初心忘るべからず

新しい年の初めに当たり、『初心忘るべからず』という言葉について、今年の最初の日記を書くことにしたい。昨夜、NHK紅白歌合戦を視ていたら、羽生善治永世七冠がこの初心忘るべからずという言葉の本当の意味について述べられていた。この初心忘るべからずという言葉は、最初に志した自分の命題や目標を忘れることなく精進しなさいという意味で使われている。ところが、本来の意味は違っているという。この言葉は、能楽を完成させたと言われる世阿弥が54歳の時に、「花鏡」(かきょう)という能楽の伝書で、示した言葉らしい。

初心とは、最初の志のことだけではなくて、何かを新たに思い立った時、または人生の節目(せつもく)の際に、こうしようと心に誓ったことを言うらしい。だから、初心は人生の中でただ1回だけではなくて、何度もあるというのだ。自分も誤解していたことを恥じたい。何か一生に一度の大きな目標を掲げた時、または一生を捧げるような職業に就いた時に思ったことを初心だと勘違いしていた。そうすると、初心はその時その時の心の在り様、人間的成長の各段階において、または価値観や哲学をさらに向上させた時に、初心をバージョンアップさせるものなのだということである。

人間と言うのは、ある程度の成功を実現させると、現状に満足して成長することを止めてしまうことが往々にある。ところが、人間と言うのはこれでもう学び切ってしまったということはあり得ないのである。学べば学ぶほど、自分の浅学菲才ぶりに気付くものである。何でも解ったように勘違いして、もう自分は悟り切ったと思うような人間は、けっして大成することはない。自分が無知だと思うからこそ、まだまだ愚かな人間だと謙虚になり、勉学に勤しむものであろう。そして、その人生の節目(せつもく)に初心を自分の胸に刻んで、さらに精進し続けるのだろうと確信している。

15年以上も前に、自分が胸に刻んだ初心は、イスキアの郷しらかわを必ず開設することであった。佐藤初女さんの森のイスキアのような施設を創るという夢であった。そして、昨年の9月に様々な人のご支援を頂き、開設することが出来た。これは、ひとつの通過点でしかない。まだまだ、イスキアの郷しらかわの認知度は低い。そして、利用される方々もまだ多くはない。今度の初心は、皆さまのご支援に報いる為、イスキアの郷しらかわを多くの皆さんに知って頂くことと、もっと多くの方々を深くご支援申し上げたいということである。そして、心が癒されて幸福になってイスキアを卒業される方々を、笑顔で見送りたいという初心でもある。

15年以上前の初心は、様々な事情もあってなかなか貫徹出来ずにいた。経済的な問題もあって、踏み切れずにいたのである。今から思うと、初心を貫徹することに不安や怖れがあったことは否めない。もしかすると、イスキアを創るというのは無理なんじゃないかと諦めそうになったことが何度かある。何度も挫折しそうになった時に、不思議な出会いがあって、背中を押してくれた。それは、イスキアを必要とする方々との出会いであり、イスキアを応援したいと申し出てくれた人たちとの出会いである。そんな方々に申し訳ないと思いながら、ずっと伸び伸びになってしまっていたのだ。

昨年の2月に佐藤初女さんが亡くなられた。その後、森のイスキアが活動停止になり、こうしてはいられないと思い、昨年の9月にイスキアの郷しらかわを開設した。その際に、出会った方々には叱責されることを覚悟して、開設のお知らせをした。皆さんからは、どうしてこんなに遅くなったのだというお叱りの言葉もなく、温かく受け入れて頂いた。今度は、そんな皆さんに恩返しをしたいと思う。さらには、イスキアの運営が順調になったら、お世話になった方々を招いて、開設記念のパーティも開催したいと思っている。今年は、そのレベルまで必ず到達したいと誓う。この初心を深く心に刻んだ、1月1日の朝である。

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