方、または身体疾患によるあまりの苦しみに、死んだほうがましだと思うような方々をお迎えして、心身ともに癒してさしあげていた。その手法は、特別な心理療法や精神療法を駆使していた訳でもない。様々な助言や指導をしたのでもない。ただ、黙って話を聴いていただけだという。

佐藤初女さんは、徹底して傾聴と共感を実践したのである。そして、温かくて真心がこもった食事でもてなしたのである。特に、佐藤初女さんのおむすびは食べた人を感動させて心を癒した。特筆すべきは、佐藤初女さんの優しい眼差しと思いやりの対話であろう。彼女は、心が折れてしまって話すことさえままならない状況でも、本人が話し出すまで黙って待っていたという。最初は、なかなか言葉を紡ぎ出すことが出来なかったのに、佐藤初女さんの温かい応対に徐々に心を開いて、少しずつ話し出すという。そして、彼女は助言する訳でもなく何らの介入もすることなく、ただ黙って聞いていただけである。

何等の指示や指導などもしなかったであろうが、佐藤初女さん自分自身の生い立ちや生きてきた経過などは話したと思われる。それはお互いの信頼を得ることにつながる自己開示でもあったと想像する。彼女の半生は、それこそ苦難困難のイバラの道を歩むようなものだった。女学生の時に、肺結核に罹患した。それから17年間もの間、喀血しながら病気に苦しんだ。その当時は難治性の病気で死を覚悟しなければならなかったであろう。ある時、この病気は薬や注射では治らないと悟り、食事で治すんだと、命をいただく食事を心がける。そして、見事に完治する。その実体験を話すことで、訪れた方々に食の大切を示したと思われる。

佐藤初女さんの傾聴と共感力は、それこそ半端ない。相手の話をけっして否定することなく、ただ黙ってうんうんと頷きながら聴くだけである。それも、相手の気持ちに成りきって、自分のことのように悲しみ苦しみ、時には涙を流す。こんなにも自分のことを理解してくれた人が今までいなかったから、一度で佐藤初女さんの虜になってしまう。さらに佐藤初女さんは、クライアントよりもけっして優位に立つことはなく、常に対等の立場であった。そして、クライアントに寄り添うという立場を守ったのである。

通常、医師やセラピストは患者よりも優位に立つ。そして、何らかの指示や指導をする。患者は、自分がセラピストから見下されているとは感じながらも、治療してくれるからその立場を容認してしまう。しかし、自分の気持ちを分かってくれない苛立ちを持つし、親身になってくれない治療者を信頼しないから、自ら変革することを止めてしまう。オープンダイアローグのセラピストは、佐藤初女さんと同じようにクライアントとその家族を見下すことなく、否定せず、介入せず、ただ傾聴と共感をするだけである。時折、質問をするものの、それも制御しようしての質問ではなく、クライアントの気持ちや本音を引き出すだけのためにする。

人間及び家族というひとつのシステムは、自己組織化する。しかも、オートポイエーシス(自己産出)という特性を持つ。つまり、自分の肉体や精神のネットワークを自ら図るし、家族という共同体は関係性をおのずと深めるのである。そして、自らがその問題解決を図ろうとするし、自らが全体最適のために変革し進化するのである。これが第三世代のシステム論である。オープンダイアローグはこの第三世代のシステム論に準拠している。だから、クライアントにもその家族にもインプットしないし、アウトプットも求めない。自らの自己組織化とオートポイエーシスを信頼して、任せるのである。だから、クライアントが自ら気付き変革するのである。まさに何も介入せず、何も求めない佐藤初女さんの態度と姿勢と同じだ。それ故に、佐藤初女さんは多くの悩める人々を救うことが出来たのである。

※イスキアの郷しらかわは、佐藤初女さんと同じようなおもてなしを心がけています。クライアントとオープンダイアローグという開かれた対話をしています。科学的に根拠のある対応をさせてもらっています。是非、問い合わせフォームからご質問ください。

べてるの家とオープンダイアローグ

べてるの家という精神障害者の自立支援施設がある。北海道の浦河町という片田舎にあるこの施設には、世界中の精神保健に携わる多くの人たちが見学にやってくる。先進的な精神障害者の支援をしているからである。支援というと健常者が障害者をサポートしているように思われるが、このべてるの家はまったく違う。障害を持つ当事者どうしが支援しあうのである。さらに障害を持つ人々は、障害を克服することを目標としない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、彼らはあるがままの自分を認め受け入れ、そしてその障害さえも楽しんでいるという。そういう意味では、オープンダイアローグを実践している施設だと言える。

