女人禁制と不易流行

大相撲の春巡業で救命措置の為に女性看護師が土俵に上がり、土俵から降りるようにとアナウンスされたということが報道された。今でも、大相撲の土俵には女性が立ち入れないというしきたりが存在する。大相撲は神様に豊作を祈願した神事であることから、女性が土俵に上がると、神様が嫉妬するからという理由から土俵に上がれないとされている。確かに、伝統を守るという意味では大切なしきたりかもしれないが、大峰山への女人禁制も含めて、検討すべき時期にきているのではなかろうか。

日本百名山の中で、奈良県の大峰山だけが今でも女人禁制となっている。信仰の山であることから、女人の登山を禁止していると言われている。しかし、大峰山全体が女人禁制なのではなくて、山上ケ岳という山だけが女人が立ち入れなくなっている。大峰山域の稲村ケ岳は女人でも登れる信仰の山として立ち入りが許されている。また、大峰山域の最高峰である八経ヶ岳は女性でも登山が許されている。山上ケ岳の登山口には、女人結界の門があって、立ち入れないことになっている。

時代が変わっても絶対に変えてはならないことと、時代に即して変えなくてはならないことがある。それを、四文字熟語で不易流行と言う。この不易流行という言葉は、松尾芭蕉が奥の細道を旅する際に確立した、俳諧における大切な理念の一つらしい。この言葉は、大事なことを私たちに教えてくれている。自分の生き方を決める時にも、伝統や慣習を重視すべきか、それらを思い切って変えていくべきなのかを示唆してくれる。常に新しいことを取り入れることこそが、大切な基本原則を守り育てることになるとも言える。

絶対に変えてはいけないということが、女人禁制ということなのかを熟慮する時代になっているような気がするのは、私だけではあるまい。連日の報道番組でも、大相撲の土俵が女人禁制であるべきなのかどうかの論議が活発に行われている。外国の人から見ると、女人禁制というのはかなり奇異に映るらしい。男女共同参画社会を目指していて、男女平等を謳っている現代社会において、いまだに女人禁制が守られているというのは、実に不思議なことである。

大相撲の土俵に上がれないのは、女性が穢れているからという意味もあろう。大相撲は神事であり、土俵という聖域には穢れのある女性を上がれなくしたと思われる。もっともらしく、神が嫉妬するという理由付けは、後に作られたのではなかろうか。大峰山が女人禁制になった理由は、厳しくて危険な登山道なので、足腰も弱く危なげな女性が登って怪我をしてはいけないと登らせなかったと言われている。また、男の修験者が女性を見て心が乱れて修行の邪魔になるのを防いだ為とも言われている。

女性が穢れているという理由は、女性特有の生理と出産における出血に由来しているようである。日本では昔から血液は穢れているという認識があったらしい。女性のお腹から産道を通って、血液にまみれて生まれて来る男の子も、そういう意味では穢れていると言えるだろう。それなのに、女性だけが穢れているとされるのは、納得できないことである。ましてや、修行の場に女性がいるとその妨げになるという理由は、益々不可解である。修行するのは、この社会において様々な欲望を乗り越える人間力を身に付ける為であろう。修験者が女性に心を奪われて、修行出来ないというならば、そんな低レベルの人間では元々修行すること自体が無駄な事と言えよう。

世の中には、いろんな慣習や伝統文化があるし、古くからのしきたりも多い。そういうものは、すべて意味があって造られてきたものである。女人禁制もいろんな意味があって、作られてきたものである。それも、神や仏そのものが作ったものではなく、人間が作ってきたものである。特に、男性たちが権力や権威を守り、自分達の権益を確保するために作られた伝統的な慣習が多い。女人禁制もまた、男性が自分たちの優位性を示すためのものであるならば、けっして看過できないものである。不易流行という言葉を深く噛みしめることにより、女人禁制が時代遅れのものだということを認識できるのではなかろうか。女人禁制などという女性蔑視の考え方は、一刻も早く捨て去らないと、世界から笑いものになるに違いない。

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