何事もバランスが必要

森友問題が佐川氏喚問を終えて、政府自民党はこの問題を収束させたいと思っているし、野党はさらなる追求をしようと目論んでいる。貴重な国会の議論をこれだけに集中するのは、国民にとって多大な損失であろう。もっと大切な議論があるし、報道機関としても国民が他に知りたいことが沢山あるのにも関わらず、森友一色になるのも困る。とは言いながら、文書改ざんは今後の行政の信用に関わる大問題であるから、再発防止策を講じない限り、ないがしろには出来ないことである。

それにしても、こんな森友の不祥事や加計学園の問題が何故起きたのであろうか。それは、安倍一強政治の傲慢が招いたのではないかと思う人が、とても多いように感じる。内閣人事局が制定されたのも、官邸に忖度する官僚ばかりになってしまったのも、あまりにも内閣と官邸の力が強大になってしまったからである。どうして安倍一強になったのかというと、別な視点から見ると、安倍総裁の他に有力な政治家がいなくなってしまったことと、野党がだらしないということに尽きるであろう。

過去の歴史を紐解くと、独裁政治が長く続くと政権内部から崩壊が起きていることが殆どである。国の政治もそうであるが、県や市町村においても首長が絶対的な権力を持ってしまうと、内部から腐敗が起きてしまうケースが実に多いのである。組織や企業においても、トップがあまりにも大きな権力を持ってしまうと、イエスマンだけの部下に成り下がってしまい、内部崩壊を起こしてしまうことが多い。現代においても、米国、中国、ロシア、北朝鮮などで国民の意思を無視した独裁政治が行われていて、内部崩壊が始まりつつある。

強力なリーダーシップを発揮できることで、政権運営や企業経営が上手く行くケースも少なくない。リーダーシップのあるトップだけが、低迷する現状を解決できるのではないかと、そのようなリーダーを求めたがる意思が働く。だからこそ、国政選挙においてもこのようなリーダーを求める国民が、投票するのであろう。しかし、あまりにも強いリーダーシップを持つ権力者と、それに対抗する勢力があまりにも弱すぎると、微妙なバランスが崩れてしまい、『裸の王様』になる例が多く、やがて内部腐敗や崩壊が起きる。

このようなケースは、家庭内でも起きる。あまりにも父親が家庭内で大きな権力を持ってしまうと、妻や子は何時も父親の顔色をうかがうような暮らしをし兼ねない。夫婦関係においても、どちらかがあまりも大きな力を持って相手を支配してしまうと、横暴な行為を許してしまう。親子関係でも、親が子どもの尊厳を認めず、すべて親の言いなりになる子どもにしてしまうと、子どもの自立を阻害してしまうことになる。夫婦の相互自立や子どもの自立がされないと、やがて家庭というコミュニティは崩壊することになる。

家庭内が微妙なバランスによって成り立っていれば、一方的に指示して従うというような関係になり得ない。お互いの人間としての尊厳を認め合うことで、自立がしやすい。だから、経済的にも精神的にも自立するには、一部に力が集中することを避けて、パワーバランスを保つことが必要であろう。男性は女性よりも腕力が強い。暴力によって相手を支配し、バランスが保てなくなることは絶対に避けなければならない。ある程度のリーダーシップが必要であろうが、微妙なバランスを保てるようなお互いを尊重する対話こそが根底に求められる。

一人の人間においても、どちらかに偏らないバランス感覚も必要なのではなかろうか。政治的に右翼的な考え方と左翼的な認識のどちらかに偏向してしまうと、世の中の真実が見えなくなってしまう。政治的におけるバランス感覚があれば、耳に心地よいマニュフェストに騙されることもないであろう。人間性においても、あるべき姿を求めて努力する姿勢と共に、あるがままの自分を好きになる気持ちも大切であろう。条件付きの愛を注ぐ男性性も必要であるが、無条件の愛を与える女性性も大事である。これらのバランスを保つことは、『中庸』と呼ばれている。政治的な中庸が保てれば、森友加計問題も起きず、国民ファーストの政治が実現するに違いない。

 

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