べてるの家では、毎年べてるまつりというイベントを開催している。その中で、幻覚妄想大会が行われ、当事者たちが自分の幻覚妄想を発表しあっている。自分たちが持っている障害を恥じることなく隠すことなく、当たり前のようにカミングアウトしている。障害があることを特別視していない。そして特筆すべきなのは、べてるの家においては三度の飯よりミーティングが好きだということである。毎日のように当事者どうしが集まってミーティングをしている。そしてそのミーティングでは、オープンダイアローグのように参加者すべてが、心を開いた対話を実践しているというのである。

オープンダイアローグでは、セラピストがクライアントに対して、否定しない、介入しない、指示しないことを徹底している。そして、診断しないし、治療の見通しも述べないし、治療方針も明らかにしない。あくまでも、クライアントの症状だけに注目して、その話に傾聴して辛さや悲しさに共感するだけである。べてるの家でのミーティングでも同じように、傾聴と共感を基本としている。そして、参加どうしが、けっして否定しないし指示しないし介入しないのである。そして、自分の症状をありのまま話して、それを認め受け入れてもらうことで、不思議と症状が緩和される。べてるの家の利用者の薬物摂取量は、極めて少ないという。

べてるの家は、そもそも赤十字浦河病院という精神科病院から退院した患者の受け皿として設置された支援施設である。べてるの家での支援によって、再入院する患者がいなくなり、入院施設が不要となり閉鎖されたのである。オープンダイアローグを実践し続けたケロプダス病院があるフィンランドの西ラップランド地方では、統合失調症を新規に発症する人がいなくなったことと、非常に似通っている。適切な医療と支援があると、地域全体が変革するのである。オープンダイアローグとべてるの家の支援は、実に効果的なコミュニティケアだと言えよう。

日本の精神科医療は薬物投与に依存している。フィンランド発祥のオープンダイアローグ療法では、原則として薬物療法をしない。ごく稀に、精神安定剤を投与することもあるが向精神薬は処方しない。統合失調症でさえも薬物療法をしないのである。日本では、統合失調症ならば、100%向精神薬を処方する。そして、日本の精神科医療において、減薬・断薬に取り組む医師は殆どいない。一度向精神薬を投与された患者は、本人が通院を止めない限り、ずっと投薬が続けられる。べてるの家の利用者は、ごく普通に減薬・断薬をしているという。それも、利用者自らがそれを決断して、医師と相談して進めているというから驚きである。

べてるの家とオープンダイアローグの類似点がもうひとつある。それは、この療法や支援が行われている地域が大都会のような都市部でなくて、どちらかというと片田舎と呼べる地方で発祥し進化しているという点である。実は、これが重要な点ではないかと思っている。べてるの家やオープンダイアローグのような療法や支援というのは、大都会のようにコミュニティがまったく機能していない場所では、実践が難しいと思われるからである。大都会のように、コミュニティが崩壊していて、人々の関係性が希薄になっていて、お互いを支えあう関係がまったくないような地域では、成功しなかったのではないかとみられる。

実際に、べてるの家のような活動は、都市部においてはまったく取り上げられていないし、広がりを見せていない。オープンダイアローグも同様である。ということは、日本でもしオープンダイアローグが定着するとすれば、都市部ではなくて、コミュニティの機能がまだ存続している、東北地方の片田舎ではないだろうか。地域の方々の温かい協力や支援が必要だと考えるからである。是非、イスキアの郷しらかわ周辺でこのオープンダイアローグ療法を広めて行きたいと密かに思っている。共感してくれて、協働を申し出てくれる精神科の先生が手をあげてくれるのを期待している。

 

オープンダイアローグはコミュニティケア

オープンダイアローグ(OD)が精神疾患や精神障害だけでなく、様々な社会問題の解決に対しても有効だと言える。例えば、組織における関係性の欠如から、組織の不健全化や崩壊が起きるケースがある。その際に、ODの手法を活用した日常のミーティングを徹底して行うことで、見事に関係性が復活することになる。行き過ぎた業績評価で社内競争が激烈になって、社員どうしが劣悪な関係になることはしばしば起きる。そういう時に、ODの手法でミーティングや会議をすると、社員どうしの協力関係ばかりでなく信頼関係が構築され、会社全体の業績が驚くほど回復することになる。

