他力本願で生きてもよいではないか

他力本願で生きて行ってはいけない。あくまでも自力本願で生きなければならないと思っている人が、世の中には多いのではなかろうか。ここで言うところの他力本願とは、浄土真宗の教義で言えば、まったくの誤解であるとされる。つまり、他力とは他人による支援や助けではなく、阿弥陀仏の法力のことであり、本願とは衆人の悟りを導くことである。他力本願とは、人の助けで自分の欲望や願いを叶えることではないのである。対比して言われている自力本願という言葉も、仏教ではありえない言葉ということになる。

 

この他力本願という仏教本来の意味を否定する訳ではないが、敢えてこの他力本願という意味をもう少し緩く捉えてみたい。そして、他力本願で生きてみても良いことだと思えるようになり、それが少しでも生きづらさの解消につながることが出来たらと思う。他力本願という言葉の仏教的な意味とは少し違うかもしれないが、人々を幸せにすることが出来たならば、それもまた阿弥陀如来による慈悲の現れと言えよう。他力に頼って生きてはならないと、小さい頃から思い込まされ、甘えることを許されなかった人を救えるかもしれない。

 

人間は他人の力を借りずに生きるべきで、自立して生きることが大切だと、小さい頃から親から教え込まれる人が殆どであろう。祖父母や周りの家族も同じように、人に頼るなと教えるし、学校でも教師が依存せず自立しろと指導する。小さい頃から「依存心をなくせ、甘えるな」と言われ続けて育てられると、他人に頼ることは悪だと思い込んでしまうのだ。だから、他力本願は間違っていて、自力本願が正しいのだと勘違いするのである。意味をはき違えたとは言いながら、あまりにも他人に頼らないで生きるというのは、とても辛い生き方である。

 

何故ならば、そもそも人間というのはお互いが支え合って生きるように生まれてきているからである。そして、乳幼児期には一人で生きられないから、母親とか家族からの様々な支援で生かされる経験をして、気づきや学びを得るのである。そもそも人間は一人では生きていけない生物なのだ。システム論で言えば、人間というシステムは他人との関係性によって正常な活動が約束されている。その関係性を否定して、人に頼ることなく自力本願で生きろというのが本来無理なことなのである。

 

とは言いながら、あまりにも人に頼り過ぎることは好結果を生まないのは当然である。また、他人の力を借りても良いとは言っても、親、教師、上司から行き過ぎた介入や干渉を受け過ぎてしまうと、自立できなくなることも多々ある。人を育てるとか指導する立場にある者は、要支援者に対して支配したりコントロールしたりしてはならないのである。そして、育てられたり支援を受けたりする者は、自分の出来る限りの努力をし尽くして、それでも上手く行かない時に、他人の助言や援助を求めてもいいのである。

 

そこで大事なことは、結果や速さだけを追い求めてはならないということである。結果や速さを気にし過ぎてしまい、ついつい努力を中途半端なものにしてしまい、駄目だったと諦めてしまうことがよくある。結果よりも、途中でどのような努力をしたかが大切であろう。目標を達成するためのプロセスが問われるのである。そのプロセスにおいて、出来得る限りの精進をし尽くしたのであれば、たとえ目標に届かなかったとしても、その努力は無駄にはならないし、大いなる自己成長は遂げられた筈である。

 

仏教における『他力本願』も、人事を尽くして天命を待つという意味もあるように考える。仕事においても地域活動や家事育児の場でも、結果だけを追い求めるのではなく、自分にできる精一杯の努力を積み重ねれば、その時の結果はたとえ及ばずとも、いつか必ず花開く時があるのだ。そして、自分の力の限界を感じたら、素直に周りの人々に助言や助けを借りてもよいと思われる。他力本願とは、本来そういう意味ではないだろうか。すべての努力をやり尽くして、その結果はただ阿弥陀仏に委ねるというのは、そんな意味もあろうかと思う。周りの人々の助言や支援は、阿弥陀仏による慈悲と捉えても差し支えないと思うのである。

※あらゆる限りの努力を自分でし尽くしても、どうしようもない状況から抜け出せない時は、周りの人に助けを求めてもいいと思います。もし、周りに助けてくれる人がいない時は、「イスキアの郷しらかわ」を頼ってみてください。精一杯のサポートをさせてもらいます。八方塞がりの時には、一時的であっても環境を変え、イスキアの郷しらかわにいらして数日過ごしてみてください。きっと、出口が見つかります。他力本願でもよいと思います。問い合わせフォームからご相談ください。

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