児童虐待は個人でなく社会に責任がある

児童虐待による悲惨な死亡事件が起き続けている。各地の児童相談所や子どもセンターが関わっているにも関わらず、解決することなく痛ましい結果を招いてしまっている。警察にも傷害事件として届けられていながら、適切な対応がされず何らの解決がされなかったという。ネット上やSNSでは、実際に虐待した父親だけでなく、守れなかった母親にも批判の矛先が向いている。また、児童相談所や警察にも批判が相次いでいる。確かに、適切な対応がされていれば、悲惨な結果だけは防げたかもしれない。しかし、この虐待問題は当事者だけの問題なのであろうか。

児童相談所は増え続けている虐待のケースに対して、絶対的なマンパワー不足があり、対応しきれていないのが現状である。1人の相談員で100人ものケースを扱っている相談所もあるという。ましてや、とても難しいケースがある虐待に対して、適切な指導力を発揮できる、経験豊かで能力のある相談員が少ないという事情もあろう。警察だって、刑事事件にして訴訟を維持できる証拠・証言を集めるのが非常に難しいことが解っているからこそ、児童虐待を見ないふりをしたがる。

マスメディアやネット上の批判者たちは、あいつが悪いこいつが悪いと批判をするが、本当の原因を希求するという態度が見られない。ましてや、抜本的な解決策を提起する人も少ない。政治も行政も虐待に対する対応は一応しているものの、根本原因を見つけ出して解決策を法案化する動きさえ見えない。ましてや、これらの解決策と呼ばれるものは、緊急避難的な対応策であり、完全に児童虐待を無くすというものではない。児童虐待が起きる本当の原因は、現代社会の歪みにあるにも関わらず、そこを解決する方向に一切向かわないのが不思議である。

このような悲惨な虐待事件が起きる度に感じるのは、この社会は本当に病んでいるんだなあという思いである。本当の我が子であろうとなかろうと、か弱くていじらしい幼子に対して荒々しい攻撃性を示すというのは、考えられない。この人間はどんな育てられ方をしたんだろうという忸怩たる思いがある。自分よりも圧倒的に弱い存在を、本来は守り育てる気持ちを持つのが人間である。人間として当たり前の感情が育っていないのである。こんな教育をしてきた保護者や学校、そして地域社会こそが糾弾されるべきであろう。

児童虐待事件は、まだまだ明らかにされないケースが沢山あると思われる。やってはいけないと思いながら、虐待を繰り返してしまう母親や父親がいて、自己嫌悪に陥っている人間もいることだろう。我が子を虐めてしまう自分自身に対して、自己嫌悪感を持つ母親も多いに違いない。そして、こんな母親が頼るべき存在もなく、救いの手を差し伸べる人もいないという地域社会が問題なのである。相談センターがあるだろうと思う人がいるだろうが、自分の心に闇を抱え込んでいる人がセンターに相談するというのはハードルが高過ぎるのである。

児童虐待が起きてしまう本当の原因は、日本の教育制度の不備にあるのは間違いないだろう。それも、教育制度というよりも教育理念の間違いにあると言える。何の為に教育するのかという、本来の教育の目的が教育者にまったく欠落しているのである。だから、日大のアメフト部や志学館大学のレスリング部のような不適切指導事案が起きるのである。教育が本来目指すべきものは、『全体最適と関係性を発揮できる人間育成』である筈である。自ら積極的に、社会全体の幸福と福祉を実現するために主体性を発揮して努力する人間を育成することが教育の目的なのである。

ところが、今の教育は自己利益や自己評価を高めるために努力する人間を育てているのである。「誰の為に勉強するの?」子どもに聞いてみれば解る。「そりゃ、自分の為でしょう」と子どもは答える。親と教師が小さい頃から言い含めているからである。やがて社会全体に貢献できる人間として成長する為にこそ、勉強が必要なのであり自分の為ではない。自己中心で身勝手で、自分のことしか考えない利己的な人間だけを育成している現代教育の誤謬が、児童虐待を生み出していると見るべきだ。客観的合理性の近代教育の間違いが、児童虐待の悲惨な事件を起こしているのである。親子や夫婦の関係性の欠如が、愛の家庭内循環と愛情の世代間連鎖を阻害してしまい、我が子を心から愛せなくなったと考えるべきであろう。教育理念の間違いを今こそ正すべき時である。

 

※悪いことだと分かっていながら、つい児童虐待をしてしまい自己嫌悪感を持って苦しんでいるお母さんがいらしたら、イスキアの郷しらかわにご相談ください。何故、我が子を虐めてしまうのかの本当の原因を一緒に考えましょう。そして、この苦しくて悩ましい事態から一刻も早く抜け出す方策を一緒に見つけ出しましょう。ご相談は、電話でもメール、またはLINEでも結構です。問い合わせからメール相談ができますし、電話番号もお知らせします。FBのメッセンジャーでもいいです。LINEのアカウントは「natural1954」です。

“児童虐待は個人でなく社会に責任がある” への2件の返信

  1. 仕事として職務につくのが当たり前になっているから相手の事や周りの事を真剣に想い真剣に考えてあげれないのではないでしょうか。本当に相手の事を想い考えれば、適正な教育を受けていなくとも仰るような考えに辿り着きます。だからといって教育を疎かにしていい理由にはなりませんが。思いやりなしで深く考えても基準が中途半端なので正しいであろう答えには辿り着けません。途中で欲に負け妥協してしまう様な事にもなりえます。やはり一番に考えるべきは他に対する愛を育む事だと思います。それに加えて色々教えないと、結局は自分自身で考えない言われた事を守るだけの機械の様な存在になってしまうのではないでしょうか。

    1. 通りすがりさま、心の籠ったコメントをいただき、ありがとうございます。おっしゃるように、相手の気持ちになりきって考えれば、虐待なんて出来ない訳で、平気で虐待をするのはやはり自分の気持ちしか見えていないのでしょうね。「通りすがり」さまがおっしゃる他者への愛を育むような教育や子育てが必要なのでありまして、その基本的な価値観として他者と自分は一緒(自他一如)という認識が必要なんだと思います。他者を愛することは自分を愛すること、他者を傷つける行為は自分を傷つける行為と同じだという認識が必要です。他者を信頼できなければ自分を信頼することは出来ないという基本的なことを教えることが出来ない親ばかりです。何のために生きるのかという大切な哲学を教えられる親がいません。何故ならば、こういう哲学を確立するには、基本的な価値観を持たないからです。学校でも習わないし、親からも教えてもらえないとすれば、他者への愛(惻隠の情)を育むことができないのは当然でしょうね。情けないことです。

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