サッカーの日本代表がハリルホジッチの時は、選手間の連携がうまく機能せず、バラバラであった。西野監督がOD的手法で対話を重視してミーティングを活用したら、見事にチームが一丸となり、あの活躍となったのである。また、家族関係がぎくしゃくしてバラバラになることはよくあることである。この際に、ODの手法を活用して家族全体のミーティングを行うと見事に家族の関係性がよくなる。勿論、夫婦関係においてもOD的会話を心がけるだけで、見違えるように夫婦関係が改善する。会話が少なくて、親子関係が希薄化しているケースでもODが有効だ。ひきこもりや家庭内暴力が起きている家庭でも、ODで改善すると思われる。

何故ODによって社会問題が解決するのかというと、その問題がコミュニティの構成要素そのものにはなくて、その構成要素間(関係性)にこそ問題が存在するからである。様々な社会問題が起きる原因は、端的に言うとコミュニティが機能していないか、または崩壊しているからである。そして、このコミュニティの本来の機能が停止または停滞しているのは、関係性が希薄化しているか低劣化していることによる。コミュニティはひとつのシステムである。第三世代の最新システム論から言うと、家族というコミュニティが機能不全に陥るのは、関係性というネットワークが希薄化し、お互いが支えあうというシステム本来の働きが鈍るからである。

コミュニティというシステムの構成要素である個とか課・部そのものには自律性があり、オートポイエーシス(自己産生・自己産出)が働くはずなのである。したがって構成要素は、本来アクティビティ(主体性・自発性・責任性)を持ち、しかも自ら進んで自己組織化(関係性=ネットワーク化)する。さらにはオートポイエーシスにより、自らが自己進化や自己成長を遂げるのである。コミュニティというシステムは、本来自律的に全体最適を目指すのである。ところが、何らかの原因で、自己組織化の働きが鈍ることがある。そうなるとシステム全体に不具合を起こすのである。

例えば、夫婦関係の破綻や親子関係の憎悪感情など起き、家族がバラバラになり、不登校やひきこもり、または家庭内暴力などの問題が起き続ける。やがては、家庭というコミュニティは機能不全に陥る。企業も同様であり、地域もそして国家というコミュニティも崩壊してしまう。家族というコミュニティが崩壊するのは、個に問題があるからだと誤解されやすいが、そうではなくて個と個の関係性の劣悪さが問題を発生させていると見るべきである。個をいくら治療や指導教育しても改善しないのは、家族というシステムの関係性が希薄化している為に機能してしないのからである。

この関係性を良好なものに再構築することが出来たとしたら、コミュニティというシステムが本来の機能を取り戻すことが出来る筈だ。その豊かな関係性を取り戻す唯一の方法が、お互いが否定せず共感するだけの対話を続けるという、共通言語を紡ぎ出すODである。ODは構成要素である個の、一方だけの優位性を発揮させない。OD的ミーティングでは、すべて平等に取り扱うから、一方的な指示・命令・支配・制御がない。あくまでも構成要素である個が、自ら気付き学び自らアクティビティを発揮するのを待つだけである。構成要素どうしがお互いに支えあうコミュニティを創造するのである。そういう意味では、オープンダイアローグとはコミュニティケアであるとも言える。

現代ではコミュニティが機能不全に陥っていると言われている。家族の心がバラバラになりコミュニティとして機能していない。不登校、ひきこもり、児童虐待、家庭内暴力、モラハラ、などの様々な問題が起きている。企業においても不祥事が相次いでいるし、経営破綻も起きている。地域においても、お互いが支えあうという共同体意識がなくなっている。国家や官僚組織だって、モラルが欠如して収賄や文書偽造などが発生している。こういうコミュニティの機能不全をOD的な日常会話やミーティングが解決するに違いない。ODによるコミュニティケアが進化を遂げて、愛が溢れる関係性が構築され、お互いを支えあう社会が必ず実現すると確信している。

 

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オープンダイアローグが有効な訳②

オープンダイアローグ(OD)が何故有効なのかというと、ひとつは今までの精神療法や心理療法でよい効果がある部分を統合的に活用しているということもある。まずはベイトソンのダブルバインドの理論の一部を参考にしているという点である。さらにベイトソンのシステム論を発展させたイタリアのミラノ派の家族療法をも参考にしていることも特筆される。ODは、単なる診断や治療をすることを優先させることなく、あくまでも現状を認め受け入れて、その将来の不確実性を皆で共有して安心させていくのである。クライアントたちが変化するかどうかは、セラピストが決めるのではなくて、家族を含めたクライアント側が決めるという点が斬新である。

