ファン無視の相撲協会

元横綱日馬富士の暴力事件に端を発した角界の不祥事は、相撲協会と横綱白鳳対貴乃花親方の対決に発展している。それにしても、相撲協会と危機管理委員会、さらには横綱審議委員会というのは、権威主義というのか利権主義と言ったらいいのか、あくまでも自分たちの言い分を主張することにだけに拘り、相撲ファンや相撲取りの方々の意思を無視しているかのような言動を続けている。それでいて、世論やマスメディアにどのように思われるのかを怖れていて、まったくと言っていいほど相撲に対する理念がないかのような言動に辟易せざるを得ない。

相撲というのは、勝てばよい訳ではないだろう。他のプロのスポーツでは、あくまでも勝ちにこだわるものもあるが、相撲は神事でもあり崇高な理念に基づいた日本人の魂の拠り所でもある。プロスポーツであるからには、確かに勝たなければならないというのも当然である。しかし、プロスポーツが社会に対して果たす役割としては、勝つ喜びだけではないように感じる。スポーツ振興という役割と、人々に闘う勇気と諦めない精神を伝える使命もある。さらには、子どもたちに夢を与えてくれるのがプロスポーツである。勝つためには、どんな手を使ってもいいというなら、子どもたちの健全育成に悪影響を与えてしまうだろう。

今の相撲が好きだという人と、面白くないという人がいる。勝負に徹して、どんな手を使ってでも勝ちにこだわり、懸命に取る相撲に魅力を感じるファンがいる。一方では、昔のような正攻法をあくまでも追及する美しい相撲こそが大相撲だと主張するファンもいる。こういう人は、ねこだまし、かち上げと称するエルボー打ち、張り手の多用などは、横綱としては許せないと言う。やはりフェアープレーに徹するのが横綱たる所以だと主張する。確かに、勝ちにこだわるのは仕方ないが、勝ち方がえげつないのは、子どもに悪影響を与え兼ねない。

モンゴルから一攫千金を夢見て、単身で乗り込んできたモンゴル相撲の猛者たちは、何よりも勝ちにこだわるのは当然である。勝つためには手段を選ばないであろう。見る人によってはあの他を圧倒する強さに喝采するファンもいることだろう。でも、あの姿を見て相撲を志す子どもたちの心にどんな価値観をもたらすのかということを想像した時に、愕然とした思いを持つのは自分だけではないだろう。一戦一戦が、それこそ自分と母国に残してきた家族の生活と将来がかかっているのだから、勝負に徹するのは当然である。だからこそ、相撲の精神をしっかりと師匠は弟子に教え込まなければならない。

多くの心ある相撲ファンは、あんな勝ちに対して貪欲な姿勢を見せるのは、美しくないと断言する。確かに、相撲道から見たら醜いと思うファンも少なくない。相撲協会は、モンゴル勢の人気に頼らざるを得ない。だから、モンゴルの力士に対して言うべきことを言えないでいる。モンゴル力士だけではない。日本の力士の中にも、美しくない相撲を取るものも少なくない。相撲協会や危機管理委員会、そして横綱審議会の委員たちは本来の相撲道を忘れていないだろうか。相撲は神事であり、神の意思に添わない相撲の取り方は許されない筈である。自分勝手で、相手に尊厳を認めないような、汚い相撲は神が求めていないのである。

相撲協会はおおいなる勘違いをしている。強い力士を育てることが相撲人気を高めるのだと思い込んでいる。しかし、そういう見かけだけの強さ、または肉体的な強さだけの力士だけになったら、ファンは美しい相撲は見せてもらえなくなるのである。貴乃花のような美しい相撲を、ファンは待ち望んでいるのである。それが長い目でみたら、大相撲が隆盛することに必ずつながるのである。相撲の師匠たちや理事たちは、弟子に対して美しい相撲を取ることを教え育てなければならないし、それが出来ないとなればルールとして確立するしかないであろう。相撲ファンを無視した相撲運営をしようとする相撲協会の理事たちは、引退したほうがいいだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA