権力者こそ権威を捨てよ!

ボクシング連盟が揺れている。山根会長が連盟を私物化して、アマボクシング界を牛耳ってきたことが判明した。公的機関が一部の権力者によって、公平性や平等性を失ってしまうなんて考えられない。よほどの圧倒的権力を握っていたのであろう。文科省の汚職が止まらない。文科省の事務方トップの事務次官が接待を受けていたというのだから、唖然として口が塞がらない。権力者がその権威を利用して、行政や公的機関の業務遂行を歪めるなんて、絶対に許せないことである。

権力者がその権威を利用して、政治や行政を私物化して自分の都合よろしく捻じ曲げるのはよく起きることである。だからこそ、そうならないように透明性や公平性を保持すると共に、権力の集中化を防いできた。さらには、権力が永続しないような工夫をしてきたのである。権力者自らも、公明正大で清廉な運営を努力すべきであろう。ところが、現実には日本大学の理事長や東京医科大学の理事長のように、権力の集中が起きて大学運営が私物化されている。権力が集中すると、必ず内部腐敗が起きるものである。

どうして、こんなにも権力を乱用しての歪みが起きるのであろうか。行政や政治だけでなく、民間の組織運営でも起きてしまうのは何故であろうか。日本の政治・行政のトップがあまりにも権力を乱用しているから、その下部組織だけでなく民間さえもが真似てしまうのだと主張する人も多い。確かに、忖度したのか指示したのかは定かでないが、日本のトップがその権威で行政を歪めているのは間違いない。それが許されているのだから、自分たちもいいじゃないかと規律が緩むのは当然であろう。

江戸時代も、政治と行政と司法が武士に集中したが故に、権力の濫用が起きてしまった。その反省の元に、「武士道」という価値観を強く持ち、武士自身の生き方を自ら戒めてきた。その武士道の中で、特筆すべきなのは「惻隠の情」である。惻隠の情とは慈悲のことであり、社会的弱者に対する配慮をすべきであると説いている。自分たちの利益優先の個別最適ではなくて、全体最適を目指しなさいという哲学であろう。権力を自分たちの為に乱用してはならないと自らを戒めて、自浄作用を求めたのだと思われる。

権力者が自分の権威を振りかざして、自分の利益や豊かさを求めるだけでなく、権力者に媚びへつらう者におこぼれを授ける構図がある。コバンザメのように、権力者に付いていれば自分も利益を受けることが出来ると、派閥を形成する傾向がある。実に醜いし情けない。ボクシング連盟の山根会長が権力を持ち続け得たのは、取り巻き連中が派閥を作っていたからであろう。東京医大の理事長もしかり、日大の理事長も同じ構図である。相撲協会も同じだし、省庁も派閥を作って自分たちのトップを何としても事務次官にしようと運動している。

組織や団体の運営に関して、何故権力者に権威が集中するといけないのであろうか。観念論や倫理観だけでなく、論理的にしかも科学的に証明することが可能である。組織というのは、ひとつの「システム」である。その構成要素は、部・課・人である。そして、その構成要素の最低単位である人は、自己組織化する。組織(システム)を構成する人は自らが主体性・自発性・責任性を発揮して、全体最適を目指すものである。そして、自己組織性を持つには、その構成要素である人は、平等で公平な関係性(ネットワーク)を持たなくてはならない。権力を集中させてあまりにも一方的に優位な関係を作ってしまうと、良好な関係性を損ない、自己組織化しなくなりシステム(組織)は破綻する。

さらに、自己組織化しなくなったシステム(組織)は、オートポイエーシス(自己産出性)を失ってしまう。つまり成果を出せないということである。自己成長や進化をしなくなってしまった組織は生き残れない。このシステム論は、最先端の複雑系科学によって証明されている科学的事実である。量子力学や分子細胞学においても証明されつつある。こんな科学的事実を知らないでいるから、権力者が権威を持ちたがり、内部崩壊を招いているのである。昔から『実るほどこうべを垂れる稲穂かな』と言われているのである。権力者たる者は、すぐに権威を捨てて、組織の自己組織化を目指さなければならない。

 

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