さて、今までの精神科の治療や心理療法などを行う際、あくまでも治療をする主体者となるのは医師またはセラピストである。診断し、治療計画を立て、その計画にしたがって治療をするという決定は治療者が実施する。当然、決定権は治療者が持つのであるから、治療者である医師やセラピストがクライアントよりも優位にならざるを得ない。質問したり指示したりするのも、圧倒的に治療者が優位性を保ったままに行われる。つまり、クライアントは受け身であり、主体性や自発性などのアクティビティを持つことは制限されてしまうのである。

人間というのは、自分で判断し自分で決定したものは自発的に実践したくなる。そして結果責任も自分が持ちたくなる傾向が強い。他人が決定して他人がそれを実践したとなると、あくまでも受動的になるから、そこに自らリスクとコストを持つことはない。クライアントが自ら変化するかどうかの決定を自分がするのであれば、能動的になるのは当然である。つまり自ら自己組織化をするひとつのシステムである人間は、アクティビティを自ら発揮する存在なのだ。OD療法はそれを支援するシステムなのだから、人間として自ら自己組織化するし、分断から統合へと向かうのであろう。

OD療法は詩学的であり高い文学性を持つという点が注目される。対話で重要な働きをするのは言葉である。それも単なるコンテンツではなく、コンテキストでありセンテンスである。しかも、意味深くて、なるべく長いセンテンスであって物語性を持つ。ここにナラティブセラピーの要素も含み、ストーリー性をも大切にしている点がある。古い価値観に支配されたドミナントストーリーを自ら捨てられるよう支援をする。そして、新たな価値観に基づいたオルタナティブストーリーを自ら進んで構築するのを、ただ対話を続けながら支援する。その際、セラピストはある意味「詩人」であり「ストーリーテラー」でなければならない。ODは、まさしく相手と自分を統合させ、クライアントが自ら統合したくなるような言葉を紡ぎ出すのである。

このように、OD療法というのは精神医学の重要なエッセンスを保ちながら、文学性や哲学性、さらには社会科学的な要素も取り入れている。勿論、最新の自然科学である自己組織化の理論も含んでいる。つまり、統合的な治療理論なのである。人間どうしの統合や精神の統合を目指しているOD療法が、まさしく統合そのものであるという点がユニークなのである。だから、このODという手法が有効性を持つに違いない。

今まで精神疾患や精神障害というものが脳の機能障害によって起きるものだと考えられてきたが、最新の医学ではそれが否定されつつある。脳だけの機能障害だけでなく、腸や腎臓などの各臓器、筋肉組織、骨、神経組織、など人体すべてのネットワークに障害が起きることで障害が起きることが解ってきたのである。言い換えると、統合されている人体という全体が、それを構成する各部分が分断化や孤立をした時にこそ、様々な障害が起きるということが判明したのである。当然、治療は分断化された部分を統合へと向かう支援をすることが求められるが、それがまさしくOD療法なのである。

さらに言えば、精神疾患や精神障害というものが身体的な部分の分断化だけでなく、社会的にも分断と孤立をすることによって起きているとも言える。つまり、家族というコミュニティが分断し、絶対的な孤立感を持つことで精神疾患が発症するきっかけを生み出すと考えられている。さらには、職場や地域においても社会的に孤立することも深く影響していると思われる。OD療法は、コミュニティそのものの統合を支援するのである。共通言語というものを紡ぎ出し、開かれた対話によってお互いの関係性を再構築するのだ。OD療法というのは、希薄化・低劣化してしまった関係性を『対話』によって、良好な関係性に変革する働きを持つのである。つまり、ODはコミュニティケアをも実現するのである。だから、再発がなくなってしまうのであろう。

 

さらに明日に続く

 

※イスキアの郷しらかわでは、オープンダイアローグの研修会を開催しています。個別指導もいたします。まずは問い合わせをお願いします。

オープンダイアローグが有効な訳

オープンダイアローグ(開かれた対話)療法が統合失調症だけでなく、PTSD、パニック障害、うつ病などにも有効であるし、ひきこもりや不登校にも効果があることが解ってきたという。薬物も使わないし、カウンセリングや認知行動療法なども実施しないのに、どうして有効性を発揮するのか不思議だと思う人も多いであろう。開かれた対話だけをするだけで、どうして統合失調症が治るのであろうか。何故、オープンダイアローグ療法が有効なのか明らかにしてみたい。

