場当たり的不登校対策は効果がない

文科省や学校関係者の努力によって、不登校は減っていると言うが本当にそうであろうか。そもそも不登校という定義にこそ疑問がある。文科省の不登校の定義は、年間30日以上欠席した者で、経済的理由や病気が原因の児童生徒を除くとなっている。つまり、精神的な障害があって医師の診断書があれば不登校にはならない。しかも、保健室登校は何日に渡っても不登校とはならない。そして、少しでも学校に行けば、遅刻でも早退であっても不登校の欠席日数には含まれない。敢えて不登校を少なくする意思が働いているようだ。

不登校という問題が放置されていると、学校関係者だけでなく教育委員会や文科省の責任が問われる。したがって、不登校を少なくする努力が実っていると社会に対して発信したいから、不登校の数字を少なくカウントしたいのであろう。これは、自殺者の数を出来るだけ少なくカウントしたいとの思惑が働く厚労省と同じ構図である。官僚というのは、無能だと批判されるのを極端に嫌う。したがって、統計数字のマジックを使いたがる。これだけ努力していますよと、と示したいだけなのである。

文科省から各県の教育庁に対して、不登校対策をしっかりしなさいと激が飛ぶ。そして、県の教育庁から市町村の教育委員会へ、さらには各学校の管理者に伝達される。当然、校長や副校長は不登校の数を少なくする為の知恵を働かせる。何故ならば、不登校の多い学校管理者の評価が下がり出世できないからである。場当たり的な不登校対策が施される。保健室登校でも何でもいいから、1度だけでも学校に来させればよいと無理やり登校をさせる。不登校の原因なんてどうでもいいから、数字だけ減らせという厳命が飛ぶ。

不登校になる本当の原因を学校関係者は知らない。文科省も教委だって、不登校の本当の原因を掴めていない。不登校になる原因は、当事者の精神的な弱さ、強過ぎる感受性、発達障害、成績不振、いじめ、不適切指導、同級生の確執などにあると学校関係者は思いたがる。しかし、不登校の本当の原因はそんなことではない。これらは、あくまでも不登校の単なるきっかけでしかない。不登校の本当の原因は、『関係性』にある。つまり、本来良好にあるべき関係性が劣悪化、もしくは希薄化しているから不登校が起きるのである。

児童生徒と先生との関係性、同級生や先輩との関係性、教師どうしの関係性、保護者と教師の関係性、親と子の関係性、親どうしの関係性、その他の人間関係に問題があるから、不登校という事象が起きてしまうのである。ひきこもりも同じ原因でおきる。関係者がそれらの関係性に原因があると気付いて、良好な関係性を再構築できたとしたら、不登校やひきこもりは見事に解決するのである。その本当の原因である劣悪な関係性を放置したままで、場当たり的な不登校対策に終始しているから、いつまで経っても不登校は解決できないのである。実に情けない話である。

それでは、何故お互いの関係性が悪くなっているかというと、日本の教育制度にその根源がある。明治維新以降に、列強の欧米に追い付き追い越す為に富国強兵を推し進めた。その一環として、欧米の近代教育を取り入れた。この近代教育の理念は、徹底した個人主義と競争主義、実学主義、客観的合理性の教育だった。この近代教育の考え方が浸透して、あまりにも個人最適や個別最適が進み、自分さえ良ければいいという考え方が支配的になった。当然、このお陰でお互いの関係性が悪化したのである。行き過ぎた競争主義は、お互いの関係性を希薄化してしまったし、お互いが支え合うコミュニティも崩壊させた。

関係性が悪化してしまった学校では、平気でいじめはするし誰も助けようとしない。先生も子どもとの信頼関係を構築できないから、子どもはいじめを告白しないし、先生はいじめがあっても真剣に対応しようとしない。親子の信頼関係がないから、学校でのいじめを訴えられない。親どうしの夫婦関係が最悪でいつも言い争いしている家庭の子どもは、無意識のうちに不登校やいじめ等の問題行動を起こす。問題行動を起こせば、危機意識を持って夫婦の関係性が再構築できると、自分を犠牲にしていじらしい行動を取る。すべては、関係性が劣悪化・希薄化していることに原因があるのである。対症療法的で場当たり的な不登校対策なんて止めて、関係性の再構築に力を注ぐべきである。

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