コミュニティ崩壊の原因

コミュニティがもはや崩壊してしまったと、心ある人たちの間で言われている。家族というコミュニティも、地域コミュニティも、そして国家というコミュティも崩壊してしまっていると認識している人は少なくない。家族間の繋がりは希薄化してしまい、お互いの信頼もなく、自分勝手に生きて行動し、支えあうという関係も崩壊してしまっている家庭が多い。それ故に、不登校、引きこもり、仮面親子、仮面夫婦の関係にありながら、解決する術も待たず、おろおろしている状況に置かれてしまっている。家族という最小単位のコミュニティが崩壊しているのである。学校というコミュニティも崩壊しているし、地域・国家レベルならなおさらである。

少なくても地域コミュニティがまだ残っていると言われている田舎でさえも、お互いが支えあう地域社会が少なくなってきている。超高齢者単独世帯にさえ、共同作業の人足提供を容赦なく迫るし、除雪作業を手伝ってくれるような隣人も少なくなっているのである。嘆かわしいものである。そして、国家レベルで見ても、愛国心というか自分たち日本民族を愛する心は失われ、国家的損失をしてしまうことや国民が困るようなことを平気で行う国民が多い。政治家・行政職・司法職でさえも、国民を裏切り国益を損なうような行為を平気でする世の中である。

企業においてもしかりである。愛社精神などという言葉は死語になりつつある。そりゃそうだ、経営トップだって会社のことなんて考えていない。投資家に自分がどう評価されるかということを気にして、社長という身分にしがみつき、自己保身のことしか考えていないのだから、社員だって自分中心になる訳だ。当然、お互いに助け合い支えあうといった社風は感じられず、ノウハウも独り占めにして、部下を育てようともしないのである。なにしろ、部下が自分より仕事が出来ると、自分の身が危なくなると思っている輩ばかりの社員だから、コミュニティなんてものは存在しなくなってしまったのである。

このように、いたるところでコミュニティが崩壊してしまっているのであるが、その原因は何であろうか。このコミュニティの崩壊を起こした犯人は誰なのか、追及してみたい衝動にかられる。まず、いつからこんなコミュニティの崩壊が始まったのであろうか。ある人は、小泉・竹中政権の新自由主義に踊らされてから酷くなったと言う。また別の人は、戦後の占領軍政策により、家族や地域共同体が崩壊させられてしまったと言う。いやいや、そうではない、明治維新後に近代教育が取り入れられてから、コミュニティは崩壊し始めたと主張する人もいるのである。

明治維新からコミュニティの崩壊が起き始めたというのは、あながち的外れでもないようだ。では、明治以降に近代教育の制度を取り入れて、西洋的な価値観の教育を推し進めたのは誰かというと、大久保利通という明治維新の立役者の一人だという。富国強兵を推し進めるのに、近代教育という客観的合理主義を土台とした教育が最適だと、大変な勘違いをしてしまったようなのだ。つまり、物や事象を分離思考で考え、客観的分析ですべてを把握しようと考えたのである。この考え方に則った為に、近代教育を受けたものは、他人を批判的批評的に見るという習慣を身に付け、物事を主観的に見るとか、事象や物体を全体として捉えるということが出来なくなってしまったのである。

こういった考え方は、あくまでも個を大事にし過ぎる考え方と、関係性というものをないがしろにしてしまうという習慣を植え付けてしまったのである。つまり、人間と言うものは、他との関係性を大切にして、お互いに支えあい生きるべきなのに、客観的分析手法を大事にしたために、他を批判するような人間ばかりを育ててしまったのである。故に、様々なコミュニティは崩壊してしまったのであろう。関係性や繋がりを大切に生きるという統合の思想こそが人間本来の生き方なのに、それを忘れさせてしまったのは、近代教育の導入に原因がある。近代教育こそが、コミュニティ崩壊の元凶だったと結論付けても過言ではない。だとすれば、この近代教育を見直して、関係性こそが大切なのだという本来のあるべき統合思想の教育を推進すれば、コミュニティの崩壊は止められるし、再生できるかもしれないのである。今こそ、客観的で批判的な態度を改めて、自ら主体的にコミュニティの再生に取り組んでいきたいものである。

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