高僧徳一と仏都会津(1)

仏都会津と呼ばれるほど、会津には素晴らしい仏像が多い。何故かというと、古刹名刹が多いからである。福島県内の他の地域に比して、その数は特に多い。それは、天台宗の最澄と並び称される名僧徳一(とくいつ)の功績によるものだ。奈良仏教の退廃ぶりを嘆き、東北地方に理想の仏教を広めようと、会津にやってきたという。彼の布教活動は、会津一円に留まらず、県内は勿論、宮城県や茨城県などにも及んでいる。慧日寺(えにちじ)という、今は無き壮大な寺院を足がかりにして、会津盆地に数多の寺を建立した。それらの寺に配置されたご本尊の仏像の数々が、今に残されているのであろう。

とみに著名な仏像は、湯川村勝常寺(しょうじょうじ)の国宝薬師如来三尊像である。両側に日光菩薩と月光菩薩を従えた薬師如来坐像は、その堂々とした威容を誇る。その鋭い目は、煩悩を射すくめるような眼差しをしていて、見る者を畏怖させる。この寺には、徳一和尚の坐像も現存している。ラーメンや蔵の街として著名な喜多方市には、国指定の重要文化財、願成寺(がんじょうじ)の阿弥陀三尊像がある。この阿弥陀如来は、会津大仏として地域の人々に親しまれている。両脇侍の観音菩薩と勢至菩薩も立派である。下の写真がそれであるが、光背には無数の仏像が彫られていて実に見事である。

会津坂下町には、上宇内の薬師如来像と立木観音と呼ばれる千手観音像がある。どちらも著名な仏像である。上宇内の薬師如来像は、勝常寺のそれと違い優しい眼差しをしている。立木観音は、その名の通り、生えたままの立ち木をそのまま彫り上げた仏像で、今でも根っ子はそのままだという。高さ8メートルの巨大な仏像は、人々の心の拠り所として崇められてきたのであろう。他にも、中田観音や鳥追い観音と呼ばれる『ころり三観音』等多くの仏像がある。休日にこうした仏像巡りもいいものである。

 

こんなにも素晴らしい仏像と寺社を残してくれた高僧徳一であるが、どうして仏教を布教する地として会津を選んだのであろうか。わざわざ辺境の地であった東北の田舎である会津に、こんなにもすごい高僧がやってきたのか不思議である。その当時、会津は東北の中でも文化がもっとも進んでいた地のひとつであったのは間違いなさそうである。だとしても、敢えて会津を選んだのは、違う理由があったと思われる。それは、仏教が間違いなくこの地で布教出来るという確信したからではないかと考えられる。

高僧徳一がそう思った根拠はなんであろうか。おそらく高僧徳一は、事前に会津人をリサーチしたと思われる。もしかすると、一度訪れていたのかもしれないし、そうでなければ会津の事情を詳しく知人に聞いていたと思われる。それで、会津の人々が仏教を快く受け入れてくれると確信したと思われる。仏教を受け入れて、その教えに深く帰依するかどうかは、受け入れる側の人間性に大きく影響される。さらに、仏教が広がるかどうかにもその地域の人々の人間性が問われると言われている。高僧徳一は、会津人こそ仏教を受け入れ広めてくれる人間性を持っていると判断したのであろう。

会津人は良い意味で頑固である。その頑固さというのは、新しいものを受け入れないとか古い価値観にしがみつくという頑固さではなく、あくまでも人間としてあるべき正義や忠義を忘れないというこだわりである。そして、自らの利益や権利に固執する頑固さではなく、自分は犠牲にしても人々の為、世の中の為に貢献するという価値観を大事にする頑固さでもある。まさに、これは縄文人の価値観であり、全体に貢献するという生き方である。会津人がまさに仏教を布教するに最適の地だと、高僧徳一は確信したに違いない。

残念ながら、現在の日本では既に仏教は廃れてしまっている。殆どの日本人は、仏教の国だと勘違いしているが、儀式仏教になっていて、仏教に帰依している日本人はごく少数である。世界の中で、仏教の国だと言えるのはごく僅かしかない。仏教発祥の地であるインドに仏教徒はごく僅かしかいないし、中国では仏教が否定されている。朝鮮半島にも、仏教は残っていない。スリランカ、ミャンマー、ヴェトナム、タイぐらいしか仏教の国はなくなってしまった。何故、それらの国に仏教が残っているのかというと、それらの国民が仏教の教えを受け入れる高い価値観を持っているからであろう。会津を選んだ徳一の確かな洞察力と先見性に感謝したい。【続く】

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