スポーツに優しさは要らないのか

日大アメフト部の内田監督による指導の不適切さが、次第に明らかになってきている。その指導の中で、あまりにも異常だと思うのが、『はまる』という言葉である。特定の選手に対して、指導という範疇を逸脱するような、監督の意地悪行為を『はまる』とアメフト部の選手たちは呼んでいたらしい。その特定された選手は、集団練習から外されて厳しいランニングだけをさせられるというようなパワハラ指導を受けていたと言う。その選手は試合にも出されず、必要以上の嫌がらせを受けて、精神的に追い込まれていた。今年度は、その特定された選手というのが、反則行為をした宮川選手だったと言われている。

どうしてそんな前近代的な人権無視の酷い指導をしたのかというと、監督は当該選手のさらなる成長を望んでいたのは間違いないだろう。だとしても、けっして許される指導方法ではない。何故かと言うと、当該選手をスケープゴートにして酷い仕打ちを繰り返し、他の選手を自分の思い通りに支配しようとしたからである。しかも、その『はまる』選手の性格を変えようとして、他の選手を恐怖心で同じようにさせようとしたからである。そして、その『はまる』選手の優しい性格を変えようとしたというから驚きである。

内田監督にとって、アメフトをする選手は優しい性格を持っていてはならないと思っていたらしい。優しい性格であると、厳しいタックルや反則すれすれの卑怯な行為が出来ないと思っていたのであろう。だから、その『はまる』選手というのは、心根が優しくて思いやりのある誠実な部員だったという。一方、乱暴な性格で監督の言われた通りにペナルティを平気で行うような選手は、絶対に『はまる』ことはなかったという。内田監督は、反則すれすれのラフなプレーを好んでいたし、そういうことをする選手にすることで勝ちに繋げたかったのであろう。

内田監督は、その危険な反則のラフプレーを、宮川選手に敢えてしろとに指示した。それも、『はまる』選手にして、精神的に追い込んで指示を守るしかない状況にしておいてから、反則タックルをさせたのである。どれだけ卑怯かということが解るであろう。気持ちが優しくて、相手を怪我させるような卑怯な行為が出来ない選手を嫌い、乱暴でハードプレーをする選手だけを可愛がり、試合に出させるというのは、もはや人間として許される行為ではない。選手たちが荒々しいプレーをするには、優しさが邪魔だと考えた節がある。相手の怪我や故障することなんか考えるなと檄を飛ばしていたらしい。

スポーツをする際には、優しい心というのは不要なのだろうか。優しい心があると、ハードな対戦型スポーツにおいては、相手に対する遠慮があるから、厳しいプレーが出来ないと内田監督は考えていたらしい。だから、選手が優しい心を無くすために、敢えて反則のラフプレーをさせていたと考えられる。本当にスポーツ選手には、優しい心は邪魔になるのだろうか。大相撲の世界でも、取り口に優しさが感じられず、非常な仕打ちをする横綱がいる。確かに、その取り口はラフな印象を受けるが、圧倒的な強さを誇っていた。しかし、その取り口は卑怯に見えていたし、けっして美しくはなかった。

日本の古武道において、何よりも大切としたのは対戦相手の尊厳を認めることであり、敬意を持つということである。卑怯な行動を取ることを恥じていたし、正々堂々と闘うことが求められている。そして、何よりも大切なのが『惻隠の心』である。惻隠というのは、相手に対する慈悲の心と言ってもよい。言い替えると相手に対する優しさであり、強き者が弱き者に対する配慮を持つということでもある。一旦相手を倒して戦意を喪失させたら、敗者に対しての必要以上の攻撃を続けてはならないし、敗者にも敬意を持たなくてはならないと教えていた。生命をも奪うような闘いだからこそ、相手に対する優しさが必要だという教えである。

スポーツにおいても、それがハードで相手を怪我させるようなスポーツであるならなおさら、惻隠の心が必要であろう。そうでなければ、平気で怪我をさせたり卑怯なプレーをしたりしてしまう危険がある。危険性のあるスポーツの指導者は、まずは対戦相手の尊厳を認めることを教えるべきであろう。勝負に徹するとしても、相手を潰せなんて言葉を言うべきではない。惻隠の心があれば、反則プレーなんかできるものではないし、指導者がそれを強いるなんてことは絶対にない筈である。スポーツの指導者たる者は、惻隠の心を持つことをまずは教えるべきであろう。そうすれば、真の強者を育成することが出来るに違いない。

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