オープンダイアローグを以下の記述からは便宜上ODと記すことにしたい。ODを実施する場合、原則として統合失調症が発症して24時間以内に第1回目のミーティングを実施する。緊急性を有するので、クライアントの家庭にセラピストチームが伺うことが多い。セラピストは複数人であることが絶対条件で、単独での訪問はしない。何故なら、ミーティングの途中でリフレクション(セラピストどうしの協議)を行うからである。そして、それから連日その家庭に同じメンバーが訪問して、患者とその家族を交えて10日から12日間ずっとミーティングを実施する。

ODで派遣される医師やセラピストなど治療者は、診断をしないし、治療方針もせず、治療見通しもしない。そして、そのあいまいさをクライアントが受け入れられるように、安心感を与えることを毎日続ける。ODでのミーティングは開かれた対話を徹底する。そして傾聴と共感を基本として、患者とその家族にけっして否定したり介入したりしない。一方的な会話(モノローグ)ではなくて、必ず双方向の会話(ダイアローグ)にする。開かれた質問を心がけて、必ず返答ができる質問にする。また、セラピストが逆に質問されたり問いかけたられたりした場合、絶対に無視せずに必ずリアクションをするということも肝要である。

OD療法では、患者には薬物治療を実施しない。どうしても必要な場合でも、必要最小限の精神安定剤だけである。ただひたすらに、開かれた対話だけが続けられるのである。どうして、それだけで統合失調症の症状である幻聴や幻覚がなくなるのであろうか。そもそも、幻覚と幻聴が起きるのは、現状の苦難困難を受け入れることが出来なくて、想像の世界と現実の世界の区別が難しくなるからと思われる。ましてや、この幻聴と幻覚を話しても、家族さえも認めてくれず、自分を受容し寛容の態度で接してくれる人がまったくいないのだ。他者との関係性が感じられず、まったくの孤独感が自分を覆いつくしている。

こういう状態の中で、OD療法は患者が話す幻聴や幻覚を、否定せずまるごと受け止める。その症状の苦しさ悲しさを本人の気持ちになりきって傾聴する。患者は自分の気持ちに共感してもらい安心する。さらに、家族にも患者の言葉をどのように感じたかをインタビューをして、患者の気持ちに共感できるようサポートする。家族に対しても、けっして介入しないし支配したり制御したりしない。家族の苦しさや悲しさに寄り添うだけである。

そうすると実に不思議なのであるが、患者自身が自分の幻聴や幻覚が、現実のものじゃないかもしれないと考え出すのである。患者の家族も、患者の幻覚や幻聴が起きたきっかけが自分たちのあの時の言動だったかもしれないと思い出すのである。さらには、患者と家族の関係性における問題に気付くのである。お互いの関係性がいかに希薄化していて劣悪になっていたかを思い知るのである。家族というコミュニティが再生して、お互いの共同言語が再構築されるのである。誰もそうしなさいと指示をしていないのに、患者とその家族が自ら変わろうとするのである。

勿論、仕事や地域との共同体に問題があることも認識する。いかに地域や職場におけるコミュニティにおける関係性にも問題が存在することに気付くのである。例えコミュニティの問題が解決されなくても、自分自身には問題がなく、そのコミュニティにこそ問題があると認識しただけで、安心するのである。家族の関係性の問題が解決されて、地域と職場のコミュニティの問題を家族間で共有し、お互いにそれを共感しただけで症状が改善するのである。まさに化学反応のような変化が起きるようである。人間というのは、実に不思議なのであるが、関係性が豊かになり共通言語を共有できた時に、幸福感を感じるものらしい。オープンダイアローグというのは、まさにこのような関係性の再構築が可能になるので、症状が収まるだけでなく、再発も防げるのである。

続きはまた明日に

※イスキアの郷しらかわでは、定期的にオープンダイアローグの研修会を開催しています。個別指導もしていますので、お問い合わせください。1泊2日の宿泊で学びたいとご希望それれば、個別でも家族でもレクチャーします。家族がオープンダイアローグ的対話ができるようになれば、変われます。

薬物治療をしない精神科医

最近、原則として薬物治療をしない医療を実践する医師が増えてきている。実に好ましい動きだと思う。しかし、これはごく一部の小児科医や内科医だけであり、外科系の医師はそんなことは絶対に無理だと認識している。ましてや、精神科の医師は薬物投与なくしては、精神疾患を治療出来ないというのが共通認識であろう。医師はもちろんのこと、患者も薬物治療をしないで治すことなんて不可能だと思うに違いない。日本の精神医療で、薬物を用いないで治療を施す医師なんている筈がないと思っていた。ところが、実際に薬物治療をしない精神科医に、昨日出会ったのである。

