いじめ自殺の損害賠償を認める判決

滋賀県大津市で起きたいじめによって自殺した中学生の事件について、民事訴訟でいじめた側に損害賠償を認める判決が出た。今までは自殺といじめの因果関係を認めようとしなかった司法が、初めて自殺といじめの関連性を認定して、原告の要求通りの損害賠償を被告に命じた。これは画期的な判決だと、報道各社は好意的に報じている。いじめじゃなくて単なる遊びや悪ふざけだと苛めた側は主張していたが、司法はいじめだと認定したうえで、自殺に追いやったのは苛めた側に責任があると認定したのである。

この判決は、非常に大きな意味があろう。いじめている子どもたちは、悪ふざけやいたずらという感覚でやっていることが、自殺までに追い込む悪質ないじめであり、損害賠償責任まで負うのだということを認識するきっかけになろう。また、自分たちのやっていることがとんでもなく悪いことなのだと反省して、自分たちの生き方を変える契機になるのであれば意味がある。この画期的な判決によって、悪質ないじめによる自殺が、少しでも減ることに繋がることを望んでいる。

しかしながら、このいじめ損害賠償の判決は相当な危険性を孕んでいるということを認識しなくてはならない。この損害賠償責任が認められたことで、学校におけるいじめが益々陰湿化すると共に、大人に知られないように秘密化してしまうという危険である。それでなくても最近のいじめは悪質なものになり、しかも自分は直接手を出さずに、巧妙に人を支配していじめを実行させるようになっている。SNSやツィッターなどで拡散させたり、間に何人も介在させたりして元情報を知られないように仕組むケースもあると聞く。これでは、いじめた本人が特定できないだろうと、益々いじめが過激になる可能性がある。

ましてや、いじめというのは受けた人を救うというのが第一次的な対処であるが、完全にいじめを無くすには、いじめた子どもを適切に指導しなくてはならない。罰則を強化したり損害賠償責任を負わせたりして、抑止効果を高めるだけでいじめがなくなる訳ではない。いじめを行うような子どもこそが救われなければならないのだ。いじめを行うような子どもは、自業自得なのだから罰を受けるのは当然だし救う価値もないという人がいるかもしれないが、けっしてそうではない。いじめをする人間こそ、心が傷ついているのである。いじめをする子どもがいなくなるような社会にしなければならない。

いじめをするような子どもは、適切で十分な愛を保護者からうけていない愛着障害や、人格に問題を抱えるパーソナリティ障害を持つことが多い。つまり養育環境に問題のある子である。結構裕福な家庭に育ち知能も高く、何をやらせても卒なくこなす器用な子どもが多い。親は社会的地位も高く、教養や学歴も高く、教育熱心な面もある。ところが、父性愛的な条件付きの愛が強過ぎて、母性愛的な無条件の愛に飢えている傾向がある。躾(しつけ)も厳しくて、親の価値観を無理やり押し付けられることが多い。

このように、親からの支配やコントロールを過剰に受けてしまい、主体性や自主性、または自由度が阻害されている家庭生活を送っていることが多い。家の中では非常に『良い子』である。ある意味、『良い子』を演じるように育てられていると言っても過言ではない。そして、親からの愛に飢えている。こういう子は家庭ではおとなしく過ごすが、学校ではその反動で自由を求めて暴れるし、いじめっ子に変化するケースが多いのである。人間は、ストレスやプレッシャーにさらされ、自分らしさを押し殺して生きていると、どこかで爆発せざるを得なくなる。それが他に対する暴言や暴力、いじめなどに変質するのである。

人間とは本来、自己組織化する機能を保持している。誰からも介入や干渉を受けず、自由に生きて主体性や自主性、自発性や責任性を自らが発揮するようになっているのだ。それが、過度に干渉や介入を受け続けて支配・制御を強くされてしまうと、正常な自己組織化を遂げずに、精神を病んでしまうばかりか発達が阻害される。利己的な人間になり、他者への愛を持てなくなる。生きづらくなるばかりでなく、その原因を他者にあると勘違いして、攻撃的な性格を持つようになる。いじめをする子どもの歪んだパーソナリティを、何とかして救ってあげないと、やがては社会に適応できない大人にしてしまう。いじめの損害賠償責任を認める判決は、こういう部分をきちんと理解したものならいいが、社会のいじめに対する反感に呼応したものであるなら、評価に値しないものと言えよう。

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