タイの子ども達の救出が成功した訳

タイの洞窟に閉じ込められたサッカー少年たちが、無事に救出されたニュースは世界中を駆け巡った。全員が何事もなく助けられたというのは、奇跡だとして多くのワイドショーで取り上げられている。ただひとつ気になるのは、ここでも自己責任論が出ていることである。世界の中で、日本の一部のキャスターやコメンテーターだけが自己責任論で批判しているのは、異常に見える。例え多くの人々に迷惑をかけたとしても、犠牲者を生んだ責任があるとしても、子どもたちやコーチを糾弾するというのは、大きな違和感を覚える。いつも批判することでしか、自分を表見できない情けない人間がどこにもいるものだ。

確かに、彼らの行動は軽率だったかもしれない。だとしても、わざとこのような行動をしたのではないし、アドベンチャーには危険はつきものだ。日本人は指導者としてリスクを避ける責任があると言うが、タイのケースでは予測するにはあまりにも難しかったと思われる。それ以上に、その後の対応が指導者として素晴らしくて、称賛すべきと思われる。犠牲者があったことは真摯にとらえるべきではあるが、批判することは避けたいものだ。日本人というのは、どうしてこのように他人に対して批判的になってしまいましたったのだろう。そのルーツはどこにあるのだろうか。

日本人が自己責任論を振り回すきっかけになったのは、日本人ボランティア3人がイラクで人質になった事件からではないかとする知識人が多い。あの時に、当時の安倍幹事長が先頭を切って、彼らの自己責任論を展開して、早い段階から救出費用を本人に支払わせろと叫んでいたと言われている。マスコミもそれに同調して、自己責任論が噴出した。その後、ISに人質にされたジャーナリスト二人を見殺しにしたのも、安倍総理である。口に出さなかったものの、自己責任だと思っていたからこそ救出に動かなかったのであろう。

今回のタイの子どもたちを救出できた奇跡を、世界中が称賛する中で、日本人だけが自己責任論でバッシングしたとしたら、笑われるだけである。当事国であるタイでは、まったく子どもたちやコーチを批判する声は出ていないし、費用を本人たちに請求するなんて声も上がっていない。こういうお国柄だからこそ、救出に成功したのではないかと思うのである。日本だったら、こんなふうに国をあげて全面的な協力をしたのだろうかと不安になる。自己責任論が噴出して、安倍政権は救出をする姿勢は見せるものの、真剣には対応しなかっただろうし、マスメディアも批判したのではないかと危惧している。

今回のタイでの救出劇が成功したのは、タイの国民性が色濃く反映した対応だったからだと確信している。タイは世界でも有数の仏教徒の国である。これだけの仏教の僧侶がいるのは、他の国ではありえない。そして、こういう修行をしている僧侶を、すべての国民が手厚く支援して保護している。日本も仏教の国だという人もいるが、実情は違う。儀式としての仏教は残っているが、仏教に帰依している国民はごく少数だ。日本は仏教の国とは言えなくなっている。タイは仏教国であるが故に、救出に成功したのである。

仏教を信奉する国民は、なによりも『関係性』を大事にする。そして、個別最適よりも全体最適を求める。仏教の価値観は、『縁』をなによりも大切にする。縁起律と呼ばれる基本的な概念が存在する。因縁というのは、すべての原因が縁によって生じるという意味である。自分に関わりあうすべての人は他人だと思わず、自分と同一だとする『自他一如』が基本理念となる。つまり、今回のタイの遭難した子どもたちのことを、国民がすべて自分のこととして感じたのである。親も親族も、そしてまったくの他人も我がことのように子どもたちを想い、真剣に無事を祈り救出を願ったのである。こういう祈りという集合無意識が、天候も含めてすべてのことを好転させたに違いない。

仏教では、関係性と全体性を大切にする。自分の利益や損得よりも、全体の幸福や豊かさを求める。だからこそ、国をあげて救出に協力したのであろう。彼らを批判するということは、関係性を損なうことになるから絶対にしなかったのである。日本人は関係性が希薄化し劣悪化しているから、他人を批判するのであろう。子どもたちのコーチは、元修行僧だった経歴があり、自分を犠牲にしても子どもたちを守ろうとした。食べ物を少しでも子どもたちに分け与えたから、一番体力を消耗していたという。瞑想を教えて、体力の消耗を抑えて精神の破綻を防いだのも、彼が僧侶だったからである。救出にあたったダイバーたちも、自己犠牲を厭わず、子どもたちのために智慧を尽くして最大限の努力をした。奇跡の救出劇が成功したのは、タイが仏教国だったからだと言える。

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