議論にならない国会審議

国会の審議をTV中継で見ていると、イライラ感が半端ない。まるで議論が噛み合わないからである。野党の質問も悪いのであろうが、その質問に対して政府与党と官僚はわざと論点をずらして答弁することが多いのである。実に姑息というのか、卑怯というのか、あざといやり方である。いつからこんな国会審議になってしまったのだろうか。安倍内閣以前も、実はこのような論点を外すやり方があったのは間違いない。しかし、すべての審議がそうではなかった。これは拙いぞという場合に限り、巧妙に逃げるケースもあった。しかし、現在の殆どの審議が野党の質問者を小馬鹿にしたような答弁になっている。国会軽視であり、許せない。

そもそも国会審議というのは、真剣勝負であってほしいものだ。堂々と正面からぶつかって渡り合うべきである。国民を代表しているという自負があるなら、姑息な手段を使って逃げずに正々堂々と論戦を繰り広げるのが筋だ。野党の質問者だって、物事の本質を見極めての議論をしていないように感じる。相手の失言を取り上げて批判したり追及したりすることは、見苦しい限りである。相手の失策を待つなんてやり方は、実に情けない。それにしても一番違和感を持つのは、相手の質問を敢えて真正面から取り合わず、わざとはぐらかす答弁の仕方である。

内閣総理大臣と言えば、国家を代表する人間である。国民のお手本となる話し方や態度が望まれる。小さい子どもたちも、見ているのである。そういう子どもたちが、あんな答弁の仕方を見ていたら、真似をしないとも言い切れない。教師から何らかの質問をされて、うまくはぐらかすことが良いことなんだと児童生徒が学んでしまったら大変なことである。親から何か問い質されて、質問の趣旨をわざと誤解してのらりくらりと答えるような子どもに育ったとしたら、大問題である。上司から厳しい質問を受けて、わざと論点を外す受け答えを部下が続けたら、その組織は崩壊してしまう。

江戸時代の政治家であり官僚でもある武士は、絶対にそんなことをしなかった。武士たるものは、大きな権力を握っていたからこそ、卑怯なふるまいをしてはならないと自分自身を戒めていた。中には、強権をかさにきて卑怯なことをした武士もいたであろうが、圧倒的に少数であった。悪いことをして露見したら、潔く認め腹を切った。さらに、自分自身が悪いことをした訳でもないのに、自分の部下が不祥事を引き起こしたら、それは自分の監督に問題があったと認め、その責任を自ら取ったのである。

ところが現政権のやり方と言ったら、実に情けない限りである。財務省の不祥事に対して、悪いことをした本人に責任を押し付けて、自らの監督責任を放棄した。さらに首相と政権を守ろうとしてウソをついたり公文書を改ざんしたりした官僚を見殺しにしたのである。自分の地位と名誉を守るために、自分を守った人を裏切るような卑劣な行為をする人に政権を任せてよいのだろうか。少しばかり経済状況を良くしたからと言っても、人の道を外れるような行為をする人間に政権を担う資格はない。そういえば、自分の部下が嘘をついたと平気で記者会見をする大学の理事長がいたが、感覚がおかしい。そんな理事長に仕える職員が可哀そうである。

国会審議で野党の質問時間を短くしようと画策するというのも情けない。何も悪いことをしていないというのなら、正々堂々と論戦を張ればよい。長く審議時間をかけると、拙いことが暴かれるのであろうか。野党の質問時間をどんどん制限して、詰まらない与党の質問時間を長く設定するという姑息な手段はいただけない。こんな酷い政権は、今まで記憶にない。自民党の議員たちは自浄作用が働かなくなったのだろうか。こんな卑怯な政権と官邸に対して何も言えないというのは実に情けない。自民党の長老やご意見番たちも、権力者に何も言えないとしたら腐っている。

正しくて活気のある国会審議を期待したい。その為には、野党も質問に対する工夫が必要である。逃げられないように誤魔化しができないような質問にしなくてはならない。自分の意見をとうとうと述べるような、自己主張の強い長い質問ではなくて、短くて核心を突く質問でハイかイイエで答えられるようにするのが望ましい。YESかNOで答えられるように、追及するしかない。元々、そんな逃げの答弁をすること自体、限りなく怪しい。嘘をついていることが明らかであるのは、賢い人間なら誰でも解る。やましいことがなければ、あんな卑劣な答弁なんて必要ないからである。聞いていて面白くわくわくするような国会審議にしてほしい。

 

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