自己犠牲を伴う子育てをしてはならない訳

 多くのお母さんたちは、子どものためにと自己犠牲も厭わずに努力する。一方、父親は自己犠牲を嫌がる傾向にある。仕事や自分の趣味を優先にするし、運動会や発表会にはしぶしぶ参加するものの、普段の育児や家事は妻に任せきりにしがちだ。その分、妻の負担が増えるし、子育てはお母さんに責任があるという社会的風潮もあるので、手抜きもできないから一所懸命にならざるを得ない。そういった際に、お母さんたちは自分を犠牲にするような子育てこそが理想的な母親像だと思い込み、そういう落とし穴に迷い込みがちだ。

 確かに母親と言うものは、自分を犠牲にしてでも子どもを立派に育てなければならないという思い込みに捉われがちである。昔から女性は良妻賢母を生きることを強いられるような社会風潮に縛られる傾向がある。子どものために母親は犠牲になることも厭わないのだという周りの期待に応えてしまうのだと思われる。しかし、自分が犠牲になるような子育ては、子どもにしたら有難迷惑なのである。けっして子どもはそんな風に育てられることを望んでいないし、ちっとも嬉しくないのである。

 何故、自分を犠牲にしてしまう子育てをしてはならないかというと、無理している心が子どもに伝わってしまうからである。子どもというのは、ピュアな心を持っているから親の本心を簡単に見抜いてしまう。親が嘘をついたり誤魔化したりすると、子どもは親の仕草や表情から、親の偽りを直感的に解ってしまうのである。そうすると、子どもの為にと無理してやってあげたことなのに、子どもは嫌な気持ちになるだろう。ましてや、親が自分を犠牲にして子育てをしていたら、子どもは自分の為に辛い思いをする母親を見て悲しむに違いない。

 さらに親自身も犠牲的精神で子育てをしたら、心理的に追い込まれてしまうに違いない。それでなくても、子育ては気疲れするものである。自分の生活や夢を一時的にも中断して、全身全霊を傾けて子育てに集中する。それこそ自分の命を賭けるつもりで取り組んでいる。それなのに、自分を犠牲にしてまで子育てに取り組んだら、自分の生きるエネルギーまで削がれてしまうに違いない。そうすると、母親のエネルギーも低下することになり、それが子どもの生きるエネルギーにまで影響を及ぼし兼ねない。子どもの元気も削がれてしまう。

 忘れてならないのは、母親と子どもの身と心は一体化しているということである。母親の不安は子どもにダイレクトに伝わるし、母親の喜びや嬉しさも子どもにまるごと伝達されてしまうのだ。そして、それは逆の伝わり方もしているということだ。つまり、母親が子どもの為に犠牲心を持って子育てをしていると、子どももまた犠牲心で母親に接するということだ。1歳から3歳の幼児期に、子どもは母親に無条件で愛されることが必要である。まるごとあるがままに愛されないと、絶対的な自己肯定感が育たず、生きづらさを抱えて生きることになる。

 無条件の愛である母性愛を受けずに幼児期を育てられると、子どもは母親に甘えることが出来ない。勿論、父親や祖父母にも甘えることが出来なくなるのは、言わずもがなである。少し考えて見たら解る筈だ。自分の為に犠牲を強いられながら接してくれる母親に、子どもが心から甘えられる筈がないだろう。犠牲的思いを感じながら子育てをすると、心から子育てを楽しめないのは当然だ。子どもに慈悲を感じることもなくなり、母親から笑顔も消えることだろう。母子が共に不安を感じるだけでなく、愛着も薄らいでいくに違いない。

 母親が犠牲的な子育てをしないようにするには、周りの人々の子育てに対する共感と支援が必要である。子育てというのは、この世の中で一番尊い行為であり、価値の高いものである。そして、子育てというのは世の中で一番難しいし、苦難と困難を伴う。その役割を母親だけに押し付けてはならないのである。特に父親が積極的に育児参加するのは勿論だし、他の家族や親族も育児に参加する必要がある。子育ては親族全体、地域全体、社会全体でするものだ。少なくても、母親の大変さと苦労を解ってあげることと、称賛やご褒美が必要だ。そうすれば、母親は犠牲心を持って子育てをしなくても済むようになり、子育てに喜びを感じるようになるに違いない。

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