実に不思議な出会いだった。たまたま一昨日フェイスブックのイベント開催のお知らせが入り、実に面白そうな内容だったので急遽参加することにした。インド古来の医療であるアーユルヴェーダを活用した精神医療の研修会だった。茨城県袋田病院の新人ナースの為に研修会を開催するに当たり、一般の人々にも聞かせたいとアーユルヴェーダの診療補助をしている女性の方が講演を行ったのである。その講演内容も興味深いものであったが、実際に診療をしている医師も同席していたのである。袋田病院の精神科医でアーユルヴェーダの精神科医療を実践している日根野先生がその人である。

日本の医療保険制度というのは、精神医療においては薬物治療を前提にして制定されている。院外処方だから患者を薬漬けにしても、精神科医の収入は増えないと主張する医師もいる。しかし、薬物治療をしないと一人当たりの診療時間がとてつもなく必要になるから、ある程度の診療人数をこなせなくなり、診療報酬がもらえなくなる。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、日本の医療保険制度は実に愚かな厚労省の官僚によって制定されているのである。故に、薬物治療をしない精神科医は病院では冷たい目でみられる。医療経営が成り立たないのだから、当然である。

例えば、通院の精神療法は1時間行ったとしても診療報酬は400点(4,000円)だけである。精神科医の一時間時給は、まず10,000円を下回ることはない。だとすれば経営上6,000円のマイナスとなる。臨床カウンセラーの資格者がカウンセリングを1時間弱実施すれば、10,000円以上の費用を請求される。それよりも精神科医の報酬が少ないなんてことがあり得ない。しかし、厚労省が規定した精神科の診療報酬算定基準ではそうなっている。だから、精神科医は患者数をこなせるように、薬物治療に頼るしかなくなるのである。国の制度が悪い。精神科医療は、民間営利には馴染まなく、国立病院が担うべきであろう。

袋田病院の日根野先生は、敢えて問題がある保険診療の範囲内で治療を実施されている。自費診療では、患者負担が大き過ぎるので、診療機会を奪ってしまうからと思われる。患者さんに優しいから、採算を度外視してていねいに診察していらっしゃる。おひとりの患者さんに再来でも基本1時間の診察をしていらっしゃるという。薬物は用いず、アーユルヴェーダを基本にした精神療法や心理療法だけの「対話」で診療をされている。それも患者さんを否定することなく、介入することなく、ただ患者さんの尊厳を認め受け入れるだけの「開かれた対話」で症状を緩和されているという。素晴らしい理想の診療である。

このような採算度外視をするような診療を許している、袋田病院という民間病院の経営者も素晴らしい。的場院長を初めとして、職員一丸となって患者ファーストの医療を実践しているからと思われる。こんな素敵な精神病院が、茨城県の片田舎の町にあるというのが奇跡とも言える。日根野先生以外の精神科医は、近代医療の治療を実施しているらしいが、患者さん本位の治療を基本としているのは間違いないだろう。こんな精神科クリニックが増えてほしいものである。

この袋田病院の日根野先生の行う、アーユルヴェーダを基本にした薬物投与のない診療は残念ながら週1回だけとのこと。患者さんが増えれば、病院側も診療日を増やしてくれるかもしれない。いきなり診察を求めて病院に行っても、予約診療なので診察をしてもらえない。事前に病院の担当者に電話して、予約をしてから診察してもらうことになる。人気があるので2か月先くらいになるかもしれないとのことだが、希望者が多くなればもう少し早く診察してもらえる可能性もあるだろう。茨城県県北の大子町にある袋田病院が、日本の精神科医療を大胆に変えて行くフロンティアになる可能性を秘めている。実に楽しみである。

 

メンタル不調の特効薬はないのか

不登校やひきこもり、そして休職をするひとつの要因にメンタル不調がある。そして、そのメンタル不調が改善しなければ、不登校やひきこもりからの脱却も難しいし、休職からの職場復帰の可能性も低くなる。勿論、完全にメンタル不調を完治させなければ復帰出来ない訳ではないが、完治しなければメンタル不調の再発も多いから、何度も休職を繰り返してしまう。そして、このメンタル不調を治癒させるのは、非常に難しい。メンタル不調を治す特効薬がないからである。

メンタル不調をある程度軽減する薬はある。また、カウンセリング、マインドフルネス療法、認知行動利療法、家族療法、ナラティブセラピーなど、各種の心理療法や精神療法によって症状を軽減することは可能であろう。実際に、様々な心理療法や薬物治療によって症状が和らいで社会復帰するケースが少なくない。しかし、どうやってもメンタル不調が改善しないケースがあるし、休職を繰り返す職員もいるし、不登校やひきこもりに何度も陥る生徒や学生も少なくない。メンタル不調を治す特効薬は存在しないのである。

