誰のための人生か

人生は誰のためにあるかと問われたら、そんなのは当たり前だろう、自分のためにあるに決まっているじゃないかと答える人が殆どであろう。そんなこと聞くほうがおかしいと思う人もいるに違いない。確かに、人生は自分のためにある。誰のためではなく、自分自身のために存在するのは間違いない。しかしながら、自分の人生だからと言って、無為に過ごしたり無茶苦茶な生き方をしたりするのは許されない。何故なら、自分の人生でありながら、自分だけのものではないからだ。

自分の人生は自分のものなのだから、どのように使おうと自由だと主張する人は少なくない。自分の人生をどう生きようと、他人にとやかく言われることはないと思っている人が多い。甘いものが大好きでしかも過食のために糖尿病になりながら、生活態度を改めない人がいる。運動が大嫌いで脂質と糖質が大好きなためメタボになりながら、生活習慣を変えることが出来ない人もいる。医師や家族から、自分の健康なんだから自分でどうにかしなさいと言われているが、一向に改善しない人が多い。

先生や親から勉強をしなさいと言われているが、主体性を持って自ら進んで勉強する子どもは極めて少ない。勉強は誰の為にするのか?と質問されたら、殆どの子どもは、そんなの決まっているじゃないか、自分の為だよと答える。先生や親たちもまた、勉強しないで困るのは自分なんだから、困らないように今のうちに勉強しなさいと言う。勉強するのは、良い高校・大学に行って、高収入の職業や安定した職業に就くためだよと説いている。自分の為に人生を歩むんだよと教えているようなものである。

勉強もそうだが、健康になる為の節制は、自分の為だと思っているうちは頑張れないものである。何故なら、そもそも人間という生きものは自分のためだけに努力することが難しいのである。愛する者のためや、関わり合う人のためになら頑張れるのであるが、自分の利益だけには努力できないのである。だから、自分の為に勉強しなさいといくら言われても勉強したがらないのである。自分の為なのだから健康になりなさいと言われても、努力出来ないのだ。自分の為に人生があると思っているうちは、よりよく生きるための苦労をしたがらないのが人間である。

普段立派な事を内外に言い放っている人が、生活習慣が乱れていて健康を損なっているケースがある。人々を指導したり導いたりしていて、多くの人々から尊敬されるような人が、メタボになり腰痛に喘いでいる例がある。教職にあって子どもたちにアルコールを飲んじゃいけないと指導していながら、習慣性の飲酒をしている人もいる。煙草だって、身体に悪いと知りながら止められない人がいる。我々の生き方は、我が子を含めた子孫に影響を及ぼす。健康で勤勉な姿を見せることは、子々孫々に伝わっていくから、その責任は大きい。利他の為に真剣に生きる人は、自分の身体が自分だけのものではないと認識しているから、健康と体力の維持の為に努力する筈である。

人生というのは自分の為にだけあるのではなく、他に利する為とか、周りの人々を救い幸福にする為にもあるように思う。与えられたこの人生は、困った人々や苦しんでいる人々を導いたり救ったりして、幸福な人生を歩んでもらうお手伝いをする為に使うものだと確信している。何か偉大なる意志(サムシンググレート)、または神のような存在によって与えられたこの人生は、自分の為だけに用いてはならないと思っている。昔から、偉大な哲学者や宗教者は、そのように人々を教え導いている。

自分の為だけに人生があると思い込んでしまっている人は、実に不幸である。経済的に豊かで、地位や名誉があったとしても、人間としての価値は最低である。人間としての価値は、どれだけ多くの人を救ったか、または幸福にしたのかという点にある。真に幸福な人というのは、けっして無理せず粛々と人々に貢献することを楽しめる人である。こういう人は、自分の健康や体力を維持するのは、自分の為ではなくて人々に貢献する為に必要なものだと認識しているから、当たり前のように出来ている。高齢になっても日々勉学に勤しんでいる。人々を救うためにこそ、さらなる自己成長が必要だからである。自分の為だけの人生は、詰まらない。利他の人生こそが充実していて、真の生きる喜びを与えてくれることであろう。

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