子どもの為と言いながら・・・

子どもの為にと、必死になりながら子育てをされているお母さん方に、そんなに頑張らなくてもいいんだよと伝えたい。そして、本当に子どもの為と思っているのか、自分自身にもう一度問い直してみてはどうかということも伝えたい。とかく、子育てはお母さんが中心になってするもの、という固定観念が支配している。実はそんなことはなく、父親だって中心になっていいし、祖父母も子育てを担うこともあり得る。さらには、地域全体で子育ての役割を負担することも必要であろう。子育てはみんなですればいいのだ。

子どもの幸福と豊かさの実現を願わない親はいない。健やかに育って、幸福な人生を送ってほしいと親は思うものだ。子どもの為なら、どんな苦労も厭わないと思っている。そして、子どもが日の当たる道を歩き続ける事を期待する。一流高校への進学から国公立大学の入学を願い、卒業後は官公庁もしくは一流企業への就職を後押しする。また、その為に塾通いをさせるし、有名な私立小中学校の受験をさせたがる。そういう教育熱心な親は、想像以上に多いと思われる。将来に渡り安定した生活を送ることを願うのである。

こういう教育熱心な親は、すべて子どもの将来の為を思っての行動であると思いたがる。そして、必要以上に子どもに頑張れと働きかけることが多い。しかし、よく考えてみてほしい。本当に子どもの為に教育熱心な親になるのだろうか。子どもが将来不幸な人生を送り苦しむ姿を見る自分が、辛い思いをするからではないのか。自分の子どもが幸福な人生を送る姿を見て、自分の子育てが間違いなかったと安心して、自分が満足したいだけではなかろうか。親というのは、周りの人々や親せきに我が子のことを自慢したがるし、自分の子どもが誉められるのが大好きだ。

たいていの場合、大人は子どもの学業成績が良くて優秀な高校や大学に入学したことを誉めたがる。しかし、よく考えてほしい。学校の成績が良いことや一流の学校に入学したことが、人間として素晴らしいことなのだろうか。そんなことが誉めて認めるかどうかの基準であるというのは、実に情けないことである。人間として大切なのは、物事に対する考え方や姿勢、または言動が崇高な価値観に基づいていることである。または、あらゆる場面で、主体性や自発性、そして責任性や自己犠牲性を発揮できることが、称賛されるべきである。さらに、弱きを助け強きにも怖気ることなく立ち向かう勇気を持つことも大事だ。

どんな時にも自分自身を見失わず、自利や損得にとらわれず、人々の幸福実現の為に苦労を厭わずに頑張れるような子どもを育てることが親の務めではないだろうか。そういう子どもに育てたなら、たとえ学業の成績が良くなくても、一流の学校に入学できなくても、官公庁や一流企業に就職できなくても、親として誇りに思うものである。子どもの為にと言いながら、学校の成績に一喜一憂して、必要以上勉強を強いる教育虐待をしている親は少なくない。自分には三人の男の子がいるが、どんな高校を受験するか、どこの大学に進学するか、本人にすべて任せたし、就職先についても一切口出しをしたことはない。

子どもは親の所有物ではないし、支配したり制御したりするべきでない。ましてや、親が思う通りの人生を歩ませるような干渉をしてはならない。子どもの人生は子どものものであるし、子どもが決めることである。例え不幸になったとしても、また辛い人生になったとしても、それは子どもの自己責任としてそっと見守る姿勢が必要だ。ただし、子どもから助けてほしいという依頼があれば、どんな犠牲を払っても守ってあげなくてはならない。そして、子どもに対して、いざという時は身を挺してでも守ってあげるよと伝えておくのは必要だ。そういう安心感があれば、子どもはどんな苦難困難も乗り越えられるものである。子どもの為にと言って、あまりにも子どもに介入する親になってはならない。

子どもの為と言いながら、子どもに自分の価値観を押し付けてはならない。ましてや、自分の損得や自己利益を求めるような低劣な価値観を持つ生き方を強要してはいけない。しかし、多くの親たちはいい高校や大学に進み、高収入の職業に就くことを子どもに薦めたがる。それも、子どもの為にという隠れ蓑を着て、実際は親の自己満足の為であり、自分が立派な子どもを育てたと社会に認められたいからである。子どもが大人になり、社会に貢献できるようにそっと見守り寄り添い、子ども自身が自己組織性を発揮できるように育てることこそが親の務めである。子どもの為になんて思うこと自体が、親の思い上がりなんだと気付く必要があろう。

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