メンタル不調が改善しないのは、学校や職場の環境が変わらないという事情もある。ある程度症状が改善して学校や職場で出始めても、本人にとってはまた同じ辛い環境に置かれてしまえば、メンタル不調を再発するケースが少なくない。職場や職種を変えたり会社を変えたりしても、不思議と同じような苦しい環境に遭遇することが多いし、同じような嫌な上司に巡り合ってしまう。学校を転校や転学したとしても、また嫌な学友や教師と出会うことが多いのも事実である。学校と職場は、とこに行っても心が傷ついてしまう生きづらい場所である。社会全体が生きづらいのだから、どこに行っても同じ境遇になるのは当然である。

ということは、各種の心理療法や薬物治療を受けたとしても完治するケースが非常に少ないし、社会復帰することが困難であるということである。そして、このメンタル不調と生きづらいと感じる心を改善する完璧な方程式は存在しないということであろう。ましてや、メンタル不調に陥った人の生まれ育った養育環境も様々であるし、考え方や認知傾向もそれぞれ違っている。親の価値観も違うし、本人が獲得した価値観、またはメンタルモデルも相違点がある。さらにやっかいなのは、固定されたメンタルモデルは余程のことがないと変えられないのである。だから、メンタル不調は治りにくいのである。

メンタル不調を治す特効薬や方程式があったとしたら、こんなにも患者が多くない筈である。そして、年々増えて行くこともあるまい。うつ病に劇的に効くと言われて登場したSSRIは、逆にうつ病患者を何倍にも増やすという不思議な現象を引き起こしている。統合失調症の患者は、次第に強い薬を処方され続けて、最後は大量の薬漬けにされるケースが非常に多い。減薬・断薬に積極的に取り組んでいる精神科医はほんの一握りだけである。日本の精神医療というのは、実に貧弱だと言えよう。

メンタル不調を治す特効薬もないし、これぞという精神療法や心理療法がない中で、一筋の光明が見えてきたのである。それは、フィンランド発の治療法でオープンダイアローグという精神療法である。今までの精神療法や心理療法では、メンタル不調の原因やきっかけに注目して、その原因をつぶす対策の治療方針を立てて、治癒を目指して努力してきた。ところが、このオープンダイアローグは完治を目指さないのである。メンタル不調の原因を突き詰めたり、病理を明らかにしたりしないのである。薬剤投与も極力しないし、入院治療も積極的にしない。それなのにメンタル不調が完治するし、再発も極めて少ないというのだから驚くばかりである。

このオープンダイアローグという手法は、「開かれた対話」と訳されていて、ただ対話を徹底的に繰り返すだけである。それも参加者全員が心を開いて、傾聴し共感するだけである。患者と家族などの関係者と複数のセラピストや医師がミーティングを、発症の24時間以内から連日に渡り10日以上も行う。統合失調症は精神疾患の中でも非常に治療が難しく、薬物治療が必須であり、予後もけっしてよくない。入院期間も長期になる難治性の疾患だ。それがこのオープンダイアローグによって完治して再発しない患者が続出している。このオープンダイアローグは、PTSD、パニック障害、うつ病、双極性障害などのメンタル疾患にも有効であり、ひきこもりにも有効だと言うのだ。こんな夢のような治療法が日本でも広がれば、精神医療に革命が起きるに違いない。大きな期待を抱いている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、オープンダイアローグの研修会を開催しています。個人レクチャーもいたします。実際にこのオープンダイアローグの研修を受けた、ひきこもりでDVをする娘さんの対応でお困りのご両親が、問題行動をするお子さんの本心がよく解るようになったとびっくりされていました。研修を受けただけで、自分の言動を自ら変革しようと決意されたのです。ひきこもりや不登校のお子さんを持つ保護者の方にお薦めです。

メンタル不調にも最適なゴルフ

勝ち負けにこだわる処や、相手の弱点をついたり嫌がることをしたりするのが性に合わないからスポーツをしないという人がいる。または、何人かのチームワークをするのが苦手なのでスポーツから遠ざかっているという人もいる。あまりにも心が優しくて対戦型のチームスポーツが合わない人がいる。こういう人は心が傷つきやすくメンタル不調にもなりやすいが、そんな人でも楽しめるスポーツがある。それがゴルフである。メンタル不調の方に是非にもお薦めしたいスポーツである。

