産み育てることを自ら拒否する親

LGBTの方たちを生産性のない人たちと断言して、内外から大きなバッシングを受けた杉田氏という女性国会議員がいた。所属する自民党からも苦言を呈されたようだが、本音においては、LBGTを批判的に見ている保守系議員は多いのであろう。普段から仲間内の会合では、LGBTを批判する会話が日常的にされているのではないかと想像する。だから、あんな発言になってしまったのであろう。自ら進んでLGBTの生き方を選択したのではなく、その道しかなかった方々から見たら、許せない発言であろう。

しかし、誤解を受けずに言えば、あの発言は許せないものの、考え方としては共感する部分がない訳ではない。LBGTの方ではなくて、自ら進んで子どもを産まないし育てないという選択をしている夫婦がいる。母体が出産と育児に耐えられないという事情があるケースなら仕方ないが、自分たちの人生を楽しむ為に敢えて出産・育児をしないという夫婦が増えているのである。共働きで子どもを産まないという選択をする夫婦を、DINKSと呼ぶ。このDINKSを選択することは、社会的に見たら果たしてそれでいいのだろうかという疑問を持つのである。

子どもを産んで育てながら働くというのは、かなりの難しさと制限を夫婦共に要求されてしまう。日本の働く環境は、けっして良くない。特に共働きの女性にとっては、子育てする環境が整っていないからだ。東京医大の入学試験で、女性の試験結果を不正操作した事件があったが、子育て中の女性の職場環境が不整備だからであろう。そういう働く環境だから、DINKSを選択せざるを得ないというのも理解できる。だとしても、すべての女性が生み育てないという選択をしたらどうなるであろうか。それではサステナブル(持続可能)な社会が実現しなくなってしまうのである。

人間には、いろんな考え方や生き方があっていいと思う。生み育てないという生き方を選択してもいいだろう。ただし、それが自分にとって損か得かという基準で選択するのはどうかと思う。自分の利害だけで、生み育てない生き方を選ぶというのは感心しない。自分が社会に大きな貢献をするとか、それが自分にしか出来ないという事情があるので、どうしても出産する訳にはいかないというなら仕方ない。夫婦だけで人生を楽しむのに、子どもは要らないという身勝手な理由なら、許されないと思う人も多い筈だ。

子どもを生み育てないという選択が、社会的損失だということからあの女性国会議員が、生産性がないと批判した。しかし、それは非常に軽薄な考え方であろう。それよりも、子育てをしないことによる損失は、経済的な側面の目に見えるものだけではない。それよりも、もっと大切なものが失われることを忘れてはならない。子育てを実際に真剣に行った親ならば、それが解るに違いない。子育てによって、親が大きく成長させられるし、子どもが心身共に成長する姿を観る喜びを享受できる。子育てというのは、親子が共に学び気付かされることが多いのだ。

子どもを育てる経験をしないと人間として一人前に成長しない、なんて乱暴なことは言わないが、子育てを体験しないと学ぶことが難しいことが沢山あるのは事実だ。学べることの中で大切なひとつとは、母性愛というか慈悲愛である。子育てをしなくても、母性愛や慈悲愛を発揮できる人がいない訳ではないが、極めて稀である。慈悲の愛とは、相手の悲しみを自分のことのように感じて慈しむという愛である。我が子は目に入れても痛くないという比喩の表現があるが、これは実際に子育てしなければ実感できない。幼い我が子の鼻が詰まって苦しんでいる時に、その鼻の孔に口を押し当てて、鼻汁を優しく吸ってあげられるのは親しかいないであろう。不潔だとか気持ち悪いという感情よりも、我が子を想う心が優先する。自分も躊躇することなく、我が子の鼻汁を何度も吸ってあげた。このような行為を通して、慈悲の心が育つのである。

子育ての経験においては、辛いことや苦しいこと、そして悲しい想いをすることが多い。しかし、そういう苦難・困難を経験するからこそ、人間として一回りも二回りも成長するのである。そして、そのような苦難・困難を乗り越えた時の喜びも大きいのである。子どもは、親を選んで生まれてくるというのは、胎内記憶の科学的検証から間違いないらしい。何故、親を選んで生まれて来るのかというと、選んだ親と共に苦難困難を経験して、それを乗り越えて自己成長する為だと、胎内記憶を残している子どもは断言する。ということは、自ら出産と子育てを経験しないと選択してしまう夫婦は、自己成長をするチャンスを自ら放棄しているということになる。そんな挑戦権を自分から捨てるというのは、実にもったいないことである。

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