学校教育で自己肯定感を育てるのは困難

 学校教育を管理指導する立場にある文部科学省は、子どもたちの自己肯定感(自尊感情)を育む学校教育を目指しているという。どうすれば、自己肯定感が高まるのか、調査研究を進めているし、教師にも子どもたちの自己肯定感や自己有用感を育てる教育の進め方を指導している。そして、自分たちの活動が恰も成功しているかのように、自尊感情を持つ高校生が増えているとの調査結果さえ、公表している始末である。でも、相変わらず不登校の子どもは存在しているし、いじめや無視などが多数起きている。自尊感情が高まっているとは思えないのである。

 ましてや、学校現場における不祥事は後を絶たない状況にある。不適切指導や教師による暴力事件・性被害は少なくないし、不適格教師として処分をされたり中途離職をしたりする教師も多い。そもそも、絶対的な自己肯定感(自尊感情)を持つ教師が少ないのではないかと思えて仕方ないのである。自分に自己肯定感が育っていない教師が、どうして子どもたちの自尊感情を育むことが出来ようか。ましてや、自尊感情や自己有用感をしっかりと持っている教師なら、子どもたちの不適切指導や性被害行動を起こす訳がない。

 ダイヤモンド社のプレジデントという雑誌で、誉めることの特集記事を掲載したことがある。その際に、各企業の社員や管理者にアンケートを実施したそうである。その結果、よく誉められる人は、自分でも他人をよく誉めることが解ったという。教育の極意は、よく誉めて育てると言われているが、学校現場で誉められることや認められることが極めて少ない教師が、子どもたちを認めて誉めることが出来るとは思えない。ましてや、現代の教師たちの殆どが生きづらさを抱えているのに、子どもに生きる楽しさを伝えるのは難しいであろう。

 学校の先生たちの中で、何かしら心を病んでいる人は想像以上に多い。何らかの気分障害により、治療を受けている先生は多いし、休職している先生も少なくない。一般企業と比較しても多い筈である。どうして教師が心を病んでしまうのかというと、特殊な職場環境だからという理由だけではない。心が折れやすいという何か特別なパーソナリティを抱えているとしか思えない。その特別なパーソナリティとは、不安や恐怖感を抱えやすいというものではなかろうか。あまりにも神経が過敏で、心理社会的な過敏性を持っている気がする。

 そのパーソナリティは、小さい頃の育てられ方に起因しているのではないかと思われる。教師になる殆どの方たちは、親が教師であることが多いし、親の教養や経歴が立派だということが多い。勿論、教育熱心な親も少なくない。家庭における躾は厳しい傾向が強い。つまり、母性愛よりも父性愛が強い中で育てられるケースが多いということである。自己肯定感を持つには、三歳頃までの育てられ方で決まる。あるがままにまるごと愛されて育てられれば、自己肯定感が確立される。残念ながら、条件付きの愛である父性愛の強い育児では、自己肯定感が育たないのである。

 すべての教師が父性愛の強い中で育てられたという訳ではない。比較的多いという意味である。そして、そういう父性愛の強い家庭で育てられた教師ほど、とても優秀なので出世して学校や教委の管理職になる。だから、管理職は部下の教師を誉めることが不得意なのである。誉め上手は誉められ上手であり、誉められ上手は誉め上手である。誉められることが少ない教師は、子どもを誉めることが得意でない。誉め方も稚拙で、結果だけを誉めてプロセスを誉めることがない。これでは、子どもの自尊感情が育つ訳がない。

 文科省は、こういった大事なことはさておいて、自然体験やボランティア体験などが自尊感情を育てると主張する。または、多世代の交流や読書をしている子どものほうが、自尊感情が高いと分析している。この主張はある意味正しいと言えるが、自尊感情の高い子どもほど自然体験やボランティア体験をするし、多世代の交流や読書を良くすると言ったほうが正しい。自己肯定感を育てる教育は、家庭教育のほうの比重が遥かに高いし、自己肯定感の高い教師に出会った子どものほうが、自尊感情が高まると言える。文科省は、絶対的な自己肯定感を持つ教師を採用すれば、健全な子どもを育成できると心得たい。

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