団体スポーツや対戦型のスポーツは実際にゲームをするまでの準備が大変だから嫌いだという人も少なくない。団体スポーツで対戦型というと、人が集まらないとゲームが出来ない。5人のチームを組むバスケットボールは10人揃えばゲームが可能になる。バレーボールなら12人、野球・ソフトボールなら18人、サッカーは22人が必要になる。ましてや、競技場や体育館を借りるにも苦労する。何日も前から申し込まないとゲームにならない。ぴったりの人数であれば、都合の悪い人が出ると足りなくなるので余裕を持って人数を集める。ゲームにフル出場できないプレーヤーも出てくる。試合に出場しなければ面白くないのは当然だ。ゴルフは1人でも気軽に、そして一日フルに楽しめるスポーツである。

元々団体スポーツに向かない人もいる。身勝手な人がそうだと思いがちであるが、そうではなくて周りに気を遣うような人ほど団体スポーツが苦手である。何故なら、自分のせいでゲームが不利になったり負けたりすると、他のチームメイトに申し訳なく思い、居たたまれなくなってしまうのだ。気持ちが優しくて繊細な神経の人ほど、団体スポーツに向かない。また、自分がミスをした時に、口では気にするなと言いながら心の中では「この下手くそ、お前のせいで負けたじゃないか」と思っているチームメイトがいるのを、鋭く感じてしまうから団体スポーツが出来ないのだ。

対戦型スポーツに違和感を覚えるという人も少なくない。自分がどれほど良いプレイをしたとしても、相手がそれを上回るプレイをすれば負ける。ましてや、技術だけでなく相手との駆け引きも必要だし、相手が苦手とすることや嫌がることをしないと勝てないのである。相手がミスした時に、外面には出さないものの、内心嬉しいという複雑な気持はどうしようもない。相手の弱点を突く攻撃をするというのは、フェアープレイを謳っていながら、パラドックスの感覚を持たざるを得ない。

ゴルフは、あくまでも個人プレイなので相手を気にしないでプレイできる。すべてのプレイと結果は自己責任だから、人に迷惑をかけることはない。自分のプレイが他人に嫌な思いをさせることはない。失敗したら自分がその責任を負うし、素晴らしいプレイをしたら自分の成果になる。悪い成績を誰かのせいにしたり天候やゴルフ場のせいにしたりすることは基本的に出来ない。技術面の未熟さとメンタル面での弱さは自分のプレイに跳ね返る。まさに自分との闘いである。マッチプレイやコンペに参加しない限り、すべては自分だけのプレイを純粋に楽しむだけである。

ゴルフ場に一度でも立ったことがある人なら解るが、あの解放感は何とも言えなく嬉しい。広々としたフェアウェイが続いて、青々とした芝生が伸びている景色は、この世のものとは思えない爽快感を与えてくれる。樹々や植物が豊富にあり自然が豊かな環境が広がっている。人工的に配した池や浮島などは、まるで日本庭園のような趣さえ感じられる。近くにある連峰や海を借景にしたゴルフ場さえある。こんなにも自然が豊かな処でするスポーツは他にない。だから、ストレス解消に最適である。心が疲れたり折れたりしてしまった人に薦められるスポーツである。

さらに、ゴルフはマインドフルネスに最適でもある。ゴルフというスポーツは、奥が深く難しい。でも、初心者でもそれなりに楽しめる。今はセルフプレイなので、キャディにも気兼ねすることがない。スロープレイをしなければ、未熟者でもラウンドが可能だ。自分のゴルフプレイに専念することで、心を無に出来る。自分の心を支配している苦しくて悲しい気持ちを一時的に手放せるのである。難しくて楽しいゴルフだからこそ、自分を苦しめている思考を一時的に停止できると言えよう。マインドフルネスにこれほど適したスポーツは、ゴルフ以外にないであろう。メンタル不調の方は、是非ともゴルフを試してほしいものである。ひきこもりや不登校、メンタル不調による休職者にもお勧めであ。

 

※心が傷つき折れてしまい、メンタルが不調になってしまい、何をする気力もなくなってしまった方には、ゴルフをすることをお勧めします。イスキアの郷しらかわでは、宿泊者に近隣のゴルフ場までご案内します。ご希望されるなら、同行プレイもいたします。また、ゴルフの初心者には練習場までご案内し、基本的な技術やルールなどをレクチャーします。ゴルフクラブも無料でレンタルいたします。お問い合わせのフォームから、ご相談ください。