学問は誰のためのもの(優しく哲学を学ぶ)

 学問とは、誰の為にあるのだろうか。高度の専門的な学問は大学や研究機関のものであり、単純でしかも優しく学べるような学問は庶民のものというように思っている人が多いかもしれない。しかし、そんなことはあり得ない筈だ。どんなに高度で難しい学問だろうと、みんなの為に存在するし、学びたいと思うすべての人のものだろうと確信している。ところが実際は、アカデミックの世界での学問は、研究者や教授・助教授のための学問になっているように感じる。わざわざ難解で理解不能の言葉を操り、敢えて難しい理論展開にしているように思えて仕方がない。

 

 専門の知識や素養が必要な複雑系の物理学や化学、非線形数学などが、まるっきり理解不能なのは仕方あるまい。理解できそうなのに、なかなか理解できない学問の代表は、哲学であろう。哲学は、凡人が理解するのに苦労する。特に、哲学者とその学問を研究する人たちの、難し過ぎる言い回しが理解するのを困難にしていると思う。どうして、こんなにも難解な言い回しをするのだろうと、いつも不思議に思う。それに、専門用語を羅列することが多いし、その理論展開について行けそうもない。わざわざ難解にしているとしか思えない。

 

 そもそも大学教授たちの授業は、おしなべて難解である。教授が著した教科書・文献を読んでも、理解するのが極めて難しい。どうしてこんなにも難解にしなくちゃならないんだと、憤りさえ感じてしまう。敢えて言わせてもらうと、自己満足の世界だと思ってしまう。わざと難しくして、どうだ難しいだろ、バカなお前たちなんて解りっこねえんだよ、と言っているようなものだ。哲学を学ぼうとする学生が少ないのは、こういう馬鹿な教授たちのせいであろう。相手が理解しやすいように、優しい語句と言い回しで教えるのが賢い教授なのだ。

 

 仏教には、仏陀の尊い教えを伝えるお経というものがある。言わば、仏教の教科書みたいなものである。浅学菲才の私はそのお経を読めないし解説も出来ない。非常に難しいと思われているが、実はこのお経は仏陀自身が書き記したものではないという。アーナンダという第一弟子が、口述筆記したものだと言われている。仏陀が集まった人々に講演をして、その言葉を一言一句違わずに文字に起こしたのがアーナンダらしい。集まった人々のレベルに合わせて解りやすいように物語にして聞かせたという。

 

 集まった人々のレベルは千差万別である。仏教を習いたいという専門家(僧侶志願)も居れば、一般庶民も居たという。市井のおばちゃんたちの認知レベルに合わせて、話の内容を変えたという。なるべく理解しやすいように平易でストリー性を持たせて語って聞かせたというのである。仏教とは苦しんでいる人々を救う教えである。当然、悩み苦しむ人たちというのは、悟りを開いていないのは勿論だが、どちらかというと教養や学びの薄い人たちである。そういう人こそが救われるべきだと、仏教を学べるように優しく教えたのであろう。

 

 本来学問とは、仏陀のように優しい語句と言い回しで、誰でも学べるようにしなければならないのだ。それをわざわざ難解にして、賢い人だけが理解できればいいんだという態度や姿勢では、学問を詰まらなくするだけだ。そもそも哲学という学問は、人々を悩み苦しみから救う手立てとするものだ。物事の本質をどう見極めていくのかという、形而上学としての立場があるのだから、人間が人間らしく生きるために必要不可欠な学問なのである。わざわざ難解にして、人々を排除しようとするなんて愚の骨頂と言えよう。

 

 アカデミックの世界で教授と呼ばれる人たちは、どうして学問を難解にしてしまっているのであろうか。それは、ひとつには格調高い文章にしようとして、必要以上に難解にしなくてはならないと勘違いしていることに起因しているようだ。さらには、学歴や教養が高くなっている人ほど、身勝手で自己中心的になっているからだ。文章を読んだり授業を聞いたりする人たちの気持ちになりきれないのである。自分の言っている言葉を理解できないのは、聞くお前たちがバカなのだと突き離しているのである。学問を教える人は、学ぶ人の能力や力量に合わせて、解りやすいように物語にして聞かせ、理解してもらう努力をすべきなのである。

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