人は愛するために生きている

『人間は誰かを愛するために生きています。しかし、誰かを愛した瞬間から苦しみが伴います。だからといって、苦しいから愛さないというのは間違いですよ。』11月9日に天寿を全うされた瀬戸内寂聴さんの言葉である。愛に生きた人と言える。若い頃から、形に捉われない奔放的な生き方をしたと言われる。倫理的ではないと批判されるような行動もしたが、ある意味自分の本能に対して忠実な生き方だったと言えよう。性愛や愛欲は、苦をもたらすし身を滅ぼすと仏教では教えているが、それでも寂聴さんは人を愛さずにはいられなかった。

 自由奔放に生きて、けっして後悔をしないような生き方をした寂聴さんであったが、ずっとその後も悔やんでいたことがある。それは、結婚して夫の教え子と婚外恋愛をしてしまい、離婚したときのことである。我が子を自分の手で育てたかったのだが、経済的に自立してなかったが故に、我が子の親権を夫に譲らざるを得なかったという点である。もし、収入が充分に確保されていたら、我が子と一緒に暮らせたのにと、ずっと後悔し続けたという。経済的な理由で離婚に踏み切れないという女性が世の中には多いが、とても不幸なことである。

 配偶者や恋人がいる女性が、他の男性と恋愛関係になるというのは、『不倫』と呼ばれる。勿論、その逆のケースも同じである。昔は、経済的に余裕のある男性が、妾を持つことに寛容であった。しかし、結婚した女性が婚外恋愛をすることは、けっして許されなかった。何故かと言うと、自分の子どもかどうか解らないのに者に、財産を譲れないからである。縄文時代は性交渉がおおらかであったが、私有財産が形成された弥生時代からは、男は女性の婚外恋愛を厳しく戒めたのである。日本は男性中心の社会だから、財産は実子長男に譲るのが通例だった。

 結婚しているから他の男性を好きにならないのかというと、けっしてそうではない。結婚していても素敵な男性に惹かれるのは、人間として当たり前のことである。寂聴さんは、ひとりだけの男性ではなく同時に複数の男性を愛していたらしい。自分は一人の異性しか愛せないという女性がいるが、それも素敵な生き方である。寂聴さんのような生き方をしたいと思いながらも、世間の目を気にして我慢して生きるというのは、どうなのであろうか。倫理観に照らせば、けっして許されないことであるが、自分の気持ちに嘘をついて生きるというのは、苦しいものである。

 結婚していながら、他の男性と恋愛をすることで、育児を放棄したり家庭を崩壊させたりするのは、人間としてあるまじき行動である。自分の愛欲の為に、誰かを不幸にするのは許されないことだ。誰かの幸せを犠牲にして成り立つ愛なんてありえない。ましてや、婚外恋愛の相手から何かを得ようとか、性的な快楽を求めるためだけに恋愛をするのだったら、それは本当の愛ではない。相手に癒しや幸福な気持ちを与えたいとか、安全と絆という安全基地になってあげたいという、与える愛であるべきだと思う。つまり、無償の愛でなければならない筈である。

 ところが、相手のことが好きになればなるほど、自分だけで囲って独占したいとか、自分の思い通りに相手をコントロールしたがるものである。相手の自由を奪うような愛では、やがて相手の気持ちは自分から離れて行き、破綻するであろう。心身を鍛えて、自分の魅力を磨いて、相手が愛したいと思うような自分であり続ける為に精進したいものである。ところが、愛着障害を抱えている女性は、見捨てられるのではという不安や恐怖が大きく、相手を縛り付けたくなるものである。見捨てられ不安が強い女性ほど、相手を縛らずに、与える愛に徹したいものである。

 人間は、人を愛することで成長する。たとえ実らない恋愛であったしても、貴重な経験となるだろうし、大きな気付きや学びを得るものである。ましてや、無償の愛で相手を包み込むような言動を続けて行き、愛される自分であるために自らを磨いて行けば、心身共に美しくなるに違いない。益々人間的な魅力を増すであろう。寂聴さんは、だからこそ人々に愛することを勧めたのである。寂聴さんは、求める愛ではなく無償の愛を注ぎ続けたからこそ、人間として輝き続けたのかもしれない。ご冥福を祈りたい。お疲れさまでした。

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