体罰禁止を法制化する前に

体罰禁止を法制化する動きが加速している。内閣は体罰禁止を法律で禁止することを確認した。これから児童虐待防止法改正の手続きに入る予定である。東京都では一歩進んでいて、体罰を条例で禁止しようとしている。違反しても罰則はないが、児童虐待の防止に役立つのは間違いない。民法で親の子どもに対する懲戒権を認めているので、民法の改正も同時にしないと法律の矛盾が起きるであろう。今でも体罰は必要だと考えている前近代的な親がいるが、彼らの体罰に対する歯止め効果になるのは間違いないだろう。

体罰禁止を法制化することに対して反対ではないが、法律で体罰を禁止したからと言って、体罰が完全になくなることはないし、虐待がなくなることもないだろう。体罰や虐待を平気でするような親に対しての意識付けにはなるだろうが、体罰がより陰湿になるとか、秘密裡に体罰をするようになるのではないかという危惧を持つ。まずは体罰や虐待をするような親に対する教育や指導をする支援こそが、根本的に必要である。また、体罰や虐待をしてしまう親を生み出している社会の低劣な価値観を、変革することこそ求められる。

体罰を防止することを、可及的速やかに実行しなくてはならないことは言うまでもない。体罰から過激な虐待に発展することを防がなければならないからだ。だとしても、何故多くの親たちが体罰をしてしまうのか、本当の原因を探り当てないと、体罰を完全に防止することは出来ない。文科省、教委、行政、児相の担当者は、親たちが何故体罰をするのかを知る由もないし、知ろうともしないようだ。だから、体罰や虐待を防ぐ手立てを考えもつかないのだ。体罰や虐待が起きる原因は、システム論でしか解明できないからである。

体罰や虐待が起きるのは、人間が生まれつき持っている自己組織化する働きが関係している。システム論的に分析するなら、人間という生物はひとつの完全なるシステムである。完全なシステムである人間は、生まれながらにして主体性・自発性・責任性を持つのである。つまり、自らが主人公として自主的に考え決断して行動するのが人間である。子どもは自我が芽生えて、この自己組織化する働きが強くなってくる。親からの指示や命令に背きたくなるのは、自我が芽生えるということ=自己組織化するからなのだ。

この自己組織化の働きが強くなる自我の芽生えを、親は無理やり押さえつけてはならない。何故なら、人間が健全に成長する為には、自己組織化する働きを阻害してはならないからである。反抗期を親が押さえつけたり出さないように仕向けたりしてはならない。または、反抗期を一切出さないような『良い子』を演じさせてはならない。子どもの時に自我を安心して表出させて上げないと、やがて自我と自己の統合が上手く出来ずに、生きづらい生き方を強いられるからである。やがて重篤なメンタル障害を起こしかねない。

実は、体罰を行うような親は、小さい頃に親から支配・制御・所有を繰り返しされていたと思われる。自我の芽生えを許されないような親に育てられた可能性が高い。虐待に近いような体罰で、反抗することを抑えられた経験を持つ。だから、その裏返しで反抗する子どもが許せないのである。それで無意識のうちに、しつけとして必要なんだと勘違いして、体罰をしてしまうのである。このような体罰は、多世代に及ぶ負の連鎖でもある。このような虐待や体罰は、世代間で継続していくので、絶対に断ち切らなくてはならない。

明治維新以降に欧米の客観的合理性を重視する教育理念を、日本の教育界は導入した。それは列国の学術水準や技術レベルに追いつくために必要な能力至上主義でもあった。この要素還元主義とも言い換えられる分離分析主義は、物事を客観的に冷静に観察し問題解決するには重宝したのである。しかし、弊害も生んだ。あまりにも批判的否定的に相手の人間を観ることを強いた為に、実に冷酷で思いやりや優しさを欠如した人間を育ててしまったのである。つまり、相手の悲しみや苦しさに共感できず、相手の嫌がることも平気で実行するような冷たい人間を育成したのである。学校や職場で平気でいじめをするのも、そして家庭で虐待や体罰をするのも、この近代教育の影響が大なのである。日本の教育理念を見直して、客観的合理性の教育から共感的関係性の教育に変革することこそ、体罰禁止を法制化する前に必要なことである。

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